第7話



 …そんなはずは、…無い…



 俺は自分を疑った。


 込み上げてくる記憶の淵で、疼く唇を噛み締めた。


 忘れるはずはなかった。


 忘れようにも、忘れられない“思い出”だった。


 それを「思い出」と呼んでいいかどうかはさておき、俺にとっては、今でも心に残る“体験”だった。


 印象的な出来事だったんだ。


 キャンバスに落とした絵の具のように。


 晴れ渡る、空の青さのように。



 鮮明な「色」をしていた。


 あり得ないくらい、眩しかった。


 どうしようもないくらい強烈だった。


 昔のようで、ずっと近くにあった記憶だった。



 俺が初めて、好きになった人との——…




 「…アカ…リ…?」



 自然と、その名前を口にしていた。


 出そうと思って、出た言葉じゃなかった。


 彼女の目を見ながら、そう言った。


 なんでそう言ってしまったのかの反芻を、すぐにはできなかった。


 それくらい、無意識だった。



 「思い出してくれた?」



 くるッとナイフを遊ばせながら、小さくほくそ笑む。


 どこか無邪気で、どこか、大人っぽくて。


 胸がすくような気持ちになった。


 ジッパーを引いた時のような、あの、“すく”感じ。


 炭酸水を喉に落とした時のような爽快さ。


 それでいて、蛇口を閉めた時のようなキリの良さ。


 何かはわからない。


 はっきりと、この胸の奥を突く感情の手がかりを掬えない。


 ただ、確かな「情景」だけは、そこにあった。


 意識が追いつけるか追いつけないかのギリギリの場所を飛行する、重力。


 手が届くようで、届かないもどかしさ。


 午後16時の、——下降線。



 そうだ。


 あの時もそうだった。



 訳もわからず部屋に上がり込んだ彼女の横で、何を話せばいいかもわからないほど、緊張してた。


 彼女が言ったんだ。


 キスしていいか?


 って。


 俺は唖然としてた。


 目が点になったまま、ほくそ笑む彼女の瞳だけを、じっと見てた。



 そしたら——




 「…嘘だ」



 俺の目の前にいる不審者が、彼女なわけがないと思った。



 俺の初恋の相手。



 不死川アカリなわけが。



 

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