天使的ニル、アドミラリイ

@mukotsu_tomiya

本文


 人を、自分のしゃあざで死なせてみたときに、自分の内に立ちあらぁれる情動について、興味があります。殺すのでも、追い詰めるのでも、何ならほんとうに死なないのでもいいのです。ただ、その人が不能になってくだされば、それだけでぁたしは構いません。とにかく、自分のまぁりで人が死んだふうになったとして、あるいは死んだとして、それが完全に自分のせいであるとき、ぁたしはどうなってしまうのか、それを考えると、ぞくぞくして仕方ないんです。でも、ぁたしのまぁりの人が死んだら、ぁたしは悲しいです。悲しくて、もののしように困ります。それで、その悲しさと殺人欲求とを天秤にかけたとき、ぁたしは、悲しさの方が勝つようにできているんです。おかげで、ぁたしは、ぎりぎりで人間の体を保ってるんでしょう。でも、もし、その悲しさすらも殺人欲求のうちに取り込んでしまったら、つまり、自分のせいで人が死んだことに悲しんでいる自分に酔ってしまえるぁたしになったら、そのときはいよいよ、ぁたし、人間でなくなってしまうのでしょうね─。


 彼女との会話で特に印象に残っているのが、彼女の、この陰気な独白だった。

 はじめ彼女は、都会のごみ捨て場に横たわっていた。池袋だったか渋谷だったか。ごみ捨て場が簡単に見つかるような都会なんてそうないような気もするのだけど、とにかく、彼女と会ったのはそういう場所で、時間帯は深夜で、しかも打ちつけるような大雨が降っていた。仰向けの彼女は、表情がよく見えた。

 ぼくは、それまで何をしていたんだか覚えていない。

 ただ、何かの気分がぼくをその脇道に入らせて、そうしたら、複数のごみ袋に膝枕をしてもらっているその黒髪の少女を見つけたというわけだった。

 ぼくは元々記憶力のいい方ではないが、それでも彼女とのことについては、異常なほど、記憶にもやがかかっていた。いまだって、おぼろげな記憶を無理やり釣り上げていて、これが本当にぼくにあった正しい出来事なのか、不安になっているくらいだった。

 ぼくは声をかけたのかもしれないし、かけなかったかもしれない。かけなかったとすると、ぼくは傘を持ってその少女をじっと眺めていたのだろう。どちらにしてもその動機は、大量の雨を受けて冷えきっているであろうその体を心配したか、その矮躯に張りついたびしょびしょのカッターシャツが下着と肌を透かしていたことに凡庸な珍しさを感じたか、のはずだ。

 しばらくぼくのことを無視した彼女は、ぼくが退かないのを見て、こんな台詞を吐いた。

「近づかないでくださいよ。ぁたしは隠れてるんですから。それに……ぁたしはごみなんですから、ここにいるのがちょうどいいんです。」

 ぼくは、その言葉を聞いてすぐ、この子は「ワ」の発音が苦手なのだろうとピンと来た。そして、それ以外は特に何も思わなかった。

「……何があったのか知らないけど、こんなところで寝ていたら風邪をひくよ。」

 ぼくは、確かそんなようなことを言ったと思う。そのときの個人的感想として、その返答に、彼女は何とも気を起こさなかったように見えた。強いて言うなら、それは彼女にとって失望に足る社交辞令だったけれど、もうとっくに育ちきってしまった諦念が、元はあるはずだった失望感すらも奪い去ってしまった。そんなふうには、見えた。

 しばらくして、彼女は何かの腹積もりを決めたらしく、ひとりごとのようにこう零した。

「……金が、ないんです。」

 その言葉を聞いて、ようやくぼくは、彼女を適当なホテルに案内した。



 たまたま仕事で泊を取っているところだったからそこに泊まるといい、というぼくの嘘は、受付で部屋を取るのに手こずっている様子を見てすぐ見破られたようだった。ホテルなんて使うのは、正直、人生初のことだったので、勝手が全然わからなかった。脇で見ていた様子からすると、こういう世界に関してはどうやら彼女の方が詳しそうだった。

