陽は、中天にあった。

 泉の近くで、土を伸ばしたものに、その陽がある周りのものをシルファは描いていた。

 月が満ちた日の翌日には、こうして陽が中天になった時の、周りのものを描くようにしているのだ。

 そうして描いた後、土をそのままにしておくと、固くなり、描いたものがそのまま残る。

 きちんと描き終えると、シルファはため息を吐いた。

 考えたくないことがある時は、こんな細かい作業をするのが一番だ。

 だがそれでも、やはりずっとは続けられない。

 持っていた木の枝を伸ばした土の横に置くと、そのまま、手足を伸ばして寝転んだ。

 さすがに陽が中天にあるので眩しく、目をつぶる。

 そして、ゆっくりと息をした。

 本当は、ここに来ない方が良かったのだ。

 シルファは、セアドが住居を訪れたあの雨の日以来、彼に会っていなかった。

 あれから、この洞窟に来ても、セアドは現れなかったのだ。

 自分は、セアドが帰った日は一日寝込んだものの、その次の日からは、続けてこの洞窟に来ていると言うのに。

 会えなかった日につけた印は、もう三つ目になる。

 今日会えなかったならば、四つだ。

 今朝あんな話を聞いて、シルフィの言う通り気をつけなければと思うのに、気がつけば足はここに向いていた。

 それでも、思ってしまうのだ。「会いたい」と。

 そこまで考えて、シルファは頭を軽く振った。

 こんな気分の時は、風と「同化」して飛んだらすっきりするかもしれない。

 一瞬そうしようかなとも思ったが、それは、生前から父が固く禁じていることでもあった。

 『必要な時以外は、絶対に使わないこと』と、繰り返しそう言い効かされてきた。それは、本当に幼い頃から―

『だって、触ってみたいよ』

『風で、近くまで持って来られないの?』

『そうすると、父さんが怒るもん。それに、近くに持って来ようとすると、消えちゃうんだもん』

 その瞬間。

 幼い時の思い出が、頭の中に甦った。

 昔。

 幼かった頃。

  確かに、そんな会話を交わした。

 シルフィとも、ヤヌスとも、ミルとも違う相手と。

 約束をした。

 矢を、雲にまで届かせてみようと。

 黄金色の瞳が、明るく輝いて見えた。

 その子と一緒に遊んでいると、楽しかった。

 その子は、絶対に自分のことを、「男のくせに」なんて言わなかった。

 だけど。

 いきなり会えなくなって。

『お前達が大きくなったら、会えるさ』

 泣いている自分に、そう言ってくれたのは、父だったか、ヤヌスの父であるユウラだったか。

 そうして、大人になって。

 自分は再会したのだ、その子に。

 そう。

 やっと、会えたのだ。

 ―と、その時だった。

 風が、動いたような気がした。

 何だろうと思って目をあけると、中天の陽を背に、セアドが自分に覆いかぶさっているのが見えた。

「……セアド?」

 一瞬、夢かと思った。

 懐かしい思い出の続きを見ているのか、と。

 彼の持つ炎と同じ色の髪が陽に輝き、鮮やかに映える。

 黄金の瞳が、細められたと思った瞬間、ばっと足を大きく開かされた。

「ま、待って!」

 いいかげん、セアドが何をするつもりなのか、シルファにもわかるようになってきた。

 だが、男は待つつもりなどなく、そのまま、シルファの敏感な部分にしゃぶりついてくる。

「ああんっ!」

 とたんに、甘い声が上がる。

 敏感な体は、もうすっかりそこから得られる快感を覚えてしまった。

 まして、あれだけ強烈な快感を与えられた後、シルファの体はしばらくの間、それを与えられていなかったのだ。

 無意識の内に「飢え」を感じていた体と心は当然のごとく、その快感を、歓喜を持って受け入れる。

 ピチャリピチャリと、濡れた感触が、シルファの体の中心部をねぶった。

