第15話

 かなたは夢を見た。

 沙代が泣いていた。両手に顔埋め、苦しそうにうめいて、彼女の足下には小唄の死骸がわき腹を下にして横たわっていた。蠅がたかった彼の死骸は異様に白い肌をしていた。その死骸の眼球は見開かれ、乾いてしわになっていた。しかしその眼球は確かにこちらをじっと見つめているのだった。

「ごめんなさい」

 罪の気持ちに耐えきれなくなってかなたは頭を下げた。

 すると、沙代は両手をおろし、じいとかなたを睨みつけた。そして言った。

「どうせ大して悪びれてもいないんでしょう」

「そんなことない私、死んでしまおうとも考えたんだから」かなたはむきになって言った。

「じゃあ死ぬ気なの?」

「そうよ」

「いつ死ぬの? 本当だよね? 嘘じゃないよね?」

「明日死ぬわ」

「本当?」

「ええ」

「どうせ嘘でしょ。あんたはうそつきなんだから」

「本当よ。嘘なんかじゃないわ」

「嘘。あんたさ、小唄を見てちっとも悲しまないじゃない。謝るだけで心で焦るだけで悲しんでない。死ぬとか逃げる口実だよ。悲しい気持ちを見せてよ。小唄にキスしなさいよ」

 そのとき小唄の死骸はぬっと身を起こすと、ゾンビのようにふらふらしながら、立ち上がり、手を伸ばしながらかなたに近づいてきた。彼の見開かれた目から腐った片方の眼球がぽろりと地面に落っこちた。それを小唄はけ飛ばし、眼球はかなたのつま先の先へ転がった。かなたは青ざめ、ぶるぶると震え、恐怖に頭が真っ白になった。そして、小唄の手がかなたの首に掛かると、氷のように冷たい唇がかなたの唇に押しつけられた。

 目が覚めた。

 かなたは机にうつ伏せて寝ていたようで、なにやら服の袖が濡れていた。みると、カップにそそいだ飲みかけのお茶をこぼしていた。ノートや参考書や本に液体がしみていた。

 雀の鳴き声が聞こえる。窓を見ると燦々と照る朝の明かりが射していた。

 気分が優れない。かなたはティッシュで濡れたところを拭きながら、重たい物を背負っている心地がした。

 夢で言った、明日死ぬということばが、脅迫的にかなたの脳を刺激した。

「生きて居ちゃいけないのに、生きていてごめんなさい」

 ひどく弱気な心地になっていた。涙がこみ上げてくると、哀れな自分を思い、胸が痛んだ。自分が可哀想だと考えるのは、ナルシストぽくて嫌だけれど。

 着替えをして、ベッドの中にもぐりこみ、かなたは布団を鼻のあたりまで引き上げると、天井を睨みつけ、悶々と考えた。

「死ぬわ……死ぬわ……本当に死んでやるんだわ」

 それが私の、彼の死への代償よ。反省の印よ。

 激しい苛立ちがかなたの頭をかっかと熱くさせていた。死ぬと決めてもどう死ぬかは考えていない。いつ死ぬかも考えていない、いい加減な自分に腹が立つ。死の恐怖を目の前に引きつけるよりも、自分に腹を立てているほうが良かった。時々横道にそれるように、自分にいいわけをする。そうして、死を遠ざける。かと思うと、おそるおそる触れるように死に近づく。彼女は永遠と死ぬという夢想を追うことで、懺悔していたのである。そして、なぜだか父のことを考えた。お母さんも死んで、お兄ちゃんも、お姉ちゃんも死んで、最後に私が死んだら、お父さんは一人きりだ。父はどうやって生きていくだろう。おいて行かれたと思って、父が後追い自殺をするのではないか、そんな気がして、可哀想で胸がはらはらと痛んだ。

 いつの間にやら眠っていた。いろいろつぎはぎな夢を見た気がするが、目覚めてみると、なんの夢を見たのか思い出せない。午後の淡い陽が窓を照らしている。部屋いっぱいが薄黄色に染まっている。時計を見ると、午後三時である。空腹の腹がぐうと鳴る。どうしてお腹が減るんだか。生きているからだ。そんな無駄に生きている自分が煩わしい。ふと、小唄が自分の隣に立って、こっちを見ている気がした。小唄が見張っているから、自分は意識して、反省の姿勢を続けなくてはいけない。酷く暗くじめじめした気持ちだ。

 明日死ぬ。

 でも、どうやって死ぬというのだろう。

 心持ち死をはねつけている自分を心の隅に認める。

 そうすると、首筋あたりに自分を睨みつける小唄の視線を感じる。

「何でよ。私が悪いの?」

 それは本当に私が悪いの?