 ぼくは彼女を部屋に案内してすぐ、彼女が着替えるための服を買いに出た。ちなみによく見ると彼女は制服だったので、これがバレるとぼくの人生は社会的に終了するだろう。まぁ、体格から未成年なことはわかっていたけれど。中学生のような体つきだったし。

 というか、たぶん本当に中学生なのだろう。だから、さっきのホテルの受付が警察に通報したらぼくは本当に終わってしまうなぁ、なんて考えながら適当な服を購入して店を出た。

 戻ってそれを渡すと、彼女は「ありがとうございます」とちゃんと礼を言って、部屋の端で着替え始めた。こちらは適当な他所へ目を逸らす。

 ぼくは全然知らないのだけど、たぶん、ここはそういうホテルなのだろう。女性が着替えるために身を隠すスペースがどこにも見当たらなかった。これはぼくにとって本当に衝撃的だったのだが、トイレやシャワールームもガラス張りというわけのわからない設計だった。倫理観が欠如した刑務所みたいだと思いながら、彼女が着替えている間、ぼくは対角の隅っこで目を瞑った。

「……終ぁりました。」

 その声が聞こえ振り向いたところで、ぼくは自分が下着を購入し忘れたことに気づいた。というのも、どうやらぼくはサイズのあてを違えていたようで、少女は、普通のシャツを着ているのに、自らの肩までを露出させてしまっていたのだ。大胆にさらけ出されたその肌は、紐も、何も纏っていない。シャツのブルーと病的なまでに白い肌は、美術作品のようなコントラストが効いていた。

 ぼくはそのシャツともうひとつ、適当なスカートを買ってきたのだけど、それはどうやらお気に召さなかったようで、ずぶ濡れになった制服と下着類と一緒に床に落ちていた。シャツのサイズが相対的に大きかったので、特段それですぐ世界観がアダルティになるといったことはなかった。状況だけ見れば、ぼくの前には下着を未着用の女子中学生らしき人が居はするのだけど、べつにどうでも、と思った。

 彼女は、「ねぇ」と声をかけると、突然、ぼくに抱きついてきた。

「……………………。」

 ぼくの胸と腹の間くらいに、彼女の頭が触れた。それでも、雨に濡れているせいで人間生物の体温が伝わってくることはなくて、保冷剤が入ったリュックサックを前に背負っているような気分になる。

 初対面の男性であるぼくのことを、強く強く抱き締めながら、

「……セックス、しないんですか?」

 と彼女が言うので、

「どっちでもいいよ。」

 と僕は答えた。

 しばらく抱きつかれたままの時間が流れ、やがてばつが悪くなったのか、彼女はぼくから離れた。そこそこ長い間そうしていたので、ぼくは、欠伸を殺すのに少し苦労した。

 聞けば、住所を教えてくれるかもしれない。探せば、所属を示すものが見つかるかもしれない。それで、無理やりにでもそこに返してあげれば、ぼくはこの面倒ごとからは解放されることだろう。

