第10話

 親しげに笑いあう二人を隠れて見ていた沙代は胸が悪くなるような腹立たしさを感じた。胸どころか、胃まできりきりと刺すように痛む。彼女は青い顔をして、二人を見つめ、唇を噛んだ。激しい憎悪が沙代の心を締め付けた。かなたが憎かった。あんな女につかまる小唄にも腹が立った。しかし、自分が仕組んだことではないか。沙代は酷く落ち込み、苦い顔をした。そんな変な顔になるのを押さえることができなかった。

 そうだよ。あたしがいつも休み時間に一緒にバスケをしてあげても、あいつはあたしを好きにならなかった。あいつが好きなのは、かなたなんだ。可愛い女の子なんだ。

 自分は可愛くないのだろうか。鏡を見ると可愛く見えるのに、小唄には気に入らなかったのか。

 かなたの家で別れる二人の少年少女を見守り、一人で帰って行く小唄のあとを沙代はつけた。小唄が自宅に帰るまで、彼女は見守った。小唄のただいまという声が何とも優しく潤って聞こえた。凄く弾んだ楽しそうな声。沙代は耐えきれなくて、きびすを返し、駆けだした。猛烈に腹がたった。ただ一緒に帰っただけで、あんなに仲良くなり、彼の心まで楽しさのなごりを残すことができたことに。自分にはできないことに。

 どうしたらいいのだろう。

 沙代は考えた。

 こんな現実なんて苦しくて耐えられない。自分にはぼうと見守っていることはできそうにない。憎しみという名の生き物が心の中で花開く。

 壊してやる。壊してやるんだ!

 どうしてそんなこと考えるの? 私、冷酷だ……。

 胸の中は二つの思いで、押し合いへし合いしている。そしてとうとう彼女の思いのどちらかかが勝った。

 そうだ。彼女の眼は悪徳の思想にらんらんと輝いていた。赤い唇は皮肉にひきつっている。

「ははは……」

 声に出して笑ってみると決意が固まった。あたしはそこまで落ちぶれた人間なのだ。それでいいではないか。




 眠くなると、旭は、持ってきたペットボトルのコーヒーに口をつけ、飲み込んだ。あまりコーヒーは好きではなかった。泥水を飲み下すようにして、味わうと、心臓が不安定に動悸する。なんだか気分が悪い。しかし、眠気はましになった。

 交通誘導をして、ずっと立ちっぱなしな足はぱんぱんにはり、体は酷く疲れていた。

 帰宅時間になり、旭はふらふらしながら、家に寝に帰る。

 時刻は深夜である。家に帰ると、旭は上を見上げて、かなたの部屋に明かりがついているのを確認する。その黄色みを帯びた明かりが、かなたの体の温もりのように感じる。

「おうい」

 旭は窓に向かって叫んだ。

 しばらくすると、カーテンの隙間にかなたの顔がのぞいた。眉をひそめ、怒ったような顔である。それでもよかった。姿が見れるだけで、旭の心は満たされる。

「おやすみ!」旭はにっこりと笑っていった。

 かなたは何も言わず背を向け、後ろ髪をみせてそのまま奥に引っ込んで、窓には壁のクリーム色が見えるばかりになった。

 冷たいなあ。

 旭はそんなことを考えた。

 しかたないのだ。なおを殺しておいて、優しくしてなどいえない。なおを殺したことを彼女は怒っているのだ。そんな男がそばにいることに彼女は腹を立てている。きっと消えて欲しいと思っているんだろう。

 慣れが彼女の心から嫌悪の気持ちを取り除くだろう。いつか、かなたの優しさが自分に向けられることがあるように。そう図々しく期待して、旭は寝袋の中で僅かな睡眠をむさぼる。


 うとうととしていた旭は、砂利を踏みしめる音に目を覚ました。それはゆっくりと近づいてくる。誰かが来ている。旭は身を起こし、耳を澄ました。

 かちかちというライターをこするような音がして、旭は思い切って小屋を出る。炎が何者かを照らしていた。旭は飛び出てその新聞紙か何かにうつった火を足で踏み消した。犯人は逃げ出した。しかし、旭のほうが早く走れたので、追いついて、組み敷いた。

「捕まえたぞ! 放火魔!」

 道路の電灯に照らされたのは少女の顔である。どこかでみたことがある。たしか依然かなたの家に来ていた友達の女の子じゃないか。

「君はかなたの友達の……」

「ごめんなさいっ許してください」

 沙代は顔をかばうように手を曲げ、しゃくりあげた。

「人ん家に火をつけようとして、君はかなたの友達じゃなかったのか? 俺が気付いたから良かったものの、もし気付かなかったら死人がでたかもしれないんだぞ!」

「はい」

「なぜこんなことをした?」

「だって、だって」

「甘えるなよ!」

 旭はかなたの命がかかっていたと思うと、ついかっとなって、沙代の頬をぴしゃりと打った。

 沙代は弱り切ったようにしくしく泣いた。

「ごめんなさい、あたし悪いとわかっているの。でもどうしようもなかったの。憎しみをはらさないと、自分が黒いもので押しつぶされて死んでしまいそうだったんだもん。壊れてめちゃめちゃになりそうだったの。自分が歪みそうだったの。もうすでにゆがみ始めていたのかもしれなかったのだけど、これ以上倒れないように何かしなくちゃならなかったんです。あたし、大切にしていた物をかなたに奪われたんです。許せなくて辛くて……」

「何を奪われたんだよ」

「男」

 旭はぎょっとした。

「男? かなたにそんなのがいるのか?」

 旭が狼狽えるのをみると、沙代は、たくらみが上手く運ぶような嬉しい気持ちになり、にやにやしながら言った。

「そうだよ。登下校を一緒にしているくらいに仲が良いんだから。見るといいよ。おじさん、かなたが奪われてショックだね」

「ショック? 俺はそんな気持ちなどない。いや、本当に。でもなんで」

「気が合うんだよ。二人。二人はきっと結婚するんじゃないかな」

 旭は胃がきりきりと痛んだ。

 俺はかなたのために毎日働いて金を稼いでいるのに、俺の好意を台無しにして、他の男を作るなんて。俺が許していないのに。勝手なことをしやがって!

