第8話〜翌朝、くぅさんと家に帰る時のこと〜

 一晩明けて、朝。

 目を覚ました私の目に飛び込んできたのは、知らない――いえ、正確に言うなら、見るのは二度目の天井でした。


「……?」


 寝起きの頭が、一瞬、疑問を浮かべます。

 思わず左右を見回して――まるで保健室みたいに、いくつか並んだベッドを見て、私はようやく、思い出しました。


 どうやら私は、いわゆる「ラスボス」の魂を、持っているらしい。

 それで、とんでもないことをしでかして、警察に保護された。


「…………」


 声もなく、ため息をつきました。

 正直なところ、「いや、そんなこと、ある?」という気持ちです。

 昨日は、息つく間もなく色々と聞かされたので、「ああ、そうなんだ」と受け入れてしまったところがあります。私はちょっと、そういうところがある……と、思います。

 スマートフォンは充電がなくなって、電源が切れていました。壁掛けの時計があったので確かめると、まだ六時です。いつもは七時に起きるので、ちょっぴり早起きだと言えるでしょう。


 ひとまず、私は上半身を起こしました。長袖のTシャツとくるぶし丈のパンツは、寝乱れてくしゃくしゃ。つっかけサンダルは、ベッドの横にあります。そして、手にした充電切れのスマートフォン。

 深夜の散歩――正確に言うなら、勝手に家を出ての徘徊の途中で、「あの出来事」が起きたので、私は着の身着のまま、ろくな荷物もありません。だって、本当に、ちょっとだけ外を歩いて、すぐに帰るつもりだったのです。


 先輩たちや、くぅさんが、光のドームの中で戦っていて。

 みんなが、怪物に襲われそうになって。

 それを、私が倒してしまった。


 一夜明けてしまえば、まるで悪い夢みたいな出来事です。

 だけど、今、ここ――少なくとも、いつもの自室ではない場所で寝ていたということが、夢じゃないという、一番の証拠でした。


 私は、どうすればいいんだろうと、途方に暮れました。

 これからどうなっちゃうんだろう……という不安以前に、この部屋から出て動き回っていいのかさえ、わかりませんでした。


 本当に全部、夢じゃないなら、ここは警察署の仮眠室のはず。でも、私は、警察署の中なんて、全然知りません。

 警察というのは、一般的には、あんまりお世話にならない方がいい場所です。それに、そもそも仮眠室は、警察署で働いている人のための部屋でしょう。ですから、しょっちゅうお世話になっていたとしても、詳しい場所はわからない気がします。

 そんな場所で、勝手に動いていいものか……ドアがくぅさんたちのいるところに繋がっているのなら、多分大丈夫。でも、私は間取りを知らないのでした。

 仮に外に出て、ウロウロしていたら、事情を知らない警察官さんに見つかるかもしれません。お仕事をするところ、と考えたら、朝の六時というのは早い時間ですが、警察官さんのお仕事は、時間を問わないでしょうから。


 どうしようかな……と考えていると、ガチャリ、とドアが開きました。

 ひょっこりと顔を出したのは、くぅさんです。


「お、靄。起きてるな」

「あ……は、い……」

「おはようさん、メシにすっか」

「し、ます……」

「パンと米、どっちが好きだ?」


 おずおずと答える私に話しかけながら、くぅさんはベッドの隣にパイプ椅子を引っ張ってくると、サイドテーブルの上に、コンビニの袋を置きました。

 中を覗いてみれば、焼きそばパンとメロンパンとカツサンド、それにツナと鮭、たらこのおにぎり、それから、お茶のペットボトルと缶コーヒーまで入っています。

 とてもじゃないけど、私一人じゃ食べ切れない量。多分、くぅさんのご飯でもあるのでしょう。私は少し迷ってから、たらこのおにぎりと、お茶のペットボトルを手に取りました。


