第19話



 「私たち人間は「自己」を持つ。自己と他己。この境界線上に生物としての「個」が存在し、一つの自我を形成しているの。だけど、それが“全て”の生物に当てはめられるとは限らない」


 「…と、言うと?」


 「例えば「菌類」は、個体が独立して生息しているんじゃなく、ほかの個体と協力して生息していることを示す研究が次々と発表されてる。例えば、アメーバの一種の原生粘菌は、多く集まると変形体を形成することが知られてるけど、この変形体を迷路の中で培養し、2つの地点に餌を用意すると、粘菌は2つの餌場を最短経路で結び、餌を獲得することが実験で明らかになったの。それと、粘菌の内部には栄養物が流れる管があって、栄養物の流れが活発になるほど管が太くなる。これによって栄養物を効率よく輸送することができるようになるから、粘菌の変形体がもっとも良い経路を導き出せるんだって」


 「ほう…」


 「菌類のネットワークは、器官同士の結びつきだけにとどまらないの。スエヒロタケとかの4種類のきのこを用いた研究では、個体同士が菌糸から電気信号を送ることで、コミュニケーションを取っていることも明らかになってる。電気信号を解析した研究グループによると、単語の総数が50以上、1語あたりの平均文字数が5.67の言語に相当するみたい。1語あたりの英語の平均文字数が4.8、ロシア語の平均文字数が6であるのと比較しても、菌類は非常に複雑な言語を扱えるかもしれないみたいで」



 すると、彼女は一呼吸を置いて、ある単語を言葉にした。



 「ゾーイ」


 「…?」


 「ある“特異菌”が、古代の化石の中に見つかったの。今から7億年以上も前の時代の」


 「7億年!?」


 「その古代の菌類を、研究者は“ゾーイ”と名付けた。ギリシャ語で生命という意味よ。この“特異菌”は、ある特殊な性質を持つことが、研究でわかったの」


 「特殊な性質…?」


 「自己を“増幅“する能力。基本的にあらゆる真菌には“菌類ネットワーク“と呼ばれる電気的回路があって、このネットワーク内に於いて、私たち人間のような細胞の「外壁」は存在しない」


 「…って言うのは?」


 「ちょっと複雑な話にはなるんだけど、例えば真菌の仲間である「キノコ」は、『菌糸』っていうとても細い糸のようなもので、何本も枝分かれして樹皮の下や地面の中に広がってる。これを「コロニー」と呼んでて、ようするにこのコロニー内では、キノコの持つ「個体」としての量(分子領域)を絶えず変化&伸長させることができる細胞壁(先端成長を及ぼす科学的性質)が存在してる。この特徴によって、キノコには“世界最大の生物になるポテンシャル”があると考えることができるんだ。それと同時に、「個」という枠組みにおいて、人間のような“独立した生体”としての個体ネットワークを越えた、「集合生命体=集合的有機体」としての性質を持つということが、少しずつわかってきてる」


 「…集…合…?」


 「ツバサ君は、生物の「個」と「他」を分ける要素は、何があると思う?」


 「「個」と「他」?…えっと、つまり、自分と他者ってこと?」


 「そう」


 「…うーん、そうだな、体があるかないかって感じ…?」


 「半分正解で、半分間違いかな」


 「じゃあ、何?」


 「ツバサ君が言ったように、あらゆる生物には物質的な境界における「体」が必要で、その物質上の境界面を「生体膜」と呼んでる。生体膜はすべての生物の細胞が持つ重要な構成要素の 1 つで、細胞と外界、または真核生物においては細胞質と細胞小器官を区画化する役割を有してる。生体膜の主要な構成成分は親水性頭部と疎水性尾部を持つリン脂質で、リン脂質が二重層を形成することによって生体膜が構成されてる」


 「…待て待てッ!リンし…何だって??」


 「ごめんごめん。つまり、多様な形態変化を示す糸状菌、この場合で言うと「キノコ」とかの真菌生物において、リン脂質組成が形態変化に対応してどのように変化するのかについては、包括的にまだ理解されてなかった。「個体」としての境界を示す恒常性、——統一を取る仕組みや、内部環境を安定させるための仕組みを構築させるネットワークには、決まった「形」、及びそれに基づくルートが存在する。基本的にはね。だけど、糸状菌にはそれが無い。無いっていう言い方は少し違うかも。要するに、自己を成長、複製していく過程で、個体内の細胞間に連絡があり、物質や核などが行き来することが示されてる。簡単に言うと、私たちの体は必要以上に伸びたり、増えたりしないでしょ?基本的な生命活動、たとえば呼吸や、物質合成、エネルギー代謝、遺伝情報の複製などは細胞ごとに行われてて、「個体」としては、細胞ごとの活動を維持し、それを全体としてまとめる働きが必要になる。「生物個体」は、それぞれに固有の形態と構造を持ってて、その「体」はそれぞれの部分で分化した細胞から構成され、それぞれの細胞は組織を形成し、それらは器官を構成し、それがまとまって個体を形作ってる。この観点から言うと、糸状菌などに見られる生態変化は、一つの「個」としての境界や連結部分に、私たち人間には無い分化的多様性が含まれてるの。「個」と「個」を隔てる境界を“変え”る性質。例えるなら、「自己」という時間を持たない、——みたいな」



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