紙の花

骨太の生存術

紙の花


    序章


 靄に煙る海面を馬の嘶きが駆け渡る。

 艀へ渡した厚い板がきしみ、たわんだ。後ろ脚で突っ立った軍馬が足踏みし、前脚で宙を掻きむしる。すぐさま手練れの輜重兵が馬を諫めにかかった。やがて馬は首を垂れ、うながされ、重い足取りで艀へと歩いていった。

 桟橋からはまたも喚声があがった。今度のは、ドラム缶の焚き火が気まぐれに炎をはじけさせ、それを囲む者たちを驚かせたのだろう。ただ、無邪気な笑い声をあげるのは新兵ばかりだった。

 馬と入れかわりに陸にあがった兵隊たちが、包帯の隙間から熱のない目で彼らを見つめていた。新兵にまぎれるようにたたずむ一人の男だけは、同じ温度の眼差しで彼らを順々に見つめ返している。将校外套に身をつつんだその男を兵たちの視線が避けていく。

 注がれる視線がついに絶えたところで彼は沖合へと目を向けた。暗灰色の靄が見る間に白々と明るんでいく。靄に包まれた輸送船がクレーンで宙吊りとなった馬を引っぱりこんでいる。そのさらに向こうで、護衛の駆逐艦が地平線に黒い影だけを浮かべていた。

 将校は残った干し芋を荷役夫らにくれてやった。どぶろくと炎とで彼の体は内と外から火照っていた。ただそれも、内と外からすぐ冷めていった。

(戦場で俺は――いや、俺だけが正気だったのだ)

 若い補充兵たちに連なって男は渡し板を歩き、艀に飛び移った。桟橋が離れていき、輸送船の腹が近づいてくる。海面には艀を引く縄がときおりたるんで水面をぴしゃりと打つ音だけがあった。誰かが馬の糞を踏んだと頓狂な声をあげた。暢気な笑いが伝播する。その中でただ一人、この男だけは奥歯を震わせていた。




    第一章


     一


 一束の光条がアスファルトを薙ぎ、岸壁をひと掃きして去っていった。残された闇には臓腑に轟く爆音が尾を引いている。その数瞬ののち、別の光条が後を追っていった。

 男はバックミラーに目をやった。そこには二つの光点が張りついていた。眩惑されて目を細めるもその光を凝視し、距離をはかる。それが済むと男はおもむろにミラーを自分にむけ、にっと白い歯をのぞかせた。次いで脂汗に濡れた前髪をかきあげる。ただ、櫛を使う余裕までは持ちあわせていない。破綻は目前にある。それとの距離の短さに思わず反吐を催し、口中に酸っぱい胃液が満たされる。それを喉の奥に押し戻す。弱気が惨めに思えてくる。奥歯がぎりときしむ。

 車体がいきなり跳ねあがった。車の尻がガードレールに触れたのだろう。胃の腑がちぢみあがった。ただ、胃から吐きだす液体はもう尽きている。

 バックミラーが瞬いた。二つの光点は鏡面一杯にまで迫っていた。

 前方に長いトンネルが口をあけている。掌の汗をズボンにこすりつけ、ハンドルを握りなおす。それでもまだぬるりとする。前髪を後ろに撫でつける。その甲斐なく一束の髪が額に垂れさがった。男はもう前髪には構わず、さらにハンドルを強く握りしめて汗のぬめりを締めだし、トンネルに飛びこんでいった。

 車はいきなり鼻先をまげた。

 トンネル出口の半円形の景色が横に流れだし、突如コンクリートの壁面が現れ、覆いかぶさるように男に襲いかかってきた。衝撃とともにボンネットがひしゃげた。ハンドルから両手が滑り、フロントガラスに拳を突っ込んだ。ガラスに瞬時に蜘蛛の巣が張りめぐらされる。悲鳴はハンドルに鼻柱を打ちつけると同時に鈍いうめき声に変わり、それもすぐに途絶えた。タイヤだけが泣きわめく。フロント、サイド、リアウインドウの景色がぐるりとめぐっていく。壁、追跡車のヘッドライト、またも壁、そして再び衝撃――。


 音の悪い鐘がどこか遠くの方で急くように鳴っている。

 それが刻々と冷えていくエンジンブロックのきしみだということにようやく思い至ると、男は無造作に体を起こした。途端に顔面を激痛が襲った。鼻が折れている──ああ、これには憶えがある、ハンドルの野郎だ。滴る血がジャケットを汚している。いつの間に──畜生、そうだこのくそったれの鼻のせいだ。滴を手で受けとめようとしたが、左の薬指と小指がゴム細工のようにぶらぶらと揺れていることに気づいた。畜生、と男はまたもぼんやりした頭の中で罵った。手の甲はすりむけ、そこに埋めこまれたガラスの粒がトンネルの照明にきらめいている。畜生、五粒もある──ああ、そうだ、こいつらにも憶えがあるといえばある。この拳が勝手にガラスを突き破ろうとしたんだ。そのとき同時に指が折れたのか。あれこれと気にすることを諦め、結局、ジャケットの染みは広がるにまかせた。それよりも腹に食いこむシートベルトが痛い。男は血の小便を覚悟した。

 いきなり、顔のすぐ横で窓が粉々に砕けた。無数のガラス粒を浴び、男は涙目をしばたたいた。

 のびてきた手が腹のシートベルトをはずし、男は窓から引っぱりだされた。そのまま落下して地面に腰を打った。抗議のうめき声も無視され、為すすべなく粗いアスファルトの上を引きずられていき、最後には抱えあげられ、追跡車の後部座席につめこまれた。

 車内は凍るほどに寒かった。そして、男は再び意識を失った。


 意識を取り戻したときも、車はエンジンを止めたままで相変わらず寒かった。車がゆれて、運転席に気配が宿った。

「ヒーターいれてくれよ。寒くてたまらねえ」

 男の頼みは黙殺された。車は大きくひとゆれして急発進した。後部座席で無様に転がされたとき、男は己の境遇を呪った。


     二


(ご遺族にお会いしたの――あんな思い、二度としたくないわ)

 ぐえ、といううめき声が面格子の奥から漏れた。剣士の体は百舌の速贄のようだった。たわんだ竹刀の切っ先に喉を突かれたまま、体は宙に浮いていた。

 桂木国彦は素早く柄頭を下腹に据え、床を踏み抜かんばかりに駆けだした。剣士の喉笛を串刺しにしたまま道場の端まで押しまくる勢いだった。

 だが、その獲物が誰かに抱きとめられて奪われ、桂木の突進は阻まれた。試合をぐるりと囲む輪が、肩で息をする彼に迫っていた。全員が敵意を剥きだしにしていた。

「次は誰だッ、いるのかッ」

 桂木は道場中に腹からの声を轟かせた。

 囲みの輪から出てきた男が桂木に一礼した。前垂れの刺繍に三津谷とある。警察剣道のホープだと聞いたことがある。倒せよ、とその男に声がかかった。

 噂は無尽蔵にふくれあがっていた。

 しばらくぶりの朝稽古に出ようとするところを同課の後輩に引きとめられた。理由は剣道場に一歩足を踏み入れたときにわかった。

(あたしもあの子も、卑怯者の妻と娘として見られてるの。もう耐えられない)

 

 発端は二ヶ月前のある強盗殺人事件だった。

 所轄署員とともに地取りに駆りだされていたとき、唐突に腰の無線機がわめきだした。

(マル被、逃走──)

 無線が伝えた逃走経路は桂木のいる場所から近かった。桂木は走りだした。

 事件の被疑者を追走する警官の姿を認めると、やがて息があがって速度を落としはじめたその警官を抜き去り、かわりに逃走犯に追いすがった。

 桂木に突き転ばされた男はあっけなく観念し、息を切らして地面にうずくまった。桂木は呼吸を整えながら男に近づいていった。

 ぎらりとした金属光沢を見たのは一瞬だった。

 光はすぐに男の上着に隠れた。気のせいか──ちがう。桂木ははっとして飛びのき、腰の特殊警棒を引きぬいた。そしてもう一度、金属が照り返す光を探した。男の手を、指先を探した。どれも上着の下に隠れていた。

 唐突に視界に飛びこんできた黒い塊が男の背に覆いかぶさっていった。さっきの警官がたったいま追いついてきたのである。

 一、二、三、四――五。

 桂木の意識は光のきらめきを数えていた。

 最後の光が制服警官の脇腹に埋もれた。

(桂木の奴、凶器が竹の棒ッ切れじゃないんで、ホシに向かって『卑怯者』ってわめいたんだってよ)

 そんなくだらない噂すら立った。誰もがそんな噂をくだらないと一蹴したが、いつからか桂木に注がれる眼差しはどれも同じものとなった。

 その目を、昨夜、富子もした。

(そこのひきだしを開けてちょうだい)

 開けると二つにたたまれた薄い紙があった。広げると、あとは桂木が署名と押印をするだけだった。離婚届だ。

 衝動的に富子の頬を張りとばした。震えがやまなくなった掌で何度も富子の頬を撲った。


 竹刀の切っ先が触れんばかりに近づく。と、三津谷は剣先をひるがえし、同時に鋭く踏みこんできた。

 剣先を打ち散らしながら桂木はひと息に飛びのいた。もう半歩追いすがった三津谷が腕をのばして桂木の右小手に襲いかかってくる。桂木は竹刀の柄から右手を切った。が、かわしたつもりの切っ先は手元までは来ず、宙で小さくひるがえるとすぐさま逆の左小手めがけて落ちてきた。三津谷の狙いははじめから左だったのだ。桂木はかっとなった。

(なぜ渾身の一撃を見舞おうとしない? 俺をあざむいて、ちっぽけな勝ちが拾えれば満足か。お前たち、俺が憎いんじゃないのか──)

 桂木は左手一本で握る竹刀の鎬で相手の竹刀を擦りあげてわずかに軌道を逸らすと、そのまま三津谷の頭上に切っ先を振りおろした。三津谷はかろうじて桂木の竹刀を切り払うと、飛びのいて間合いを広げた。

 竹刀の微かな振動はやんだが、掌のじんとした痺れが残った。昨夜の感覚が甦った。

 桂木は猛然と床を蹴った。

 たった一歩の踏み込みで覆いかぶさらんばかりに三津谷に迫った。桂木の竹刀が三尺九寸ある三津谷の竹刀の真ん中をあらん限りの力で跳ねあげると、次の瞬間にはその切っ先は引き戻され、三津谷の額に渾身の力で振りおろされた。竹刀は面格子の額から後頭へと、曲面にぴったり沿うようにしてひしゃげた。甲高い破裂音はその場にいるすべての者の耳をつんざいた。

 三津谷はのろりとよろめいてあとずさりし、重だるそうに尻餅をついた。面格子の向こうのその両目は焦点を見失い、何も見ていなかった。

 間髪をいれず間をつめた桂木は竹刀を肩に担いで振りかぶり、力まかせに三津谷の脳天に叩きつけた。

 もはや技ではなかった。今度の破裂音はひどい雑音だった。桂木の竹刀はばらばらに割れた。

「桂木、やり過ぎだッ」

 一瞬も二瞬も遅れて審判役の男が怒鳴った。

 桂木は割れてささくれ立った竹刀を納めてさがり、敗者を見据えながら面の紐をほどきにかかった。三津谷はまだ前後不覚に床を這いずっていた。

 誰かが何かを言い、別の誰かが笑った。桂木は声の方を振り向いた。

「竹刀が相手ならな」

 はっきりと聞こえたその言葉を機に、忍び笑いが伝播した。

「桂木──横田もここにいるか。七班、召集だ。急げよ」

 直属の上司のしゃがれ声が道場の戸口の辺りからあがった。じめついた嘲笑がやんだ。名を呼ばれた後輩の横田は道場の隅から威勢よく応じた。防具をまとめた桂木が立ちあがると、男たちは道をあけた。桂木は目を伏せてその道を通りぬけた。


 赤色の回転灯をルーフにのせた銀色のセドリックが、サイレンをわめき散らしながら首都高速霞ヶ関料金所をすりぬけていく。

 後部席にひとり陣取った桂木はいまだ手に残る余韻が消えずに気が立っていた。

「俺は辞めるつもりはない。くだらぬ噂ごときに屈しろというのか、え?」

 前席の横田は曖昧に笑って肩をすくめてみせた。運転席のもう一人はミラー越しに冷めた一瞥をくれた。


     三


 桂木らは後方の戸口から青梅署大会議室に入っていった。ストーブの熱気と男たち百人の体臭で途端に息がつまる。

 本庁からの捜査員は捜査第一課の者だけではなかった。四課と防犯部保安第一課の連中も捜一課員とほぼ同数、同席している。それ以上に多い所轄署員の制服、私服が会議室後方にひしめいていた。最前列に対面する席で、おもむろに痩せた男が立ちあがった。

「指揮を執る高貝だ。以後よろしく」

 次いで高貝紀次警視は脇に居並ぶ男たちを簡単に紹介した。形式的な会釈は前列だけで交わされた。高貝は、でははじめようと静かに言うと、そこかしこから忙しなくメモ帳を開く紙擦れの音があがった。


 機動捜査隊と機動鑑識隊による初動の報告から捜査会議ははじまった。

 本日十二月九日の早朝、青梅街道上奥多摩湖沿岸に連続するトンネルの一つ、女の湯トンネル内に、銃撃を受けたとみられる車両が発見された。

 当該車両は今年八月にグレードアップしたばかりの新車──トヨタセリカ1600GTV、2ドアスポーツクーペ。車内に運転者はおらず、数日分の衣類がつまったボストンバッグと、免許証、カード類、数万円の現金が入った財布だけが残されていた。免許証によれば財布の持ち主は友岡雅樹という名で、車検証の記載からこの墨田区居住の男が車両の所有者であることも判明した。また本庁に問い合わせたところ、彼の人物が関東極州会連合系暴力団で、浅草周辺を勢力範囲とする峰岸組傘下窪島組の構成員であることもわかった。

 当該車両の潰れた右前輪には弾痕があり、被弾したことでパンクしたとみられる。このパンクによるハンドルの制御不能が起因となって、トンネル壁面への衝突が引き起こされたと推測できる。

 左右二枚のドアはいずれも衝突の衝撃によって車体がゆがみ、開かなくなっていた。運転席側の窓が粉砕されており、その破片の大部分が車内側に落ちている。また、その破片はトンネルより前の路上や、壁面との衝突地点では発見されていない。

 蜘蛛の巣状にひび割れたフロントガラス内面には血痕と皮膚片が、ハンドルには粘液まじりの血液がこびりついていた。また、メーターパネル、ダッシュボード、シート等、運転席付近に血液の飛沫痕および滴下痕がみられた。出血の総量は少ないと思われる。路上には運転席ドア外からほぼ円形の血痕が点々とつづき、車両後方五メートルのところで途切れている。 

 衝突地点であるトンネルの三キロメートルほど手前から、各カーブに二台分のタイヤのスリップ痕が残されていた。一つは、スリップ痕の幅とタイヤパターンからこのセリカのものと断定できる。もう一つの痕跡を残した二台目の車両の車種はスリップ痕からは特定できない。ただ一つわかったことは、その車によるスリップ痕が常にセリカのものに上書きされていたことである。また、トンネル内の滴下血痕が途切れたあたりには、その車が急激なUターンをしたとみられるスリップ痕もあった。

 セリカの右前輪側面には二つの弾痕が確認された。一つはタイヤゴムにあり、縁がやや融けた直径五ミリほどの貫通孔で、もう一つは、そこから五センチほど離れた鉄製ホイールの縁に残された小さな窪みである。

 タイヤ内部から採取されたいくつかの鉛様の小粒が銃弾の砕片であることはほぼ間違いないと思われる。その弾頭は一般的な銅被覆はされておらず、着弾の拍子に被覆が剥がれ落ちた形跡もない。もともとが鉛地剥き出しだったと思われる。また、弾頭はタイヤ内部で鉄製のホイールに着弾したために砕け散り、比較的大粒の破片もほとんど潰れてしまって原形を留めておらず、その銃弾の口径も銃身由来の旋条痕も判然としない。また、貫通孔はタイヤゴムの弾力性のために実際の弾頭直径よりも収縮していることは確実で、したがってこの孔から正確な弾頭口径を計測することは不可能である。

 ただ、当然のことながら、弾頭口径はその弾頭が発射された薬莢から特定することが可能である。

 二個の空薬莢が女の湯トンネル入口付近で、さらに五個がトンネルの三キロメートル手前──追跡開始地点と思われる地点から道路脇に点々と落ちているのが発見され、回収された。

 どの空薬莢の底部にも──正確にはリムと呼ばれる窪みの部分それぞれに、同一形状の擦過傷が認められた。その傷とは、弾頭発射後に空になった薬莢を薬室から引っぱりだす抽筒子の爪に由来するもので、抽筒子の爪部はその製造過程の切削工程においてひとつひとつ特有の微細構造が形成されるため、銃身由来の旋条痕と同様に、いわば銃器の指紋となりうるものである。その銃器の指紋が、弾頭発射毎に薬莢のリム部に刻みこまれるため、個々の銃器の特定に用いることができる。これを鑑みると、回収された計七個の薬莢から弾頭を撃ち出した銃器はただ一挺であることがいえる。

 また、タイヤ内部から採取された弾頭の砕片と、回収された空薬莢それぞれの化学分析を早急に行うこととする。薬莢に残留している微量物質の元素組成と弾頭の砕片の元素組成が一致すれば、両者の関連性──すなわち、タイヤ内の弾頭はこれらの薬莢から発射されたことがいえる。砕片になってしまった弾頭からは旋条痕や口径などの種々の鑑定が不可能であっても、薬莢からは使用された銃器およびその銃身口径、弾頭径を特定できるため、銃器、薬莢、弾頭の三者を関連づけることが可能である。

 これらの薬莢は、弾頭をはめ込む開口部の付近で若干細く絞りこまれた形状をしている。ビールやワインなどの瓶のように太い胴部と絞り込まれた肩部、細くなった首部のある形──いわゆるボトルネック型と呼ばれる形状であることと、その開口部の内径が八ミリメートルであることから、これが大戦中に製造されていた八ミリ南部弾を模したものであることは間違いない。八ミリ南部弾を使用する銃器は旧日本軍の自動拳銃および軽機関銃──すなわち南部大型自動拳銃、十四年式拳銃、九四式自動拳銃、一〇〇式機関短銃のいずれかである。なお、薬莢に刻まれた抽筒子による幅広の擦過傷から鑑みるに、一〇〇式機関短銃を除く三種の拳銃が該当するものと考えられる。

 八ミリ南部弾を「模したもの」と言い表したことには理由がある。

 回収された薬莢は外形寸法こそ大戦中の八ミリ南部弾そのものだが、雷管を挿入する底部の形状が既知のもの──ベルダン型とは異なっていることが判明したからである。すなわち、ボクサー型と呼ばれるタイプの雷管を使用する方式が用いられているのである。

 雷管とはいわゆる起爆薬のことで、その発火時の燃焼炎が弾頭発射用に充填された装薬──無煙火薬に燃焼のきっかけを与える。銃弾発射時には、引金がひかれ、撃鉄が撃針を打ち、撃針は発火金を介して雷管用火薬に点火する。この発火金の突起状構造を薬莢側に有するのがベルダン型で、雷管用火薬と発火金が一体形状となっているのがボクサー型である。

 ボクサー型雷管方式の利点は、使用済みの雷管を交換することで空薬莢を再利用することが可能であるということである。また、雷管発火金となる突起状構造物が雷管そのものに付随しているため、薬莢の構造が比較的シンプルであることから、薬莢製造が容易であるということも利点の一つである。このボクサー型雷管を用いる方式は一般的な薬莢の構造として、現在広く採用されている。

 一方、戦時下に製造された帝国陸軍造兵廠純正の八ミリ南部弾は、雷管用火薬の発火金となる突起が薬莢側に備えられているベルダン方式を採用していた。この方式には欠点があり、発火金の突起状構造物を薬莢側に付加するぶんだけ、薬莢そのものの製造工程がより複雑になってしまうことである。また、ひとたび発砲すれば発火金の突起が変形してしまう可能性が高く、そうなれば使用済み薬莢の再利用が不可能であることも欠点の一つに挙げられよう。現に、大戦中の旧日本軍ではこの型の薬莢を一度の使用で廃棄してきたという事実がある。

 ボクサー型雷管方式を採用した八ミリ南部弾の新型薬莢は、過去二年間に三件の発砲事件現場で計九個回収されている。また、別件で暴力団構成員を検挙した際、大戦の遺物たる十四年式拳銃とともに、この型の未使用弾薬計二十三個を回収している。この新型の拳銃弾が関東圏の闇市場に出回りだしたのはここ数年のことで、また昨年来、この弾薬の製造を一手に担っているのが剣峰会だという情報もほとんど疑いようのない事実として上がってきている──。

 鑑識課員が言葉を切り、コップの水で枯れた喉を潤し、唇を湿らしている間、桂木はこの会議室の空気ががんじがらめに緊縛されているのを感じた。その雰囲気を醸しだしている源は、むしろ桂木ら捜一課員の側にあった。

 鑑識課員が臆せず口にした「剣峰会」の言葉に捜一課員一同が反応しているのである。

 それに比べ、四課や保安一課の連中は空惚けているようにもみえる。

「これらのことから、次のような全体像が浮かびあがってくると考えられる」

と、鑑識課員は硬い空気塊を砕かんと、くさびを打つように声を張りあげた。

 友岡雅樹所有のトヨタセリカは、最初のスリップ痕から衝突地点までの三キロメートルを、車種不明の車に執拗に追跡され銃撃を受けていた。その銃撃の回数は、回収された薬莢の数から少なくとも七回。銃器は八ミリ南部弾を使用するもの。弾薬はボクサー型雷管方式を採用した新型。的中弾は右前輪に二発、ホイールとタイヤ側面に。女の湯トンネル入口付近でセリカはついに制御不能に陥った。その結果、友岡のセリカはスピンしつつトンネル壁面に二度衝突し、のちに停止した。運転者は負傷したが、車内の血痕が少量であることから大量出血するほどの重傷は負っていないと思われる。運転者は外から割られた運転席窓から引きずり出され、襲撃者の車両に拉致された模様。そして、襲撃車両はUターンして東京方面へ戻っていった――。

 鑑識課員が言葉を切るや間髪を入れず高貝が威勢よく立ちあがった。

「襲撃犯の割りだしは捜査一課に担当してもらう。現時点では友岡雅樹の線から洗いだすか、目撃情報をかき集めるしかないな。怨恨、痴情のもつれ、金銭トラブル、峰岸組および窪島組内外のトラブル──考えられる線はいくつもあるだろう。適宜各方面の所轄に協力を要請し、連携し、抜かりのないよう頼む。銃および弾薬等の線は保安一課が担当する。よろしく頼む。どちらも随時四課の協力を仰ぐことを怠らないこと。剣峰会の関与は疑えないからな。あらゆる情報を共有することが肝心だ。独断専行は一切認めない。鑑識および科捜研の分析結果は逐一本部に上げておこう。それぞれの捜査に生かしてもらいたい。なんにせよ、明日にはそれぞれまとまった情報がここにそろっていてほしいものだ──念を押すが、どの担当も本部との連絡を絶やすな。君たちはひとたび外に出ればただの手足に過ぎないのだ。考える脳はここ、私のいるこの部屋だと肝に銘じてくれ。ただし、いままさにこのとき、君たちもここにいるからには脳の一部だと自覚していてもらいたい。それでは早速、皆の意見を聞いていこう」

 高貝は昂ぶる緊張に引き攣り気味の表情で一同を見まわした。桂木の隣で横田が緊張感もなく気だるげに立ちあがった。

「ええと、これはつまり、意趣返しとみてよろしいんでしょうかね――忘れもしない去年の一件のですけど」

 四課の悪相が一斉に横田を睨みあげた。横田は少しも臆せず、むしろ注目を浴びた子どものように照れ笑いすら浮かべている。高貝の物静かな声が訊いた。

「君はそちら側を代表して意見をしている、ということかね」

 横田は押し黙ったままの自陣を見回してから高貝に言葉を返した。

「そのようですね。そちら側の窓口は──とりあえず警視殿で?」

「つづけたまえ」

 高貝にうながされて横田は一瞬拍子抜けをしたようだった。だが彼は、もったいつけて一つ咳払いをした。

「そのまんまです。警視殿が本件の捜査指揮を執られることもそうですけど、こちらに雁首並べている連中も問題があると思われますが。つまり、この事件の解決がそっちのけにされてしまい、かわりに警視殿やこの連中の汚名を雪ぐ場になってしまわないかと我々は案じておるのです」

