夜の湖に似ていた
澄みわたるように空は蒼く、輝く太陽はギラついている。
風は潮の香りをのせて、ここが海の近くであることを主張していた。
熱を帯びた、真夏の正午。
だが……。
それとは別種の熱が今、キシュ港湾組合の会議場には満ちようとしていた。
「皆さん!」
上座に立ちながら、大きな声をはりあげているのはシャヘルだ。
彼は居並ぶお歴々を前にして、快活に話を繰りひろげていく。
「魔王の軍勢をこのキシュの街より追いだしてから、聖月が巡ること九つ。それだけの刻が経ちながら、どうでしょう? この街はわずかなりとも復興したと言えるでしょうか?」
シャヘルは出席者を見渡す。大地主、豪商、金貸し、神官や貴族の
「答えは、否だ!」
声をはりあげる。出席者たちが目を見張る。仕掛けは上々。シャヘルはさらに熱量をあげた。
「なぜ復興しないのか。それは足りないからです。そう、足りていない! なにが足りないって? そんなことはわかりきっている。子どもにだってわかる、皆さんにだってわかる。ですよね? 足りないのは……
反応を注意深く見ながら、シャヘルはつづけていく。
「もちろん偉大なる聖上陛下は、そのようなことなどすでにご存じだ。そして海洋通商の
地主のひとりが声をあげた。「今回の話につながるというわけかね」……よいね。実によい。練習通りの素晴らしいタイミングだ。シャヘルは溌溂とした笑みを浮かべながら「そのとおり!」声をあげた
「ゆえに
場がどよめく。熱気が……欲望が渦を巻いている。公債を購入すれば、一割五分という破格の配当が入ってくる。しかも元本保証……帝国という揺るぎない信用のもとに、購入費はいずれ全額返還されるのだ。そして、集まった資金……きっと莫大なものになるだろう……その全てが街の復興に投入されていく。商機はありとあらゆるところに生まれるだろう。儲からないはずがない。
ここに集められた
さぁ、仕上げといこうか――。
と、まさにそのときだった。会議場の扉が、唐突に音をたてて開いたのは。
なんだ……?
場に微妙な空気が流れた。シャヘルは眉根を寄せて扉の方を見た。真紅の鮮やかな長髪が目に入る――女だ。真夏にもかかわらず、厚手の外套をまとった小柄な女がそこにはいた。女はつかつかと、こちらに向かって歩いてくる。
「なんだ君は……」
列席者のひとりがそう
おやおや……。
シャヘルは珍しいものを見たかのように目を見開いた。女が手にするそれは……「拳銃じゃないか。実に懐かしいね」女は銃口をシャヘルへと向けた。
「お前に話がある」
出席者のひとりが激昂する。「おい貴様、失礼ではないかッ!」そういきりたつ出席者を手で制し、シャヘルは「どうかお静かに」と告げた。そして、やれやれだな……とため息をつきながら、女に向かって「抵抗はしないよ」と両手を挙げる。
「皆さん、騒ぐのはやめてください。彼女が手にしているのはケンジュウ。〈まれびと〉が持ちこんだ武器です。離れた場所からでも簡単に人を殺せる、そういう呪具だと思ってください」
え? 空気が固まった。どこからか小さな悲鳴がした。
シャヘルは静かに微笑む。
「で、どうすればいいの?」
「全員、外に出せ。お前とふたりきりで話したい」
シャヘルは出席者に向けてウィンクをした。
「だ、そうですよ」
そう言った瞬間だった。キシュの
「あはは、まるで道化。程度の低い喜劇!」
「……動くな」
女があらためて拳銃を突きつける。
「へいへい」
そう返しながらも、シャヘルは女のことをつぶさに観察している。暗く影のある眼差し。頬には引き攣れた大きな傷跡。腕にも無数の傷が見える。おそらく全身にも。相当な修羅場を潜りぬけてきた証だ。そして……。
「大人びて見えるけど、ほんとは十四歳ぐらいだね。お嬢さん」
女は……少女は何も答えない。
ただ暗く冷たく座った目で、シャヘルのことを見つめているだけだった。
図星かな……。「座っていい?」そう言いながら、シャヘルは足で椅子を引きよせ、少女の許可も取らずにさっさと座った。無論、両手は挙げたままだ。そうしてふたりは向きあう形となった。
