結婚飛行
課長
結婚飛行
あなたが蟻として目覚めたら、どうしますか?何も知らない世界で、ただひたすらに生きるだけの蟻として。そんな問いに直面したとき、あなたはどうやって自分の役割を見つけるでしょう?きっと、私は――
――うう、臭い。けどどこか懐かしい匂いがする。メガネがないからか、目の前がぼやける。いつの間にか体中の痛みは消え、重力も感じない。私が歩き始めたその瞬間、なにか大きなものにぶつかった。
「あ、すみませんっ」
自然と謝罪の言葉が出た――私の口からではなく、触角から。
「あら、どうしたの?」
羽のついた、黒くて美しい物体が話しかけてきた――触角が触れた。
「あの、ここはどこでしょうか」
「どこって、私たちの家よ。そろそろお別れだけどね」
家?お別れ?意味が分からない。
「......申し訳ないですが、私にそんな記憶はございません」
「ねえ大丈夫?頭を打ったの?」
「いえ、今はとても元気です」
そうこう話しているうちに、私の置かれた状況が分かってきた。ここでの私は働き者とされていたらしい。周囲に漂う土の匂いから察するに、ここは......蟻の巣なのだ。私は、働きアリに変身してしまったのだ。
勿論信じられるはずもない。しかし、こびりつく匂いとじわっとした触覚は紛れもなく現実、いや、それよりも生々しいものだった。
呆然と立ち尽くしていると、どこからか蟻が下りてきた。
「アンタ、腹減ってる?」
「あ、減ってます!昼からなんにも食べてなくて――」
返答に間髪を入れず、蟻は私の口に吸い付いてきた。まあ、キスなんていつぶりだろう!元彼を思い出しかけた瞬間、胃液のようなものに味覚が刺激される。どうやらこれは食べ物の口移しだったようで、しかも相手はメスだった。私は、蟻となってまもなくして洗礼を受けてしまったようだ。
「アリス、この子、記憶が曖昧になってるみたいなの。」
「そうなんすか!じゃ、あたしが面倒見ましょうか?」
アリスと呼ばれる働きアリに、世話をしてもらえるらしい。女王からは、柔らかな匂いが漂っている。
「アンタ、名前は覚えてる?」
「えっと......
ここで名刺もポケットもないことに気づく。そうだ私、蟻だった。
「アリツカ......変わった響き!」
「あなたはアリスさん、でしたっけ?」
「そう!あたしはアリス。かしこまらないでいいよ」
「ん、よろしくね。アリス」
「こちらこそ、アリツカ!」
触角を交わらせた。
アリスは、働きアリとしてのいろはを私に教えてくれた。
主な仕事は幼虫の世話。餌探しは経験豊富なベテランが担当するので、大半の蟻は地中で生活する。驚いたのは、蟻社会が人間界よりも早く女性参画社会を実現していたことだ。
トップの女王アリについては言うまでもないが、働きアリ全員が、メスなのだ。
オスはどうしているのかというと――
「オレの仕事は交尾。ただそれだけだ」
と、近くに寝そべるオス蟻のアリノに切り捨てられた。そういえば、交尾終盤のオス蟻をバラバラにして食べるのも、働きアリの仕事だったっけ。世の中には知らなくていいこともある。頑張れ、アリノ。
住めば都という言葉が、この巣にはよく似合う。トイレ完備で、巣の中は清潔で快適だ。気になる恋愛事情については住民の全員がきょうだいなので、以前の私のように独身であることを気にする必要もない。
しかし、元の世界が心配だ。
手掛けた結婚式の当日に私は倒れた。15連勤目だったか、やりがいのある仕事だったけど、張り切りすぎてしまった。きっと、私がいないと本番はうまくいかない。
いつ死んでも悔いはないって思ってたが、新郎新婦の笑顔を見られないと思うととても悔しい。
「ねぇ、アリス!なんか仕事ない?」
気を紛らわせるために、とにかく手を動かす。これは生前からの癖だ。
「んーあるけどさぁ、アンタ働きすぎじゃない?いつ休んでるの?」
――休み?いや、
「『働きアリ』って言うくらいだし、ないと思ってたんだけど」
アリスの触角の動きが止まった。そこに私は付け加える。
「え、働きアリって、休み無しで働き続けるんじゃないの?」
アリスの触角は再び動き出す。
「アンタ......知らないの?働き者の法則って」
人間界では、『働きアリの法則』と呼ばれるあれのことか。
「『どんな環境でも、働き者のうち二割がサボる』っていう社会の常識よ」
「キャリアセンターで聞いたことある、それ。働いたら負けってやつ?」
「違う!なんのためにその二割がいるか、分かる?」
「仕事にやりがいを見出してない、から?」
アリスはふきだした。
「もう、アリツカは仕事好きすぎ!......働いたアリが疲れて休むときに、サボってた二割のアリが代わりに働き出すの。だから、アンタは一回他の人に仕事投げて休みなよ」
もっと働きたいのにーという私の思いを察するかのようにアリスは付け加えて、
「......じゃあ、あたしの話聞いてよ。相談に乗るのも、仕事じゃないの?」
相談に乗ってナンボの職に就いていたこともあり、アリスの話を聞くことにした。
「ねぇ、結婚飛行って知ってる?」
ハネムーン的なやつだろうか(たぶん違う)。アリスは続ける。
「うちの新しい女王アリが、出会いを求めて巣の外へ飛んでいくの」
「え、それ巣の中じゃダメなの?」
「家族と子供は作れないでしょっ」
そういう概念もあるのか。つくづく人間と蟻は似ている。
「その護衛を、任されちゃったの」
すごい、責任重大じゃん!と褒めてみたが、アリスの触角には元気がない。
「巣の近くに張り込んで、外敵がいないか確認するんだけど――私、一度も巣の外に出たことがないの」
「え、じゃあなぜいきなり護衛を?」
「蟻手不足よ」
「はい?」
「高子少齢化による蟻手不足。外で活動する働きアリのほとんどはおばあちゃんで、それも寿命が近いの。だから、あたしみたいな若い働きアリが駆り出されてしまう」
「そ、そんなのアリ!?......ごめん」
「それがね、ずっと不安なの」
喋っている間、アリスの触角の軸はブレていない。真剣なんだ。なにかしてあげられることはないだろうか。
「結婚飛行、ね――」
結婚飛行。けっこん......結婚!?
そうだ、生前、私はウエディングプランナーだったじゃないか。そこで培ったノウハウをここで活かせないだろうか?
「アリス、私をその『新しい女王アリ』に会わせてもらえないかな」
「アンタもう会ったことあるじゃない」
「お久しぶり。体の調子は、大丈夫そうね。私はメアリー。改めてよろしくね」
私の何十倍も大きい身体に、ジェットウイングのような羽を持つ、新女王アリ。
「その節はお世話になりました、メアリーさん。本日はよろしくお願いします」
新婦と入念に話し合い、打ち合わせを行う。これは式の成功には欠かせない。
・結婚飛行が成功する確率は極めて低い
・雨風や天敵がいるだけで飛行は中止される
・ベストタイミングは雨が降った翌日
この3つの教訓が、代々伝えられているらしい。つまり、結婚飛行の成功は運に左右される。こんな命懸けの式を担当するのは初めてだ。俄然燃えてきた。
私の仕事は、結婚飛行を成功させること。そのために、成功する確率を少しでも上げる必要がある。時間は限られているのですぐに行動に移した。
「天候要素」ある程度予想ができる。式本番の天気まで考慮して計画を立てるのがプロだから、私は1週間分の天気予報を暗記していた。倒れてから約2日経っているので、5日後までは予想が付く。そこから理想的な日時を複数提案した。
「環境要素」予想がつかない。前もって女王アリの護衛チームを集めてミーティングを開き、情報を共有した。
家族だからという理由で、新参者の私の意見を巣のみんなは快く聞き入れてくれた。
そして私は今日、倒れていない。仲間の尽力により、ワーク・ライフ・バランスを維持したまま準備を進めることができた。
「アリツカ、いよいよ本番ね。緊張してる?」
「そう言うアリスだって」
「まあね。でも、アンタが準備してくれたお陰で、少し楽になったかも」
「言ってくれるじゃ〜ん!」
そう言ってアリスをきれいに
「さぁ、行こうか」
巣の出口付近は、今か今かと出発を待ちわびる群衆で溢れかえっている。結婚飛行は新女王アリとオス蟻が飛び立つので、そこらじゅうに羽アリがいる。その中に、メアリーさんの匂いを感じ取り、その方向へ急ぐ。
「おはようございます、メアリーさん。気分はいかがですか」
「あら、アリツカ!来てくれたのね」
「一生に一度のこの舞台、お見送りしないわけにはいきませんよ」
「ありがとう。アリスも、今日はよろしくね」
「がんばるっす......」
メアリーさんとアリスが、光差す方へと向かっていく。段々と小さくなる2つのシルエットは、どんなものよりも美しいと思った。
私は出口付近で外の様子を伺いながら待機する。
そして、一匹のオス蟻が飛んでいくのをぼやけた目で見届ける。
そのアリは空高く飛んでいき――消えた。突如として空は暗くなり、巨大な鳥が結婚飛行を妨げるかのようにやってきた。
「総員、退避ーッ!」
その伝令は、触角を通じて伝わってきた。
メアリーさんは外にいる、伝わるだろうか。
今、私にできることは。
「この匂い......アリツカ、アリツカなのね!?」
この声は――
「アリツカ、助かったよ、ほんとにごめん」
みんな、生きてたんだ。
「大丈夫。気にしないで、行ってください」
フェロモンをぶちまけたおかげで、私の臀部はすでに吹き飛んでいた。
そこでアリスが私の匂いに気づき、メアリーさんを連れて引き返してくれたらしい。
「でも」
「アリス。このタイミングを逃したら、次はないの。だから、行って」
私は嗅覚で、メアリーさんが飛び立ったことを感じ取った。
そして、私の命がもう長くないということも感じ取った。
これにて閉式だ。
次に目を覚ました時、背中には大きな羽がついていた。
結婚飛行 課長 @me4z
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