 そうだ、と太い野次が桂木の背後からあがった。なにを、と窓際の悪相が応じる。

「心配には及ばない。我々は一丸となって最善を尽くすだけだ」

 高貝は素っ気なく言った。だが、悪相の連中はそれだけではもの足らないようで、能面のような顔の男が立ちあがり、横田を睨めつけた。

「いまの機鑑の話を聞いてたろうが。奥多摩じゃ新造の弾が使われた。中国で掘り返したチャカを密輸してきて、弾と抱き合わせて売りさばいてるのが剣峰会なんだよ。まさかそんなことすら知らんわけじゃないだろうが、ええ?」

「ガセだったんでしょう、それは」

 横田が飄然と、しかし即座に切り返すと、能面が吼え立てた。

「事実に決まっとろうが。目糞耳糞かっぽじっておけ、小僧がッ」

「ぬけぬけとよくもまあ。なら、なぜあんなことになったんだ、ええ? 言ってみろ、恥さらしどもめ」

 横田が即座に応酬する。絶句した能面を尻目に、横田は高貝に向きなおった。

「警視殿、昨年末の件についてあなたがたは総括したんでしょうか。何が原因であんなお粗末な結果になったのか。海上保安庁だってカンカンだったと聞きますが?」

 返答はなかった。横田は威圧的に声を張った。

「やくざどもに尻尾を振った犬はどこにいるんです? 誰なんです? もしや、野放しのまんまですか? なんなら、かわりにウチがとっつかまえてやりましょうか?」

「てめえ、いい加減にせえよッ」

 能面に加え、数人の強面がいきり立った。横田は愉快そうに彼らの鼻先に順々に指を突きつけた。

「あんたか、それともあんたが犬か──警視殿、我々はこんな連中とは一緒にやれません。いえ、我々は大人です。譲歩ってのを知らないわけじゃないですがね。まあ百歩譲って、こいつらの首を総とっかえしてもらいましょうか。本心じゃ、うちらだけでやらせてもらいたいと思っとるんですがね」

 指こそ突きつけなかったが、横田の言い草は高貝をも一緒くたに愚弄しているも同然だった。だが、高貝は優雅に苦笑するだけだった。

「君の言い分にはまるで根拠はないようだな。噂はいつだっていい加減なものだよ。それに今回の事件では、ただ拳銃が使われただけじゃない。被害者は友岡雅樹、峰岸組傘下窪島組の構成員だ。その窪島組と、峰岸五郎の放蕩息子が起ち上げた剣峰会とはいわば身内だ。だが、峰岸組後継問題で両者の関係はうまくいっていないという情報もすでにある。身内だけに、喧嘩のやり口も建前なしになりふり構わず、ということもあるのかもな――ま、そのあたりのことは君たちよりも四課の方が詳しく知っているだろう。もし何にも知らなかったのならば彼らに教えを請い、よく頭に叩きこんでおきたまえ。君が犬呼ばわりした彼らだが、たとえ君のような輩でも丁重に頼めば手取り足取り教えてもらえるだろう──おそらくな」

 今度は横田の顔が引き攣る番だった。高貝はつづけた。

「剣峰会のことを最もよく知っているのは我々だ。君らではない。我々はずっと奴らを追ってきたのだ。私が指揮を執ることになったのは――君は何か裏があるんじゃないかと疑っているんだろう? 君は思い違いをしているよ。『あるんじゃないか』ではない。常に、何事にも『ある』のだ」

 高貝はそう言いきった。

「剣峰会、剣峰会、剣峰会──やっぱり剣峰会ですってよ」

 横田はどうにか嘲笑の笑みを浮かべて一課の仲間たちにほれみろという顔を向けた。ただその強がりは受けが良くなかったようだ。捜一課員らの面相はどれもがいびつな、物言わぬ岩塊だった。桂木はもう潮時とみて、横田の袖を引いて席に座らせた。張りつめた静寂の中、隣の椅子が騒々しくきしんだ。

 剣峰会は銃火器を専門にシノギにしている、というのが警察――とくに高貝一派のおおかたの見解である。

 銃火器密売はもとはといえば峰岸組の戦後からのシノギの一つだった。ただ、関東圏の暴力団が極州会の名のもとに束ねられた頃から、隣近所での抗争に明け暮れた時代はもはや過去のものとなり、武器の需要も次第に減りつつあった。また、武器の密輸売買は警察に目を付けられやすいシノギでもあった。

 七、八年ほど前から峰岸組は、先立った妻の後を追うかのように病床に臥せがちになった組長峰岸五郎にかわって、組の実権を若頭の窪島渉がほぼ握ろうかという過渡期にあった。その窪島によって峰岸組のシノギから時代遅れの銃火器部門が切り捨てられようとしたときに、五郎の長男達夫がそのシノギの一切合切を引き取って組を飛びだしていったのが剣峰会のはじまりだと考えられている。

 その剣峰会を壊滅せんとして、高貝紀次警視麾下、防犯部保安第一課と捜査第四課の銃器および暴力団犯罪の担当部署の精鋭をそろえた合同銃火器取締捜査本部は、数年来、虎視眈々と機をうかがっていた。そして昨年末、元剣峰会構成員だという男から内部情報の提供を受け、ついに大々的な一斉摘発作戦が立案され、準備が進められた。

 しかし、作戦準備も大づめの段階にきたとき、突然情報提供者と連絡が取れなくなった。幻の獲物をたぐり寄せんとした糸の端を、捜査本部は見失ってしまったのだ。

 情報漏洩が疑われた。剣峰会に関する情報も更新されず、古い情報に頼った作戦の続行を誰もが危惧したが、高貝は退かなかった。

 当初の計画通り、大田区蒲田の三階建てビル一棟を二十人の武装した捜査員が急襲した。

 ほぼ同時刻、対馬沖の海上では、第七管区海上保安本部の巡視船二隻と高速艇三隻が灯火を落とし、ひっそりと漂っていた。この日、この座標の海上で、大戦の遺物ともいえる銃火器を満載した韓国籍偽装の漁船と、剣峰会の息のかかった対馬の漁船が荷の受け渡しをする、というのが情報提供者から受け取った最後の情報だった。

 しかし──やはりというか、いずれの作戦も失敗に終わった。

 蒲田の町工場然としたビルにはなんの変哲もない、使い古されているが磨き抜かれた数台のプレス機と旋盤が鎮座しているだけで、塵一つない、まったくのもぬけの殻だった。一方、海上では待てど暮らせど目当ての船は現れず、延々とつづく静かな波間が月夜に広がるばかりだった。ようやく現れたと思いきや本物の韓国籍漁船が迷いこんできただけだった。

「本件はこの体制で行く。問題はない」

 高貝が悠然と言った。

 茶番だ、と桂木は思った。この奥多摩事件を機に、何をおいても剣峰会をからめ取るつもりでいるのは高貝一人ではない。昨年末の大失態を自らの恥と考えているのは高貝よりも上の上、警視庁トップ周辺も同じなのだ。

 となると、捜査の主導権を握っているのは当然捜査一課ではない。高貝はひかえめに言ってはいるが、大筋の捜査方針はすでに決定されていたにちがいない。襲撃犯の逮捕──つまり、この奥多摩事件の解決は二の次だ。剣峰会の壊滅こそがこの捜査本部を起ち上げた真の目的なのだ。いまはまだ表立って剣峰会に正対してはいないが、今後必ず、徐々にそちらの方へ捜査の鼻先を軌道修正していくはずだ。

「桂木さん──」

 唐突に桂木を名指ししたのは高貝だった。桂木はいきなりの指名に当惑の心情を押し殺し、面格子の向こうの敵を見るときの目つきで見返した。

(何だ──)

 高貝紀次が年明けの初稽古に参加していたのを桂木は憶えている。その日の高貝は暗い陰を背負っていて、そのために余計に目立っていた。まだ摘発作戦失敗の後処理は済んでいないはずなのに、なぜか彼は道場にやってきていた。

 そのときは桂木も視線を注ぐ側にあった。高貝に注がれる視線は三種類あった。嘲笑、同情、そして安堵──自分がああならなくてよかった、という安堵だ。

 桂木は高貝の視線を受けとめ、目の奥の底意を探った。

「お互い──」

 高貝は不意に言葉を切った。

 桂木は身構えていたが、高貝は何事もなかったかのように視線をはずした。

 それっきりだった。桂木と高貝が言葉を交わしかけたことを誰もが忘れ、桂木だけが宙ぶらりんの時間に取り残されていた。

 その後も高貝は剣峰会検挙を声高に叫ぶことはなかった。一課員たちは、とりあえずの捜査方針としては妥当と考えたのか、反論は出ず、すでに手練れた捜一課員の目つきになっていた。各班会議を終え、一同は我先にと退室していった。戸口の脇には繋ぎあわせた半紙の垂れ幕が堂々と掲げられていた。それには太い毛筆で、

『昭和四十七年十二月九日発生 西多摩郡奥多摩町奥多摩湖沿岸青梅街道道路上における けん銃使用による暴力団構成員襲撃事件特別捜査本部』

 と、墨書きされていた。

 桂木はまだ高貝の言葉に囚われていた。

(お互いがんばりましょう、とでも言うつもりだったのか。だが立場がまるでちがうだろうが。奴は汚名返上のきっかけをその手につかんだ。天から降ってきた最高の贈り物を抱きかかえ、面の皮一枚下じゃ、満面の笑みでいるはずだ。比べて俺はどうだ?)

 何もない。

 かつてはあった。この手の中に妻も娘も、他者からの尊敬もあった。

 いまこの手は何かをつかめる状態ではない。痺れて動かず、指の間をあらゆるものがこぼれ落ちていく。

 あのときが境だった。あの瞬間から転げおちていった。

 一、二、三、四──。

 それは三秒間はあった。

 五──それが致命傷だった。その前の三秒のうちにどうにかできただろうか。あの警官を救うことができただろうか。

 桂木ははっとした。

 自分は助かったのか? ああならなくてよかったと思っているのか? 三秒のその中で、桂木は自分が安堵の目をしていなかったという確信はまるでなかった。




    第二章


     一


 奥多摩事件のおよそ半年前、中尾仗は足立区千住曙町にある峰岸組組長の邸宅の中庭に面した縁側で、梅雨ただ中の驟雨を鬱々と眺めていた。

 戦後の焼け跡復興から幾段階かの変遷を経た、砂利粒をかき集めたように築きあげられた街並みの中で、ただ一軒、巨石のごとく飛びぬけて豪奢な日本建築にも、等しく雨粒が叩きつけられていた。屋敷の主が決して勝てぬ病に襲われたのも同じことなのだろう、と中尾は思った。天は下々の者には平等ということだ。

 中尾は十畳間に戻ると、床に伏せる老人から離れて座し、会合出席者の到着を待った。

 老人は峰岸組組長峰岸五郎その人で、先ほど看護の女に薬を飲ませてもらってからは昏々と眠りつづけていた。ぜいぜいという息遣いが、健常な中尾をも肺病患者のごとく息苦しくさせる。

 あわれな御仁だ、と彼は思った。老人といってもまだ六十にさしかかったばかりだろう。しかし、さしものインパール帰りの兵、関東極州会連合創立の陰の立役者も、いまはただ、痛苦と痛苦の隙間にある生の兆しを見つけてはすがりつくばかりの老いぼれに他ならない。

 襖が引かれ、小柄だが堅太りした下男が中尾に膝をついて一礼した。その脇から足音を忍ばせて入ってきたのは窪島渉だった。四十台前半であろう中背痩身の男は中尾に丁寧に黙礼すると、膝をついて老人の枕元ににじり寄り、耳元で「親父、親父」と声をかけた。老人はうめいたが、目はさまさなかった。窪島は脇に置いてある洗面器の手拭いを絞って五郎の額をぬぐうと、そのままじっと老人のゆがんだ寝顔に視線を落としていた。

 中尾がときおり見やる腕時計の秒針のほかは、ひたすら五郎の苦しげな息遣いだけが時を刻んでいった。

 定刻を十数分過ぎた頃、襖ががらりと開いた。入ってきたのは恰幅のいい中年男で、手にはふくれた鞄を提げていた。その鞄と同様に弁護士然とした男は、入ってすぐのところで薄ら笑いを浮かべたまま二人に詫びた。

「いや、遅れまして申し訳ございません」

「達夫さんは──」

 窪島が低くうなった。

「会長は来ません。私は代理人です。委任状を持参していますが、ご覧になりますか」

「なに、本人は来ないつもりか。親の見舞いに、たったの一度も来る気がねえのか」

「折を見て、と会長は申しておりました。大変残念がってもおられました」

「たったそれだけか」

「ご容赦下さい」

 と、男は今度は慇懃に頭を垂れた。

「構いません。ご両人、こちらへ」

 二人の応酬に割って入ると、中尾は窪島と代理人をあらかじめ並べておいた座布団に座らせ、自分は五郎の枕元の方へ少し座布団を寄せて座りなおした。

 中尾は自分を二代目千束組組長と名乗った。次いで、上からの伝言役だけでなく、今後の両者の監視役、裁定役として遣わされている旨を手短に説明し、さて、と本題に入った。

「さる六月七日、関東極州会連合総本部、幹部会定例会議で俎上にのぼった、いわゆる峰岸組後継者問題における決定事項をお伝えします」

「何が問題なものか」

 そういきり立つ窪島を中尾は無視してつづけた。

「これは極州会の総意ととってもらって構いません。まず前提として、峰岸組後継者選定は幹部会に委ねられたことをお伝え申しておきます。これは、峰岸五郎親分が理性的な決断力を失していると判断されたためです」

「迷うことがどこにあるってんだ」

 窪島は静かに吼えた。その問いには代理人が簡潔に解答を試みようとした。

「親が子に譲り、子が親から譲られるっていうのは、いまも昔も当たり前のことですからね」

「血がなんだ。そんなもので組が生き残れるとでも思ってるのか。サツとあんなお祭り騒ぎを起こして。てめえの組だけでなく、親父の組まで巻きこんで潰そうっていうのか」

「達夫さんは五郎親分のたった一人のご子息です。きっと峰岸組の中でも人望は厚いはず」

 代理人がたしなめるように言うと、窪島は噛みついた。

「峰岸組は一枚岩だ。親父と俺が築きあげてきたんだ。あのボンボンが何をしたっていうんだ。そこいらじゅう引っ掻きまわしてるだけじゃねえか」

「どうでしょうか。あちこち手を付けてまわって、みなさんの不興を買っているのはどなたでしょうかね」

「なんだと──」

「申し訳ないが、話ははじまったばかりです」

 中尾は口をはさみ、二人を自分に向きなおらせた。

「裁定基準を申し上げましょう。端的に言うなら、極州会への貢献度となります。極州会への、です」

 念を入れて繰り返したこの一言が、窪島と達夫の代理人のそれぞれの表情を逆転させた。すなわち、苦い顔をしだしたのは峰岸達夫の代理人の方である。

 昨年末の一件以来、警察の剣峰会検挙にかける執念は怨念へと昇華しているといってもいい。極州会としても、警察の面子を丸潰れにした剣峰会の存在を獅子身中の虫とする節があり、駆虫を声高に叫ぶ極州会幹部もいたほどだ。警察を手玉に取ったことが、峰岸達夫にとって最大の隘路となってしまっていた。

 達夫にはけじめをつけさせるべきという幹部連中の意見は至極真っ当なものだったため、当初、達夫か窪島か、天秤がどちらに傾くかは誰の目にも明らかだった。

 しかし、達夫の代理人がほのめかしたように、極州会幹部の中には、先陣きって合理化を推し進め、組織全体から粗暴さを排除して経済ヤクザへと変貌させんとする窪島を、心底毛嫌いする者たちもいた。単に甘い蜜の分配に不満を抱き、やっかんでいるだけの者もあれば、窪島との競争に負けて直接的、間接的に苦杯を喫した者たちもいるのである。そんな彼らはここぞとばかりにあえて反窪島の立場を表明し、達夫は血縁者なのだから組長の座を襲う資格はあると言いだし、警察の脅迫などに屈してはならないと宣った。

 一部から挙がった反論に何の思惑あって便乗したか、反窪島の挙手が続出しはじめ、議論が沸騰し、議場は真っ二つに割れた。極州会は在関東圏組織の連合といえども所詮は烏合の衆、峰岸組後継者問題とは無関係の、かねてから潜在していた対立がこれを機に表面化してしまったのである。

 たまりかねた議長兼極州会幹事長──四代目本田一家総長橋本玄容は、一喝して議場を静まらせると一つの提案をした。

 下克上を許さず血の絆を重んじるべきか、あるいはあくまで有能な人物を長に据えるべきか、どちらの選択が極州会にとって有益となるだろうか。それを決するために二人を競わせればいい、と。

 橋本が厳然と宣う中、うなり声がそこかしこからあがったが、反対意見はなかった。

 条件がさだめられ、当事者不在にもかかわらず跡目争奪戦開始ののろしが勝手にあげられた。争うのは極州会への貢献度。ただし、互いに相手への干渉、妨害、命の取りあいを禁じた。さらに橋本は、ルールの監視役、違反の際の調停役、そして最終的な裁定役にと、かたわらに控えていた中尾を推挙した。中尾は先代の顔に泥を塗らないことを誓わせられ、その任を引き受けた。

「相手方の条件違反があると思われた場合は私に申し出てください。私どもが調査し、審判を下します。なお、違反があったと確認された方は、後継候補からの脱落はもちろん、橋本直々の制裁の断が下されるでしょう」

「一家の主でありながら、犬みたいに地べたを嗅ぎまわるのかい」

 窪島が鼻で笑った。中尾は笑みを返した。

「確かに。ですが、犬は犬。鼻はよく利くつもりですので、どうか軽々しい行動は慎んで下さい」

「貢献度と言われましたが、いわゆるレースの勝ち負けに、明確な線引きというものはあるのですか」

 達夫の代理人が相変わらずの硬い面持ちで口を開いた。

 達夫の代理人が気にするのも無理はない。単純に解釈すれば、この条件では上納金を多く納めた方が勝ちと考えることができる。それは手広いシノギを抱えている窪島の最も得意とするところなのだ。それにひきかえ、武器商売一本槍でやってきて、しかも警察に睨まれている剣峰会の現状では、達夫は圧倒的に不利となる。

「その点のご心配をあなた方がされることはありません。いかにも、明確な裁定基準は設けていません。というのは、基準を設けると、あなた方はその点にだけ集中して努力を傾け、邁進するでしょうから。となれば、要領の良い方が相手を押しのけてゴールするという結果になる。そのことを良くとらえれば、両者が鎬を削って目標へ向かうということになるのでしょうが、そんなことは求めていません。というより、両者が同じ事をする、つまり二つの敵対する組が接触する機会がある──となると、容易に考えられるのは、相手への妨害工作へと踏みこんでしまうこと。橋本が憂慮しているのはまさにそれです。どうか思い返していただきたい、極州会創立時の理念を。共存共栄です。我々は極州会の一員、仲間です。仲間同士が互いに潰しあうのは理念に反します。どうか、そのことを肝に銘じるようお願いします」

 代理人が笑いを堪えていた。窪島はそれすら隠そうとしない。中尾だけが必死に真面目くさった顔を保とうとしている。理念などあくまで建前──腹の底では糞喰らえなのだ。

「要は、己の存在意義をアピールせよ、そういうことだろう」

「そういう方向性でまず間違いないでしょう」

 中尾がそう締めくくると、早々に達夫の代理人は辞去した。

 窪島はうつむいて思案をめぐらせたのち、はたと思い出したように老人の枕元ににじり寄った。老人の苦悩の面相に引きずられるように眉間に皺を寄せていった窪島は、ぼそりと口を開いた。

「あんたのところ、先代がいた頃とは状況がだいぶ変わったそうだな」

「ええ、まあ」

「この件で、組の存続がかかってる。そうだろう?」

「それとこれとは関係ありませんね」

 窪島が振り返った。中尾はその目を見返した。窪島の目の色は読めなかった。

 唐突な老人のうめき声のおかげで緊縛がほどけた。窪島は「おい、誰か」と廊下に顔を突きだした。

 中尾は水差しを持った女と入れかわりに部屋を出ると、玄関で下男から傘をもらい、潜り戸を抜けて屋敷を後にした。

 角を曲がると背後から排気音が追いすがってきた。達夫の代理人の車だった。

「中尾さん──どうぞ」

 男は確かに弁護士の類なのだろうが、もはや堅気の顔つきではない。中尾ですらその薄ら笑いには嫌悪を感じる。だが、中尾は傘をたたみ、招じられるままに助手席に乗りこんだ。 


     二


 峰岸邸の会合の夜から二週間後のこの日、浅草の街は未明から雨の矢束にいたぶられていた。

 いまだ朝を明けゆかせないでいる低く厚い雲の下で、水銀灯にぼんやり照らされたこうもり傘の群れがひしめいている。傘の下は背広や詰め襟の人々で、一様に濡れた靴の爪先にしかめ面を投げ、小股で歩いている。その脇を車が水たまりを泳ぎ渡っていく。

 道路脇に一台のライトバンが停車した。ドアが開いて雨合羽のフードを目深に被った三人の男が降り立つと、各々後部ドアから工具や脚立や蛍光管の束を引っぱりだして、雑居ビルに駆けこんでいった。通りすがりの誰もが彼らのひと仕事に興味を抱くことはなかった。彼らがやったことといえば、非常階段の蛍光灯を一つ新品に交換したことと、その間に一人がビルの半地下の壁に据えつけられた分電盤ボックスに小細工を施したことだけである。

 ものの十分でライトバンは再び男たちを乗せて走り去った。

 そのバンは角をいくつか曲がると停車した。降りたのはアタッシュケースを抱えた男が一人、フードを深く被りなおし、とあるマンションの玄関に入っていく。

 男は電灯も点けずに、家具も何もない部屋の床に座りこんだ。雨合羽から水滴が散って床が濡れたが男は気にも留めていない。薄暗い中で開いたアタッシュケースには、カセットテープ式のレコーダーと、それにコードで接続された電子基板がおさまっていた。男は電子基板に繋がっている細いケーブルの束を丁寧にほぐしはじめ、端の数メートルをループ状にまとめると、窓ガラスにテープで留めた。窓の向こうにさっき立ち寄った雑居ビルが見える。

 おもむろに基板のスイッチを入れると、いきなりレコーダーが作動しはじめた。慌ててヘッドフォンを耳に当てた男は、やがて面白おかしそうに鼻を吹き鳴らし、小さく声を立てて笑った。

 やがて、レコーダーは自動的に停止した。男はそれを認めると、部屋を出ていった。

 その後もこの無人の部屋では、基板からのびているループ状アンテナがとある電波を受信すると、レコーダーがひとりでに作動をはじめた。それは電波が途切れるとひとりでに停止した。


     三


 夏も終わる頃のとある早朝、警察は峰岸組傘下の窪島組幹部二人をそれぞれの自宅で逮捕し、同時刻、浅草の同組事務所と彼らの自宅および峰岸組若頭で窪島組の組長である窪島渉の自宅の家宅捜索を行った。

 幹部二人の容疑は競売入札妨害。下水道関連公共工事事業の入札に彼らが談合仲介役として関与している疑いがあるとのことだった。

 伊豆高原にあるゴルフ場の、一番ホールティーグラウンドでその一報を受けた窪島渉は激昂し、ゲーリー・プレーヤーモデルの高級クラブを放り棄てて急遽東京へ引っ返した。

 彼のBMW2500が自宅マンションの前で急停止したときには、すでに家の中の紙という紙があらかた警察のバンに積みこまれて運び去られたあとだった。呆とした感覚の中で、彼の耳腔だけは唯一鋭敏に研ぎ澄まされ、この無様な姿をどこかからのぞき見ている峰岸達夫の高笑いを聞き取ろうとしていた。実際、彼にはそれが聞こえたような気すらしていた。

