第12話

 次の日である。雨が降りしきる暗い朝。かなたは自分を迎えにきた小唄に言った。それを切り出すのに幾ばくかの時間がかかり、沈黙が二人をむずむずと居心地悪くさせていた。しんとしたなかにかなたの高い声が響く。

「昨日の返事だけどいい? 私小唄君のこと良い人だって思うけれど、恋愛として好きになれないから。どう頑張ってもそうはならないって思うから。ごめんね。でも友達でいようね。今まで通り接してくれる?」

 歩きながらいきなりそういうと、小唄は息を飲んで、ぱたりと立ち止まった。

「何? なんで急にそんな……俺の何がいやなの?」じろりと睨むようにもしくは甘えるように言う。

「いやというのはないけれど、ただ何となくタイプじゃないというか、しっくりこないというか。友達未満なの。だからごめんねっていう話」

「そんなこと言って、俺が傷つかないと思ってる? 嫌いっていうことでしょ。いっそのことはっきり言ったら。友達とか……むりっしょ。俺の気持ちをなんだと思っているんだ。好きか嫌いか。君は嫌いよりなんだよ。俺のこと好きじゃないんだ。馬鹿にしてるんだろう。こんなに惚れ込んでいる俺を気持ち悪いとか思っているんだろう」

「そんなことないわ」

「いいや、そうさ」

 小唄は一人でぷんぷんして、並んで歩いていたのを振り切り、ずっと先を一人で早足に歩いていってしまった。かなたは取り残されて、追いかけるのもなんだか未練たらしくて変に誤解されそうだったので、ゆっくり歩いた。小唄の黒い傘がずっと先の通りを曲がって消えた。先に行ってしまったのだと思ってかなたはのろのろと歩いて嫌な気持ちをかみしめながら、しかたない、こう言うしかないと自分を慰め、通りを曲がったところ、思いがけなくそこには黒い傘が開いていた。小唄は曲がったところでずっと立ち止まり、かなたがくるのを待っていたのだ。

「少しでも希望はないの?」小唄は傘で顔を隠しながら脅すように言った。

「ないわ」

「まったく?」

「うん」

「っそ」

 小唄は駆けだした。地面の水たまりの水を跳ね上がらせながら、ズボンの裾が濡れるのもかまわず先へ急いで駆けていった。




 小唄は胸がつぶれたように苦痛だった。愛してはくれないんだ。そう思うと、かなたが自分とひとつも関わりのない気がして、するとなんだか、あんなに綺麗な物を見るだけ見せて取り上げられたように腹が立って、あとには何も残らないようで、悲しくて辛くて、小唄は自分の頭を何度も拳で殴った。どうすることもできないのか。考えろ考えろ。どうしたらかなたが俺を好きになってくれる? 聞かなかったのか? かなたの拒絶の言葉を。いやだ、受け入れたくない。希望はないのか?

 自分だけ夢中になってあっさり切り捨てられた。激しい羞恥心が突如小唄を襲った。こんなみっともない気持ちで生きているのがひどくもどかしいのだった。自分の中に流れる愛のお湯が垢や陰毛の浮いてそうに汚らしく感じた。無用に感じた。恥ずべきものであった。

 二時間目の理科の授業で、小唄は試験管に入った薬品をあおった。教室の中は騒然となった。理科の教師がすぐに駆けつけ、小唄を吐かせようとした。しかし、小唄は歯を食いしばり腕を振って暴れた。

 死にたいんです。

 小唄は思った。

 死にたいんです。ほっといてください。

 この騒ぎはすぐに生徒から生徒に伝わって、沙代の耳にも届いた。

「あいつ馬鹿じゃねえのか」

 誰かが言うと、沙代はきっと睨みつけ、涙ぐむのだった。そして一人悲しい顔を両手で覆って、じりじりしてうつ伏すのだった。小唄は病院に運ばれたと言うが、次の日、朝に学校に向かうと、朝礼で生徒たちにお別れがなされた。

 なんでも小唄は病室を抜け出すと屋上で洗濯物を干している清掃員の制止を振り切り飛び降りたそうだ。硝子瓶が床にたたきつけられ粉々に割れるように彼の頭蓋骨と体の骨は破壊された。そうやって死んだ。

 それを聞くと、沙代は一瞬息ができなくなった。世界がなまりいろになった。信じられなかった。小唄がまだどこかで生きている感じがした。嘘だと思った。死んだなんて、そんなことがあって良いはずがない。どうして死んだの?

 沙代はふと後ろを見ると、青い顔をして震えているかなたを見つけた。かなたは沙代と目が合うと、両目に涙をためて、罪を打ち明けずに入られなかった。自分の心に隠しておくにはあまりにも荷が重かった。

「沙代、私のせいかも。告白を断ったからそれで、怒ったのかも。小唄君。私、きつい言い方したかもしれない。うまく言えなかったの。だから、小唄君怒って、私、私……」

 わっとかなたは泣いた。彼女を腕の中に抱いて慰めながらも、沙代は憎しみが膨らむのを押さえられなかった。嫌いだった。突き飛ばして傷つけてやりたい罵声を浴びせたい。しかし、それを受け止めるにはかなたの心はあまりにも弱かった。それがわかっていて、沙代は自分の気持ちを抑えた。だって、こんなに泣いているもの。小唄の死を偲んで泣いているもの。小唄を可哀想だって思ってくれる人に憎しみなんか向けていいのかな。かなたの目のないところでは酷い悪者になれるのに、見られていると思うと善人の服を身につけずに入られない。優しくかなたの背をなでる自分の手を沙代は汚らわしいと感じた。

 あたし言ったじゃない。小唄と付き合ってって。なのに自分勝手に断って、かなたがいけないんだ。小唄はかなたが好きだったんだ。死ぬほど好きだったんだ。

 泣いて馬鹿みたい自分のせいじゃん。あたしの忠告を無視するから。こんなことになったのもあんたのせいだ。

 ゆるさないから。

 沙代はナイフのような鋭い目でかなたをこっそり睨みつけ、心の中で泣くのに夢中なこの可愛い赤ちゃんを呪った。そうしながらも、彼女はすべての泣いている人に向けるような哀れみを感じないわけにはいかなかった。沙代の女性的な優しさが、彼女の中に溢れる怒りを押さえつけた。出そうと思った暴言も口にすることはなかった。けれど、

「痛い、痛いよ」

「え」

「爪」

 気付くと、沙代はかなたの背に爪を立ててなでるようにひっかいていたのだ。憎しみが沙代の上着からはみ出して暴れている。驚いて、沙代はすぐに手を引っ込めた。

「怒っているの?」

「怒ってなんか」

「沙代、あなた嫌な顔してる。私が憎いのね」

「違う。ちょっと考えてたの」

「何を」

「……それは、それは、あんたに言ったってわかんないよ」

 沙代は顔が変に歪んだ。かなたの顔を視界に入れると、嫌悪でそうなってしまうのだ。自分では押さえられなかった。腹の奥がぐつぐつと煮えたぎる。かなたを殴打して、泣かせて、心を引き裂きたい。そんな悪い欲望が沙代の心に浮かんだ。小唄を殺したんだ。あたしの小唄を傷つけた。

「あたし、一人になりたいの。ごめん」

 破裂しそうに膨らんだ恐ろしい欲望を意識の下に押し込めようと、沙代はかなたから離れた。優しさから彼女はそうした。今は必死に押さえつけて優しいふりをしているが、いつ本性がでるか分からない。見抜かれぬ内に逃げるのだ。


 ところが、この事件があってから、沙代はかなたを意識して避けるようになった。友達として隣にたたれるのが沙代は嫌だった。なんだか自分が鬼になるようだったのだ。沙代は学校の休み時間、急いで廊下にでると、図書館に避難し、かなたから離れた。その図書館でであった麻美という一年下のニキビ面の女の子と沙代は親しくなって、いつか親友と言っていいほどのたち位置になっていた。教室でも、かなたには接近せずに、沙代は別の女の子の友達グループの和に無理矢理入り、過去に背を向けて笑っていた。なぜだか、かなたが小唄をこっぴどく振ったことがみんなに知られていて、沙代が小唄を好きだと言うことも噂であって、小唄が死んだのはかなたのせいだ、沙代が可哀想だと殆どの生徒は噂した。そして、この可哀想な沙代を両腕を開いて迎え入れながら、クラスメイトはかなたを排除しようとした。笑っていたかと思うと、かなたが近づくと笑いを辞め、険しい空気になる。かなたの悪口を言うときは嬉しそうに聞こえよがしに弾んで喋る。沙代はみんながそうなるのを止めるつもりはなかった。心で楽しんでいた。自分からかなたを悪く言うことはなかったが、それは自分が悪者に見えないように注意しているためだ。彼女はただともに笑い、うなづいた。

「大好きな人が意地悪な女に殺されて沙代はどんな気持ちだったろう」

 みんなは噂して、その切ない恋愛に憧れすらした。みんながかなたを嫌った。そうならざるをえなかった。だって、人を守るには敵がいる。正義をかざすと彼らの飢えた心は満たされるのだった。何かを守ることで、神様に仕えたような気になるのだ。良いことをしたと彼らは思う。


 かなたは辛かった。みんなが敵だった。白い目で睨まれて、すれ違いに小声で馬鹿にされて、かなた一人を取り残して、みんなが遠い離れたところにいた。

 学校に行く時間になると、かなたは胸が苦しくなった。心臓がどきどきして、めまいがした。行きたくなかった。しかし自分が負けになるようで嫌で、しかたなく通った。今日は別になんともなく一日が終わるだろう。そう期待して朝、家をでるのだ。そう思わなくては足がしぶって、家をでられないのだ。しかし、学校で生徒の冷たい態度に出会うと、かなたはやっぱり上手くいかない。みんなが私を嫌っている。私を憎んでいる。悪意に出会うのが怖い。そう思って、絶望し、体が縮こまるのだった。彼女はうつむいて下を見てばかりいた。そうすればクラスメイトの白い目を見なくてすむ。自分に対する悪口が聞こえてくると、ひょっと胸に氷水がそそがれ、のどがつまりぶるぶるして、やがて、魂が自分の体から離れて、うつむいてじっとしている自分を上から見下ろしているような体感をおぼえる。そうなると遠くのほうで悪口がわんわんと反響して聞こえた。自分が傷つけられているのをどこか他人ごとのように見ていた。

 他人の意見が強くかなたの肉を切り刻み、かなたの思想の柱を切り倒してしまったようだ。かなたは他人と同じように自分をせめた。自分が許せなかった。自分が責任をとって死んでしまえと思った。人がそう思うから自分もそう思うのだ。他人の意見が、そのまま自分の意見になっていた。批判されるのは自分が悪いから。そう自罰的になっていた。だって私を批判する人が多いもの。ならば多い方が正解よ。感情的になっている人ほど無責任な人はないのに、かなたは自分ばかりが一番だめだと思ってしまった。しかし、やっぱり、他人に傷つけられるよりも自分を自分で傷つける方がよっぽど辛かった。違う自分は悪くないそう思う自分が泣いていた。

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