5
「おや」
前の日と同じように入口の敷布を捲ると、前の日と同じように、穏やかな眼差しをした男が、住居の真ん中に座り、自分を見上げた。
「
そして、そう言って楽しそうに笑う。
「その呼び方、止めてくれませんか?」
雨に濡れた髪を軽く振りながら、シルフィは言った。
「嫌か?」
意外そうに言われ、「当たり前ですよ」と、頷いた。
「そう言えば、
「そうなんですか?」
「思い出したんじゃないのか?」
「……うっすらとですけどね」
そう言って、シルフィは、男―セアドの兄であるラルダに近寄った。
そう呼ばれた時、シルフィは、何のことかわからなかった。
それが幼い日の、自分のもう一つの呼び名であったことを教えてくれたのは、目の前にいるこの男だった。
ラルダによれば、自分とシルファの母は、この男の亡くなった父親の妹だったらしい。
そうして幼い頃は、シルファが今使っているあの洞窟や泉にも、一緒に行って、遊んでいたと言うのだ。
思わず、「はいっ?」となってしまったが、『会えてうれしいぞ、シルフィ』と言った彼の瞳に、嘘はないように思えた。
そうして、騒ぎが収まるのを待つ間、ラルダの話を聞いてわかったことは、幼い頃は父と自分達はあの洞窟の場所で、ラルダとセアド、そしてラルダ達の父親と待ち合わせをして、会っていたらしい。
そしてあの洞窟は、なんとシルフィの父と母が出会った場所でもある、ということだった。
しかしそうなると、今度は何故会わなくなったのか、という疑問が出てくる。
だが、その理由については、ラルダは言葉を濁して教えてくれなかった。
結局、ここに来る前に行った、ヤヌスの住居でその理由を知ることになったのだ。
その理由は、自分達の父・シーファが、ヤヌスの父・ユウラを伴侶として選んだせいだったらしい。
ヤヌスは、そのことをセアドから聞いたと言っていた。
『でも、母さんは亡くなっていたし、ユウラも奥さん亡くしていたし。何でそれぐらいで会わなくなるのよ』
と言うシルフィに、ヤヌスは、
『相手が、親父だったからかもなあ』
と、頭を掻きながら言っていた。
『ようするに、自分の亡くなった妹の夫が、同姓の伴侶を選んだことがおもしろくなかっったってこと? 随分器の小さい男なのね』
と、のたまったのは、ミルだったが。
『ミ、ミル……』
さすがに、絶句するヤヌスに、(シルフィも絶句した)
『なあに?』
と、優しい笑顔で聞き返していたが、こういう時、ミルは最強だと、シルフィは密かに思う。
まあそれはさておき、確かに同姓を伴侶に選ぶということはあまりない。
ただ、自分達の部族では、父が「巫子」であったということもあって、受け入れやすかったのだろう。
自分達の部族では、巫子は男でも女でもない、とされている。
もっとも、父は今のシルファと違って、男の格好はしていたが。
しかし、またしてもここに来ることになるとは、前の日には思ってもいなかった。
それは、ラルダも同じだったらしい。
「しかし、続けてここにお前が来るとは。何かあったのか?」
目の前に座り込んだシルフィに、そう尋ねてくる。
「弟さん、いないでしょう?」
「ああ。どういうわけか、この雨の中出かけて行った。止めたんだが」
「……本気なのかな? あなたの弟さん」
「何がだ?」
シルフィの問いに、ラルダはけげんそうな顔をした。
「わたしの弟に、手を出しているから」
「……何でそう思う?」
「ここに来る前に住居に戻ったら、睦み合っている真っ最中だったから」
シルフィがそう言うと、ラルダは、近くの柱に、ガンっと頭をぶつけた。
「だ、だいじょうぶですか!?」
「す、すまんな」
当たってしまった部分に手を当てながら、ラルダは言った。
「し、しかし、何でそんなに落ち着いていられる?」
さっきまで落ち着いた表情をしていた男の焦りように、シルフィは、目をぱちくりとさせた。
「そんなに驚くことなの?」
「そうではないのか?」
そして、逆にそう問い返されてしまう。
「まあ……驚きはしましたよ」
正直に、言えば。
「ついこの間出会ったばっかりの、自分を悪く言っていた男と、弟が睦み合っていたんだから」
「ま、まあ……セアドはずっと、シルファに会いたがっていたみたいだかな」
「そうなんですか?」
「父に黙って会いに行ったこともあったみたいだが、その度に、父がシーファに酷いことを言ったみたいでな。そのうち、行かなくなったが」
思わず、『器の狭い男だこと』と、ミルの言葉をシルフィは言いそうになったが、それは止めた。
しかしどうやら目の前にいる男も、同じことを感じていたようである。
「我が父ながら、度量がないとは思うが」
ため息と共に、そう言った。
シルフィもそれに心の中では頷きながら、別のことを聞いた。
「ずっと、シルファが好きだったってこと?」
「そういうことに、なるのであろうな」
二人とも幼かったが、とラルダはそう言って頷いた。
「そんな小さい頃に、人を好きになるものなの?」
「さあなあ。だが、人の思いに、あるもないも、決め付けることは、できないかもしれないな……しかし、よく怒らなかったな」
「えっ?」
「……見たのだろう?」
ラルダは言葉を濁したが、言いたいことはわかった。
「シルファが嫌がっていたら、怒りましたよ」
そう言って、シルフィは俯いた。
そう。
シルファが嫌がっていたら、絶対に許さなかった。
だけど。
セアドの膝の上に抱き上げられて、抱かれていたシルファは、必死にその体にすがりつき、自分を抱く男の名を呼んでいた。
それを見たのは、ほんの一瞬だったけど。
喘ぎながらも、確かにシルファはセアドを求めていた。
シルファが嫌がっていたのなら、あの男がどんなにシルファを求めていても、撃退することもできたのに。
と、その時である。
ぽんぽんと、頭を軽く叩かれた。
「あの……」
「嫌か? こうされるの。昔はしてやると、喜んでくれたが」
そうラルダは言うが、一応自分は、成人の儀も済ませた身なのである。
それもつい最近ではない。
「……子どもじゃないんですが」
「そう自分で言っている間は、まだガキだ」
そう言ってにやりと笑うと、また、ラルダはシルフィの頭を軽く叩いた。
★★★
「泊まる!?」
双子の姉の言葉に、シルファは思わず声を出してしまった。
(うん。雨も降っているし。だから、そっちにいる人にも、無理に帰ってこないでいいって、伝えてくれる?)
「そっちにいる人?」
(うん。セアドだけど。もう帰ったの?)
だが、この言葉には、絶句してしまった。
そのセアドは、ちょうど帰ろうと、支度をしている最中だった。
枯れ草の上に横たわっていたはずのシルファが、いきなり声を出したので、どうしたという感じで、近寄ってくる。
(シルファ?)
「いや、まだいるけど」
(そうなの。ちょうどよかったわ。泊まるのが、彼の住居なのよ。じゃあ、そう伝えてね。夜が明けたら、戻るから)
そう言うと、双子の姉は一方的に会話を終わらせた。
「どうした?」
呆然としていると、セアドが体を屈ませて、シルファを覗き込んできた。
「姉が……シルフィが、あなたのところに泊まると」
さすがに、この言葉には、彼も大きく目を見張らせた。
「シルフィが? ……兄がいるはずだが……」
「お兄さんがいるんですか?」
そう言って、シルファは起き上がった。
だが、そんなシルファに、セアドは何とも言えない表情を見せた。
「セアド?」
出会ってから間もないが、彼のそんな表情を初めて見る。
「……ラルダという名の、兄がいる」
そうして。
どこか苦い口調で、彼の兄の名前を教えてくれた。
「そうなんですね」
セアドのことを聞くのは、これが初めてのことだった。
「五回前の実りの季節に怪我をして、足は不自由だが、長の役目を果たしている」
「すごいですね」
セアドの言葉を聞いて。
シルファは、素直にそう言った。
「長」と言う立場は、とても大変だ。
部族の者達の様子を気遣い、他部族との交渉にもあたり、有事があった時は、すぐに対応できる能力もいる。
怪我をして足が不自由なのに、そんな役をやっているということは、周りもその能力の高さを認められているからだ。
つまり。普段陽気な態度のヤヌスも、この責務を担うことができるのは、それだけ能力が高い、ということなのだ。
「……弟の俺が不甲斐ないからな」
けれど。
セアドは、どこが自嘲気味に言った。
「セアドは、狩りが得意じゃないですか」
シルファは、咄嗟にそう言った。
それは、セアドの狩りの時の姿を思い出したからだった。
「俺は、すごいって思います」
たとえ本当にセアドが長の役目ができなかったとしても、それは、適材適所なのだ。
すると、セアドは大きく目を見開いた。
「俺は、あなたやシルフィのように、狩りはできないから、羨ましいです」
男でありながら巫子としての役目を担っているとは言え、逞しい体を持ち、命をかけて狩りの役目を果たす男達を見て、何も感じないわけではなかった。
どうして自分は、と。
何度思ったか。
そんなシルファにとって、セアドは憧れそのものだった。
「お前もすごい、と俺は思うが」
けれど。
セアドは、静かな口調でそう言った。
「お前は、周りに起こる出来事に疑問を持ち、調べようとする。そして、そのことを必ず部族の者達の役に立つようにしている。狩りのことでも、お前が
それは。
皆が言う、「風の神の加護を受けた巫子」としてではなくて。
ただ、「シルファ」と言う人間を、認めているような口調だった。
それは、とても嬉しい言葉でもあった。
シルファが何かすると、森の部族の者達は、「さすが風の神の加護を受けた者達だな」と言った。
部族の者達の役に立つのは、とても嬉しいことではあったけれど。
そこに、「シルファ」と言う、ただの自分はいなかった。
けれど、この男は。
そんな部分は抜きにして、ただ自分を「シルファ」と言う人間そのものとして見ていてくれている。
「ありがとうございます……」
シルファは、とても嬉しくなって、笑顔を浮かべてセアドに礼を言った。
その瞬間。
セアドは鋭い眼差しになる。
それに気づかないシルファは、「幼い頃からやって来た」と言う、セアドの言葉に気付き、
「あなたは……」
もしかして、昔会ったことがあるのではないのか、と。
そう聞こうとした時だった。
とんっとシルファの体を軽く押して、枯れ草の上に戻した。
えっ?と思う間もなく、シルファは、セアドにのしかかられていた。
「セア……ドっ、あ!?」
体の中心に、軽く手を触れられる。
男は、シルファの熱を幾度も解放させたシルファ自身を、ぎゅっと握りしめてきた。
「ま、待ってっ、あっ、ああっ……!」
「悪いが、待つつもりはない」
もう無理だと首を振るシルファに対して、セアドはそう言った。
「誰にも、渡すつもりがないからな。シルフィが戻って来ないなら、しっかり、俺を覚えてもらう」
夜明けまで、じっくりとな。
そう男は呟くと、シルファの唇に己の物を重ねて来た。
★
『どうして、雲は空にあるのかな?』
そう言って、空に手を伸ばす。
『シルファは、難しいことを考えるんだね』
近くにいた、自分より背の高い男の子が、一緒に空を見上げながらそう言った。
『だって、触ってみたいよ』
『風で、近くまで持って来られないの?』
『そうすると、父さんが怒るもん。それに、近くに持って来ようとすると、消えちゃうんだもん』
『そうなんだ』
『うん』
自分の言葉に、男の子は少し考え込んだようだった。
『じゃあ、僕の弓で雲を触ろうよ!』
そして、とてもいいことを思いついたとでも言うように、明るい笑顔を浮かべてそう言った。
『弓で?』
『そう。僕、今父さんに弓を習っているんだ。シルファの力で、その弓を雲にまで飛ばそうよ!』
『うわあ、すごい!』
『今度、来る時に弓を持ってくるよ』
そう、言っていたのに。
『うん、絶対だよ!』
自分は、とても楽しみにしていたのに。
その男の子は、来なかった。どうして?と聞いても、誰も答えてくれなかった。
『ごめん、シルファ』
父が哀しげな声で、そう謝って。
『あまり、シーファを困らせるな』
やっぱり哀しげな表情で、ユウラがそう言って、軽く頭を撫でてくれて。
「シルファ?」
遠くの方で、名前を呼ばれた。
「目が覚めたのか? シルファ」
その声は、優しく自分に囁きかける。
「そろそろ、夜が明けるから俺は行くぞ。シルフィも、戻ってくるようだからな」
そう言って、離れて行こうとする気配に、手を伸ばした。
行かないで、と。
あの時、笑顔で別れた。
会えなくなるなんて、思ってもいなかった。
もう、あんな思いはしたくなかった。
伸ばした手を、握り返される。
離れて行こうとした気配が戻ってくるのを感じながら、シルファは、また深い眠りに落ちて行った。
★
「……どうして、あんたがここにいるの?」
双子の姉は、地の底から聞えてきそうな声で、入口の敷布をめくった体勢のまま、そう言った。
その姿を、セアドに起こされたばかりのシルファは、呆然となって見上げる。
「思ったよりも、遅かったな」
しかしそれに対して、セアドは落ち着いた表情で接していた。
「あんたとはち合わない様に、わざとそうしたんじゃないっ!」
その態度は、さらにシルフィの怒りを燃え上がらせたようだった。
「そうか……。悪かったな。シルファが離してくれなかったんで、今までここにいたんだ」
この時。
シルファは、穴があったらそこに入りたかった。
どうしてそんなことを言うのかと、セアドの方をちらっと見たが、彼の表情は変わらない。
どうやら嘘ではないらしいが、シルファ自身は覚えていないのだ。
「シ~ル~ファ~?」
だから何も言えなくて、地の底から聞えてきそうな双子の姉の問いかけにも、体を小さくするしかない。
しかし前の日に「話した」時はあれほどあっけらかんとした態度だったのに、どうしてここまで怒るのか、それも不思議であった。
これは、後からラルダが教えてくれたのだが、この時のシルフィの気持ちは、「娘に伴侶ができた時の父親の心境」みたいなものだったらしい。
ようは、娘に伴侶ができたことを受け入れつつも、その場を見ると「おもしろくない」と感じるという、父親と同じ複雑な感情を抱いていたようなのだ。
しかし、現時点でのシルファが、そんな複雑なシルフィの思いがわかるはずもなく。
無意識のうちに、セアドの方に体をすり寄せてしまった。
それに気が付いたセアドが、どうした? という感じで肩を抱き寄せるので、さらにシルフィの怒りは最大限に燃え上がったようだった。
「ヤヌスがこっちに来ているなら、ちょっと寄って欲しいって言っていたわよ!」
本当に恐ろしい程尖った声で、怒鳴った。
「シ、シルフィ……」
「わかった」
だがその怒鳴り声にも動じず、セアドは頷くと、抱き寄せたシルファの前で屈みこみ、唇を重ねてきた。
「あっ……んっ、ん……」
前の日にさんざん蹂躙された体は、それでも熱を持ち始めた。
もう、ほとんど自分では動かせないほど、疲れているのにもかかわらず。
「人の目があるのに、睦み合うなっ!」
「またな」
シルフィの怒鳴り声をまったく無視しながら、セアドはシルファの髪を一筋取り、そこに口付けた。
そしてそのまま、迷いのない足取りで、出口へと向かって行く。
「ちょっと、案内してくるわね!」
出て行くセアドの背中を指差しながら、シルフィが言った。
やれやれと言った感じで、でも怒りを抑えての発言ということはよくわかった。
「う、うん……」
だから。
シルファはもう、そう素直に頷くしかなかった。
本当は、とても寂しかった。
自分だけが置いていかれたような気がして。
だけど、体が動かないことも事実だった。
夜明け前まで男に抱かれ続けた体は、とてもじゃないが、動かせるものではなかった。
一度起き上がらせた体を、シルファはもう一度ゆっくりと横たえた。
体は、どうやらセアドが清めてくれたらしく、どこもべた付いた感じはしなかった。
衣も着せられていて、最後の方はもうほとんど意識のなかったシルファには、男がどうやってそれら一連のことをやったのかもわからない。
ただ、わかるのは今自分が「寂しい」と思っていることだ。
自分を抱いた男が、傍にいなくて。
夜明けまで、抱き合ったと言うのに。
この体には、まだ抱かれていた感触が残っていると言うのに。
もう離れたばかりの男がいなくて、寂しいのだ。
この思いを、何という名前で呼んだらいいのか。
シルフィやヤヌス達に向ける思いとも違う、そしてミルに対しても抱いたことのない思い。
その思いの名を、知りたいとシルファは思った。
★★★
「……まだ、言っていないの?」
自分の前を歩く、しなやかな体をした少女がそう尋ねてきた。
その問いかけに、セアドはシルフィの後ろ姿をじっと見つめる。
「思い出したのか?」
「あなたのお兄さんが、教えてくれたからね」
あっさりと、シルフィは答える。
さっきまでの怒りが、嘘のような態度だ。
セアドは幼い頃に母を亡くしたせいもあって、女性というものがあまり理解できない。
そういえば、体を重ねたことがある女性達も、自分達の方から寄ってきたのに、しばらくすると離れて行ってしまった。
どうして、こうもあっさりと己の感情を変えることができるのか。
自分には、一生理解できないことなのかもしれない。
だがシルフィはもともと、こういうあっさりとしたところもあった。
怒るだけ怒ったり、泣くだけ泣いたりすると、後はすっきりするのか、それをずっとひきずるというところがなかった。
シルフィのこの切り替えしの速さは、生来のものなのか。
それとも女性特有のものなのか。
「どうして言わないの?」
しかしそのセアドの考えを打ち破るように、シルフィがそう聞いてきた。
「あなたが言えば、多分、シルファも思い出すわよ?」
振り返りながら問いかけられる言葉に、セアドは黙り込んだ。
「セアド?」
シルファと同じ色の左の瞳が、問うような眼差しで自分を見る。
「お前が言うつもりはないのか?」
セアドは、逆にそう問い返したが、
「ないわね」
と、きっぱりと断言された。
「自分で言えばいいのよ、さっさと。何、まごまごしているのよ」
「つまり、シルファに自分で思い出して欲しいってこと?」
と、その時だった。
シルフィとは別の女の声が聞こえた。
「ミル!」
気が付くと、お腹の大きい女が自分達の近くに立っていた。
「どうしたの? こんなところで」
「あなた達とは、逆よ。あなたの住居に行こうと思ってね」
「え、何で?」
シルフィの言葉は、そのまま自分がこの女に言いたいことだった。
「動けない人を、そのままにしておくのはかわいそうでしょ。……一つ、教えておくわ。自分の思うがままを相手を欲するのは、ガキがすることよ」
だが女は、自分の視線に臆することなく、それを真正面で受け止めながらそう言った。
「!?」
「つまらないことにこだわって、伝えることも伝えないでいると、後で悔やむこともあるのよ」
若草色の瞳が、真っ直ぐに自分を射抜くのを、セアドは感じた。
「ミ、ミル……」
その迫力に、セアドと一緒に圧倒されていたシルフィがおずおずと声をかけると、
「じゃあ、私は行くわね。ヤヌスが待っているから、急いで」
にっこりと笑って、彼女はシルファ達の住居がある方へと歩いて行った。
「あの女は、何者だ?」
その後ろ姿を見送りながら、セアドは聞く。
「それ、本人の前で絶対言わない方がいいわよ」
シルフィは、そう前置きしてから、「私達の
「あね?」
その言葉には、首を傾げる。
この双子の姉弟に、姉などはいなかったはずだ。
「ミルの母親に、私達は乳をもらったから」
「……なるほど」
そう言えば、シルファが同じことを言っていたことを思い出す。
「森の長殿の伴侶は、怖いな」
同じ部族の男達でさえ逸らすことがある、自分の怒りを含んだ視線を、真正面から受け止めていた。
しかも、しっかりと自分に警告までしてきた。
女性らしい外見からは、想像もつかないほどの肝の太さだ。
「シルファは、ちょっと騙されているっぽいけどね……」
「……なるほど」
疲れたように言うシルフィに、セアドは頷くことしかできなかった。
だが、後に。
この時のミルの言葉の意味を、嫌と言うほど実感する出来事が起こることになるとは、この時のセアドは、思ってもいなかった。
★★★
「狩り?」
自分の向かい側に座っているヤヌスの言葉に、シルファは目を見張った。
「ああ。俺達と一緒に、狩りを近いうちにまたしたいと、湖畔の部族の者達の中から、そんな声が上がっているらしい」
「でも、ヤヌス。この間、大きな狩りをしたばかりだよ。いくらなんでも、早過ぎる」
確かにこの間は
それに大掛かりな狩りは、それこそ短い期間に立て続けに行うものではない。
「せめて月が二回は満ちてからにしないと、この周辺では、獲物が獲れなくなる」
森が狭くなり、草原が広がっている今、動物達の数は、確実に減っているのだ。
子育てのこの季節に、一匹でも多くの動物達が育ってくれないと、その数はさらに減ることは目に見えていた。
「どうしてそんな話が出るのよ」
シルファと一緒に、陽が昇ってすぐにヤヌスから呼び出されたシルフィは、ミルが作ってくれた汁物を食べながら言った。
「できるだけ大きい獲物を狩った方が、楽になるだろう、って考えらしい」
「……何、それ」
「つまり大物狙いで行けば、しばらくは狩りをしなくて良くなるから、ってこと?」
「そうみたいだぜ」
シルファの言葉に、ヤヌスは頷いた。
「無理だよ、ヤヌス」
「まあな。俺もそう思うし、セアドの旦那もそう言っていた」
その名を聞いたとたん、シルファの体が、ぴくりっと動いた。
「いつの間に、そんなことを話したのよ」
「この間だ」
それは、セアドがシルファ達の住居に泊まった次の日のことだろう。
「だがやっかいなのは、それを言い出したのが、湖畔の部族の長殿よりも先に生まれた連中なのさ。奴らにしてみれば、前の狩りの時に、こちらに恥を見せた分、今度の狩りでそれを取り返したい気持ちもあるらしい」
「ああ、自分達で獲物は引き上げると言い張って、結局、シルファの考えた方法で引き上げたのよね。……って、ラルダはそいつら抑えられないの?」
「長殿のためにという思いも彼らにはあるらしい。それがある以上、無碍にもできないみたいでなあ……しかし、仮にも長殿だぞ? 呼び捨てにするなよ、シルフィ」
「だって、本人がそう呼べって言うのよ。けれど、足が動かないのに、長として認められているってことは、それだけすごい人なんだよねぇ」
「まあな。だが、そういう身の上でありながら、年上の連中にも認められているということは、かなり食えない相手ってことでもあるぞ」
「えっ?」
ヤヌスの言葉に、シルフィは首を傾げた。
その瞬間、ヤヌスの表情が「長」のものとなる。
「まず、初めに言っておく。嫌なら、断ってくれ二人とも」
「ヤヌス?」
「どうしたの?」
「その長殿から申し出があった。次の話し合いには、お前達も加わって欲しいと」
言いにくそうに、だがはっきりとヤヌスは言った。
「僕達が?」
この間の狩りの時は、シルファもシルフィも当日から参加した形だった。
シルファは狩りの方法を考えたが、その考えを聞いて湖畔の部族と話し合ったのは、ヤヌスや年上の者達だった。
「どういうこと?」
シルフィも、けげんそうな表情で尋ねる。
「湖畔の部族の長殿も、年上の者達が言っていることには、無理があると思っている。だが、彼らの『長殿のために』という気持ちも無視するわけにもいかない。そこで、お前達の言葉が欲しいそうだ……『風の神の加護を受けた者』としてな」
「つまり、僕達を使って、その人達を納得させようってこと?」
「そう……お前達の外見は、一目で『風の神の加護』を受けたことがわかる。前の狩りでは遠目で見ていた奴らも、その場にいるお前達の姿を見て、お前達が『狩りはまだ早い』と言えば納得するだろう、ということだった」
「……つまるところ、自分では彼らを説得できないから、君達のいる『神の加護を受けた者』達に同じことを言わせて、納得させてね、お願いねって、こと?」
と、その時だった。かなり怒りを含んだ声がした。
「ミ、ミル……」
はっとなって見ると、ミルがいつの間にか住居に戻って来ていて、入口の前に立っていた。
「ヤヌス、あなたそれをおめおめと引き受けて来たんじゃないでしょーね!?」 「いや、まだ直接長殿とは……」
「そんなことはどーでもいいのよっ」
つかつかとミルはヤヌスに近寄ると、夫であるヤヌスの肩を掴むと、揺さぶりながらそう叫んだ。
「相手の言うままに引き受けるんじゃないって言っているのよ、私はっ」
「それも……セアドが来た時に?」
だが、シルファが気になったのは、ミルが心配している部分ではなかった。
「いや。その前に、長殿から使者が来ていてな。それが本当かどうか確認したくて、あの時俺達の集落に来ていたセアドの旦那に、ここに寄ってもらったんだ。旦那の方も、知らなかったみたいでな。驚いていたぞ」
そんなシルファに、ミルに肩を掴まれたままのヤヌスが、そう答えてくれた。
「私が住居に泊まった時は、ラルダは一言もそんなこと言わなかったけどね」
ため息を吐きながら、そうシルフィが呟く。
「まあ、だから食えないと、俺は思うんだよ」
「そんなことは、どうでもいいわ」
そうしてまた、ミルがヤヌスの肩をつかみ、揺すぶり出した。
「ちゃんと断りなさいよ、ヤヌス。部族の人間をきちんと守ることも、長の役目でしょ!」
「―いや、引き受けるよ、ヤヌス」
だが、シルファはそんなミルの言葉を遮るように言った。
「シルファ!?」
その言葉に、ミルが驚いたように声を上げる。
その瞬間、揺さぶられていたヤヌスも、ミルの手を掴み、その動きを止めさせた。
「いいのか?」
「だって、それが僕の役目だろう?」
神に仕える巫子として、これまでだって、やってきた。それと同じことを、するだけだ。
「湖畔の部族の者達にも、『神の加護を受けた者』と見られるぞ? それも、覚悟の上か」
「仕方ないよ。湖畔の部族と協力する以上、そういう日は必ず来るだろうし」
確かに、「シルファ」という自分ではなく、「神の加護を受けた者」として見られるのは、つらい。
それが同じ部族だけではなく、他の部族にも及ぶのだ。
だが、しかし。
そんな己の身勝手な感情に、流されている場合ではないのだ。
自分達の命にもかかわってくることだ。
そして、やがて生まれてくるミルとヤヌスの子どもや、その後にも生まれてくるであろう子ども達のためにも、きちんとしなければならないことなのだ。
父や、ヤヌスの父が、自分達のために部族を変えていってくれたのと同じように。
「私も忘れないでくれる? シルファ」
そう言いながら、シルフィが手を上げた。
「シルフィ」
「あんただけに背負わせる気はないから、忘れないでよ」
「シルファ……シルフィ……」
心配そうに、二人の名をミルが呼ぶ。
「心配してくれてありがとう、ミル。でも、だいじょうぶだから」
だが、笑顔でシルフィは言い、シルファも頷いた。
「すまないな、二人とも」
ため息を付くように、ヤヌスが言った。
「部族のためだろ? ヤヌスにだけに任せるつもりはないよ」
「正直、助かる。あちらにも、一つ恩が売れるしな」
「ヤ~ヌ~ス?」
とたんに、ミルの冷たい視線がヤヌスに向けられる。
「そんなに睨まないでくれ、ミル! 俺だって、本当は嫌なんだっ」
「ヤヌス」としての感情は、きっとそうなのだろう。
だが、「長」として自分の思いに流されては、やっていけない時もあるのだ。
「あんまりいじめないでやって、ミル」
そう笑いながら、自分を庇うシルファに、
「すまない」
ヤヌスはそう言って、頭を下げた。
★
「元気がないわね、シルファ」
自分達の住居へ戻る途中、シルフィがそう言った。
「そうかな?」
そう答えながらも、シルファは確かに重くなっていく自分の気持ちを感じていた。
ヤヌスに言った言葉は、本当だった。
部族のために、自分の持つ力を使うのは当然のことだと思っている。
だが、その一方で。
セアドが自分にあんなことをするのは、このことがあったからではないか、と。
自分の持つ力を、湖畔の部族のために利用するつもりで、あんなことをしたのではないか、と。
そんな考えが、浮かんでしまうのだ。
「やっぱり気になる? ヤヌスが言ったこと」
「シルフィ?」
「わかってはいるのよ。ラルダが考えているように、私達が『狩りはまだ無理だ』と言えば、多分、ヤヌスとかラルダが言うよりは、湖畔の部族の人も、納得しやすくなるんだろうなってことはね。そして、それが一番いい方法だってことも、ね。でも……なんか、すっきりしないのよ」
そう、シルフィは言った。
「そう言えば、シルフィは、セアドの住居に泊まった時、彼のお兄さんもいたんじゃ……」
「うん。でも、泊まっていけって言ったのは、ラルダよ」
あっさりとそう言うシルフィには、弟以外の男と二人っきりになった、という意識はないのだろう。
実際、本当に「泊まった」だけであることは、まちがいなさそうなのだが。
「あの時のラルダは、そんなこと一言も言わなかったからね。あんなふうに親しく話したのも、このことがあったからなあって、考えちゃう」
「……うん」
その言葉に、シルファも頷いた。
「用心は、しないといけないのかもね」
「シルフィ……」
「あんまり、そんなことは考えたくはないけど」
少し哀しそうな表情をして、シルフィは言った。
ただ、後から思えば。
シルフィが言った「気をつけなきゃいけない」相手とは、ラルダであって、セアドではなかったのだ。
実際、ヤヌスは「セアドは何も知らなかったみたいだ」と言っていた。
でも、この時のシルファは、その通りだと思った。
その思いが、どれだけセアドを傷つけるかもわからずに。
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