スフォルツァート⑵



 5歩ほど歩みを進めてリビングへ入ると同時に「ああ、ごめん。少し散らかってるけど適当に座って」と言いながら、彼が両手いっぱいに封筒を抱えている様子が飛び込んできました。

 続けて、彼はソファーの上に置いてあった封筒を回収し、パタパタと埃を落としてから、僕に座るよう促しました。そして、再び部屋のあちこちを巡って封筒やら衣類を回収しながら、閉じられていたカーテンをザッと開きました。



「お、今日もいい天気。風も穏やかで……うん。気持ちよさそうだ」



 窓から見える青空に感嘆したあと、彼はふんふんと鼻歌を歌いながら茶封筒を持って、一度リビングを出て行きました。


 一方、僕はというと少しドキドキしていました。

 職業柄、客人として椅子に座るよう勧められることがあまりない……というのも理由なのですが、目の前の光景に見惚れてしまいました。


 二日酔いの気持ち悪さを吹き飛ばすほどの、真っ青で爽やかな空。そして白い雲。

 さらに驚きなのが、この建物が東京のビル群を一望できるのです。それは、もう、絶景といいますか見ていて足がすくむほど。高所恐怖症というわけではないのですが、他の理由も相まって、この場所にいることが怖くなったのです。


 なにせ、僕──

 遊びで東京に帰ってきたのではありません。ましてや二日酔いになる程飲みにきたわけでもありません。

 僕は執事業界の"ドン"である父様に叱られるためにはるばるギルディアから、さまざまな別れを惜しみ、冒険を繰り広げ、この地に帰ってきたのです。

 酒に酔い、男性に憧れ、青空の絶景に息を呑んでいる場合ではありません。

 そして、そもそも僕が父様に叱られる原因──はもちろん僕なのですが、そのきっかけが、ギルディアの王家に勤めていたことが父様に知られてしまったからです。


 父様からすれば、僕の存在は異端です。

 女の身でありながら男であることを望み、執事になりたいと願った──それは、由緒ある『河田』の一家の決まりから外れる行為。『河田』の女は、主人に直接仕えることは許されません。メイドとして、屋敷の掃除や洗濯などを任されるばかりで、常に主人のお側にいる"付き人"にはなることを許されないのです。

 そんな異端者が、王国の顔役である長官様の下にいるなんて……さらにその事実を長官様にお話ししていないなんて状況、父様が許すはずありません。

 すべて、すべて──自業自得です。


 そして、僕はここにいることが怖くなりました。

 こんなふうに東京が見渡せる高層マンションに住むことができる人なんて、名のある大金持ちに決まってます。

 僕はまたそんな尊いお方のお世話になって、ご迷惑かけて、二日酔いの世話までさせているのですから、こんなこと父様に知られたら3日後には東京湾のどこかでぷかぷかと浮いてカモメや魚の餌になっているかもしれません。


 日本に来てまだ目的も果たせていませんし、アルベ様たちに贈り物のお礼の手紙も書けていません。

 そして何より──何より、長官様が最後に僕に託してくれた"お願い"を果たせていません。


 自分のことを全部綺麗に片付けられたら、長官様に代わり日本にお住まいのギルディア王家の一族とコンタクトをとってみる……正直僕には荷が重いとは感じましたが、いままでお世話になっていた長官様からのお願いは断れません。

 それに、ギルディアに王様がいるということは、王国というあり方を確立させ、安寧をもたらす……そうすれば、アルベ様達ももっと幸せに過ごせるはずなのです。

 ここで、こんなところで、転んでいる暇はないはずです。



「……そう、そうです。僕は、皆様のために……ち、父様が何だっていうんだ。何だって……!」



 でも、やっぱり怖いものは怖いのです。

 アルベ様のように、強大な魔物に立ち向かう勇気が僕にもあったら良いのに……。

 そんな無い物ねだりをしているうちは、僕は前に進めないのでしょう。


 でも、とにかくこの場に留まるのはあまり良くないことは確かです。

 あの男の人だけでなく、これ以上人様に迷惑をかけないように素直に大人しく父様に怒られに行きましょう。

 主人のお側にある、という夢さえ諦めてしまえば、父様もご理解くださるでしょうし、もっときちんとした形で日本のギルディア王家と接触できるでしょうから。


 はあ、とため息ひとつ。

 それを決心の証として、僕はベッドルームに置いてきてしまったであろうアルベ様達からの贈り物と自分の荷物を取りに行きました。……先まで自分で眠っていたとはいえ、他人の寝室に入るのには少し抵抗がありましたが、あの贈り物だけは、僕の宝物だから……



「……って、あれ?僕、確か前にもそんなことを言ったような?」



 ベッドルームにて、贈り物を両手に抱えた時。

 ふと、思い出したことがありました。


 暗い……夜のこと。

 しかし周りはとても明るくて、グラグラと目眩がしていました。

 そんな中、僕はこの贈り物を、誰かに取り上げられてしまったのです。そして、突き飛ばされました。


 頬に痛みもあって──痛み?