 ただ、窪島が見込んだ二人の幹部は、検挙される段になっても窪島ほどに狼狽えることはなかった。彼らの慎重な性分が幸いして、本拠となっている事務所にはもちろん自宅にも談合の証拠になるようなものは何も置いておらず、重要な証拠となる書類や手帳は窪島さえも知らない別の場所に保管してあった。彼らはその手帳に自分たちの行動を逐一記録してあった。それを見れば彼らが誰と会い、何を話したかがわかる。その中の誰が彼らを警察に売ったのか、あるいはどこから秘密が漏れたのかを追跡調査することもできる。窪島はその手帳のありかを、弁護士を通じて秘密裏に留置所の幹部二人から聞きだした。

 二日後、窪島はその手帳を手にした。

 どこから情報が漏れたのか。談合で利を食えなかった工事業者に恨みを持たれたのだろうか。一銭の金にもならない正義感などに心を惑わされた者がいたというのか。あるいは峰岸達夫の自分勝手で強引すぎる口車にのせられるような、あるいは脅迫に屈してのらざるを得なかったような弱腰な者が──しかし、窪島渉と峰岸達夫とを秤にかけ、両者が手にしている力の優劣を判断することもできない愚かな者が現実にいるのだろうか。

 窪島は受話器を取り、二十年来の付き合いがある情報屋を呼びだした。金に関しては強欲な男だが、こういうことの調査には最も役に立つ。男は対価の額を聞くと、窪島の依頼を二つ返事で快諾した。 

 その十日後、窪島は自宅でその男がしたためた報告書を受けとった。がらんとした書斎に残された椅子に腰を落ち着け、彼はその内容を吟味した。

 談合仲間の中に裏切り者はいないという、窪島にとっては至極つまらぬ結論から報告書ははじまっていた。

 警察に真っ先に追求されて切り崩しの端緒となってしまった工事業者によれば、聴取を受けたときにはすでに、警察は談合関係者全員の名と金の流れも内偵済みだったという。

 刑の執行猶予や罰金、行政指導の処分など、軽重の差はあれど、談合に加わった七業者すべてが起訴されて有罪となる見込みだという。賄賂を受けとっていた競売入札担当の都職員は早々に自供し、懲戒免職となっていた。

 事の運び方を知らない新規参入業者もない。この談合入札で損をするのは都財政だけという構図だ。すなわち、談合の事実を暴露しても得する者は仲間内では誰もいないのである。談合仲介というシノギはもうはじめてから十年にもなる。窪島の配下の者にやらせるようになってからは五年。がめつくやらず、皆の利になるように配慮し、これまでうまくやってきたのだ。関係者内に限っては、秘密は申し分なく保たれていたことは疑えない。漏洩の穴は他にあったとしか考えようがなかった。

 窪島の考える通り、警察の捜査の端緒は部外者からの密告だったと報告書には記されている。

 八月上旬、浅草警察署に匿名の電話があったのがはじまりだという。

(窪島組が下水道工事の入札にからんでいる。大金が動いている)

 一体どこから秘密が漏れたのか。誰が密告者となったのか。

 報告書の結びには箇条書きでこう添えられていた。

『突きつめて考えれば、密告者は以下の人物に限られる。

 一.談合仲間の工事業者

 二.競売入札担当の都職員

 三.仲介役のどちらか、またはその両名

 四.窪島組構成員

 五.窪島渉』

 最後の項目に窪島は旧友ならではの冗談を感じ取ったが、つづく文句に呆れも苦笑いも吹き飛び、全身が粟立った。

『四および五番目の項目はすなわち、組事務所および自宅の盗聴の可能性を示唆するものである。とくに仲介役との相互連絡に用いたことのある電話機は──』

 窪島は発作的に目の前の電話機を引っつかんだ。確か、この電話機で何度か彼ら──彼ら幹部からのみならず、あらゆる配下の者からあらゆる報告を受け、あらゆる人物とあらゆる秘密の会話をしたことがある。だが、窪島は盗聴器の知識に関しては皆無だった。彼は猛然と部屋を飛びだし、角の公衆電話へと走った。

 真夜中に呼びだされた側近たちはくまなく窪島の自宅マンションを調べた。結果、そこは安全だとわかった。

 となると残るは事務所の電話だが、そこにも盗聴器らしきものは仕掛けられていなかった。と、側近のふとした思いつきを受け、ビル全体の電話回線を集約し、分配している配電盤を調べた。

 果たして、そこに盗聴器があった。

 配電盤扉の裏側に、弁当箱ほどのベージュの箱が貼り付けられていた。そこから数本のコードがのびて各電話回線に割りこませてあるのだ。その箱は、電話回線を流れる電気信号を検知すると、信号をそのままある周波数の超短波を発信するように作られていた。

 窪島はそもそもの調査を依頼した旧友を再度呼びだし、盗聴器が仕掛けられた配電盤を見せた。彼によれば、その盗聴器が発する電波の到達範囲はせいぜい百から二百メートル程度だろうという。

 窪島は引きつづき調査を依頼した。脳髄は熱く沸騰していた。盗聴器を仕掛け、自分と部下を嵌めた者──おそらくは峰岸達夫──の尻尾をつかめと。旧友は了承し、窪島に訊ねた。

「そのムシはどうする? できればしばらく泳がせておきたいんだが」

「時間がかかりそうか?」

「金もだぜ」

 旧友はそう言い置いて事務所を後にした。窪島も自分のBMWに乗りこんだ。

 その旧友から以前買った情報にもとづいて、ある計画を実行に移す頃合いだった。よりによってこんなときに、と窪島はいらだった。


     四


 丸めた毛布の中でベルがくぐもった音を立てはじめた。

 中尾はヘッドフォンを首にずらし、毛布に手を突っこんで受話器を取った。ヘッドフォンはいまだひっきりなしに怒声をささやいている。

「聞きましたか」

 平静な声には、さっきまでの高揚も冷めるというものだ。五十過ぎのこの声の主は何が起ころうとその淡々とした声の調子を変えようとしない。

「窪島のところ、いまじゃひっくり返ってるぜ。善さんは何を聞いた」

「色々と――奥多摩で襲われたのは峰岸組傘下窪島組の友岡雅樹。やったのは剣峰会の川村徹」

 青木善三は端的に言った。中尾が訊く。

「ネタ元は」

「吉原の黒服たちです。友岡の天敵だったそうです。川村ならやりかねないと」

「記者連中は? 警察発表、もうあったんじゃないか」

「ついさっき。襲撃に拳銃が使われたってことは確かのようです。銃の出所に目星はついているのかという問いにはノーコメント。ですが、捜査本部長に高貝が出てきました。ほら、去年の暮れの」

 中尾は思わずうなった。

「善さん、四課の村上って知ってるか」

「三度ほど使いに出されて、会ったことがあります」

「いま連絡先を教える。逐一捜査状況を知りたい」

 中尾は先代千束組組長から受け継いだ革表紙の手帳を開いて番号を読みあげた。他にもいくつか番号を伝えた。警視庁内の内線番号と刑事たちの自宅電話番号である。皆、先代が手懐けた者たちだった。

「鶴夫にかわってくれ」

 中尾は弟分の平山鶴夫にも二、三指示を出すと、受話器を置いた。ヘッドフォンはもう静まっていた。

 友岡と剣峰会の川村徹とが因縁深いことは、峰岸組傘下組織に属する者ならおよそ誰もが知っていることである。遠縁も遠縁の中尾ですら風の噂程度には聞いたことがあるくらいだ。したがって、その事実が警察の耳に入るのも時間の問題だろう。

 女衒の友岡によって、あるトルコ嬢との交際を無下に断ち切られた川村は、その恨み晴らさんとこれまで二度に渡って友岡に暴行を加えてきた。そのたびに友岡は鼻や肋骨を折られたが、川村もまた、一度目には左手の小指、二度目には薬指を詰めさせられている。ただ、指は他にまだ八本残っており、川村という男はそれらを失うのを厭わないことは確かだと、彼を知る誰もが口をそろえる。

 しかし、夏前から窪島と達夫の峰岸組跡目争奪戦がはじまっている最中だというのに、川村が親分の達夫の言いつけを破ってまで私怨を晴らすような無茶をするだろうか。

 中尾は受話器を取った。取り次ぎがあって、極州会の総元締め、本田一家家長の橋本玄容が電話口に出た。

「奥多摩の件、もうお耳に入りましたか」

「当然だ」

 橋本の機嫌は良くないようだ。だがそれも想定内だ。ただ、中尾はこれからこの機嫌の悪い男に自制を保つよう言い含めることの難しさを思い、うんざりしはじめていた。

「高貝がのりだしてます。例の昨年暮れの一件の」

「川村って小僧を差しだすだけじゃ済まされんな」

「それだけじゃありません。橋本さんの立場も危うくなるんですよ。あなたの号令ではじまったゲームなんですから。剣峰会まるごと警察に持っていかれるのは極州会全体の損失です。誰もがそう考えます。そうなれば、橋本さんを良く思わない連中が騒ぎだすでしょう。剣峰会の武器なくして関西に太刀打ちできるのかと」

 受話口から荒々しい鼻息が噴きだしてくる。

「お前は何ができる?」

 お前はときたか、と中尾は思った。お前ならどうする、と意見を求められるのではなく、お前は何ができる、か──だが、これも想定通りだ。何もできないと答えるつもりは端からない。

「高貝の目は剣峰会に向いています。それを川村一人に絞らせましょう。ただの痴情のもつれでこの件をおしまいにするつもりです」

「女を押さえるのか」

「こちらの都合の良いように警察に喋らせます。川村にもこちらの言うなりになってもらいます。女の証言。川村の出頭と自供。あとは友岡――こいつは死体でも何でもいい。その三セットで事件は解決。もちろん、高貝は剣峰会への恨みを忘れやしないでしょうし、拳銃がぶっ放されたって事実もなくなりはしませんが、そんなものはそもそも既存の問題ですから。とにかくいまこの機会では、高貝に剣峰会の頭にまで届くような踏み台を与えないことです」

 橋本はしばらく黙っていたが、やがて声を落として訊いてきた。

「達夫に大人しくしてろとよく言っておけ──おい、奴は川村を匿ってると思うか」

「おそらく。達夫は川村がかわいくてしかたないんです。似た者同士ですからね。ですがこのさい、生け贄になってもらいますよ」

「女はどうする」

「すでに手配済みです。ただ、時間稼ぎは必要です。橋本さんにはあらゆる手を尽くして、峰岸組傘下組織の隅々まで──いえ、極州会全体に箝口令を敷くよう動いていただきたい。ただし、橋本さんの号令とはわからないように密かにです。川村と女と友岡の関係を一切漏らすなと。一見矛盾しているようですが、箝口令を犯した者は捜しだして厳罰に処されるという噂──ほんの噂程度のものを流すだけで構いません。この危機的状況は誰もが感じているものですから、たとえ誰が発信したかわからない噂でも皆、自分の組のために、あるいは極州会全体のために、しっかり口をつぐんでくれるはずです。それで、いくらかは警察の動きを鈍らせる効果もあるでしょう」

「いくらか、か──所詮は寄せあつめだからな」

 橋本は極州会の前途を憂うかのようにうめいた。となれば、中尾は同意と慰めの言葉をかけるしかない。

「これだけの大所帯ですから、そりゃ水漏れの穴の数が多くなるのもしかたありません。ですが、これだけの大所帯をまとめあげられるのは橋本さん以外におられないかと」

 反応は薄く、思案のうめき声が返ってきただけだった。

(橋本は世辞を好まない、か。意外と現実的なんだな)

 中尾がそう思ったとき、橋本はいきなり口を開いた。

「俺のところで女を押さえさせよう」

「それはいけません」

 中尾は慌てて否定した。橋本は訝った。

「急ぐのだろう? こっちのほうが手っ取り早い」

「本田一家が動けば地も揺らぐ。当然その動き、警察の耳にも入ります。奴らだっていま、ネタをつかもうと我々の中に網を張ろうとしてるんですから。むしろ、橋本さんは微動だにせずどっしりと構えていてください」

「なぜだ」

「なぜって、橋本さんはこの件をただの痴話喧嘩だと思っている──そういう体でいなくてはいけません。内にも外にも──とくに内に向けて、そういう態度で通してもらいたい。そうでないと幹部会の達夫派の連中に揚げ足を取られかねません。ほれみろ、橋本のせいで警察に食いこまれてしまった、と。橋本さんの慌てぶりを喜ぶ者は皆無ではありません。それに、橋本さんの動きが警察の網にでも引っかかったら、極州会で大騒動が起きていると高貝らは勘ぐるでしょう。だから、奥多摩事件はあくまで川村と友岡のちっぽけな痴話喧嘩に過ぎない、些末ないざこざに過ぎないのだと思いこませねばなりません。そのためには橋本さんは表向きは動いてはならないのです」

「手出し無用か」

「現段階では水面下でのみ──いえ、余計なことは喋ってはならぬというほんの噂、ただの噂をそっと流すだけ。静かなる恫喝──これが橋本さんのいま使っていただきたい武器です。いずれ必要なときになればお力を拝借します」

「わかった」

 橋本は普段の調子でぴしゃりと言った。

「だが、年内には目途を立てろ。新年は気持ちよく迎えたい」

「年内──」

 中尾は残る日数を指折り数えた。

「お前が駄目なら俺が動く。一家を挙げてな。俺はな、お前とちがって大騒動上等なんだよ」

 電話は切れた。 




    第三章


「いい? これをこっちの端っこのところにもってきて──こうよ」

 母親の手がすっとのびてきて、その手に添えられながら折り目のずれをなおしてもらう。うまくいかなくて口を尖らせていたちとせの表情がぱっと明るくなる。

「今度はこの、とんがりぼうしの角っこどうし。そしたらもう一回、とんがりぼうしの角っこどうし──」

 節をつけて唱えるような母親の言葉をそっくり口の中でつぶやきながら、ちとせは指先、爪の先の動きまで母親の手つきをまねして、今度はぴったりと紙を折りあわせた。指先ぐらいに小さく折りたたまれた障子紙である。

「そしたら鋏を持って──」

 唐突に二階から陶器の割れる鋭い音がした。同じ場所から怒声があがって家中に轟き、人と人とが取っくみあい、家具が散らかされる音が相次いだ。広い台所の奥にすえられた四畳半の使用人部屋はちょうどその喧噪の真下にあった。と、二階の別の部屋から、狂乱して泣きわめく少女の声が聞こえてきた。

 ちとせが不安そうに天井を見上げると、母親はちとせの頬を優しくつねって自分の方へ顔を向きなおらせた。

「ねえさまが──」

 言いわけしようとするちとせに、母親は首をゆっくり振った。

「あなたが心配してもしかたないわ。さ、鋏に気をつけて」

 ちとせは母親の言い草にむすっとし、それでも言われた通りに鋏を動かした。

 幼稚な落書きが描かれている壁の横で、障子戸の一つのますめに真新しい大きな裂け目がある。別のますめには黄ばんだ数輪の紙の花が咲き、裂け目が繕われている。

「ほら、広げてみなさい」

 端と端を指先でつまんで広げてみると、正方形だった障子紙の紙片は放射状に花弁を配した一輪の白い花となった。ちとせは掌に紙の花をのせて、ぼんやりと見つめた。心はまだ、「ねえさま」の泣き声に囚われていた。

「はい、糊」

 うつむいた鼻先に、つんと匂いのするでんぷん糊の壺を差しだされると、ちとせは小指で糊をすくって花に塗り、障子の裂け目に貼りつけた。母親の手からもう一枚の花を受けとると、それもすぐ隣あわせのところに貼りつけた。自分の作ったのはいかにも幼稚な形だが、母親の作ったのは本当の花のようだった。

「ちっちゃいの、いっぱい作っていい? そしたら藤のお花みたくなるわ」

 母親はほほえんだ。

 階上のくぐもった怒声は断続的で、そのたびにちとせの胸をぎゅっと締めあげる。少女の泣き声も一向にやまなかった。

「こんなので、本当に幸せになんてなれるのかしら」

 ちとせは思わずつぶやいた。それに母親が答える。

「障子が破れっぱなしのお家には、幸せの神さまはそばにいてくれないのよ」

「どうして」

 ちとせは切実な思いに駆られ、母親に真顔で訊いた。母親は困った表情を浮かべた。

「どうしてって、不幸せそうにしてたら神さまだって──」

「どうしてお花なの?」

「お花が嫌い?」

 母親が逆にちとせに訊ねる。ちとせは首を振った。

「お花いっぱいって素敵でしょ」

 ちとせが頷こうとしたそのとき、階上の扉の一つが叩きつけられるように開かれ、「出ていけ、二度と帰ってくるな」「言われなくてもこんな家、出ていってやる――」「ああ、出ていけ。お前など勘当だ」などと怒声の応酬が家中に響き渡った。ちとせはびくりと体を硬くした。

 階上の廊下を踏み鳴らして歩く足音がした。もう一つの足音は静かに階段をおりてくる。母親はさっと立ちあがると、使用人部屋を出て台所でその足音の主を出迎えた。

「すみませんが、水を一杯もらえるかな」

 足音の主──この家の主は、荒い呼吸のまま慇懃に言った。口の端に血をたらしている。その滴りはシャツをも汚していた。母親は家の主に駆け寄った。

「シャツを。落ちなくなりますから」

「すまない」

 母親の雇い主は手の甲で口元の血をぬぐい、気だるげにボタンをはずしていく。

 母親はそのシャツを受けとると、流しの蛇口を開けて血の染みを水に浸し、揉みはじめた。と、思い出したようにちとせを振り返って言った。

「ちとせ、おじさまにお水をさしあげて」

 台所におりたちとせは言いつけ通りにコップに水を汲んだ。水を渡すとちとせは家の主にありがとうと礼を言われ、頭を撫でられた。ちとせは頭を深くさげて礼を返し、その手から逃れた。

 荒んだ足音が階段をおりてきて、それはそのまま玄関を出ていった。少し遅れて泣き声の主がつづき、台所に赤く腫らした顔を突きだした。背丈こそ大人びていたが、その顔はまだ少女のものだった。少女は母親の方を激しく睨みあげた。その視線を避けるように母親がうつむいた。ちとせははらはらしていた。

「お父さまのせいよ。兄さま、出ていっちゃうじゃないの」

「放っておきなさい」

「いやよいやよ」

 金切り声を吐きだすと、少女は踵を返して玄関を飛びだしていった。

 ちとせは後を追おうとして駆けだした。

 母親が呼びとめるよりも一瞬早く、ちとせの体は家の主の片腕に抱きとめられた。だが、ちとせはその手を振りはらって台所を飛びだした。すぐ背後でコップの割れる音が響いたが、ちとせは構わず少女を追った。


     一

 

 午後の空気は温く緩み、街はまどろみ、高空に吹く微かな風のうなりと気まぐれな小鳥のさえずりははるか遠くから聞こえてくる。

 その平穏が突如沸きおこった騒音によって一気に引き裂かれた。

 騒音の源は一人の巨漢の男だった。

 その男は、闘牛のような巨大な尻をゆすりながら狭い階段をのぼっていく。盛りあがった僧帽筋と三角筋はその幅だけでこの木造二階建てアパートの階段には目一杯となるというのに、男は右脇に簡易コンロを挟み、手には薬罐と鍋、魔法瓶の取っ手を鷲づかみにし、左脇にも二枚の座布団、やはりその手にもまた即席麺や流行りのカップ麺を袋一杯にしてぶらさげていた。その鍋や薬罐やらが鉄の手摺に当たってがんがらがんがらと甲高い派手な音を立てているのだった。

 巨漢の男──大室賢悟は電柱のように太い首をぐいとねじまげて、後からついてくる桂木と横田を振り返って申し訳なさそうに苦笑った。騒音の弁明もさておいて、大室は自慢げに話しはじめた。

「見た目はぼろ屋ですがね、中は案外悪くないですよ。昔、私が住んでた堀っ立て小屋に比べたら百倍マシです」

 大室がドアを開け放つと、途端に黴臭さが鼻をつく。小春日に存分に暖められて割り増しされてもいるようだった。桂木はしぶしぶ部屋に入ったが、横田の態度ははっきりと拒絶を表明していた。

「最初だけですってば」

 と、大室はさっさと靴を脱いで台所に荷物をおろし、順に窓を開け放っていった。

「掘っ立て小屋ほど風通し良くはありませんけど。ほら、来てください」

 桂木は大室の手招きに応じて窓辺に寄ると、慎重な手つきで曇りガラスを細く開けた。通りを挟んで向かいにもアパートが建っているのが見える。

「斜向かいの部屋です」

 物干し竿には女物の衣類がかかっている。中でも必要以上に薄手の下着が軽やかに風になびいていた。

 横田はトランプを手の中でシャッフルしながら渋面で部屋に入ってきた。

「よせよ」

 と桂木はたしなめた。だが、横田は聞こえないふりをして一緒になって向かいの部屋をのぞき見ると、途端に頬をゆるめた。

「あの手の女は趣味じゃないけど──ま、ここは俺に任せてもらいましょう。祖師谷の年増の方は先輩にお任せします」

 横田はそう言うと、トランプの束を桂木の手に握らせた。お楽しみはもう見つけたということか。監視対象者に好みもへったくれもないだろうと呆れるが、桂木は何も言わなかった。少なくとも、多少は本腰を入れてあの部屋に目を向けてくれることは期待できる。

 桂木班は、桂木麾下警視庁捜査員四名に加え、二人の監視対象者それぞれの居住地を管轄とする東調布署と成城署から応援要員として各二名ずつ借りだし、計八名の人員で二人の女の行動および周辺を二十四時間態勢で監視する。

 桂木は柱に写真の複写を画鋲で留めていった。横田は無線機で表通りの車両に待機する捜査員との交信チェックに余念がない。

 上の写真は川村徹──写真は七年前の十代の頃、少年院に入所した際のものである。ふてぶてしさは彫刻刀で抉ったような細い目のせいだけではない。少年院を出ると川村は峰岸組の門戸を叩き、そこでは荒くれ者の性分を達夫に可愛がられることとなった。のちに達夫が組を飛び出したときには、当然のように川村も後を追った。また、友岡雅樹とは三年前から一人の女をめぐってたびたび諍いを起こしていたという情報を得ている。そして奥多摩事件発生の前日、十二月八日からこの男は行方をくらましている。

 川村の写真の下には友岡雅樹の写真を留めた。この男は奥多摩事件の五日前から行方不明となっている。写真は十年前に恐喝未遂で起訴されたときのもので、男前だが不安げな表情から根の細さがうかがえる。女衒というから、女に対してはそんな気弱な態度はおくびにも出さないのだろうが。

 その写真の隣は川村の現在の情婦である染野香という女で、このストリップ小屋の踊り子こそがいまいる部屋の斜向かいの住人で、監視対象の一人となっている。二十歳を過ぎてなお十代半ばのような幼い顔立ちである。先月まで川村がこの女の部屋に出入りしていたと、近隣住民から情報提供があった。

 手元に一枚残った写真は、もう一人の監視対象者──横田いわく「祖師谷の年増」、相沢絹代である。

 この女こそが川村と友岡の諍いの元凶だった。

 妖艶な笑みを浮かべるこの写真は二年前に店を辞める前、写真指名用に撮影されたものである。現在では彼女は二十九歳になっている。四十前の桂木からすれば特段「年増」でもない。女衒の友岡にトルコ風呂に放りこまれたとはいえ、数年も経てば、カメラに笑顔を向けられるほどに仕事に慣れてしまえるということか。

