カランド・ラメンタービレ



 音楽を聞いて少し冷静になった僕でしたが、ふと、この家にもピアノがあったことを思い出しました。

 単純な僕の思考は、そのことを流れている音楽を結びつけて、彼に問いました。



「……このピアノ、須藤様が弾いてる曲、ですか?」



 すると、須藤様はぶっと吹き出しました。



「……こ、こんな上手に弾けないよ。それに、家で聞く音楽が自分の音楽ってナイナイ!……お客さんにどう聞こえてるのか研究するときに聞くくらいだよ」


「そ、そういうものなのでしょうか。僕にはよく──」


「録音された自分の声を聞くと、変な感じするでしょ?多分そういう感じさ。……で、このピアノはおじさんのライバルの演奏だよ。彼、めちゃくちゃすごいんだ。おじさんのライバルって言い張るのも烏滸がましいくらいに。……まあ、主に扱う音楽の種類が違うから、ほんとどうなんだろね。星に願わくば、いつかは一音楽家としてではなく一般人として彼の音楽を楽しみたいね」



 どうぞ、と須藤様は僕にカップを渡してくれました。僕の注文通りに白湯が入っていました。

 カップに口をつけると湯気が鼻を抜けていきます。綺麗な音楽と相まって、自然と気持ちが落ち着きます。溢れていた冷や汗も、いつの間にか止まっていました。


 僕が無意識のうちにふうっとため息をつくと、須藤様は僕を見つめてニコリと微笑みました。

 彼が真の悪党なら、この辺で僕を刺し殺すのでしょうがそんな気配は微塵もなく。むしろ、僕と同じように白湯を飲み、彼のライバルであるという人の演奏に聴き入っていました。


 10分ほどしたあと、「さて」と彼が言い、僕のこれまでを──それはそれは恥ずかしく、東京湾に沈められて死んだほうがマシという出来事を語ってくれました。


 曰く──

 昨晩、父様不在により暇を作った僕は嫌な出来事をあれこれ忘れるために、東京の飲み屋街を歩いていきました。そこで、半ば強引に飲み屋に案内される──いわゆる"客引き"というやつにあったのです。

 お酒を飲んでいるとの時は、ちょっと強気の値段設定な高級酒場かと思って、あまり気にしていなかったというか……まあ、お酒の力を借りて、色々な苦労から逃避したい一心で特に考えていなかったのです。

 で、すっかりお酒が回って、そろそろ帰らなきゃと帰る家もないはずなのにそう思って、いざお会計でびっくり。……いや、お酒を飲んだ後から記憶が怪しいのでびっくりしたのかもよく覚えていませんが、とにかく……べらぼうな金額を呈示されたようなのです。


 もちろん、店はお金を払うことができない僕を咎めます。ぼったくりとはいえ、飲食をしたのは事実なのですから、お金を払うのは当然。

 でも、不適正な額まで支払えるお金の持ち合わせがなく、いつの間にか怖い顔をした店員たちに囲まれていました。



 ──金がないならしょうがない。

 このでかい荷物ん中に金目のものくらい入ってんだろう。どうせ、家出した小僧だ。家から金以外の高級品持ち出してんだろ。



 店員の一人が、僕の荷物を漁りました。

 そこで見つかってしまったのが、アルべ様とマリア様からもらった贈り物でした。


 僕は、酔っ払いながらも、それだけは本当に大切な「僕の宝物だ!」と、この時言ったのです。

 店員の手から贈り物を奪い返して、両手で抱えて、その後に店員に殴られたのです。



 ──宝ねえ。なおさら見過ごせねえな。

 飲み代払えてないのわかってんのか。いんや、もう一発殴って体にわからせてやるよ!



 店員が意気込んだその時、須藤様が止めてくださいました。



 ──はいはい、ストップ!

 お兄さんたち、お金欲しいんならおじさんが払うから、その子解放してあげて。


 ──なんだ、おっさん。この小僧のボーイフレンドか?なら、迷惑料まで払ってもらおうか。込み込みで50万円だ。


 ──ダメダメ、そんなんじゃ。いくらなんでもぼったくりすぎでしょう?15で我慢しておきなよ。今おじさんそれしか持ってないし。はい、どーぞ。


 ──ああ?舐めてもらっちゃ困るなあ!おい、お前らこのおっさんも小僧と一緒に潰しちまいな!


 ──我慢しておけって言ったのわかんない?15万円も貰えて上等でしょ。それとも、なに?お巡りさん呼ばれたいの?困るのはそっちだと思うけどなあ。せっかくぼったくりに引っかかってあげてんだから、素直に受け取っておきなよ。その代わり、お互いに深追いは無しで、ね?



