靴紐


 この独裁的な社風と言っても間違いではない環境も、コンプライアンスに引っかかりそうなものだが、決して強要しているわけではない。

職責をしっかりと遵守していれば、怒鳴られることもないのだ。

ただ、財前がすこぶる不機嫌になるのは言うまでもないが。


***


 その日の午前十時過ぎ。

財前が稟議書に目を通し終わった頃、秘書の酒井が本部長室に姿を現した。


「本部長、そろそろお時間です」

「ん」


 椅子から腰を上げた財前はジャケットを羽織り、酒井を連れて自室を後にする。

 リズムよく小気味いい靴音を立てながら会議室へと向かっていると、突然財前の左手がスッと上がり、同時に足がピタリと止まった。


 二時間ほど前の出来事が蘇る。通路にいる職員の表情が一瞬で強張った。

 秘書の酒井を制止させたその手はゆっくりと降下し、人差し指がとある場所を指差す。財前の視線は進行方向に向けられたままだ。

 酒井は財前の言わんとすることを汲み取り、真横にいる整備士に目配せすると、その整備士は慌てて靴紐を結い直した。


 財前ルールの追加項目として、靴紐は常にきちんと結び、左右の長さを均衡に保つというのがある。

それは見た目は勿論のこと転倒リスクがあるため、万が一にもお客様に怪我を負わせては取り返しがつかないからだ。


 ASJの社訓

【常にお客様の安全第一、心に残る思い出のひとときを全力でサポート】


 業務報告で管理部に来ていた整備士の松永は、秘書の酒井を必死に拝み倒す。

『助けて下さい』と言わんばかりに懇願しているのだ。


「本部長、三分前です」


 時間にも厳しい財前は酒井の声掛けに小さく頷き、再び歩き出した。


(酒井さん、ありがとうございます!)

 松永が安堵した表情でペコペコと何度も頭を下げた。

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