「それだけでいいのか?」

「え、と……あの……も、いっこ……たべる、かも……」

「そうか」


 くぅさんはそれだけ言うと、袋の中からお手拭きを取って、私にも差し出してくれました。

 二人して手を拭いたら、くぅさんは早々に缶コーヒーをわしりと掴んで、プルタブを開けます。そうして一口飲んでから、カツサンドに手を伸ばしました。

 それを見た私は、慌てておにぎりをひっくり返して、開け口を指でつまみます。私はどんくさくて、手先だってそれほど器用ではないから、ゆっくりと引き下ろしていきました。


「別に慌てなくてもいいぞ、時間はまだあるからな」

「は……い……!」


 くぅさんは苦笑交じりに、カツサンドをぱくつきます。私が悪戦苦闘している包装だって器用に剥いでいて、やっぱりできる人はなんでもできるんだな、と思いました。

 そもそも、サンドイッチはおにぎりよりも、包装を剥くのが簡単だというのも、あるでしょうが……おにぎりは、海苔がちぎれないように、最新の注意が必要です。


「あ」


 ビリ、と音を立てて、海苔の端っこ、ちょうどおにぎりの側面にくっつくようになっている、三角形の部分が、包装からうまく出られずにちぎれました。

 私はコンビニのご飯は滅多に食べませんが、それでも記憶にある限り、おにぎりの海苔には全敗している……と、思います。いえ、コンビニのおにぎりの海苔がちぎれたくらい、大したことはないのですが……それはそれとして、ちょっとヘタれた気持ちになります。


「ふっ……ははっ!」


 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけヘタれている私を見て、くぅさんが笑いました。カツサンドはもう、残り一切れでした。

 あ、食べるのが早い……!と少し焦る私に、くぅさんが手を差し伸べます。


「嫌じゃなきゃ、ちょっと貸せよ」

「あ……!」


 私はやっぱり慌てて、くぅさんにおにぎりを差し出します。そうすると、くぅさんは、器用に包装をくるっと剥がしました。それから、包装の隙間に挟まった海苔も引っ張り出して、おにぎりの側面にぺたっとくっつけます。


「ほらよ」

「…………」

「くっつけちまえば、変わらねぇだろ?」


 ニカッ、と太陽みたいなくぅさんの笑顔に、私は一生懸命に頷きました。

 綺麗に剥がした包装で、改めて挟まれたおにぎりが、くぅさんの手から私の手に戻ってきます。私のために開けてくれたおにぎり、食べてしまうのがもったいないくらいです。でも、食べない方がもったいないので、私は意を決して、パクリ、と一口、かじりました。


 心臓が、ドキドキする。

 お尻の辺りがモゾモゾするような、嫌じゃない感覚。

 それから――罪悪感。


 私は、せんぱいのことが、大好きです。

 これが、恋だと思ったくらいに、大好きです。

 だけど……くぅさんと出会ってから、くぅさんと一緒にいると、ドキドキするような気持ちになるんです――まるで、恋でもしているみたいに。


 なんで、こんな風になっちゃったんだろう。私はドキドキしている心臓が、チクチクと痛むのを感じました。


 最初から薄々、わかっていました。

 私は、ただ、あんまりに、「誰かと一緒」に慣れていない。

 だから、ちょっぴり優しくされただけでも嬉しくなるし、たくさん優しくされた日には、もうドキドキしてしまってたまらなくなるのだと。

 水張靄は、世羅川エノせんぱいにも、クロウ・シェイファーさんにも、恋なんてしていない。

 ただ、差し出された優しさに、浅ましく縋っているだけなのです。


 その上、今はせんぱいが行方不明になっています。

 それなのに私は、くぅさんと一緒にご飯を食べているだけで、ドキドキなんかして。せんぱいは、どこにいるのかもわからないのに、私ばっかり。

 私は、そんな自分のことが、許せませんでした。


 モソモソとおにぎりを食べているうちに、くぅさんはカツサンドを食べ終わって、焼きそばパンに手を伸ばしていました。大人の男の人、それも、しっかり身体を動かすお仕事なので、たくさん食べるんだなぁ、と思います。

 私はといえば、ドキドキと罪悪感で、たっぷり咀嚼したおにぎりを一口、飲み込むだけでも胸が詰まりそうでした。


 くぅさんがパンを全部たいらげる頃に、私はやっと、おにぎりを一つ食べ終わりました。ペットボトルのお茶を飲んで一息つくと、私は言葉が出なくて口をパクパクさせながら、残りのおにぎりが入った袋を、くぅさんの方に軽く押しやります。


「ん……」

「なんだ、靄。もういいのか?」

「は、い……」


 実際のところ、罪悪感がなくっても、食欲はそんなにありませんでした。

 元々があまりたくさんは食べないのもあります。それでも、いつもなら、おにぎり二つくらいは食べるのですが――昨日見た光景が頭をちらついて、なんだかお腹いっぱいの気分でした。


