ひどく、ジメジメした家

木曜日御前

都内在住 30代女性

 これは、私が実際に体験したお話です。

 始まりは、二十年前の夏。

 母方の祖父が要介護認定になったのを機に、当時小学校四年生だった私は両親と共に、祖父母が経営するアパートの一部屋に引っ越しました。


 一階の一番角部屋で、アパートの囲いとの関係で、日当たりも全く良くない。前の住人は汚部屋の住人で、夜逃げしたという曰く付きの部屋。

 誰も入居者が決まらないからと、入り口側は倉庫として使われていた程です。

 そのため、身内価格だと考えても、三人家族が住める家で家賃五万は激安と言っても良いほどでした。


 子供の頃は勿論このような裏事情は知らなかったのですが、初めて入った時から不気味な部屋だと薄々感じていました。

 私たちが住む部屋は酷くジメジメとしていて、空気はひんやりと、冷たいのです。

 私が引っ越したのは、一学期終わりの夏休み。空調のない部屋は、ムシムシと熱いのが当然なのです。

 けれど、なぜか空調がついておらず、窓も閉めきりなのに、とても涼しかったのです。

 私がもう少し幼かったら、何も疑問には思わなかったでしょう。しかし、小学生ながらに、この部屋は何かがおかしいと、引っかかりを感じていました。


 ただ、住めば都とでも言いましょうか。

 夏場ひんやり、冬場湿度が丁度良い。

 風呂場や風呂場前の壁は直ぐにカビだらけになるほど、蒸気がこもりやすいのが難点ではあるけれど。住めないほどではない。

 一年二年三年と過ごしていると、そういう違和感のことはすっかりと抜け落ちていました。


 そこからしばらく経ち、私が高校生の頃くらいからでしょうか。

 梅雨入りくらいから母親がしきりに「なにかくさい」と、私や父に訴えてきました。

「何かが腐ったかのような、においがする」

 最初は部屋の汚れか? と思って掃除したり、消臭剤を増やしすなどの対策も、効果は今ひとつ。

 次第には、ジメジメと共に「酷く腐ったようなニオイ」の強さが増し、私は父も臭いに悩まされました。


 大家である祖母にも一応相談はしましたが、「一体何が原因なのか? 下水道が近いからか?」と全員頭を抱えるだけで、何も解決には至りませんでした。


 それから、毎年夏は異臭が、夜寝るのが苦痛になる程。

 どうしたものかと、過ごしていたのですが、大学四年生の時私はある異変に気付きました。


 なぜか、本棚の上辺り、天井の角だけが一部変色していたのです。しかも、黒カビも生えて、ぽつぽつと汚い斑点模様になっていました。


「なにあれ?」

 父と母も私の指摘で初めて気付いたのか、「なんであそこだけ?」と不気味に見ていました。

 それから一ヶ月後くらいでしょうか、電気を点けたまま布団に寝っ転がった時に気づいてしまったのです。

「えっ」

 丁度枕の上あたり、同じく黄ばんだシミとカビの反転が天井にポツポツと浮かんでいたのです。

 あまりにも不気味なため、両親と共にどうしようかと相談しました。

 

 しかし、激安価格で住まわして貰っている身。祖母に気を遣わせてしまうし、カビとて生き物だし、今のところ実害もない。説明出来ないことはあるだろうと、臭い物に蓋をするように、事態を飲み込むことにしました。


 それから少し経過し、社会人一年目の十二月夜のことでした。

 この頃には異臭は夏でも冬でも漂うようになり、気分的には最悪な中、無理矢理寝ようと目を強く瞑っていました。

 万年床の使い古された敷き布団、寝心地は本当に良くない。

 ああ、明日の仕事嫌だな。

 そんなことを考えて、寝よう寝ようと焦っていたと思います。


 ぽちゃんっ


 不意に水音が聞こえたのです。

 しかも、まるで水の張った湯船に、大きな水の雫が落ちるような音。


 最初は気のせいかと思ったのです。


 ぽっちゃんっ ぽっちゃんっ


 二回、三回。

 間隔はありつつも、同じように水音が聞こえてくるのです。


 これはおかしい。

 今すぐにでも、隣の部屋に眠る親を起こそうとおもったのですが、その時は深夜二時過ぎ。流石にと思い、私は次の日の朝、母親に相談してみました。


「水音? 風呂の蛇口、閉め忘れたんじゃないの?」

「違うよ。そんな音じゃない。お願いだから、今日ちょっと私の布団に寝てみてよ」

 渋る母をどうにか説得し、一日だけ寝床を交換したのです。


 すると、その夜。


「変な水音がする」

 母は随分と焦った様子で、寝ていた私と父を起こしてきました。

 驚いた父も私の万年床に横になりました。

 暫しの静寂の後、父が怪訝そうな顔で「聞こえた」と言い、「水漏れではないか」と翌日祖母に相談してみることにしました。

 すると、祖母はすぐに馴染みの水道屋に連絡し、床下の配管を確認してもらうことに。

 その翌日にさっそく来てくれた水道屋は、祖母の指示の下、キッチンの隅にあった床下を繋ぐ板を外しました。


 すると、どうでしょう。たちこめるドブの臭い。

 しかも、床の下ぎりぎりまで、灰色の泥水が揺らめいていました。


「これは酷い水漏れだ」

 水道屋は驚き、すぐさま機械を使い、水抜きにかかりました。その間、どこから漏れたか確認したいから、キッチンや風呂場を見たいと言われたのです。

 こちらとしてもすぐに了承したのですが、ここで新たな問題が起きました。


 なんと、キッチンをずらそうとしたところ、まるで積み木のように、キッチンがばらばらと倒壊したのです。

 あまりの一瞬の出来事で、家族一同言葉を失いました。


「ひどいなあ、木がもう腐食してる」

 古いアパートですから、ガタは来ていても仕方ないのですが、それにしても簡単に壊れすぎです。

 しかも、キッチンだけではなく、その裏の壁も腐食していました。


「まあ、でもこれで異臭も音もわかったし」

「そ、そうだな」

「とりあえず、新しくキッチンくるまで待ちましょう」

 ここまでくるともう、家族同士で慰めることしかできませんでした。

 後日、水道屋が水回りの点検してくれたのですが、「なぜかこの配水管だけ、異様に配管が劣化している」と不思議そうにしていました。

 そんな中、どうにか信じることで、精神を保っていたと思います。


 しかし、その期待は届かず、異臭とジメジメはほんの少し改善しただけでした。


 そうこうしている内に、私は流行病の影響により在宅で仕事するようになりました。

 今までは、会社にいる時間のが長かったため、異臭は寝るときだけの我慢と思っていたのですが、一日中いるとそういう訳にもいきません。

 今まで以上に、脱臭に力を入れて、高い空気清浄機を購入などの対策をしていました。


 そんな十一月のある日。

 酷い雨が降る中、私は悠々自適に過ごしつつ、家で会社の会議に参加していたときのことです。

 仕事の納期に間に合わせるため、上司と二人で納品前の最後のチェックをしていました。

 ノートパソコン画面に映るチェックリストを確認していると、急に手が冷たく濡れた気がしたのです。

 ビクッと身体を震わせた私は、冷たい感触のした手を見ました。


 微かに濡れている……。


 ポタッ

 今度は髪の毛に、何か水滴が触れたのです。


 何? 雨漏り?

「あのお、大丈夫ですか?」

「す、すみません、な、んですか?」

 上司の呼びかけに、私はすぐに正気に戻りました。しかし、


 ポタッ ポタッ 

 また、音が聞こえたのです。そこには、私のデスクトップパソコンがある場所から。


 ポタッ ポタッ ポタッ

 今度は私の肩に水滴が垂れ、Tシャツには赤い粒の跡が残っていました。


 雨漏り? いや、違うだってここは——1階だ。


 ボタッ ボタッ ボタボタボタッ


 激しくなる水音。私は初めて、私は天井へと視線を向けました。


「ひっ……!」


 天井に広がるは、大きな大きな赤い黒いシミ。至る所から赤く染まった水滴が零れ落ちていっているではありませんか。

 沢山の服が詰まったタンスも、デスクトップパソコンも、社用のパソコンも、布団も、大切な本も。

 容赦なく水音を鳴らしながら、赤黒く染めていくのです。


 私は慌てて社用パソコンを身体に抱えたまま、大家の祖母に連絡しました。


 祖母は慌てて部屋を見た後、「もしや!」と声を荒らげると、とあるところに連絡したのです。

 それは、私がいる部屋の真上に住む住人。

 ただ本人は捕まらず、家の近くに住む家族の方がわざわざ来てくれたのです。


 その間も、私の部屋は赤く、キッチンの天井にまで浸食していきました。


 なんなのだ、この悪夢は。もしかして、あの赤い色は血なのではないか。


 恐ろしい妄想を膨らましながら、二階の人の部屋にはいったのです。


 玄関の先を見て、私たちは言葉を失いました。


 一面赤く水浸しになった床と、水が抜けきった大型水槽六つ。


 水槽の中には、三十匹以上の殆ど死んでいる観賞魚たち。


 最後の極めつけは、暴走し水をまき散らす循環ポンプがあったのです。


 そう、私の上階の人は、ペット禁止にも関わらず、大量の観賞魚を飼育していたのです。

 しかも、大量な魚の飼育には、水が必要不可欠。文字通り湯水のように水道を酷使していました。その水の量に、配管が耐えられず、我が家に日常的な水漏れが起きていたというワケです。

 しかも、床は重さや水槽から溢れた水による腐食によってかなり弱くなっていたそう。あの天井のカビは、上階の床の隙間隙間から私の部屋の天井へと垂れて、カビてしまったのです。


 そして、赤い色はサビとカーペットの塗料が溶け出したものらしく、血ではなかったのです。


 その後は私たちの家と上の階の人は壁紙、床の張り替えを余儀なくされ、上の階の人は弁償後すぐに引っ越していきました。


 あれ以来、酷い異臭も部屋のジメジメ感もなくなり、今までの二十年間何だったのかと思うほど快適に過ごしています。


 しかし、今も考えることがあるのです。


 もし、あの時私が家にいなかったら。

 もし、あのまま床が腐食され抜けていたら。


 特に、私の今寝ている枕の上。

 今は無きカビ模様の向こうには、大きな熱帯魚が泳ぐ水槽があったのです。


 そう考えるだけでもう、夜しか眠れません。



 おわり

 

 

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ひどく、ジメジメした家 木曜日御前 @narehatedeath888

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