第4話〜初夏、くぅさんとの出会いのこと〜
少しだけ汗ばむような、初夏の日。日が落ちそうになる街を、私は一人、歩いていました。
先輩たちを、探して。
清藤高校に入学して、超常現象研究会という同好会に入ったのが、ほんの数ヶ月前のこと。そして私は最近、「超常現象研究会の先輩たちは、私に内緒で何かをしている」と、気付いたのです。
それは本当に、些細なきっかけでした。
さよならを言う時はいつも、先輩たち三人と私で別れること。
最初は私も、特に気にしませんでした。帰る方向が私だけ違うんだろうな、と、自然に思っていました。
だけど、色々とお喋りを聞いているうちに、先輩たちの一人、宇都マコト先輩は、私と家が比較的近いことを知って、違和感を覚えました。
なにしろ、私は市内でも徒歩圏内しか詳しくありません。高校では学区が広くなったこともあって、みんなの家がどの辺りにあるのか、聞いてもわからないことが増えました。
だけど、マコト先輩の家がある場所は、近くのこともなんとなく知っています。小学校と中学校は別だったけれど、あの辺りに住んでいるのなら、私と途中まで、帰り道が一緒じゃないと、おかしいのです。
それに気付いてから、よくよく様子を見てみると、たま〜に寄り道をしてファーストフード店なんかに行った後も、先輩たちは三人、同じ方向に向かいます。ハンバーガー屋さんでも、ドーナツ屋さんでも、学校に近い場所でも、ちょっと離れた場所でも、いつでも。
だから私は、多分私には言えないことを、先輩たちがしているのではないか――と思ったのです。
それは殆ど、直感でしかなかったけど。
学校の下校時刻から、門限までは、少しだけ時間があります。その時間を、私はあちこちフラフラとさまようために使うようになりました。
先輩たちがいつも行く方向、学校を中心とした放物線の中を探し回って、でも、見つけられなくて。最近は、人や建物の多い場所――主に駅とその周辺を、うろついています。
多分、見つからないんだろうな――というのは、私が一番、よくわかっています。私は大した取り柄もなく、どんくさいし、人数だって違います。先輩たちが私の追跡に気付いているかはわかりませんが、もし気付いているなら、どうすれば私を巻くことができるか、知恵を出し合うことだってできるでしょう。
私はといえば、先輩たちに直接聞くことも、ついていきたいと言うこともできず、一人でフラフラしているだけ。まぁ、でも、一緒に寄り道をするような友達だって、先輩たち以外にはいないし、どうせ門限までは、うちに帰りたくなかったから。
学校から少し歩いたところには、清藤市の一番大きな駅があります。駅ビルが併設されていて、地方都市なりにちょっとは栄えている場所です。放課後には、学校帰りの学生や、スーツ姿の大人がいて、繁華街、みたいな場所もあります。
この日、私は初めて、繁華街に足を踏み入れようとしていました。
表通りや入れるビルは、くまなく探し回ったあと。もしかしたら、こういう、入りにくい場所にいるのかもしれない――それは一縷の望みでした。
学校では、決して繁華街には行かないように、強く言われています。実際、18歳を超えないと入れないようなお店が軒を連ねている場所で、行く意味もあんまりありません。
そういう場所なので、治安はそんなによくないそうです。
別に、その筋の事務所がある……とか、そういうことはないと思うのですが、多分。
はたまた、大人になって行ってしまえば、案外心地よくお酒を飲めるかもしれませんが、多分。
少なくとも、まだ高校生の私にとっては、ちょっと怖いような、未知なような、場所でした。
案外、先輩たちは、そういうところにいるのかも――と、思ったのは、あんまりに見つからなかったからです。私は、もう二ヶ月くらいは先輩たちを探し回っていて、門限までに帰宅できる範囲は、あらかた探し尽くしてしまったのでした。