 くぅさんが来たっていうことは、昨日のことは、やっぱり夢なんかじゃなかったということです。

 あんな怪物が街にいて、私はそれらを生み出す原因となった人の「魂」とやらを持っていて、先輩たちが襲われて――エノせんぱいは、行方不明。

 こんな状況で食欲を出せというのは、無理でした。くぅさんにもそれは伝わったのか、黙ってコンビニの袋を手に持ちます。


「まぁ、いいってんなら、いいか」

「…………」

「じゃあ、帰れるか?」


 私は、頷きました。

 ともかく、一旦家に帰らないことには、何も始まりません。

 殆ど着の身着のまま、お財布さえ持っていませんし、スマートフォンは充電もなくなっています。服も部屋着兼寝間着といった様相で、夜の散歩ならまだしも、日中に歩くのはちょっとなぁ……という格好です。

 靴を履いて、ベッドを下ります。するとくぅさんが歩き出すので、私は後ろにくっついていきました。


 朝の警察署は、少ないものの、警察官さんの姿がまばらにありました。

 見るからにラフな格好で、どう見ても大人には見えない私に、時々、視線が向けられます。だけど、くぅさんが一緒にいるのを見ると、小さく頭を下げて通り過ぎていきました。

 そういえばこのひと、確か「巡査部長」って呼ばれていたんでした。

 ただ、私は警察に詳しくないので、それがどのくらいの肩書きなのかは、わからないのですが。


「……くぅ、さ……て……」

「なんだ?」

「え、らい……ひと……?」


 ポツポツと尋ねてみると、くぅさんは、ちょっと困ったみたいに笑いました。


「偉くはねぇよ」

「そ、う……なん、です、か……?」

「特務は名前の通り、特殊だからな。思うところは人によって色々ってとこだ」


 確かに、怪物と戦うのは、ちょっと……いや、かなり特殊かもしれません。

 要するに、「偉いわけではないけど、一目置かれている」というところでしょうか。くぅさんの人柄も、あるような気がします。

 実際、偉いのかそうでないのかは結局わかりませんでしたが、くぅさんの態度に偉ぶったところはありません。周りの人に、「よう」と気さくに声をかけています。

 ちょっと見たら、まぁ、頭を下げている人に対して、くぅさんの軽く片手を上げる挨拶は、フランクすぎるようにも見えるかもしれませんが。偉そうとか、威張っているとか、そういうところはないのです。

 聞いたことがないのでわかりませんが、くぅさんは日本出身ではないのかもしれません。顔立ちから見るに、アジア圏の人っぽくはないので、軽い挨拶は、くぅさんの生まれ育った土地のものなのかも……いえ、知らないんですが。


 そうこうしているうちに、私たちは、警察署の建物の外に出ていました。六時すぎの日差しは、まだ淡く柔らかです。

 くぅさんは、迷いなく、駐車場に向かいます。そして、一台の車に近づいて、ロックを開けました。


「助手席でいいか?」


 運転席に乗り込むくぅさんに尋ねられて、私は頷きながら、助手席のドアを開けて、シートに座ります。

 くぅさんは早くも、カーナビに手を伸ばしていました。そして、昨日出くわした辺り――私の家の近所の地図を開いています。


「靄」

「は、い……」

「お前、地図で自分ちわかるか?」


 私はこくんと頷いて、慣れない手つきでカーナビを操作すると、自宅を指さしました。そうしたら、くぅさんがそこを目的地に設定してくれます。


「シートベルト、ちゃんとしとけよ」

「は、い……」

「よし、じゃあ行くぞ」


 エンジンがかかって、滑るように、車が走り出します。車内では、聞き慣れないFMラジオが軽快な音楽を流していました。

 まだギリギリ、早朝に片足を突っ込んだ朝、空いている道路を、くぅさんの運転する車は、スイスイと走っていきます。

 清藤市は地方都市なので、自動車はそれなりに多いです。コンビニにもスーパーにも大きな駐車場があるし、郊外のショッピングモールなんかはもう、「すごい」の一言に尽きます。

 だけど、警察署は自動車通勤の会社からは少し外れた位置にあるし、住宅街に向けて走るということは、通勤とは逆方向になります。だから、車通りはあまり多くありませんでした。