「さて……お望み通りだけど?」
少女が口を開いた。
「シャヘル……全名はシャヘル・サレム。年齢不詳。ここキシュでは、帝都から派遣された行政官と名乗っている」
「ほぅ……?」
少女の声音は低く、淡々としながらも異様な迫力をともなっていた。
「だが、そのような行政官など実在しない。シャヘルも偽名だ。そして以前、帝都イブラではチャクエクという別の名を使っていた」
「……すごい。よく調べてあるね」
シャヘルは感心したように片眉をあげてみせる。
「帝都でもお前はここと同じようなことをやっていたな……〈まれびと〉どもからお前の手口についてちゃんと教わっている。
「おおー、すごいね。よく勉強している!」
「だがポンジ・スキームをやるには前提がある。お前に金を出しても貸し倒れしない……そう思わせるだけの信用力が必要だ」
「うん、そうだね」
「だからお前は……」
少女の瞳に殺気がこもった。
「お前自身が潤沢な資金を持っている、そう思わせるための見せ金を必要としていた」
「うむ……?」
なにやら雲行きが怪しい。
「……〈テベット商会事件〉を知ってるか?」
シャヘルは小首をかしげてみせる。そして、なにかを思いだしたように「あぁ~」と声をあげた。
「あったね、そういう残忍な事件が。僕が帝都でチャクエクと名乗っていたころ……たしか、年神を五柱ほどさかのぼる、それぐらい前の話だったかな」
「そのとき、お前はテベット商会にいたはずだ」
「違うよ」
シャヘルがそう答えるのとほぼ同時だった。
少女の椅子が転げ、派手な音を立てた。少女は立ちあがっていた。
「しらばっくれるな……ッ」
頭蓋に冷たい金属の感触。
少女は銃口を、シャヘルの額に押しあてていた。
「忘れもしない……忘れるわけもない。お前のその顔を。日焼けで誤魔化そうとしても無駄だ。顔のつくり、目つき、鼻の形……そのすべてが忌々しく焼きついている。みんなを殺した最低最悪の
少女は、ささいなきっかけで引き金を引く――そういう実感があった。死が間違いなくそこにあった。久しぶりの感覚だな……シャヘルはそう思った。
「そうか。あの事件では生存者がひとりだけいたね。たしか、その生存者の名はアシラ……それが、君なんだね」
「そうだ」
少女の……アシラの拳銃を握る手に、力がこもるのがわかる。
「あのときの小娘が、今日、お前を殺しに来た」
シャヘルはため息をついた。
「なるほどね。でも、誤解だよ。さっきも言った通り、テベット商会事件が起きたときに僕はそこにはいなかった。僕はね……アルシャク大公家の別邸にいたんだよ」
アルシャク大公家――その言葉に、アシラの眉根が動いた。
「そこで今日と同じようにお仕事してたのさ。結果はどうなったか……もちろん僕の大勝利だ」
シャヘルはへらへらと笑って見せる。
「君も知ってるだろうけど。アルシャク家と言えば、ウルガ随一の大貴族だ。僕のような〈まれびと〉に騙されたとあっては、彼らの沽券にかかわるのだろうね。だからあの日のことは無かったことにされているんだ。表沙汰にはなることはないだろうよ。でもね、アシラ。君の調査能力はすばらしい。きっとこの件についても、簡単に裏を取ることができるだろうね。それで僕も無罪放免だ」
「……そうか」アシラは淡々と応じた。
「お前が言っていることが正しいのか。ひとまずお前を殺してから考えるとしよう」
引き金に添えた指が今にも動こうとしている――。アシラの瞳をじっと見つめる。そこには殺意と、冷たい闇がひろがっている。それは夜の湖にも似ていた。だが、その奥底には悲しみが……慟哭が満ちているのだと……シャヘルにはよくわかった。
だから、シャヘルは笑みを止めた。
静かに息を吐く。
まっすぐにアシラの瞳を見つめたまま、突き刺すように言葉を吐きだす。
「昭和二十三年、一月二十六日」
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