 旭みたいに自分で手をかけて殺したのではないのに。

 自殺するほどに弱い心をもった人に出会ってしまったのが運の尽きなのだ。

 かなたは猛烈に腹が立った。自分を否定するすべての人の口を黙らせたい。刃物を持って、学校に行き、かなたを悪く思っている人全てを刺して傷つけたい。沙代を殺してやったら、自分はどんなにすっきりすることだろう。学校のみんなに復讐をしたい。彼らの私を見る目が嫌い。

 そんな暗い妄想はかなたの気持ちをいくらか慰めた。

 私の死を願っている奴らを殺せば、もう私に死ねという人はいなくなるので、私は死ななくてすむ。

 ああ、でも、何人も殺してしまったなら、私は死刑になるのだわ。

 法律で殺されるか、自分で死ぬかなのだ。しかしそのどちらも嫌だった。自分に人を殺せる気がしない。刃物を持つ手はきっと震えることだろう。人を刺すなんて、恐ろしくてできない。

 それゆえに、旭が姉を刺したことが、怖々と思い出される。旭は自分とは違うのだ。人間の心じゃないのだ。病気に弱ってかなたに優しく微笑みかけてきた彼が、そんなことをするとは思えないが、したのだ。彼の心には切れた部分があるのだ。つるりとした手触り良い優しさがあるのではなく、どこかがさがさして毛羽立っているのだ。彼は心に気にくわないと暴力的になるのだ。そんな恐ろしい人間が、自分のすぐ側にいるのが、嫌だと思った。

 熱い紅茶とクッキーを食べながら、かなたはぼんやりキッチンの椅子に腰掛けていた。父はパチンコに行っていない。今は一人で家にいる。息を殺して静かにして耳をすますと、外から小鳥の鳴き声が聞こえる。そして、どこかの工事のがたがたいう音が聞こえる。

 まるで時間がとまっているみたいに、ゆったりした時を過ごした。クッキーをかじると甘くて、それが自分の苛立った黒い気持ちを明るくなだめた。かなたはクッキーを紅茶に浸し、ふやけたのを口に入れた。こんなこともやれる。こんな暢気な無駄な行為もできる。そんな自分が、変に誇らしい。死ぬということはもはや考えないようにした。自分にはとてもできやしない。そう思って、なかったことにした。なかったことにするのは卑怯だ、そう思うのに、ずうずうしく尻を落とすのだ。

「鬼と呼んで!」

 かなたは自分のことをこう思った。

「私は悪い人なんだわ、日本中で一番いやらしい性格をしているのだわ!」

 午後五時くらいに父は帰ってきた。紅茶ばかりガブガブ飲みながら、結局かなたはキッチンの椅子に座って父の帰りを迎えた。

「おかえりなさい」

「なんだ、今日も学校は休みか」

「私、もう行かないんだから」

 父はあざけるように笑った。

 どうして真剣に聞いてくれないのかしら。かなたは、むっとした。

「ずっと行かないんだから」

「良い学校に入って良いところに就職して、良いとこの男と結婚してそれで幸せになりたいと思わないのか。学校をでないんじゃ、おまえは小卒だ。そんなバカだれがほしがる。世間は学歴だ」

「私、嫌なんだもの。今嫌なんだもの」

「じゃあ、あいつと結婚して、おまえは妻になり、専業主婦になるんだね」

「あいつって?」

「旭とかいう奴さ」

 かなたは苦い顔をした。一瞬、人殺しの自分と旭はお似合いだと思った。そう思う自分が嫌だった。しかし、そうなったほうが自然で、いいのかもしれない。かなたは自分自身に手錠をして、牢獄に入るような、妙に開け放した気分である。旭のことは大して好きではないのに、結婚すると考えると、気にはなるもので、彼の肌の質感や、瞳の色など思い起こしてみる。そして、そこにさほどの嫌悪を見いださないとみると、今度は彼の性格について考える。姉を殺したほどに残忍である。でもかなたの前では優しそうであった。好きだから姉を殺したと言っていた。ならば、彼の価値観は人とは少し違っていて、愛情と残酷がひどくからまっているのだ。だめなことが良いことなのだ。意図も簡単に残酷を手に下すのだ。其れを彼の悪魔が命じるのではなく良心が命じるのだ。

