第8話
そのころ、旭は交通整備の仕事の途中であった。かれは立ったまま眠っているところを現場監督に見つかり、しかられ帰宅するようにいわれた。
「お前みたいな適当な人間はいらん! やめてもいいんだぞ。まあ今日は帰って寝ろ。明日は真面目にやれよ」
旭はしょんぼりして家に向かった。朝の養鶏所では体が動かせる分刺激になり起きていられたが、ぼうと立ったままの交通整備は問題だった。
「でも今帰れば、かなたに会えるぞ」
彼は家にたどり着き、居間の窓を覗いた。すると、太った男の後ろ姿が見えた。父親よりも若そうなその男はかなたと笑い合っていた。その男の声は外まで響いていた。その男とは沙代のことなのだが、太った体は肩幅も広く、ジャージのためにやぼったく、声も低いので男と見間違えた。
旭は笑っているかなたを見て激しく嫉妬した。
なんだあいつ、どこのどいつだ。俺の許可もなく。
窓を引いてみると思いがけなく鍵がかかっていなかった。
脅かしてやろう。一度犯罪に手を染めた性だろうか。悪いことを考え、すぐそれを実行にうつす。
旭は窓を開けて、中に半分ほど身を入れた。
物音に驚いて二人の少女は振り向いた。かなたはきっと目をきつくし、急いで駆け寄ると、旭の体を突いて、窓をぴしゃりと閉めた。ふちをつかんでいた旭の手が挟まれ鋭い痛みが走り、旭は叫んだ。かなたはびっくりしたし、瞬間的に悪いことをしたとおもった。
「泥棒!」
沙耶は旭のことをしらないので、泥棒と勘違いして叫んだ。
なんでそんな非難するような冷たい厳しい目で見る。お前の方が悪い奴だ!
旭は力任せに窓を開いて、男の力で家の中に足を踏み入れた。そして、旭は沙代の胸ぐらをつかみ、組み敷いた。思いがけなくジャージのチャックが引っ張られた拍子に壊れて、胸元がぱかっと開いた。そこに見えるブラジャーと女の柔らかい膨らみに旭は驚き、狼狽した。
「なんだ、女か?」
沙代は恐怖に涙を流してすすり泣いた。
うしろからかなたに体を引っ張られ、外に追い立てられる。
「出て行け! 出て行け! この獣!」
「違うんだ。男かと思ったんだ。かなたちゃんが襲われていると思ったんだ」
かなたが取られると思ったんだとは言わなかった。こういう方が、自分に非難が沸かないと思ったのだ。
沙代は旭の言う言葉を聞くと、つくづく惨めな気持ちになるのだった。それは沙代の日頃から気にしていることだったからだ。あたしって、そんなに男かしら。
旭がすごすごと物置小屋に入っていくのを見守って、かなたは窓を閉めて鍵をしっかりかけた。カーテンもぴっちり閉めると、泣いている沙代を慰めた。
「かなた、あの男は何? 知っている人?」
かなたは本当のことを言うのは悪い噂になって居心地が悪くなると思い、うそをついた。
「叔父なの。頭がいかれているの。家にやむなく置いているの。本当は施設にでも入れたいんだけれど、審査が降りないのよ」
「あの人あたしを男と思ったんだね。びっくりしたし、怖かったけれど、正義感があって、良い叔父さんじゃん。あたしは平気だよ。頭がいかれているとはいえ、叔父さんなら大切にしなきゃね。追い出して良かったの?」
「外の物置小屋が叔父の家なの。家には入らない決まりだから。本当に乱暴で嫌になっちゃう。ごめんね。怖い思いさせたわね」
「いいの。あたしが男みたいだからいけないの」
「あんたは男になんか見えないよ。大丈夫。女よ」
「そう? でも……」
「可愛いわ。目も大きくて」
そう言われると、沙代は自信がみなぎってきて、嬉しい気持ちにさえなった。
沙代が帰り、父親がパチンコ屋から帰宅すると、すぐさまかなたは今日の不幸な物語を話した。すると、父は旭に文句を言いに行った。すると、どういうわけか、うまく丸め込まれたらしく、
「お前を守ろうとしたらしい」
そう言うと、カーテンをすこし開けて、外から見えるようにした。かなたがとがめると、我慢しろと言う。
