本編

第1話 8月1日――登校日①

 伊十郎は閉じた瞼をゆっくりと持ち上げた。

 あの後のことはあまり覚えていない。あれ以降、どうも記憶が靄がかかったかのようにぼんやりしているのだ。


 気がつけば、時計の針は正午を指そうとしていた。今日は登校日なので、半日授業。目的を達成した生徒たちは皆、帰り始めていた。


 伊十郎は何故こんなにも心が痛むのか分からなかった。たかだか同じクラスになっただけで、喋ったことも片手で数えられる程度なのに。


 伊十郎が重い足取りで廊下を歩いていると、あちこちで生徒たちが凪沙のことを噂し合っているのが聞こえた。悲しみに沈んだ声、驚きの声。そして、好奇心をかき立てられた声。


「椎名さん、本当に亡くなっちゃったんだね……」


 その女子生徒の声は震えていた。


「私、椎名さんとちゃんと話したことなかった。いつも一人で本を読んでて...。もっと話しかければよかった」


 あぁ、テンプレみたいな台詞だ。伊十郎は心のなかで冷ややかに毒づいた。人というのは何かが起こってからでしか悔やむことが出来ない。死んだのが凪沙じゃなくて別の誰かでも、彼女達は一句違わず同じ言葉を吐いていただろう。


「ねぇ、聞いた? ヤバい噂があるんだけど……」

「えっ、何?」

「椎名さんが……その……見つかった時の状況なんだけど…」


 伊十郎の足が止まる。そして、背筋に冷たいものが走る。『早くこの場から去れ』と脳内で警告が鳴り響くが、それでも伊十郎はその場から去る事はできなかった。


「え...それって...」


 もう一人の女子生徒が、恐れと好奇心が入り混じった表情で言葉を詰まらせた。


「椎名さん、全身に傷があって……それに……」


 女子生徒の声が震え、顔が蒼白になっていく。


「発見された時……服が……」


 女子生徒は言葉を飲み込んだ。しかし、その言外の意味は明らかだった。伊十郎も胃の中から熱いものが喉を遡って逆流しようとしているのを感じ、口元を必死で抑えた。


「え……そんな……」


 もう一人の女子生徒が絶句した。その声には恐怖と同情が滲んでいた。


「……ひどいことされたってこと?」


「あくまで噂だよ?でも、椎名さんって、なんだか怪しいウワサがあったよね。もしかして……」


 女子生徒は言葉を濁した。その目には後ろめたさが浮かんでいた。


「へぇー……もっと詳しく聞かせろよ」


 そこには、校内でも有名な不良グループの4人がいた。リーダー格の金髪男は両耳にピアスを光らせニヤリと笑う。付き従う男子はワックスで固めたオールバックスタイル、2人の女子も派手な化粧とネイルで目を引いた。


「ご、ごめん……私たち、そろそろ帰らないと.……」


 女子生徒の一人が震える声で言い、もう一人の手を引く。2人は、まるで追われるかのように足早に去っていった。


「ケッ、つまんない奴ら」


 金髪の男はつまらなそうに舌打ちをした。


 3人は周囲の空気など読まず、大声で下品な会話を始めた。その声は廊下中に響き渡る。


 伊十郎は眉をひそめ、その場を離れようとする。だが、女子生徒のある一言に、思わず足が止まった。


「あの子援交やってるって噂あったじゃん、アレ本当なのー?」


 女子の1人が、興奮した様子で尋ねた。


「オレも一度聞いてみたんだけどよ。でも、アイツやってないって否定してたぜ」

「はいはい、アンタのことだから絶対エグいこと言ったんでしょ? 聞くのも怖いわ」


 もう一人の女子が呆れたように言った。


「えっ? なんて言ったかなぁ。……あぁ! 『どうせなら俺が相手してやるよ』って言ったんだった」


 金髪の男子生徒は、まるで自慢話をするかのように得意げに答えた。


「うわっ、サイテー!」

「マジで椎名、惜しかったよな。オレもアイツと1発――」


 もう一人の男子が、下卑た笑みを浮かべながら言った。その瞬間、伊十郎の中で、何かが切れた。


「おい」


 伊十郎の声が冷たく響く。


「よくもまぁそんな品性の無い台詞がツラツラと出てくるよな、お前ら」


 普段の自分らしくない。いつもであれば、スルーするのに。

 だが、今はそんなことはどうでもいい。


「神様はホントに不公平だ。だって死ぬべきはアイツじゃなくて、お前らみたいなクズの方だろ?」

「あ? 何言ってんだてめぇ」


 金髪の男が目を吊り上げ、伊十郎の胸ぐらを乱暴に掴む。


「アンタに何の関係があんのよ。」

「そーよそーよ!」


 女子生徒2人は口をとがらせて、伊十郎を非難する。


「確かに、俺だってアイツとはほとんど話したことがない」

「へぇー。さては、お前椎名のこと狙ってたんだろ。もしくは付き合ってたのか? なぁどこまでやったんだよ?」


 男子生徒は伊十郎の胸ぐらをなおも掴んだまま、下牌た笑みを浮かべ、顔を近づける。キツイ香水の匂いが伊十郎の鼻をつんざき、顔をしかめる。


「お前みたいな性欲の権化と一緒にするなよ。万年発情期の猿と一緒にされたんじゃ、俺だって不快でしょうがない」

「てめぇ、調子に乗りやがって!」


 怒りに我を忘れた金髪の男子生徒が、伊十郎の顔めがけて拳を振り上げた。

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