第3話
金曜日までまだ一日あった。
男子たちを集めて河瀬は興奮したように顔を輝かせ小声で言った。
「いよいよ明日だ。これは秘密裏に行われる。俺たちだけしか知らないんだ。他の人に言いふらすなよ」
「なおちゃんに泣かれたら俺惨めな気持ちになっちゃうよ」
お調子者の杉が笑いながら言うと、どっとみんなが笑った。彼らはなおに泣かれようがそれを実行する気でいた。むしろ泣くなおが見たいと思っている。彼らを自分たちを止めることはできないとわかっていた。それほどに強い欲望が彼らの背骨を這い上がり、脳をかっかと熱く燃え上がらせていた。
仲間が楽しみだ楽しみだという中、旭は一緒に肩を並べながらも、どうすればなおを守れるだろうかと考えた。その答えが見つからないので、彼はもう明日にはみんなと同じ行動をとる自分を見いだした。
いいやもう。
彼は思った。俺だって菊池なおのえろい体がみたい。えろいことしたい。そんな素直な自分の欲望を感じて、旭は、木陰に隠れるようにして、さして恥に感じていない自分を見いだした。それは他にも自分と同じことを考えている男がいるという安心感があるからだ。誰かの肩に寄りかかると楽なのだ。自分だけじゃない、他の人も同じ。誰かの意見が自分の意見に思い、責められたら他の誰かが悪いのである。もはや責任の放棄である。それと同時に彼はまた友人たちに刃物を突きつけて、なおを背後に守ろうとする自分を想像し、胸がしびれる切ない気持ちを感じた。女を守る正義という果てしない欲望に彼は溺れていた。しかし、足は着くし、水は浅いので息をするのは容易だ。友達を裏切ろうが、なおを裏切ろうが、変わりがないと思った。まわりの友人たちがにやにや笑っていると、旭もつられて顔がにやけた。そんな自分が酷く浅ましいと心の中のもう一人の自分がちくちくと針で刺すように言ってくる。そして、その心の裏切りが誰かに気づかれないかとびくびくして、きょろきょろと友人たちの顔色をうかがった。誰も旭など気にしていなかった。
「そうだ、俺は透明人間だものな」
今日もなおに会おう。旭は思った。俺に会うことで気休めになればいい。明日の悲劇が今日会うことで、少し薄められると良い。
自分に何か変えられるような力があるとはとうてい思えなかったが、旭は何もしないでいる自分が許せなかった。授業がすべて終わると、旭は一年生の教室に向かい、菊池なおを見つけ、彼女が他の男子生徒の後を追って歩くのを尾行した。男子生徒が自分の家に入って、なおが一人になると、旭はなおに追いつこうと走り、彼女の細く白い華奢な手をつかんだ。
「うー」
なおは旭の手を振り払おうとした。無理につかんで痛がらせたらしい。
「ごめん」
旭は手を離し優しげにと言うよりも怯えたような声で言った。
「お、お兄ちゃん。お兄ちゃんだよ。なおちゃん」
「おにーちゃん」
「そうだよ」
旭は困り顔で笑いながら、なおをなだめた。
なおは地面に視線をあて、頬を両手でぐっとはさみながら、えへへと笑い、小首を傾げ、身をくねらせた。その甘い笑い方が可愛らしくて、胸がきゅんと疼いた。背中をくすぐったい物が駆け上がる。旭は、自分でも大胆だと思ったが、なおの頭を撫でた。しかし、撫でたのは一瞬だった。なおが急に腰を落として地面にしゃがみ込んだのだ。彼女はコンクリートの地面を石で削りだした。スカートの前があいてパンツが見えていた。
「なにやってんの?」
旭は自分も身を屈め、浮ついた声で聞いた。
「うーうー」
コンクリートの地面に白く石で傷がつけられていく。なおは乱暴に手を動かし、なんだかわからないグシャグシャ模様を描いた。
「なおちゃん、明日君は酷いことをされるんだよ」
旭はなおの白いパンツをみながら声をかけた。
「乱暴に、ダッチワイフみたいな扱いを受けるんだ。嫌でしょう? 俺、助けてやりたいけれど、君がそんなことされても別に良いってんなら、俺だって黙っているよ」
別に良いと言ったことがあるわけないのに、旭はぶつぶつと言った。
「可愛いのは罪だよなあ」
ふと、旭は鞄の底につっこんだ刃物を思い出した。そして考えた。この刃物でなおの顔をめちゃくちゃに傷つけたら、明日の連中も萎えて何もしないでなおを解放するかもしれない。しかし、旭になおを傷つけるなんてできなかった。猟奇殺人鬼ならそんなことも簡単にできてしまうだろうが、旭は影の薄い平凡な学生である。思っただけだ。旭は、傷だらけになったなおの顔を想像して、怖くなり、汗の浮かんだ手のひらをぐーと握って、爪を手のひらに食い込ませ、自分を戒めた。俺って酷い奴だ。
