第9話

「叔父が怖いの。私、いつ襲われるかひやひやして」

「叔父さんって、あの物置小屋にすんでいる頭のおかしい人?」

「そう。お父さんがあの人を気に入っているから、追い出せないの。私、家に帰るのが怖くって」

 かなたは校舎の階段横の通路のくぼみに立って、腹立たしげに言った。

「家が自分の家じゃないみたい。落ち着いていられないんだもの」

「そっか。叔父さんってかなたのことどう思っているのかな」

「それが、私のこと好きみたいなの。いやらしい感情を持っているのよ。だからつけねらって見張っているの」

「好きって男と女の?」

「そうよ」

「じゃあ、かなたが新しい男を作ったら怖じ気付いて離れていくかもよ。そもそもかなたが処女の可愛い少女にみえるから、他に男がくっついていない綺麗な新品に見えるから、追いかけるんだよ。そういう男ってさ」

「じゃあなに? 中古になれっていうの?」

「みたいなものだね」

 かなたは震えるため息をはいた。

「相手がいないわ」

 其れを聞くと、沙耶は相手を探してと言われている気がした。すぐに彼女は恋愛になろうとしている一人の男の存在に気付いた。小唄である。彼はかなたを愛しているのだし、かなたが受け入れたら、二人はカップルになってしまう。憎しみが沙耶の心に暗い陰を作った。彼女は怖い顔で俯いて悩んでいるかなたの横顔をじっと睨んだ。何かに気付いたようにかなたが顔を上げてこっちを見ると、沙耶は慌てて今の怖い顔を引っ込め、作り笑いを浮かべた。

 沙耶はかなたから嫌な奴と思われたくなかった。それだから、彼女は自分の嫌に見えるところを全て投げ出したくなった。自分の大切な物をかなたに捧げることで許しを乞おうとした。

「誰かに聞いてあげようか? 誰か、あんたに男ができたようにカモフラージュしてもらうの。そういった演技をしてもらって、その叔父さんに諦めてもらうんだよ。あたし、いい人知っているよ」

 そういいながら沙耶は涙ぐんでいた。

「本当? もしかしたら、そうしてもらったほうが良いかもしれない」

「そうだよ。そうしなよ。小唄……小唄に頼んであげる」

 悲しい笑いを浮かべて沙代はかなたに詰め寄った。

「あいつなら、あたしの言うとおりに動くから」

 密やかな抵抗に自分の所有物であるように言って、沙代は自分の胸を慰めた。

 本当に男ができたみたいにみせたほうがいいみたい。かなたはそれが嘘っぱちでもやってみる価値があるように思った。自分はねらわれているのだ。それも男のいない未経験の未熟な女だから狙いやすいのだ。男というのは女の初めてになれると思うと、躍起になってその席をとろうとする。

「じゃあ、ちょっと頼んでみて? でも、沙代はそれでいいの?」

「え?」

 沙代はぎくりとした。それでいい? それでいいわけがないのだ。本当は小唄を他人のしかも小唄の恋する相手にゆだねるのが嫌だった。小唄とかなたの間に、何か甘酸っぱいことが起こるのではないかと思うと、胸が苦しくなる。

「あたしは別にいいよ。あいつに頼んだら、あいつもきっと喜ぶから。その方が面白いよ」

 沙代はかなたに背を向けて伸びをし、簡単なストレッチを始めた。そうやって、目に浮かんできた涙を見せないように、顔をかばい、運動しているということに意識を持っていくようにし向けた。

「じゃあ、よろしくね」

「うん」

 返事の声が震えなかったことで、沙代は安堵し、胸が砕けて、涙が頬を伝った。しかし、かなたに未だ背を向けて、ストレッチをしているために、かなたには気付かれていなかった。震える唇を、かみしめると涙のしょっぱい味がした。




 旭は昼になると、養鶏所でもらえる卵を持ってきた白飯とからめてずるずる食べる。だが、米と卵以外何も食べていないので、妙に力が入らないような気がした。彼は力を振り絞って仕事をしながら、かなたのことを考えていた。夜の景色に浮かぶかなたの部屋の明かりと、かなたの白い顔。決して笑いかけやしない。怯えているような怒っているような顔だけれども、彼女は旭を目にいれてくれる。ということは、存在を認めてくれているということで。