「現れますかね」

 大室が興味津々に訊ねたが、横田は不機嫌そうな顔をして背を向けた。大室は桂木に小声で訊いた。

「何かあったんですか」

「ちょっとな」

 桂木は苦笑をまじえながら、青梅署での一触即発の──結果的に高貝に軽くあしらわれることとなった場面を話してやった。

「そんなことがあった上、この二人の女の情報は四課が取ってきたものだからなおさらだ」

「当然、一課は一課で裏取りはしたんですよね」

 その口振りが癇に障ったか、横田はむっとした顔を大室に向けた。

「あたりめえだ。所轄とはちがうんだよ」

 横田はがなりたてた。桂木は横田の虚勢を諫め、大室に正直に話した。

 一課は独自の捜査で友岡の交友関係と立ち回り先を洗いだそうとしていたが、行く先々で会う裏社会の連中はみな一様に非協力的だった。脅しもすかしも通用しない。何者かに強力に頭を押さえつけられている感があった。それが彼らが属する組織か、その上部組織か、あるいは持ちつ持たれつの関係である四課の連中による妨害なのかはわからない。一課が雁首そろえて二日も三日も時間を無駄にしているところへ、唐突に四課がネタをよこしてきたのである。

(川村徹という男を知ってるか。友岡はこのガキとある女のことで揉めたことがある。ガキはいまじゃ染野香という場末の踊り子と付き合っているらしいが、かつてはな――)

 友岡と川村の諍いの原因は、相沢絹代という当時名器と噂された売れっ子トルコ嬢にあった。川村は絹代に惚れこみ、店に通いつめ、自分だけの女にしようとした。女の方もまんざらではなかったらしい。

 だが峰岸組は、よその構成員でも身内でも、ときおり客として来店して金を落としていくだけならともかく、組織関係者が店の女を独占状態にすることは厳に禁じていた。独占欲からの報復があっては一般客が寄りつかなくなる。そのことを懸念しての当然の決まり事である。そのルールに則って、店の女たちを管理する立場にある友岡は二人の交際を当然許さず、川村を出入り禁止にした。そのことで友岡は、この荒くれ者の恨みを買ったのである。

 川村は友岡を二度襲った。その度に友岡は鼻と肋を折り、川村は指を二本詰めている。

 そんな騒動をよそに、相沢絹代は二年前、梅毒に罹患したために店を追いだされている。

 桂木班は四課がもたらした情報の裏取りに奔走した。口が硬かった連中も川村や相沢絹代の名を出すと、いまやっと思い出したというように口をそろえて色恋沙汰と痴話喧嘩のエピソードを語りはじめた。

 一課は出遅れた。事件発生から監視開始にこぎつけるまでに、六日も費やしてしまっていた。その間に四課と保安一課は拳銃と弾薬の線で捜査を進め、やはり桂木が予想した通り、捜査方針ははっきりと剣峰会検挙へとシフトしていった。

「そんなことって許せませんよ」

 と大室は憤慨する。だが、桂木は──おそらく横田も、もうそんな感情はとっくにどこかに置き去りにしてきていた。

「もういいんだよ」

 桂木はトランプを手から手へと弾き飛ばしてみせた。見事に失敗し、カードが床に散らばった。それらをのろのろと拾う桂木に、大室が覆いかぶさるように迫ってきた。

「でも、そんなことでいいんですか。だって桂木さんは――」

 途端に大室は口ごもった。

 そのとき玄関のドアが小さくノックされた。するりと入ってきた小男は大室に険のある目を向けて「もう行け」とうながした。

 浮かない顔の大室に横田がねぎらいの言葉をかけた。桂木は、大室が言いかけた言葉の先を訊ねず、黙ってその背を見送った。 


     二


 たかが張りこみ部屋の手配をしただけだ。そんなことでねぎらってくれるな、と大室は胸中で本庁の刑事たちを罵った。

 自分は一刑事だ。所轄の刑事課の中でもぺえぺえの方だが、それでも自分は刑事の一員だ。自分のことを評価するなら、まずは真っ当な仕事を与えてもらいたい。

 その勢いもすぐに萎え、大室は暗澹たる思いのまま狭いセドリックの運転席に乗りこんだ。助手席の男のいびきがやんだ。

「あれが桂木ってのだろ、例の──仲間を盾にしたって噂の」

 梶功夫は身動ぎしてシートを起こすと、窓を開けて煙草に火をつけた。

「火のないところに煙は立たないって言うが、どうだった。奴の目を見てきたろ? シロか、クロか」

「火の気がなくても、あえて火をつける輩がいるってことです。噂が真実だったためしはありません。もし事実なら、あの人自身が普通でいられませんよ」

 大室は努めて平静に言った。梶は不思議そうな顔をして、まじまじと大室の顔をのぞきこんだ。その梶を一睨みし、どいつもこいつも警察官ともあろう者たちがたかが噂にはしゃぎやがって、と大室は腹の中で悪態をついた。

 桂木を揶揄し、陰口を叩く者たちは彼は臆病者だと笑う。だが、臆病で何が悪い、と大室は言いたかった。桂木も警察官である以前に生身の人間なのだから、牙剥く刃物に恐れをなしたからといって何が悪いというのか。誰だって同じだ。正常な心を持つ者なら、狂気を前にすれば恐れもし、立ち向かうことにも躊躇もする。狂気に真っ向から対峙できる者は、その者自身が狂気を宿しているからだ。

 大室は桂木の目を見た。彼は狂人ではないと大室は思う。おそらく、事実は桂木の言う通りなのだろう。その瞬間のときの彼の心の動きまではわからないが、それでも仲間をあえて盾にしようなどと考える人ではないと大室は確信を持った。

(仲間を盾にして──)

 桂木の噂が東調布署まで流れてきたときから、その言葉が頭から離れないでいた。大室はその狂気を目の当たりにしたことがある。

 三年前、大室は東京大学安田講堂前に立っていた。

 誰が思いついたかはわからない。周りの隊員たちは大室の背を押して肉の盾にしながら前進しはじめた。無論、大室の意思などとは関係なしにだ。背中はぐいぐい押され、横隊は崩れて大室一人が突出するようになった。人より上背があり横幅もある大室は、火炎瓶、投石、硫酸瓶の格好の的になった。石と瓶が尽きて直接衝突がはじまると、ゲバ棒の殴打が雨あられとなって大室の防護盾を凹ませ、震わせ、それを持つ腕を痺れさせた。装備が火と薬品で焦げて煙をあげ、臭いが鼻をついた。ゲバ棒が盾をすりぬけてプロテクターを叩きはじめたとき、大室はついに恐怖に打ち負けた。学生たちも常軌を逸していたが、味方のはずの隊員たちも理性を失っていた。周囲全員が大室の敵に思えた。盾をかいくぐった一撃がついに膝をかち割り、大室は倒れた。そして、無数の靴に踏みにじられた。仲間の隊員たちも大室を踏みこえていく。気を失うまで、自分以外のすべての人間たちが吐き出す狂気の渦に飲みこまれ、もがき、溺死の苦痛を感じた長い時間だった。

「奴に同情してるのか」

「そうじゃありませんよ」

 目を丸くする梶に、大室はむきになった。 

 膝が回復すると大室は刑事任用試験を受け、所轄署刑事課への転属を果たした。

 しかし、大室は屈辱的に扱われた。

 人並みに頭はまわる。だが、柔道一筋で鍛えた巨体が尾行や監視任務には目立ち過ぎる、ガサ入れでは巨体が狭い通路を塞いで邪魔をするなどといって第一線での仕事をさせてもらえずにいた。第一線で使い物にならないから刑事部屋のがらくた同然に扱われる。第一線で使ってもらえないから真っ当な評価をされる機会も訪れない。大室は使えん――その考えを上司が持つようになるのは当然だ。いつかは大真面目に、再度機動隊への転属を勧められたりもした。

 大室は焦っていた。何でもいい、活躍をしたい。奥多摩事件捜査本部からの応援要請の話があったとき、誰よりも真っ先に手を挙げたのはそのためだった。ただ、その挙手は同僚の失笑を買っただけだった。

 かっかと頭に血をのぼらせているところ、かわりにあてがわれたのは家出人の捜索事案だった。梶が担当を志願したのだが、相棒にとなぜか大室を指名したのである。どうして自分がそんなことを、と大室は思わず口走った。

(刑事なんか辞めちまえッ)

 梶の怒号に周囲の嘲笑も静まったが、梶に首根っこをつかまれて刑事部屋を出ていくときに、大室は確かに背中で忍び笑いを聞いた。

「で、奥多摩事件ってのはいまはどうなってるんだ。ちっとは聞いてきたんだろう」

 梶は腕時計をちらとみて顔をしかめた。大室も自分の時計を見た。時間が押している。

「自分に訊かなくても、この種の事件のことはよくご存じなんじゃありませんか」

「どういう意味だ」

「さあ、よくは知りませんけど、梶さんだって噂を立てられる側の人だってことです」

 頬に鋭利な刃物を突きつけられるような視線を感じた。それがふっとなくなったかと思うと、梶はくっくと笑いだした。

「俺の目を見てそれが言えたら認めてやるところだがな」

 大室は返答がわりに車を急発進させた。梶は木偶の坊めがと悪態をついた。


     三


 壁は白色の下見板張り、屋根にはスレートを葺いた洋館風の邸宅は、濃緑の枝葉に椿の朱を点々と彩る垣根にぐるりと囲われ、蔦の這う建屋の上半分だけをのぞかせている。垣根の切れ目にある鉄格子の門は、手で押すときしんで開いた。大室と梶を出迎えたのは中年の家政婦だけだった。

「光治さんは、まもなく来られるとの連絡がありました。創一郎さんは遅れるそうです」

「少し見させてもらっていいですね」

 梶の否応を言わせない口調に押されて、家政婦の鈴森佳枝は大室らを案内した。

 瀬野ユリの部屋は、コの字型建屋の両突端に位置する八角形をした尖塔の一方にあった。八角形の特殊な間取りにも不自然なく、ベッドやサイドテーブル、長椅子、鏡台やクローゼット、書き物机や椅子、書棚が配置されている。

 窓からは中庭を一望できた。とはいえ、目に入る景色は枯れ芝生に禿げ芝生ばかりで、花壇の類すらない。ところどころに薄汚れた庭石やサルスベリの幹が芝生を破って突きでていた。寒椿の生け垣の根元には落ち葉が吹き溜まり、湿ってじくじくしている。

 庭を挟んだ向かいの尖塔を見ると、一カ所だけ鎧戸が破れており、鎧戸そのものは破れたままだが、その向こうの窓はベニヤ板で塞がれていた。

 大室はベッド脇へ行き、サイドテーブルのひきだしを開けた。

 イヤリングが二組と、端が少し焼け焦げた写真が一枚あった。古い家族写真である。

 中央が父親の瀬野創治郎で、その両脇に立つ二人の青年は長兄の創一郎と次兄の光治だろう。創治郎は真ん中の椅子に座る妻──花江の肩に手を置いている。その女性に寄り添う、無表情の少女が瀬野ユリだ。

「あいつめ、そんなものを後生大事にしていたとは」

 光治は部屋に入ってくるなりそう言った。彼は遅刻を謝り、写真を受けとった。

「額に入れておけばいいものを」

「ユリさんの、成人されてからの写真はありますか。あればお借りしたいのですが」

 名刺交換を済ませ、大室は光治に頼んでみた。

「最近のは私にはわからないが、家族のアルバムに女学生の頃のものがあると思います。ひょっとしたらそこに比較的最近のもあるかも──探してみましょう」

 光治が部屋を出て階段をおりていくと、大室と梶は再び部屋の捜索をはじめた。

 大室はクローゼットの戸を開いた。ドレスやコート、ワンピースの類が吊られている。床には種々のハイヒールが並べられ、棚にはハンドバッグや帽子などの小物、それらの化粧箱などが積みあげられている。どれもが薄暗がりの中で光沢を失っていた。

 梶はベッド脇の屑籠を漁っていた。大室が近寄って肩越しにのぞきこむと、梶は中身の一つ一つを大室に手渡していった。

 ちぎれてしわくちゃになった二ひらの紙片は縁が毛羽立っている。厚手の和紙のようで、その切り口の縁は部分的に黒く染まっていた。書き損じの便箋のようだった。

 染まっているといえば、丸めたティッシュペーパーが派手な赤色に染まっていた。つまみあげて広げると、それは口紅を拭いたものらしかった。女の唇の形を生々しく感じて大室は慌てて丸め、屑籠に戻した。

 くしゃくしゃに丸められた紙片はもう一つあった。

 スナップ写真だ。これもまたさっきの家族写真と同様に、角の一つが焼け焦げて欠けていた。手前に写る大人びた少女が、背後にいる幼さの残る少女に散髪してもらっている光景である。手前がユリで、これは女学生の頃だろうか。もう一人の方は小学校高学年くらいだ。どちらも若さゆえの屈託のかけらもない笑みを惜しげなくあふれさせている。

 大室は写真を手元に残し、梶から手渡された他のものを屑入れに戻した。

 幅一間、天井までの高さの書棚が二架あり、どちらにも種々雑多な本や雑誌が詰まっていた。特段、趣味に傾向があるようには見えない。

 梶は家政婦に声をかけた。

「ユリさんの書き置きはいまどちらに?」

「ただいまお持ちします」

 佳枝が部屋を出ていくと、梶は大室に机を調べるようにうながし、自分は書棚を調べはじめた。

 大室は机のひきだしを開けた。墨汁の香りが立ちのぼる。若干黴臭が混じっている。漆塗りの硯箱の蓋を開けると、やはり毛筆にうっすらと黴が生えていた。筆は乾きかけて見えるが、触れてみると湿っているのがわかる。

 硯箱を閉じ、その脇にあった手帳を取った。

 十月のページの十五日の欄に「父、逝く」とある。その後は葬儀の日程などが細々と記されている。ページを繰ると、十一月以降は法事の予定以外は空白だった。また、住所録には十数枚の名刺が挟みこまれていた。どの人物も大層な肩書きを持っている。政治家の名や官僚の肩書きに混じって、中には大室とは無縁といえるほどに遠い存在の、警察庁幹部の名刺もあった。それらを梶に見せてやると、彼はすぐに興味を示した。

 家政婦が戻ってくると、大室はユリが残したという書き置きを受けとった。見ると、ボールペンで書き殴ったようで、筆圧は濃い。ひきだしの中に同種のメモ帳が見つかった。表面を鉛筆で薄く塗りつぶしてみると文字が浮きでてくる。

『よしえさんへ 旅行に出かけます 帰りは七日 八日にいらしてください ユリ』

 書き置きの筆跡とぴたりと文字が重なる。筆跡も手帳に記された走り書きとよく似ている。

「向こうの、反対側の塔はどなたのお部屋ですか」

 捜索を切りあげ、階段をおりながら大室は訊ねた。二人を先導する佳枝は恥じいったように背を丸めた。

「旦那様の書斎ですが、いまは閉ざしております」

「鎧戸が──窓も割れているようですが」

「ええ、ですから修理の者が来るまで閉めきっているんです。隙間風が吹きこんで寒いもので」

 光治は応接間で待っていた。大室と梶もその向かいのソファに落ち着いた。洒落た青山の美術商の名刺と、ただの四角い紙切れ同然の大室らの名刺とを交換している間に、台所に立ちよった佳枝が盆に茶と茶菓をのせてきて、三人に湯飲みを配った。おもむろに光治が頭をさげた。

「申し訳ない、写真が見つからないんだ。あいつめ、一体あのアルバムをどこへやったのか」

「不躾なことをお訊ねしますが」

 ユリの手帳から顔をあげ、梶が唐突に口を開いた。

「この家を出てから長いんですか、つまりお父上に勘当を言い渡されてから」

「十五、六年ほどになりますか。でも兄の方が先なんですよ。まあ彼の場合、もともと親の七光りを嫌ってましたから、結果としてはああなってよかったんでしょう」

 光治は何でもないことのように飄然と答えた。

「ああなって、とは?」

「ああ、いや──なんだったのかなぁ。私自身、自分のことでそれどころじゃなかったもので」

 光治は急いで茶をすすり、言葉を継いだ。

「私の場合を申しますと、実は美術留学中に勝手に結婚しちゃいましてね。その──要は遊びが過ぎて女を孕ませてしまったわけで。親の金を散々使ってそんなですから、親父が怒り狂うのもしかたないわけでして」

「その後もお父上とは和解されていない」

 と梶は断定的に言った。光治は広い額を撫であげながら頷いた。

「妻子を連れて──子供が生まれるたびに来るのですが、そのたびに門前払いを食いましてね──孫の顔も見たくないっていうくらい、相当な堅物だったわけで。だから、家を飛びだしてから親父の葬儀まで、一歩もこの家の敷居をまたげていません。その点については兄も同じですよ。ま、もっとも兄は親父とよりを戻そうという気はさらさら無かったと思いますがね」

 その返答を聞いて一つ鼻を鳴らすと、梶は押し黙って再びユリの手帳をめくりはじめた。

「それほどまで仲違いされてた理由は何だったのでしょうか」

 梶にかわって大室が訊ねた。

「兄に聞いてください。私に関しては、兄のとばっちりみたいなものですから。兄がああなっていなかったら、私だってこうまで親父に突き放されてはいなかったかもしれないんだから」

 大室は戸口の脇に控えている佳枝を振り返った。

「家政婦さん──鈴森佳枝さんは、こちらに勤めて何年でしたっけ」

「十二年になります」

「いまのお話について、何かご存じのことはありますか」

「いいえ、私がここで働く前のことのようですから」

 細い声は口元を出てすぐに消えていった。大室は家政婦に光治の隣に座るよう勧めた。佳枝は一瞬戸惑いをみせたが、遠慮がちに浅く腰掛けた。梶は我関せずとユリの手帳に挟まれていた名刺の一枚一枚に目を落としている。

「では、まず家出人捜索願を提出された経緯についてお話しいただけますか」

 瀬野ユリがメモを残したのは十二月四日の夕方以降。翌五日の昼前、出勤した佳枝はテーブルの上にメモを発見する。

「このような書き置きは見慣れてます。ときどき事前の連絡もなくお出かけになることがありますから──ですので、この書き置きも、ご本人のものに間違いありません」

 そう断定した佳枝だが、その面持ちは心ここにあらずといった様子だった。

 書き置きには、ユリは七日まで旅行に出かけている、佳枝は八日に出勤するようにという旨が綴られていた。そのことを家政婦紹介所の上司に報告し、佳枝はその指示に従って八日の定刻通りに出勤した。しかし、屋敷にユリの姿はなかった。帰った気配もない。旅行の日程が連絡もなく延びることは過去にも幾度もあったため、特段訝ることもなかったと彼女は答えた。ただ、翌九日、翌々日の十日にもユリは帰ってこなかった。佳枝は逐一上司に報告していた。その後、上司からユリの緊急連絡先に指定されている実田誠という男に連絡がいく。

「実田さんという方は──弁護士さん?」

 梶が口を挟むと、光治は屈託なく答えた。

「ええ、戦前からずっと私たちと懇意にしている人です。親戚のおじさんも同然です。復員後に猛勉強されて弁護士になられて、ずっと親父の仕事を手伝ってきた方ですよ」

 その実田を経て、光治らにも連絡がいく。

 警察に届け出るべきとはじめに訴えたのは佳枝だった。そこまですることはない、肩の荷が下りて羽根をのばしているだけだ、というのが長兄次兄の考えだった。

 ただ、佳枝の不安を汲んで、実田は独自にユリの足取りを調べはじめた。

 実田の調査結果は捜索願の届出の際に録取した調書で大室も読んでいる。とくに目を引く内容はなかったと記憶している。

 ユリは父親が逝去した日から銀座の高級クラブでの勤めを休んでいる。店の同僚たちは、ユリとは十近く歳が離れているせいもあってか、プライベートでの交流は皆無だと口をそろえ、当然彼女の行き先も聞かされていなかった。ユリの交友関係、異性関係の内情を知っている者は過去の同僚にもいなかった。十年来の付き合いがあるクラブのオーナーママも首をかしげるばかりだったという。

 次いで実田は近隣住民に聞きこみをした。

 十三年前の当主創治郎の凋落と家族離散以来、瀬野家は近所付き合いをほとんど絶っていた。そのため、ユリの行動など近所の主婦連中には知る由もなかった。

 ユリは書き置きを残して消えた。旅行先は誰も知らない。ユリ本人からはもちろん、誰からも彼女の行方を知らせる連絡がないまま、当初の帰宅予定日から一週間が経った十二月十四日、ついに実田は警察に届け出るよう瀬野家の長兄、創一郎に進言した。

 家政婦が茶を入れかえると言って席を立ったとき、梶が唐突に光治に訊いた。

「遺産はどうなってるんです」

 光治の目が泳いだ。梶はつづけた。

「遺産相続ですよ。創治郎氏がお亡くなりになってから、ひと月と少し──遺言書は残されてたでしょう? 家、土地、証券、美術品、骨董品、その他――金がないといっても、こうして見まわすだけでもモノはたくさんあるでしょう。専門家の目から見て、金額的価値はいかほどで?」

「微々たるものですよ」

 光治は素っ気なく言った。

「ここらのお屋敷は『微々たるもの』とは言えませんよ。相続されるのはどなたです」

 梶が光治を見据えて言った。まさに蛇に睨まれた蛙だ。光治はしどろもどろになっている。

「十三年前、この家は凋落の一途を辿ったんです。当時は、巨額詐欺事件だといって新聞を賑わせもしました。あのとき、ほとんど根こそぎ親父は金を騙し取られたんです」

「そのことはもちろん存じ上げてますが、果たして『根こそぎ』だったでしょうか。創治郎氏はこの家を遺された。それは確かだ。で、このお屋敷は一体誰が──」

「妹のユリ一人ですよ」

 光治はつっけんどんに言った。

「兄と私は親父に憎まれていたんだから。十三年前の瀬野家存亡の危機にも、我々は一銭の援助もしなかった──まあ、親父がさせてくれなかっただけなんですがね。で、あれ以降、一切合切の負担はすべて妹一人が負っていたわけです。親父があれに相続させようとするのは当然のことでしょう」

「そのことの持つ意味は大きいです。とくに相続人が失踪したとなれば」

 梶が目を細めると、光治は目を剥いた。

「何をおっしゃっる──遺産目当ての誘拐だとでも言うんですか。ばかばかしい。それに私は親父の遺産など欲しくもない。ああ、そう言っても妙な疑いを抱かれるだけでしょうから、言い換えますが──私は特段の興味を抱いていません。結局は同じことですかね。私はいまのままでそこそこ上手くやっています。親父の遺志をねじまげてまで端金が欲しいとは思いません。そう言いたいだけです」

 ふと大室の視界の端に、梶の不相応な反応が映ったような気がした。その双眸の下の口が再度開いた。

「遺言書はいま、どなたがお持ちで?」

「実田さんです。彼は弁護士ですし、遺言執行人などという役目を負っているそうですから。そういったことは彼に聞いた方がいい。隠す理由などありません。詳しく教えてくれるでしょう」

「そうしましょう」

 梶の細い目から不意に鋭さが抜けた。

 佳枝が茶を持ってくるまでの間、梶は創治郎が遺した美術品の類の値打ちについて再び訊いていた。それに対して光治は、どれにも食指が動きませんよ、と笑った。

「私の鑑定眼を疑うのは構わないが、そんなのは関係ないんですよ。十三年前に金目のものはみんな売り払ってしまったそうですから。ここにあるものは、そのときに売れずに残ったがらくたばかりですよ」

 と光治は言った。佳枝が紅茶を煎れて運んできたティーカップもソーサーも無名のものらしく、光治はカップをつまみ、高台裏をのぞきこんでつまらなそうにふんと鼻を吹いた。

「ああ、そうだ、家政婦さん。この家のアルバムをどっかで見なかったかい。確か革表紙でぶ厚いのがあったはずなんだ」

「革表紙――黒革の、これくらいの大きさのですか。金の飾り文字の入った──」

 佳枝は自分の狭い肩幅ほどの間隔で両手を開いた。相当大きく、そして厚みがある。光治はうんうんと頷いた。佳枝の表情が曇った。

「それでしたら、もうないと思います──いえ、もうありません。燃やしたんです」

「なんだって――」

 光治は絶句した。

「お庭で。こちらに勤めるようになってすぐでした。ユリさんに申しつけられまして──写真もアルバムも、ネガも──」

 光治の表情が見る間に歪んでいくのを目の当たりにして佳枝は次第に青ざめていき、ついに言葉をつまらせた。

「なんだってそんなことを、なぜやめさせなかったんだ?」

 光治が黙り込んだ家政婦を問いつめた。佳枝はびくりと体を震わせ、咄嗟に大室に助けを請うような目を向けた。

「どうしてそんなことをしたんです、ユリさんは」

 大室は穏やかに訊いた。佳枝はおろおろとかぶりを振った。

「言われるがままでしたから。確かに止めるべきだったと思います――ああ」

 取り乱す寸前の佳枝の肩に大室がそっと手を置くとやがて震えはおさまった。大室が光治をとがめるような目を向けると、彼はばつが悪そうに苦い顔をした。

「いいです、もう──怒鳴ってすみません」

 大室は佳枝を手近の椅子に導き、座らせた。

「そのときのユリさんのご様子を憶えておいでですか」

 大室が訊ねると、佳枝は額に手を当て、やはり首を振った。

「思い出せません。本当に、私はこちらに来てすぐでして、仕事に慣れるのに精一杯だったんです。ユリさんがそうしろというのですから、当然処分してよいものだと──」

「火を消したのはユリさんご自身ですか」

「え──ええ、そういえば。じょうろで、ご自分で──」

「あれにはね、私らの実の母の写真があったんですよ。まあ、だから私もちょっとカッとなってしまってね──惜しいことをしたよ、本当に」

「他に重要な書類が入っていたというわけでは?」

 梶が光治に訊ねた。光治は即座に否定した。

「へそくりなんてありませんよ。刑事さんにユリの写真を探すよう頼まれて何十年ぶりかにアルバムのことを思い出したくらいですからね。この年になって母が母がと、女々しい奴とお笑いになられるでしょうがね。だけどね、写真ってのはその紙っぺらの上でもね、こんな役立たずの脳味噌の記憶なんかよりもずっと役立つんです。我々が生きた証が、鮮明にそこにあるんだ」

 庭に熾した火に写真やアルバム、ネガをくべていくとき、ユリも光治と同じ思いを抱いただろうか。ネガは融け、アルバムの革は炎をあげて燃え、写真や台紙は灰を舞いあがらせた。そして、ユリは水をかけて火を消した。すべてが燃え尽きる前に。ほとんどが焼けた。しかし焼け残った写真もあった。十二年後の今日、二枚の写真だけがユリの部屋に残されていた。額にも入れられず、ひきだしにしまいこまれた家族写真と、紙屑として捨てられたスナップ写真だ。焼け残ったのではなく、炎の中からそれらだけを──その二枚だけを拾いあげたのかもしれない。

「まだどこかに残ってるかもしれんな──」

 光治は独り言のようにつぶやくと部屋を出ていった。佳枝も湯飲みを片付け、台所へとさがっていった。梶がすぐさま目配せし、大室は頷いた。梶は光治につづいて二階へ行き、大室は佳枝を追った。


 佳枝は台所奥の使用人部屋にいた。ひと抱えほどの段ボールにガムテープで封をしていた。私物の整理らしい。住みこみでなく通いの家政婦のためか、少量の音でラジオがかかっている他は、生活感は一切ない。

「少し伺ってもよろしいですか」

 大室は部屋をのぞきこんで訊ねた。慌てて出迎えようとするのを大室が手で制すると、佳枝は座布団を差しだし、居住まいを正した。と、いま初めてラジオの音に気づいたかのように慌てて音源を切った。大室は座布団を引き寄せて上がり框に腰をおろした。

「ご心配でしょうね、ユリさんのこと」

「ええ、まあ」

 佳枝はひかえめに頷いた。

「お子さんはいらっしゃいますか」

「娘と息子がおります」

「成人してらっしゃる?」

「とっくにです。娘は嫁いでますし、息子も来春には結婚を控えております」

「そりゃ偉い。孝行者ですね」

 佳枝は首を振った。

「薄情なもので、だんだんと家に寄りつかなくなってしまって──」

 大室は胸がちくりと痛んだ。

「となると、ユリさんこそ実の娘みたいに思えてきたりしませんか」

 佳枝は唇を引き結んだ。大室はつづけた。

「ユリさんも、あなたを特別な目で見ることだってあったんじゃないでしょうか」

「特別というと」

 佳枝は問い返した。

「母親ですよ。ユリさんのお母様がこの家を出ていってから長いそうですから、佳枝さんが母親がわりということに──」

「ユリさんは雇い主、私は雇われた使用人です。いつだって、その線引きははっきりしておりました」

 きつく見上げた視線がふっと横に流れると、いまお茶を煎れます、と佳枝は立ちあがろうとした。それを大室は押しとどめた。

「ユリさんと創治郎氏の関係は、あなたからはどう見えましたか」

「どうって――いたって普通です」

「普通というのもそれぞれです。私の場合、母とはいがみあうことが普通でしたがね――そうですね、たとえば食事のときはお二人はご一緒でしたか」

「いいえ。ユリさんはご多忙でしたし、旦那様は書斎に籠もりきりで――」

「創治郎氏はユリさんのお勤めのことで、何か言っておられましたか。つまり、銀座でのお勤めのことで」

「ほとんどお話しする機会はなかったんですが、特段、旦那様の口から何かを聞いたことはありません」

「あなたはどう思ってましたか」

「口出しできることじゃありませんから」

「実の娘さんが水商売をしていたら」

 佳枝は強い眼差しで大室を見返した。

「生き方は人それぞれだと思います。少なくともユリさんは、ちっとも恥じておりませんでした。あの方がこの家をたった一人でささえつづけてきたんです。ユリさんはこの家の名に恥じることは一切なさってはおりません」

 佳枝は付けくわえた。

「以前、ご自身がそう申しておりました。だから軽蔑しないでとおっしゃられて──」

 佳枝はそう言うと顔を両手で覆った。少しすると落ち着いたようで彼女は顔をあげ、大きく一つ息をついた。大室は話題を変えた。

「旅行に出かける前日、ユリさんの様子で何か気づかれたことはありましたか」

「ご機嫌はようございました。ただ──」

「ただ?」

 大室は身をのりだして訊いた。

「いえ――旅行はいつもとても楽しみにしてらして、帰ってくると名残惜しそうにしてましたので、おそらく今度は、本当に羽根をのばしてただ帰宅を遅らせているだけなのでしょう」

 佳枝はつと立ちあがって台所に出て、茶の支度をはじめた。今度は大室は止めなかった。そのかわり、佳枝の背に声をかけた。

「ここをお辞めになるんですか。ただの旅行ならばもうすぐ帰ってくるでしょう?」

「ただ、整理しているだけですから──」

 言葉とは裏腹に、佳枝は悔しそうに唇を噛んだ。何か、思いの吐露を堪えているようだった。

「きっと帰ってきますよ」

 そう言ってしまってから、大室はペンで頭を掻き、つまらないことを言ったと反省した。まるでユリが帰ってこないことを前提にした言葉のようにもとれる。ただ事実、大室は瀬野ユリが帰ってこないような気がしていた。彼女も同じ予感を抱いているのだろうか。その予感の源はやはり、ユリがほとんど唯一の肉親である父親を亡くしたことにあるのだろうか。

「お気づきの点がありましたらご連絡ください」

 そう言うと大室は名刺を差しだした。佳枝はありがたそうに名刺を受けとって胸に抱き、よろしくお願いしますと深々と頭をさげた。


 格子扉の嵌めガラスが震えている。

 廊下で瀬野創一郎が怒声をあげるたびに扉のガラスが共振しているのだ。しどろもどろながら言葉を返しているのは弟の光治である。向かいのソファに腰を落ち着けている実田誠も兄弟喧嘩に困惑顔を浮かべていた。

 もう一方の扉が開き、佳枝が盆を掲げてするりと入ってきた。廊下を避けてきたようだが、どこかおびえている。

 要するに、焼失した写真の件である。

 創一郎もまた光治と同じ理由で佳枝に怒りをぶつけたが、先ほどとちがうのは光治が佳枝を擁護する側にいることである。ただ、どうにも分が悪いようだった。 

「気にすることはありませんよ。あなたが悪いわけじゃない」

 実田は茶菓をのせた皿を受けとりながら、家政婦を慰めた。佳枝は幾分か顔の血の気を取り戻し、部屋を辞した。

「ユリ君の性格を知ればこそ、彼女の行動の理由もわかると思うが――残念ながら、あちらの二人はこの家から遠ざかって久しい。自分たちの妹だというのに、彼女のことを何もわかってあげていないんだから」

「今回の場合はどうですか。ユリさんの行動に不審な点を感じているのは家政婦の佳枝さんだけのようです。それに比べ、ご兄弟は楽観してらっしゃるようですが、あなたはどちらの立場ですか」

 大室の問いに実田は困惑顔を見せた。

「どちらだからどうという問題ではないでしょう──強いて言うならば、どちらの立場でもありません。ユリ君は旅行に出かけた。だが当初の予定通りには帰ってこない。私としてはこの事実を受けとめる。それだけです。日程を延長しただけだ、あるいはお父上が亡くなられたばかりだから心配だ──どちらの言い分も憶測の域を出ません」

「かなり調査をされたそうですね」

 梶がカップを引き寄せながら言った。

「素人じみた結果とはなりましたが──結局のところ、彼女がどこへ旅行したかもわからなかった。個人の力では限界があるものですね。だからやはり警察にお任せすべきと捜索願を届け出たわけです」

 そう言いながら実田は恐縮しきりに額を掻いた。

「あ、申し遅れました──」

 実田は大室と梶それぞれに簡素な名刺を渡した。「実田法律事務所 所長 実田誠」とある。梶がその名刺に目を落としながら言った。

「故人の専属弁護士だったそうで」

「ええ、かつては。ただ、いまはもう独立しておりまして――もう十二、三年になりますか。ただ、その後も瀬野家の皆様方とは懇意にさせてもらっています。創一郎君の会社とは歴とした契約上の関係がありますし、故人とはもちろん、光治君、ユリ君にも色々とアドバイスを差しあげて参りました」

「こちらの方々とはお付き合いが長いようですね」

「故人は父親も同然、十代の頃――戦前から世話になってます。それに、創一郎君や光治君、ユリ君らは、言ってみれば弟妹といえましょう。彼らも私のことを家族のように思ってくれているはずです」

 唐突に廊下側の扉が開け放たれ、小柄な男が部屋に入ってきた。

 創一郎は父親に似て痩身で、年の頃は四十過ぎ──光治が頬に艶を残しているのに比して、瀬野家の長兄は干物のように萎れている。険悪な面相をしているのは光治との口喧嘩が尾を引いているせいもあるだろう。創一郎は実田と視線を交わすとやっと力を抜いた。

「参ったよ、おじさん」

「かっかしてもはじまらんよ。写真など無い時代だってあっただろう」

「写真がどうのと言うわけじゃないんだ。そんなことは別にいいんです。ただ、ユリの奴に無性に腹が立ってね。事の発端はあいつだっていうのに。あいつが最初に──」

 創一郎は口をつぐんだ。梶と大室の注視を受けていることにいまさらながら気づいたようだ。梶が興味を示した。

「事の発端というのは?」

「なんでもないことですよ」

 創一郎は手を振ってはぐらかすと、実田の隣のソファに腰を深く沈めた。

「警察なんか必要ないって私は言ったんですがね」

「念のためだよ、創一郎君――光治君はどうした?」

「帰らせましたよ。どうせあれこれいらぬことを、べらべらと喋るだけなんだから。それに、あいつの話はもう聞いたでしょう?」

 大室と梶は名刺を渡して自己紹介した。創一郎は二枚の名刺を一瞥すると、興味なさそうにポケットにしまいこみ、自分の名刺を取りだす素振りすら見せない。

「協力できることなんてたいしてありませんよ」

「それでは故創治郎氏の遺言についてお訊ねします」

 梶が唐突に切りだしたが、創一郎も即座に切り返した。

「そんなことは実田さんに聞いてください。私は忙しい身なんだ。私にしか答えられない質問ってのはないんですか、刑事さん?」

 梶が目配せした。大室は創一郎に向きなおった。

「創一郎さんは妹さんのことを快く思われていないようですが、よろしければその理由をお聞かせ願えませんか」

「よろしくありませんな。プライベートのことは話したくない。他には?」

 内心憮然としながら大室は質問をあらためた。

「この家を出られたのはいつ頃ですか。どういう理由で、ですか」

「憶えてない。学生の頃だったかな。その後かな。留年したし、結局中退したし──理由? よくわからない。憶えてないよ、あの頃のことは」

「創治郎氏が詐欺事件に遭われる前ですか、後ですか」

「前ですね」

「実田さんはご存じですか、創一郎さんがこの家を出られた理由を」

「もういいッ」

 創一郎は憤然と立ちあがった。

「私のことがユリのこととなんの関係があるっていうんだ。ばかばかしい。身勝手なわがまま女に、そうそう俺の人生を振りまわされてたまるか。おじさん、僕は戻りますから。駅まで車をお借りしますよ」

 創一郎は実田の返事を待たずに部屋を出ていった。入れかわりに現れた佳枝に実田は、

「彼のぶんはいいよ。もう帰りましたから」

 と言った。佳枝は安堵したようだった。

「見かけに似合わず、猪突猛進型の子でしてね」

「ユリさんと何があったんですか。『俺の人生を振りまわされて』とおっしゃっていましたが」

 実田は困ったように大室にほほえみかけた。

「彼の名誉のためにも、私から話すべきではないでしょうな。それに、ユリ君のことと無関係なのは明らかですから」

「構いませんよ。でも、遺言のことはお聞かせ願えますかね。遺言書を管理してらっしゃるとか」

 と、梶が間に割って入った。

「ええ、話すより、実際にお見せした方が話が早いでしょう。あ──すみませんが佳枝さん、席をはずしてもらえますか──申し訳ない」

 愛想のいい笑みを浮かべて佳枝を部屋から追いだすと、実田は手元の鞄を引き寄せながら言い添えた。

「こういうことはあまり部外者の目に触れない方がいいのでね」

 梶は白い厚手の封筒を受けとり、中を検めた。厚手の和紙が三つ折りになって収まっている。墨の香が匂い立つ瀬野創治郎の遺言書は、たった一枚の和紙に書きしたためられていた。


『遺言 

 第一条、弁護士実田誠を遺言執行人に任ず。

 第二条、遺言人の保有財産をすべて現金化し、それを相続遺産とする。

  一、家屋、土地の売却等、その諸々の手続きに関してはすでに矢野法律事務所の矢野博正氏に一任してある。早急に連絡されたし。

  二、物品売却の際、古物商等鑑定業者への依頼に関しては執行人に一任する。ただし当家との縁のない業者を選ぶべし。

  三、右項にかかる手数料、鑑定料、他礼金等は相続遺産から支払われるものとする。

 第三条、遺産はすべて当家長女ユリが相続するものとする。ただし、右条を満たさずに相続することはできない。

 第四条、何らかの理由で相続を放棄する場合は、遺産はすべて慈善事業に寄付するものとする。寄付先の選定は執行人に一任する。

 昭和四十七年 五月十日 瀬野創治郎』

 

 遺言書の存在は通夜の席で明らかになった。生前、創治郎は知人宛に手紙を書き送っていた。その手紙の内容によれば、遺言を収めた封書が書斎にある本棚のどれそれの本に挟んである、自分の死後、通夜のときに実田という男に伝えてくれというのである。その手紙を見せられ、実田はその創治郎の友人という男と、創一郎と光治、それにユリを伴って書斎に向かった。封書は確かにあった。

 実田は遺族の代理人として、封書を持って家庭裁判所で検認の手続きをした。それからほぼひと月後の十一月二十三日、遺言書はあらためて創治郎の子ら三人の前で開封された。

「ユリさんは金を受けとりますが、家は失ってしまうわけですね」

 大室は複雑な思いだった。実田もしんみりとして言った。

「手にする金額としては相当なものになるでしょうが、住み慣れた家を失うというのはね──刑事さんは東京の生まれですか? でしたら──ご経験があるかもしれませんね」

「ええ、まだほんの子どもでしたけど、それでも記憶に残ってるほどです。こんな立派なお屋敷ではありませんが」

 大室は梶の方を見たが、梶は話にのろうとせず腕を組んでじっと実田をうかがっている。実田はその視線に構わずつづけた。

「生まれ育った家というのは、良くも悪くも、金には換えられない思いが塗りこめられているものです」

「見方を変えれば、創治郎氏がユリさんから住まいを取りあげた、ということになりませんか」

「故人の胸の内までは聞けません。ただ、そのかわり多額の現金がユリ君一人の手に渡るのです。その金があれば彼女は新たに居を構えることだってできるでしょう。それこそが故人の遺志なのかもしれません。それに、彼女一人に遺産を残したというのは、娘への愛情以外の何物でもないと思うんですがね。ちがいますか」

 そう言って実田はほほえんだが、すぐに肩をすくめた。

「ユリ君としては、そういう形では求めていませんでしたが」

「ユリさんは乗り気ではなかったと。その遺言内容に失望されていたんですね」

「彼女はこの家をいたく気に入っていますからね。ですが、その遺言の通り、故人が逝去した時点で売買契約が成立するようになっておりまして、そこに記されている矢野弁護士に問い合わせたところ、やはり、すでにこの家と土地は売却されておりました。買い手が決まっていたんですね。本来ならすぐにでも退去しなくてはならないのですが――理由を話して、退去を待ってもらっています」

「一体いくらになるんです、このお屋敷は」

 大室が訊くと、実田は人差し指を立てた。大室は思わず唾を飲んだ。梶も横で身動ぎしていた。

「買い戻しはできないんですか?」

「売却額そのままで、というわけにはいかないようでして。ユリ君のために買い戻すことも模索してみたのですが、ここらの地代はこれからどんどん上がっていくらしく、それを見越して相当な額をふっかけられてしまいまして──」

「ユリさんは貯金されてましたか。現金化された遺産と合わせて、不足分を当てることはできないのですか」

「たぶん無理なんでしょう。買い戻しの案を持ちだしたとき、彼女はなりふり構わず創一郎君に金の無心をしたくらいですから」

「創一郎さんは断ったんですか」

「いくら妹のためとはいえ、不足ぶんの数千万もの額はそう簡単に出せるものじゃありませんからね。それに、彼はまるっきりこの家に思い入れはなかった。忌み嫌っていたといってもいい──何があったかはお答えできませんが」

「では、ユリさんはショックを受けられたでしょうね」

「それなりに、ですね。なにはともあれ彼女には一億の金を手にするんです。だから創一郎君も光治君も、はじめから彼女の今回の旅行は傷心旅行だと言っておるのです。気分が良くなれば、ひょっこり帰ってくるでしょう。佳枝さんの心配も理解できますが、ま、杞憂でしょうな。ユリ君は強い子ですから、いくら父親の死が──あるいは家を失ったことがショックだったとはいえ、彼女は自殺などしません」

 実田はにこやかに笑った。


     四


 便所の小窓から男の寝惚けた返事が聞こえてき、便器を洗う滝の音が後から追いついてきた。

「朝の小便くらいのんびりさせてくれや」

 そうは言うが時刻はすでに午後四時をまわっている。細くドアが開くと、中の男は大室の警察手帳に目を瞠った。

「花江さんはおられますか、少しお伺いしたいことが」

「あのバカ、またなにかやったのか」

 男はいきなり罵りだした。

 この男、間山郁夫は齢四十三。悪女好みが災いして自らの人生を黒く汚した。

 瀬野創治郎が詐欺事件の被害に遭い、窮地に立たされている最中、彼の後妻は銀座の宝石店で、資産家の放蕩息子と偶然を装った出会いを演じていた。花江は貧乏生活に戻ることをひどく恐れていた。間山はそんな彼女を憐れんで救いの手を差しのべたのである。これ幸いとその手にがっちりと食らいついた花江は四十半ば、間山は三十をやっと過ぎた頃だった。

 しかし、二人の逃避行が誰に祝福されるはずもなく、頼みの綱、間山の親からの送金はまもなく断たれることになる。二人がダイヤモンドと称したガラス玉を売りはじめたのはそれからだった。

 およそ本物の宝石など知らない田舎者相手ならまだ騙すことができた。しかし、地方で小金を稼ぐのに飽きた二人は、東京へ戻ってきてからも同じ手口で犯行を繰り返した。その結果、あっけなく詐欺行為が発覚した。過去の犯行も芋づる式に暴きだされると、その被害額ゆえ情状酌量の余地なく間山は執行猶予無しの懲役刑、花江も禁固刑を科せられた。現在の葛飾区堀切の安アパートは二人が出所して以来の住処だった。

 誤解が解けると、間山は花江を呼びに奥へ引っこんだ。

 花江はスリップの上に浅葱色のワンピースを羽織りながら出てくるとおもむろに煙草に火をつけた。間山の耳打ちに彼女は目を細めた。髪を三度かきあげ、二度煙を吐き、一度灰を落とした。

「何やったの、あの子? 言っとくけど、あの子とはなんの関わりもありませんから。もうずっと顔も見てないもの」

 大室はユリの捜索願が届け出られるまでの経緯を説明した。花江はぷっと吹きだした。

「別にいいじゃない、もう子どもじゃないんだし」

「元のご亭主が亡くなられたのは当然ご存じでしょうね」

 梶がぶっきらぼうに口を挟んだ。

「そりゃね、弁護士が電話してきたわよ。通夜には来なくていいってね。それで?」

「遺言のことも?」

「別れたんだもの、はなっから当てにしてないわよ。残念ながら、弁護士は何にも言わなかったしね。何かあの子と関係あるの?」

「まだなんともいえませんがね」

「そう」

 花江は長く煙を吐いた。

「で、相続はどうなったのさ? まさかあのチビデブの兄弟が相続するってことはないでしょうけどね。となると、やっぱりあの女かしら」

 大室は思わず梶と顔を見あわせた。大室は花江に訊いた。

「あの女って、どなたのことです?」

「え──ああ、ユリがそうなの。へえ、あの子うまくやったわねぇ──ううん、あの偏屈な人のことだから、ユリにもくれてやらないってこともあるかと思ってさ。ほら、あの子って、あの人の子どもじゃないからさ」


 間山に買い物を頼んだ花江は彼が部屋を出るときに、悪いわねとひとこと添えた。

 そわつく男がいなくなって静かになった三畳の台所で、花江は最後の一本に火をつけた。

 新潟の芸妓だった花江はユリを産み落とすと、すぐに創治郎に連絡し、金を毎月送らせていた。長岡空襲で母子は金蔓と音信不通となったが、終戦まもなく母子は創治郎に捜しだされ、東京の新たな生活に後妻とその連れ子として迎えられた。

 梶は花江に冷たい目を向けた。

「創治郎氏はユリさんが実子でないことをご存じだったんですか」

「どうかしら。知ってたんじゃないの」

「はじめから騙していたんですね」

 大室は責めるような口調で訊いた。すると花江は黄ばんだ舌を出して肩をすくめた。

「だってあの人、ちっとも疑わないんだもの。ま、それならそれでもいいかなと思ってさ。言わぬが華、知らぬが仏でしょ? みんな幸せならいいじゃない。それに、あの人だって──あら、故人を悪く言っちゃいけないわね」

「それはつまり、創治郎氏も遊びが過ぎていたということですか」

 梶が無遠慮に訊くと、そうそうと花江は気安く頷いた。

「あちこちに囲ってたんじゃないかしらね。戦争特需でお金はあったし、生真面目そうに見えて実は女たらしでね──って言ってもつまり、いい人ってこと。ま、そこにあたしも惚れてたわけだし。二号さんでもいいかなってはじめは思ったりもしたしね」

「本当にユリさんは創治郎氏の実のお子さんではないんですね」

 大室が再確認すると、花江は手をのばしてきて冗談っぽく大室の肩をはたいた。

「いやね、こんなおばあちゃんにそんなことばっかり。男と女、いつなんどき何が起こるかわからないもんなのよ。あたしだって昔はモテてたんだから。あの人だってあっちこっち手をつけてまわってた。だから、お互い様。そう、さっき言おうとしてた『あの女』って、うちにいた家政婦のことなんだけど──あの人といい仲だったみたいよ」