 よくわからないが、かなたは旭がさほどまでに嫌な奴とは思わなかった。自分に微笑みかけた旭の優しい顔がかなたの脳裏によみがえり、心をくすぐる。

 私みたいなだめ人間はみんなに嫌われて当然なのに、彼だけは私を欲してくれる。それは嬉いことだ。しかし、彼は、思いあまって私を殺すかもしれないのだ。もう彼は一度手を下している。そんな人に好かれて私は本当に良いのかしら。彼だけだわ。私に光をくれるのは。良いわ。良いんだわ。どうせ私は死んだ方がいいんだから。みんなから嫌われて、苦悩のうちに自殺するよりも、好かれて、愛された後に殺された方が幸せなんじゃないかな。しかし、この二つの道をどちらか選ばなくてはならないと思うと、ずんと心が重く沈んだ。死しかないのか。もはや生はないのか。

 夕食をとると、かなたは二階の自分の部屋に向かった。窓の外は夜の闇である。カーテンを閉めながら、かなたは今日も学校へ行かなかったことに若干の苦痛を感じた。

「いいわ、いいわ。いいのよ、いいのよ。どうせ私が学校に行ったら、クラスのみんなが嫌な顔をするでしょ。私のためじゃないわ。みんなのためよ。行かない方がいいんだわ」

 夢で言った明日死ぬという言葉。しかし、かなたは死ぬ気がしない。裏切るようではあるけれど、死はかなたの側から離れている気がした。いや、自分から遠ざけ、みないようにしているのだ。

 部屋に電気をつけ、かなたは教科書を開いて勉強を始めた。何時間かたったころ、かなたは勉強の手を止めた。無我夢中で勉強していたようだ。

「かなたちゃん」

 外から静かに声がした。旭が帰ってきたのである。窓に顔を出すのはルールである。しかたなく、かなたは窓辺にたった。部屋の光に反射して、窓の外がよく見えないので、手でおおいをして窓にぐっと顔をくっつけるようにし、外をみる。

 上を見上げる旭は窓を開けるように仕草した。かなたがあけると、夜の冷たい空気が部屋に入り、かなたの前髪をさらりとゆらした。

「下に降りてきなよ。いいものがあるんだ」

 勉強ずくでつまらなかったので、何かおもしろいことがあるのかと、かなたは興味をそそられた。

「行くわ」かなたはそういった。

 断ったところでなにも楽しくないと思ったのだ。自分を興奮させるなにかを欲していた。ついでに苦手な旭に会うことで、自分を罰するように。

 庭に降りていくと、二階の窓の明かりが下に当たり、そこに照らされた旭は嬉しそうに顔を輝かせて笑っていた。

「ほら、これ職場でもらってきたんだ。食べるといいよ」

 旭は思いがけなくかなたが怒らず、自分の言うことを聞いて降りてきたので、もう自分たちは仲良くなれたのだと思い、うれしさに声を弾ませて言った。

 かなたは手を差し出す。

 そこに落とされたのは白い卵である。

「たまご?」

「新鮮だよ」

「本当? ありがとう」

 かなたは卵をしげしげと眺めながらふと思いついた。

「この卵は暖めるとひよこが生まれるかしら?」

「生まれないよ。無精卵だ」

「そう」

 少し残念に思い、かなたは視線を落とした。

「また欲しかったら、持ってきてあげるぜ。いくらでも」

 かなたは少し笑ってうなづいた。

 喜んでもらえた。旭は有頂天になり、なんだか楽しい気持ちになった。そして、彼はごく慈愛に満ちたまなざしでかなたを見やった。

 そんな目で見られたかなたは驚いた。他人の愛情が温かく感じられた。彼は殺人鬼よ。危ないのよ。しかし、彼のことは悪そうにみえないのだった。

 かなたは息が詰まった。目頭がかっと熱くなる。

 本当は嫌だったのかもしれない。旭から好かれていることが。殺人鬼とくっついてハッピーエンドになることが、嫌だったのかもしれない。そうなるとなぜか、自分をバカにしている奴らに踏みつけられるようなものである、と思う。自分まで犯罪者のくくりにされるようで嫌だ。しかし、かなたは小唄に対し、責任があるのだ。

 かなたが静かに涙の滴をこぼすと、二階の窓明かりに照らされた彼女を見て、旭はびっくりした。透明な涙がきらきらと瞬いていた。

「どうしたの」

 旭がたずねると、かなたは首を横に振った。

「ううん、何でもない。ただ、感動したんだわ」

「なにに」

「さあ」

「卵に?」

「そうかも」

 重い気持ちだった。かなたはふと、体の奥からわき上がる脅しのような言葉を聞いた気がした。それはこう言っていた。

「おまえはもうこの世のものじゃない、魂はあの世に縛り付けられた。あとは肉体の死のみだ。消えろ、さあ、今すぐ死ぬ準備をし、いざ、死ぬのだ。おまえなどもうこの世にいらないのだから」

 すうと意識が遠くなり、かなたはしゃがみこんだ。心臓がドキドキ早鐘を打ち、目の前が真っ暗になる。旭に話しかけられたのに、その声が曇って遠くの方から聞こえてくる、冷や汗がどっとあふれる。頭をしたにしていると、やがてその発作は収まった。かなたは青い顔をして、自分の肩に手を置いている旭をみた。旭は心配して、不安そうに顔を曇らせている。

「ごめんなさい、ただの貧血よ。少し勉強しすぎたみたい」

「立てるの?」

「少し休んでから……」

 旭はふと、地面に手を伸ばし、なにかを拾った。しげしげと確認するようにそれを回し見ると、そっとかなたの手に握らせた。

「大丈夫、卵は割れてないよ」

 知らずに手元からこぼれ落ちたらしい。意識が遠くなってわからなかった。

「一つ聞いて良い?」かなたは悲しげな目をして言った。

「なんだよ」

「お姉ちゃんを殺したこと、あなたはどう受け止めているの?」

 旭はびくりと肩を揺らして、長い沈黙の後言った。

「それは……間違いだったと思う。挽回したいと思う。俺の一生をかけてつぐなう罪だ。あのころの俺は前が見えていなかった。現在の快楽しか見えていなかった。悪いことを、してはいけないことを、あまりわかっていなかったんだ。若さの罪さ」

「若さの罪?」

「後になって後悔しているんだ」

「私もよ」

「失礼じゃなかったら聞きたいんだけど、それは、かなたちゃんは、なにに後悔しているの?」

「私も人殺しなの。自分から手は下さなかったけれど、死ぬように追いやったの。不本意にね」

 かなたは自分をあざ笑うように笑みを浮かべた。

「人間の心って難しいからね」

「そうかしら、単純だから血迷うのよ。そう思うわ。私は」

 かなたはじっと空を見上げた。鈍い色の雲が月を覆っている。こもった光が雲を縁取る。星がいくらか浮かんで瞬いている。向こうに飛行機のライトが点滅している。

「ねえ、旭さん。私たちって死んだほうが良いと思わない? 長くこの世にとどまっているとみんなに迷惑だとおもうの。人を不快にしてまで存在していいのかしら」

「不快に思う人が居て、いいなりになって死んでも、そいつらを喜ばすだけだ。簡単に死ねとか思うのは人の命を大切にしないやつだ。そういう奴らは人間の顔をした悪魔さ。悪魔は悪いことばかり囁くんだよ。そうじゃない? 悪魔の為に死んで、悪魔を喜ばせて、本当にそんなんでいいのかな。命を大切にしない奴は容赦がないよ。俺ばかりにじゃなく周りの人にとっても同じさ。悪いことを言っている人にうなづいて、バカにされてもうなづいて、俺はそんなお人好しじゃない。俺の正義は、悪いことを囁く奴を信じるなと言っている。自分の人生に責任を持てるのは他人じゃない。自分なんだ。だから自分がしたいようにしたいんだ」

 かなたはなにも言わずに家の中に入っていってしまった。

 夜の寒気にくしゃみをしながら、旭は失言をして、かなたを怒らせたのかと不安になった。彼は苦笑いしながら小屋に入った。

 しばらくすると、かなたが小屋をあけて入ってきた。手にはなにかをのせた皿と水の入ったコップをもっている。

「あの卵焼いたの。食べましょう。私半分食べたわ。一人で食べるのはもったいないから、あなたも食べて」

「そんな、別に一人で食べてもらってもいいんだ。俺はいつも食べているから。でも食べよう」

 旭はすぐに平らげ、楽しげに笑った。彼は自分とかなたが心の奥深くで強く結ばれたように感じた。

 かなたは微かにほほえみ、どこか遠くを見ているようだった。

「どうしたんだ?」

 旭が聞くと、かなたは笑いにごまかした。しかし、すぐに気持ちを変えたようで、真剣な顔で旭の目をじっと見据え、言った。

「他人の言うことが正しいってこともあるんじゃないかしら」

「そりゃあるさ」

「じゃあ……」

「だから俺は思うんだよ。君は死のうと思っているんだろう? 死ぬことを考えていることくらい見ればわかる。それで、優しい、人として優れた人に君は死ねと言われたのか? 言われていないなら君は死ななくとも良い。世の中間違った人ばかりだから、いいなりになるこたない」