「なおちゃん、セックスしたことある? まだ処女だよね、きっと。痛いだろうな。ああ、可哀想だな。俺、どうしたらいいんだろう」
「あっ、あー」
なおは蟻を捕まえようと、手のひらで地面を叩いていた。
旭はめくれたスカートから見えるなおのパンツを見ている。中央部が丸くかすかに膨らんでいる。そこに割れ目が収まっているのだ。そこは明日開かれるのだ。興奮して自然と呼吸が荒くなる。こんな可愛い子に変なことがあっていいものか。だめだ。絶対駄目だ。
「なおちゃん」
旭はなおを後ろから包み込むように抱きしめた。そして、なんだかマヨネーズのような酸味のある彼女の体臭を胸一杯に吸い込んだ。そして、彼女の丸い額にキスした。なおは頭を動かし笑っていた。吸い込まれそうな黒い瞳は、空を見ていた。
「なおちゃん! 俺、明日、君を守る。頑張るから」
ふと見ると、大人の人が見ていた。通りすがりに首を曲げて不信気に見ていた。旭は後ろめたくなり、立ち上がると、真っ赤な顔をしてその場から逃げ出した。なおは置いてけぼりだ。人に見られた。気持ち悪いことをしていると思われた。無防備な子を襲っていると思われた。旭は家についても、焦り、警察に通報されていないかとひやひやした。だがそんな気持ちも時間がたつとともに落ち着いて、自分は大した恐ろしいことはしていないから警察に通報されることもないと結論し、安心して、一人笑いするまで気分が回復した。
夜ご飯はトンカツだった。それに味噌汁とご飯。サラダ。すべてを平らげ、満腹になると、旭は、胸の悪くなるような暗い気持ちになり、ぼうとしながら、テレビを見ていた。明日だ。明日、なおはレイプされる。またこのことを考えていた。どこまでも深い暗い穴の中に心臓が落ちて、遙かな底で、どきどきと動悸が反響している気持ち。疲れが重みとなって肩にのしかかる。愛とか幸福とかそういったものが嘘っぱちで、自分に関わりのないものに思える。俺は愛も幸福もなく生きていくそんないやな重たい気がして、希望が泡となってはじけて消えていく。何も残らない、俺は無力だ。明日が怖い。旭は自分では何もできないと痛感し、ご飯を食べて満足している平和な自分を嫌悪した。すると吐き気がこみあげてくる。こみ上げてくるだけでそれはずっと胸の真ん中にとどまっていた。なおに悪い。なおを助けられない。美貌のなおに辛いことが降りかかるのだと思うと、自然に同情の涙がこみあげてくる。
「誰かが汚していい相手じゃないんだ」
旭は立ち上がり拳をふって一人ごとを言った。
「なにあんた」母が変な顔をした。
旭は自分の部屋に避難すると、鞄から刃物を取り出し、新聞紙を剥がして、その光沢のある刃を眺めた。先端は鋭い。軽く指を押し当てると、すぐに皮膚が破れ、赤い血がでた。
「切れ味が良いな」
旭は血の出た指を口にくわえると、机の引き出しに入っている絆創膏を取り出し、一枚、傷口にはった。ガーゼの部分はすぐ赤く染まった。だが、それ以上には広がらなかった。
「こいつで……」
旭は難なく人が殺せる気がして怖かった。しかしいくらか心強くて、不安な気持ちは若干薄れた。変わりにぎらぎらと強い怒りに似た乱暴な正義の心が気持ちを高ぶらせた。
「なおちゃん」
旭は勉強をしようとノートを開いた。しかし、すぐにやめてベッドの上に横になった。
「なおちゃん」
目を閉じて、なおの可愛らしい笑顔を思い出しながら二時間くらいぼんやりしていたが、十時くらいには眠りについていた。
朝になって目が覚めると、旭は、妙にいきいきとした清い気持ちだった。
「おはよう」
朝ご飯の炊いた白いご飯と、目玉焼きとウィンナーと、わかめと豆腐の味噌汁を胃に入れると、歯磨きをして、旭は学校に向かった。眼球がらんらんとして、刃物を入れた鞄が嫌に重い。今日という日の天気のいい朝の空が冷たく意地悪に感じた。しかし、どこか母のような温かい雰囲気もないわけでもない。
教室の中に入ると、すぐに男子生徒たちが集まり色めき立っているのが目に入った。どの男達も興奮に目をぎらつかせ、口元には嫌らしい笑みが浮かんでいる。
「よお、旭。楽しみだな」