「その女性って、鈴森佳枝という方ですか」

「そんな人知らないわ。東京に来てからの使用人のことよ。住みこみで雇ってたの。若い女よ。そのおちびちゃんも一緒に――女の方が智子、おちびの方がちとせっての」

 花江は急に不機嫌になって煙を吐いた。

「その女性と創治郎氏が愛人関係だったという確証はあるんですか」

「ないわ。でも見てればわかるわ、誰だってね」

 花江は即答した。

「智子ね――あたしがあの人と一緒になって、すぐ後に使用人に雇った女。あたしよりも昔からの知り合いみたいで、あの女も子どもを連れてたわ。要するにあたしと同じ境遇だったってことね。あたしの方が一歩先んじたからよかったものの、どこかでボタンを掛けちがってたら、あたしがあの女にこきつかわれてたかもしれないのよ。ぞっとするわ」

 そう言って花江はわざとらしく身震いした。そしてふとしんみりとして、「でもね」と言いながら灰皿に煙草の灰を落とした。

「あの人らしいと思うのよ。あのひっどい戦争が終わって、昔好いてた女たちはどうしてるんだろうかって考えるところが。あたしはそれで救い出されたようなものなの。あの女だってきっとそうにちがいないわ。ちっちゃい子を連れて、不幸を一身に背負ったような顔して──」

 急に花江の眼差しが険のあるものに変わった。

「そんな顔が同情を引いたんでしょうね。たかが使用人だってのに、あの人も創ちゃんも光っちゃんも、みんなしてあの女とおちびをちやほやするんだもの」

「立場ないですな」

 梶が言った。

「別に」

 花江がふんと煙を吐き散らす。大室が訊いた。

「その後、智子さんという方はどうなりました」

「知らないわ。あたしの後釜なんでしょ。だからさっき、遺産はその女が掻っ攫っていくもんだと思ったの」

 花江は煙草を急に忙しなく吸いだした。震える花江の指から煙草の灰が散った。

「あの女があたしの人生をぶち壊したの。でなきゃ、こんな暮らしなんか──」

 

 新しい煙草の封を破りながら、花江は奧へ引っ込む内縁の夫の背をじっと見送った。

「かなしいくらい腐れ縁なのよね。ほんとはあたし、好きでこんな暮らししてるんじゃないんだから」

「以前の暮らしよりは真っ当だとは思いますがね」

 皮肉る梶を花江が睨んだ。梶は遠慮なく煙草を一本もらい、薄ら笑いを浮かべながら煙を吐いた。

「使用人は使用人でなきゃ、絶対に。なのにあの人は明らかにその域をはみ出してたわ。智子にちょっといじわるしただけなのに、あの人はあたしを叱るのよ。あたしだって女なんだし――あの人の妻なのよ? むしゃくしゃするじゃない? だから余計にいじわるもするし、あたし自身、あんな男にふらっといっちゃうのよ」

 煙と一緒にそう吐き捨てると、花江は奥の部屋に籠もっている間山を煙草の先端で指した。

「でも──そんなことして突っぱったって、あの人はあたしをほったらかしっぱなし。その一方でますます智子のやつを大事にしはじめたの。公然とよ」

「二人の逢い引き現場を目撃したわけじゃないんでしょう?」

 梶は冷ややかに言った。

「そうね。でも、思わせぶるのだってじゅうぶん罪じゃないかしら。あたしはそう思うわ。一応あたしが正妻なんだから、大事にされるのはあの親子でなく、あたしやユリであるべきなんだから」

 大室はふと思い出してポケットから写真を取りだした。ユリの部屋の屑籠から拾いあげた、散髪風景をおさめたスナップ写真である。大室は鋏を持っている方の少女を指さした。

「この女の子が智子さんの娘さんですか」

「あら、この写真──そう、この子よ。あたし、この場にいたわ」

 花江は写真にじっと目を落とした。

 指の間の煙草の灰は重力のままに落ちるのを待っている。大室はテーブルの真ん中にあった灰皿を花江の方に押しやった。花江はしとやかに会釈を返し、優雅に灰を落とした。


「ユリが帰ってきたら、あたしが会いたがってるって伝えてくれる?」

 狭い玄関で靴を履く梶と大室の背に、花江は遠慮がちに言った。

「許してくれてないかしらね、まだ──あたし、あの子を捨てたんだものね」

「伝えておきますよ」

 大室は請け合った。

「それともあたし、あの子の育て方を間違えたのかしら。あの子だけはどんなときもあたしの味方だと思ってたんだけどね。十年以上も音沙汰なしはやっぱり薄情よ、いくらなんでも。寂しいじゃないの」

「許す許さないも限度があるだろうよ」

 ぞんざいな口調で梶はそう言うと、花江を冷ややかな目つきで見据えた。瞬時に花江の目が濁った。

「さっきから──あんたに何がわかるのさ、さっきからなんだかんだケチつけてきやがって」

 梶につかみかかった花江を大室はすんでのところで押しとどめた。それでも花江の勢いはとまらず突きだした手が梶のネクタイをつかんだ。だが、その手は瞬く間に梶に捻りあげられた。痛い痛いとわめき声が部屋中に轟き、奥から間山が血相を変えて飛びだしてきた。梶の手から解放されても花江はまだ憎々しげに梶を睨みあげている。

「どうせあんたみたいのは、あの戦争ん中でもゴキブリみたいにのうのうと生きてたんだろう。あたしとあの子はね、誰の力も頼らずにたった二人──女二人で生きぬいてきたんだよ。狂った戦争のど真ん中で、赤ん坊同然の娘ッ子とあたし、女二人の暮らしがどれだけのものだったかわかるかいッ。赤ん坊抱えた二号さんなんて、白い目で見られるわ、住まいも追いだされるわ──芸者だった頃のプライドなんか捨てなきゃなんないさ。そんなもので飯が食えるわけでもないからだよ。そんだから、あたしなんか──あたしなんか、男どもに股おっぴろげる毎日だったのさ。そんな便器の底みたいなところだったんだよッ」

 そうまくし立てた花江だが、こみあげた嗚咽を堪える間に威勢は急速に萎んでいった。

「だから、あの子はあたしあっての命なのさ。育て方がどうだろうと、あたしがあの子を育てたんだから──」

「見苦しいからやめろ」

 梶は低い声で凄み、花江の鼻先に人差し指を突きつけた。

「綺麗事を言うんじゃねえよ。てめえのそのクソミソどろどろの生き様はな、てめえ自身で塗りたくってんだってことわかってんだろうな。てめえみてえな女はな、虫けらのようにひっそりと死んでいけばいいんだ──おい、たかが詐欺ごときなんて言うなよな。あんたらのせいで人生を狂わされた者が大勢いるってことを忘れるなよ」

 花江の目は涙があふれる寸前だった。梶は呆然と突っ立っている間山にも指を突きつけた。大室ははっとして慌てて梶をなだめにかかった。花江はついに床に頽れた。

「なんであの子だけがッ、あたしだってねぇッ──なんであの子だけがッ──」

「それが本音だろうよ」

 梶はそう言い捨てて玄関を出ていった。大室は後を追った。しゃがれた花江の嗚咽がその背に浴びせかけられた。

「なんてことを言うんですかッ」

 大室は梶に追いつくとその肩をつかんだ。梶は振り向きざまに大室の巨体を突きとばした。

「何がだよ」

「あんまりだろう、あれは。やり過ぎだ」

「お前もあいつらのしでかしたことをたかが詐欺だと考える口か? え、そうなのか? だったら警察辞めろ。お前には向かねえ。辞めてから俺に文句を言うんだな」

 すると、梶は一転して大室に笑いかけた。

「冗談だよ。気にすんなよ──おい、でもよ、ババアの本音が聞けただろう? 娘の金はてめえの金だと思ってやがるんだ。『なんであの子だけがッ』」

 梶の下卑た笑い声が大室の耳に障った。

「さっきのはひどい言い草だったと思います」

「あら優しいのね、お前さんは」

 そう言って大室の肩をぽんぽんと叩くと、梶はセドリックの助手席側へとまわりこんだ。

「適当に駅で降ろしてくれ。別件で一つ二つ調べ物がある。役所が閉まる前に済ませちまわねえと。電車の方が早い。お前は署に戻ってな」

「いつもの単独行ですか」

「貴様のでかい図体を遊ばせておくことはねえって言ってるんだよ。書類くらい書けるだろう? 役割分担だよ」

 梶に対して腹を立てたところで何かが好転するわけでもない。何を意見しようがそれは蹂躙されるだけだ。大室は黙って車を進め、堀切菖蒲園駅の路傍に寄せた。降りぎわに梶は大室に釘を刺した。

「この件で一人で動こうとするなよ──つまり、無駄なことはするなってことだ。家出娘の件はこれ以上何も出てきやせん。遺産は長女が受取人だ。兄貴どもと弁護士が言うように、瀬野ユリは気ままに旅行を楽しんでるだけだろう」

「誘拐の線だって考えられるでしょう」

「捨てとけ捨てとけ、そんなもん。二週間経って身代金の要求もないんだぜ」

 確かに、と大室は大きく溜息をついた。

「署に戻ります。書類、作っておきます」

「おう、よろしくな。シンプルでいいからな、シンプルで」

 梶は調子よく答え、雑踏にまぎれていった。


     五


 大室は梶の命令を無視し、単独で瀬野邸近隣の聞きこみをしてまわった。

 瀬野家当主の逝去、それに伴う遺産相続のことは当然のように周辺住民に知れ渡っていた。ここ最近は、住民同士――とくに専業主婦同士が顔を合わせれば決まってその話題で持ちきりになるという。

「あそこの娘さん、夜のお仕事されてるのよね」

 瀬野家の斜向かいの住人──五十八歳専業主婦、町会長の妻は言葉滑らかに喋りつづけた。

「色々とつらかったのよねェ、彼女。お母様に似て綺麗な子なんだけど、陰が差しているっていうのかしら。それにひきかえ、妹さん──ううん、ユリちゃんと姉妹みたいに仲がいいものだからついそう見えちゃうのよ。ほんとはお使いさんのお子さんね、ちとせちゃんっていう」

「お使いさんというのは智子さんという方ですね」

 大室は咄嗟に割りこんだ。

「そういえばお名前までは存じあげてませんわ。ひどく内気な方でしたから、あんまりお喋りしたことないの。だけど、ちとせちゃんはお母さんを裏ッ返しにしたような──そうね、おひさまみたいな子。でもとっても可哀想な子なの、実は」

 そこで不意に言葉を切ると、大仰に表情を暗くした。

「お母さん──智子さんね、亡くなられたのよ。これってご存じ? パート先のクッキー工場だって聞いたわ。喘息の発作って。うちの娘も実は喘息持ちなの。だから他人事じゃないと思ったっけ」

「いつのことです」

 大室が訊いた。鈴森佳枝が家政婦として派遣されてきたのは十二年前だ。新しい家政婦を雇い入れたきっかけが智子の死だったのだろうか。

「そうねぇ、花江さんが出ていってから一年ちょっとかしら。つまり例の事件からってことよ。事件のことご存じ? 新聞沙汰になったの。詐欺ですって」

「というと、その智子さんはあのお屋敷に住みこみで家政婦をしながら、さらに工場にパート通いをしていたということですか」

「そういえばそうみたいね」

「それで、智子さんが亡くなられた後、娘さん──ちとせさんの方はどうなりました」

「お母さんのお郷に帰るんだって挨拶に来たわ、あの子──しっかりした子。うちの子にしてもよかったくらい」

 主婦は感極まって目の下に指を当てた。だが、一滴も涙が出てこず、

「で、それっきりよ」

 と、さらりと言った。

「瀬野のお宅とのお付き合いもね。ご主人はショックで引きこもっちゃってね。来客といえば──客じゃないみたいだけど、あの実田さんという方? 専属の弁護士らしいわね、その方が来るくらいかしら。といっても、病人のお見舞いみたいな雰囲気ね」

「ユリさんとは?」

「あの子? さあ──きっとその頃から水商売にお勤めなさったんでしょうね。あなた、ご存じでらして? なんてお店でしたっけ? 一度、うちの主人に聞いたことがあったんだけど──」

 そう言いながら大室の手元をのぞきこもうとした。大室はさっとメモ帳を閉じた。主婦は意地悪ねと口を尖らせた。


     六


 墨田区本所の交差点角に立つ中尾仗の前に白のバンが停まり、横のスライドドアが開いた。

 前に一、二、後ろに三、四──計四人の男たちの臭気でむせかえる車内にどうにか隙間を空けさせると、中尾はそこにふんぞり返った。オイル染みのある巾着袋を渡され、それを無造作に被る。目のあたりの当て布で視界は完全に塞がれていた。隣の男が被り具合を確かめると首のあたりで紐を締めた。

「息、できますか」

 柄に似合わない気遣いに中尾は苦笑した。


「中尾さん、よく来たね」

 袋の中で蒸れて乱れた髪に丁寧に櫛を通しているところへ、油染みたツナギ姿に無精髭と長髪で顔の輪郭を覆った男が奥から現れた。

 機械油が強く臭う工場は鉄骨組で天井が高く、プレス機の作動音やその横の旋盤からの甲高い切削音が建屋内に響き渡っていた。ものの数十秒で聴覚が痺れてくる。高窓の向こうは空の青ばかりで、そこから陽光を建屋内に注ぎこんでいる。中尾が見ている間に、不意に鳥が窓を横切った。

 油に負けず劣らず、木屑の匂いもさっきから強く鼻腔にさしていた。その匂いの源では老人が独り黙々とディスクグラインダーで木材を成形している。

 長髪の男──峰岸達夫は彼の武器工場を案内した。

 中央の作業台ではツナギの男たちが群がり、小銃や拳銃の機関部にまとわりつくグリスをぬぐっている。そのかたわらにある数本のドラム缶には、煮こごりのように無数の銃器がグリスに浸かっている。先ほどの老人は木工職人で、合板からそれら小銃や拳銃の銃床や銃把を削り出しているのだという。

「親父たちはこれで蒋介石やイギリス、インドと闘ったんだよ」

 達夫は銃床の装着が済んだ三八式歩兵銃を手にとると、滑らかな金属音を響かせて遊底を作動させ、引金をひいた。撃針がかちりと落ちる。

 工作機械を集めた一隅では、プレス機と旋盤が真鍮板から薬莢を作っている。プレス機で打ち抜かれたメダル状の真鍮板は別のプレス機の治具にはめ込まれて深絞り加工を施され、何工程かのちに円筒状に成形される。それを隣の旋盤で薬莢の底部の形状──リム部と雷管装着部を削り出すと、ボトルネック形状の八ミリ南部弾の場合には、さらに弾頭をはめ込む部分をまた別の治具を用いて一段細く絞りこむのである。達夫は自ら旋盤とプレス機を操作して最後の二工程──リムの削り出しとボトルネック部分の絞りこみ──を実演してみせ、完成した薬莢を中尾にプレゼントした。

 弾頭は別の一隅にある小屋の中で製造していた。小屋の壁面からは太い排気ダクトが二本突き出してから上方に立ちあがり、再び直角に折れて倉庫の壁を貫いている。その小屋の中を見学するのだといって、中尾は今度は年代物のガスマスクを被せられた。

 小屋の中では二機の大型の換気扇が轟音を立ててまわっていた。そのすぐ下で、ぶ厚い寸胴鍋が中華コンロの火にかけられており、鍋底近くに特別あつらえで溶接されたコックの口には灰白色のつららが垂れさがっている。その真下の床には同色の石筍ができていた。鍋をのぞきこむと、鈍い灰色の液体にスパゲッティの麺のごとく針金の束が突っこまれており、それらが見る間に融けていった。

 鍋の横では男が金型から数珠状の鋳物を叩きだしていた。数珠の玉はそれぞれ釣鐘形をしている。中尾は玉を一つちぎりとった。爪を立ててみると思ったより硬い。しかし、原料となる線材がコンロの熱で融けてしまうくらいだから、想像するに、弾頭の原料はただのハンダ線が用いられているのだろうか。自分が拳銃を持つとしても、絶対に使いたくない弾だ。融点の低いハンダでは発射ガスの熱で表面が容易に融けるために銃身の旋条への食いつきが甘くなる。銃身の精度が悪化する上、融けたハンダで銃身内部がすぐに汚れてしまう。

「命中精度なんかどうだっていいんだよ。どうせハジくときは面突きあわせるくらいの距離なんだから」

 そう言った達夫のマスクからくぐもった笑い声が聞こえてくる。

 小屋を出てマスクを脱ぎ、髪に櫛を通していると、達夫がプレス機とは別の一隅に据えられた作業台を指さした。

 鉄製の作業台にはリローディングツール──薬莢に雷管と火薬、それに弾頭を装填する器具が二台据えつけられている。六人の男が三人一組で作業中だった。一人が天秤で火薬を計量し、一人が空の薬莢にその火薬を注ぎ入れ、さらにもう一人が機械のレバーを引きおろして薬莢に雷管と弾頭をはめ込む。彼らの脇には種々の実包の山が築かれていた。

「問題は火薬と雷管。こいつがまた手に入れるのに苦労するんだ。そうそう、火薬だって小銃用と拳銃用とでちがうの知ってます? 燃焼速度がどうのって──」

「どこで手に入れてるんだ」

 中尾が訊いた。

「企業秘密って言いたいところだけど、なんてことはないんだ。いまのところはソ連と中国の連中に頼ってるけど、雷管に関しちゃウチによこす代物は品質がイマイチでさ。いずれ専門家を引っぱりこんで、全部ここで作れたらいいなとは考えているんだ」

 夢見るような眼差しで応えた達夫が次に案内したのは、これもまた工場内に設けられた細長いプレハブ小屋だった。

 内壁は吸音材で覆われており、手前に簡素な台が据えられている。五メートルほど奥には標的がわりに十センチ角材がぽつんと直立し、その先端から三十センチほどがひどくささくれている。角材の向こうは弾止めのぶ厚い粘土壁があった。

 達夫は拳銃二丁と八ミリ南部弾の実包が詰まった箱を台に置いた。拳銃は十四年式拳銃と九四式拳銃だった。実包を見ると、やはり弾頭表面が酸化したハンダ地剥き出しの粗雑なものだ。一方、ボトルネック型の薬莢は真鍮の光沢が眩しく、精度も上々のようである。

 中尾は銃身の細い十四年式拳銃を手にとって弾倉を抜きとり、実包を込めていった。八発。銃把の中に弾倉を叩きこむと、遊底をつまんで勢いよく引いて離した。遊底の滑りは小気味よく申し分ない。

 角材に向きなおり、右腕を突きだして構え、三連射した。

 命中は最初の一弾だけ。反動は予想以上に鋭い。装薬量が多いのかもしれない。それも試行錯誤中なのだろうか。

 吸音壁で囲まれているとはいえ、狭い小屋での銃声は耳に痛い。聴覚が麻痺しかけている。見ると達夫は耳に指を突っこんでいた。残弾はゆっくりと一つ一つの反動を噛み締めるように撃った。五発。全弾が角材に的中した。九四式拳銃も試射したが、結果は同様だった。ただ、敵と対峙したときには拳銃など持っていたくはない、というのが中尾の感想だった。咄嗟の場面ではナイフの方がまだ信頼できる。

「気に入ったなら土産に持っていっていいよ。欲しいだけあげる。売れなくて困ってんだ」

 忌むべき記憶が甦ってきたのか、達夫は急に苦い顔をした。

 昨年末、剣峰会は裏切り者を始末できたおかげで一斉摘発をすんでのところで免れたが、それまで使っていた蒲田のアジトは失ってしまった。その上、二年間で計六回の対馬沖海上密輸計画の最後の回を中止する羽目にも陥った。達夫は窪島の暗躍を疑っていたが、確証がないのだと歯噛みした。

「売れないのは扱ってるブツのせいだろう。こんな骨董品、もう流行りじゃない」

 中尾の言い草に、達夫が途端に目を剥いた。

「俺にとっちゃ親父の魂なんですよ。こいつらは親父が命を賭して戦場を駆けずりまわって集めたものなんだ。それなのに窪島の野郎はカネ、カネ、カネだ。金が力だと思いこんでやがる。前山の叔父貴だってそうだ。だが、そんなわけねえだろう? 力は十挺百挺の銃だ、千発一万発の弾丸だ。金で人を殺せるか? 殺すのは銃だ、弾丸だ。金は銃と弾を買いこむためだけにあればいい。奴らのような金の亡者は、いつかこの銃の前に絶滅する」

「みんなわかってるよ、銃も剣峰会も無視できないってことは。だから警察も前山もムキになってるんだ。極州会の上の方の連中だってそうだ。でなきゃ、おたくと窪島の小競り合いなんぞに誰が好き好んで首を突っこむ? 実はみんな、おたくの武器を恐れてるんだよ」

 中尾の言葉に満足したか、達夫はおどけたように肩をすくめた。だが、恨み辛みまで昇華されたわけではないようだった。

「窪島の野郎め──中尾さん、あの野郎はあんたがなんとかしてくれるんじゃなかったのかよ」

「俺はおたくに情報提供するだけだ。そこから先、上手くやるかへまするかはおたくの問題だ。それに、嵌める嵌められるはお互い様じゃないか。文句は言えないだろう」

「俺は、奴自身を痛い目に遭わせてやりたいんだ。奴の子分なんかどうだっていい」

「奥多摩の件でも懲りてないのか」

「奥多摩だって?」

 達夫は険のある目つきに戻った。中尾は構わず訊いた。

「あれはおたくの指示か、それとも単に川村の暴走か」

 やめてくれと達夫はうるさそうに手を振った。

「俺がやる理由はねえし、奴にはよく言い聞かせてあるんだ。俺の面子を潰すようなことはもうずっとしてないよ」

「あの狂犬のことだ、三度目ってこともある──いやそんなことを言ってる場合じゃない。奥多摩の件で高貝がのりだしてきてる」

「聞いてるよ。手はあるのかい」

 達夫の目にふっと懇願の色が滲む。中尾はふと目の前の男を訝った。

「高貝が出てきた意味を本当にわかってるのか」

「そりゃ当事者だからね。奴は奥多摩の犯人なんか本当は誰だっていいと思ってるんだろう? 問題は使われた銃と弾の出所だろうけど。川村には銃は持たせていない。たとえウチでつくった弾だとしても、やったのはウチのお得意さんであって身内じゃない──いや、それだって高貝のことだから、証拠の捏造だってしかねないよな。でなきゃ去年しくじった奴が捜査の長に起用されるわけないもの。そうだろ?」

「そうだ。確実に剣峰会の首根っこを押さえにくるぞ。いいか、確実にだ」

 達夫はいらいらと台の上の拳銃を取って弾を込めはじめた。中尾はその背に最後通牒を突きつけた。

「川村を差しだす。それが極州会の総意だ」

「手打ちかよ。川村は生け贄か」

「生け贄だ。決定なんだよ」

 中尾は達夫の言葉を繰り返した。達夫は鼻で笑った。

「誰がそんなこと謳ってんだ? どうせ窪島の金に目がくらんでる連中だろう?」

「ちがう。旗を振るのは橋本さんだ」

「そうじゃない。頭脳だよ、頭脳。誰が考えてる?」

「俺だ」

 達夫は床に唾を吐いた。

「犬めが、思った通りだ」

 達夫は十四年式拳銃を角材に向け、機関銃のように連射した。撃った弾はすべて的を逸れ、土壁に穴をあけた。耳鳴りが尾を引き、達夫の罵声が綿にくるんだように聞こえる。達夫は怒鳴って子分を呼び、なにやら指示を与えた。それが済むと、達夫は来いと手を振って隅の応接セットへ中尾を誘った。

 達夫は拳銃をテーブルに放ると、ソファにふんぞり返った。

「で、どう出るんだ、俺たちは」

「俺たち?」

 中尾が聞き返した。

「そうだ。俺とあんただ、中尾さん」

「これはおたくのところの問題だ」

「いいや、俺たちだ。川村は関係ない。剣峰会と千束組は一蓮托生なんだぜ、わかってるだろ? 約束は死んじゃいない。前山の叔父貴にも確認済みだよ」

「俺は橋本さんの命を受けている。直々にだ。約束など知ったことか」

「それこそ俺や叔父貴の知ったことじゃない。そこはあんたの問題だ。どっちに尻尾を振るか。板挟みには同情するよ。だけど、あんたの飼い主は俺一人だってことを思い出せば、そんなに悩むことはないと思うけど」

「犬って生き物はいつだって苦労しっぱなしだ。飼い主を選べないのは悲惨なもんだ」

「それでもやっぱり綱を握ってるのは飼い主だぜ」

 達夫は冷ややかに中尾を見つめた。中尾は達夫の向かいのソファに腰を沈めた。

「川村を渡せ。うまく処理する。剣峰会を残すためだ」

「身内を売るほど俺は腐っちゃいない。他の案を考えるんだな」

「考えるのはおたくだ。よく考えろ、このままじゃ──」

「あんた、意外と愚鈍だな」

 達夫は中尾を煩がった。

「中尾さん、あんたはここに来たというだけでも結構危ない橋を渡ってるんだよ」

「俺が──」

「そうさ」

 達夫は頓狂な声をあげた。

「あんたもさっき言ってたじゃないか。この大関東、大極州会連合において、うちの組がどれだけ有用な存在か。どれほどの組がうちのシノギをそっくり掠め取ろうとしてるか。そういう連中がこぞってこのアジトの場所を探ろうと躍起になってるんだよ。戦争してまで奪いたいと思ってるんじゃないか。共存共栄の理念とやらが聞いて呆れるがね──そこでだ。あんたはここを出ると橋本さんに報告するだろう。峰岸五郎の倅のアジトに行ってきましたってね」

「だからなんだ」

 中尾は達夫を見据えた。気が急いてくる。達夫のほほえみがやまない。

「千束組の中尾は達夫のアジトを知っている──そんな噂が立つ」

「俺が狙われるというのか。だが、俺は事実、ここがどこだか知らない」

「噂はいつだって真実じゃない。ゼロから作りだすもんだ」

「そんなもの誰も信じるわけないだろうが」

「噂ってのは誰もがある程度は信じるもんだぜ。まるっきり作り話でもな」

「誰が信じるってんだ?」

「わかってるくせに。最たるものが本田一家──つまり橋本玄容」

 中尾はうなった。とはいえ、そんなことは当然予測の範囲内だ。ただ、位置づけとしては上位にはなかった。舌なめずりして剣峰会の利権を狙っているのは前山だと決めつけている節があったからだ。

「川村を差しだして警察と手打ちすると言ったね。誰の裁量で? 誰の権限で? 橋本でしょう。奴の一存で剣峰会の処遇はどうとでもなるわけだ。警察と手打ちっていうのは、実は裏でそのへんの含みがあるんじゃないかな」

 達夫は曖昧に言った。

「橋本が剣峰会を手中にするというのか。峰岸組と前山の頭越しにか」

「あんた鈍いね。本当にあの千束組の跡取りか? 当然だろう? 誰もが考えることだろうがよ。さっき言ったろ、武器は力だって。金の力をも凌駕する。時代遅れだろうがなんだろうが、天と地の差がある優劣だって銃弾たった一発で簡単にひっくり返せる。金の亡者の奴らこそ、俺たち剣峰会の力を無視できるわけがないんだ。奴らはいつだって俺がどう動くか戦々恐々としてる。いつ俺にひっくり返されちまわないかとね。まあともかく、現段階では前山のメンツを潰すわけにはいかないから橋本も手を出せない。さてそこで、もし川村という上等な獲物が橋本の手に渡ったらどうなる?」

「大義名分か。川村は奥多摩事件解決の鍵だ。神様警察様に奉納ってことになる」

「真相はなんであれ、証拠をでっちあげてでもそれで一応は事件を解決できるからな。橋本としては、警察のご機嫌伺いには一番安上がりだ。だけど剣峰会の肉も少しくらいは囓らせてやる必要があるだろうな」

 達夫はうんざりしたように吐き捨てると、身をのりだした。

「ただ、橋本はがめついんだぜ。剣峰会の看板は丸ごとくれてやっても、血の滴る旨い肉はてめえのもんにしようって腹づもりだろう。囓らせたとしてもほんの少しだけだ。舐めさせる程度だ」

「警察をうまくあしらう名目なら、橋本は前山の頭越しに剣峰会をどうにでもできる。だが、そもそも俺は剣峰会を潰す気は無かった。橋本も賛同してる」

「いや、警察はこの剣峰会を潰すよ。確実に。だが、その中身は誰のものになる? まあ、銃や弾薬のほとんどは警察に差しだすことになるだろう。警察は新聞写りの良い画と警察白書に載せる数字が欲しいからな。だが、この技術、この知識、この設備は?」

「橋本の管理下に置かれることになるだろうな。少なくともおたくや前山ではない」

「そう。極州会全体の利、という大義だ。共存共栄の理念。うちのシノギをめぐって戦争も起きない。叔父貴も文句は言えない。だが実質的に、剣峰会の殻を剥き、実を警察にくれてやった後の、次の実を生みだす中の種を得るのは橋本だ」

「だが、そもそもおたくの妄想通りになるには、橋本は川村を確保することが絶対条件だろう? 俺は川村の顔を見ていない。橋本に喋ろうにも喋りようがないんだ。差しだせるものがない」

「人間ってのは素直じゃねえんだ。疑いもすりゃ、隠しもするもんだぜ。橋本はあんたが隠していると疑うよ」

「お前になんの利がある?」

「利がないからこそ、だよ。俺だってね、奥多摩事件とやらのせいで俺も剣峰会も風前の灯火だってのはわかりきってるの。どっちにころんでももうおしまいだ──いや、それよりもあんただよ。俺はあんたのことを心配してるのさ、中尾さん」

 達夫はにやにや笑いながらつづけた。

「おたくの千束組、手駒だってないんだろう? 聞くところによると、あんた含めてたった三人の所帯だっていうじゃない。その二人にしたってさ、親分がある日突然ぱっとこの世から消えちゃったとして気に留めてくれる? それに拷問って結構キツイらしいぜ?」

 中尾は奥歯を噛んだ。達夫は暢気に喋りつづける。

「橋本の思惑としてはこうだな。まずあんたを引っぱたいて喋らせる──喋るものはないんだろうけど、橋本はそうは考えていない。そうしてこのアジトと川村を確保する。川村に関しちゃ証拠がどうのなんて関係ない、やろうがやっていまいが警察は適当に証拠をでっちあげて、芋づる式に俺や仲間をとっ捕まえて剣峰会はおしまいだ」

 と、達夫は手刀で自分の首をちょんと切ってみせる。

「見事、警察は雪辱を果たすことができるわけだ。そして、橋本は、警察のお墨付きかどうかは知らないが、少なくとも極州会の面々に対しては堂々と剣峰会の事業を手中に収めることができる。共存共栄の理念に基づいてね──こういう筋書きだよ。単純明快、バカでもわかる四コマ漫画だ。それですら悦に入る阿呆ども。憐れ、泣きを見るのは川村と俺だと信じてやまない──だが実際、全然そうはならない。橋本の思惑通りに運ぶのは一番最初の段階だ。つまり、だんまりのあんたを引っぱたくところだけだ」

 達夫は中尾の眉間に指を突きつけた。

「知りもしないこのアジトの場所を吐かされるんだよ、あんたは。橋本の筋書きの根っこの根っこをあんたが握っていると思われてるんだから。中尾さんって我慢強いほう?」

 達夫はくくと笑い声を立てた。中尾は負けじと笑みを返した。

「俺がこのアジトの場所を特定できたら問題はなかろう。そんなネタ、橋本さんにくれてやったって俺は痛くもかゆくもない。俺はよそとちがって、おたくのやってることには興味はないからな。あとはどうなろうと構わん。問題があるのはお前だけだ」

「特定なんてできるのかよ」

 中尾は大げさに肩をすくめた。達夫の双眸がすっと色をなくした。

「それより、なあ中尾さん」

 と、達夫は身軽に動いて、テーブルに身をのりだした。

「ここは一致団結するときだと思いませんか。実を言えば、俺は叔父貴のことなんかどうでもいいんだ。峰岸組が俺のものになったら、あんな老いぼれとはどうせ手を切るつもりなんだ。それに比べ、あんたは若いし頭も悪くはない──愚鈍と言ったことは忘れてくれ。俺の右腕になってくれてもいい。うちに来ないか? もうこんなことになっちまったんだ、考えてくれてもいいだろう? でなきゃ、あんたに待ってるのはきつい拷問──」

 中尾はいきなり達夫の襟首を鷲づかみにして捻りあげた。達夫は、げ、げと唾を吹き、みるみる顔が紅潮していった。と、手を離した中尾はテーブルの十四年式拳銃をつかんで素早く達夫の背後にまわり、今度は喉笛を鷲づかみにして後頭部に銃口を押しつけた。数瞬遅れて、達夫の子分たちが銃を手に中尾を取り囲んだ。中尾はその連中に怒鳴った。

「動くなよッ」

「空だぜ、それ──」

 達夫のうめきを中尾はさえぎった。

「お前はさっき八発弾を込めたが、七発しか撃っていない。薬室に八発目がある」

「やっぱり愚鈍なんだな、あんた──」

 達夫は咳きこみながら無理に笑おうとした。中尾はそれ以上に余裕の笑い声を立てた。

「さ、外の空気を吸いに行くか。ここがどこだか見てみようぜ」

 と、抗って上半身を翻らせた達夫の拳が中尾の顔面を襲った。だが、中尾の方が早かった。銃把の尻で喉を突かれ、達夫は再びげっとうめいた。子分の一人が殺気立って中尾につめよった。車中で中尾に袋を被せたとき、似合わない気遣いをみせた男だ。中尾は男の胸に銃口を突きつけた。

 一発あればいい。男の持っている銃を奪えばまずまず勝機はある。

 躊躇せず引金をひいた。

 引金のバネが微かにきしむ――しかしそれだけだった。撃針が雷管を打つ音すらない。

 中尾はすぐさま遊底を引いて薬室から弾を排莢させた。遊底は次弾を薬室に装填せず、解放されたまま止まった。これで弾倉は空になった。中尾に十を越える数の銃口が向けられた。

「殺すな」

 凍りついた空気を達夫のしゃがれ声が割りこんだ。中尾は唇を噛み、床に落ちた弾を見た。雷管には確かに一つ、小さな窪みがある。撃針が叩いた痕だ。達夫が撃った最後の弾──八発目は不発弾だったのだ。

 さっき達夫が銃を連射し一発も的中せずに終わったときの罵声は銃の命中精度のことではなかった。最後の、八発目の不発弾に対してのものだったのだ。信頼性のない粗悪な雷管。弾薬製造担当の男が呼びだされて指示を受けたのもそのことだったにちがいない。

 中尾は拳銃を床に捨てると両手を高々と挙げた。しかし降伏するには遅すぎた。背後からの不意の一撃はまだ耐えられた。続く一撃はよく見えたが、見えるだけにきつかった。その一撃は右目の下で爆発したようだった。例の優しい男の巨大な拳がまたも襲ってくる。それでようやく視界に黒い網がかかりはじめた。油臭い巾着袋が視界をさえぎった。はるか遠い過去の、懐かしい臭いにすら思える。

 中尾の耳元で達夫がささやいた。

「生きて帰さないとは言いませんよ。そんなことよりさ、飼い主の言うことを聞いてくださいよ」

 中尾は反論しようとしたが朦朧としていて言葉にならなかった。達夫がつづける。

「あんたは奥多摩事件を解決する。もちろんあんたと俺、お互いが生き残れるような解決をだよ。ね? それが一番さ。よく考えてくれよ」

 一瞬の間があって、再び右目の下に衝撃を受けた。頬に床の接近を感じた一瞬後、意識が全力疾走で遠のいた。

(あんたは俺の犬なんだから──)

 中尾は畜生と思った。


     七


(警察も手が早い)

 四課刑事の村上から受けとった捜査資料の複写を丹念に検める間、青木善三はずっと感心しきりだった。

 とはいえ、千束組は警察に先んじることができたのだから問題はない。染野香につづいて善三が相沢絹代に接触して話をつけたのは、彼女たちの監視が始まる前日だった。

 川村が連絡してきたら、おそらく警察が張り込んでいるかもしれないことを奴に教え、不用意に姿を見せたりするなと釘を刺してくれ。そしてこの番号にかけるように伝えてくれ。なんにせよ川村は逮捕されることになるが、そのときあんたが警察に話す内容はこの紙に書いてある。頭に入れといてくれ。言う通りにしてくれよ。さもないと──。

(わかってるわよ。でも、あの子が連絡をよこすなんてことあるわけないじゃない。もうあれっきり、あの子とは関係ないんだもの)

 真顔で用件を告げる善三に絹代は呆れ返っていたが、彼女は差しだされた金を素直に受けとった。

 こんなことをしても、川村が一度も女たちに連絡をよこさずにいきなりのこのこと女の部屋に顔を出せば、瞬く間に捜査員らが雪崩れこんできて即確保され、警察の完全勝利が約束される。川村がそこまで馬鹿でなければいいが。

(まあ、どうにでもするがいいさ)

 川村のことだけではない。女たちが善三の指示に従うかどうかすら、彼にとっては知ったことではなかった。

 そもそも奥多摩事件を痴情のもつれとして処理するという方針は、橋本の保身のためでしかないのだ。高貝がのりだしてきたのだから、痴話喧嘩などで事態が収拾するはずがないのはわかりきっている。ただ、そうなってしまったら千束組はこの先どうなるだろうか。そもそも中尾にハッパをかけて橋本のもとへ売り込みに行かせたのは間違いだったのだろうか。

 村上は、善三が渡した封筒の中身をのぞいて表情を曇らせた。

「次は奮発するよ」

 そう声をかけると、村上は渋面のまま席を立った。先代の遺産が失われていくのをひしと感じ、善三は溜息をついた。


 事が済んで、されるがままだった体を起こし、「ショパン」随一の年増の女に濡れた体を拭いてもらう。服を着て、前室の椅子に腰掛けて煙草を吸っていると、女も肉のない肩にスリップの紐を引っかけつつ風呂場から出てきた。

 峰岸組の長の座をめぐるお家騒動がはじまって以来、金の価値をよく理解しているこの女──トモエには、窪島周辺の情報収集に一役買ってもらっていた。

 トモエは腰をぶつけるようにして隣に座ってくると、「よかった?」と訊ねてきた。善三は曖昧に答え、早速友岡のことを聞きだそうとした。

「噂はしてたんだよね。ともちゃん──あたしのことじゃないよ、友岡君のことをあたしらは『ともちゃん』って呼んでるの。自分で自分のこと『ともちゃん』なんて言うもんか」

 トモエは削げた頬をふくらませた。善三は煙草の煙がしみたふりをして目を細めた。

 友岡雅樹は奥多摩事件の五日ほど前に姿を消した。警察もそのことはすでにつかんでいる。ただ、吉原の女たちが知っていることは他にもあった。

 友岡は失踪の二ヶ月ほど前に急に生気を失ってしまったと女たちは口をそろえた。

 その頃からさらに一ヶ月遡って、夏の終わり頃には神経質そうに気を張りつめている様子だった。それが九月初旬。その端緒となったと思しきある日の夕方、友岡を訪ねて窪島が店に来たのだという。その様子を、「ワーグナー」に勤める女が目撃している。

 「ワーグナー」と「ショパン」の他に「シューベルト」という店があり、その三店の管理を任されていた友岡はほぼ毎日各店舗を巡回していた。一方で窪島は、数ヶ月に一度、遊びをかねて視察に訪れる程度だったが、その日はいつもと様子がちがっていたという。

「窪島さん、普段と何がちがってたんだい?」

 善三はその「ワーグナー」の女、ハルカに訊いた。その脇では蚊帳の外に置かれたトモエが不服そうに二人のやりとりを見つめている。

 善三はトモエにハルカを呼びだしてもらい、三人でラーメン屋のテーブルを囲んでいた。

「おカシラさん、一人でいらしたの。いつもは取り巻きの方々が何人もいるんだけど。それに──」

「それに?」

 ハルカは恥ずかしそうに身をよじった。

「それに──いつもはあたしを指名するのに、あの日は見向きもしてくれなかった」

「ああ」

 善三は苦笑った。何が気に入らないのか、トモエがつまらなそうに黄ばんだ舌を出した。

 ハルカに限って言えば、警察にこのことを話さなかった理由は橋本の箝口令とは関係がなかったわけである。この娘はただ、自分を寵愛してくれる窪島を庇おうとしているだけだった。

「おカシラと友岡はなんの話をしてたの」

「うーん、わかんない」

 ハルカはくねくねと身をよじりながら首をかしげた。視界の隅に再びトモエの汚い舌を見た気がしたが、善三は無視した。

「ああ、そうだッ」

 ハルカは頓狂な声をあげた。

「ねえトモエさん、そのすぐ後だったよね、ともちゃんが新車を買ったのって」

「そうだったっけねェ」

 すっかり興味をなくしていたトモエはラーメンの残り汁をかきまわしながら答えた。

「そうよ。新車のセリカ。ずっとオンボロをだましだまし乗ってたのにね」

「金が──大金が懐に入ったってことか」

「でも、全然嬉しそうじゃなかったな。おカシラさんにだいぶせっつかれてたのかもね、お店のことで」

「いつだって店は繁盛してるじゃないか」

「うん、そうなんだけど。だから、結局なんでなんだろうってみんなでああだこうだ話し合っちゃったりなんかしたっけ」

「別の仕事を任されてたのかもな。友岡はそんな話をしなかったかい」

 二人はそろって首を振った。

「誰か知ってそうな子はいるかい」

 二人はまたもそろって首を捻った。

「他に何か思い出したら、あるいは何か知ってる子がいたらさりげなく聞きだしてくれないか。友岡のこと、おカシラさんのこと。他に、何かいつもと変わったことがあったらどんなことでもいい。でも、無理はしなくていいからね。こっちの素性がおカシラにばれるとあんまり都合良くないから、俺の連絡先は教えないでおくよ。ハルカちゃん、君の番号を教えてくれるかな」

「ちょっとォ」

 トモエが頬を餅のようにふくらませた。善三は片手でおざなりにトモエの手の甲を撫でて、もう一方の手で数枚の札をハルカの手に握らせた。ハルカは電話番号を紙ナプキンに書き留めた。

「あ、でもあたし、親と同居なの。フミコって名前で呼びだして。ハルカは源氏名。親にはあたしの本当の仕事は内緒にしてるから」

「わかった。明日は出勤? じゃ、明けた頃に一度連絡するから」

「でも、おカシラさんが危ない目に遭うのはイヤよ。捕まっちゃうのとかもイヤ。そんなんだったら協力なんてしないんだから」

「大丈夫だよ。おカシラさんのための秘密の調査なんだ」

 善三はハルカの手の甲も撫でた。ハルカはくすぐったそうにし、顔一杯に愛らしい笑みを湛えた。トモエの吐く濃い煙草の煙がその頭上を流れた。


     八


 油染みた三揃えがクリーニングから戻ってくるのを待つ二日間、情報収集とレコーダーのテープ交換は善三と鶴夫に任せ、中尾は事務所に籠もりきりになり、ソファにふんぞり返っては赤黒く腫れた渋面に氷嚢をのせて、たびたび取り留めのない思索に耽っていた。

 橋本にはありのままを伝えたのがいい牽制になったのかもしれない。拷問はおろか詰問すらなかった。それどころか、橋本は本田一家が剣峰会のシノギを独占したがっているという達夫の予想を言下に否定した。

 達夫が逮捕された後、剣峰会の既得権益──流通網および知識、技術など──は他の組織にとって垂涎の的となることは確かだが、ひとたびそれを手中におさめれば、それと同時に達夫にいまのしかかっているのとまったく同等のリスクをいずれは背負いこむことになるのもまた確かなのである。橋本も、剣峰会のシノギは劇薬であると認識していた。

 ただ、毒をも薬に変えるのが橋本という男だ。その豪腕ぶりのおかげでこれまで極州会は束ねられてきたようなものである。彼は剣峰会のアジトと峰岸達夫、それに奥多摩事件の容疑者川村徹を手中におさめ、警察との手打ちの切り札とするのは達夫の考える通りだろうと中尾は確信している。

 逆に考えれば、切り札が手元になければいくら橋本といえども手も足も出ないということだ。橋本が無策のまま、剣峰会の権益をみすみす警察に召し上げられたりすれば、関東の組織は関西組織に抗するための武器供給の要を失うことになる。そうなれば彼は完全に面目丸潰れだ。客観的に見ても、いまの状況は橋本にとって分が悪い。

 とはいえ、事件発生からまだ日は浅く、高貝の手の内を読めるほど時間は経っていない。警察が手打ちに応じるかどうかもまだわからないのである。橋本が中尾の提案を受け入れてひとまず見の姿勢を保つと、すんなりと引きさがったのもそれが理由だろう。その態度はまた、強者の余裕ともとれる。

 一方、中尾には見の姿勢などといった余裕などなかった。

 中尾を使うのも年末までと橋本は前に宣言した。期限を過ぎるということは、中尾自身の信頼だけでなく、先代が培ってきた千束組の信頼を失うことでもある。同時に、組長含めたった三人だけの千束組に生きる術がなくなることをも意味する。

 また、千束組が生き残るには、奥多摩事件を橋本が描いた絵の通りの結末へと導かねばならないのだが、それは達夫だけでなく、達夫の叔父貴分の前山を裏切ることでもある。

 孝行者の達夫に父親の跡を継がせてやりたい、その手伝いをしてくれれば今後前山組は千束組との関係を何よりも大事にしようというのが前山の言だが、その実、有無を言わさぬ、静かなる恫喝だった。千束組は、橋本の命を受けて峰岸組後継問題の裁定役に抜擢され、組として勢いづこうとした矢先、前山に千束組の生殺与奪の権を握られてしまったのである。

 先代までの千束組は他組織からも一目置かれ、極州会内でも前山などよりはるかに発言に重みがあった。というのも、この荒みつつある任侠の世界で、先代こそが唯一仁義礼智心を体現する大人物だと、誰もが認めていたからだった。

 どちらに荷担することなく物事を見極め、共存共栄のために、双方にできうる限り最良の解決案を提示する。調停役としての先代、そして千束組の役割は、関東極州会連合の成り立ちと平和の維持に多大な貢献を果たしたといっても過言ではない。

 しかし、その大人物の器を二代目も受け継いでいるかというと、はなはだ疑問であると中尾は自ら認めている。

 そもそも中尾は、組織の長の座に就く重圧とはまるで無縁の世界にいた男だった。

 交通事故の扱いに精通していた保険屋の中尾を闇の世界に引きこんだのはいまは袂を分かった兄貴分だったが、堅気の世界からいきなり飛びこんできた若者を面白がってここまで育ててくれたのは先代だった。そして、自慢の一人娘を引き合わせ、婿養子の縁を結ばせたのも先代の意思に他ならなかった。

 しかし先代の逝去後、やくざ稼業に嫌気が差していた妻は、遺言に従って自分の夫が組長の座を襲うことになると知って、中尾に離縁を申し出た。中尾はといえば、生まれた赤子に実は自分の血が入っていないことを告白されると、未練なく妻の申し出に応じた。

 そうなると、先代の娘の顔を立てていっときは中尾の配下となった兄貴分たちも、中尾が先代との縁がなくなったのを機に若衆をごっそり引きぬいて袂を分かっていった。そして、気づけば千束組は超弱小団体に成り下がってしまっていた。

 ただ、善三が言うには、組を離れていった若衆の中にはただ兄貴分たちに義理立てしてついていっただけの者も少なからずいるという。千束組を愛し、深く根を生やした者は、きっときっかけさえあれば中尾のもとに再集結するはずだと。だからいまこそ持ちうる能力を顕示し、先代に劣らぬ義の男になれと、組の最古参は中尾を叱咤した。

 善三に一張羅の三揃えを着せられ、中尾は先代の兄貴分である橋本に自らを売りこみにいった。売りこみは橋本に快く受け入れられ、それゆえ中尾はこのたび峰岸組御家騒動の調停役に抜擢されたのである。

