スフォルツァート⑶
僕は名刺を受け取りました。
そして名刺に書いてあるその名前をまじまじと見つめました。
頭の中で目まぐるしく思考が駆け巡ります。
昨日のことは全く思い出せないのに、初対面であるはずの彼の名前には、記憶の中に根強く覚えがありました。
須藤 文──
この男はギルディア王国と魔物の森を挟む場所に位置する隣国であるシエント帝国の人間。
かの国の軍医であり、且つ任務遂行のためには手段を選ばない極悪非道な諜報員として、長官様が警戒していた人物……かもしれない人です。
同姓同名という可能性はありますから、断定はできないし、正直信じられないという気持ちが僕にはありました。
見ず知らずの酔っ払いの介抱して家に泊め、こうして傷の手当てまでしてもらったのですから。彼が僕に与えてくれた優しさには偽りがないと、信じたい。
しかし──実際その偽りすらも"手段を選ばない諜報員"が持つ手段の一つであるかもしれないのです。
アルベ様達も、『アザレア』を抜け出した後、あの魔物の森で生活する時には、この男に助けられたのだと聞きました。僕が「須藤はシエント帝国の諜報員で要警戒人物である」という話をした時には、アルベ様は本当に悲しそうな顔をしていました。
最終的に、ギルディア政府のことを頼ってくれましたけれど──
今なら、わかります。
この須藤という男の無償の優しさを、僕は疑いたくない。
「ん?どうしたの?あ、もしかして名刺汚れてた!?ごめん、やっぱり名刺ケース持ってくるね!」
「あ、いや!ごめんなさい、いいんです。お構いなく。名刺は汚れてなんかいませんから!……ただ、お名前にすごく驚いてしまって」
「ああ、そうか。そうだよね。医者でピアニストなんて、胡散臭いよね。しかもこんなナリのおじさんだしさ。正直、君のような感想を持たれたことが何度かあるんだよね。……と、よければ君の名前も教えてくれる?嫌ならいいんだけど、あんまり"君"って呼びたくなくてさ。あ、言いたくなかったら良いからね!」
「あ、僕は……河田。河田 ナツメです。すみません、助けていただいたのに自己紹介すらできてなくて」
名前を伝えるか、少し悩みました。
もし本当にこのお方、須藤……様が、シエント帝国の諜報員であった場合、何らかの情報を僕から引き出そうとかもしれないと思ったから。
しかし、そこでひとつ名案が浮かんだので、素直に名前を伝えたのです。
「うん、ナツメちゃんね!ところで河田?河田ってあの河田?ひょっとして日本じゃ有名な執事業の一族、だったりする?服装もなんかそれっぽいし!」
「は、はい。恥ずかしながら……そうです」
本当、僕は恥ずかしいことこの上ないのですが。
ですが、こう話してしまうことによって、彼の興味は僕の家系の方へ向きます。
長官様もアルベ様も僕の名前には余りピンと来ていない御様子だったため、本当に名が知れているのかは不安だったのですが、このとおり日本じゃ本当に有名なのです。僕ではなく、僕の家系が、です。
僕のことだけに興味を持ってもらえれば、アルベ様達に興味が向かないはずです。
そう!これは僕の身と、河田の名前すら挺してアルベ様達をお守りする作戦なのです!……あ、あと、執事としてあるまじき行為なのですが、うっかり口を滑らせてお二人のことを話してしまわないようにするためでもあります。
要警戒人物である彼の目の前にいる以上、僕はアルベ様達の友人であるという立場を捨て、ただの河田ナツメであるべきです。それこそが、もし彼が本当に危険な人物であった場合に、お二人を守る手段であると確信しました。
「そうなんだね〜!それにしても偶然──いや"奇跡"かもしれない」
「え?奇跡、ですか?」
「そ。ナツメちゃんと会ったことがさ!……実はね、昨日ナツメちゃんに会う前に河田家の当主さんから依頼があってさ。どうやら、今日の夜開催するうちのコンサートのチケットを融通してもらえないか言われたんだよね」
「……ち、ち、父様がですか!?コンサートってなに──」
ああ、そうだ。
そういえば昨夕、家に電話を掛けたとき兄様が出て仰っていました。
昨日僕は家に帰って父様と話をするはずでしたが、その父様が不在にしてしまったということ。
父様がお仕えのご主人様が超有名コンサートのチケットをご所望で、父様はそれを確保するために出掛けられた。
取り残された僕は、昨夕のうちに家に帰る必要がなくなり──そもそも公共交通機関の遅れていると嘘をついて、父様との話し合いを先延ばしにしたわけですが──そのまま、東京の繁華街に出てお酒を飲んで……そして、その後の記憶があまりありません。
お酒でトラブルを起こしたか、或いは巻き込まれたかして、須藤様のお家にご厄介になっていると。
……あれ、割とまずい状況なのでは?
