しずくの動く理由《わけ》

 雨宮あめみやしずくが晴崎はれさき家で迎える、はじめての朝。


 しずくはもちろん、この家の娘のあかり、その母の香苗かなえも三人揃ってリビングのテーブルに着き、しっかりと朝ごはんを食べる。


 晴崎家が以前と違うところは、この雨宮しずくの存在と……大黒柱、父幸雄ゆきおの不在である。当然ながら、あかりにも父が帰ってこないことを疑問に持たれたが、突然の長期出張が入ったと香苗から説明してもらい、なんとか事なきを得たのであった。


「いってきまーす!」

「いってきます!」


 そして、朝食後はあかりは学校、香苗は職場へと出掛けていくのだ。


 ちなみに、あかりの通う私立天ノ空あまのそら中学校。その保健室が、香苗の主な仕事場である。


 とはいえ、家を出れば生徒と保健室の先生という関係になるからか、特別なことがない限り登下校は二人別々。香苗は車で、あかりは徒歩で学校へ通っているのだ。


「さて……と」


 二人の見送りも済んだところで、飲み物でも飲みながら一息つこう、とキッチンへと向かう。


 昨晩からしずくとして晴崎家に世話になっているわけだが、周りには常にあかりか香苗の姿があった。つまり、しずくとして晴崎家に一人で過ごすのはこれが初めてのこと。


「……なんか変な感じだ。間違いなく俺の家なのに、全然落ち着かない」


 寝る場所、着ている服、何よりその身体。条件こそ違えど、もう10年以上も住み続けた家なのに、どうしてこうもソワソワするのか。


 これもやはり、雨宮しずくになったことの弊害か。自分なのに、自分ではない、おそらくこの世で誰も味わったことのない感覚。


 一人きり、静かになった家の雰囲気というのも、その緊張を助長しているのかもしれない。そういえば、晴崎家の父であった時から、一人きりで家で過ごした記憶はあまりなかった。


「確か牛乳があと少し残っていたはず……あった。これをさっさと飲み切って……ん?」


 キッチンについたしずくは、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出すと、その中身を全てコップに注ぐ。行儀よく椅子に座って飲もう、とテーブルに着いてからはじめて気が付いたが、あかりの席の下に何かが置いてある。


 よく見ると、それは体操着の入った巾着袋。足元に置いたのを、忘れていったのだろう。


「あかりが忘れ物とは珍しい……無いと困るだろうし、届けてやるか」


 あかりは特別忘れっぽいというわけではないはずなのだが、やはり昨日、一昨日とせっかくの土日に怪物と戦闘し、その疲れが十分に抜けていないのだろうか。


 牛乳を一気に飲み干したしずくは、コップを流しに置いてから、巾着袋を手に家を飛び出した。もうあかりに追い付くのは不可能だろうが、なるべく早く届けてやりたい一心から、本人的には結構な早足で。


 しかし、昨日も思ったことだが、この身体だと歩き慣れた町もやけに広く感じる。歩幅が狭い上に、体力もないから、そう感じるのも自然なことではあるのだが。


「はー……やっと校門が見えてきた。時間は……うん、なんとか始業前に間に合ったみたいだ」


 しずくは時計の類を所持していなかったが、今登校してきた生徒も少ないながら確認できたので、朝の授業が始まる前なのだと確信。


 ほっと一安心して、校門を跨ぎ敷地内へと踏み入る。


「そこの方、止まってください!」


「えっ、あっ、なにぃ……⁉︎ わたし、なにかしました……?」


 突然、強めの語気で呼び止められ、しずくは体をビクッとさせ、驚きを隠せない様子。自然と体は小さくなり、不安からか小刻みに震えている。危険を感じ取った小動物のようだ。


「あ……驚かせるつもりは……すみません」


 おそるおそる声の主へと顔を向けると、そこにいたのは大層な美人であった。きれいな長い髪を持ち、表情は優しく柔和。しずくよりもさらに大人っぽい雰囲気を纏っているが、制服を着ているためここの生徒だろう。