「いたっ」



 右手で頬に触れると、ピリッとした痛みを感じました。身だしなみ用のエチケットブラシについている小さな鏡に自分の顔を映すと、少し赤く腫れていたのです。

 ああ、突き飛ばされたんじゃなくて、僕は殴られたんだ。何で殴られたのか、理由はまだ曖昧としているんだけど、もう一発殴られようとした時にあの男の人が、止めてくれたんだ。


 断片的に少しずつ昨夜の記憶が呼び起こされていますが、やはりどうにも、状況が悪いです。

 酒に溺れて暴力沙汰なんて父様に知られたら──



「お、こんなとこに居た。座ってて良かったのに……ああ、そうだ。傷も手当てしないとね。昨日はそのまま寝ちゃったから、水で洗うだけしかできなかったんだ」



 声がして、思わず勢いよく振り返りました。

 振り返った先には、苦笑いの彼。



「……ははは、警戒されちゃってるよね。まあ、こんなナリだし、無理もない。でも、傷の手当てと状況の説明だけはやらせてもらえないかな?」


「……あ、えと。いえ、僕、これ以上ご迷惑はかけられなくて……ち、父様に叱られるんです。他人に迷惑をかけてしまうと……。あ、でも、その……ありがとうございました!まだぼんやりですが、貴方が僕のこと庇ってくださったのは、思い出すことができました!」


「じゃあ、君のお父さんには、おじさんがわがままを言ったってことにすればいい。なんせ、これでも"医者"だからさ。医者としても怪我をした人を放り出すことできないんだ」


「──今から君を助けるのも、今まで君を助けたのも、おじさんが医者としての責務を全うするためだった……みたいなことを言って、あとは君の不利にならないように適当に設定してもらって構わないよ。なんなら、おじさんが君のお父さんに話をしてもいいし。……だから、ね?お願い」



 そっかあ、医者かあ……。

 まあ、そりゃこんなに立派なお家に住んでいるのであれば、立派なご職業に就かれていて当然ですよね。

 そして、そんな立派なお医者様から怪我人が逃亡することもできない、というのも事実。医療従事者は怪我人を放っておかない、地の底まで追いかけてくる──と、アルベ様が言っていました。いや、若干盛りましたが、マリア様が医療従事者として、そして配偶者として、アルベ様を地の底心の底から心配していたのは、つい数月前に僕の身をもって感じたばかりです。

 彼が医者として、人として、ここまで面倒見てくれると申し出ているのを拒否するのは、逆に迷惑になってしまうのかもしれません。



「……わかりました。すみません、本当に。見ず知らずの人にこんなに良くしてもらえるなんて」


「ううん。君こそ、おじさんのわがままに付き合ってくれてありがとね。ソファーに座って待っててくれる?」



 はい、と返事をしてからは大人しく彼の手当を受けました。

 コットンに消毒液を染み込ませながら、「消毒でかぶれたことある?」など、本当に医者らしいことを聞きながら、テキパキと手当をこなしていました。

 最後に絆創膏を貼って、「よし」と彼は一息つきました。



「……すみません、ありがとうございます」


「どういたしまして。……と、こちらこそわがままに付き合ってくれてありがとう。他の具合はどう?といっても、まあ、お酒も抜けきってなさそうだし、よければ少し休んで行きなよ」


「僕はさっきスッキリさせてもらったので大丈夫なのですが、"先生様"のご用事とか、お仕事とかは大丈夫、なのですか?」



 そう聞くと、彼は少し驚いた顔をしました。

 それから、なぜか「先生、かぁ……」とポツリと呟きました。

 お医者様イコール先生なので、そうお呼びしたわけなのですが、ちょっと気まずそうな感じがしました。

 彼にとってあまり良くない呼び方なのかもしれないと思いついた時、彼の方から答えが出てきました。



「そうだね。ここまで来たんだから自己紹介でもしておこうか。あ、君が嫌だったらおじさんだけでいいからね。これも、おじさんのわがまま、ね?」



 そう断ってから、彼は軽く腰を持ち上げてテーブルの上にある手帳へと手を伸ばし、そこから小さな紙──名刺を取り出しました。

 その名刺を僕へと差し出して、彼は自己紹介をしました。



「おじさんは、須藤。須藤 文(すどう ひとし)。医者とは言ったんだけど、この国じゃ、ピアニストとしての肩書の方が知られているのかな」


「あ、ご丁寧にありがとうございま──え?」

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