「やっ…やぁぁん!」

 雲一つなく、中天の陽に照りだされる中で。

 衣を捲りあげられて、セアドに口で愛撫されている自分。

 恥ずかしいと思いながらも、流されてはいけないと思いながらも、それを「うれしい」と思う自分がいるのだ。

 やっと、会えたと。

 やっと、抱き合えると。

「セ、セアド……や、セアド……!」

 セアドの名を呼び、彼の髪の手を掴むと、さらに舌で執拗に蹂躙された。

「や、や、あ、あ、あああ!」

「あまり、せかさないでくれ」

 声を上げるシルファに、顔を上げて、セアドが言った。

「やっと会えたんだ。ゆっくり、味あわせてくれ」

 そんなことを言われても、シルファにはどうしようもない。

 せかしているつもりもないし、そもそも、いきなりこんなことをしてきたのは、セアドの方なのだ。

「ち、ちが……」

 せかしてなどいないと、シルファは首を振った。

「そうか?」

 そう言って、男は軽くシルファの中心を支えている手を動かした。

「ああっ」

「じゃあ、じっくり付き合ってもらえるわけだ」

 そう言って、またしても、中心に舌が這わされる。

「やああんっ」

 甘い声を上げて、シルファは自分を蹂躙するセアドの頭にすがりつく。

 後はもう、男が与えてくる快感を、ただ享受するしかなかった。

 「あ、あ、あ、ああっ……あああ……!」

 全てが溶けて、流れていく。思い出した記憶も、胸の中にある疑いも。

 シルファはそんなことを感じながら、ただ喘ぐことしかできなかった。

                 ★★★

 ちょうど同じ頃。

「シルファ?」

 川へ釣りに来たシルフィは、川べりを歩きながら、双子の弟に話しかけた。しかし、いくら「話しかけて」も返事がない。

「こんな明るい内から、睦み合っているの!?」

 信じられない思いで、シルフィはそう叫んでいた。

 だが、今までのことから考えても、それしか思い当たらない。

 この間は雨が降っていたからまあわかるが、こんな陽の明るいところで何やってんのよ、あんた達は! と思ってしまう。

 ちなみに、偶然近くにいた湖畔の部族の者が、シルフィの叫び声を聞いて引っくり返っていたのだが、それには気付かず、シルフィは川べりを歩く。

 本来川には釣りをするつもりで来たのだが、気付けば、湖畔の部族の集落へと歩いて行っている。

「一応、相談しようとは思ったんだけどなあ」

 シルフィは、ため息を吐きながら呟いた。

 だが、しかし。

 相談をしてもし反対されても、自分は行くだろう。

 性に合わないのだ。

 もやもやとした気分のまま、日々を過ごすのは。

 シルフィにとって、ラルダも大事な幼馴染であった。

 一応セアドもそうなのだが、これについては思うこともあるし、幼い頃からシルファ優先のシルファが一番!の彼には、ラルダ程の思い入れは正直なかった。

「いいよなあ、シルファは。セアドは、絶対に疑いようがないし」

 だがその分、彼については信用がおける。

 あの男が、シルファを裏切ることは絶対にないと、シルフィは確信していた。

 と言うか、幼い頃の記憶を思い出すにつけても、あの男のシルファへの思いは疑いようがない。

 どう考えても、体を動かす方が好きなセアドが、ことシルファと遊ぶ時は、根気強くシルファに付き合っていたのだ。

 自分やラルダがすぐに飽きて、他の遊びをし始めても、彼だけはシルファの好む遊びを一緒にしていた。

 はっきり言って、虫をじっと見たり、生えている草を集めたりして、どこが面白いんだと、シルフィは思っていた。

 もちろん、すぐに食べられるのであれば別なのだが。

 それなのに、「シルファが好きだから」という理由で、セアドはそれに付き合っていたのである。