 それでも、ぼくは、そうする気が起きなかった。

 ただ漫然と何もしないでいることで、彼女にとっての加害者にならないよう努めていた。

「……お話、しますか。」

「どっちでも構わないよ。」

「じゃあ、してください……。」

 と言うので、ぼくは彼女の話に付き合ってあげることにした。

 彼女は、こう言った。

 人を、殺してみたいんです。


「人を、自分のしゃあざで死なせてみたときに、自分の内に立ちあらぁれる情動について、興味があります。殺すのでも、追い詰めるのでも、何ならほんとうに死なないのでもいいのです。ただ、その人が不能になってくだされば、それだけでぁたしは構いません。とにかく、自分のまぁりで人が死んだふうになったとして、あるいは死んだとして、それが完全に自分のせいであるとき、ぁたしはどうなってしまうのか、それを考えると、ぞくぞくして仕方のないんです。でも、ぁたしのまぁりの人が死んだら、ぁたしは悲しいです。悲しくて、もののしように困ります。それで、その悲しさと殺害欲求とを天秤にかけたとき、ぁたしは、悲しさの方が勝つようにできているんです。おかげで、ぁたしは、ぎりぎりで人間の体を保ってるんでしょう。でも、もし、その悲しさすらも殺害欲求のうちに取り込んでしまったら、つまり、自分のせいで人が死んだことに悲しんでいる自分に酔ってしまえるぁたしになったら、そのときはいよいよ、ぁたし、人間でなくなってしまうのでしょうね。」


 今までずっと誰かに言う想像をしてきて、けれど今までずっと誰にも言えなかったことを発するような調子で、彼女はほとんど息を吸わず、そう言い切った。

 ぼくは、その独白に対して何もコメントしなかった。彼女自身、ただ、話を聞いてもらいたいだけに見えた。だから、実を言うとその言葉に感じたことがなかったわけではないのだけども、それでもぼくは、ただその目を見つめるに留めた。

 彼女はそして新たにこう切り出した。

 ─ぁたしのなかには、天使と悪魔が、いるんです。

「天使は、ぁたしのことを叱ります。ぁたしのことを、そんなことしちゃだめだよって、時に優しく、時に厳しく叱ります。声がするんです。それで、悪魔は、ぁたしのことを誘惑します。自分を隠してなんかいないで、ありのままをさらけ出してしまえばいいって言います。でも、そうするとぁたしは嫌ぁれてしまうんです。嫌ぁれて、さびしくなってしまいます。だからぁたしは、いつも天使の方に従います。」

「……そっか。それは、すごいことをしているね。」

 ぼくのように悪魔の方に流れてばかりの人間からしてみれば、それは素直にすごいことのように思えた。

 いや、それは嘘だけど。

 ぼくの中では誰の声もしていない。

 それが普通だ。

「……でも、ぁたしは時々、ほんとうは天使の方が悪なんじゃないかって思うことがあるんです。」

「へぇ。そりゃまたどうして。」

「だって、そもそも誰の心の中にも天使がいなかったら、それでいいじゃないですか。倫理なんてものがなければ、ぁたしたちはそれで楽しく生きられたはずなんです。道徳なんてものがあるから、ぁたしたちはこんなに生きにくいんだと、思ってしまうんです。」

「……法がなければ罪も罰もない、みたいな話かな。」

「そういうことです。」

「ふぅん……。」

 それは少し面白い意見だな、とぼくは思った。

 けれど、やはり詭弁だ。

 なぜなら。きっと、倫理がなければ。道徳がなければ。ぼくたちは、生きていくことすら適わなかっただろうから。ぼくも、そしてこの娘も、たぶん─道徳や倫理がなければ、淘汰されていくだけの少数サイドの人間だ。

 それに……。

「でも、倫理や道徳を破ることにしか悦びを感じられない人間は、じゃあ死んじまうよ。」

 ぼくがそう言うと、彼女は一瞬だけ目の色を変えた。

「……あなた、そうなんですか?」

「何もそうは言ってないでしょ。ただの仮定の話さ。ぼくはべつに、倫理や道徳を破ること以外でも悦びを感じられる。」

「その口ぶりだと、倫理や道徳を破ることこそがあなたにとって最上の幸福行為であるように聞こえてしまいますね。」

 おぉ。難しい言葉を使う。

「どうとでもとってよ。ただ、本当にぼくがそんなデンジャラスな人間だったなら、きみをこんなところに匿ったりはしないということはもう少し考慮してくれてもいいんだよ。」

