第13話
毎日が苦痛なので、かなたはどうにかこの状況から抜け出したさに、悲劇のヒロインとして君臨している沙代に謝って、また仲良くしてもらいたいと思った。そうして、自分に対する悪評を取り消してもらおうとした。
「沙代」
かなたは沙代に声をかけた。それは体育の時間、体力テストをしていて、反復横飛びの順番待ちをしているときであった。
沙代はかなたに呼びかけられても返事をしなかった。聞こえていないのかと思ってもういちど呼ぶと、沙代は立ち上がり他の女生徒の隣に移動し、こちらを見もしないで、楽しげに会話しだした。一人取り残されたかなたはじっと遠くの沙代の横顔を見つめていた。すると何か、胸にはらりと落ちてきた。
死んでいいよ。
そういった言葉が、自分の胸にやどった。まるで沙代からそう言われたように!
そのとき、沙代としては、かなたとかかわると、小唄のことを思い出して辛いので、暗い憎しみの気持ちでいっぱいになって息苦しくならないように、逃げていたのだ。かなたをみないようにしていたのだ。彼女の存在が初めからなかったかのように、そう思いこんで、今すぐ飛びついて牙を剥きそうなそんな自分を見せないように汚れないように自分を守っていた。それで、無視をしていたのだ。彼女の世界にはもうかなたはいなかった。そう思う方が楽なのだった。
かなたには居場所がなかった。穴の中にぽとりと落ちたように、周りは壁で、明るいところはずっと上の遠くにあって、たどりつけない。
耐えるんだ、耐えるんだ。無視すればいい。
しかし、かなたは悪意に囲まれていて、その悪意を出す人たちは、飽きることがないみたいに、永遠と鞭をふるう。白い目で、屁の字の口で、吐き捨てるように!
ああ、かなたは耳をふさぐために耳栓をはめて学校に行った。膝は震え、他人の存在が恐ろしい。しかし我慢した。
ある日、かなたは学校で何者かに後ろから突き飛ばされ、階段を転がり落ちた。大したけがはしなかった。しかし腕や足を打撲したようで痛かった。落ちた拍子に耳栓がはずれ、床に転がっていた。かなたはすぐに恨みを込めて階段の上をみやった。しかし、そこにはすでに人の姿はなかった。だが、声だけが、
「ちょっとやばくない?」
「いいの腹いせ、あいつが暢気に学校にくるたびにうちら苛々してムカつくし、制裁」
「ね! まじうける! あたしあんた好きだわ。そーゆーとこ」
「うふふ。ほんと死んで欲しいよね。なんで生きているんだろ」
「そうだよねー」
その声を聞くとかなたは強い悲しみに胸が突き上げられ、酷く動揺した。今まで耳栓ふさいでいたが、いつもそんな酷い侮辱を誰かしらが言っていたのだと思うと、深く傷ついた。他人の未知数の悪意に対する恐怖で体が震えた。
現実では何が起こっているのだろうか。
そのとき、かなたは敵と認識されていたのだ。みんなは敵を見ていて許せなかった。生きていることが許せなかった。死ねば消えろそうしたら許してやる。そんなことを思いながらみんなはかなたをいじめていたのだ。
単に排除したかったのだ。排除するまで彼らは悪質な嫌がらせを続けるのだ。目標を達成するまで、攻撃はやまないのだ。彼らの平穏はかなたのいない世界なのだ。彼らは其れを目指していた。
「死んでほしいんだ。私って」
かなたは小さくつぶやき、強い孤独を感じた。自分がひとさまに迷惑をかけていると思うと、どうしても許せない気がした。
「やめた」
かなたは荷物をつかんで、家に帰ることにした。
「死んでやるわ。私が一番悪いのなら、私が間違っているのなら」
外は凍てついた雨が降っていた。傘を持ってきていなかった。雨に打たれながら、かなたは体を震わして、泣いていた。泣いているのが人にわからないように、くしゃりと歪みそうな顔を無理矢理、変に真顔に押しとどめた。胸が引き攣る。涙がでる。しゃくりあげる音を飲み込み、両目をかっと見開いて涙を乾かす。しかし雨が目にはいり、細めると、涙がぽろりと落ちる。はーと息を吐く。胸が戦慄く。
そうして、全身辛くなりながら家に帰ってきた。父はパチンコに行って家にはいなかった。玄関でいいかげんに靴を脱ぎ散らかして、居間のソファに倒れ込む。そして、思う存分泣いて、泣き疲れると、ぼうとして、思い出したようにのどの渇きを覚え、コップに水を入れて飲む。少し開いたレースカーテンの隙間から庭が見えている。旭が寝泊まりしている小屋が見える。今、彼は仕事でいないけれど、かなたは彼に聞いてみたかった。
「人を殺して、自分は死のうと思わないんですか」
そして姉のことを考える。
お姉ちゃんは恨みとかそういった気持ちを持って死んだの?
かなたはじんじんする頭痛を感じながら、ペン立てに入ったカッターナイフを取り出した。チキチキと刃を出し、手首にあてがう。えいっと引くと、分厚い皮膚はぐぐっと抵抗し、僅かに白い線が浮いた。力が弱かったのだ。かなたはどうにも怖くて力が入らなかった。それでもひりひりと痛かった。彼女は死ぬことのできない自分が哀れであった。そして馬鹿を見るように腹が立った。なのにどこか安堵している自分がいた。
死ぬことが簡単にできると思っている間は、早く死ぬようにせかされているようで嫌だったが、死ねないとわかると、彼女の心は生きることをきめたように、その場所にどうどうと立てた。どうどうと立っていても文句を言われなかった。だって不可能なのだもの。死ぬことは。
次に彼女は考えた。
死ぬことができないなら、自分はどうすればいいのだろう。
そして、ぼうとしている自分に気づき、何も考えずにぼうとすることが自分のすることだと思った。
「そうよ。死んだようにぼうとするの、物を食べないで、透明な水だけをのんで、透明に無機質になるの」
かなたは左手首に刻まれた白い切り傷もどきをじっくりと見つめた。手で触れ、そして嘆息した。
彼女はいつのまにかソファの上で眠っていた。雷の音に目を覚まし、窓を見ると、そこにはあの男が、旭がずぶぬれで立って、怖い目でこっちをじっと窓に張り付くようにして見ていた。あまりに恐ろしくて、かなたは悲鳴を上げた。旭はびっくりして、少し窓から身を離し情けなさそうにしょんぼりした。かなたは旭が窓を割って家の中に入ってくるような気がして気が気じゃなかったが、旭は入ってこようとは少しもせず、ただにたにた笑って、頭を下げた。
それがかたなには酷く気持ち悪く見えた。
「何よ、あっちへいって」
かなたがそういうと、旭はすごすごと小屋に入っていった。
「この人は人を殺しても罪な気持ちに胸がふさがれることもないのだわ。この家に奉仕することで罪を洗っているのよ。そして私に恋することで、お姉ちゃんを愛していたと錯覚するのよ。お姉ちゃんの死をごまかそうとしているのよ」
憎くてやるせない気持ちがした。彼女は彼にも生き方があるのだと思った。そんな生き方をするのも一つの手だ。
そして、彼女は小唄の死を考えた。そして、自分の行いを考えた。
はっきり自分の心を言うのは罪だ。もっとオブラートに包んで優しく言えたのに。どうしてああ言ったろう。
彼女は胸が苦しくなって、しくしくと泣き出した。
すると、様子をこっそりみようと、小屋から顔を出した旭はかなたが両手に顔を埋めてどうやら泣いているらしいと気づき、彼は切ない胸の苦しみを感じた。
「今日のかなたはおかしいぞ。何かあったに違いない」
しかし、旭はどう慰めていいのかわからなかった。そして、彼は何をとち狂ったのか、服を脱いで雨の中、窓の前で踊り始めた。なるべく馬鹿に見えるように、滑稽なほど無様に踊った。
「かなたちゃん元気出して」
彼はそう叫びながら踊った。
すると、かなたは顔を上げ、外の旭を見て、理解できぬといったかんじに、ぼうとその様子を眺めていた。ふいに彼女は旭が不誠実だと断定した。姉を殺しておいて、彼は面白がっている其れが許せない。喪に伏せるべきなのに!
それになぜ今の時間彼はいるのだろう。仕事はどうしたのだ。雨が降っているし、そのせいで仕事をあがってきたのかもしれない。
かなたは嫌悪感をこめて歯をいっと見せると、二階に上がった。彼女は濡れた服を脱ぎ、寝間着に着替えて、ベッドの中に潜り込んだ。そして、死ねない自分を思って、胸が悪くなるような熱いものを感じた。
「かなたちゃん、元気出して!」
外から声が聞こえてくると、かなたは苛々した。その声援がなかなか終わりそうにないのでいい加減嫌になって、かなたは窓を開けると、
「うるさい!」と叫んだ。下をみると、旭が上を見上げて、傷つけられた犬のような目を大きく見開いて唇をけいれんさせ弱々しい顔をした。
かなたはそんな旭の顔に出会うと、気の毒な気持ちになるのだった。そして、叫んでうるさいと注意した自分が間違っている気がした。すこし意地悪すぎるそう思った。
しかし、元気のいい旭の存在は、ナイーブな気持ちになっている今のかなたには不要なのである。彼女は暗い気持ちに浸っていたかった。元気になるのは自分への冒涜だとも思う。
「かなたちゃん頑張れ、元気出して!」
旭は懲りずにまた言った。
なにが頑張れよ。馬鹿にしているんだわ。ふとかなたはそう思った。
ああ情けないかな。一度罪を働くとその人の発言は信用を失い、心のこもらない物になるのだ。いくら何とか言っても嘘っぽいのだ。
「人殺し」
そういうと、かなたは自分のことだと思い、胸がぴきりと痛んだ。
「死刑になってしまえばいいのよ」
そういうと、旭は悲しみに強ばった顔を見せた。
自分に言っているみたい。かなたは嫌な重たい気持ちになり、泣きそうに震える胸に、心底うんざりした。
こんなに虐めて辛いわ。自分が可哀想だ。かなたは自分を慰めるように守るように叫んだ。
「ごめんなさい」
自分の身を切り刻む罪悪感というものが、なにかとても恐ろしくかなたを包み込んでいた。体の肉を締め付けていた。自分を信用していないのである。自分を憎んでいるのである。そんな厳しい自分自身を、かなたは酷いと思った。謝ることでかなたは自分を許そうとした。そうして、嫌なもやもやを追い払い、気持ちいい晴れ晴れとした心地になろうとした。
謝ったことで多少は、気分がそがれていた。
「人殺しさん、怒ったなら、私を殺して良いんですよ……。あ、だめです。やっぱり私生きるわ。だって私悪いことをしたと思わないんだもの。なれ合いがうまく行かなかっただけで、接触不良なだけで、悪いところは何にも無いもの。死ぬべき理由が見あたらないわ。もしあのことが死ぬ理由なら、なんて浅いところで人間関係は動いているのかしら……」
雨が強振りになってきた。窓の桟や、そこに置いた手の甲に冷たい雨の滴が当たる。大粒の雨であった。かなたはしばらく窓を閉めずに、じっと旭を見下ろしていた。そうして、何か、答えのような物を彼から受け取ろうとした。
「あなたは悪くない。悪いのは世の中だ。そうするように導いた運の悪さだ。神がそうするようにしむけたんだ」
「なぜ?」
「神の考えることはわからない。でも神がそうしたのなら必要なことだったんだ」
「あなたもそう思って罪から逃れているのね。お姉ちゃんは無責任なあなたのいい加減さによって殺されたんだわ。思い出すと私は怒りが沸いてきて涙がこみ上げる。殺す必要なんてどこにもなかったのよ。間違いを犯したのはその人の心根が悪いからよ。心根が悪いから悪い方に向かうのよ」
「そうかもしれない」
「ね。そうでしょう。聞いてください。私は人殺しなんです。そんな変な顔しないでください。私本当に人を殺して苦しんでいるんです。でも警察に捕まるほどではないんです。間接的な反抗だったのよ。私に落ち度はないの。私はただ、お断りしただけ。できないと言っただけ。できるかできないか、どっちを答えても、私的なものであって、なんら罪にはならないのよ。でも、できないといったら、相手は傷つくの。嘘をついたら、私の心を殺すことになるわ。だから、正直にだめだと言ったの。そして、人殺しになったの。だめと言って相手の心を殺したの。みんなが私を責めるのだから、はたからみても私が悪いんでしょう。あなたのこと嫌いだけど、私はあなたと同じなんです」
「聞いてくれ。俺はただ、あのとき、なおちゃんを助けたかったんだ」
「存在を抹殺することが助けることなんですか? 命が消えたら終わりなんですよ。お姉ちゃんを助けたんじゃなくて、周りの人の人生を助けたといったほうが気持ち的によくないですか。それか自分が救われるために、お姉ちゃんの感情の浮かぶ視線を煩わしく思い、切り捨てたんです。お姉ちゃんがいなくなることで、あなたは苦しまなくてすむようになったんです。お姉ちゃんを救ったんじゃない。あなたを救ったんです。自分の身を守るために、あなたはお姉ちゃんを殺したんです!」
旭は何か言おうとして口を開けたが、言葉が見つからず、口をつぐみ、下を向いた。
「相手のことをなんにも考えていなかった時点で私はあなたと同じだわ」
かなたは怒ったように顔をゆがめて、旭を見下ろした。すると旭はまた顔を上げ、落ちてくる雨の滴に目を細めながら、優しい声で言った。
「誰だって自分可愛さに間違うことはあるんだ。それが普通なんだ」
「自分がしていることだけは許されるものだと思いたいのね」
「ちがう、許されないけれど、仕方ないじゃないか」
旭は泣きそうな顔で、震える声で言った。
「なおちゃんが、俺という人間を形作る柱の一つに今なっているのを感じる。俺は俺の責任を果たしたい。だから毎日がむしゃらに働いていているんだ。眠いし体は痛いけれどそれがどうしっていうんだ。俺を作ってくれた恩を返したい。本当にそう思うんだ。そして、君をみると俺は元気が出るんだ。なおちゃんが俺をせき立てるんだ。かなたちゃんを幸せにしてって。金を作ることぐらいしか俺にはできないけれど、それでも君の生活に役立っていると思うと俺は嬉しい。君が幸せならなおちゃんも喜ぶと思うんだ」
「そんなことされたって嬉しくないわ。恐怖だわ。あなたがそばにいると虫ずが走る。消えて。お姉ちゃんのためを思うなら、消えて!」
「ごめん。俺のエゴだよなあ。消えたら終わるだろう。何もないよりも何か役に立ちたい。記憶は消えないのなら、その痛みが和らぐように俺はかなたちゃんに謝罪したい」
「マイナスよ。あなたはマイナスよ! そんなこと言って、消えてくれた方が楽です。私の為に今すぐよ、今すぐ死ぬの」
「そして、君も死ぬの?」
「どうして私が死ぬの?」
「君も人を殺したんでしょ」
かなたは青ざめ、嫌々するように首を左右に細かく振って、後退りした。かなたの目からはもう旭の姿は見えなくなった。ただ開いた窓から雨に濡れた小屋の屋根が光って見えるだけである。
「死ぬのは怖いんだ。だから、生きてもいい理由を見つけてそれに必死にしがみつくんだ。そういう生き方しかできないんだ俺らって。俺らは未熟なんだ。誰しもそうじゃないか。みんなそうだ。ずうずうしくなきゃすぐ死んでしまう。間違ったら終わり、ゲームオーバーだっていうなら、嫌じゃないか。人生を攻略するには間違いもしないと正解にはたどりつかないんだ。間違いをして終わりじゃないんだ。間違っても続くんだ」
旭の声だけが聞こえてくる。かなたはなるほどと思った。そして、納得し、安堵している自分に気付いた。かなただって死にたくはないのだ。死なない理由を見つけて安堵している。そんな自分が気持ち悪かった。自分の弱さに腹が立った。どうして自分は潔くないんだろう。武士のようだったら良かったのに、ただの弱い女なのだ。私はずるい女なのだ。
窓から入ってきた雨による床の水たまりに気付いて、かなたは窓を閉めた。閉めるとき、旭の姿を見ないようにした。そして、箪笥の引き出しからタオルを出して水たまりを拭いた。
旭はかなたが窓を閉めたのを見ると、しばらくそのままそこに立っていたが、彼女がもう姿を見せることは今日はないと見て、寒さに震えながら小屋の中に入った。彼は服を自転車にひっかけ乾かし、小屋の中に置いてあった雑巾で濡れた体を拭き、寝袋の中に潜り込んだ。酷く寒かった。もしかしたら、風邪をひくんじゃないかなと考えた。雨で今日は早引けしたが、この大降りじゃ、明日はきっと晴れるだろう。明日の仕事に備えて眠るのだ。
かなたは窓の外を見るのがなんだか怖かったが、一時間くらいぼうと座って、ゆっくり窓に近づいて、下を見た。そこには旭の姿がなかったので、小屋に隠れたのだと思い、妙にほっとした。
旭はえらい。かなたは思った。自分は小唄の家に罪滅ぼしのため門を叩く勇気はなかった。どんな目で睨まれるか怖いのだ。学校で受けたいじめに怖じ気付いていた。
「でも私が直接殺した訳じゃないのに。恋人にできないといったくらいで死ぬのが悪いわ」
そう小唄のことを悪く言ってみても、かなたの嫌な胸の動悸は収まらない。小唄は良い奴だった。そんな彼を悪く言うのは、意地悪な気がした。
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