第5話

 廃墟を照らすと、コンクリートの白い建物は冷たくそびえ立つ。

 旭は中に入り、そこを照らし出した。床を照らすとなにか動いていた。

 生きていたのかとほっと安心しながら、よく見ると、ひどく不気味な模様の茶色い蛾が一羽、顔に向かって飛んできた。旭はよける。そして、その蛾を遠ざけて、改めてなおの体を見ると、黒いものでびっしり覆われている。蠅である。

「うわ」

 懐中電灯を振り回し、蠅を追い払う。

 懐中電灯が手から滑り落ち、床に伸びる黒い頭髪を照らした。旭はおちた懐中電灯を取って、再び床に伸びたそれを照らした。薄目をあけたなおの顔は鉛色で、人形のように血が通っていなかった。よく見ると薄目の眼球は乾いて皺が寄っていた。

 死んでいることは明白である。

 旭は頭を抱えてうづくまった。飛び回っていた蠅が再びなおの体の上にとまる。その哀れななおの顔が無数の蠅の黒いからだに埋もれると、恐怖が旭の胸を支配した。

「生き返ってくれよお……お願いだから」

 そうは言ったものの、返事がくると思うと恐ろしいのだった。しかし、なおはなにも語らない。自分の心臓の音が聞こえるほど静かだ。そして、なおが死んだという事実がほっとして胸に落ちると同時に頭が狂うほどの動揺が胸を襲う。

 旭は震えながらしゃがみ込んだ。どうしてこんなことになったかなあ。自分の落ち度を思いだし、過去に戻ってやり戻したい思いにかられる。しかし、過去に戻るなどというのは無理な話である。

 落とし前をつけなくてはならない。俺はなおを殺しておいて自分だけのうのうと生きるつもりなのか? いや、なおは喜んでいる。死んで、もう人生の不幸な目に遭わなくて済むのだから。俺は救ったのだ。可哀想な人間に慰めの一突きをしたのだ。いや、俺はなおを血で汚した。他の奴みたいに精液で汚したように。いけないことだ、いけないことだ。反省すべきだ。

 旭はなおの胸に突き刺さっているナイフの柄を握り、ぐっと引っ張った。蠅がいくらか、体を離れて不気味に低空を羽ばたく。ナイフはとれた。刃には血がべっとりとついている。

「死ぬのが正解だ。どうした? 怖いのか?」

 旭は青い顔で震える手をじっと見下ろす。その刃をどこに向けようと言うのか。自分にか? 嘘っぽく自分に向けられた刃を旭はじっと見つめる。自分が演じているのがわかって馬鹿馬鹿しくなった。それにそんな自分に酷く腹が立った。なにが落とし前だよ。俺が死んでなんになるんだよ。なにも変わらない事実は変わらない。死ぬのが怖いから死なないいいわけを探す。そんな自分がひどくいやらしい。

 誰か俺を裁いてくれ!

 誰か俺を殺してくれ!

 旭は自分の身が、それを支える心が穢くて恥ずかしくて、苛々して頭がどうにかなりそうだった。しかし、どこか旭は、なおのためにこんなにも悩んでいる自分を見つけた。死んだなおのために、ここまで酷く自分を軽蔑して、頭を悩ましている。死んで物を言えなくなったなおの代わりに自分が強く言わなくてはならないと感じた。だから、こう自分を責めたのだ。そうすることでなおへの謝罪になる気がして、なおの魂が慰められるような気がした。。

 警察に出頭しよう。そして、死刑になろう。

 旭はひらめき、たくさんの薔薇の花に埋もれていくような香しく温かい安堵を覚えた。

 自分で自分をどうかすることができないのなら、他人に判断をゆだねるのだ。

 綺麗だと思った。その考えが。

 旭は交番のある町に向かって歩いていく。住宅街の窓の明かりが、旭を見下している。通りすがりの人の目が旭のワイシャツに飛び散った赤い血をみる。不思議そうに。最初のころの旭は後ろめたくてびくびくしていた。何度目かに他人に見られると腹が立って、睨み返した。手でそのシミを隠しながら、旭はただ一つ自分の為に開けられている明るい光りの方へと歩いていく。

 泣きたかった。

 泣きたかった。

 泣きたかった。

 酷く重いこの身を、誰かに受け止めてもらいたかった。今にも崩れそうなこの身を。

 早く、早く、俺を楽にしてくれ。

 旭は早足になって歩いた。そしてそこは突然に現れた。赤いランプの一つ灯った、交番は、入り口を明るく照らしている。警官が二人事務机の前に座って、何か書き物をしていた。

 旭の頬に涙が伝う。すると、そんな女々しい自分が嫌で腹が立つ。乱暴に涙を手のひらで拭うと、唾を飲み込み、彼はその神々しい光りの中へ入っていった。




「人を殺しました。でも、俺は彼女を救いたかったんです。俺、思うんです。彼女を救えたと。だって、彼女は不幸になるように生まれついているんですからね」

 罪を償いに来たのに、旭は罪を否定することができるのならそうしようという気さえ感じるほど開き直り、いいわけを始めた。

「なにかな、君。ここに座って、初めからきちんと話しなさい。なにがあったんだい? それよりも君の名前を言いなさい」

「阿部旭といいます。俺は中学三年で、同じ学校の一年生の菊池なおを殺しました」

 旭は青ざめ、言葉が奇妙に震えた。

「どこに死体はあるの」

「○団地の廃墟マンションです。そこで、今日、俺たちはいくらか集まって菊池なおを強姦したんです。俺はしてません。俺はそうすることが嫌だったので見ていたんです。菊池なおは頭が弱いんです。だからされるままになってむしろ喜んでいるようにも見えました。腹が立って……腹が立て……処女じゃなかったんですよ。前にも同じような目に遭っているということです。それがわかると可哀想で、この子の人生はこんなふうでしかないと思うと、情けなくて、助けたくなって。最初は仲間を殺そうとして持ち出したナイフで俺はなにが大切なのかきちんと見極めて、刺したんです。残酷です。俺はちゃんと心臓を刺しました。正しかったんですよ。俺は間違ったことをしたとは思わなくて、でもよく考えたら、間違いのような気もして、不安になって」

「いやにすっきりと話すね。君は間違ったことをしたね。で、君は反省しているの? 言い訳ばっかりで、その裏には、まるでやりがいのある仕事をしとげて、気持ちいいと感じているかのようだよ。君は心地よさに浸っているようだよ。自慢げだし。いけないことをしたとよく理解しているのかな?」

「はい。俺、死刑になってもいいんです」

「なんでそんなことを簡単に口に出すかな。君はことの重大さを理解しているのか? 君の話を聞いて、どうも気分が良いものではない。殺人を自慢しているようにも聞こえるし、はっきり言って不愉快だ。失態をしでかして死を望むのなら他人に手を汚させないで、自分でできるでしょう。まあ君の話が本当だとして、その死体がある場所まで案内しなさい」

「はい」

 パトカーに乗せられて、旭は再びなおのもとへ向かった。そこになおはいた。蛾に覆われて、人型のそれは不気味なライトの明かりに照らされた。

「大変なことをしたな君も。力の強い男である君が、力の弱い女の子を殺すなんて、君は自分のことが卑怯だと思わないか?」

 娘がいるこの警官はすっかり感情的になって言った。そして、旭の背中を突き飛ばすように押した。

「どう思うんだ、彼女を見て? お前は反省しているなら謝れ、土下座できるか? ふん、できないか。お前はそれっぽっちの人間だよ。最低な人間だ」

 旭は悔しかった。素直に謝ればいいのに、なおに悪いと思っているならそんな態度を見せればいいのに、警察に侮辱されると、怒りがこみ上げてきて、それは間違っていておこがましいのに、俺のなにがわかるんだと言って反抗したくなるのだった。

 そうだ、旭はまったくといいていいほど反省していなかったのだ。どこかでなおが死んで良かった。そう思う自分がいる。他人に犯されて喜び、男達が帰った後、剥がされた衣服を再びしおしおと身につけ、ハミングでも口ずさみそうな彼女のすぼめた口元を見た瞬間、旭は自分の中の凶暴ななにかが彼女を屈服させようと起きあがるのを感じたのだ。平然としている彼女が憎かった。世の中を恨めばいいのに、そうしない彼女が。

 嫌いになったのだ。それだけのことだ。

 昔好きだったのが嫌いになると、酷いことも平気で考えられるものだ。

 旭の中でなおが、貴重な美しい天然記念物の国宝から、汚らしい脱ぎ捨てられた靴下の片一方になったのだ。それは実にまずいのである。彼女の輝きがいじめてもいじめても出てこないので、苛々して、彼はどうにかなると思った。

「凶器はどこかな」

「そこに落ちています」

「ああこれか。それにしても酷く乱暴したようだね」

 警察は懐中電灯の明かりに照らされ、落ちている使い終わったコンドームを穢らしいという目で見ながら言った。

「俺は見ていただけで、他の人がやったんです」

 旭はこれは言わないと警察が勘違いすると思って言った。すると、旭の声は言い逃れに聞こえるのだ。一番酷いことをして置いて罪を少なくしようと些細なことにいちいち突っかかって罪の弁護をしなくてはいられない。

「君がやったかどうかは君の証言だけではわからない。全部拾ってDNA鑑定にだすことにしよう」

「なんのことですか。全部拾うとはあのコンドームのことですか」

 そういうと警察は嫌な顔をした。

「あなたは悪い方へとことん悪い方へ想像を膨らませているのでしょうが、俺はもっと清いんです」

「殺人が清いなんてことがあるか。君の手は血で汚れただろう。その服のしみだって犯行の証拠だ。どこが清いんだ。君はそう思わなくては自分を保てないのだろう。悪人と決められると震えおののくのだろう。人は善人でありたいと常に思うものだからね。自分の中の悪を必死に否定するのさ。滑稽だよ。自分でわからないのかな。しゃべればしゃべるほどぼろが出てくる。馬鹿馬鹿しい。さて、あとは監査に任せて、君の共犯者について教えてもらおう」

 友人を売ることは何でもなかった。それほど友人と言っていいほど、仲が言い訳じゃないから相手がどんな立場になろうと痛くも痒くもない。それどころか、旭はただのちっぽけな存在でしかなかった自分を証明するために、友人の悪事を暴露し、自分の立場を主張した。ほんの小さな存在でしかないのです。俺は助けたつもりなのだ。誰かが助けなくてはならないと思ったのだ。

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