「おじさん、かなたが憎いでしょ。傷つけてやろうよ。いっそ」

「どうやって、何をするってんだ」

「レイプして傷物にするの」

「馬鹿か? そんなドラマみたいなことして捕まるだろ」

「でも、かなたに一生物の烙印をおせるんだよ。だって、彼氏とはまだつきあい始めたばかりだからセックスもまだだよ。初めての男になるって良いと思う。一生ついて回る傷だよ」

「捕まる」

「良いじゃん別に。かなたのこころにしっかり傷つけられるんだから。どうせかなたはいつかは嫁に行くのだし、何もしないよりは何かした方が良いと思う。どう?」

「レイプだなんて、俺はそんなことする男じゃない」

「じゃあ、殺しちゃう? かなたのこと」

「君はなんだ? かなたを苦しめることばかり考えて。その男を苦しめるべきだ」

「だめ。男の方は悪くないの。かなたがわるいの。第一、男の方をいたぶったところで、おじさんにどんなメリットがあるというの。男なんて一人失っても、また新しいのが沸いてくるんだよ。おじさんはかなたが好きなんでしょ。かなたの体をどうにかしたいんでしょ。いいよ。やれば」

「俺の思いはアガペーだ」

「なに? 無償の愛?」

「そうだ」

「ばかばかしい!」

 沙代は吐き捨てるように言うと、旭が馬鹿に見えて無性に苛々した。ぎろりと冷たい視線を投げて、沙代は大きなため息をはいた。そのわざとらしい舐めきったようなため息に、旭はむっとした。

「なんだよ。俺を馬鹿にして! はやく出て行け! 帰れ!」

 背中をどしと突いて押すと、沙代は嫌そうに歩いた。そして、振り返り、

「おじさん。よく考えて。かなたを苦しめるの。あの子調子乗っちゃってるから。このままじゃだめだよ。おじさんが決めるの」

「君の問題は君が決めて君が解決しろよ。自分を満足させるのは自分なんだからな」

「わからずやだね。おじさんって」

 沙代は諦めて帰って行った。

 一人になると、旭は、今さっきのことをよく考えた。

 まあ、自分はよくやった。もう少しで火事になるところであった。それを防げたのは誇らしい。しかし、かなたに男ができたというのは悲しかった。その男のことを考えると胃の奥をきりりと刺すような強い痛みに似た憎しみが沸いた。しかし、かわいらしい少女には常に男の陰があるもので、早すぎる気もしないでもなかったが、致し方ないというか、可愛い女と男というのはセットみたいなもので、この現実を認めなくてはならないだろう。

 もうすぐ仕事に行く時間だ。しかし、なんのために働くというのか。かなたを奪われてしまったとわかった今、自分は無意味な労働をしようとしているのではないかと、嫌な気持ちになった。

 好きだ。愛しているから頑張れるんだ。

 だが、その愛が流れるだけで受け止められていないとわかると、息苦しくなる。うまく呼吸ができなくなって鼻の奥がつんとする。

 旭は、もう眠っていて今の騒ぎにも起きないかなたのことを考えながら二階のかなたの部屋の黒い窓を見上げた。彼女は何を思いながら眠っているのだろう。新しい男のことを思い出しながら、愛と充足に包まれて気持ちよく眠っているのだろうか。ふと、旭は、家の壁に何かがついているのを発見した。でかい蛾である。

 なお。

 旭はあの淫乱で馬鹿な女を思い出す。自分の手で殺めた彼女を。この手を彼女の暖かい赤い血で汚した。生命が消えたあの激しい喪失感。もうあんなことを繰り返すことはしない。ばかげている。好きな女を殺すなど。生きたかなたを愛したい。自分の愛で包み込みたい。ああ、確かに、そこには新しい恋人とやらが邪魔である。

 小屋の中の寝袋に入って、旭は、うつらうつらしながら、嫌な胸騒ぎを感じていた。泣きじゃくって自分を壊したいような切なさ。そして、そんな自分をあざ笑って踏みにじりたいような嗜虐心。自分を苦しめることによって何か素晴らしいものが生み出されると信じるかのように。

 仕事には行こう。明日も頑張ろう。かなたのために自分が一生懸命になれば、その頑張りを認めてもらって、かなたが優しくしてくれると思うから。何かしなくてもいい。ただ優しい眼差しを旭に向けてくれるだけでもいいのだ。少しの優しさがどれだけ彼を癒すことか。

 なぜなおを殺してしまったのだろう。

 旭は涙が目尻からこぼれるのを感じた。

 そもそもなおを殺すべきじゃなかった。あのころの衝動的な自分が恨めしい。自分に腹が立つ。嫌いだ。過去の自分など嫌いだ。過去の自分を激しい憎悪ではねつけると、なんだか、自分の中には優しいものが残るのだった。それで、彼は満足した。旭は自分の中の愛の布団が、かなたを暖かく包み込むのだと思う。かなたを愛する器が自分にはあると思う。

 かなたの新しい恋人に手を出して、かなたから嫌われることは避けたい。ただ自分は優しくあって、いつかかなたがその優しさに気付いて微笑んでくれるように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る