 そんな美人は、しずくがそこまで怯えるとは思ってもおらず、軽く頭を下げつつ謝罪を述べた。


「ところで、あなたはこの学校の生徒ではありませんよね? 生徒以外の者を敷地内に入れさせるわけには参りませんので、呼び止めさせていただいたのです」


「う……それは、その……」


 ぐうの音も出ない正論だった。確かに、今のしずくは部外者そのもの。ある意味では、不法侵入であるとも言える。


 毅然とした態度を取る女子生徒に、しずくは気圧され、押し黙る。正直に伝えれば良いだけとはわかっているのだが、緊張してしまって言葉が詰まる。


「制服も着ていないようですし、どこの学校の生徒です? それとも、我が校に何か用事が?」


「あ、えっと、これを……2年A組の、晴崎あかりに届けにきたんですけど……」


 嘘は言っていない。が、これ以上深掘りされると困ったことになるかもしれない。


 こういうことになってしまった場合、どう誤魔化すかを全く考えておらず、目線はきょろきょろ、言葉は吃る。相手目線から見ればただでさえ怪しいのに、さらに拍車がかかってしまっている状態だ。


「あらら、生徒会長が知らん子に絡んでる〜」


 激しく動揺し困り果てていたその時、しずくの背後から聞き覚えのない少女の声。


 まさに助け舟を出されたような状況で、しずくは反射的に振り返り、その声の主を見た。


 寝癖なのか元々の髪質なのか、ところどころ髪がハネており、ミディアムほどの長さの後ろ髪は、首のあたりで一つに括られている。そして何より目に付く特徴は、首元にぶら下げられたゴーグルの存在。背はさほど高くなく、しずくより若干低い程度だろうか。


 そんな幼さの残る少女が、今は何より頼もしく見えたのだ。


「その辺にしといてあげなよ。要は、それを届けたいだけなんでしょ? わたしが届けとくからさ。晴崎さん、同じクラスだし」


「まあ、そういうことでしたら……というか、雷堂らいどうさん、あなたまた遅刻ギリギリで……!」


「しょーがないじゃん。昨日の夜、どうしてもドローンの調整で上手くいかないとこがあってぇ……てか、今日はまだ遅刻してないからセーフでしょ?」


「わたくしが言いたいのは、そういうことではなくてですね……」


 髪質のみならず、性格まで一癖も二癖もありそうな生徒だ。会話の内容から察するに、遅刻の常習犯で、生徒会長も頭を悩ませている模様。


 決して悪い人、というわけではなさそうなのだが。


「ちょっと待って、生徒会長! ……何か聴こえない?」


「いや、誤魔化すにしても、もう少し上手い言い訳を……」


「……ぉぉぉぉおおおおおお!」


「……聴こえますね」


 最初は、生徒会長の追及から逃れるための嘘だと、しずくすら思っていた。しかし、次の1秒後にははっきりと聴こえる。


 そしてその声は、だんだん大きく……いや、近づいてきているのがわかる。


「えっ……あかり⁉︎」


「うおおおおおおおっ!」


 声の正体は、全力疾走するあかりだった。


 まさか、自分で体操着を忘れたことに気付いて、取りに帰ろうとしているところだろうか。


 それにしては、あまりに必死すぎるような気もするが。一時限めの授業まで、僅かな猶予しかないのだとしても。


「噂をすればってやつだねぇ。おーい、晴崎さーん、この子が忘れ物持ってきてくれたよー」


「ありがとうしずくちゃん! でも今ちょっと大事な大事な用事が入っちゃって! 会長さん、ちょっと行ってくるね! すぐ戻りますからぁぁぁぁぁぁ……!!」


「え、えっ? あかりっ⁉︎」


「ちょっ、どこに行くのですかぁーーっ⁉︎ そもそも、学校より大事な用事ってなんですかぁーーーーっ!!?」


 うっすらと予想はしていたが、案の定あかりが足を止めることはなかった。どころか、一切のスピードを緩めることなく、しずくたち三人の前を横切っていく。さながら風のように。


 生徒会長の尤もなツッコミを背中に受け、あっという間にその姿が遠いところまで。


 唖然としていたしずくだが、すぐに気持ちを切り替える。今、自分がなすべき事をなさねば、と。


「これ、預かってて! あかりはわたしが追いかけます! 二人は教室へ戻っててください!」


「ええっ⁉︎ な……なんだかわかりませんが、お気をつけて! 頼みましたよーっ⁉︎」


 体操着袋をゴーグルの少女に預けると、しずくはあかりの背を追い始めた。トップスピードに乗ったあかりに追い付くのはほぼ不可能だとわかっていても、追わずにいられなかったのだ。


 あかりの行く先には、きっと先日と同じような戦いが待っていることだろう。何か少しでも、あかりの力になれるように。ただその一心のみが、しずくの足を動かすのであった。

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