須藤様が極悪人であるか以上に、僕が父様に東京湾に沈められる確率の方が高いように思います。
「そうそう。で、当日キャンセルの状況次第ですって答えたところ。できれば融通して差し上げたいんだけど、こればかりは他のお客さんの都合もあるし、会場で座席の増設ができるかにもよるんだよね……ん?ナツメちゃん?大丈夫?顔色悪いけど……?」
須藤様は俯いている僕の顔をのぞきこむようにして身体を傾けました。
対する僕は冷や汗ダバダバで、誰からどう見ても大丈夫と言える状態ではありません。
「うわ、ナツメちゃん。汗びっしょりだよ。待っててタオル持ってくるね。あれかな、この季節には暖房キツすぎたかなあ……」
そう言って立ちあがろうとする彼の服の裾を、僕はきゅっと掴みました。それからもう片方の手で額の冷や汗を拭います。
あまり、この人のお世話になるわけにはいきません。たとえタオル一枚であったとしても。……少なくとも、昨夜の僕の所業を聞くまでは──
「あ、あああの……こんなこと聞くの本当に馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれませんが、昨夜の出来事を教えていただけないでしょうか。お、お酒のせいで全く、記憶がなくて。父様のお知り合いであるあなた様に、僕はた、大変なご迷惑を掛けた様子」
「──他人に迷惑をかけてはいけない身なのです。それが、あなた様のような身分のお高いお医者様となれば、尚更のことで……」
「え、あ……うん?身分は高くないと思うんだけど……」
「う、嘘ですよ!身分が高くなければ東京の一等地の高層マンションに住めるわけないですよ!ししししかも、父様のお知り合いだなんて!死ぬ、僕は死ぬんだ!父様に殺されてしまうぅ……うええぇぇわあああ……」
僕の目から涙が溢れました。
自分でも泣いている理由が、泣いている時の感情がどうなっているのかわかりませんが、訳もわからず泣いています。涙と共に、走馬灯が如く、ギルディアでの思い出が流れ始め、さながら映画のエンドロールのようでした。
「ちょ、ちょちょ……落ち着いて!ちょっともう一休みしようか!?コーヒーとか紅茶とか飲む?お湯に混ぜるだけのやつしかないんだけど──ナツメちゃんとか執事さんとかだと、あんまり美味しくないもの出してもよくないし……」
「お、お構いなくう……むしろ、コーヒーなんて……お湯でいいです。僕なんかにはそれが相応しいですう……」
「……ん、二日酔いの胃には確かにね。おじさんもナツメちゃんが落ち着いてくれないと話しにくいから、ちょっと落ち着こ?」
須藤様は、ふっとため息をつきました。
それから彼の服の裾をつかむ手を軽く握って、そして離しました。
さらに、立ち上がった彼はリビングにあるオーディオセットのスイッチを入れました。適度な音量で、ピアノの音楽が流れはじめました。多分クラシックの曲です。学がないので曲名は分かりませんが、僕の人生の中で聴いたことがある曲でした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます