コンダクター



 それから、しばらく時間が経って。

 家のパソコンを拝借して、家事手伝いの求人を探していた時でした。


 父様から連絡があり、すぐにコンサートホールへと来るよう言われました。謝罪の時間にはまだ随分早いと思い問いを返しましたが、どうやら、須藤様が僕や父様にも座席を確保してくださり、ぜひ演奏を聴きに来てほしいとのご要望でした。


 従者たる者、要望には必ず応えねばなりません。

 身なりを整え、間違っても手ぶらでは来るなと父様に言われたため、兄様にスーツを借り、ネクタイはアルべ様達からの贈り物を使うことにしました。

 コンサートホール近くの駅の一駅前で電車を降り、近くの花屋で花束を購入しました。

 僕以外にもお客さんがたくさん来ており、どうやら花束を買う目的も僕と同じのようです。

 花屋から夕陽が落ちるコンサートホールへ向かって、男性、女性、さまざまな年齢層の方が歩いていました。



 しばらく歩いて、会場にたどり着くと会場の前には長蛇の列ができていました。開場案内係の指示に従って列が少しずつ進んでいる様子です。

 僕がその列に参加して、しばらくすると、ちょうど会場の入り口に父様が険しい顔をして立っていました。

 父様は僕の姿を確認するやいなや、僕を引っ掴み、列から外しました。



「ち、父様。ご指示どおり、贈り物を買って……」


「この期に及んで、兄のスーツまで着込んで男の真似事か」


「……っ、父様。前にも申し上げましたが僕は!」


「家の方針も聞かず、それどころか家を貶めるような行動をしておいて、自分の主張だけは通るとでも思っているのか」


「そ、それは……」


「これ以上、私を苛立たせるな。……お前の座席はこのチケットに書いてある。向こうの来賓出入口から行け。ここの案内係にお前のことで手間取らせるのさえ、恥ずかしい」



 父様は強く言い渡し、そのまま開場の外へと行ってしまいました。


 ため息を吐きながら、僕は父様に言われた通り来賓出入口へ向かいました。

 来賓出入口には二人の警備員が立っていて少しびっくりしましたが、父様に渡されたチケットを見せると、二人は何も言わずに中へと通してくれました。


 開演前の劇場は、ざわついていました。

 観客達が席を探すささやき声だったり、案内係が劇場内の飲食を禁止する注意喚起をする声だったり、さまざまな声が重なり、劇場自体の音響効果も相俟って響いていました。客層は、本当にさまざまで、子供連れの家族も来ています。


 コンサートなんて、子供の頃以来です。

 従者としての勉強のため、兄様達に連れてきてもらったことがありました。尤も、父様には内緒で兄様達には「一緒に行きたい」とわがままを言って。執事になれない僕には、こういう場に参加する勉強は必要がなかったのです。主人と共にあるのは男だけですから、女の僕は、家の掃除の仕方ばかり、教えられてきました。

 そのころは、今のように失意を感じることはなくて、いつかは父様に認めてもらえると思っていたものです。……結局は、この有様。認められるどころか、ほとんど絶縁でしょう。



「1階、2列目の、6……。すごい、前の方の席だ」



 チケットと座席を交互に確認しながら、思わずそんなことを呟きました。

 一般にコンサートの座席といえば、座席はチケット発行時までランダムですが、ご主人様と演奏者に一定の関係があるときは、座席を指定させてくれることがあります。そういう場合の席の選びは、ご主人様が何を求めているかを重視して選ぶのだと兄様は言っていました。

 聞くことを重視される場合は2階の真ん中の席で、一番音が良い場所。演奏者との交流を重視される場合は前の方の席で、終了後に贈り物を直接渡しやすいのだとか。

 そんな、これから活用できない豆知識を思い出しながら、僕は自分の座席を見つけすぐに着席しました。



『まもなく、開演いたします。』



 着席してしばらくすると、アナウンスとともに開演を知らせるブザーが鳴りました。

 場内はブザーが鳴ると同時に話し声が止み、人々が身じろぐ音や軽い咳払いが目立つようになりました。やがて、客席側の照明が落とされると、舞台を覆う緞帳がゆっくりと上がっていきます。

 周りの人々が拍手をし始めるのを見て、僕もそれに倣いました。


 そして、舞台の様子を見て、驚きました。

 僕は須藤様から彼の職業が"ピアニスト"だと聞いていたので、須藤様のコンサートというのも、てっきりピアノのコンサートだと思っていました。

 しかし舞台の上には、バイオリンとかトランペットとかを手にしているオーケストラの楽団が座していて、中心に大きなピアノ、そして指揮台が設置されていました。

 すでにオーケストラ楽団が座しているので、須藤様もそこに居るのかと思っていたら、その姿はどこにもありません。ピアノの前にもです。

 あっけに取られていると、周りの拍手の音が一層大きくなりました。

 舞台袖から舞台へ出て、そして舞台の一番真ん中で、燕尾服を纏い白いタクトを持った男性が立ち止まり、楽団の一人と握手を交わしてから客席へと振り返りました。

 振り返った指揮者は観客達を前に深々と一礼をしました。それから、客席を上から順に眺めて微笑み、最後に僕と目を合わせると彼は──須藤様は、今朝見たものと同じ笑みを向けてくださいました。


 そうして彼は、そのまま指揮台へ上がり、まもなく演奏が始まりました。



 ……………………




 演奏と指揮者のトークを織り交ぜながら、コンサートホール内の時間はあっという間に進んでいきました。あっという間でも、僕が彼のファンになろうと決めるためには十分すぎる内容でありました。


 しかし、残念なのはこのコンサートが終わってしまうことで、僕はもう"ただの観客"にはなれないということです。少なくとも、"河田家の面汚し"というレッテルだけはもう剥がしようがありません。


 全ての演奏を終え、舞台の上で明るい照明と大喝采を浴びているあの人が、すごく遠い存在のように思いました。

 ……ああ、べつに。元々遠い場所の人だったから、そんなことを言うのも烏滸がましいのでしょうけど。


 そうこうしている合間に、オーケストラの楽団は全員捌けていて、観客達もまばらですが会場を出て行き始めました。

 しかし、舞台の上には須藤様と会場のスタッフが数名が残っていました。

 何事かと思ってしばらく観察していると、舞台の前から一階客席後方まで、贈り物を抱えた観客達が列を成していました。

 ほとんどが女性客、それと子供連れ──子供連れが多いのは、彼がオーケストラ楽団と奏でた音楽は、疎い僕でもわかるような、日本や世界でも有名なアニメ・ゲームの音楽だったから。

 須藤様のお家で、須藤様のライバルである方が演奏するクラシックピアノのCDを聴かせてもらった時に、"扱う音楽の種類が違う"という話をしていましたが、須藤様の専門はクラシックではないということのようです。



「そうだ。僕も、渡さないと……」



 座席の下に置いていた花束の存在を思い出しました。薔薇の花束──アルべ様のお家を思い出して選んでしまったのですが、花の本数も少なくて……彼の前に列を成している女性達の贈り物と比べたら、だいぶ見劣りしてしまいます。い、いや、花束が悪いということは決してないのですが、果たして、僕なんかが、男とも女とも境のない中途半端な人間が、この花を、渡しても良いものなのでしょうか。



「なんだろ。すごく、苦しいや……」



 形容できない息苦しさに襲われて、僕は、また逃げ出しました。

 花束を持って座席を立ち、たくさんの人たちに囲まれている須藤様を横目で眺めてから劇場を飛び出しました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る