「お金をもらうんだから多少はあいつの言うことも聞かないとな。それよりも番犬を飼わなくてもすんで良いじゃん」
父には今日の事件が別段嫌な事件でもなく、逆に吉報だった。
ははは、と笑ってすらいる。彼にとっては何でもない話なのだ。
かなたは旭が家に入ってきたときの恐怖をどう伝えて、自分がどんなに嫌か訴えるにはどうしたらいいかわからない。
父や沙代は何でもないというけれど、かなたは不愉快なのだ。怒り狂ったあの男の顔も恐ろしかったし、沙代の服をはだけさせたあの手が、ひどく汚らわしかった。あの手が自分の体に伸びるような気がして、気分が悪かった。
「あの男は今日早退したらしい。それで早く帰ってきたんだな。居眠りをして注意されたらしい。明日から一リットルのコーヒーボトルを持たせよう」
夜飯を食べ、風呂にはいると、かなたは自分の部屋に入った。電気がついたのがわかったのか、外から旭の呼ぶ声がした。
「かなたちゃん、今日はごめん、顔だけ見せてくれるかな」
かなたは苛々して、頭に血が上った。彼女はカーテンを開き姿を見せたと思うと、窓も勢いよく開いて、唇はひきつり、目はつり上がり、ものすごい形相で、
「嫌らしい人!」
と叫んだ。
ぴしゃりと乱暴に窓が閉まり、カーテンも閉まった。
「ごめん、ごめんよ」
旭は明かりの灯った黄色いカーテンに向かって呼びかけた。かなたに嫌われたと思うと胸が痛かった。しかし、律儀に約束を守って呼びかけに答えて姿を現してくれることには感心した。
彼女は優しいんだ。その優しさにいつかつけ込めたらいいな、そう思いながら、旭は明日の仕事にそなえて眠りについた。
早朝に父から今日の分の握り飯をもらい、旭が仕事に出かけると、かなたはゆっくり起きてきた。
父はリビングで煙草を吹かしていた。その姿がのんきそうに見えて、かなたは腹が立った。
「お父さんはいいの? お姉ちゃんが死んだことなんとも思っていないの?」
「なに」
「理由はともかく、家に入ってきたのよ。あの男は。危険だわ。私の命が危ないわ。心配じゃないの? 私のこと」
「それは鍵を閉め忘れた俺が悪いよ。あいつだって、不本意さ。おそわれそうになったおまえを助けようとしたと言うじゃないか。不本意さ。俺はね、昨日、ここにずっと置いてもらいたかったら、空気になれって言ってやったんだ。どうだ? 面白いだろう」
「あいつの稼ぐお金に目がくらんでいるのよ。お父さんは。私の心配なんて二の次なんだわ」
かなたは下唇を噛んで、顎を引き、上目遣いに、涙をたたえた目で父を睨んだ。
父はそんなかなたを煙草を吹かしながら、ぼんやり、何も考えずに見ていた。
自分の恨みの込めた目が何の効果も現さないのを見ると、乱暴に鞄をとって、かなたは朝御飯も食べずに、家を出て行った。そしてそのまま学校に向かった。
こんな泣きたい気持ち。学校で沙代に愚痴ろう。胸がわなないて体が震える。激怒が、自分の正常な精神を脅かす。
教室にはいると、沙代の席には誰もいなかった。辺りを見渡しても沙代の姿はない。かなたはやきもきして彼女を探しに廊下にでた。校舎の中をあちこち歩いてみる。そしてなんとなく、沙代が林小唄とバスケをしたと嬉しそうに言ったのを思いだして、また体育館で遊んでいるのではと思い、向かってみると、そこには、バスケットゴールにシュートしている沙代がいた。そして、いかめしい顔をしながらも、どこか優しい眼差しで痩せていて色の黒い、背の大きな林小唄もいた。彼はかなたがいるのに気づくと、石のように強ばった顔をして固まった。ああ、小唄がどれほどかなたを愛していたことか。ただの友達としか思っていない沙代と二人きりで遊んでいる姿を見られ、あらぬ誤解をされたかと思うと、彼はぐっと息がつまり、胃の辺りが不快にざわざわした。そして、彼女の心に芽生えただろう彼への評価に恐ろしくなって足が震えるのだった。彼は顔を赤らめ、恥ずかしくて、かなたの方を見れない。恨めしいと思った。自分にわけのわからない感情をわき立てさせる、かなたが。しかし、憎しみを向けようとすると、その感情が全てきらきらと眩い感動的な光りとなって降り注ぐのだった。それは心地よく、胸がいっぱいになるようなもので、美しく儚いのだった。小唄は頭が痺れ呆然としていた。
そんな小唄をじっと沙代は眺めていた。彼女は彼の気持ちが痛いほど分かった。恋というのがどういうものか、彼女自身よく知っている。赤くなって不自然に顔を逸らして、凍り付いている彼は誰の目から見ても異常だったといえよう。かなたが現れると急に変になるのだから、かなたに何かやましい気持ちを抱いているのだろう。沙代はなんだか悔しかった。普段から男勝りな沙代だからこそ、こうして、友達として小唄に接近できた物の、それ以上にはなれないのだ。女らしい可愛らしさが、彼女には足らない。それにくらべていいよね。かなたは可愛いし、華奢で声も綺麗で、妖精みたいで。沙代はむすっと不機嫌を表しそうな自分の顔の表情を何とか押さえつけ、快い作り笑顔を浮かべて、小唄にちょっかいを出した。
「なんだよ、小唄。好きな人現れて緊張してんの?」
そう言って、沙代はボールを小唄にパスした。小唄はボールを受け取ると、あわてたように叫んだ。
「なにいってんだよ。別に好きとかじゃないし」
「嘘だあ。顔赤いよ」
小唄は泣きそうになって俯いた。彼は恋する自分を恥じていた。その恥を小突かれると、酷く痛くて、不愉快だった。彼は何か自分という物が恐ろしく汚らわしく思うのだった。そして、そんな自分を責めると、大事な心臓が破れそうになるのを感じて、苦しかった。彼は心から嫌だった。自分の気持ちを翻弄させる今の状況が。
今にも泣き出さんばかりに顔をくしゃりとゆがめている小唄を見て、沙代は可哀想に思った。そして、彼を虐めるようなことを言ったことを悔やみ、申し訳なくて助け船を出した。
「まあ、クラスの男たち全員かなたのこと好きだからさ、あんたが好きになっても当然で、変なこともないんだけど。好きって言うより憧れなんでしょう? あたしだって、かなたが好きだもん。女なのに。みんな好きなんだよ。面白いよね」
そういうと小唄は少し落ち着いたようだった。顔の赤みも消えて耳だけがぱっと赤かった。
「別に俺は……そんなやましいことは……」
「いいじゃんいいじゃん。そんな気にするなって。みんな同じよ。で、かなたどうしたの?」
かなたは誉められて嬉しいような恥ずかしいような気持ちで、居心地が悪かったが、沙代に声をかけられると用事を思いだした。
「ううん、私、相談したいことあって沙代のこと探してたんだ。でも大したことじゃないし、あとでもいいの」
かなたはせっかく楽しそうに遊んでいた二人を邪魔するようで遠慮した。それにどことなく沙代の眼差しに、めらめら燃えるようなきついものを感じて、狼狽えた。まあ、沙耶ったら、そんなに意地悪な目で見なくても良いじゃないの。二人っきりの楽しみを邪魔されたと思っているのね。
かなたの苦々しい表情を見て、沙代は自分が彼女に与えて困らせたであろう、いつもと違う不自然な意地悪い自分に気づいた。彼女はこぼれ出てくる物をどうあっても押さえられないと思った。押さえようと彼女は必死になって苛々した。醜い嫉妬をしている自分を直ぐそばの小唄にみられるのがとてつもなく嫌だった。
「小唄、ごめん。バスケはまた今度。かなた話聞いたげるからあっちいこう」
沙代は無理に顔の筋肉を持ち上げ、笑って見せた。自分の中の汚い感情を全て追い出して、無心になろうとした。そうすると、どういうわけか、無理をしているせいか、激しく胸が痛むのだった。そんなきりきりする痛みを無視して、沙代は優しい人間になりきった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます