第9話〜Interlude:クロウと、水張家のこと〜

 クロウが水張家のインターホンを押すことにしたのは、口裏を合わせるためだ。

 度が過ぎるくらいに物静かな靄は、そもそも何も喋らないかもしれないが。

 事件に巻き込まれて、警察で保護されていた――というのは当然、親を安心させるための方便だ。あながち嘘ではないかもしれないが、クロウたち魔法使いにしてみれば、靄がいずれ、魔法絡みの出来事に関わるのは「必然」だ。

 けれども、これまで至って平穏に――異形の怪物と関わるのと比べれば、余程平均的な人生を送ってきた水張靄にとっては、事件に違いはない。


 ひとまずは、親に警戒させず、靄を警察組織で保護する。

 それが、特殊警務課に課された使命だった。

 異星の魔女の魂を持つ子供を、野放しにはしておけない。

 一方で、他の組織に奪われるようなことも、あってはならなかった。


 クロウは、インターホンを鳴らしながら、靄を見下ろした。そして、内心で独りごちる。


(一晩ぶりに親に会う子供の顔じゃ、ねぇんだよな……)


 靄の表情は、見るからに硬くこわばっている。

 初めて異形のものを見て、自分の魂にその元凶のものが混じっていると聞いて、不安にならないはずがないだろう。そして、そんな非日常的なものから離れた場所が、家族である――。


 あくまで一般論で、クロウ自身がそういう思想を持っているわけではないが。


 魔法使いの家系というのは、一子相伝の血の繋がりだ。比較的現実的な例で言うなら、政治家一家、会社の創業者一族、伝統的な芸事の家系に近いだろう。

 なので、魔法使いの家庭環境というのは、往々にして安らぎのあるものではない。親は親であって師でもあり、きょうだいは競争相手でもある。

 これもまた、一族の方針によって変わるので、一概には言えないことではあるが。


 ただ、クロウは特殊警務課に所属している以前に、いち警察官でもある。そして特殊警務課というのはそもそも、「魔法使いの管轄であれば、どんな事件でも担当する」部署だった。

 クロウが清藤市警察の特殊警務課に入ってからというもの、これといった事件がない時は、少年犯罪や非行に関する業務に携わっている。魔法使いにしては人好きのする性分なのと、異星の魔女の魂を持つ子供を探す必要があったからだ。


 だからクロウは、知っていた。家が安心できる居場所でない子供は、今の靄のような顔をする。


 異星の魔女は、無条件で人間に嫌われる。その魂を持っている靄だって、例外ではない。

 事実、靄には、家庭にも学校にも居場所はない――それは、クロウだって理解していたことだった。


『はい、どちら様でしょうか?』


 インターホンから聞こえたのは、落ち着いた女性の声だった。クロウは、即座に答える。


「清藤市警察署から参りました、特殊警務課のクロウ・シェイファーと申します」

『え、警察……?』

「お宅の水張靄さんが、昨夜遅くに事件に巻き込まれておりまして。一晩保護させていただいていたので、送りに参りました」


 不安そうな声を聞いて、クロウは努めて冷静に応対した。内心、よそ行きの対応を面倒だと思ってはいるが。

 玄関ドアの向こうから、バタバタと慌てたような音が聞こえる。朝早くの忙しい時間帯に訪ねたのだから、予想していたことだ。

 カチャリ、と鍵が開く音がして、一人の女性――靄の母親であろう人物が、扉を開けた。


 ぱっと見た感じでは、どこにでもいる主婦に見える。高校生の子供がいる親としては、若過ぎても老けてもいない。スーパーにでも入られたら、すぐに見失いそうなくらい、「普通の」人間。


 けれども――恐らく靄に、何かしらの虐待をしている。


 異星の神に関係した魂は、普通の人間の中では暮らせない。そういう風に、この星はできているからだ。

 だからこそ、クロウは、この親の前で気を抜くわけにはいかなかった。


「朝早くに申し訳ありません」

「いえ……」


 警察手帳を見せながら声をかければ、靄の母親は、ちらりと娘を見た。その視線を密かに追いながら、クロウは続ける。


「昨夜、この近辺で傷害事件が起きまして。靄さんは目撃者だったんです」

「まぁ、そうですか」

「犯人の確保までは危険性があるので、警察にて事情聴取を兼ねて一晩保護させていただきました」

「それはご迷惑を……」

「いえ、市民を危険に晒さないようにするのが、私どもの努めですから」


 改めて口にすると、鳥肌が立つようなセリフだった。

 最終的に警察組織に入っているのだから、クロウだって、一般人を守る気概はある。だが、それはそれとして、わざわざ口に出すようなことではないと思っている。クロウにとって、己の信念は吹聴して回るものではなかった。

