しずくの決意

 自室へ戻ったあかりは、しずくをベッドに腰を下ろすよう促すと、扉を閉めて鍵もかけてしまう。そして、自らもしずくの隣に座ると、優しい声色でしずくへと語りかける。


「あのね、しずくちゃん。言いたくないことは言わなくていいし、思い出せないことは無理に思い出そうとしなくてもいい。だから……わたしから聞きたいのは、ひとつだけ」


 柔らかい表情だが、今日聞いたあかりの声の中では最も真剣だというのが、その真っ直ぐにこちらを見つめる瞳から伝わってくる。


 一体何を聞きたいのだろうか……と、こちらも緊張してしまう。ごくりと唾を飲み込み、次のあかりの言葉を待った。


「もし……もし他に行くあてがなくて、しずくちゃんがイヤじゃなかったら……うちに泊まっていかない?」


「えっ……?」


 まさかそんな提案を、あかりの方からしてくれるとは。ありがたいが、やはり驚きの方が多少は勝る。


 だがこれは、本当に願ってもないことだ。少なくともこれで、野晒しの公園でホームレスのように眠らずに済む。というか、もともとここが自分の家なのだが。


「あ、えっと、わたし……しずくちゃんの事情とかは全然わかんないけど、何か困ってるなら力になりたくて……でも、もしかしたら余計なお世話かもって考えちゃったりして……だから、お母さんに聞く前に、しずくちゃんがどうしたいかってことだけは、聞いておきたかったの」


 もちろん、こう言われるまでもなく、しずくにはあかりの意図は伝わっていた。


 それでも嬉しかった。あかりが、自分の考えを口に出して伝えてくれたことが。優しい子に育ってくれたなぁという父親目線と、見ず知らずの自分に手を差し伸べてくれたという、しずくの目線でも。


「……わたし、自分の名前しか思い出せなくて、さっきは家族とかのことを考えたら、すごく頭が痛くなって……だから、何も覚えてないし、どこに帰ればいいのかもわからない。本当に泊めてくれるならとても助かるし、すごく嬉しい」


 遠慮なくあかりの好意に甘えておこう。もちろん、いくら同年代の友人だとしても、他人の家に居候することが良い行いであるとは言えないだろう。


 それでも今はこうする他ないのだ。


「あ、でも……香苗さんにはなんて言ったら……」


 よく考えれば、子供だけで勝手に決めていいことじゃない。単なるお泊まりだけでもそうなのに、期間未定の居候となると、なおさら保護者の許可は必要だ。


 しかも、あかりと歳の近い少女とは言え、記憶喪失(という設定)で身元もわからない。普通に考えれば、あまりにも怪しすぎる。


「大丈夫! わたしがお母さんとお父さんを説得する! もちろん、しずくちゃんが秘密にしたいことはお母さんにも絶対言わない!」


「あかり……」


「わたしに任せて! 絶対、なんとかしてみせるから! お母さんならきっと、しずくちゃんの力になってくれるはずだよ!」


 確かにあかりの言うとおり、香苗はとても優しくていい人だ。そんな香苗だからこそ幸雄は惚れ、結婚までしたのだから。


 だが今回の場合はまた違う。まともな大人なら、下手にこの件には関わらず、警察に通報するなり、然るべき施設に連絡を入れて預かってもらうなりの対応をするはずだ。


 しずくとしては、そのまともで常識的な対応をされるのが一番困る。色々と事情を聞かれるだろうが、あまりにも現実離れしすぎて説明のしようがないし、言ったところで信じては貰えまい。それに、施設になど入れられたら、自由に動ける時間が極端に制限されてしまう。なるべく早く元の姿に戻るヒントを探したい身としては、やはり自由な時間は確保しておきたいところ。


 香苗のことを信じるしかない。そして、自分のことを信じてもらうしかない。


「じゃ、わたし、お母さんのところに行ってくる!」


「あっ……待って、あかり! ……わたしも、行くよ」


 一人で説得に向かうあかりを呼び止め、しずく自らも立ち上がって説得に赴かんとする。


 最初、その行動にあかりは驚いて固まってしまったが、すぐに眩しい笑顔を向けてくれた。


「うん! いっしょに行こう!」


 理由はわからないが、あかりもしずくと一緒に行動できることが嬉しかったのだろう。


 しずくはしずくで、なんでもあかり一人に頼り切りにしたくはないと思った。自分のことなのだから、少しは自分でも動かなければ、と。でなければ、胸を張ってあかりの隣を歩けない。


「お母さーん! わたしから……ううん、わたしたちからひとつ、お願いがあるんだけど!」


 一階に降り、勢いよくリビングに入室しながらの第一声。その声の大きさに香苗も、一緒にお願いにきたはずのしずくでさえびっくりしていたが、構わずあかりは言葉を続けた。


「しずくちゃんを……しばらくの間、うちに泊めてあげてほしいの!」


「あ、えっと……急に無茶言ってるってことは、承知の上です。でも、帰る場所も行く当てもなくて、警察や施設のお世話にはなれない事情もあって……とにかくお願いしますっ!」


「わたし、しずくちゃんのこと、放っておけないよ! 困ってるのなら助けてあげたい!」


 我ながら、ホストファミリー側になんの得もない、感情論に訴えるだけの説得にもなっていない説得だ、としずくは思った。


 それでもこうする以外に手段はない。大人の善意に甘えることでしか、今の自分の身を守れないのだから。


「その子を? 泊める? 私は全然いいよ〜」


「不躾なお願いではありますが、そこをなんとか…………え?」


「本当に⁉︎ やったぁ! ありがとー、お母さん!」


 香苗からの返事は、あまりにも意外すぎた。


 やんわりと断られるか、少なくとも難色を示されるとばかり思っていたところ、なんとあっさりお泊まりOK。許可を貰えるまで長期戦を想定していただけに、嬉しくはあるのだが、拍子抜けでもあるというか。


「あ、えっと、あのっ……! 自分からお願いしておいてですけど、本当にいいんですか……? もっとよく考えてから決めた方が……!」


「なーに言ってるの、そういうのはしずくちゃんが心配することじゃないよ。事情はわからないけど、どうしてもしずくちゃんには他に頼れる大人がいなくて、それでも私を頼ってくれた。助ける理由なんてそれで十分。なんとかするのは大人の役目だからね」


 あかりとそっくりな優しくて明るい笑顔で、香苗はしずくを受け入れてくれる。


 そうだ、この笑顔に惚れて、幸雄はこの人と結ばれたいと願ったのだ。片時もそのことを忘れたことはなかったが、雨宮しずくとして改めてこの笑顔を向けられると、より強くその温かみを感じることができる。


「それに、きっと幸雄さん……私の旦那さんも、同じこと言うと思うんだよね。なんでか、さっきからずっとメッセに既読つかないんだけど……幸雄さんが帰ってきたら、私から言っとくから安心してね」


「あ、ありがとう……ございます」


 不意に自分の名前を出されてドキっとしたが、変に動揺を表に出さないよう取り繕う。


 なんとか不審に思われたりはしていないようだが、実際これはなんとかしなければいけない問題だ。


 とどのつまり、自分が〝雨宮しずく〟でいる間に、〝晴崎幸雄〟の存在をどう扱うか。


 こればかりは、何をどうしようと誤魔化しようもなく……腹を括るしかない、と密かに決意を固めたしずくであった。

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