 そのおかげで、どんどん、私の家、見知った町へと近づいていきます。


 正直なところ。私には、不安な気持ちが大きくありました。

 非日常的なことに巻き込まれてしまった不安では、ありません。


 ただ、帰るのが、怖かった。


 夜中に一人で歩くなんて、悪い子のすることだと、わかっていました。だから、それだけでも、叱られて当然です。

 なのに、一晩中帰らなかったなんて……どれほど叱られるか、どんなお仕置きがあるか、想像もつきませんでした。


「靄、大丈夫か?」


 ふと、くぅさんに話しかけられて、私はハッとしました。くぅさんの視線は、しっかりと前を見ています。運転中によそ見をするわけにはいかないので、当然のことでした。

 それなのに、私のことを気にかけてくれるのが、嬉しかった。だから私は頷いて、でも、くぅさんの視界には入っていないのに気づいて、小さく答えました。


「は、い……」

「そうか」


 それ以上、追求されなかったことに、私は少しだけ、ほっとします。

 本当に、大丈夫なのです。叱られるのも、お仕置きも怖いけれど、学校の時間もあるんだから、そんなにたくさんはされないはず。

 何より、私は、悪いことをした子だから。叱られて、お仕置きをされるのは、当たり前で――当たり前じゃなくっちゃ、いけなくて。


「だい、じょぶ……で、す」


 私の小さな呟きは、思ったよりも、か細く響きました。

 くぅさんの横顔は、まるで睨みつけるみたいに、ただまっすぐ、前を見ていました。

 FMラジオのパーソナリティの声だけが、静かな車内に響いています。

 私は少しだけ、目を閉じました。


 そうして、長いんだか、短いんだかわからない時間のあと、車が止まりました。そこは当然、私の家の前です。

 朝の住宅街は、静かでした。まだ七時前で、学生の登下校は始まっていません。早めに、あるいは遠くに出勤する車の走行音が、控えめに小さく聞こえました。

 私は、ノロノロとした手つきで、シートベルトを外します。


「靄、大丈夫か?」

「……?」


 くぅさんに尋ねられて、私は意味がよくわからなくて、首を傾げました。

 少しだけ、腰が重たくなっているのは、多分事実。だけど、遅かれ早かれ、帰らなくてはいけないのです。

 私はお財布さえ持ってなくて、学校に行くには、制服に着替えなくてはいけません。スマートフォンの充電がないのは……まぁ、連絡を取る相手もいないので、そんなに困りませんが、教科書や筆記用具だって、家に置きっぱなしです。

 どっちにしたって私は帰らないといけないし、お母さんに一晩中家を出ていたことがバレるのは、時間の問題でした。

 もしかしたら、今はまだ気づいていないかもしれないけど、七時を過ぎても私が部屋から出てこなかったら、お母さんは私の部屋に行くはずです。そして、玄関から入るにしても、もうキッチンにいるはずのお母さんに気づかれずに部屋に戻るのは、無理なのです。

 バレたら、絶対に叱られる。

 だけど、そもそも深夜に家を出た段階で、私は悪いことをしています。

 私が大丈夫かどうかなんて、あんまり関係がないように思えました。


 首を傾げる私に、くぅさんは少しだけ眉を寄せて、エンジンを切りました。それからシートベルトを外して、私の頭を、軽く、ポンと撫でます。


「んじゃ、行くか」

「ん……」

「ま、言い訳は手伝ってやる」

「え……」

「お前さんは、事件に巻き込まれて警察に保護されていた――全部が全部本当ってわけじゃねぇが、嘘ってほどでもねぇだろう」


 くぅさんの言葉は、私にはとても、頼もしく聞こえました。

 いずれにせよ、私が深夜に家を出ていることは、隠せないけど。

 この時間まで帰れなかった「理由」があれば、もしかしたら、お母さんは納得してくれるかもしれない。


 そんなこと、多分、ないだろうけど。

 希望があるなら、少しだけ、足取りが軽くなります。


 私は、静かに車から下りました。

 鍵のかかる音がして、くぅさんが、隣に立ってくれます。


「鍵、開けなくていいぞ」


 短く声をかけられて、私は頷きました。

 そうして、くぅさんの長い指が、インターホンを押したのです。

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