 だが、今は穏便に事を済ませる方が、余程大事だった。クロウの言葉に、靄の母親は薄く笑う。


「わざわざありがとうございます」

「いえ。犯人は未明に確保いたしましたので、ご安心ください」

「はい」


 軽く、母親には気づかれないさりげなさで、クロウは靄の背中を押した。靄はたたらを踏むように前に出て、緊張した面持ちで頭を下げる。


「ご、め……な、さい……」

「……靄、入りなさい」

「は、い……」


 母親は、すっかり縮こまっている靄の肩を抱いた。そして、クロウに頭を下げる。


「うちの子がすみません」

「いえ、靄さんも被害者みたいなものですから」

「お世話になりました」


 クロウが一つ頷けば、話は終わる。親子が室内に入り、鍵のかかる音がしたのを聞いてから、クロウは素早く車内へと戻った。

 少しだけ走って、角を曲がった辺りで路肩に停めると、感覚を研ぎ澄ます。


 靄の背中を押した一瞬、クロウはそこに、魔法で文字を刻んでいた。

 遠隔で聴覚や視覚を同期する魔法だ。

 特殊警務課は、何も親切心だけで、靄を家まで送ることにしたわけではない。家庭状況の視察と、靄の監視――それこそが、クロウの帯びた使命だ。


 水張靄は、既に魔法に「目覚めて」いる。その力は、靄が生まれつき持っていたものだが、16年間もの間、誰からも教育されずにきた。

 当然といえば、当然の話だ。稀に例外があることもあるが、魔法というのは、受け継がれる才能だ。魔法使いの血を全く引かないのに、人生の途中で魔法が使えるようになるというケースは、決して多くない。

 魔法使いの家に生まれたら、才能の大小に問わず、魔法を「学ぶ」。家系の代表となるのは特に卓越した才能を持つ者だが、そうでなくても、魔法を学ぶのは必須だった。


 なぜなら、魔法とは、使い方一つで宇宙を滅ぼすことさえできる、特別な力だからだ。


 一度魔法に目覚めたら、何がきっかけで、その力が発動するかはわからない。魔法使いの家系なら、最初に魔法のコントロールを学ぶ。

 けれども靄は、これまで一度も、魔法を学んだことはない。

 魔法が使えるということは、危機的な状況に置かれたら、無意識に「反撃」をしてしまう可能性が、充分にある。本来ならば、そういったことがないように教育をするのだが……つまりは、今の靄は、本人の意図しないところで、無差別に他人を傷つけてしまうかもしれない。


 クロウが同行を申し出て断られなかった一番の理由は、それだった。二番目は、靄の家庭環境の調査だ。

 靄が「耐えられている」範囲の中なら、見過ごしても構わない。けれども、耐えられないようなら、警察での保護も視野に入れる――それが、特殊警務課の方針だった。


 目を閉じる。

 ノイズのような感覚が僅かに走った後に、聴覚と視覚が開けていく。

 魔法による感覚の共有は、ビデオカメラの再生と比べると緩やかだ。ぱっと視界が切り替わるのではなく、眠りから目を覚ますように、ゆっくりと接続されていく――


 視界がはっきりするより前に、クロウが感じたのは、胴体への鈍い痛みだった。


「ッ……!?」


 怪物との戦いに慣れているクロウからすれば、耐えられないことはない。けれども、日常生活で感じることはまずない痛みに、クロウは瞬時に神経を研ぎ澄ませ、送られてくる痛覚を遮断した。

 魔法は繊細で、集中を乱すだけでも解けてしまう。まずはその原因を取り除くのが先決だった。

 それにしたって、これほどの痛みを感じるのは、クロウにとっても久しぶりのことだ。戦いの時には魔法でダメージを軽減しているのもあるし、そもそも痛み自体に、感覚が慣れているのもある。


 これは、クロウが感じた痛みではない。

 靄が、今感じている痛みだ。


 視界が完全に開けて、まぶたの裏に映し出されたのは、フローリングの床だった。何の変哲もない、クロウの家にだってあるような床だ。

 靄の視界に床が映っているということは、靄は今、立っているわけではない――殴られたのだ、恐らくは。


『あんたが悪いのよ、夜中に勝手に外に出たりするから!』


 聞こえてきたのは、金切り声というのが相応しい、キンキンと高い怒鳴り声だ。辺り一帯に響き渡るというほど大きくはないが、鼓膜に突き刺さるように鋭い。

 クロウの――ひいては靄の視界には床しか見えていないが、この声を発しているのは、靄の母親だろう。怒りをあらわにした声色の中に、先程玄関先で応対した時の面影は、確かに感じられる。

 けれども、あの時の落ち着きは、微塵も残ってはいなかった。


『ご、め……』

『なんとか言ったらどうなの、本当に嫌な子!』

『ぁぐっ……』


 靄の言葉を遮って、怒鳴り声。次いで、か細く短い悲鳴が上がり、視界が小さくブレる。

 恐らく、背中が殴られた。見えるものからして、靄は今、四つん這いか、それに近い体勢で俯いている。そういう体勢の相手を殴るなら、こぶしや平手ではなく、ある程度長さのある鈍器を使うのが手っ取り早い。

 合法的な武器で考えるなら、竹刀や木刀。実際は、調理器具か、掃除道具だろう。一般家庭にあって、鍛えているわけではない女性の手で振るえるのは、その辺りだ。

 流石に、靄を殴るためだけのものがあるとは、考えたくない――希望的観測が過ぎるのは、クロウも理解していたが。


 魔法を使えない、星のエネルギーを扱うことのない人間は、異星の魔女――靄の持つ魂への嫌悪に、抗えない。

 それゆえに、「普通では考えられないこと」だって、簡単に引き起こされる。


 女の怒鳴り声が聞こえる。

 見えるのは、時折揺れる床だけだ。

 正確に言うのなら、揺れているのは床ではなく、靄の視界そのものだ。

 か細い謝罪は何度も遮られて、押し殺した悲鳴に変わる。


「クソが……!」


 舌打ちとともに、クロウは両目を開いた。車内から見える朝の住宅街はのどかで、他の自動車の走行音以外に、雑音らしい音は聞こえない。

 さっきまで聴覚に流し込まれていた怒鳴り声は、もう聞こえなかった。まぶたを開くことで、魔法の接続が切れたからだ。

 けれども、靄は。

 ここにいない、あの少女は、今も母親からの暴力を受けている。

 クロウは車のキーを引っ掴むと、勢いよく運転席のドアを開けた。バン、とドアが閉まる音を背中で聞いて駆け出せば、センサーでロックがかかる音が、遠く聞こえた。


 別に、クロウは自分のことを、殊更に優しい人間だとは思っていない。魔法使いであるということは、非人間的であることと同じ意味を持っているし、そもそも魔法使いは、普通の人間と比べて、星や自然に寄り添う生き方をせざるを得ない。


 けれども。

 心根から人間を辞めるほど、達観してもいなかった。


 多かれ少なかれ、特殊警務課に集う魔法使いは――クロウも含めた本人たちに言わせれば、かろうじて、ではあるが――紙一重で、人間に寄り添っている。


 外来の魔法使いとは、そういうものだ。


 本来なら、魔法使いの一族は社会から離れた価値観を持つ。大半の人間がそうであるように、魔法使いも、その殆どが一族の価値観を自分のものとして、土着の魔法使いとして生きる。

 けれども、稀に、生まれ育った一族、所属する魔法使いのコミュニティに対する異分子――つまりは、魔法を第一とする生き方に馴染まない者も生まれる。

 そういった魔法使いが生まれた土地を離れて、行きつく先となるのが、軍隊や警察の中の魔法組織――日本で言うところの、警察署特殊警務課だ。


 かつて魔法が引き起こした惨劇は、世界のあちらこちらに眠っている。

 そして、その周辺では、魔法の残滓や残留思念から生まれた怪物や怪現象が、人間を脅かす。

 そのため、惨劇の跡地は、秘密裏に魔法使いたちが目を光らせていた。


 土着の魔法使いだけでは、「それ」をどのように利用するかわからない。場合によっては、さらなる惨劇が引き起こされる可能性だって、ないわけではない。そして、それを阻止するのは、ただの人間には不可能な話だった。

 だから、「外来の魔法使い」を集めた、公的な組織が、そういう土地には送られる。表向きには単なる変わった部署として――実質は、強大な力で世の中を塗り替えようとは考えない魔法使いの集まりとして。


 勿論、魔法使いの血族から離れた者の全員が、公的な魔法組織に所属するわけではない。一人密かに魔法的な災厄を駆除する者もいれば、外部の魔法使いが集まる自治組織を立ち上げる者もいる。

 そもそも、魔法とは無関係な人生を送る者だっていれば、積極的に厄災を起こそうとする者もいた。

 それに、公的な魔法組織に所属している魔法使いだって、考えていることは様々だ。

 たとえ非人道的な命令が下っても上層部に従う者、魔法を使って戦うこと自体を楽しむ者、身近な人を守りたいと思う者、世界を守る使命感を持つ者――清藤市警察特殊警務課に限ったって、クロウも、黒乃も、榊も、リンも、警察官という立場は前提として、それぞれの思惑で動いている。


 クロウは、誰彼構わず助けたいというわけではない。

 それでも、今、苦しんでいることがわかる少女を、見捨てたくはなかった。


 あっという間に、水張家の玄関に舞い戻る。鍵なんて、魔法を使えばあってないようなものだ。土足で上がり込むことは流石にどうか、と思って、かろうじて靴だけは脱ぎ捨てる。


 中に入ってしまえば、間取りはわからなくとも、母親の声が靄の居場所を伝えてくれた。


 そしてクロウは、ダイニングの扉を、大きく開け放った。

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