第14話

 朝、かなたは雀のさえずりと、誰かがせき込む音に目を覚ました。苦しそうに誰かがせき込んでいる。父かと思って、かなたは階下に降りた。父は居間で酒を飲んで寝ていた。酒の空き缶が散らかっている。台所は旭の為に握り飯を作ったのだろう、炊飯器の器が水にひたしてあった。米粒が水になじんでいた。父は大いびきをかいて眠っている。半開きにした口から酒の臭いが吐き出されて、かなたはその悪臭に顔しかめた。

 咳の声は、外から聞こえてくるようだ。それは旭が寝泊まりしている小屋のほうから聞こえてくるように感じた。

「あの人、まだ仕事に行っていないのかな。風邪でも引いて動けないのかしら?」

 昨日は雨だった。外は凍えるように寒かった。それなのに、あんな粗末な作りの小屋に寝袋一つで寝るなんて自殺行為だ。きっとがたがたと寒さに震えて、一人心細い思いをしたろう。具合の悪い体調と彼は戦い苦しんでいるのだ!

 かなたはなんだか気の毒になったのだ。昨日旭と少し話し、悪い人じゃないような気がした。いや、悪い人なのだ。姉を殺したのだから。そうは思っても、苦しんでいる人をみないようにするのも、薄情なもので、相手は自分たちのために働いているのに、一生懸命なのにと、そう思うと、うっすらとした愛情が込みあげてくるのだ。愛情と言っても、町中で他人に親切にされたときのお礼のような微かな親愛の情である。

 かなたはキッチンでバナナジュースを作り、小屋に持って行った。小屋をあけると、薄暗い中、寝袋の中でこもった咳をしている旭がいた。彼はかなたが扉を開けたのに気付いて、潤んで光る目を彼女に向けた。彼は何か言おうとしたが、せき込み、思うようにはなせなかった。

 父に持たされたおにぎりとペットボトルのコーヒーを入れた百円ショップの鞄が頭の横に置かれている。

「仕事はいかないの? そんなに具合悪い? 風邪を引いたんだわ。昨日ずぶぬれになったものね。これを飲んで。私作ったの」

 旭は歯をかちかちならして震えている。

「寒いのね。布団があったわ。持ってくるわ」

 バナナジュースのコップを旭のそばに置くと、かなたは家の中に布団を取りに行った。余分な布団はたくさんあった。亡くなった母と兄と姉のぶんの。かなたはおそらく兄の毛布を引っ張って押入から出すと、それを担いで、小屋に向かった。そして、寝袋につつまっている旭の体の上にそれをかぶせた。バナナジュースは手を付けられていなかった。

「温かいもののほうが良かったかしら」

 なにかないかかなたは探した。何か彼のためになるものはないか。

「レトルトのおかゆを作ってくるわ。やっぱり温かいものを口にしたほうが体に良い気がする。それと、救急箱に風邪薬があったと思うわ」

 かなたはそれらをてきぱきと準備すると旭に与えた。旭は震えながら、おかゆをスプーンですすった。すこし食べると、あとはよして、錠剤の薬をバナナジュースで飲み込んだ。

「行かなくちゃ……いけないのに……ごめん」

 旭は苦しそうにうめいた。

「風邪をこじらせて死なれたら嫌だもの。無理なんだもの、休むべきよ。そうしなさいよ。治してから頑張ればいいわ。ゆっくり休んで。私が許すから」

 旭は瞳を潤ませ、口を変な風にゆがめると、彼の目尻から一滴の涙が耳の方につと落ちた。

「泣いているの? 泣くことなんかないのに。仕方ないわ。さっき私治してから頑張ればいいっていったけど、それは違うわ。あんまりよね。別に私たちのために働くことないのよ。こういうのは変だけれど、私、もうあなたは私たちにここまで密接に関わらなくて良いと思うの。合わないのよ。相性が悪いのよ。離れていた方がずいぶん楽よ。他人事にしている方が、近くにいられるよりも楽なの。お姉ちゃんの罪を償うのなら、法律で定められたのをクリアすればいいだけで、ここへ泊まってすべてを捧げるというのはなんだか間違っているように感じるの。そうじゃない? あなただって苦しいでしょ?」

「だってそれは俺の幸せだから……ここに居たいんだ」

「え、自分のことが優先なの?」

「え?」

 旭は怒ったように天井を見つめていたが、ふと緊張を解いて、一つ咳をし、柔らかい顔になると、きらきらと輝く目でかなたを見つめた。

「好きな人を幸せにできると思うから。そうすると、自分も幸せになれるんだ。悪い方に向かうのは間違いだけれど、俺は良い方に向かっているような気がする。俺は役に立てているだろう」

「そうかしら、あなたがいるせいで私怖い思いをしているのよ。そもそもあなたのせいだわ。あなたのせいで私、苦しい思いをしたわ。私人殺しよ。そうなったのもあなたのせいよ。失わなくてもいい命が失われたの。友達も失ったわ。あなたのせいでもう私学校に行かれないの。それがどんなに辛いか。孤独で悲しくって、私死んじゃいたい」