 須藤様がそう言うと、店員たちは僕を解放しました。酔っ払っていた僕はその間にお酒に飲まれて意識を手放しかけていたらしく、そのまま須藤様の家に御厄介になり、今に至る、と──



「うわああああん、ごめんなさあああい!僕、ほんとお話を聞くまで何にも思い出せませんでした。め、めちゃくちゃ迷惑かけてるし、恥ずかしいし、父様に殺された方がマシだあ……」


「いやいや、いいんだよ。困ってるときはお互い様だし、放っておける状況じゃなさそうだったし。……でも、おじさんの方こそごめん。その包み以外のナツメちゃんの荷物は結局持ってかれちゃったんだ」


「い、いえ!そ、そんな大したもの入ってないんで!いえ、あ、そうだ!お金!須藤様!15万円をあのお店に払ったんですよね!それ、返さないと……財布財布……って、取られたままなんでしたあ!!」


「いや、ほんとに良いって!臆病にもお金で解決することを選んだのはおじさんなんだし、ナツメちゃんが謝ることないよ。乱暴になるのは好きじゃなくて、できれば穏便に終わらせたい。……たとえ悪人であっても、君たちが傷つく姿を見たくないんだよ。だから、本当に気にしないで?」



 拝啓、長官様──

 このお方は本当に極悪人なのでしょうか。

 共に過ごせば過ごすほど、誤解のような気がしてなりません。

 しかし、その真偽を確かめる手立てがありません。「あなた様は極悪人ですか?」なんて、聞くわけにもいきませんし……。


 とはいえ、とはいえ、です。

 助けていただいて、しかもお金を払っていただいていることを有耶無耶にはできません。"お金は大事"とアルべ様にも言ったことがある手前ですから、たとえチャラでいいと言われたって、ラッキーとはならないのです。



「須藤様、先日より受けた御恩は一生忘れません。そして、払っていただいたお金は必ずお返しします。たとえ、須藤様が要らないと仰っても、必ずです。……以前、お金は大事だ、と友人を諭しことがあるのです。そんな僕がお金のことを有耶無耶にできません。なので、必ず!」


「……そっか。友人って、その贈り物くれた人?」


「は……、なぜそれを!?ももも、もしかしてエスパー!?」


「いやいや、これまでの話の流れからなんとなくね。大切な人なんだね」


「……は、はい。僕の、恩人でもあるので。って、あ、須藤様も恩人なのですが!」


「ははは、いいよおじさんは。照れくさいし。……でも、ナツメちゃん。お酒はほどほどにね。何か嫌なことがあったのかもしれないけれど、何事も、お酒も多すぎるのは身体に毒だからさ。適正飲酒を心がけるようにね?」


「……う、はい。肝に銘じます」



 僕が答えると、須藤様はまた微笑みを返してくれました。



「そうだ。ナツメちゃん、この後どうする?おじさんは昼までなら家にいるけど、さっき言ったように夜からコンサートだからリハのためにも昼すぎにはここを出ちゃうんだよね」


「──まあ、まだまだ時間あるし、お家まで送ることも……」



 相変わらず、優しさが身に沁みます。

 でも、やっぱりこれ以上甘えることはできません。



「大丈夫です。ここから家までそんなに遠くないので歩いて帰ります。家に帰れば須藤様にお借りしたお金もなんとかしてもらえると思うので!」


「本当に大丈夫?無理してない?」


「はい、大丈夫です!」



 気丈に笑いました。

 家まで遠くないなんて、窓を見ただけじゃよく分かりませんし、お金を借りたことを父様に話したらなんて言われることやら。

 強がっているのはバレバレでしょうけども、須藤様は「そっか」と言って僕の意思を受け入れてくれたように感じました。


 そうして長居は無用ということで、まもなく、僕は須藤様のお家を後にしました。

 マンションの最上階からエレベーターで1階まで降りて行きます。ガラス張りのエレベーターからの景色をゆっくり眺めているうち、ここが東京都港区の高級住宅地であることがわかります。最上階ですから、家賃はおおよそ40、50万円くらいでしょうか、一月で。今の日本で一般的な初任給は月20万円と言われていますから、だいたい僕のお給料の2倍もの家賃を、須藤様は支払っていることが想像できますね。あの飲み屋街でポケットから15万円がキャッシュで出てくるわけです。


 対する僕は一文なし。

 スーツもくたびれていて、執事として、とてもご主人様の隣に立てるような姿じゃありません。

 憧れはどこへやら、気分は落ち込むばかり。


 マンションを出て振り返り、最上階を見上げながら僕は天に向かってため息をつきました。

 きっと僕はもう一度、須藤様にお会いすることになるでしょう。家に帰って父様には、昨日今日あった出来事を全てをお話ししようと思います。いや、お話しするしかありません。

 普通、家の娘が頬に絆創膏を貼って、一文無しで帰ってきたら、何事かを問われるでしょうから。


 見上げた空に、円を描くように、不吉な黒い鳥が飛んでいました。


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