 夕方になると、彼は交通整備の仕事にいった。夜ご飯の白飯にかぶりついていると、先輩の箕腰がそれをのぞき込み、

「おまえ、飯はそれだけか? おかずがないと力がでないだろう」

 と心配して言った。彼は人が良さそうに笑って、自分の弁当から唐揚げをとって、弁当の蓋に置き、ピーマンの肉詰めもおいて、旭に差し出した。

「白飯だけ食っていると脚気になるぞ。俺のやるから、食え。給料もらっているんだから、おまえの体に良い物を食わせな」

「ありがとうございます。でも、俺、事情があって。これしかもってこれないんです。あ、でもたまごぐらいだったら、朝の仕事で頼んでもってこれるかもしれません。なんせ、卵は持って帰ったことがないですからね。給料だって好きに使えないんですよ。俺、金を全部払わなきゃいけなくて。ま、これも好きでやっているといえばやっているんですが」

「なんだ女にでも入れ込んでいるのか」

「なんでわかるんですか」

「だいたい男ってのはそれだ」

「そうなんですよね」

「よし、これからは俺が母にたのんで、おまえのおかずも持ってきてやる」

「あの、それって……お金はかかるんですか。その俺払わないといけないとかですか?」

「馬鹿。んなもんいらねえよ。同情して持ってきてやるんだから、無料だよ。俺は人が喜んでいる顔をみるのが好きなんだ」

 箕腰は頬の横に二重のしわを寄せて笑った。彼はまだ若かったが、笑うと、頬と目尻に濃いしわができるのだった。

 旭はその親切が嬉しかった。頭を下げると、俺は金を全て入れてやるのに、なんでなおの父は白米しかくれないのだと今更ながら腹が立った。脚気になってしまったらどうするつもりなのだ? いいように扱われている気がして、むかむかした。しかし、かなたがいるのだからと彼は思う。かなたの存在があるから、軽い横暴は許せるのだ。旭は飯を食って、元気になった体で今日の仕事に向かった。




 小唄は沙代からかなたのボディーガードになる誘いを持ちかけられると、嬉しくてるんるんとした気持ちになった。思わず愉快な軽い笑い声が口元で小さくこぼれる。

「男がいると分かれば、かなたの叔父さんも、向こう見ずな恋心を諦めるだろうし。あんたなら、かなたのことを死ぬ気で守れると思ったの」

「そりゃあ本当かよ。かなたちゃんが困っているなら俺はやるよ」

 沙代は見るからに嬉しそうな小唄の姿を冷めた目で見つめていた。彼女の顔色は青く、口元には軽蔑が浮かんでいた。それは小唄のかなたを愛する子供のようなまっすぐな純粋な心を侮っているのである。

「あんた本当にかなたが好きなんだね」

「……俺、そんなにおかしく見えるか?」

 子犬のようにしょんぼりして顔を赤らめる小唄を見て、沙代は身悶えした。こんなに可愛いのに、こんなに可愛い男があたしのものじゃないんだから。あたしの親友を愛しているんだから。憎いものね。

 沙代は笑いながら小唄の肩を悪戯っぽく小突いた。笑ってふざけているようにみえて、その陰には、憎しみがうづいていた。いやなひと、そう心で叫ぶと、沙代はなんだか、何もしないよりは多少良い気持ちになった。

「好きなら押すんだよ。押して押して、告白しちゃいな」

 沙代は泣きそうな苦笑いを浮かべて小唄を見ていた。そして、そんなまずい顔の筋肉の強ばりに気付くと、さっとうつむき、隠すように背を向けた。

「あたし、応援してるから」

「おう」

 胸ががくがく震えて、沙代は息が詰まる。かっと燃えるような憎しみが胸に宿る。

「次の授業に遅れるから……じゃあね」

 小唄から離れるとこらえきれなかった涙がぼろぼろとこぼれた。手で拭うと、手の甲がびしょぬれになった。沙代はトイレの個室に隠れ、声を押し殺して泣いた。ハンカチを出して涙をふき、鼻をかんで、手洗い場で水を出し、ハンカチを濡らし、それで顔を拭いた。赤くなった目が痛々しかった。しかし、彼女は自分を奮い立たせ、泣いたことをなかったことにしようとした。暗いことは考えないようにした。

 授業が終わり、放課後になった。沙代はかなたを誘って帰ろうとした。そこへ、小唄が現れて、ぼんやり何もいわずに気圧されたように突っ立っている。彼はかなたを目の前にすると、緊張のあまり言葉を失っていたのだ。彼の目に何かがとりついていて、それがかなたの魂を舐めるような目でじっとみているようだ。いつもの小唄ではなかった。

 沈黙が流れた後、沙代ははっとして、自分の役割を演じた。

「ボディーガードでしょ。今日からこいつがかなたを送り迎えするよ。いい? かなた」

「沙代も一緒に帰るんでしょ?」

「あたしはいい。あたしがいたらだめでしょ。あんたの叔父さんに二人はつきあっていると思わせなきゃ。ただの友達とおもわせるのはいけないよ」

 沙代はどんどん醜悪になる自分の顔の表情を感じた。実際は何も変化はしていなかったのかもしれないが、彼女は人一倍自分の顔を気にした。ばれていはいけない。あたしの気持ち。押さえなきゃ。友達でいられるように。それよりも降格されてはいけないの。

「おさき」

 沙代は先に帰るふりをして、校舎にひそんでいた。やがて、かなたと小唄がふたり並んで校舎から出て行くのが見えた。沙代は二人にばれないように静かにあとを追った。


「叔父さんは家にいるの? 今」

「ううん。いないと思うわ。でもこないだはいたの。仕事を早退していたの。仕事があるから、いつも夜遅く帰ってくるのよ。朝も早くて。お父さんが叔父さんを気に入っているから小屋に住ませているの。追い払いたいのに追い払えないの。そのお父さんがじゃまするから。叔父は小屋で寝泊まりしているの。そんなそばにいて怖いわ」

 小唄は考え込むような難しい顔をしてうなづく。

「そうなんだ。可哀想に! 俺が君を好きだということにして、その程度で、君の叔父さんは離れてくれるのかな」

「だいたい若い女の子を好きになる人って、汚れのない処女性をあがめているものよ。そうじゃない? 軽く触れたくらいで自分になびくと思っているの。汚すのが面白いのよ。だから、他の人に汚されたと見たら諦めるんじゃないかしら」

「汚す……」

 小唄は嫌らしいことを想像して顔を赤らめた。それがかなたにも伝染して、彼女も赤くなった。

「一人で外を歩くのは怖いわ。家にいるときは鍵を閉めていればいいけど、でも家に入ってこないともかぎらないから、私、部屋に鍵をかけているのよ。いざ家に入ってきた時には、こっそり窓を開けて屋根に登って外にでて逃げるつもりよ。そのために靴を部屋に置いているの」

「君はよく考えているよ。君が夜、眠るまでそばにいて守っていてやりたいけど、そんな遅くまで出歩いていたら親が怒るからなあ」

「あら、いいのよ。送り迎えだけでいいの。それから私考えたんだけど、休みの日にね、ふたりで叔父の働いているところを見に行かない? 刺激してやるのよ。ほら、カップルだと思わせないといけないでしょ」

「もちろんいいよ」

 かなたは怖い気持ちが少し和らいで、ふふっと笑った。すると、小唄はなんだか、自分が認められたような気持ちになった。ただの自分ではなく、かなたを好きな自分が。小唄はそっと手を伸ばし、かなたの左手を掴んだ。しかし、かなたはびっくりして、その手を払いのけた。

 不安そうに歪んだ小唄の表情見て、かなたははっとした。彼を傷つけたろうと思った。しかししょうがないではないか。かなたは恋心など持ち合わせていない。小唄がいきすぎた行動をとるから悪いのだ。しかし、小唄の優しさを意地悪く拒んだような後味の悪さが残った。

「こういうのは叔父の居る前でだけにしましょ」

「ごめん」

 小唄は真っ赤になって両目に涙をためた。すんすん、すんすんと彼は鼻をすすっていた。控えめに小さく。泣き顔は顔をうつむけているために見えない。かなたは自分が泣かせたのかと思って居心地が悪かった。だいたい彼女は誰かを傷つけると深く反省するタイプなのである。かなたは可哀想に思って、小唄の背中をどんと叩いて、くすくす笑いながら駆けだした。

「競争よ。どっちが早いか。あそこの電柱まで」

 小唄は彼女を追いかけて走った。かなたは途中でこけた。それを小唄が手をさしのべて起こしてやる。二人は笑いあった。春のような心地良い暖かさが二人を包んだ。

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