7
「すねていらっしゃいます」
だが、しかし。
それから数日経った、この日。
自分達の住居を尋ねて来た湖畔の部族の男の言葉に、シルファもシルフィも、あっけにとられていた。
湖畔の部族と、狩りについて話し合うことになっているこの日。
案内役として湖畔の部族の集落から来た彼は、森の部族の長であるヤヌスの住居を訪ねる前に、ここに来たらしい。
そして、お二人にお願いがあるのですが、と言って切り出した言葉が、先ほどの言葉だったのだ。
「まあ、正しく言うと、いじけていらっしゃると言った方がよいのかもしれませんが」
「ちょっ、ちょっと待ってください」
ジャスよりは若いその男の言葉を遮るように、シルファは言った。
「誰が、いじけていらっしゃるのですか?」
「長です」
「―はっ?」
その答えには、シルフィも、間抜けな反応しか返せないようだった。
「だ、誰が?」
そうして、もう一度確認するように、男に聞いている。
「我が湖畔の部族の長が、大変いじけていらっしゃいます」
そんなシルフィに対して、男はとても冷静に答えていた。
「な、何でですか!?」
ラルダに再会したシルフィは、どうやらその姿が想像できないらしく、男に詰め寄ってしまった。
「まあ、さすがに表情には出されていないし、いつも通りにしていらっしゃるのですが、わかる者には、わかるようです」
「それをどうして僕達に言うんですか?」
「そちらの戦士殿が来ていらっしゃってからですので。まあ、他の者は、いじけていることはわかっても、それが何故かはわからないようなのですが」
「えっと……」
「見事な蹴りでしたよ、戦士殿」
「す、すいませんっ。おケガはありませんでしたか!?」
男の言葉に心辺りがあったのか、シルフィはあわてて謝っている。
「あなたが狙ったのは、私の足元だけでしたからね。敷布が間にあったのに、正確に狙われて、たいしたものだと感心させられました」
本当に感心したように言われて、シルフィは、すいませんとさらに男に謝った。
ただ、そうは言われても、部族の長を務めている人間が、すねていたりいじけていたりする姿は、正直想像できない。
特に成長したラルダと再会しているシルフィは、その思いが強く、男に謝りながらも眩暈すら感じているようだった。
「信じられませんか?」
自分達の様子を見て、男は笑った。
「まあ、正直……」
それが、シルフィの本音だろう。そして、それは、シルファも同じだった。
「あの方とて、幼い時はあったのですよ」
だがシルフィの言葉を遮るように、男は言った。
「特に、あの方はちょうど境目に生まれて来た方で、あの方と一番年の近い者は、もう少しで成人の儀を迎える、という年でした」
つまり、ラルダが生まれるまで、湖畔の部族には、ある一定期間子どもが生まれなかった、ということだ。
「それが、あなた方の母親であるファナ殿なのです」
その言葉には、シルフィもシルファも目を見張った。
「まあ、あの方が生まれた後は、そんなこともなく、長殿の弟であるセアドを始め、年の若い者達もいるのですが、どうしても、我々年長の者は、長殿に思い入れがあるのです」
おそらくラルダの誕生は、湖畔の部族の者達に、大きな喜びを与えたのだろう。
次代の長の誕生ということだけではなく、長く子が生まれなかった部族の者達にとっては、久々に生まれた新しい命だったのだ。
「特に、ファナ殿と年が近しい者達は―私もそうですが、長殿を弟のように思ってしまうのですよ」
それは湖畔の部族の、ラルダの事情を告げる言葉だった。
「たとえ足が動かなくなろうと、長はあの方だと我々は思っております。それを、あの方も十分わかっていらっしゃる」
「……」
言葉もなく、シルファは男を見つめた。それは、シルフィも同じだった。
「だから、あの方の立場もわかっていただきたくて、私は来たのです。長殿だけでしたらまだ良いのですが、セアドの方も、」
その名が出たとたん、シルファは自分の体がぴくりと動いたことを感じた。
それに気付いたのかそうではないのか、シルファの方を見て、男は言葉を続けた。
「もう、自分で穴を掘って、そこに落ちているような暗さで」
思わず、はいっ?となってしまうような内容だった。
「図体のでかい、しかも寡黙な男達が落ち込んでいる姿ほど、うっとおしいものはないようです」
「暗そうですね……」
シルフィも、もう他に言う言葉がなかったのだろう。
「なのでお二人には、ぜひともご協力をしていただきたいのです」
「協力?」
シルファの問いかけに、はい、と男は頷いた。
「いじけた長と、穴を掘っているセアドを、どうにかしてください」
大変砕けた口調で言われて、シルファとシルフィは、もう絶句するしかない。
どこまでこの男は知っているのか、とシルファは思ってしまう。
シルフィはともかくとして、自分は彼の言う相手と、体まで重ねてしまっているのだ。
「なーんか、力が抜けたって言うか……」
それではまた後で、と言って男が住居を辞した後、力が抜けたようにシルフィが言った。
「いじけているらしいね」
「穴掘って、入り込むぐらいの落ち込みようだってさ」
互いに言い合って、うーんと考え込む。
もちろん、案内役の男の誇張もあるであろうが、しかし、すぐにはその姿が思い付かない、と言うのが本音だった。
「まあ、セアドは納得いくんだけどさ」
たが、シルフィのこの言葉には、えっとなった。
「……そうなのか?」
「少なくとも、私にはそう思えるわ」
双子の姉は、いたずらっぽく笑いながらそう言った。
★
陽が中天を過ぎた頃、湖畔の部族の集落へと出発した。
今回は、シルファとシルフィの他に、ヤヌス、スレイ、そしてジャスも一緒だった。スレイは部族の男達を代表して、そしてジャスは、狩りに必要な道具を作る者達の代表として出るのだ。
「随分、すっきりした顔をしているな」
案内役の男を先頭に、みんなで歩いていると、隣にいたヤヌスがシルファに声をかけてきた。
「え、そう?」
「ああ。ここしばらくのお前の落ち込み様は、酷かったぞ。その様子ならば、ミルも殴りこみに行かずにすむな」
心底安心したように、ヤヌスは言った。
だが、シルファの方は、そうもいかない。
「な、殴りこみって……ど、どこに!?」
「まあ、お前さんを落ち込ませていた相手だろうなぁ」
歩いていた足が、思わずこけそうになった。
「おいおい、だいじょうぶか?」
「ヤ、ヤヌス???」
慌てて体を支えてくれるヤヌスに、シルファはどういう意味か、という気持ちを込めて、彼の名を呼んだ。
ミルは、妊婦である。
お腹に、子どもがいるのである。
それなのに、湖畔の部族の集落まで行くつもりだったのだろうか。
「そのまんまの意味だよ。あいつなら、やりかねん」
そう断言されて、シルファは絶句する。
それは、自分では思い付かないミルの姿だった。
シルファの知るミルは、穏やかで優しい、女性らしい人物だ。
それなのに、先日にヤヌスにくってかかっていた姿といい、どうも違った一面があるようである。
「まあ、だからあいつはいいんだが」
そしてその一面に、実はヤヌスはひかれているようだった。
「ヤヌス、シルファ―?」
立ち止まった自分達を不審に思ったのか、先に歩いていたシルフィが後ろを振り返って、呼びかけてくる。
「すぐ行く! 行くぞ、シルファ」
シルフィに言葉を返してから、軽くシルファの肩を叩くと、ヤヌスは歩き出した。
「ヤ、ヤヌス……ミルは……」
そんなヤヌスの隣を歩きながら、おそるおそるシルファは話しかけてみる。
「ああ。お前さんとあちらさんの関係、わかっているみたいだぜ」
あっさりとそう答えられ、またしてもこけそうになった。
「お、おいっ。だいじょうぶか!?」
「な、なんでっ……」
と言うか、シルフィだけではなく、何故にヤヌスやミルまで自分とセアドのことを知っているのか。それに関しては、ヤヌスは少し遠い目をしていた。
「お前の知らない力が働いたとでも、思っておけ」
そう言うと、ヤヌスはシルファから手を離し、歩き出した。
「そ、それは……」
慌てて後を追い、さらに尋ねようとしたが、
「そういうことに、しておけ」
こちらも、さらに念を押すように言われてしまった。
「ヤヌスは……反対じゃないのか?」
だから、もう一つの気になる問いを、シルファはしてみた。
それには、ヤヌスもおや、という表情になる。
「反対する理由は、ないだろう?」
そうして、あっさりとそう言った。
「ヤヌス……」
しかし、相手は男であり、同じ部族の者ではないのである。
「まず、相手が男ってことは、今さらだからな」
ヤヌスの父が、ヤヌスの母の死後愛したのは―もしかしたら、生きていた頃からなのかもしれない―、シルファ達の父だった。
「それに、湖畔の部族の者であることも、今さらだろう。お前達の母親だって―ファナだって、そうじゃないか」
シルファ達がその事実を思い出したのは、本当につい最近のことだったが、さすがに自分達よりも年長のヤヌスは、覚えていたらしい。
「まあ、確かに積極的に湖畔の部族と交流を持っていたわけじゃあないが、お前達のことだって、今後のことを考えれば、悪いことじゃあない。むしろ都合がいいことになるかもしれない」
「……ヤヌス?」
どこか含みのある言葉に、シルファは首を傾げた。
「獲物の数のこともそうだが、部族の間だけで夫婦になっていれば、子どもの数は確実に減る。ミルが今度子どもを生むが、成人の儀を迎える前の子ども達の数は、俺達成人を済ませた者達よりも、少ないだろう?」
言われてみれば、そうである。
「俺達の時には、少しではあるが、子どもの方が多かった。もちろん、これから先も生まれる可能性はあるが―どうも、楽観できないような気がしてな」
シルファは、湖畔の部族に、しばらくの間子が生まれなかったという話を思い出した。
「だったら、他の部族の者達と結ばれる者が、もっと出てきて、先例を作ってくれたらいい、と俺は思うんだ。まあ、確かにお前は男だが―それには多少目を瞑っても、やっていくことで、見えてくるものもあるかもしれないだろう?」
なるほどな、と思った。
ヤヌスはヤヌスで、やはり部族の未来を考えていたらしい。
ただ、それはそれとして。
自分とあの男は、体は重ねていたが、肝心なことは何一つ交わしていないのだ。
自分の中には、確かにあの男への感情がある。
幼い頃、共に遊んだあの男への、成長した感情が。
だが、あの男はどうなのだろうか?
確かに、部族のために自分を抱いたのではないのかもしれない。
けれど、自分と同じ感情を持っているとは、限らないのだ。
無意識に、軽くため息を吐くシルファに、ヤヌスがぽんっと、軽く肩を叩いた。
「あまり、考え込むな。それよりも、今は、しなければならないことがあるだろう?」
「ヤヌス……」
「それを済ませてから考えても、遅くはないさ」
「……そうだね」
ヤヌスの言葉に、シルファは頷いた。
★
湖畔の部族の集落に着いた時、そこは言いようのない緊張感に包まれていた。
「何だ……?」
その様子を感じて、ヤヌスが小さく呟く。
陽のあるうちは、たいていの男達は狩りに、女達は木の実や食べられる野草などを探しに行く。
シルファ達の部族は、女でも魚釣りをしたり、簡単な罠を作り狩りをしたりする者もいるが、それでも、陽のあるうちにやることは同じだった。
だから、通常、集落の中にある住居には、人の気配はしない。
集落の中残っている者達も、たいていは神を祭る広場に集まって、何らかの作業をしているからだ。
だが今、湖畔の部族の者達が、集落の住居の前に、何人もいるのだ。
「前に来た時と、様子が違うみたい」
そう、シルフィも呟く。
シルファ達の前を歩く案内役の男も、けげんそうな感じで、足を止めている。
「騒がしいようですな、レン殿」
男の近くにいたジャスが、そう声をかけている。
レン、というのが案内役の男の名のようだった。
「外に出た者が、戻っているようですが……」
しかしそれにしては数が多いと、案内役の男―レンは言った。
いぶかしげに思いながらも、シルファ達は、集落の方へと歩いて行く。
「レン!」
と、住居の前にいた者の一人が、レンを見つけ、声をかけてきた。
「どうした、騒がしいな」
レンとたいしてかわらない年の男は、レンの問いかけに、難しい顔をして頷いた。
「近くにいる者達が、呼び戻されているんだ」
「何があった?」
彼は口を開こうとしたが、レンの後ろにいるシルファ達に気付いたのだろう。
ふと見ると、自分達の住居の前に立っている者達も、不安そうな表情で、こちらを見ていた。
「続きは、長のところで聞いてくれ」
「わかった」
おそらく、今ここで話をするのは、望ましいことではない、ということなのだろう。
それとも、人々の前で話すことではない、ということなのか。
(何かしらね?)
シルフィの言葉が、直接シルファの頭に響く。
(とりあえず、行けばわかるよ)
それに同じ方法で返事をしながら、シルファは、レンに案内されるまま、ラルダ達の住居まで歩いた。
案内された住居は、入口から一番離れた場所にあった。
住居自体も、他のものと比べると、りっぱに作ってあるようだった。
基本的に、住居はその住居に住む者達が協力して作るが、長の住居ということもあり、そういうことを得意とする部族の者達が、作ったのかもしれない。
「レン!」
出入り口に立っていた女が、レンを見つけて、そのまま小走りで近寄って来た。
年恰好からすると、レダと生まれは近いようだ。
「イア、何があった?」
その女が答える前に、
「レン、戻ったのか?」
と、住居の内側から、声がした。
「はい。ただ今、森の部族の方々と共に」
レンがそう答えると、
「すまぬが、私を運んでくれ」
と、声が言う。
わかりました、とレンは言って、入口にかかった敷布を捲って、中に入って行った。足が動かない、とはシルファもヤヌスやシルフィから聞いていた。
シルファの思い出の中にいる彼は、いつもシルフィと互角に遊んでいた姿だ。
彼らの好む遊びは、自分とはまったく違っていたせいもあり、シルファは、あまりラルダのことは覚えていなかった。
だが、あのシルフィと互角に遊べていただけあって、彼の身体能力は高かったはずだ。
イア、とレンに呼ばれていた女が敷布を捲ると、レンがラルダを横抱きにして出て来た。
セアドとは違い、神に捧げられる黄金の石と同じ色の、長い髪を持っていた。
「森の部族の方々、このようなお見苦しい姿をお見せすることになり、申し訳ない」
若草色の瞳を伏せながら、ラルダは言った。
「お気になさいますな、湖畔の部族の長殿。この只ならぬ雰囲気は、何かあったのでしょう? もしよろしければ、話してもらえませぬか。お力になれるやもしれませぬ」
それに対し、ヤヌスは対外的用の話し方で、そう答えた。
ヤヌスに言わせると、肩は凝るらしいが、これも気持ちの切り換えには必要らしい。
シルフィは意識が完全に「解放」されると言葉遣いが変わるが、それと似たようなことを、故意にやっているものなのかもしれない。
「森の部族の長殿。力をお貸しくださるか?」
「長!」
近くにいたイアが叫んだが、ラルダを抱き上げていたレンが、それを視線だけで止めた。
そんな場合ではない、とでも言うように。
その時ふと、シルファはあることに気付いた。
セアドの姿が、見えないのだ。長の弟であれば、当然彼はその近くにいるだろうと、シルファは思っていた。
だが、彼の姿はない。
シルファが嫌な予感を覚えるのと、ラルダが口を開いたのは、同時だった。
「我が弟の、行方が知れぬ。夜明け前に出かけて行ったきり、戻ってくると言っていた、陽が中天を過ぎても戻ってこぬのだ」
その瞬間。シルファは、自分の意識が強い衝撃を受けて、ずれたことを感じた。
「シルファ!」
シルフィの声が聞こえて―だが、確かに感じたことは、それが最後だった。
★
『ごめんね……』
病床に伏した父が、小さく呟く。
切なげに目を細めたヤヌスの父が、労わるように父の手を握り、もう片方の手で、握った手の上から、ぽんぽんっと軽く叩いた。
『本当に、ごめん……』
父は、謝りながら目を閉じた。
父が亡くなったのは、それからすぐだった。
そうして、それを静かに見送っていたヤヌスの父も、父の後を追うようにして、それから間もなく亡くなった。
あの時。何故、父がヤヌスの父に謝るのか、わからなかった。
だけど、あれは自分の死を自覚した父が、残していくことになるヤヌスの父に、許しを請うていたのかもしれない。
愛する者を、この世に一人残していくことに。
そして、一人残されたヤヌスの父は、父の後を追うように逝ってしまった。
父は病を得た末に亡くなったが、ヤヌスの父の死は、本当に突然だった。
朝、ヤヌスが起きた時には、寝床で冷たくなっていたのだ。
彼は、父が最後まで心配していたように、父のいない世界に、耐えることができなかったのだ。
人は、「寂しさ」だけでも死ぬことがあるのだ。
ヤヌスの父の死は、シルファにそのことを教えた。
―では、自分はどうだろう?
そう、シルファは思った。
セアドがいなくなった世界で。自分は、生きていけるのだろうか?
その瞬間、シルファは我に返った。セアドがいなくなる、と言うこと。
それは、あの男が、この世界に存在しなくなるということだ。
『陽が中天を過ぎても帰って来ぬ』
このまま、帰って来なかったら。
自分は、一人この世界に遺されることになるのならば。
(―!)
息が、できなかった。
セアドが死んだとは、決まっていない。
もしかしたら、ケガをして動けなくなっているのかもしれないし、迷っているのかもしれない。
だが、どちらにしても、陽が沈んでしまったら、危険性は高くなる。
動物達が集落にいる人間を襲わないのは、人数がたくさんいるからだ。
陽のあるうちに一人で狩りをしていても、あまり襲われることがないのは、こちらが注意深くなっているせいだし、動物達もそうだ。武器を持った人を、陽のあるうちには襲わない。
だが陽が沈めば、暗闇に適さぬ目を持つ人は、圧倒的に不利になるのだ。
シルファは目を瞑り、息を吸おうとした。と、その時だった。
『自分は何ができて、何ができないのか。努力も必要だけど、自分ができることをより高めていく方が、ためになることもあるよ』
ふいに……そう本当にふいに、父の言葉が、辺り一面に響いた。
「父さん!?」
『今のお前には、何ができる?』
それと同時に、シルファの目に、周りの風景が飛び込んでくる。
空に浮かぶ雲。
約束した。
この雲まで、矢を飛ばしてみようと。
その瞬間、風と「同化」したシルファの意識は、一気に地上へと向かった。
何故にこの状態になったのかは、今は考えることではない。
今、自分にできること。
風と「同化」した自分ができることを、しなければならないのだ。
一面に広がる草原。
その手前に広がる、森。
そして森の間を流れる川。
先にあるのは、湖。
「メェェェー!」
セアドの姿を求め、意識を広げた時、ジュジュの鳴き声が響いた。
「ジュジュ!?」
鳴き声が聞えた方に、意識を集中する。
次の瞬間には、シルファは草原で、必死になって鳴いているジュジュの前にいた。
「ジュジュ!」
シルファがそう叫ぶと、ジュジュは、まるでシルファの姿が見えているように、もう一度、「メェェ」と鳴くと、後ろを向いて走り出した。
まるで着いて来いと言うようなその動作に、シルファは、はっとなる。
「ジュジュ、もしかしてセアドがどこにいるか知っているのか!?」
しかし、シルファの問いかけに、ジュジュは答えず、必死になって走っていた。
とにかく、そこに行くことにしか、頭にないような走り方だった。
やがて、しばらく行くと、大小の石達が、草原に散らばっていた。
石が散らばった草原の上には、切り立った崖がある。
「メエエエー!」
こっちだと言う様にジュジュが鳴き、走り出した先には。
「……っ!」
その瞬間、シルファは息を飲んだ。呼吸が止まった、とすら思った。
「セアド……!」
セアドが、倒れていたのだ。
大小の石の間に、紛れるようにして、彼は倒れていた。
風と「同化」したシルファの意識は、すぐさま彼の元へと移動した。
辺り一面に、強い風が吹き抜けたが、かまってはいられなかった。
「セアド!」
近くまで行くと、倒れているセアドの瞼が、微かに動いた。
落石に巻き込まれたのだろうか。
倒れているセアドの体の上には、幸いにも石は落ちていなかったが、どうやら、動けるような状態ではないらしい。
「メェ~」
と、ジュジュの子どもである子
どうやら、起こそうとしているようだった。
「セアド、しっかりしろ!」
シルファは、セアドの耳元でそう叫んだ。
と、その時だった。
セアドの瞳が、うっすらと開く。
「シルファ……?」
黄金色の瞳が、姿の見えないはずのシルファを捉える。
だが、その瞳は完全に意識を取り戻してはいなかった。
「シルファ……ごめん……」
小さく、セアドは呟く。
「約束守れなくて……ごめん……」
それは、幼い頃の
雲にまで、矢を届けてみせるという、約束。
セアドは、忘れていなかったのだ。
そうして、次に呟やかれた言葉は。
「―愛している」
その瞬間。
シルファの中にあった「思い」が、爆発した。
死なせたくない、と。
この人を死なせてたまるもんかっという。
そんな、強い思いが。
(―シルファ!)
そしてその思いに応えるようにして、双子の姉の言葉が、脳裏に響いた。
「シルフィ、助けてくれ。セアドを助けるために、力を貸してくれ!」
その瞬間。
シルファは確かに、風と「同化」した自分の意識が、元の自分の「体」に戻ることを感じていた。
★★★
「体が消えた!?」
倒れこんだシルファの体を、とりあえずラルダ達の住居に運び込もうとしていたスレイが、声を上げた。
「シルファ! 返事をして、シルファっ!」
しかし、シルフィはそれには構わず、双子の弟の名を呼び続ける。
自分でも、「神の加護を受けた者」の証である瞳が、強い光を宿しているのがわかった。
こんなことは、かつてないことだった。
今までにも、部族のために―主に狩りのために、自分達が持つ力を使うことはあった。
だがそれは、シルファに関して言えば、風と「同化」することだけだったのだ。
確かに「同化」している時は、風の力を操ることも可能だが、それ以上のことはできないはずだった。
ヤヌスを始めとして、周りの者達の視線が自分に集中していることはわかった。
彼らにしてみれば、今頼るのは、自分しかいないのだ。
シルファがいきなり倒れ、体まで消えてしまった状況を、理解し、どうすればいいのか伝えるのは、「神の加護を受けた者」の片割れである自分しかいない。
「シルファ!」
だから、必死でシルファに呼びかけた―と、その時。
(シルフィ、助けてくれ。セアドを助けるために、力を貸してくれ!)
双子の弟の声が、シルフィ脳裏に響いた。
「シルファ!」
「返事があったのか!?」
シルフィの声色で、そのことを悟ったのだろう。
近くにいたヤヌスが、そう声をかけてきた。
シルフィはそれに軽く頷くと、少し待ってと、視線で伝えた。
「シルファ、今どこにいるの?」
(草原に……頼む、シルフィ、セアドを助けてくれ!)
そして、その声を聞いた瞬間。シルフィは、自分の意識が「解放」され始めたことを感じた。
「落ち着け、シルファ」
それと同時に、口調が変わったのが、自分でもわかった。空の色と火の色が交わってできた色の瞳が強く輝く。
「今そのことができるのは、そなただけだ」
(えっ!?)
「私は準備を整えてから、そちらに向う。その間に、できることをしておいてくれ。セアドのケガの手当てなどは、その間にできるであろう?」
(シルフィ……)
「セアドを助けるために、そなたはそちらに行ったのであろう? 今のそなたには、何ができる?」
(ケガの手当てと……安全な場所への移動……)
「そうだな。では、今すぐとりかかってくれ。できるだことだけで良い。その間に、準備にとりかかる」
(シルフィ……)
双子の弟の声は、震えているようでもあった。
「私が行く。だがそれまでは、耐えてくれ。セアドを救えるのは、そなただけだ」
(……ああ)
深く息を吐き出すように、弟は言った。
「今一度、確認する。そなた達は、草原にいるのだな?」
(ああ。草原の真上には、切り立った崖がある)
シルファの口調は、さっきよりも少しは落ち着いたものに変わっていた。
「他には、何か見えるか?」
(……それ以外は、まだわからない)
それでも、今のシルファには、まだ周りをよく見る余裕はないのだろう。
「わかった。では、準備が整い次第、そちらに向う。立つ前に、今一度『呼びかけ』る。その時までに、できたら、周りのくわしい様子なども確認していてくれ」
(ああ)
「決して、無理はするな。よいな?」
(わかっている。何かあったら、『呼びかけ』る)
「気をつけるのだぞ」
(ああ)
その瞬間、弟の声は脳裏から消えた。
「無事なのか!?」
それを待っていたかのように、ヤヌスが尋ねてきた。
「無事ではあるが、セアドが動けぬようだな。こちらから、迎えに行くしかない」
「―誰が?」
と、その時だった。
ふいに、そんな声がした。その声がした方に、シルフィは視線を向ける。
「誰が行くの? そんな危険な場所へ」
そう言ったのは、イアだった。
「イアっ!」と、敷いた敷布の上に座っているラルダの傍にいたレンが、声を上げる。
「私が行く」
だが、シルフィは視線でレンを止めると、イアに向ってそう言った。
「私の弟が、私に助けを求めてきた。だから、私が行く」
「陽が落ちたら、獣達が襲ってくるかもしれないのよっ。それよりも、あなたの弟の『力』で、運んでもらったらいいじゃないっ」
「それは、できぬ」
「だって、さっきはっ」
何故か、イアはそう言い募ってくる。
「先ほどのことは、私でも考えられぬこと。確かに我らには神の加護たる力は与えられてはいるが、それでも、できぬことの方が多い」
それに対して、シルフィはそう応えた。
「それに、セアドがそこに行ったということは、そなたが思うほど危なくはないということではないか?」
「獣が―」
「この私が、獣ごときを恐れると思うのか?」
その瞬間。
周りにいた者達が、息を飲んだことがわかった。
だが、シルフィは自分の意識が、完全に「解放」することを、抑えことはできなかった。
イアが、顔色を変える。
「俺も行くぞ、シルフィ」
しかしさすがに付き合いが長いヤヌスは、そう話しかけてきた。
「いや、それはならぬ」
だが、シルフィは首を振った。
「何故だ!?」
「そなたは、部族を率いる者。我らが戻らなかった時に、次の手を考えなければならぬ」
「シルフィ……」
「なら、わしが行こう」
落ち着いた声で、ジャスが言った。
「わしなら、何かあっても問題はない。一人娘は育ち上がったし、今は狩りにも行っていない身の上だ」
髪は霧と同じ色になったが、木の実と同じ色をした瞳は、未だにその力強さを失ってはいない。
正直、ありがたい申し出だった。
「俺も行くぞ!」
続けてスレイもそう申し出てくれたが、それには、シルフィは首を振った。
彼は、狩りをする男達の中でも、要となる者だ。
シルファが絡んでいることとは言え、他の部族の救出のために命を落としたとなれば、湖畔の部族との折り合いが悪くなることは、目に見えていた。
「草原であれば、
そして、ラルダがそう申し出て来た。
「
その言葉には、さすがのシルフィも目を見張った。
草原にいるのは、知っている。時々は、狩りの対象となる動物でもあった。
ただ、足が速いのと集団で行動する性質があるので、一人ではなかなか狩れない。
「はい。あれ達の背に乗るのです。我が部族では、何頭か飼いならして、人を乗せるようにしております」
「なるほど。その中に、頭が良く、度胸もあるものはおるか?」
そう、今の自分を乗せることができる、気性を持つ
「おまかせください」
それに答えたのは、レンだった。
「私も一緒に行きます。戦士殿は、
「ないが、乗ればどうにかなる」
どのみち、シルファとセアドを連れ帰るとなれば、最低でも二匹は必要になるだろう。
ジャスは今まで馬に載ったことがないだろうから、自分が一人で乗るしかない。
そう、シルフィは判断した。
それに、
こんなところは、神に加護を受けた身であることを感謝したいと思った。
「では、私は馬の用意をしてきます」
そう言って、レンがラルダにそう言って、走り出した。
おそらく、馬達がいるところへ行くのだろう。
と、その時だった。
「俺も行く!」
いつのまに来たのか、以前、シルフィがこの集落に来た時に、立ち塞がった若い男がそう叫んだ。
「そなた……」
さすがに唖然となったシルフィに、
「マーニも、お連れください」
そう言ったのは、ラルダだった。シルフィは、彼の方に向き直った。
「マーニは犬使いです。馬にも乗れる。役立つと思います」
「頭が良く、度胸もある犬はおるか?」
「二匹いる」
そう尋ねると、マーニは即答した。
確かに、犬がいてくれれば、それだけ危険は減る。
動物達は、人が犬を使って狩りをすることを知っているから、犬を連れているだけでも、襲うことはしなくなるのだ。
それに、使える
「ならば、力を貸してくれ」
そう、シルフィは言った。
「わかった!」
頷くと、マーニはこれまた急いで駆け出して行った。
「シルフィ……いや、風の戦士殿」
その姿を見送っていたシルフィに、ラルダが声をかける。
シルフィは、もう一度ラルダに向き直った。
真っ直ぐに、彼を見つめる。
「我が弟のことを、頼みます」
そう言って、ラルダは頭を下げた。
「長!」
イアが、咎めるような声を出す。
「―承知した。私の力をもって、必ず無事に連れ帰る」
それに頷き、そしてシルフィも言った。
「だが、もし我らに何かあった時は、後のことは頼む」
「シルフィ……!」
頭を下げたシルフィに、ラルダがその名を呼ぶ。
頭を上げると、ラルダの心配そうな顔があった。
その表情は、悔しそうでもあった。
実際、彼は悔しいのかもしれなかった。
本当ならば、自分が率先して弟を探しにいかなければならないのに、と思っているのかもしれない。
「案ずるな」
だが、人にはできることと、できないことがある。
そして、後を預かることができるのは、湖畔の部族では、ラルダしかいないのだ。
それは、ヤヌスも同じだった。
「必ず、あの二人を連れ帰る」
神の加護を受けた証の瞳を輝かせて、シルフィはそう言った。
★★★
誰かの、泣き声が聞えた。
誰の泣き声だろうと思い、そしてセアドは思い出す。
あれは、シルファの泣き声だ。
『どうして、セアドとはもう会えないの?』
そうして、泣きながら、そう尋ねている。
『ごめん、シルファ』
それに対して、シルファの父のシーファが、謝っていた。
言葉少なに。
それを少し離れた木陰で見ていた自分は、本当はシルファの傍に駆け寄りたかった。
だけど、前に勝手に集落を抜け出した自分を迎えに来た父親は、酷い言葉をシーファに投げつけていた。裏切り者、と。
そんな言葉を投げつけた父を、シーファは哀しそうに見つめていた。
『もう、彼らの所には行かない方が良いでしょう』
父と一緒に自分を迎えに来てくれたレンも、そう言った。
『でないと、シーファ殿が気の毒です』
その言葉は、幼い自分には、納得いくものではなかった。
だが、哀しそうなシーファの顔を見ると、自分がシルファに会いに行くことは、彼にとても哀しい思いをさせることになるのだ、ということを納得せざるえなかった。
だから。
泣いているシルファの行くことを、我慢した。
さよならを言いに来たけれど、もう行くことはできない、とそう思った。
『お前達が大きくなったら、また会えるさ』
そうして、父が迎えに来る前に戻ろうとした自分に、そんな言葉が聞こえた。
それは、レンぐらい体が大きい男で。
その男が、結局、自分を湖畔の部族の集落に送ってくれたのだ。
子どもの時に森の部族を訪れたのは、それが最後だった。
自分が成長した後、再度森の部族の集落を訪れた時には、その森の部族の長であったその男もシーファも、既になかった。
だけど、シルファは。自分のことは覚えていなかったけれど、成長したシルファには、再会できたのだ。
そうして。
そうして……
大切なことを、自分は伝えていなかった。
とても、大切なことを。
『つまらないことにこだわって、伝えることも伝えないでいると、後で悔やむこともあるのよ』
そう……シルファに自分のことを思い出して欲しくて、それに拘って、大切なことを伝えていなかった。
もしかしたら、もう二度と伝えられないのかもしれない。
このまま、自分は死ぬのかもしれない。
そう、思った時だった。
『あきらめるなよ』
そんな声が、聞こえた。
その声は、前にも聞いたことがあるような気がした。
『俺の子ども達があきらめていないんだ。お前さんがあきらめるのは、早すぎるだろ』
そうして。
『さっさと戻って、大事なことを伝えろ』
その声は、そう囁いた。
―セアド……セアド!
遠くで、自分を呼ぶ声がする。
それは、自分が愛おしく思う者の声だった。
「シルファ……」
その名を、呼ぶ。
心の底から、愛する者の名を。
「セアド!」
空の色と炎の色を重ねた瞳が、涙に濡れていた。
「シルフィ、セアドが……!」
誰かに向って叫ぶシルファの腕をくいっと引き、体を抱き寄せた。
「わっ、セ、セア……」
有無を言わせずに、唇を重ねる。
「んっ、んっんっ……!」
舌を絡めとり、吸いついた。
微かに抗おうとしたシルファだが、結局、素直にその行為を受け入れた。
だが、しかし。
「人の目があるのに、睦み合うなって、何度言ったらわかるのよっっ!」
シルフィの怒鳴り声で、それは妨害されてしまった。シルファは、慌てて自分から離れてしまった。
「まあ……それだけの気力があるなら、だいじょうぶですね」
そうして、レンが、横になっている自分を見下ろすようにして、そう言った。
「気分は、どうですか?」
しゃがみ込みながら、レンが聞く。
「足が痛い」
そう答えると、
「左足の体を支えている骨が、折れているようです」
と、あっさりと言われた。
「それ以外では、どうですか?」
「後は……特にないな」
「運が良かったみたいだな。これだけ石が落ちてきたのに、それぐらいのケガですんだのだから」
そして、レンの近くに歩み寄ってきた男が、そう言った。
「ご無事に何よりじゃ。これで、長殿も安心されよう」
「お手数をかけました、ジャス殿」
その男に、レンが礼を言った。
少し離れた場所からは、犬の鳴き声も聞えてくる。
「俺を……助けに来てくれたのか」
崖の上から石が落ちてきた時は、もうダメかと思ったのに。
だがこうして、シルファやシルフィ、そしてレン達がいるということは、わざわざ自分のいる所にまで来てくれた、ということなのだ。
「礼なら、あのお二人に。そして、このジャス殿にも。危険も帰りみずに、あなたのことを助けに来てくれたのですから」
「よく、ここまで来れたな」
ここは、湖畔の部族の者達も、あまり来ない場所なのだ。
「シルファ殿があなたの元に駆けつけて、シルフィ殿がシルファ殿の案内を聞きながら、我々を連れて来てくれたのです」
そう、レンは教えてくれた。
「そうか……」
小さく、セアドは呟いた。
それが、彼らの持つ「力」で行われたことは、言われなくても、何となくわかった。
「起き上がれるか? セアド」
朝降った雪と同じ色の髪を揺らし、シルファが近づいて来る。
手には、木を繰り抜いて作った器があった。
その言葉に、起き上がろうとすると、それを、レンが手伝ってくれた。
すこし眩暈がしたが、それもすぐに治まった。
どうなら、ケガをしたのは、左足だけのようだった。
見ると、その左足にも木の枝が、つるを使って巻きつけられている。
レンに背中を支えてもらいながら、足をのばしたまま起き上がると、シルファがその傍に座り込んで来た。
「ジュジュの乳だよ。飲めるか?」
「あの
だが、辺りを見回しても、それらしき姿はなかった。
「ああ、もういない。マーニって言う人が連れて来た犬に、子どもが怯えていたから、もう先に帰ってもらった。でも、乳を分けてくれたんだ」
「なるほど……しかし、その間、よく襲わなかったな」
器を受け取りながら自分が言った言葉に、レンとジャス、そしてシルファは黙り込んだ。
「まあ……それは、シルフィ殿が『ダメだからね』と言っていましたので……」
「……逆らえぬようではあったがな……まあだから、何事もなく、ここまで来れたのだが……」
シルファはこのことに関しては、何も言わなかった。
何とも言えない微妙な雰囲気が漂ったが、その件に関しては、また後で考えればいい、とセアドは思った。
自分は、助かったのだ。
愛しい者と、こうして再び会うことができたのだ。
器に口を付け、一口山羊(ハレイ)の乳を飲む。
そして隣を見ると、そこには心配げに自分を見つめる、シルファの姿があった。
愛おしい。本当に、心の底からそう思った。
人前で力を使うことには抵抗もあっただろうに、それでも、その力を使って助けに来てくれたのだ。
もちろん、協力してくれたシルフィ達にも感謝は感じている。
でも、それ以上に、今は言葉にしたい思いが、セアドにはあった。
「愛しているよ、シルファ」
だから、素直にそう言った。
もう二度と、後悔しないために。
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