「女子中学生をホテルに連れ込むという行為は、十分にデンジャラスで反社会的な行いだと思ぁれますけど。」

「そこは触れないでよ。ぼくだってこれで結構焦ってるんだぜ。道徳的に正しいと思った行為が同時に滅茶苦茶反倫理的で、これでぼくの人生終わっちゃったら、われながらあまりに浮かばれないなぁとね。」

「─終ぁっても、いいんだ。」

 と。

 冗長な会話を打ち切るように、彼女は唐突に、気色を変え、責めるような冷たい蠱惑の声でぼくに喋りかけた。

「終ぁってもいいんだ。だからそんな、退屈そうなんだ。」

「…………。」

 無言になってしまう。

 この娘は……とても不思議だ。

 なぜ、ぼくの内心にここまで踏み込める?

 あんなに……。豪雨の都会でゴミ袋と同化して心を閉ざしたり、初対面の男性に自分から性交渉を持ちかけないと安心できないくらい、弱いのに。

「あなたは何やら、とてもよぁいみたいですね。そして、そのよぁさを隠せる程度には、強いようで。でも、しようないですよ。ぁたしにはぁかりますから。ぁたしも同じよぁさを持っているから、理解します。あなたの内に渦巻く感情の、その正体を。」

 同じ、弱さ?

 この娘と同じ弱さを、ぼくが持っている?

 いやいや。

「それは違うんじゃない? ぼくときみの弱さは、全く異なるものだろ。」

「そうですかね。」

「うん。まったく違う。」

 ぼくの言葉を聞いて、彼女はやはり一瞬、しかし今度はかなり露骨に表情を崩した。張り付いた岩盤のような無骨さが、一瞬ではあるが、取り払われた。

 それだけでいい。

 その隙で、十分すぎるほど十分だ。

「たとえばぼくは無神論者だ。」

 すかさずぼくは、彼女が恐らく最も触れられたくなかったであろう彼女の内心に触れた。

「……えっ?」

 彼女が狼狽える。もう十分だろうか。仮面を取り外した焦燥ではなく、それは仮面が壊れたことによる露呈だった。

「ぼくは、間違っても、この世に神がいるとは─思わない。思わないんだよ。でも……きみは一瞬だろうと数瞬だろうと、とにかく、思ってしまったんだろう? この世に神様がいて、自分はいつか救われるんだとさ。」

 彼女は急に頭を抱え、苦悶の表情を浮かべ、ぼくから一歩ずつ摺り下がった。

 ─ゼラニウム信仰会。

 何だかロマンチックに幼気な感じだが、近頃東京を中心に急速に広がっている新興宗教の名前だ。

 表向きは健全な宗教団体だが、去ろうとする者や教義に逆らう行為や思想を絶対に許さず、徹底的に拷問にかけて嬲りの限りを尽くすという、とびっきりカルト系のやつ。

「な、な、なんでぁかったんですか……。」

「手口。」

 ぼくは端的にそう答えた。

「ゼラニウム信仰会は、ぼろぼろに弱りきった姿を見せつけて同情を誘うことで、相手を自分の懐に誘い込む……って手段を用いるんだろ。もちろんきみが本当は弱っていなくて全部演技だったなんて、これっぽっちも思わないけれど─でも、きみは普段自分の弱みを他人に見せたりなんて絶対にしないタイプのはずだ。仔細は後述するけれど、とにかく『人を誘い込みたかった』きみが、信仰会の手口を転用することは十分ありえる話だよ。」

「……まさか、全部、もう?」

「うん。一からきみの目的と行動の意味を解説してあげたっていい。」

 ぼくはそう前置きをする。

 ゴミ捨て場でもたれこんでいたのは、信仰会の追手から身を隠すため。「隠れてるんですから」というのは、まんまの意味だ。つまり彼女は何かの違反行為によって信仰会に追われている身で、この先の人生を安全に生きていける保証はない。

