第7話

 旭は朝から、なおの父に持たせられた電車賃で電車に揺られ、近くの養鶏所で働いた。それが終わると、夜は、交通整備で働く。眠くて体がふらふらしたが、なんとか気をしゃんとさせて、頬をぱちぱち叩いたりつねったりしながら頑張った。食事は、朝になおの父親が持たせた大きくて白い握り飯を食べた。しっかり水も持たせられていた。夜中の十二時に小屋に帰ってくると、もうすっかりかなたは寝たろうと思ったが、今日会わないんじゃ、明日も朝が早いから眠っていて会えないと思うと嫌で、一か八か、旭はかなたの部屋の窓に向かって呼びかけた。

「かなたちゃん、俺だよ」

 しばらくすると、かなたの部屋のカーテンが開き、彼女が顔を出した。遅くまで小さいライトをつけ、勉強していたのだ。彼女は不快そうに眉をひそめ、むっとした顔をしていたが、旭はちょっと悲しくなりながらも手を振った。かなたは手を振り返さずに、さっと消えた。窓から離れたのだ。そして、彼女は自分の勉強机に向かった。一度顔を見せればもういいだろうと彼女は思ったのだ。

 旭は妙に言われぬ感動がこみ上げてきた。

「最初のうちは俺に慣れていないからあんな嫌な顔をするんだろうけれど、いつかあの顔に笑顔を浮かばせられたらいいなあ」

 旭は疲れていたのも忘れ、るんるんと小屋の中に入って、寝袋の中にもぐりこんだ。床が固くて、背中が痛かった。しかし、時期に眠りについた。夢も見なかった。さっき目を閉じて五分もしないうちに目を開けて、空が白んでいるのに気づく。小屋の扉のしたから薄青い光りが伸びていた。朝になるのがこんなに早いなんて。眠り足りない。目覚まし時計はあったが、その時計をみると、あと三分で起きる時間だった。

「しまった、もう三分眠れたか……まあいいや」

 旭は外の水道で歯を磨いて、顔を洗うと、トイレをしたくなった。庭にするわけにもいかず、家のベルを鳴らすと、なおの父が出てきた。

「トイレを貸してください」

「まさかその辺にさせるわけにも行かないしな。本当は家に入れたくないけれど、俺が見張っていればいいか」

 父に連れられてトイレをすますと、旭は一つの欲求が受け入れられるともっと受け入れられて欲しくて、調子にのり、

「お風呂に入りたいんですが。シャワーだけでも」

といった。すると、父は怖い顔をして、

「駄目だ。風呂は休日に一回、銭湯にいってもらう」

「はあ、そうですか」

「さあ、すんだら、とっとと家を出ろ。ほら、飯も用意した」

 そう言って、アルミホイルに包んだ握り飯を朝昼夜ぶんもらい、ペットボトルの水ももらい、旭は父親が自分のためにわざわざ朝早くから用意してくれたと思うと、うれしかった。




 旭が仕事に向かうとやがてかなたが起き出した。彼女はいつ襲われるかわからないと思って一人不安でなかなか寝付けなかった。いつしか夜が明けると、だるい体を起こして、ベッドの縁に座り、泣きそうな渋い顔を手で覆った。正直苦痛だった。どうして、殺人鬼の為に毎日顔を見せないといけないのだろう。金のためだ。それはお父さんが……。あいつの思い通りに動いても、心だけは思い通りにさせない。私はあいつと敵なのだから、心許したりしない。かなたは着替えて学校に向かう。

 憂鬱な気持ちだった。心が夜で、希望が何も見えない。重苦しく、背中に重い物をかついでいるみたいに、体がしゃんとしない。

 お父さんが勝手に決めたから……お父さんがいけないの。ひどい何で。お父さんは愚か者だよ。実の父親の悪口をつぶやくと、そんな自分がひどく汚らわしい。

 かなたは中学校の校舎に入ると、わざと落ち込んで見えるようにして、とぼとぼとゆっくり、小幅に歩いた。登校してきた生徒が自分を追い越して不思議そうに振り返り、ちらりとその顔色をのぞいていく。かなたは暗い顔をしている。そうやって見せつけているのだ。そうすれば誰かが気の毒に思ってくれる気がして。そしたら、他人の哀れみで自分の心が慰められる気がして。

 教室に入り、自分の席に座ると、かなたは机の上で腕を組んで、顔を伏せた。

「おはよ、かなた、どうしたん?」

 友人の沙代が心配してかなたの肩をたたいた。しばらく無視するように無言だったが、ゆっくりかなたは顔を上げ、友人の顔をまじまじとみた。太っていて、顔の大きい沙代は妙に母親じみていて、その表情からは母性がにじみ出ていた。かなたは彼女の胸に飛び込み、泣いたらどんなに気持ちいいかと考えた。しかし、よく考える。殺人鬼を家にかくまっているなどと言ったら好奇の目に晒される。もし言いふらされたら、ニュースの特ダネだ。笑いの種だ。かなたは口をつぐみ、顔を横にする。

「寝てないの」

「なんで? 遅くまで勉強してたの?」

「……うん。まあ。そんな具合」

「悪い、起こしちゃったね。寝な」

 ぽんぽんと優しく肩をたたかれ、かなたはまた顔を伏せた。すると、本当のことを打ち明けられなかった苛立ちに胸がつまって、涙があふれてくる。言っちゃえばよかったかな。でも言えないわ。

 もう一度私に大丈夫か聞いて欲しい。そしたら、今度は言っちゃうかもしれないよ。

 しかし、クラスメイトはかなたの異変をちらちらと見ながらも、そこまで深入りするのは悪い気がして、そっとしているのだった。

 沙代以外にはそれほど仲が良いメンバーはいなかったというのもある。他は上辺だけ。だから、辛い気持ちに寄り添おうと考える人なんて出てこないのだ。沙代だけ。本当にこの子だけだ。しかもこの子に嘘を言って追い払ったから、後は誰も私に声をかけてくれないというわけだ。

 かなたはこっそり涙を拭いた。鼻水が垂れてきたので、何度か吸っていると、隣の男子生徒である熊谷がおびえたように体を震わせて、ちらりとかなたをみた。彼はかなたが泣いていることに気づいたが、慰めようかどうか考えた。それほど仲が良いわけじゃないし、可愛い少女であるかなたに話しかけて、色ぼけているとからかわれるのが嫌だった。彼は無視することに罪の痛みを感じながら、本を読んでいるふりをして、知らんぷりした。

 かなたは鼻をかみ、涙を拭いて、しゃんとした。目は赤いがもう苦しい顔じゃない。彼女はくよくよ考えて落ち込むのはばからしいと思ったのだ。だれも声をかけてくれなくて、悩んで、そう判断した。学校にきたら、もう授業だけに集中すべきなのだ。私はバカな生徒みたいに自分を落とし込んで、ふらふら遊んで将来を台無しにするようなことはしない。レベルの低い人から早く離れたいから、志望校は高見を目指しているのだ。だから、私はプライベートなことに悩まされて、勉強をおろそかにしたりしない。私はうまくそれらを切り抜けなくちゃいけないの。

 授業が始まり、昼飯を終え、五時間目の体育の授業になると、持久走をすることになり、かなたは何もかも嫌なことも良いことも一緒くたにして振り切るように全力で走った。自分の体に苦痛を感じると、心の悩みなどどうでもよくなる。心臓が破れそうになりながら走って、走って、かなたは倒れた。インクの壁が溶けるように頭の中が白く染まっていく。霞がかって、見えなくなる。酸素を求めてあえぎ、誰かがかなたの体をゆすり、何か言った。何を言っているのかわかならない。耳が遠くなっていた。目も見えない。目の前が真っ暗だ。貧血だった。かなたは誰かにおぶられ、保健室に連れて行かれた。横になってすこし落ち着くと、かなたは傍らに沙代が立っていることに気づいた。彼女がかなたを負ぶって連れてきたのだと保険室の先生に言われる。

「もう授業が終わったよ。帰る時間だよ」沙代はそう言って笑う。彼女はまだ体育着姿だったが、これは彼女はいつも制服を脱いでから登下校するためだった。彼女は学校の中では制服でいるが、登校するときと下校するときは制服など着たくなかったのだった。それは依然、見ず知らずのばあさんに、

「デブのくせに足出して、みっともない」

 といわれ、とてもショックを受けてからスカートの制服を他人に見られることに苦痛を感じるようになったのだ。それだから、彼女はジャージを着て、その太いからだを視線から隠していた。

「家まで送っていくよ。心配だし。もう楽になったでしょ」

「うん」

 しかし、かなたは起きあがるとまたくらりとした。

「先に帰っていていいよ。私まだすこし具合が悪い」

「いいよ、あたし暇だし。待っていてやるよ」

 沙耶はベットを隠すカーテンしめると、外に出て、いすに座り、スマホを出して、アプリのミニゲームを楽しみ始めた。

 かなたはすこし眠り、目が覚めると、何時間も眠ったみたいにすっきりしているのでびっくりして、彼女はカーテンを開けた。窓には夕日が見える。部屋には電気がついていた。そして、沙代も根気よくまだ居てくれた。

「よくなった?」沙代は文句もなくあっけらかんとして言った。

「うん。遅くなったね。もう気分がいいから帰ろう」

 二人は保健室をでた。いつもなら道の途中で家の場所がちがう彼らは別れるのだが、今日は、沙代が送っていくと聞かなかった。かなたは、どうせあの男は遅くまで仕事をしていていないから、家に沙代を連れてきてもまだ大丈夫な時間だろうと思い、彼女は沙代と一緒に家についた。

「すこし休んでいって。なんか飲む?」

 かなたは沙代にジュースを出し、一緒に飲み、それから何かないかと探し、冷凍の枝豆を見つけ、電子レンジで温め、皿に盛って出した。

「おいしい」

 二人はたわいない話を始めた。

「二組の林小唄って男子知っている? あいつとこないだバスケしたの。で、仲良くなったんだけど、あいつ泣き虫でさ、バスケであたしにボール取られてシュート決められたくらいで泣くのよ。それが可愛くてさ」

「へえ、沙代の好きな人?」

「まさか。ただ、弟みたいに可愛いくてさ」

 そういう沙代は生き生きと顔を輝かせ、頬がほんのり上気している。

 恋をしているのだわ。

 かなたはそう思いほほえましかった。

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