いそうか、いそうにないかといえば、いそうにない。
だけど、探して見つからないなら、「探していない場所」を当たるしかない。
――それに、私は少し、やけっぱちになっていました。
同じ超常現象研究会の仲間なのに、せんぱいは私を仲間に入れてくれたのに、私はせんぱいのことが大好きなのに、私だけ仲間はずれにされているのが、とても寂しかった。
私にとって、それは初めての感情でした。
ひとりぼっちで寂しいとか、友達がいなくて寂しいとかは、いつものことです。だから、仲良くしてくれる人がいるのに、私にだけ許されていない部分がある寂しさは、生まれて初めて感じるものでした。
嫉妬、みたいな感情も、もしかしたらあるのかもしれません。
私は仲間に入れてもらえないのに、マコト先輩とルル先輩は、せんぱいに信頼してもらっている――そういう、嫉妬。
数ヶ月の付き合いの私と、少なくとも一年は一緒に過ごした先輩たちが、同じ土俵に立てるとは思いません。頭の冷静な部分は、ちゃんと認識しています。
それでも、私の中の感情的な部分は、私だけが邪魔な色をしているのが、悲しくて、寂しくて、妬ましくて、激情と言ってもいいような制御のできなさで駆り立てるのでした。
恐る恐る、繁華街の入口から、中を覗き込みます。ぱっと見た感じは、ちょっと寂れて、ちょっと栄えている……と言えばいいのか、清藤市の駅前には、よくある雰囲気の通りでした。
今の時間はシャッターの下りたお店も多くて、そういうお店は、決まって派手目の看板を掲げています。あとは居酒屋さんや酒屋さん、コンビニ、古い店構えの喫茶店なんかが、ポツポツと開いていました。あとは、「休憩」ってメニューのあるホテル。
なんとなく「繁華街」と呼ばれてはいるけど、多分、いわゆる「歓楽街」、夜の街のことなんだろうなぁ……というのは、察しがつきます。清藤市は普通の地方都市で、もうちょっと大きな都市のベッドタウンでもあるので、ものすご〜く栄えていて、人がたくさんいる場所というのは、あまりありません。郊外のショッピングモールくらいでしょうか。
なので、人やお店がたくさんあって栄えているという意味で「繁華街」と呼ぶほどの場所がなくって、あとは私たち学生に聞かせる言葉として「歓楽街」は不適切とかそういうのもあるかもしれなくって、繁華街と呼ばれているのでしょう。
そんなことを思うくらい、その場所は賑やかな印象とは程遠くありました。多分、夜になったら話は違うのでしょうが。
少しほっとしながら、私は繁華街に足を踏み入れました。今は夕方で、スーツっぽい格好の男の人が、お店の前を掃除していたり、酒屋さんの店先で買い物をしたりしています。
綺麗な女の人とすれ違いました。ふわっといい匂いがして、一瞬、振り向いてしまいましたが、女の人はそんな私を気に留めることなく歩いていきます。
夜の前の空気なのに、早朝のような感覚がしました。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、誰かが起き出してきて、街が動き出して、一日が始まる感じ。この街の一日は、多分今から始まるのでしょう。
少しだけ怖さが薄れて、私はいつになく大胆に、街の中を歩きました。視線はキョロキョロと先輩たちを探して、でも、見つかりません。
店先に出された電灯タイプの立て看板、喫茶店の手書きメニュー、煙草の匂い。そして、ビルの壁に大きく描かれた、スプレー缶の絵。
こういうの、確か、グラフィティアートとか言うんだっけ……私には、落書きと区別がつけられないけれど……と思いながら、視線は路地に向かいます。
そして私は、ものすごくびっくりしました。
人間二人が余裕を持ってすれ違えるくらいの路地には、青いゴミ用のポリバケツがいくつか置いてあります。そして、そこには、人がいました。
だけど、先輩たちでは、ありません。
明らかに制服姿の男子が三人、しゃがみ込んでいます。そして、口には煙草を咥えていました。よく見れば、足元にも何本か、吸い殻が散らばっています。煙草の匂いは、ここからしたのでしょう。
どこからどう見たって、未成年です。そして、20歳以下の喫煙は勿論、法律で禁止されています。少なくとも、進学校の清藤高校では、まず見ません。もしかしたら、誰にも知られずにルールを破っている人もいるかもしれませんが。
実際に歩いてみた繁華街は、ただ、大人の街だと感じました。一方で、「あんまり治安はよくない場所」と認識されていると、こういう人が集まるのだな、と私は思いました。
ともかく、私の脳裏には「不良」の文字がよぎりました。それに、早く知らんぷりをして離れなくちゃ、と。
私が見ていたからといって、この人たちが私に何かをするとは限りません。でも、同じくらい、何かをされてしまう可能性もあるでしょう。もしそうなったら、私じゃ絶対に敵わないのは目に見えています。
「やっべ」
「行くぞ」
慌てて逃げ出そうとしたその時、煙草を吸っていた男子たちが、吸い殻を捨てて駆け出しました。路地の向こう側に、全力で走っていきます。
一体、何が起きたんだろう――私がそれを判別する前に、後ろから不意に、声をかけられました。
「ちょっと君」
「あ……」
「少しいいかな?」
振り向けば――そこにいたのは、警察の制服を着た男の人と女の人。
あ、まずい、と思いました。同時に、ああ、さっきの男子たちは、警察官さんを見て逃げたんだな、とも。
ともかく、よくない状況なのは確かです。私は内心、すごく慌てました。
路地には煙草の吸い殻がたくさん落ちていて、さっきまで吸っていた人はいません。つまりは、私がここで煙草を吸っていたと勘違いされる可能性があります。
そうじゃなくても、学生が繁華街に来ることは、原則として禁止されています。少なくとも、清藤高校では。きっと、他の学校もそうなんじゃないかな。
まぁ、喫茶店に行くとか、そういうことなら大丈夫かもしれないけど。逆に言えば、古い店構えの喫茶店とコンビニくらいしか、高校生が入っていいお店はないのです。
そりゃあ、まぁ、声もかけられるでしょう。こういうのは多分、補導といわれるやつです。
やましいことがないのなら、堂々としていればいい――と、理解はしているのですが。私は、自分のことをあんまりいい子だとは思っていないので、ものすごく慌ててしまいました。
「あ、う……」
「その制服、清藤高校だよね?」
「あ……」
「ここに何か、用事があるの?」
「う……え、と……」
女の警察官さんに尋ねられて、私は困り果ててしまいました。
ここ、繁華街に用事があるかないかと聞かれれば、ないのです。だからといって、「同じ同好会の先輩たちを探しています」と素直に言っても、納得してもらえるでしょうか。
多分一般的には、「行ってはいけない」と言われている繁華街に、友達を探しに来たりはしません。何か事情があるなら話は別かもしれませんが、「なんとなく隠し事をされている気がするから、あちこち探し回っている」という私の行動は、そもそもおかしい……と、自分でも思います。
色々なことが頭をぐるぐると駆け回るけれど、言葉にはなりませんでした。元々お喋りは苦手で、考え込めば考え込むほど、焦れば焦るほど、口から出るのは「あ……」とか「う……」みたいな、意味のない言葉ばかりになってしまう。
「え、と……」
「…………」
「そ、の……」
ともかく、この煙草は私が吸ったわけじゃないことや、ここにはお酒や煙草、それに売春みたいな行為のために来たわけじゃないことを主張するべきだというのは、理解しています。だけど、私が口ごもっている間に、警察官さんの表情が、だんだん険しくなっていく。
別に、警察官さんが悪いということはありません。女の人はじゅうぶん優しく尋ねてくれたし、ゆっくりと穏やかな口調をしていました。だけど、私がなかなか返事をしないのを見て、ああ、怪しまれている。
そう思えば思うほど、私はまともに喋れなくなりました。焦りがぐるぐる頭の中を回って、殆どパニックみたいな状態になってしまいます。そうするともう駄目で、全然、舌が回ってくれない。
「ちょっと、ゆっくりお話しましょうか」
「え、あ……」
「そこの交番まで、来てもらってもいいかな?」
私は思わず、スマートフォンで時間を見ました。多分、これに応じたら、門限までに帰れなくなる時間でした。
確か交番はすぐ近くにあったはずなので、距離の問題ではありません。私が疑いを晴らせれば、すぐに開放してもらえるんじゃないかな……と思うのですが、どんどん喋れなくなるのは目に見えています。
門限を破る悪い子は、お仕置きです。いえ、それ以前に、警察のお世話になったというだけで、どんなお仕置きをされるか……考えたくもない。
でも、悪い子というなら、先に繁華街に踏み込んだ私が悪いんです。それなら、全部、私のせいなんだろうな……。
手首が、掴まれました。それはごく軽い力だったのですが、私にはもう、振り払う気さえ起きなかった。
悪い子なんだから、仕方ない――納得と諦めで、だらりと力が抜けた、その時です。
「お〜、何してるんだ?」
少しピリピリした空気になじまない、明るい声が路地に響きました。警察官さんたちが、ぱっと振り向きます。
私は最初、その人がどこにいるのかわかりませんでした。何故かといえば、すごくすごく背が高かったからです。
ちょうど警察官さんたちの後ろ、私と向かい合う位置に、その人はいました。だけど、最初に目に入ったのは、派手な柄のシャツの胸元。そろそろと視線を上げていって、顎が上がりきってしまう頃に、ようやく顔が視界に入ります。
なんとなく、アジア人っぽくはない、はっきりした顔立ち。
薄く青みがかった髪が、西日でキラキラ光っている。
瞳は逆光の中でもほんのりと赤くきらめく。
ニヤリ、という擬音がぴったりな笑みを浮かべているけれど、どことなく獰猛な印象。
誰だろう、と私は思いました。知り合いではありません。こんなところで声をかけられる理由は、とくにない人でした。
私の知り合いではないということは、多分、警察官さんたちの知り合いです。
正直なところ、一瞬、ガラの悪いお兄さんかな?と思いました。なんというか……人を見た目で判断してはいけませんが、あんまりに派手な柄シャツだったので、普通の仕事をしている人のようには、見えなかったのです。
でも、そんな私の予想に反して、警察官さんたちは居住まいを正しました。
「クロウ巡査部長!」
「今日も巡回ですか、お疲れ様です!」
口々に言う警察官さんに、私はすごくびっくりしました。
警察には詳しくない私でも、「巡査」と呼ばれるのは大体警察の人だというのは、わかります。つまり、このやたらと派手なお兄さんは、警察の人なのです。
思わずポカンとしていると、クロウ巡査部長と呼ばれたお兄さんが、私を見ました。
「嬢ちゃん、清藤高校の生徒か?」
「あ……」
突然の問いかけに、私は硬直しました。
よもやまさか、急に割って入った知らない人、それも派手な柄シャツで、背も高い男の人に、話しかけられるなんて思わなかったから。
何か、言わないといけない――ここで何も言えなかったら、さっきの二の舞いです。折角、もう一度問い直してもらえたんだから、今度こそちゃんと、答えないと。
頭では理解しているのに、身体が、ちっとも言うことを聞いてくれない。
焦る私を見て、クロウ巡査部長という人は、鋭い目をしている警察官さんを手招きして、少し下がらせました。それから、私の正面に割って入ります。
「ゆっくりでいいぞ」
低くて、柔らかい声。私の身体の力が、その声で少しだけ、抜けました。
「……!」
声は、出なかった。
だけど、私は一生懸命に頷きます。
すると、クロウ巡査部長という人は、満足そうに笑いました。
「よし、清藤高校の生徒なんだな」
「あ……は、い……」
「この煙草、嬢ちゃんが吸ったのか?」
「い……い、え……」
私の口から出たのは、ひしゃげた小さな声でした。それでも、どうにか、やっとのことで返事をすると、路地の向こう側を指さします。
クロウ巡査部長という人の、赤みを帯びた瞳が、その先を見ました。
「あ〜……吸ってた奴、逃げたのか?」
「は……あっ、ち、に……」
「なるほどな」
クロウ巡査部長という人は、路地の向こう側が開けているのを見て、呟きました。どことなく、呑気にも聞こえる声です。
それから、最初に私に話しかけてきた警察官さんたちの方を向きます。
「悪いがお前ら、後の聞き取りは俺でいいか?」
「い、いえ……巡査部長のお手を煩わせるわけには……!」
「バカ、悪いことしてねぇ奴にその顔は怖すぎるだろ」
制服の警察官さんより、クロウ巡査部長という人の格好の方が、よっぽど怖く見えるんだけれど……と私は思いました。でも、一方で、ひどく安心している自分もいます。
きちんと喋れない私が悪いのだけれど、それでも、あの鋭い目――疑っていることを隠しもしない目を、向けられるのは怖かった。クロウ巡査部長という人は、少なくとも、私が話し始めるまで待ってくれる人だ。
それを知ってしまうと、確かに、どう考えても、警察官さんたちの方が怖いのです。いえ、私がちゃんと話すことさえできれば、何事もなかったんですが……。
「じゃ、俺はこの嬢ちゃんを駅前まで送ってくるから、こっちは頼むぜ」
「はい!」
びっくりするくらいにすんなりと、話がついて。警察官さんたちは、繁華街の奥の方へと去っていきました。
不意に、ポン、と頭に何かが乗っかります。私がぱっと上を向くと、そこには、クロウ巡査部長さん、の手が乗ってました。
「うぉ」
「…………」
「あぁ……すまん、こういうのセクハラだったな!?」
「…………」
「悪いな、ガキの頭撫でてやんのが癖になっちまっててな……つい……」
「……い、え……」
矢継ぎ早に謝られて、私はすっかり、色々なことがどうでもよくなってしまいました。
確かに、許可なく異性の頭を撫でるのは、セクハラかもしれません。だけど、その手はあったかくて、優しい感じがして……要するに、私は、嫌だと感じませんでした。
「や、じゃ……ない、です……」
「おう。お前、結構喋れるじゃねぇか」
私の返事に、クロウ巡査部長さんは、ちょっとほっとしたような表情をして、ワシワシと私の頭を撫でました。
本当に、私のことをただの子供としか思っていないんだろうな、とわかる、無造作な手つき。お父さんに撫でられるって、こんな感じなんだろうか――だけど、なんだかそれだけじゃないような、安心する感じもします。
普通なら、今日会ったばかりの人、それも異性に馴れ馴れしくされたら、嫌なのかもしれません。だけど私に、そういう気持ちはあんまり浮かびませんでした。
そもそも、私なんかに関心を持ってくれる人は、殆どいません。今までの人生で、わかりやすく好意的な感情を向けてくれたのは、超常現象研究会の先輩たちくらいでした。
嫌というなら、体育の着替えの方がよっぽど嫌です。周りは可愛い女の子ばっかりで、せんぱいを好きになってしまった今、同性の女の子の裸に近い姿が視界に入るのも、自分の身体が見られるのも、なんだか恥ずかしく感じます。
いえ……私は、自分の身体が見られることに関しては、相手が誰でも、嫌なんですが……それはそれとして、優しく接してもらえることに、安心してしまうのでした。
クロウ巡査部長さんは、私の頭から手をよけると、中腰にかがんで、目線を近づけてくれます。
「嬢ちゃん、名前は?」
「み、ず……はり、もや……」
「靄か。俺はクロウ・シェイファーだ」
「くろ……しゃ……くろ、うしゃ……んん……く、さ……」
クロウさん、と呼びたかったのですが、あんまり仕事をしてくれない私の舌は、やっぱりうまく動きませんでした。どうにかきちんと名前を呼ぼうと悪戦苦闘している私に、クロウさんは「ふは」と笑いました。
「クーでいい」
「くぅ、さん」
「おう」
たどたどしい、私の声。
でも、くぅさんの返事は力強くて、まるで「それでいい」と言われているような気分になりました。
胸の内が、あったかくなる。
トクトクと、心臓が鼓動を刻んでいる。
私がなんだかぽや〜っとしていると、くぅさんは、かがんだ体勢から、すっと背を伸ばしました。
「じゃ、行くか」
「あ……」
そういえば。私はこれから、くぅさんに駅前へと送っていかれるのでした。
私が慌てて一歩踏み出したのを見て、くぅさんも並んで歩きます。
背が高い分、くぅさんの歩幅は大きくて、でも、ちょこちょこと歩く私が、急ぐこともありませんでした。わざわざ、ゆっくりと歩いてくれているのは、明白です。
なんで、このひとは、初対面の私に、こんなに優しくしてくれるんだろう。わからないのは、少しだけ、怖い。
それでも私は、くぅさんの優しさが嬉しくて、一生懸命に歩きました。
「そういえば、靄」
「……は、い……?」
「お前さん、なんでまた、こんなところに来たんだ?」
思い出したように尋ねられて、私は、そういえばそんなことを聞かれていたんだった……と思いました。
それは、単に駅前までの時間潰しの雑談のようでもあったし、くぅさんが警察官さんだと思えば、一応聞いておかなければいけないことのようでもありました。
でも、ちょっとおかしな行動なのは、自分でも理解しています。なので私は、なかなか動かない舌を叱咤して、どうにか呟きました。
「……せ、んぱい……を、さが、して……」
「先輩? 部活か何かか?」
「は、い……ちょ、じょう、げんしょ……けんきゅ、かい……ていう……」
つっかえつっかえ、呟くと。
くぅさんが、大きく目を見開きました。
「超常現象研究会?」
「あ……は、い……」
「あ〜……靄、お前さん、超常現象研究会の会員なのか」
わけもわからないまま、私は頷きます。
内心では、「せんぱいを探して歩き回っている」ことのおかしさに突っ込まれなくてよかったとホッとしているような、くぅさんの反応を不思議に思うような。
だけど、まぁ、いずれにしたって、私が超常現象研究会の会員なのは事実なので、返事は変えようがないのでした。
「……超常現象研究会の奴らなら、繁華街には来ねぇよ」
「え……?」
ボソリと、小さく落とされた呟きに、私は首を傾げました。
それってなんだか、くぅさんも、超常現象研究会を知っているみたいです――いえ、知っているのでしょう。そうでなければ、「来ない」なんて、断言はできません。
一体、どんな関係なのでしょうか。少人数の割に、案外OBの繋がりが強い超常現象研究会ですから、もしかしたらくぅさんも、清藤高校の卒業生で、超常現象研究会に所属していたのでしょうか。
見た目も名前も、随分と日本人離れしてはいますが……清藤市は交換留学が盛んだと聞くし、高校ともなると学年に何人かはは留学生がいます。
そもそも地方都市の割に、明らかにアジア人っぽくない、言ってしまえば外国の人、またはそういうルーツを持っているのであろう人が多いのです。多分、見た感じは日本人っぽい人の中にも、アジアの別の国から来たり、ルーツをそっちに持ったりしている人もいるでしょう。
だから、くぅさんがOBというのも、全くありえない、とは言えません。
でも、OBだからといって、「今」の超常現象研究会のメンバーの動向まで、わかるものでしょうか?
もし、わかるというのなら――それはそれで、私が知らない一面があって、OBの人はそれを知っているということになります。
どっちにしたって、よくわからないか、蚊帳の外。あんまり、スッキリとした気持ちには、なりません。いえ、だからといって、くぅさんを責めたり、問いただしたりも、できないのですが。
押し黙ってしまった私を見て、くぅさんは、困ったように頭を掻きました。
「そういうことだから……なんだ」
「…………」
「お前さんも、先輩とやらを探すのはいいが……こっちには来るんじゃねぇぞ」
「…………」
「また俺が助けてやれるとは限らねぇんだからな」
思いがけない言葉に、私はぱっと顔を上げました。
やっぱり、私のこと、助けてくれたんだ。
困っているのに、気づいてくれたんだ。
困っている人の味方になるのが警察官さんのお仕事と言えば、それまでです。実際、多分、そういうことでもあるでしょう。
でも、私は、すごく嬉しくなりました。心臓が、トクトクと高鳴ります。
私は確かに、補導されそうになって、困っていました。だけど、補導しようとした警察官さんだって、自分たちのお仕事をしようとしただけです。
ただ、私がうまく喋れなくて、誤解を解くこともできなくて、困っていただけ。なのにくぅさんは、すぐに私の――おんなじ警察官さんではなく、私の味方をしてくれた。
我ながら、ちょろいと思わないこともありません。だけど、喋るのも上手にできなくて、全然いい子じゃない私は、嫌な思いをしても、当然です。
だから、こんな私を構って、助けて、仲間に入れてくれる人は、絶対にものすごくいい人だ――それだけは、自信を持って言えるのです。
「ほら、嬢ちゃん。ついたぞ」
いつの間にか、私たちは、繁華街を抜けていました。大きなビルがちょっとはあって、学校や会社帰りの人で賑わう、駅前。すっかり長くなった初夏の夕日が、ギラギラと暑いくらいに照らしています。
人通りが多くて、明るい場所なら、必ずしも安全とは限りません。でも、この場所なら、余程遅くまで出歩いていない限り、補導されることもないし、喧嘩に巻き込まれるようなことだってありません。
ああ、ここまでだ――私は、自分がそれを残念に思っていることに気がつきます。
くぅさんが一緒にいてくれるのは、ここまで。私だって、そろそろ帰らなければ、門限に遅れてしまう。
だというのに、私は、別れがたく思っている自分を見つめました。
言葉と一緒に、唇を噛んでうつむきました。
多分、ですけど、くぅさんはちゃんとした大人です。うっかりと許可を取る前に私の頭を撫でることはしましたが、それ以外は、初対面として適切な距離を、取っていてくれました。
ただ、私にとって、それが劇薬にも近い得がたさだっただけで。
そんなことを口にするには、私はあんまりに前に出られないのですが、もしも私が連絡先を聞いたり、また会えないかと言ったりすれば、やんわりと断られる……気がします。
くぅさんにとって、私はただ、ふと、助けてあげただけの子供です。
そんな子供に懐かれたって、多分、困るんじゃないかな……。
「おい、嬢ちゃん。どうかしたか?」
「…………」
私は、ただ、黙っていました。
言葉が全然、出てこない。
自分から人を引き止めることも、関わることさえ、していなかったのです。
ただ、心臓だけが、ドキドキと痛いくらいでした。
そんな私の頭を、くぅさんが――少しきょろりと辺りを見回して、誰も気に留めていないのを確かめてから、ポンポンと撫でました。
「ま、縁がありゃあ、また会えるさ」
「……!」
私は、思わず目を見開きました。
逆光になった夕日が眩しく、私を見下ろすくぅさんの顔は、わずかに影がさしています。眩しくて、だから私は、陰りなんてものともせずに、ハッキリと見たのです。
薄く光を透かした髪が青くきらめいていて、赤い瞳は、ほんの少し、笑っていました。「仕方がない」とでも言いたそうな、その笑顔は、私のどうしようもないところを、緩やかに肯定しているみたいでした。
「俺はこの辺りの見回り担当だからな。ま、何事もなきゃあ、大体ここらにいるさ」
「っは……い……!」
「わざと捕まるような真似はするんじゃねぇぞ? さっきも言ったが、いつでも助けてやれるわけじゃねぇんだからな」
私は、何度も何度も頷きました。
どうして、こんなに欲しい言葉をくれるんだろう。
別に、くぅさんの方は、私に会うことなんて、金輪際なくたって、困らないのに。
心臓がドキドキして、もう私は、なんにも考えられませんでした。
だから、私は、気づかなかった。
「ほら、気をつけて帰れよ」
その言葉を、私は気にも留めずに頷きました。
先輩たちが言うのと同じだということに、その時の私は、ちっとも思い至らなかったのです。
そうして、私はぺこりとお辞儀をして、帰路につきました。
また、会えたらいいなぁ――なんて、無邪気に心を跳ねさせながら。
私が背中を向けて、雑踏の中に紛れた頃。
「見つけた……かもしれねぇ」
そんな風にくぅさんが、電話口で言っていることを、私は知らなかったのです。
その時は、まだ。
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