「違うの……」

「どう違うの?」

「あのね、私……追いつめられているから自分で逃げ道を探さないといけないと思うの。そうね、私、進んでみたいの。前へよ。そこは理想郷なの。自分にけじめを付けないといけないわ」

「どうやら君は死について考えているとしか思えない。自殺するつもりだろう。やめてくれ。俺は君がいないと生きていけない。本当に死ぬつもりか?」

「ええ」

 かなたは寂しそうに目を伏せた。

「じゃあ、最後に、その、抱かせてくれないか。どうせ君はいなくなるなら、最後に記念に。そしたら俺も後から逝くかもしれない」

 こんな自分本位な勝手な願望を持ちかけ、旭は自分でもいやらしいと思った。しかしながら女として可愛がることで、彼女が幸せを見つけ、自分に依存するようになれば万々歳だと考えた。

かなたは恨めしそうに旭を見つめた。そして、はあと長い溜息をついた。

「あなたって、性犯罪者ね。中学生になんてことをいうの」

「好きなんだ愛しているんだ。君が生きているうちに俺の愛のありったけを注ぎたいんだ。君とひとつになることで、俺は癒されたいんだ」

「汚らわしい人! どうして男の人ってそう性欲ばかり強いのかしら。私の気持ちなど何にも考えていないのよ」

 かなたは泣きそうに顔をゆがめ、震える唇を強く噛んだ。青白い顔をして彼女は少し考え込んだ。そして新しい言葉が浮かんだようで口を開いた。

「私は体に触られたくないの、他人のいやらしくて生ぬるい手であちこち触られると考えるとおぞましいわ。人間に体を壊されるよりも無機質なものに体を壊される方が良いの。でも考えたわ。私、嫌な人間だとばかり思われて死んでいくのは嫌だわ。それで、あなただけでも私の心が純粋だと知ってもらえたらいいと思うの。私男の人のなぶり物になるわ。無抵抗の牙のない赤ちゃんだって証明するの。さあ、私を抱いて」

 かなたはワンピースをするりと脱いで、下着一枚になった。あばらがみえて痩せてへこんだ腹の真ん中にでべそがぷくりと顔を出している。

 かなたの心は怯えきってぶるぶると震えていた。耐えきれず、かなたは涙をぽろぽろとこぼした。

 そんな彼女をみて、旭は、自分は紳士な振る舞いをすべきだと考えたものの、性欲にはあがらえきれなかった。彼は男の乱暴な欲望のままにかなたをきつく抱きしめた。そして、かなたの背に伸ばした手をおろし、彼女の小さく丸い尻を鷲掴んだ。恐ろしさにかなたは身を堅くした。

「いやよ!」

「死にたいんだろう。死にたいのに死ぬのは嫌なんだろう。だったら俺に任せてくれ。体が汚れたら未練なんてなくなるさ」

「いやよ、いやよ!」

 かなたは暴れて、もがいて、旭の頬をひっかいた。

「痛っ」

 旭が突き飛ばすと、かなたは地面に倒れた。

 彼女から怯えたような黒い目で見られると、旭はたじろいだ。そんなに責めるようなきつい目で見るのなら、もういっそ止めよう、そう思った。

 旭はかなたの脱ぎ捨てた服を彼女に投げてやった。頭からそれに覆われても、かなたはまだ怯えていて、見開いた目で、旭をじっと見ていた。

 やりきれなくて、旭は腹が立った。かなたにいらぬ恐怖を与えた自分に一番腹が立った。旭は泣きたいような気持ちになった。

 彼は寝袋の中に入ると目を閉じた。しばらくすると布のこすれる音がした。かなたが服を着ているのだ。

「あなたは殺人鬼だから私の心を殺してくれると思ったの。私の方で生に未練があると失敗するんだからだめだわ。でも私やっぱり死にたいの。毎日自分の存在理由を証明するのに疲れちゃった。怖いことも辛いことも全て投げ捨てるのも悪くないわ。そうね、怖いわ。怖いけれど我慢するわ。あなたを利用しようとしたこと、ごめんなさい」

 そんなことを一人でぶつぶつ言っている。

 死ぬのはやめておけ。

 そういおうと思ったが、なんだか旭は、ずっと死の話題が続いていることでふてくされた嫌気がさした。それでそんなことを言うのは止めた。自分まで死の話題をして、一緒にしんみりと暗くなるのはかなたにとって良くない。そう思った。

 かなたは静かに小屋を出ていった。その忍んでいるような静かさが、旭は気になった。あ、これは死ぬな。直感的にそう思った。旭はがばりと起きて、急いで小屋を出た。かなたは居間の窓から家に入って、窓を閉めようとしていたところだった。

「君が消えたら俺はどうしろというんだ」

 かなたは微かに笑い、甘えるような声で言った。

「じゃあ、一緒に死ぬ?」

「いいかげんにしろ。死ぬことばかりに気持ちを追いやって、普通じゃない。異常者だ。死んだってなんにもならないんだ」

「生きていたって何にもならないわ」

「じゃあ、俺と結婚してくれ。ぜったい幸せにするから」

「あなたと結婚して私が幸せになるとでも思っているの? あなたはお姉ちゃんを殺した。その罪滅ぼしをしたくてうずうずしているのよ。私と結婚したら自分の罪が償えるとでも思っているのよ。自分が気持ちよくなれるからそんなことが言えるのだわ」

 突如として旭の胸に震えるほどの怒りがわき起こった。自分の善意を否定されたことで、自分の哀れな汚らしい性格があらわれた。自分は酷い男だ、嫌な男だ。そう思われている。そのことが恥ずかしくていたたまれない。そんな旭の性格を暴いたような気になっているかなたに暴力的な憎しみが芽生えた。

「ちがう。俺は、そんなんじゃないんだ」

「ねえ、止しましょう。もういいの。言い合いは疲れるわ」

 かなたは目を殆ど閉じて悲しみの微笑を浮かべた。その姿が変に儚くて、旭は胸がきゅうと締め付けられるのを感じた。


 かなたは、そうだ、死ぬつもりだ。自分で死のことを口に出すと、それは約束された物になり、絶対に実行しなくてはならないように感じた。嫌だけど、死を呼び寄せておいて、断るなんて卑怯だ。

 布団に入って少し眠った。起きると午前十時くらいだった。父は相変わらずパチンコに行ったようで、旭も仕事に行ったのであろう。家の中は静かだった。朝食に食パンを一枚食べて、かなたは家をでた。眩いばかりに晴れた日で、かなたの白いシャツは太陽の光を反射し、輝くようだった。まるで天使の訪れるときの眩しさである。




 数日後、近くのダムで、かなたの遺体が発見された。静かに亡きむせぶかなたの父親の背中を見て、旭は頭の中が空っぽになったような心地がした。石がひとつぶ頭の中に入って、からころ鳴るようだ。

 これで俺の生きる理由がなくなった。

 旭は青い顔をして小屋の中に引きこもっていたが、やがて一人出た。彼はかなたの飛んだダムに向かった。死ぬときどんなに痛かったろう。

 その場についたときである。ひらひらと、旭は無数の蛾をみた。それで、ふと、なおのことを思い出した。

「俺を呼んでいるのかい? 俺も向こう側に行けと?」

 くるくると彼は回りながら押されるように歩いた。そして立ち止まった。下を見ると、地面が遠い。

 かなたにもできたのだから、俺にもできるはずだ。

「かなたちゃん、ごめんよ」

 旭は全ての罪を背負ったような重みに耐えかね、全てを投げ出すように高いところから飛び降りた。そして、風の抵抗を全身に浴びながら、四肢を伸ばし、どーんと地面にぶつかった。彼はしばらく生きていた。全身の痛みに息することもままならない。血だまりが広がっていくのを彼は眺めていた。

 薄れる意識の中、彼は、なおなのか、かなたなのかわからない少女の声を聞いた。彼女はそっと旭の頬にキスした。

 事切れた旭の頬には一羽の蛾がとまっていた。その蛾もやがてそこを離れ、別のところへ飛んでいってしまった。




 ――完――

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蛾の舞うところ 宝飯霞 @hoikasumi

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