いつもなら旭の方から話しかけなくては声を出さない男子生徒が陽気になって声をかけきた。旭は仲間外れにされるのが嫌で、にたにたしながら
「ああ」といった。そして、正義の自分が後ろから自分をつつくのを感じた。だってこうするしかないんだ。こいつらから離れていたら、なおを守れないだろう。味方のふりをしておいて後で倒すのだ。いいわけがましくそう考え、旭はひどく胸が悪くなった。朝の目玉焼きの油だろうか、ウィンナーの油だろうか。妙にねとねとと気味悪く胸の中にへばりついていた。
河瀬は隠すようにズボンのポケットからコンドームの箱を取り出し、人差し指を唇に当てた。
「ちゃんと持ってきたぞ。全員分ある」
げへへへと穢らしい笑い声が起こった。
「菊池なおをイかせた奴には千円やりましょう」
伊藤が興奮に耳を赤くしながら言った。
「いいのか、全員に配らなくちゃいけなくなるぞ? そんなに金があるのかよ」
「いやいや、彼女もたぶん処女ですからな。処女膜の破れた痛みでイくとはほど遠くなると考えられるわけでげす。むろん千円を得られるのはわずかあるいは皆無だと思う次第ですね」
「お前、伊藤、なんだよそのしゃべり方かなり浮かれているな」
「わかりますか」
どっと笑う声。
「処女膜が痛くても中が気持ちよかったらイくさ」
佐藤という太った男が、いつもは隅のほうにいて、発言を控えているのだが、今日ばかりは浮かれているようで、高い声でみんなに言った。彼は指を動かして女の中につっこんでいる真似をした。
「俺は優しくやるぜ。お前等もあんまり乱暴にするなよ」
「俺だって優しくしようと思っていたところさ」
クラスの女子生徒が話を耳にして、不快気にこちらを睨みつけていた。
そこで、河瀬が慌てて、
「ま、妄想なんだけどな。実際は俺たち何にもできないんだ。本人にあったら怖じ気ついて、幼い子供のように目も合わせずもじもじして、逃げ出すに決まっているんだ。だって俺らってそうだろう」
「ああ」
「そうだそうだ」
放課後、と河瀬が小声で合図すると、集団はばらけた。旭はうきうきしている河瀬の顔を自分の席に座って落ち着いた様子でとくとくと眺めていた。頬杖をつき、片手でペン回しをして、にたにたしていた。脂ぎった髪のこの男を自分は殺すのかと思うと、なんだか河瀬が哀れになった。今は笑っているが、それは今日で終わりで、明日には無表情に冷たく横たわるのだ。河瀬一人を殺すとは限らない。全員を殺さなくてはいけなくなるかもしれない。それはしかし無理であろうが、二三人は殺すだろう。怯えて逃げ出す男達を想像すると良い気味だが、息の根を止めるまで刃物で滅多刺しにしないといけないと思うと、なんだか大変だと感じる。そして、少し怖かった。人の命という尊い物を奪うのは悲しい。あいつ等にだって家族があって……。
人が死んだときの、冷たく動かないあの感じを想像して、旭は憂鬱になった。なんだか面白くなかった。そんな大それたことをする価値があるのだろうか。なおがレイプされないように人を何人も殺めて、俺は死刑になるかもしれない。なおは果たして俺に感謝するだろうか。俺を好きになるだろうか。いや、それは難しい。なんせなおは頭がイかれているのだから、何もわからないだろう。自分が助けられてもわからないで、他の男におにいちゃんというのだ。旭が刑務所か少年院に入っている間、なおはいつものように他の男の後を着けるのだ。俺のことなどちっとも思い出さないで。俺が守れない間に、他の男に手を出されるかもしれない。そうなったら、俺の努力は何だ。無駄だ。俺は無駄に人を殺して、自分の人生を台無しにするのか。
こう考えていると、旭はつくづく自分の計画の無力さを感じる。すると、なんだかどうでもよくなってきた。
なおを助けなくても良い。
そんなイジケた投げやりに気持ちになってきた。それになおの裸というものも見てみたい気がした。彼女に手を出すことの危険な美しい魅力に旭は頭が前のめるように体ごと自分の気持ちが傾いていくのを感じた。
ふっと旭は息を吹くように小さく一瞬だけ笑った。自分を笑ったのだ。なおのためにこんなに思い悩んでいる自分が滑稽だった。
なおは感謝しないぞ。
旭はまた自分に言った。
なんにもわからないんだ。あの子は。
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