「それは俺が……何かしたの?」

「あなたがいるせいで起こるべきして周りが動いたの。産み落とされた卵がかえったの。あなたがいなかったら見ることのなかった悪夢を私は見たわ。恨みます。私、もう学校にはいかれない」

「学校に行かないのなら、就職するの?」

「中学校も卒業しないでどこが雇うのよ」

「俺と同じ所で朝だけでも働ければいいと思ったんだ。……養鶏所さ。楽しいよ。動物と触れあっていると……」

「そしてその次はあなたと結婚しろと?」

「そうは言っていないけど」

「むかむかするの。私。ええ。まともにはならない。まともにはなれないつもりよ。そうでしょ。人を殺したのよ。私死ぬつもりよ。でも今じゃないの。その時が来たら一気にひと思いに……何でもしてやるわ」

 雪が降るんじゃないかと思うほど寒い日だった。

 かなたはぷんぷんして、旭に背を向けると自分の家に戻っていった。

 暖かい家の中に入ると、ほっとした。かなたは朝食のパンを焼いて、バターをたっぷりぬって其れを一枚急いで食べた。自分の部屋にこもると、彼女は小説をとって読み始めた。今の気分では、それくらいしかする事がなかった。頭を酷使する勉強をやるには憂鬱すぎた。小説の文字が、彼女の気持ちをなだめてくれる。考えるべき道を示してくれる。そうファンタジーにいくのだ。私の心は別のどこかへ飛ぶのだ。しばらくの間かなたは集中して本を一冊読み終わると、その本を本棚にしまい、うんと伸びをした。彼女は外を見る。お昼の暖かい日差しがさして、窓が輝いている。

「お昼になった」

 今日は学校に行かないといけない日なのに結局さぼってしまった。今頃みんなどうしているだろう。私がいないことをどう受け取っただろう。沙代は、なんと思ったろう。強い憎しみでかなたは顔をゆがめた。今思い出しても学校のみんなの仕打ちが不正に感じて腹が立った。小唄はなぜ死んだか。無責任すぎるではないか。彼のせいで私は。死を夢想する。自分の名誉を救うには死ぬ以外方法がないきがした。沙代たちが、自分の死んだことで悔いればいいと思った。しかし、かなたは死を考えるととてつもなく拒絶の圧を感じる。死ぬのは馬鹿げている。しかし、このちっぽけな女一人の命で復讐ができるのなら、そう思うと、かなたは胸がはらはらして落ち着かない。まるで死を急かされているようだ。

 自分のことを考えると息詰まって嫌になってくる。

 かなたは階下に降りて、台所に立った。父が起きて煙草をふかしていた。

「おまえ学校はどうした」

「ちょっとね」

 其れ以上父は聞かなかった。

「紅茶を入れるけどお父さんも飲む?」

「ああ」

 かなたはお湯を沸かし、父の分の紅茶を入れると、もうひとつ、旭の分のをいれた。旭の分には、蜂蜜とショウガも入れた。

 父の前のテーブルに紅茶を置き、かなたは紅茶もはいった、カップを持って、外にでた。小屋にはいると、旭は布団の下で横になり、目を閉じていた。かなたが入ると、旭は物音に気付いて目をあけた。

「飲み物を持ってきたの。体が温まるわ。飲んでちょうだい」

「ありがとう」

「お腹は空いていない? 欲しいなら何か持ってくるわ」

「ここに君のお父さんにもらったおにぎりが残っている」

 旭は鞄を指さし言った。

「食べられる? 冷たくてかたくなっているんじゃない? それでおかゆを作ろうか?」

「ずっと寝ているから、食欲がないんだ。朝食べた物がまだ胃の中に残っているような気がする。お腹が空いたらこのごはんを食べるけど。今はいらないんだ。うつるかもしれないから君はここに長居しないほうがいいよ。俺さ、今咳したいけれどこらえているんだ。ああだめだ我慢できない」

 そういうと旭は布団の中に潜って何度か咳をした。

 かなたはうつる心配をしたが、どうせ学校に行かないのだし、暇なのだし、うつされたところで困らないと思った。むしろ風邪をひいたほうが、休むいいわけになると思った。するとなんだか学校を休むことを罪に感じている自分がとても優等生で馬鹿なほどに思えて、かなたは自分が惨めに感じた。

 学校なんて止すわ。私、きっと死ぬの。今じゃないけれど、成人する前に死ぬの。まだ、子供の内に死んでやるわ。死ぬようになっているのよ。だって生きるには世の中はつまらないじゃない? 誰かに傷つけられて深い痛手を負う前に死ぬのよ。世の中には悪者が多いから。

 そんなことを考えながら、かなたは意識せず、旭の顔を睨むように見つめていた。旭はかなたが怖い顔をしているので、自分のせいかと思って気詰まりだった。そうだ、俺はこの子の姉を殺した。恨んでいるだろうな。俺のせいでこの子は学校に行かれないようだし、俺って罪だな。自分が嫌になる。嫌なのに、逃げようとは思わないで、この子を腕でかばうように守りたいと思う。無償の愛だ。アガペーだ。いや、違うかな。俺はやっぱりどこかでかなたが少しくらい微笑んでくれと見返りを求めている。少しの優しさが彼女から俺へ見られたら、俺はどんなに幸福になるだろう。

 旭は真っ赤な頬の涙目で、じっとかなたの怖い眼差しを受け止めた。

 かなたがはっとしたように空想から我に返ると、旭は穏やかに笑っていた。かなたは何だか、とてつもなく困った気がした。

 この人のこと私嫌いだわ。でも、この人悪い人じゃないんじゃないかしら。すると、自分だけがまるで悪いみたいに感じるのだった。

 卑怯者。

 かなたは旭についてそう思った。

 今更優しい顔をしてもだめなのよ。あなたは悪人なのよ。悪人の顔をしていればいいわ。そして、世の中のすぐれた人、優しい人、色んな人から嫌われたらいいわ。価値のある世の人に、あなたなんか価値がないと見なされて捨て置かれたらいいのよ。そして、惨めな気持ちになればいいわ。

 そう今の私のように。

 かなたは腹が立って、暴言を心に浮かべるけれど、そのどれもが、自分に当てはまる気がして、嫌な心地がした。

 私になにを言う権利があるの?

 いっさいないわ。

 私は人を恨む前にまず自分のいたらなさを反省すべきでしょう。

 なんてたって、私は人を殺したんだから。どうして私は他人を労るように語れないんだろう。だから誤解されたのよ。


 かなたは家に入ると、自分の部屋に行き、椅子に座って机を前にした。本棚を眺めてみたり、鞄から教科書を引っ張り出してみたりした。そして、彼女はシャープペンシルをとると、芯を出し、勉強を始めた。頭が良くなりたいそう果てしなく思った。なぜなら、自分の未熟さが他人を死に追いやったのだから、頭が良くならなければならないと思うのだった。

 中学校なんていかなくてもいい。

 家で勉強すればいい。死ぬほど頑張れば誰よりも上にいけるかな。高校を受験する自分をイメージできても、そこに通っている自分のイメージはわかなかった。透明になってそこにはいないのだ。未来の先に自分はいないのだ。自分という存在は今ここにあるだけだった。

 死んでしまいたい。死んでみたい。そんな考えがかなたの心の片隅にたたずんでいた。そして、それは、ふいにひもを引いて、勉強に集中しようとしてるかなたの心臓をどくんと揺らすのだ。おまえは死ぬのだから、なぜそのように頑張る必要があるのか。そういっているみたいに。そうすると、すべてがあほくさくなる。かなたはだらけそうになる自分を叱責し、参考書に目を走らせる。しかし、五分もしないうちに飽いてくる。彼女は知識人の知恵を授かりたくて、知識人の小説を読む。このほうがよかった。頭を使わずに物語の世界に飲まれ、楽しいのだ。ただ楽しむだけじゃ勉強にならないとわかっているのに、どういう文章がどういう流れでなど考えず、読むだけの楽な方へ進もうとする。すると、そんな怠けた自分に気づき、羞恥をはらんだ、焦りが背中を焦がす。旭の存在を思って、かなたは頭をかかえた。彼は偉い。自分も小唄の遺族に誠意を見せなくてはならないんじゃないか。しかし、彼の遺族に存在を打ち明け、すべてを知られたら、遺族に怒鳴られたりしないか、軽蔑され、憎しみを抱かれやしないか。それが怖かった。そんな怖い思いをするよりだったら、自分の胸に隠していた方が良い。

 夜になると、かなたは旭のために温かいおかゆをつくり、スポーツドリンクもそえて、小屋に持って行った。旭は心底嬉しそうに笑い、風邪も治ってきたと言った。

「かなたちゃんのおかげで今はずいぶん気分が良い。俺明日からまた働くよ」

 そういいながら旭は咳をした。かなたは少し顔をしかめ、

「明日いくなら、マスクをしたほうがいいわね。従業員に風邪をうつしたらいけないわ。たしか家にマスクがあったから持ってくるわ」

 旭はかなたの優しさに感謝していた。彼女が自分を許してくれたのだ、そう思い、熱い物が胸をくだった。しかしそれは、自分より下の物に見せる同情であった。それなのに、旭は自分への好意だと勘違いした。やっと好きになってくれた。友達くらいには思ってもらえたかしら。

 空になった汚れたお椀を片づけに行くかなたの後ろ姿を見送り、旭は眠りについた。いつもよりもぐっすり眠れた気がした。


 起きる時間になり、旭は目を覚ました。体の調子はだいぶ楽だ。小屋から出て二階の窓を見上げると、まだ明かりがついていた。ずっと起きていたのだろうか。旭は不思議に思って首を傾げたが、かなたが言っていた学校にいかれなくなったというのは本当のようで、かなたの人生に何か異常が起こったのだと察した。しかし自分になにができようか。こうして見守ることしかできない。

 かなたの父に弁当を持たせられると、旭はマスクをして、仕事に出かけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る