「すねていらっしゃいます」

 だが、しかし。

 それから数日経った、この日。

 自分達の住居を尋ねて来た湖畔の部族の男の言葉に、シルファもシルフィも、あっけにとられていた。

 湖畔の部族と、狩りについて話し合うことになっているこの日。

 案内役として湖畔の部族の集落から来た彼は、森の部族の長であるヤヌスの住居を訪ねる前に、ここに来たらしい。

 そして、お二人にお願いがあるのですが、と言って切り出した言葉が、先ほどの言葉だったのだ。

「まあ、正しく言うと、いじけていらっしゃると言った方がよいのかもしれませんが」

「ちょっ、ちょっと待ってください」

 ジャスよりは若いその男の言葉を遮るように、シルファは言った。

「誰が、いじけていらっしゃるのですか?」

「長です」

「―はっ?」

 その答えには、シルフィも、間抜けな反応しか返せないようだった。

「だ、誰が?」

 そうして、もう一度確認するように、男に聞いている。

「我が湖畔の部族の長が、大変いじけていらっしゃいます」

 そんなシルフィに対して、男はとても冷静に答えていた。

「な、何でですか!?」

 ラルダに再会したシルフィは、どうやらその姿が想像できないらしく、男に詰め寄ってしまった。

「まあ、さすがに表情には出されていないし、いつも通りにしていらっしゃるのですが、わかる者には、わかるようです」

「それをどうして僕達に言うんですか?」

「そちらの戦士殿が来ていらっしゃってからですので。まあ、他の者は、いじけていることはわかっても、それが何故かはわからないようなのですが」

「えっと……」

「見事な蹴りでしたよ、戦士殿」

「す、すいませんっ。おケガはありませんでしたか!?」

 男の言葉に心辺りがあったのか、シルフィはあわてて謝っている。

「あなたが狙ったのは、私の足元だけでしたからね。敷布が間にあったのに、正確に狙われて、たいしたものだと感心させられました」

 本当に感心したように言われて、シルフィは、すいませんとさらに男に謝った。

 ただ、そうは言われても、部族の長を務めている人間が、すねていたりいじけていたりする姿は、正直想像できない。

 特に成長したラルダと再会しているシルフィは、その思いが強く、男に謝りながらも眩暈すら感じているようだった。

「信じられませんか?」

 自分達の様子を見て、男は笑った。

「まあ、正直……」

 それが、シルフィの本音だろう。そして、それは、シルファも同じだった。

「あの方とて、幼い時はあったのですよ」

 だがシルフィの言葉を遮るように、男は言った。

「特に、あの方はちょうど境目に生まれて来た方で、あの方と一番年の近い者は、もう少しで成人の儀を迎える、という年でした」

 つまり、ラルダが生まれるまで、湖畔の部族には、ある一定期間子どもが生まれなかった、ということだ。

「それが、あなた方の母親であるファナ殿なのです」

 その言葉には、シルフィもシルファも目を見張った。

「まあ、あの方が生まれた後は、そんなこともなく、長殿の弟であるセアドを始め、年の若い者達もいるのですが、どうしても、我々年長の者は、長殿に思い入れがあるのです」

 おそらくラルダの誕生は、湖畔の部族の者達に、大きな喜びを与えたのだろう。

 次代の長の誕生ということだけではなく、長く子が生まれなかった部族の者達にとっては、久々に生まれた新しい命だったのだ。

「特に、ファナ殿と年が近しい者達は―私もそうですが、長殿を弟のように思ってしまうのですよ」

 それは湖畔の部族の、ラルダの事情を告げる言葉だった。

「たとえ足が動かなくなろうと、長はあの方だと我々は思っております。それを、あの方も十分わかっていらっしゃる」

「……」

 言葉もなく、シルファは男を見つめた。それは、シルフィも同じだった。

「だから、あの方の立場もわかっていただきたくて、私は来たのです。長殿だけでしたらまだ良いのですが、セアドの方も、」

 その名が出たとたん、シルファは自分の体がぴくりと動いたことを感じた。

 それに気付いたのかそうではないのか、シルファの方を見て、男は言葉を続けた。

「もう、自分で穴を掘って、そこに落ちているような暗さで」

 思わず、はいっ?となってしまうような内容だった。

「図体のでかい、しかも寡黙な男達が落ち込んでいる姿ほど、うっとおしいものはないようです」

「暗そうですね……」

 シルフィも、もう他に言う言葉がなかったのだろう。

「なのでお二人には、ぜひともご協力をしていただきたいのです」

「協力?」

 シルファの問いかけに、はい、と男は頷いた。

「いじけた長と、穴を掘っているセアドを、どうにかしてください」

 大変砕けた口調で言われて、シルファとシルフィは、もう絶句するしかない。

 どこまでこの男は知っているのか、とシルファは思ってしまう。

 シルフィはともかくとして、自分は彼の言う相手と、体まで重ねてしまっているのだ。

「なーんか、力が抜けたって言うか……」

 それではまた後で、と言って男が住居を辞した後、力が抜けたようにシルフィが言った。

「いじけているらしいね」

「穴掘って、入り込むぐらいの落ち込みようだってさ」

 互いに言い合って、うーんと考え込む。

 もちろん、案内役の男の誇張もあるであろうが、しかし、すぐにはその姿が思い付かない、と言うのが本音だった。

「まあ、セアドは納得いくんだけどさ」

 たが、シルフィのこの言葉には、えっとなった。

「……そうなのか?」

「少なくとも、私にはそう思えるわ」

 双子の姉は、いたずらっぽく笑いながらそう言った。

                   ★

 陽が中天を過ぎた頃、湖畔の部族の集落へと出発した。

 今回は、シルファとシルフィの他に、ヤヌス、スレイ、そしてジャスも一緒だった。スレイは部族の男達を代表して、そしてジャスは、狩りに必要な道具を作る者達の代表として出るのだ。

「随分、すっきりした顔をしているな」

 案内役の男を先頭に、みんなで歩いていると、隣にいたヤヌスがシルファに声をかけてきた。

「え、そう?」

「ああ。ここしばらくのお前の落ち込み様は、酷かったぞ。その様子ならば、ミルも殴りこみに行かずにすむな」

 心底安心したように、ヤヌスは言った。

 だが、シルファの方は、そうもいかない。

「な、殴りこみって……ど、どこに!?」

「まあ、お前さんを落ち込ませていた相手だろうなぁ」

 歩いていた足が、思わずこけそうになった。

「おいおい、だいじょうぶか?」

「ヤ、ヤヌス???」

 慌てて体を支えてくれるヤヌスに、シルファはどういう意味か、という気持ちを込めて、彼の名を呼んだ。

 ミルは、妊婦である。

 お腹に、子どもがいるのである。

 それなのに、湖畔の部族の集落まで行くつもりだったのだろうか。

「そのまんまの意味だよ。あいつなら、やりかねん」

 そう断言されて、シルファは絶句する。

 それは、自分では思い付かないミルの姿だった。

 シルファの知るミルは、穏やかで優しい、女性らしい人物だ。

 それなのに、先日にヤヌスにくってかかっていた姿といい、どうも違った一面があるようである。

「まあ、だからあいつはいいんだが」

 そしてその一面に、実はヤヌスはひかれているようだった。

「ヤヌス、シルファ―?」

 立ち止まった自分達を不審に思ったのか、先に歩いていたシルフィが後ろを振り返って、呼びかけてくる。

「すぐ行く! 行くぞ、シルファ」

 シルフィに言葉を返してから、軽くシルファの肩を叩くと、ヤヌスは歩き出した。

「ヤ、ヤヌス……ミルは……」

 そんなヤヌスの隣を歩きながら、おそるおそるシルファは話しかけてみる。

「ああ。お前さんとあちらさんの関係、わかっているみたいだぜ」

 あっさりとそう答えられ、またしてもこけそうになった。

「お、おいっ。だいじょうぶか!?」

「な、なんでっ……」

 と言うか、シルフィだけではなく、何故にヤヌスやミルまで自分とセアドのことを知っているのか。それに関しては、ヤヌスは少し遠い目をしていた。

「お前の知らない力が働いたとでも、思っておけ」

 そう言うと、ヤヌスはシルファから手を離し、歩き出した。

「そ、それは……」

 慌てて後を追い、さらに尋ねようとしたが、

「そういうことに、しておけ」

 こちらも、さらに念を押すように言われてしまった。

「ヤヌスは……反対じゃないのか?」

 だから、もう一つの気になる問いを、シルファはしてみた。

それには、ヤヌスもおや、という表情になる。

「反対する理由は、ないだろう?」

 そうして、あっさりとそう言った。

「ヤヌス……」

 しかし、相手は男であり、同じ部族の者ではないのである。

「まず、相手が男ってことは、今さらだからな」

 ヤヌスの父が、ヤヌスの母の死後愛したのは―もしかしたら、生きていた頃からなのかもしれない―、シルファ達の父だった。

「それに、湖畔の部族の者であることも、今さらだろう。お前達の母親だって―ファナだって、そうじゃないか」

 シルファ達がその事実を思い出したのは、本当につい最近のことだったが、さすがに自分達よりも年長のヤヌスは、覚えていたらしい。

「まあ、確かに積極的に湖畔の部族と交流を持っていたわけじゃあないが、お前達のことだって、今後のことを考えれば、悪いことじゃあない。むしろ都合がいいことになるかもしれない」

「……ヤヌス?」

 どこか含みのある言葉に、シルファは首を傾げた。

「獲物の数のこともそうだが、部族の間だけで夫婦になっていれば、子どもの数は確実に減る。ミルが今度子どもを生むが、成人の儀を迎える前の子ども達の数は、俺達成人を済ませた者達よりも、少ないだろう?」

 言われてみれば、そうである。

「俺達の時には、少しではあるが、子どもの方が多かった。もちろん、これから先も生まれる可能性はあるが―どうも、楽観できないような気がしてな」

 シルファは、湖畔の部族に、しばらくの間子が生まれなかったという話を思い出した。

「だったら、他の部族の者達と結ばれる者が、もっと出てきて、先例を作ってくれたらいい、と俺は思うんだ。まあ、確かにお前は男だが―それには多少目を瞑っても、やっていくことで、見えてくるものもあるかもしれないだろう?」

 なるほどな、と思った。

 ヤヌスはヤヌスで、やはり部族の未来を考えていたらしい。

 ただ、それはそれとして。

 自分とあの男は、体は重ねていたが、肝心なことは何一つ交わしていないのだ。

 自分の中には、確かにあの男への感情がある。

 幼い頃、共に遊んだあの男への、成長した感情が。

 だが、あの男はどうなのだろうか?

 確かに、部族のために自分を抱いたのではないのかもしれない。

 けれど、自分と同じ感情を持っているとは、限らないのだ。

 無意識に、軽くため息を吐くシルファに、ヤヌスがぽんっと、軽く肩を叩いた。

「あまり、考え込むな。それよりも、今は、しなければならないことがあるだろう?」

「ヤヌス……」

「それを済ませてから考えても、遅くはないさ」

「……そうだね」

 ヤヌスの言葉に、シルファは頷いた。

                 ★

 湖畔の部族の集落に着いた時、そこは言いようのない緊張感に包まれていた。

「何だ……?」

 その様子を感じて、ヤヌスが小さく呟く。

 陽のあるうちは、たいていの男達は狩りに、女達は木の実や食べられる野草などを探しに行く。

 シルファ達の部族は、女でも魚釣りをしたり、簡単な罠を作り狩りをしたりする者もいるが、それでも、陽のあるうちにやることは同じだった。

 だから、通常、集落の中にある住居には、人の気配はしない。

 集落の中残っている者達も、たいていは神を祭る広場に集まって、何らかの作業をしているからだ。

 だが今、湖畔の部族の者達が、集落の住居の前に、何人もいるのだ。

「前に来た時と、様子が違うみたい」

 そう、シルフィも呟く。

 シルファ達の前を歩く案内役の男も、けげんそうな感じで、足を止めている。

「騒がしいようですな、レン殿」

 男の近くにいたジャスが、そう声をかけている。

 レン、というのが案内役の男の名のようだった。

「外に出た者が、戻っているようですが……」

 しかしそれにしては数が多いと、案内役の男―レンは言った。

 いぶかしげに思いながらも、シルファ達は、集落の方へと歩いて行く。

「レン!」

 と、住居の前にいた者の一人が、レンを見つけ、声をかけてきた。

「どうした、騒がしいな」

 レンとたいしてかわらない年の男は、レンの問いかけに、難しい顔をして頷いた。

「近くにいる者達が、呼び戻されているんだ」

「何があった?」

 彼は口を開こうとしたが、レンの後ろにいるシルファ達に気付いたのだろう。

 ふと見ると、自分達の住居の前に立っている者達も、不安そうな表情で、こちらを見ていた。

「続きは、長のところで聞いてくれ」

「わかった」

 おそらく、今ここで話をするのは、望ましいことではない、ということなのだろう。

 それとも、人々の前で話すことではない、ということなのか。

(何かしらね?)

 シルフィの言葉が、直接シルファの頭に響く。

(とりあえず、行けばわかるよ)

 それに同じ方法で返事をしながら、シルファは、レンに案内されるまま、ラルダ達の住居まで歩いた。

 案内された住居は、入口から一番離れた場所にあった。

 住居自体も、他のものと比べると、りっぱに作ってあるようだった。

 基本的に、住居はその住居に住む者達が協力して作るが、長の住居ということもあり、そういうことを得意とする部族の者達が、作ったのかもしれない。

「レン!」

 出入り口に立っていた女が、レンを見つけて、そのまま小走りで近寄って来た。

 年恰好からすると、レダと生まれは近いようだ。

「イア、何があった?」

 その女が答える前に、

「レン、戻ったのか?」

 と、住居の内側から、声がした。

「はい。ただ今、森の部族の方々と共に」

 レンがそう答えると、

「すまぬが、私を運んでくれ」

 と、声が言う。

 わかりました、とレンは言って、入口にかかった敷布を捲って、中に入って行った。足が動かない、とはシルファもヤヌスやシルフィから聞いていた。

 シルファの思い出の中にいる彼は、いつもシルフィと互角に遊んでいた姿だ。

 彼らの好む遊びは、自分とはまったく違っていたせいもあり、シルファは、あまりラルダのことは覚えていなかった。

 だが、あのシルフィと互角に遊べていただけあって、彼の身体能力は高かったはずだ。

 イア、とレンに呼ばれていた女が敷布を捲ると、レンがラルダを横抱きにして出て来た。

 セアドとは違い、神に捧げられる黄金の石と同じ色の、長い髪を持っていた。

「森の部族の方々、このようなお見苦しい姿をお見せすることになり、申し訳ない」

 若草色の瞳を伏せながら、ラルダは言った。

「お気になさいますな、湖畔の部族の長殿。この只ならぬ雰囲気は、何かあったのでしょう? もしよろしければ、話してもらえませぬか。お力になれるやもしれませぬ」

 それに対し、ヤヌスは対外的用の話し方で、そう答えた。

 ヤヌスに言わせると、肩は凝るらしいが、これも気持ちの切り換えには必要らしい。

 シルフィは意識が完全に「解放」されると言葉遣いが変わるが、それと似たようなことを、故意にやっているものなのかもしれない。

「森の部族の長殿。力をお貸しくださるか?」

「長!」

 近くにいたイアが叫んだが、ラルダを抱き上げていたレンが、それを視線だけで止めた。

 そんな場合ではない、とでも言うように。

 その時ふと、シルファはあることに気付いた。

 セアドの姿が、見えないのだ。長の弟であれば、当然彼はその近くにいるだろうと、シルファは思っていた。

 だが、彼の姿はない。

 シルファが嫌な予感を覚えるのと、ラルダが口を開いたのは、同時だった。

「我が弟の、行方が知れぬ。夜明け前に出かけて行ったきり、戻ってくると言っていた、陽が中天を過ぎても戻ってこぬのだ」

 その瞬間。シルファは、自分の意識が強い衝撃を受けて、ことを感じた。

「シルファ!」

 シルフィの声が聞こえて―だが、確かに感じたことは、それが最後だった。

                    ★

『ごめんね……』

 病床に伏した父が、小さく呟く。

 切なげに目を細めたヤヌスの父が、労わるように父の手を握り、もう片方の手で、握った手の上から、ぽんぽんっと軽く叩いた。

『本当に、ごめん……』

 父は、謝りながら目を閉じた。

 父が亡くなったのは、それからすぐだった。

 そうして、それを静かに見送っていたヤヌスの父も、父の後を追うようにして、それから間もなく亡くなった。

 あの時。何故、父がヤヌスの父に謝るのか、わからなかった。

 だけど、あれは自分の死を自覚した父が、残していくことになるヤヌスの父に、許しを請うていたのかもしれない。

 愛する者を、この世に一人残していくことに。

 そして、一人残されたヤヌスの父は、父の後を追うように逝ってしまった。

 父は病を得た末に亡くなったが、ヤヌスの父の死は、本当に突然だった。

 朝、ヤヌスが起きた時には、寝床で冷たくなっていたのだ。

 彼は、父が最後まで心配していたように、父のいない世界に、耐えることができなかったのだ。

 人は、「寂しさ」だけでも死ぬことがあるのだ。

 ヤヌスの父の死は、シルファにそのことを教えた。

 ―では、自分はどうだろう?

 そう、シルファは思った。

 セアドがいなくなった世界で。自分は、生きていけるのだろうか?

 その瞬間、シルファは我に返った。セアドがいなくなる、と言うこと。

 それは、あの男が、この世界に存在しなくなるということだ。

『陽が中天を過ぎても帰って来ぬ』

 このまま、帰って来なかったら。

 自分は、一人この世界に遺されることになるのならば。

(―!)

 息が、できなかった。

 セアドが死んだとは、決まっていない。

 もしかしたら、ケガをして動けなくなっているのかもしれないし、迷っているのかもしれない。

 だが、どちらにしても、陽が沈んでしまったら、危険性は高くなる。

 動物達が集落にいる人間を襲わないのは、人数がたくさんいるからだ。

 陽のあるうちに一人で狩りをしていても、あまり襲われることがないのは、こちらが注意深くなっているせいだし、動物達もそうだ。武器を持った人を、陽のあるうちには襲わない。

 だが陽が沈めば、暗闇に適さぬ目を持つ人は、圧倒的に不利になるのだ。

 シルファは目を瞑り、息を吸おうとした。と、その時だった。

『自分は何ができて、何ができないのか。努力も必要だけど、自分ができることをより高めていく方が、ためになることもあるよ』

 ふいに……そう本当にふいに、父の言葉が、辺り一面に響いた。

「父さん!?」

『今のお前には、何ができる?』

 それと同時に、シルファの目に、周りの風景が飛び込んでくる。

 空に浮かぶ雲。

 約束した。

 この雲まで、矢を飛ばしてみようと。

 その瞬間、風と「同化」したシルファの意識は、一気に地上へと向かった。

 何故にこの状態になったのかは、今は考えることではない。

 今、自分にできること。

 風と「同化」した自分ができることを、しなければならないのだ。

 一面に広がる草原。

 その手前に広がる、森。

 そして森の間を流れる川。

 先にあるのは、湖。

「メェェェー!」

 セアドの姿を求め、意識を広げた時、ジュジュの鳴き声が響いた。

「ジュジュ!?」

 鳴き声が聞えた方に、意識を集中する。

 次の瞬間には、シルファは草原で、必死になって鳴いているジュジュの前にいた。

「ジュジュ!」

 シルファがそう叫ぶと、ジュジュは、まるでシルファの姿が見えているように、もう一度、「メェェ」と鳴くと、後ろを向いて走り出した。

 まるで着いて来いと言うようなその動作に、シルファは、はっとなる。

「ジュジュ、もしかしてセアドがどこにいるか知っているのか!?」

 しかし、シルファの問いかけに、ジュジュは答えず、必死になって走っていた。

 とにかく、に行くことにしか、頭にないような走り方だった。

 やがて、しばらく行くと、大小の石達が、草原に散らばっていた。

 石が散らばった草原の上には、切り立った崖がある。

「メエエエー!」

 こっちだと言う様にジュジュが鳴き、走り出した先には。

「……っ!」

 その瞬間、シルファは息を飲んだ。呼吸が止まった、とすら思った。

「セアド……!」

 セアドが、倒れていたのだ。

 大小の石の間に、紛れるようにして、彼は倒れていた。

 風と「同化」したシルファの意識は、すぐさま彼の元へと移動した。

 辺り一面に、強い風が吹き抜けたが、かまってはいられなかった。

「セアド!」

 近くまで行くと、倒れているセアドの瞼が、微かに動いた。

 落石に巻き込まれたのだろうか。

 倒れているセアドの体の上には、幸いにも石は落ちていなかったが、どうやら、動けるような状態ではないらしい。

「メェ~」

 と、ジュジュの子どもである子山羊ハレイが、ペロペロと一生懸命セアドの頬を舐めている。

 どうやら、起こそうとしているようだった。

「セアド、しっかりしろ!」

 シルファは、セアドの耳元でそう叫んだ。

 と、その時だった。

 セアドの瞳が、うっすらと開く。

「シルファ……?」

 黄金色の瞳が、姿の見えないはずのシルファを捉える。

 だが、その瞳は完全に意識を取り戻してはいなかった。

「シルファ……ごめん……」

 小さく、セアドは呟く。

「約束守れなくて……ごめん……」

 それは、幼い頃の約束ものだった。

 雲にまで、矢を届けてみせるという、約束。

 セアドは、忘れていなかったのだ。

 そうして、次に呟やかれた言葉は。

「―愛している」

 その瞬間。

 シルファの中にあった「思い」が、爆発した。

 死なせたくない、と。

 この人を死なせてたまるもんかっという。

 そんな、強い思いが。

(―シルファ!)

 そしてその思いに応えるようにして、双子の姉の言葉が、脳裏に響いた。

「シルフィ、助けてくれ。セアドを助けるために、力を貸してくれ!」

 その瞬間。

 シルファは確かに、風と「同化」した自分の意識が、元の自分の「体」に戻ることを感じていた。

                    ★★★

「体が消えた!?」

 倒れこんだシルファの体を、とりあえずラルダ達の住居に運び込もうとしていたスレイが、声を上げた。

「シルファ! 返事をして、シルファっ!」

 しかし、シルフィはそれには構わず、双子の弟の名を呼び続ける。

 自分でも、「神の加護を受けた者」の証である瞳が、強い光を宿しているのがわかった。

 こんなことは、かつてないことだった。

 今までにも、部族のために―主に狩りのために、自分達が持つ力を使うことはあった。

 だがそれは、シルファに関して言えば、風と「同化」することだけだったのだ。

 確かに「同化」している時は、風の力を操ることも可能だが、それ以上のことはできないはずだった。

 ヤヌスを始めとして、周りの者達の視線が自分に集中していることはわかった。

 彼らにしてみれば、今頼るのは、自分しかいないのだ。

シルファがいきなり倒れ、体まで消えてしまった状況を、理解し、どうすればいいのか伝えるのは、「神の加護を受けた者」の片割れである自分しかいない。

「シルファ!」

 だから、必死でシルファに呼びかけた―と、その時。

(シルフィ、助けてくれ。セアドを助けるために、力を貸してくれ!)

 双子の弟の声が、シルフィ脳裏に響いた。

「シルファ!」

「返事があったのか!?」

 シルフィの声色で、そのことを悟ったのだろう。

 近くにいたヤヌスが、そう声をかけてきた。

 シルフィはそれに軽く頷くと、少し待ってと、視線で伝えた。

「シルファ、今どこにいるの?」

(草原に……頼む、シルフィ、セアドを助けてくれ!)

 そして、その声を聞いた瞬間。シルフィは、自分の意識が「解放」され始めたことを感じた。

「落ち着け、シルファ」

 それと同時に、口調が変わったのが、自分でもわかった。空の色と火の色が交わってできた色の瞳が強く輝く。

「今そのことができるのは、そなただけだ」

(えっ!?)

「私は準備を整えてから、そちらに向う。その間に、できることをしておいてくれ。セアドのケガの手当てなどは、その間にできるであろう?」

(シルフィ……)

「セアドを助けるために、そなたはそちらに行ったのであろう? 今のそなたには、何ができる?」

(ケガの手当てと……安全な場所への移動……)

「そうだな。では、今すぐとりかかってくれ。できるだことだけで良い。その間に、準備にとりかかる」

(シルフィ……)

 双子の弟の声は、震えているようでもあった。

「私が行く。だがそれまでは、耐えてくれ。セアドを救えるのは、そなただけだ」

(……ああ)

 深く息を吐き出すように、弟は言った。

「今一度、確認する。そなた達は、草原にいるのだな?」

(ああ。草原の真上には、切り立った崖がある)

 シルファの口調は、さっきよりも少しは落ち着いたものに変わっていた。

「他には、何か見えるか?」

(……それ以外は、まだわからない)

 それでも、今のシルファには、まだ周りをよく見る余裕はないのだろう。

「わかった。では、準備が整い次第、そちらに向う。立つ前に、今一度『呼びかけ』る。その時までに、できたら、周りのくわしい様子なども確認していてくれ」

(ああ)

「決して、無理はするな。よいな?」

(わかっている。何かあったら、『呼びかけ』る)

「気をつけるのだぞ」

(ああ)

 その瞬間、弟の声は脳裏から消えた。

「無事なのか!?」

 それを待っていたかのように、ヤヌスが尋ねてきた。

「無事ではあるが、セアドが動けぬようだな。こちらから、迎えに行くしかない」

「―誰が?」

 と、その時だった。

 ふいに、そんな声がした。その声がした方に、シルフィは視線を向ける。

「誰が行くの? そんな危険な場所へ」

 そう言ったのは、イアだった。

 「イアっ!」と、敷いた敷布の上に座っているラルダの傍にいたレンが、声を上げる。

「私が行く」

 だが、シルフィは視線でレンを止めると、イアに向ってそう言った。

「私の弟が、私に助けを求めてきた。だから、私が行く」

「陽が落ちたら、獣達が襲ってくるかもしれないのよっ。それよりも、あなたの弟の『力』で、運んでもらったらいいじゃないっ」

「それは、できぬ」

「だって、さっきはっ」

 何故か、イアはそう言い募ってくる。

「先ほどのことは、私でも考えられぬこと。確かに我らには神の加護たる力は与えられてはいるが、それでも、できぬことの方が多い」

 それに対して、シルフィはそう応えた。

「それに、セアドがそこに行ったということは、そなたが思うほど危なくはないということではないか?」

「獣が―」

「この私が、獣ごときを恐れると思うのか?」

 その瞬間。

 周りにいた者達が、息を飲んだことがわかった。

 だが、シルフィは自分の意識が、完全に「解放」することを、抑えことはできなかった。

 イアが、顔色を変える。

「俺も行くぞ、シルフィ」

 しかしさすがに付き合いが長いヤヌスは、そう話しかけてきた。

「いや、それはならぬ」

 だが、シルフィは首を振った。

「何故だ!?」

「そなたは、部族を率いる者。我らが戻らなかった時に、次の手を考えなければならぬ」

「シルフィ……」

「なら、わしが行こう」

 落ち着いた声で、ジャスが言った。

「わしなら、何かあっても問題はない。一人娘は育ち上がったし、今は狩りにも行っていない身の上だ」

 髪は霧と同じ色になったが、木の実と同じ色をした瞳は、未だにその力強さを失ってはいない。

 正直、ありがたい申し出だった。

「俺も行くぞ!」

 続けてスレイもそう申し出てくれたが、それには、シルフィは首を振った。

 彼は、狩りをする男達の中でも、要となる者だ。

 シルファが絡んでいることとは言え、他の部族の救出のために命を落としたとなれば、湖畔の部族との折り合いが悪くなることは、目に見えていた。

「草原であれば、ルフを使ってください」

 そして、ラルダがそう申し出て来た。

ルフ?」

 その言葉には、さすがのシルフィも目を見張った。

 草原にいるのは、知っている。時々は、狩りの対象となる動物でもあった。

 ただ、足が速いのと集団で行動する性質があるので、一人ではなかなか狩れない。

「はい。あれ達の背に乗るのです。我が部族では、何頭か飼いならして、人を乗せるようにしております」

「なるほど。その中に、頭が良く、度胸もあるものはおるか?」

 そう、を乗せることができる、気性を持つルフでないと駄目なのだ。

「おまかせください」

 それに答えたのは、レンだった。

「私も一緒に行きます。戦士殿は、ルフに乗ったことは?」

「ないが、乗ればどうにかなる」

 どのみち、シルファとセアドを連れ帰るとなれば、最低でも二匹は必要になるだろう。

 ジャスは今まで馬に載ったことがないだろうから、自分が一人で乗るしかない。

 そう、シルフィは判断した。

 それに、ルフが怯えさえしなければ、何とかなるのも本当ではあった。

 こんなところは、神に加護を受けた身であることを感謝したいと思った。

「では、私は馬の用意をしてきます」

 そう言って、レンがラルダにそう言って、走り出した。

 おそらく、馬達がいるところへ行くのだろう。

 と、その時だった。

「俺も行く!」

 いつのまに来たのか、以前、シルフィがこの集落に来た時に、立ち塞がった若い男がそう叫んだ。

「そなた……」

 さすがに唖然となったシルフィに、

「マーニも、お連れください」

 そう言ったのは、ラルダだった。シルフィは、彼の方に向き直った。

「マーニは犬使いです。馬にも乗れる。役立つと思います」

「頭が良く、度胸もある犬はおるか?」

「二匹いる」

 そう尋ねると、マーニは即答した。

 確かに、犬がいてくれれば、それだけ危険は減る。

 動物達は、人が犬を使って狩りをすることを知っているから、犬を連れているだけでも、襲うことはしなくなるのだ。

 それに、使えるルフが増えるのは、ありがたいことでもあった。

「ならば、力を貸してくれ」

 そう、シルフィは言った。

「わかった!」

 頷くと、マーニはこれまた急いで駆け出して行った。

「シルフィ……いや、風の戦士殿」

 その姿を見送っていたシルフィに、ラルダが声をかける。

 シルフィは、もう一度ラルダに向き直った。

 真っ直ぐに、彼を見つめる。

「我が弟のことを、頼みます」 

 そう言って、ラルダは頭を下げた。

「長!」

 イアが、咎めるような声を出す。

「―承知した。私の力をもって、必ず無事に連れ帰る」

 それに頷き、そしてシルフィも言った。

「だが、もし我らに何かあった時は、後のことは頼む」

「シルフィ……!」

 頭を下げたシルフィに、ラルダがその名を呼ぶ。

 頭を上げると、ラルダの心配そうな顔があった。

 その表情は、悔しそうでもあった。

 実際、彼は悔しいのかもしれなかった。

 本当ならば、自分が率先して弟を探しにいかなければならないのに、と思っているのかもしれない。

「案ずるな」

 だが、人にはできることと、できないことがある。

 そして、後を預かることができるのは、湖畔の部族では、ラルダしかいないのだ。 

 それは、ヤヌスも同じだった。

「必ず、あの二人を連れ帰る」

 神の加護を受けた証の瞳を輝かせて、シルフィはそう言った。

                 ★★★

 誰かの、泣き声が聞えた。

 誰の泣き声だろうと思い、そしてセアドは思い出す。

 あれは、シルファの泣き声だ。

『どうして、セアドとはもう会えないの?』

 そうして、泣きながら、そう尋ねている。

『ごめん、シルファ』

 それに対して、シルファの父のシーファが、謝っていた。

 言葉少なに。

 それを少し離れた木陰で見ていた自分は、本当はシルファの傍に駆け寄りたかった。

 だけど、前に勝手に集落を抜け出した自分を迎えに来た父親は、酷い言葉をシーファに投げつけていた。裏切り者、と。

 そんな言葉を投げつけた父を、シーファは哀しそうに見つめていた。

『もう、彼らの所には行かない方が良いでしょう』

 父と一緒に自分を迎えに来てくれたレンも、そう言った。

『でないと、シーファ殿が気の毒です』

 その言葉は、幼い自分には、納得いくものではなかった。

 だが、哀しそうなシーファの顔を見ると、自分がシルファに会いに行くことは、彼にとても哀しい思いをさせることになるのだ、ということを納得せざるえなかった。

 だから。

 泣いているシルファの行くことを、我慢した。

 さよならを言いに来たけれど、もう行くことはできない、とそう思った。

『お前達が大きくなったら、また会えるさ』

 そうして、父が迎えに来る前に戻ろうとした自分に、そんな言葉が聞こえた。

 それは、レンぐらい体が大きい男で。

 その男が、結局、自分を湖畔の部族の集落に送ってくれたのだ。

 子どもの時に森の部族を訪れたのは、それが最後だった。

 自分が成長した後、再度森の部族の集落を訪れた時には、その森の部族の長であったその男もシーファも、既になかった。

 だけど、シルファは。自分のことは覚えていなかったけれど、成長したシルファには、再会できたのだ。

 そうして。

 そうして……

 大切なことを、自分は伝えていなかった。

 とても、大切なことを。

『つまらないことにこだわって、伝えることも伝えないでいると、後で悔やむこともあるのよ』

 そう……シルファに自分のことを思い出して欲しくて、それに拘って、大切なことを伝えていなかった。

 もしかしたら、もう二度と伝えられないのかもしれない。

 このまま、自分は死ぬのかもしれない。

 そう、思った時だった。

『あきらめるなよ』

 そんな声が、聞こえた。

 その声は、前にも聞いたことがあるような気がした。

『俺の子ども達があきらめていないんだ。お前さんがあきらめるのは、早すぎるだろ』

 そうして。

 『さっさと戻って、大事なことを伝えろ』

 その声は、そう囁いた。

―セアド……セアド!

 遠くで、自分を呼ぶ声がする。

 それは、自分が愛おしく思う者の声だった。

「シルファ……」

 その名を、呼ぶ。

 心の底から、愛する者の名を。

「セアド!」

 空の色と炎の色を重ねた瞳が、涙に濡れていた。

「シルフィ、セアドが……!」

 誰かに向って叫ぶシルファの腕をくいっと引き、体を抱き寄せた。

「わっ、セ、セア……」

 有無を言わせずに、唇を重ねる。

「んっ、んっんっ……!」

 舌を絡めとり、吸いついた。

 微かに抗おうとしたシルファだが、結局、素直にその行為を受け入れた。

 だが、しかし。

「人の目があるのに、睦み合うなって、何度言ったらわかるのよっっ!」

 シルフィの怒鳴り声で、それは妨害されてしまった。シルファは、慌てて自分から離れてしまった。

「まあ……それだけの気力があるなら、だいじょうぶですね」

 そうして、レンが、横になっている自分を見下ろすようにして、そう言った。

「気分は、どうですか?」

 しゃがみ込みながら、レンが聞く。

「足が痛い」

 そう答えると、

「左足の体を支えている骨が、折れているようです」

 と、あっさりと言われた。

「それ以外では、どうですか?」

「後は……特にないな」

「運が良かったみたいだな。これだけ石が落ちてきたのに、それぐらいのケガですんだのだから」

 そして、レンの近くに歩み寄ってきた男が、そう言った。

「ご無事に何よりじゃ。これで、長殿も安心されよう」

「お手数をかけました、ジャス殿」

 その男に、レンが礼を言った。

 少し離れた場所からは、犬の鳴き声も聞えてくる。

「俺を……助けに来てくれたのか」

 崖の上から石が落ちてきた時は、もうダメかと思ったのに。

 だがこうして、シルファやシルフィ、そしてレン達がいるということは、わざわざ自分のいる所にまで来てくれた、ということなのだ。

「礼なら、あのお二人に。そして、このジャス殿にも。危険も帰りみずに、あなたのことを助けに来てくれたのですから」

「よく、ここまで来れたな」

 ここは、湖畔の部族の者達も、あまり来ない場所なのだ。

「シルファ殿があなたの元に駆けつけて、シルフィ殿がシルファ殿の案内を聞きながら、我々を連れて来てくれたのです」

 そう、レンは教えてくれた。

「そうか……」

 小さく、セアドは呟いた。

 それが、彼らの持つ「力」で行われたことは、言われなくても、何となくわかった。

「起き上がれるか? セアド」

 朝降った雪と同じ色の髪を揺らし、シルファが近づいて来る。

 手には、木を繰り抜いて作った器があった。

 その言葉に、起き上がろうとすると、それを、レンが手伝ってくれた。

 すこし眩暈がしたが、それもすぐに治まった。

 どうなら、ケガをしたのは、左足だけのようだった。

 見ると、その左足にも木の枝が、つるを使って巻きつけられている。

 レンに背中を支えてもらいながら、足をのばしたまま起き上がると、シルファがその傍に座り込んで来た。

「ジュジュの乳だよ。飲めるか?」

「あの山羊ハレイの?」

 だが、辺りを見回しても、それらしき姿はなかった。

「ああ、もういない。マーニって言う人が連れて来た犬に、子どもが怯えていたから、もう先に帰ってもらった。でも、乳を分けてくれたんだ」

「なるほど……しかし、その間、よく襲わなかったな」

 器を受け取りながら自分が言った言葉に、レンとジャス、そしてシルファは黙り込んだ。

「まあ……それは、シルフィ殿が『ダメだからね』と言っていましたので……」

「……逆らえぬようではあったがな……まあだから、何事もなく、ここまで来れたのだが……」

 シルファはこのことに関しては、何も言わなかった。

 何とも言えない微妙な雰囲気が漂ったが、その件に関しては、また後で考えればいい、とセアドは思った。

 自分は、助かったのだ。

 愛しい者と、こうして再び会うことができたのだ。

 器に口を付け、一口山羊(ハレイ)の乳を飲む。

 そして隣を見ると、そこには心配げに自分を見つめる、シルファの姿があった。

 愛おしい。本当に、心の底からそう思った。

 人前で力を使うことには抵抗もあっただろうに、それでも、その力を使って助けに来てくれたのだ。

 もちろん、協力してくれたシルフィ達にも感謝は感じている。

 でも、それ以上に、今は言葉にしたい思いが、セアドにはあった。

「愛しているよ、シルファ」

 だから、素直にそう言った。

 もう二度と、後悔しないために。





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