 けなげ、としか言いようがなかった。

 だからこそ、後でシルファがセアドを疑っていたと知った時は、引っくり返りそうになったが、それはまあ、後の話である。

 この時点でシルフィは、とにかく疑うべきはラルダのみ、と思っていた。

 もちろん、シルフィとて疑うことなどしたくない。

 しかし、そうしなければならない時もあるのだ。

 そして今が、その時なのだろう。

 湖畔の部族の集落の、裏手の森から入り込み、周りを気にしつつ、ラルダ達の住居を目指す。

 三度目ともなれば、もう手馴れたものだ。

 それに、陽も中天に高くあるせいか、住居の集まった場所に人気はなかった。

 男達は狩りや釣りに、女達も森や湖に食べられる物を採りに行っているのだろう。 

 念のため、ラルダの住居近くでは、しばらく木陰に隠れて様子を伺っていたが、人が来る気配も、住居から出て来る気配もなかった。

「ラルダ、いるの?」

 しかし、どこか油断ができない予感がしたので、シルフィは注意深く入口の敷布を捲りながら、声をかけた。

暴れん坊シールーか?」

 その呼びかけに答えるように、ラルダの返事が住居の中から聞えた。

「どうした? 今日は」

 あいかわらず住居の中央に座り、そう言って自分を見上げてくるラルダの表情に、曇りはないように見える。

「どうして?」

 住居に入ったものの、入口に立ったまま、シルフィはラルダに尋ねた。

「どうして、そんなふうに聞くの?」

「……シルフィ?」

 問いかけるシルフィの名を、ラルダがけげんそうに呼んだ。

「あなたは、私達を利用しようと思っているの?」

 その瞬間、ラルダの穏やかだった表情が、一変した。

「どうして、そう思う?」

 どこか怒りすら含んだ若草色の瞳が、シルフィを射抜く。

「どうなの?」

 だが、シルフィもその視線を逸らすことなく、真っ直ぐにラルダを見つめた。

「―もし、そうだと言ったらどうするつもりだ?」

 やがて、静かにラルダはそう尋ねてきた。

「決まっておる」

 その瞬間、シルフィは外の風が動いたことを感じた。

 張り詰めた意識が、外へと解放される。

 音も立てず、入口に近寄ってくる人影にめがけて、大きく足を蹴り上げた。

 どかっと、次の瞬間、シルフィの蹴りをまともにくらった人影が倒れたことを、シルフィは敷布ごしに感じた。

「容赦はせぬ。たとえ、そなたであろうともな」

 風の神の加護を受けた証の瞳を輝かせ、そう断言する。

「……なるほど」

 その瞬間、男の表情が哀しげなものに見えたが、それを確認する暇はなかった。

 倒した大きい体をした男をまたいで住居の外に出ると、犬の鳴き声が遠くからした。

「やっぱりお前かっ」

 以前会った男が、シルフィの顔を見るなりそう叫んだが、シルフィの顔を見たとたん、表情を固まらせた。

 それも、無理はない。

 意識が「解放」された時の自分は、通常の自分ではなくなっている。

 それが獲物になる動物達が相手であれば全然問題はないのだが、人が今の自分を見たら、大抵の者は恐怖で固まってしまうのだ。

 この状態の自分を怖がらないのは、双子の弟であるシルファ以外、ミルとレダぐらいだ。

 この状態になると、シルフィの意識は高揚し、体の動きもいつもより、格段に動けるようになる。

 それは、とても常人離れしていて、だからこそナウイにも向かっていけるのだが、たいていの人間には「恐ろしいもの」として見えるらしい。

 ラルダにもそう見えたのだろうか、とシルフィは一瞬そう思った。

(シルフィ!?)

 だが次の瞬間、双子の弟が呼びかける声が脳裏に響いた。

「シルファ」

 ポーンと、ラルダの住居近くの木に飛び上がりながら、シルファの呼びかけに答える。

(どうしたんだ!?)

 さすがに、意識を「解放」したことを感じ取ってくれたらしい。

 それが、シルフィを現実に引き戻してくれる。

 例え傷ついても、自分には「役目」があることを。

 同じ役目を担う双子の弟が、思い出させてくれる。

「だいじょうぶ。すぐに戻るから」

 すぐに次の木に飛び移りながら、シルフィはそう言った。

 自分に、言い聞かせるようにして。

 だから、住居に残された湖畔の部族の長が、実は同じように傷ついていたとは、夢にも思っていなかった。

                   ★★★

「あ、や、いやっ……もう、もう……!」

 息も切れ切れに、シルファは喘いだ。

 その瞬間、男の指がくいっとシルファの内側で動く。

「や、や、やぁあああん!」

 その瞬間、シルファの熱が泉の中に解放された。

 泉の縁に置いた手が、草をしっかりと握りしめる。

 シルファは、そのまま熱をやりすごそうとした。

 だが、シルファの腰を後ろから抱え上げていたセアドは、それを止めるように、シルファ自身を、片手を伸ばして握りしめてきた。

「セ、セアド!?」

 はっとなったシルファがセアドの名を呼ぶが、それで、自分の動きを止める彼ではない。

 そのまま、シルファの体を入れ替えるようにして前を向かせると、泉の縁に座らせる。

 そして、自分の体をシルファの足の間に入り込ませると、体を屈ませ、シルファ自身を口に含んだ。

「あああっん」

 またしても、自身を口に含まれたシルファは、もう声を上げるしかない。

 この体を重ねている間に、何回セアドの口に含まれたのか。

 もう、シルファはわからなかった。

「あ、あ、ああああっ!」

 解放をしていたのに、途中でせきとめられていた熱は、塞き止めていた手が離れると同時に、セアドの口の中で解き放たれる。

 シルファが解放した全てを飲みこみ、その周辺についた体液もきれいに口でぬぐってから、やっとセアドはシルファのそこから口を離して、立ち上がった。

「本当に、感じやすいな」

 そうして、シルファの耳元で感心したように呟く。

 とたんに、シルファはかあっと顔を朱色に染めて、下を向いた。

 だが、本当にセアドの言う通りなのだ。

 泉で終わった後の体を清めてもらっていたのだが、セアドの手が触れている間、感じて感じてしかたなかった。

 それでも耐えていたのだが、彼の指が自分の内側を清め始めたとたん、もう駄目だった。

 どうして、こんなにも感じてしまうのか。

 セアドに抱かれるようになってから、彼のやることなすこと全てに、体は感じてしまう。

 誰もが―自分ですら、その手のことは淡白だと思っていたのに。

 今では、そのことが信じられないぐらい、体が変わってしまっている。

「そんなに、気持ち良かったか?」

 そして、そのことを知ってか知らずか、男がそんなことを問いかけてくるから、よけいにシルファはいたたまれない思いになるのだ。

 もちろん、セアドはそれを狙ってやっているのだが。うといシルファは、体を清めている時も、彼が明確な意図を持ってやっている行為ことに、気付かなかった。

 だから、もう本当にはずかしくて仕方なかった。

 もちろん、そんな様子が男を喜ばせているなど、思いもしない。

 気が付くと、セアドが自分の横に座り、髪を一筋取って口付けていた。

「……セアド?」

「あまり、恥ずかしがるな」

 シルファが名前を呼ぶと、そう言った。

「感じてくれるのは、とてもうれしいんだが」

 表情はほとんど変わらない顔が、少しだけ照れたようにも、シルファには見えた。

 その表情が、思い出の中にある、幼い彼のものと重なる。

 確かに、自分は彼とも一緒に過ごしたことがあったのだ。

 彼と一緒にいるのは楽しかった。

 自分の好む遊びは、双子の姉であるシルフィすらもあまり付き合ってくれなかったのに、セアドだけは、そうじゃなかった。

『ほら、シルファ。こっちにシルファが探している虫がいるよ』

 そう言って、自分よりも先に見つけた時は、笑いながら教えてくれた。

 だけど―いきなり、会えなくなって。

 そのことを父から告げられた時、自分は泣いて嫌がった。

 でも、本当に心の底から、謝ってくれる父とヤヌスの父を見ていると、それ以上何も言えなくて。

 そうしているうちに、日々は過ぎて行き、自分はやがてゆっくりと、彼のことを忘れていった。

 ゆっくりとだけど、確実に。それは、幼かったせいもあるだろう。

 そして、覚えているのがつらかったせいもあるのかもしれない。

『お前達が大きくなったら、会えるさ』

 だけど、この言葉通りに自分達は再会して、思い出のこの場所で体を重ねている。

 この男に求められて、素直に応える自分の心がわからなかった。

 だけど、思い出が甦った今、自分の中にあるこの感情の名前は、何なのか。

 わかったような気がした。その感情の名は―。

「どうした?」

 と、その時だった。男がふいにそう声をかけてきた。

「どうして、そんな顔をしている?」

 そうして、シルファの頬に指先を伸ばしてくる。

「……そんな顔?」

 尋ね返すと、セアドは切なそうに目を細めた。

「そんな、寂しそうな顔をするな」

 そうして、顔を彼の方に向けさせられた。

 その瞬間だった。

「シルフィ!?」

 シルファは、脳裏にシルフィの意識が解放されたことを感じた。

 自分が風と「同化」するように、シルフィも意識が「解放」され、己の持つ力が格段に発揮される時があるのだ。

 そうなると、普段のシルフィではなくなる。

 幼い頃はそれで、「女のくせに」とからかってくる男の子達を、こてんぱにしたこともあった。

 だが、父がその度に厳しく注意して、今では大きい獲物を前にした時ぐらいにしか、「解放」されないようになっていたはずなのだ。

(シルファ)

 シルファの呼びかけに、双子の姉からの返事が脳裏に響く。

「どうしたんだ!?」

(だいじょうぶ。すぐに戻るから)

 シルファの問いかけに、シルフィは、そう短く答えて来る。

 その口調はとても落ち着いていて、意識を「解放」はしたものの、シルフィがそこまで己を失っていないように、シルファは感じた。それであれば、まだ安心できる。つまり、意識は「解放」したが、それをある程度までは抑える余裕はある、ということなのだ。

 だがもちろん、楽観できる状態ではない。

 それに、シルフィは「から」と言っていた。

 どこから、戻るつもりなのか。

 シルフィの気性を知る者として、考えられる場所は一つしかなかった。

「どうした? シルフィに何かあったのか?」

 あわてた様子のシルファに、セアドがそう尋ねてくる。

 一瞬、どうしようかと迷った。だが、おそらくこの男も、集落へと戻ったら今日のことを知るだろう。それに、確認したいことがあるのも事実だった。

「シルファ?」

「―どうやら、あなたの部族の集落へとまた行ったみたいです」

 それは、とても勇気のいることだったが、確かめなければならないことだった。

「それにしては、穏やかではないな」

 さすがに察しが良いセアドは、シルファの言葉を素直には受け取らない。

「あなたのお兄さんに、真意を聞きに行ったんだと思います」

「……」

 それだけで、彼は自分の言いたいことを、察したようだった。

「僕も、あなたに聞きたいことがあります」

「……何だ?」

 男の手が、自分の頬から離れていく。

 それでも言わなければ、とシルファは自分を奮い立たせた。

「あなたが僕を抱くのは―」

 そして、そう言葉を続けようとした時、唇が塞がれた。

「ん……んっんっ!」

 どこか荒々しい口付けに、シルファは息苦しさを感じる。

「俺は、そこまで器用な人間ではない」

 やがて息も絶え絶えになった頃、唇を離し、セアドが言った。

 「お前を抱くのは、俺がそうしたかったからだ。他に、理由などない」

 そして、耳元にそう囁かれた。その後、ざばんと言う水音がして、セアドが泉から上がった。

「セアド!」

「今日は、もう帰る……俺にも、感情はある」

 シルファに背を向けて、告げられる言葉は、淡々としていたがどこか哀しげでもあった。

 そのまま、草の上に置いた皮の腰巻を取ると、セアドはそれを腰に巻きつけながら、木に立てかけていた弓を取り、森の方へと行ってしまった。

 それを、シルファは見送ることしかできなかった。セアドを傷つけてしまったと。

 そのことに、はっきりと気付いてしまったからだった。

                 ★

 動きが緩慢な体を叱咤しながら、シルファは衣を身に付けた。

 セアドに抱かれた体は、だるさを感じてはいたが、動けないほどではない。

 だがそれでも、動きが緩慢になるのは、見送ることしかできなかった、セアドの後ろ姿を思い出すからだった。

『俺は、そこまで器用な人間ではない』

 男に疑いを持ったのは、事実だった。

 「神の加護を受けた者」として、注意深くならなければならない、と思ったから。

 だけど、それがセアドを傷つける結果になるとは、夢にも思ってもいなかった。

「メエ~」

 そのまま落ち込みそうになったシルファは、聞こえてきた山羊ハレイの鳴き声に、我に返った。

 後ろを振り返ると、ジュジュが子山羊ハレイを連れて、シルファに近寄ってきていた。

「ジュジュ」

「メェェ~」

 名を呼ぶと、本当にうれしそうに鳴いて、シルファに頭をすり寄せてくる。

 子どもの方も、母親であるジュジュから離れまいとして、必死についてくる。

「ジュジュ、子どもを忘れたら駄目だよ」

 ジュジュは、シルファの言葉を聞いているのかいないのか、「メエ~」という返事をして、シルファに頭をすり寄せ続けた。

「まったく……頼むから、他の狩り人がいる時は、来ないでくれよ」

『風の巫子殿は、動物ともしゃべれるのか?』

 もし、他の狩り人が今のジュジュを見れば、喜々として狩ろうとするだろう。

 それを、止めることはシルファにはできない。

 本来、このように動物と馴れ合うことなど有り得ないのだ。

 だが、あの男は―セアドはそうしなかった。

 ジュジュの頭を撫でてやりながら、その時のセアドを思い出す。

 それだけ、自分の思いを優先してくれた、ということなのかもしれない。

 それなのに、自分は疑ってしまったのだ。

『お前を抱くのは、俺がそうしたかったからだ。他に、理由などない』

 そして、そう言って、セアドは背を向けて行ってしまった。

 ずきんっと、胸の痛みを、シルファは感じた。

 と、その時だった。

 ジュジュから離れまいとしていた子山羊ハレイが、固まった。

 その瞬間。

 風が動いたように、シルファは感じた。

「ジュジュ、もうお行き。子どもが、可哀想だ」

 あの醸し出す気迫に、恐怖を感じぬ動物はいないはずだ。

「メェ~」

「お前は、母親だろう?」

 そう言うと、ジュジュは、自分の体に擦り寄ってくる自分の子の方を見た。

 怯えて震えるその姿を見ると、シルファの言うことも理解できたのだろう。

「メエ―」

 と大きく一声鳴くと、子どもをぐいっと頭で押しながら、シルファからいっきに離れて行った。

「いいよ、シルフィ」

 そして、十分にジュジュ達が離れた後、シルファは呟いた。

 ざっと風を切り、シルフィがシルファの真横に舞い降りる。

「ごめん。このまま、帰るわけにも行かなくて」

 神の加護を受けた証の左目が、強く輝いている。

 まだ、完全に元には戻っていないのだ。

「待ってくれていたんだろう?」

 だが、それでもジュジュ達が離れてくれるまで、待っていてくれたのだ。

 本当ならば狩ってしまいたいだろうに、それでも耐えてくれたのだ。

「だいじょうぶよ。ほとんど、元に戻っているから」

 シルファの言葉に、シルフィはそう言いながら首を振った。

 だが、その横顔はどことなく元気がない。

「……確かめに行ったんだろう?」

 探るように聞くと、うん、と双子の姉は頷いた。

「でも、確かめることはできなかった。むしろ、結果的にケンカを売っちゃったような感じ」

「そうか……」

 シルファはため息を吐き、下を向いた。

「……シルファ」

 その頬を、シルフィが手を伸ばして触る。

「セアドと、何かあったの?」

 どうしてシルフィがセアドと一緒といたことを知っているのだろう、と思っているシルファの頬を、シルフィの指がなぞった。

「何? シルフィ」

「気付いていないの?」

 頬を拭われる感触に、シルファは自分の手をそこに伸ばした。

「泣いているじゃない」

 そこは、濡れていた。

「あの山羊ハレイは、そのことに気付いていたから、なぐさめようとしたのね」

「シルフィ……」

「ケンカでもしたの?」

「傷つけて、しまったんだ」

 双子の姉の問いに、シルファはそう答えた。

 そう……傷つけてしまった。

 彼の心がわからずに。

 彼を、信じられずに。

「今も、信じられない?」

「……わからない」

 そう。

 何故、自分を抱くのか。

 何故、あれほどまでに自分を求めてくるのか。

 シルファには、セアドの気持ちがわからない。

 だけど、その理由を知りたいと思った。

 自分の思いをわかってくれる双子の姉や、励まそうとしてくれるジュジュが傍にいても、セアドに背中を向けられただけで、もう寂しくて仕方がないのだ。

「じゃあ、次に会った時、謝って聞けばいいよ」

 と、シルフィは優しく言った。

「シルフィ……」

「それでもし、謝って許してくれなかったら、その時に、また考えればいいじゃない」

「そうだね……」

 明るく言われるその言葉に、シルファは頷いた。

「とりあえず、私は、ラルダは容赦しないけどね」

 ぱしっと拳を作った手で、片方の手のひらを軽く叩きながら、シルフィが言う。

「それも、きちんと確かめよう。ラルダには、ラルダの立場もあるんだからさ」

 だがシルファのこの言葉には、驚いたような顔をした。

 そんなシルフィに、シルファは小さく微笑んでみせた。





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