 最初ぼくを突っ撥ねるつもりだったのは、まぁ本心だろう。けれど、あれは選別行為だったとも言える。

 彼女にしてみれば、彼女の目的なんてべつに条件が揃わなければやらなくたっていいものなのだ。だから、ぼくが彼女の目的にとって相応しい人物─初対面の弱った少女を匿ってやるような道徳的な人間、かどうか、判別する必要があった。

 次に、初めに性行為を持ちかけてきたのは彼女なりの元々の処世術でもあるのだろうが、体の傷を見せることも目的のひとつだったはず。それを見せて同情を買った方が、ぼくは油断するからだ。結局は見ていないから、家でのものか学校のものかその両方なのかは、何ともわからないけれど……。

 ただ、ゴミ捨て場で初めて会った時。いくら深夜とはいえ、身を隠すのに仰向けという姿勢で寝ることはありえない。実際、通りすがっただけのぼくにさえ、街灯の明かりで顔がよく見えた。そうしたのは、たぶん、お腹を怪我していてそれをかばいたかったから。

 ちなみに信仰会の拷問は爪を剥がしたり鼻に柑橘系の汁を入れたりというタイプのやつだから、あくまで憶測だけれど、彼女は信仰会に入る前から既に不幸だったのだろう。虐めにしろDVにしろ、とにかく虐待されていたのだろう。むしろ、だからこそ信仰会に入ったのだとも言え……

「やめてっ‼」

 彼女の近くにあった机上の淡いオレンジ色のライトが、彼女の手によって叩き割られる。彼女の手はまず赤く染まり、また光が破壊されたことによって、赤黒く闇に瞬いた。

「ぁたしを暴くなっ‼ お前なんて、どうせ、ぁたしと同じの、天使が大嫌いな愚図愚図のくせに……っ!」

「きみの目的は、最初からぼくを殺すことだろう?」

 驚き狼狽える様子もなく、少女は半狂乱のままで見開きの殺意を看破される。

 いつの間にか手にはナイフが握られていた。

 ……うーん、やっぱり持ち物検査とかしといた方がよかったのかな。

「ぁたしは……ぁたしは、ぁるくない! いや、ぁるい……ぁるいぁるいぁるいっ‼ ぁたしは、ルールに従うのが嫌いだ、天使に従うのが嫌いだ、エクスタシに従うのが好きだ、悪魔に従うのが好きだ、だから、よくない場所に自分から所属した! でも違う、よくない場所の中でも、ルールがある。社会的に悪であるがその集団の中では善とされることをしたって意味がないんだよっ。だってそれは結局、ルールに従っているだけなんだから。ぁたしは、たくさんの人を責めて、たくさんの人を嵌めた! でもそれじゃ満たされなかった! けっきょくぁたしは、相対的に悪であることでしか、生きられなかった……。天使を憎むことでしか、自分の生を実感できなかったんだ!」

「うんうん。」

 ぼくを見初めた時から、この娘は、ぼくを殺すことばかりを考えていた。

 自分の仕業で人を死なせた時の情動─なんて言っていたけれど、何のことはない。直接、自分で懐柔して自分で殺害すれば、罪悪感や背徳感は余程感じられることだろう。

 余るほど。

 ぼくは煙草でも吸いたい気分になった。

「……ぼくはさっき、きみとぼくは違うと言ったけど。正確に言うとね、ぼくはもう通り越したんだ。きみのその、人間的に邪悪な性質を人より少しだけ多めに持って生まれてきたというくだらない自己陶酔をね。」

「く、くだらない……?」

「うん。すごく、くだらない。」

 もう飽きてしまったので、終わらせにかかる。

 この少女の視る小さな物語を、崩壊させにかかる。

「さ。当初の予定通りこのぼくを殺してみなよ。でも、そうしたって何も起こらないよ。天使も消えないし、悪魔も強くならない。天使も強くならないし、悪魔も消えない。きみの世界は─何も変わらない。きみの世界のまま変わることはないし、それはきみが内心見下している他のふつうの人の世界ともさしたる差異はない。」

 少女は、ナイフを持ったまま震えていた。

「きみの人生は、初対面の男を一人殺した程度で取り返しがつかなくなんてならないんだよ。吹っ切れもしないし、今までより自分を縛る鎖が多くなるだけさ。死刑になっても、自殺をしても、きみはきみのまま変わることはない。きみの魂はいつまで経っても後戻りはできるし、どこかに閉じ込められたりなんかもしない。そんなわけで安心しなよ。きみは一生、本物になんてなれやしない─。」

「うるさあぁあぁぁあぁぁぁいっ‼」

 少女は絶叫して、さっき自分で割ったライトを破片ごと床に滑らせ落とした。机から床まではそこそこの高度があったので、フリー素材の効果音みたいにキラキラした音が鳴った。

「何だ、お前はいったい何なんですか? どうして、ぁたしに対峙してそんなに余裕なんだ! ぁたしは元々狂っていて、疎まれてて、人としてどうかしちゃってるのに……それに刃物持ってんだよ⁉ おかしいよ、お前、お前人間じゃないです……。お前の正体は、本当に……ほんとうになんなんですか?」

「ぼくの正体? 身分証明になるものなら、たまたま持ち合わせているよ。」

 そう言って、ぼくはポケットから「身分証明になるもの」を取り出した。こんな大事なものをポケットに入れておくのはあまりに不用心だけれど、これが落ち着くんだから仕方ない。

 さて。

 ぼくの正体、ね。


「警察官。きみの大嫌いな天使だ。」


 身分証明になるもの。

 警察手帳を突きつけると、少女の眼は、据わった。

「ぁ、あ、ぅあ……。」

 自分と同じだと信じていたものに、突き放される恐怖。失望。そして情動。

 さぁ、やってみろ。

 その絶望で、勢いぼくを殺してみろ。

 そうするしかもう……きみに、自分を変えることはできないんだよ。

 ぼくが、そうできなかったように。

 どんなに醜くても、自分らしく生きられなかったように。飽くまで倫理的に丸く生きてしまったように。

「う、うぁああぁあああぁああぁぁっ‼」

 少女はぼくの方に駆け出し。

 途中で転び。

 ナイフを落とした。落としたナイフは、ぼくの靴のもとへクルクル滑ってその後静止した。

「うぁ、ぁ、ぁ……。」

 ぼくはナイフを拾い、警察手帳と一緒にポケットに入れた。そもそも軽いナイフだ……。こんなのじゃ、ちゃんとした技術が身についていない限り人を殺すなんて無理だろう。

 少女は泣きながら、初めに会ったときのクールな表情をぐちゃぐちゃに破滅させ、地団駄を踏んでいた。うぇ、ぁ、とかそういう声にならない声をあげながら。

 ……本当に不思議な子だ。

 ぼくより不幸で、ぼくより壊れているのに。

 ぼくより弱くて、ぼくに負けてしまうのか。

「……通報するよ。ぼくへの殺人未遂は黙っておくから安心して。身元を確認して、補導とかするだけだから。」

 ラブホテルだから、部屋の中に監視カメラがついている可能性は万に一つもないだろう。いや、法律で禁止されているので普通のホテルにだってないはずなのだけど、一応選ぶときに万全は期しておいた。思えば、やむなく戦闘になってしまった際に隠れる場所がないのも好都合だったな。結局少女の自滅ですぐ終わったので、その好条件が役立つこともべつになかったけど。

「いや、や、やめて……。」

 ひゃくとーばん。

 ピ。



 あれから三年。

 少女はあのあと、母親による家庭内暴力が発覚して、児童養護施設に入れられることになった。

 さらなる被害に襲われないようできるだけ身元を隠した上で遠くの地域の中学校に転校したのだが、それが信仰会から逃れる効果も偶然果たしたらしく。少女の抱えた事情のほとんどを知らないまま、警察は少女を完璧に保護することができた。

 まぁ、ゼラニウム信仰会の執念とか調査網とかはすさまじいので、遠くに逃げたところでいずれは捕らえられて拷問にかけられるはずだったのだけど……そこは心配ご無用で。あれから一年以内に、ゼラニウム信仰会は警察の手によって完全に壊滅したのでした。盛者必衰、南無南無。この場合はむしろ、でかくなりすぎて尻尾が掴みやすくなったのだと解釈すべきだろう。

 なお、ぼくが女子中学生とラブホテルに滞在していた件については、いくつかの嘘を交えて弁明した結果、それなりに軽い処分に抑えることができた。いやーよかったよかった。警察官の職を追われると、奥さんを養うのも難しくなってくるからなぁ。

 うん。


 それだけだ。

 ぼくは少女があの後どうなったのかは知らない─あのときのことについてだって、思い出すたび煙がかかって、記憶もおぼろげになっていく。たぶん、あの少女のことを思い出すことは、人生においてもう数度もないだろう。

 それでも、少しの中身もなかったあの事件に、ぼくがささやかなコメントを捧ぐとすれば。

「まぁそんなもの」……というところだ。

 そんなものだよ。

 天使とか悪魔とか……心底くだらない。

 世界は何も変わらない。変わったように見えたって、それは世界を見る目が変わっただけだ。つまり、自分が世界をどう見るかによって世界は美しくも醜くもなるわけだけど……なんてまぁ、そうもポエミーになるつもりもない。

 ただ、そんなものという事実だけがある。

 ……でも。

 たとえば子どもの頃のぼくには、世界はどんなふうに見えていたのだろう? そんな問題提起が、あのときからたまに、ぼくの脳内でふっと湧いては消えてを繰り返している。

 やっぱり、あの娘と同じだったのだろうか。

 それとも、全然違う様相だったろうか。

 ……まぁ、考えても仕方のないことだ。そんなロマンチシズムに思いを馳せていられるほど、ぼくも実は暇じゃない。今だって、通報を聞いて現場に辿り着いたところなのだ。夏場の快晴、ほぼ正午─あの雨の日とは真逆とまで言っていい、陽気で爽やかな日和だった。

 通報した人はひどく嗄れた声で、年代や性別の推定は難しかったらしい。電話を受けた警官によると、女性の可能性が高いが男性でも不思議はない、とのこと。

 ただ、某アパートの一〇六号室に今すぐ来てくれとの内容だったので、ぼくとしても何らかの緊急性を感じてこうしてやって来たわけである。無駄なことを考えてこそいたけれど、パトカーの速度はちゃんと出していた。

 で、ぼくともう二人。調査に来た警官たちは、いま、一〇六号室の前に立っていた。

 まずインターホンを何度か押したが、返事がない。

 ノックをしてみたが、これも返事がなかった。


 ドアノブをひねると、開いていた。


「……すみません、鈴羽さんはいらっしゃいますかー?」

 緊張感のない部下の声。

 対比的に際立つ、不気味な緊迫感。

 何だろう、この感覚は。閉塞的でそれでいて、どこか大人しく、ともすれば日常的ですらあるような不快感が、ぼくたちに、ぼくに、迫ってきていた。

 嫌な予感─。

「鈴羽さん? 鈴羽さーん。警察です。通報を受けて参りましたが……あっ、先輩!」

 慎重にドアの隙間から呼びかけている部下を無視して、ぼくは一人で部屋の中に入った。

「ち、ちょっと! 許可証もないのに一般市民の家に勝手に入ったらだめです、って……。」

 中の様子を見て。

 ぼくたち全員が沈黙した。

 ワンルーム、なびくカーテン。

 床に落ちて割れて崩壊した家具の配置。

 場違いなほど白白と光る電灯。

 その下で。


 腹に刺さったナイフによって、少女がひとり死んでいた。

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