 ただ、現実はそううまくはいかない。蓋を開けてみれば単なる橋本の使いっ走りであり、峰岸達夫や前山組の飼い犬であり、ちっとも可愛がられぬ犬ゆえ足蹴にもされる。せっかくの一張羅も油と泥で野良着も同然、その上、敗者の証したる痣顔――これほどの醜態をさらして、おそらく善三も鶴夫も情けない二代目を歯痒く思っていることだろう。しかし紛うことなくこれが中尾の現状だ。千束組は船頭を中尾に代えたばかりに、大渦に飲みこまれてゆく小舟のごとき運命の途上にあった。

 鶴夫はイヤホンに耳を傾けながら、カセットテープの会話内容をせっせとノートに書きこんでいる。壁に留めた大判の模造紙には窪島周辺の人物相関図が描かれている。

 階段をあがってくる足音を聞きつけ、中尾は溶けきって温くなった氷嚢をのけて体を起こした。入ってきた善三は厚い茶封筒を小脇に挟んでいた。

「手に入ったのかい」

 中尾は声をかけた。

「とりあえず今朝の捜査会議の分まで」

 中尾は封筒を受けとると、中身を机にあけ、ざっと目を通してみた。鶴夫が食事の支度をはじめた。とうの昔に届いていた出前のざる蕎麦が中央の机に並んだ。

「女の監視が始まったか。で、善さんとしてはどうなんだい、女の手応えは」

「神のみぞ知る、ですね。女ってのはよくわかりません。金なのか、愛なのか──」

 善三は割り箸を配りながら肩をすくめた。鶴夫がぷっと吹きだした。

「善さんからそんな言葉が出てくるとはね」

「食いましょう」

 善三は憮然と言った。

 のびて固まった蕎麦をほぐしながら中尾が捜査資料を眺めていると、善三がそこにはないトルコ嬢たちの話を切りだした。

「いい材料になるな、それ。今度のに使えるよ」

 中尾がそう反応を示すと、善三は蕎麦をすする手を止めた。

「やっぱり窪島に会うつもりですか」

「ご指名だからね。断れないだろう。ま、贅沢な飯を食わせてもらうさ」

 中尾はからまった蕎麦を口につめこんだ。

「俺、友岡がおかしくなってきたっていう十月ってのに心当たりあります」

 鶴夫はそう口を挟むと、自前のノートを繰り、次いでテープの山を漁りだした。

「十月の──これ十月八日、三本目。夜中遅くの録音で、相手は窪島です。例の事務所から、窪島の自宅にかけていますね。こいつ、名乗らなかったんですが、組の若衆にちがいありません。とりあえず相手不明ということで人物相関図に書き込まずに保留にしといたんですが──」

「内容は」

 中尾は先をうながした。

「泣き言ってやつです。連中、たまにあることなんで見逃してたんですが」

 と鶴夫はデッキにテープを差し、イヤホンに耳を傾けながら目当ての箇所を探し当てると、イヤホンの左右を中尾と善三に渡した。録音は消え入るような男の声からはじまった。

『カシラ──どうしても俺、うまくいかなくって』

『誰だ』

『もう降りたいんです。降ろさせてくださいよ。他の奴にやらせてください──でなきゃ俺、もう──』

『お前は誰なんだ──お前は──』 

 窪島絶句。男のすすり泣き。

『おい、いまどこにいるんだ』

『事務所です──』

『事務所って──』

『カシラ、俺、もうだめですわ。もうガチガチに堅くってしょうがねえ。俺には無理ですって。はじめから予感してたんだ。手に負えないって。まるでこっちに気がねえんだ。それだけじゃねえんです──』

『甘ったれるなッ。てめえ、そんなことグダグダ抜かすために俺ん家にまで電話してきやがったのか。俺がいま何をしてたかわかるか。ええ? 女房とアレの真っ最中なんだよ。それをてめえ──承知しねえぞ』

『カシラ、どうもやばいことになりそうなんで──』

 録音はいきなり途切れた。窪島の方から一方的に切ったようである。

 中尾は鶴夫に訊いた。

「他にこの男の声は?」

「前にも後にもありませんね。この後、相当とっちめられたでしょうからね」

「確かめてみましょう」

 善三はそう言うと蕎麦猪口を脇にのけて電話機を引き寄せ、ハルカというトルコ嬢の番号に電話した。真夜中と気づいて平身低頭して電話を取り次いでもらい、善三はテープの会話の最後の一節を送話口越しにハルカに聴かせた。次いでトモエという女にも電話し、同じように聴かせた。二人とも男の声の主は友岡だと断言した。

「上出来だ、鶴夫。十月か」

「女の証言にもぴしゃりと一致しますよね。俺はもうだめ、他の奴にやらせてくれって言うってことはつまり、その仕事は自分一人が任されてたってことですよ」

「奴ははじめから躓いてたとみえる」

 と善三は鶴夫の考えに補足した。

「『どうもやばいこと』ってのは川村のことでしょうか。女たちが友岡の様子の急変ぶりに驚いているくらいですから」

「天敵現る、ですかね」

 と、おどける鶴夫に頷いてやり、中尾は善三に訊いた。

「他にわかったことあるかい」

「襲撃に使われた車が発見されました」

 中尾に代わって善三が資料を繰り、その記述がある部分を指で示した。

「ダットサンブルーバードセダン、か」

 トヨタセリカとこの車は、事件現場の直前にある青梅街道沿いにある集落を通過していったところを目撃されている。深夜だったが、受験勉強中の学生がスポーツ車の排気音を耳にして何気なく窓から通りを見下ろしたところ、目の前をもう一台の車が通過していった。難解な数学の問いに苦戦を強いられていた学生は、何気なく目に入った車のナンバーがあまりに単純だったため、羨望の眼差しでナンバープレートを見送ったのだという。

「ブルーバードの所有者は岩本義人。警察の調べによれば岩本は元峰岸組構成員で、現在は剣峰会に所属していると見られ、共犯の線もあるとして手配中です」

「剣峰会か、写真はあるかな──」

 と、ページを繰ると、写真の複写がひとそろい出てきて、中尾はその一つに目を留めた。思わず吹きだした。見た顔なのである。

 岩本義人は、達夫のアジトへ向かうバンの中で中尾に気遣いをみせた男だった。もっともその後、中尾によって射殺されかけた恨みもひとしおに手酷く殴りつけてきた張本人でもある。

「この男、達夫のところにいたよ。事件とは無関係だろう。この男の忠犬ぶりじゃ、達夫を窮地に貶めるようなことをするとはまず考えられない。岩本は川村に車を貸したか、あるいは川村が勝手に乗っていっちまったかだろう」

「車は御徒町のガード下で見つかってます。中は川村と友岡、当然でしょうけど岩本の指紋がベタベタ」

 善三に促され、中尾は報告書の先をざっと読んだ。

「ボンネットに銃の発射残渣を検出。車内には無し。運転席側窓から手を突きだして拳銃を連射したと思われる──か。後部席には血痕と毛髪がそのまま残って──どちらもセリカ車内のものと一致。毛髪は友岡のアパートにあったのと一致。これらによりガイシャは友岡と断定、ホシは川村と岩本と推定される、か。岩本のことはともかく、ま、妥当なところか」

「川村はいまだに姿を消したまま。友岡の死体もあがらない。やはり達夫がからんでますかね。もし川村が友岡に接触して、そのとき窪島の企みを察知したのなら、当然川村は達夫に報告したでしょうから。達夫の反応に何か引っかかりませんでしたか。何か隠している様子とか」

「一筋縄ではいかないさ」

 中尾はかぶりを振って善三に応えると、頬の痣がうずき、思わずうめいた。

「窪島と会うときはあたしもご一緒しましょう」

 善三が冷ややかに言った。中尾は首を振った。

「一人で十分だよ。心配しなさんな」

「会合の目的がわからない以上、用心に越したことはありません。もし、うちらが達夫や前山の手先だと悟られてたら──」

「大丈夫。俺は一応橋本の使者のようなもんだからね。窪島こそ達夫とちがってきっちり組織の中で育ってきた男だから、滅多なことじゃ上に楯突くようなことはしないよ。たとえバレてたとしてもね。それより善さんには一つ骨を折ってもらいたいんだ」

 善三の細い目が中尾を見つめた。やがて薄い唇が溜息を漏らした。

「なんなりと」

「達夫のアジトを突きとめてほしい」

 善三はまた溜息をついた。

「手がかりはあるんでしょうね」

「カモメってのは海にいるんだろ。窓の外にそいつを見たよ」

 中尾がそう言うと、善三は珍しく声を立てて苦笑した。

「また随分と範囲が広い」

「カモメよりましなのもあるんだが、役に立つかな」

「わかりました。わかる限りでいいですんで、アジトの広さ、天井の高さ、窓の数、向き、設備、中で見たものならなんでも情報をください。それで少しは絞れます。それに、アジトがわかれば我々にとってもいい切り札になります」

「俺は何をしましょうか」

 鶴夫が訊いた。

「いつも通りだ。友岡は行方知れずだが、まだ死んだと決まったわけじゃない。可能性としては依然として三つのままだ。一つ、友岡は襲撃されたが逃げきって隠れている。二つ、友岡は襲撃され、どこかに拉致されているが生きている。三つ、友岡は殺されている」

「ある日ひょっこり本人が姿を現す──いえ、声を聴かせてくれるか、あるいは人質交渉が持ちかけられるか、はたまた死体発見の報か、ですね」

「そうだ。耳をそばだてておけ」

 蕎麦が片付き、鶴夫は言われた通りにヘッドフォンを被った。善三は眠気覚ましのための濃いコーヒーを煎れる準備をはじめている。中尾は元のソファにふんぞり返ると、氷を替えた氷嚢を目の痣にのせた。善三がどろどろのコーヒーを持って起こしに来るまで、思考回路を勝手気ままにめぐらせておくつもりだった。

 少しずつだが情報は着実に中尾の手元に集まってきている。それにもかかわらず、蓄積された情報に基づいた仮説、推論のいずれもが確固たる根拠の上に構築されたものではなかった。それゆえ、ただ事件の上っ面を舐めているだけに過ぎず、中尾はいまだに結論を導くことができないでいた。

 窪島と友岡が企む秘密の計画と、奥多摩事件とはなんらかの関係があるのだろうか。そもそも二人の計画とは何なのか。なぜ奥多摩でひと騒動起きたのか。川村は事件にどう関わっているのか。それには達夫もからんでいるのだろうか。友岡と川村はいまどこにいるのか。

 いや、そもそも川村の暴走が起こした事件なのだろうか。警察の怨念を読みきって、剣峰会検挙に向かわせるために仕組んだ窪島の罠とは考えられないだろうか。はたまた高貝麾下、雪辱を晴らしたい者たちによる大がかりな企てではないか。

 サイフォンが立てる静かな泡の音と香ばしく甘い香りとが脳髄を柔らかく刺激し、無闇やたらな思索の悪循環を断ち切る決意を起こさせてくれた。

 やはりこのパズルには、まだピースが足りない──。

 中尾はそう結論すると、重だるくなりつつあった意識に喝を入れ、痛む身を起こした。


     九


 中尾は唐突に話題を変えた。

「奥多摩の件、主犯は川村、共犯に剣峰会幹部の岩本。ガイシャは友岡と警察は断定したそうです」

 中尾の顔の痣の由来を笑いながら、焼き鳥を次々裸の串にしていく男の手が止まった。

 新橋裏の細い路地を少し入ったところに立ち食いの焼鳥屋がある。三坪の細長い店内に三つの裸電球がぶらさがり、その下のL字型のカウンターはうつむいてぼそぼそ喋る客で満たされていた。他の客が半身になってひしめいているところ、最奥部では中尾と窪島が悠々と席を占めている。だが、いまその二人も半身になって互いの視線をぶつけあっていた。

 窪島渉は食いかけの串にかぶりついてから言った。

「そうらしいな」

「事はそう単純だとは私は思っていません」

「酒の肴になる話ならつづきを聞くがね」

 そう言って窪島は串を放った。

「友岡と川村が、実は繋がっていたのではないかという事実に興味はありませんか」

 中尾は反応を見逃すまいと、窪島の顔を凝視した。

 それまでの上機嫌な会話で普段の倍もゆるみっぱなしだった目元の皺が両端から一本ずつ消えていき、弓なりに持ちあがっていた唇は一の字に白く変色するほど硬く引き結ばれていった。そして、最終的に固定された表情は、まるで彫刻の胸像のような無表情だった。

 だがそれも数秒の間に崩れ、窪島は肩をゆすって笑いだした。

「事実、とはな。そうまで言いきったが、根拠はあるのか。確か、川村ってのは友岡の天敵だったはずだぜ。友岡の奴があんな狂犬と手を組むわけなかろうが。それに知ってるか? いや、知るまいな。その若衆のせいで、達夫はこの俺に土下座する羽目になったんだ。達夫は赤っ恥をかかされたんだよ。あれ以来、川村の手綱は達夫ががっちり握ってるだろうよ」

 そう言って窪島は中尾の鼻先に握り拳を突きつけた。中尾は眼前の拳をよけて、再び窪島を真正面から見据えた。

「事件現場の手前の集落で、二台の車が目撃されています。前を行くのは友岡のセリカ。その後ろを岩本から借りたブルーバードで川村が追う。しかし、なぜ奥多摩湖なんでしょうか。川村が友岡を襲う気でいるならいつでもどこででもできたはずです。わざわざ都心から奥多摩まで五十キロも追跡することはない。そもそも友岡はなぜ奥多摩なんかに向かっていたんでしょう。真夜中だというのに」

「新車を手に入れたんだ。てめえの手垢しかついてねえまっさらな車で夜のドライブってのは格別なもんだぜ」

「東京都心から五十キロもの間、ひとつも襲撃に適した場所がないわけじゃない。そんなの狂犬らしくないと思いませんか? あるいは、人知れず獲物に襲いかかりたかったのか──いいえ、それはちがう。結局のところ、人気のない奥多摩へ行ったって派手にやらかしているんです。その点は川村らしいといえば川村らしいですが、本末転倒です」

 窪島は憮然と押し黙ったままだった。中尾はジョッキを一息に飲みほした。

「そこで、別の見方をしてみましょう。友岡と川村は繋がっていたと考えるんです。二人は車を連ねて奥多摩へ――いえ、奥多摩のさらに先に用があったのかもしれない──ともかくどこかへ向かった。辿り着いた先にうまい話でもあったのか――それにしても、友岡の持っているうまい話ってなんでしょうね。窪島さん、心当たりありませんか」

「あるわけないだろうが」

 窪島は吐き捨てるように低く凄んだ。鋭い声に店内が一瞬静まった。だが、中尾は臆せずつづけた。

「ともかく、友岡がそのうまい話ってのに川村を誘った――わけはないですね。となればその逆、友岡の奴、嗅ぎつけられたんでしょう、川村に。つまりは峰岸達夫にです」

 中尾は窪島が動揺を抑えこむ様子を眺めながらさらに言葉を被せていく。

「友岡は過去二度、川村の襲撃に遭ったためにその脳髄に恐怖を植えつけられています。簡単に狂犬の言うなりになるでしょう。ですが、友岡もやられっぱなしではおさまらないはずです。圧倒的な恐怖に対して、今度こそどうにか反抗しようとしたかもしれない。川村に企てを嗅ぎつけられたとしても、人気のないところへ誘いだしたのはむしろ友岡の方だったと考えられなくもありません」

「で、返り討ちに遭った、か?」

「あくまで一つの可能性ですが」

 窪島は鉄面皮を被りなおしたようである。顔の皺は微動だにしなかった。

「川村が友岡に接触してきた時期も当ててみましょうか。おそらくは十月です。どうです? 心当たりはありませんか」

 窪島はじろりと中尾を睨んだ。

「十月──というのはどこからきたんだ」

「情報収集は千束組の得意技ですよ」

 中尾はほほえんだ。窪島は鼻を鳴らした。

「ほれみろ、飯がまずくなっただろうが」

 窪島は手拭きで口をぬぐうと、千円札をカウンターに叩きつけて店を出ていった。中尾はほっとした表情の客たちに肩をすくめてみせた。


 窪島自らがハンドルを握る「シルキー・シックス」BMW2500に、中尾は往路のときほどには心地よさを味わえないでいた。車内の静寂が余計に胸を重苦しく圧している。クリーニングから戻ったばかりのジャケットに焼き鳥のタレがはねていた。中尾はその染みを所在なげにこすりながら、踏みこみ過ぎただろうかと自問をつづけていた。

「どっちなんだ?」

 窪島が唐突に訊いた。

「は?」

「俺か達夫か、だ」

「私は奥多摩事件の解明に動いているだけです。どちらというのはありませんよ」

「あんたのところ、やばいんだろう。橋本さんの力を過信して頼っていると、いつか足下をすくわれることになるかもしれんぞ。手を結ぶ相手を間違えるなよ」

「たとえば、窪島さんと組む、とか?」

 中尾の提案を窪島は鼻で笑い飛ばした。

「いまの千束組は一銭の価値もない。こっちからお断りだな」

 中尾はといえば苦々しくも自嘲するしかなかった。自分を過大評価するほど中尾は自惚れ屋ではない。

「千束組は先代の人望で保っていたようなものだ。お前さんは、人より少しは頭の回転が速いんだろうが、先代のように非凡ではない。考え至ることといえば、根拠のないくだらない妄想ばかりだ」

「非凡でないという点は認めますよ。凡人だからこうして苦労してるんです。先代がうらやましい。私は自分の愚かさを呪いたくなりますよ。ただ、妄想かどうかは結論を下すには早すぎますよ。それとも、窪島さんはもうわかってらっしゃる?」

 信号待ちで窪島は中尾を見つめた。暗い車内ではその双眸に込めた意思は見えなかった。

「能力に見合わないことはしない方がいい。いずれ自分を呪うことになる」

「ご忠告、確かに受けとりました」

 中尾はおどけてみせた。

「で、どっちだ」

 窪島はなおも問うた。目にはやはり色はない。

「困りましたね、同じ事を何度も訊かれても――私はあくまで中立です。そうとしかお答えできません」

「言葉通り、そうあるべきだぜ」

 窪島はそう言ったきり押し黙った。


     十


 高窓からカモメが見えたというなら、アジトのそばには必ず水辺があるはずだ。

 そうだとしても、埠頭や大型河川、運河沿いの貸倉庫群、工場街などそんな場所は無数にある。その上、長方形の床面、短辺に搬入口の大扉と脇に通用口、高い位置に明かり取り用の窓がならび、頭上を渡す滑車を吊るための梁というのも、工場や倉庫建屋としてはありきたりな構造であるため、これだけの情報からでは絞りこむことは不可能にちかい。

 プレス機がひっきりなしに作動し、旋盤が高速で真鍮を切削している。さらに吸音材を内壁に張りめぐらしているとはいえ、銃の発射音を完全に吸収できるほどではなかったとは中尾の言だ。周辺住民に聞きつけられ、警察へ通報されることは絶対に避けなければならないことから、住宅街のそばという線ははずせるだろう。

 また、平日の午後でも壁越しに外部の騒音が聞こえてこなかったことから、廃工場街か、あるいは物流拠点としてさほど重要でない、都心を離れた倉庫街の一角であることも考えられる。いずれにせよこれでもまだ該当候補が多すぎる。

 中尾は一時間弱ほど車にゆられていたという。都心から一時間もあれば千葉へも川崎へも移動できるが、高速道路は使わなかったらしいというから霞ヶ浦や横浜、横須賀などは対象からはずせる。だが、これでもまだ範囲が広すぎる。

 そこで善三はアジトの設備に着目してみた。

 中尾の言によれば、アジト内の鋳造小屋には、弾頭の原料を融かした際に発生する有害な鉛蒸気を外部へ排気するための、二機の大型換気扇と換気ダクトが設置されている。ダクトの仕上げ具合からおそらくは専門の工事業者が施工したはずだという。

 善三はまず換気扇やダクトの製造メーカーのカタログを集めることからはじめた。それらを中尾に見せ、換気扇の機種を特定させるためである。中尾は換気扇の塗装や枠の形状、スイッチの方式やおおよその外形寸法を憶えていた。はじめからアジトを突きとめるつもりで、手がかりになりそうなものを記憶に留めておいたのである。

 その甲斐あって、換気扇の機種は同型シリーズ三機種に絞りこむことができた。

 剣峰会は警察による昨年末の摘発作戦のためにアジトを移ることを余儀なくされた。そのため多く見積もっても、新アジトへは移設してからまだ一年以内であるといえる。鋳造小屋の換気扇やダクトなどもそのときに整備したのならば、換気扇の発注と設置は年明けから数ヶ月の範囲に絞ることができる。

 善三は模造品の警察手帳を携えてメーカーを訪れて換気扇三機種の型番を告げ、今年初めから半年間の販売代理店からの受注リストを受けとった。総数は三機種合わせて六十二台。さほど多くない。発注元はすべて設置工事も請け負う販売代理店兼施工業者だった。

 次いで、リストを埼玉、東京、千葉、神奈川に拠点を置く業者十二社に絞りこみ、それら一つずつを訪ねまわった。

 設置先は港湾地域か運河や河川沿い。

 設置箇所は小規模工場もしくは倉庫の、建屋内に建てられたプレハブ小屋。

 設置台数は並列して二機。三十センチ径排気ダクトは室内立ち上げ十メートル前後。

 善三は各業者に一月から六月までのメーカーへの発注伝票と工事明細を提出させ、自分の目で確かめていった。

 四件目の業者で、早くも目当てのものに辿りついた。




    第四章


     一


 肥えた腰のあたりのスパンコールをいらいらと無意識のうちに引きちぎってしまったとき、ようやく受話口の向こうに相手が出た。

「どういうこと? どうしてくれるの? あんなのに嗅ぎまわられるのはごめんよ――あの子のことでよ。ええ? ──わかった、落ち着くから。ちょっと待って」

 魚沼澄子はきつめのドレスの裾をたくしあげて椅子にぶ厚い尻を落とすと、ひきだしを開けて瓶とグラスを取りだした。注ぐ手に抑制が利かない。一息に喉に流しこんだ。喉が焼け、胃が焼けた。

「そんなの──知らぬ存ぜぬで通したに決まってるじゃない」

 つい十数分前の出来事を思い出し、胃の腑で渦巻く酒を吐き戻しそうになる。

「え? 名前?」

 デスク脇の屑籠をのぞきこむと、さっきまで二枚の名刺だった紙の切れ端が他のゴミの上に振りまかれている。澄子は舌打ちした。

「そんなの知るもんか――ううん、休んでるとだけしか──他にどう言えっていうのさ、言えるわけないじゃないか」

 澄子は濁声で吼えた。

「そうだ、あの子をクビにしたってことにすればいいわ。それで万事解決よね?」

 しかし、意に反して頬をはらはらと涙がこぼれ落ちはじめ、澄子は懸命に流れるマスカラを指で押さえようとした。

「いやよ、ここはあたしの店なんだから。やくざになんか絶対渡さないんだから」

 そうしおらしくいやいやをしていたが、いきなりかっとしてがなり立てはじめた。

「あんたが撒いた種じゃないのさッ、あんたが責任取りなさいよッ──いいわ。もう松岡さんに全部話してやる。全部あんたらが仕組んだことだってばらすからね。あたしはノータッチだもの。あんたが連れてきたあの男たちが、ミツコをたらしこんだんだから――あんな端金、突っ返してやればいいんでしょッ――だってェ、いやなんだもの、もうたくさんよ――」

 澄子はついに、飲んだばかりの酒と胃液を床に吐きちらした。


     二


 さっきから新参の若衆が電話の応対に難儀していた。窪島は若衆に頷いてやり、デスク上の電話機を手元に引き寄せた。

「窪島さんか。さっきの若造、いねえいねえって言い張りやがるんだから」

「波多さんでしたか。これは失礼──」

「友岡の野郎はミツコに何をしやがったんだよッ」

 劇場のスクリーンに映しだされているときに聞く声ではなかった。波多藤次の声には怒りというより焦燥の色が濃い。戦後銀幕の名脇役と謳われる大御所俳優の貫禄は微塵もない。

「奴らはいまどこにいるんだ? 『ラ・シレーヌ』のミツコだ。忘れたとは言わせねえぞ」

 内密にという約束の見返りに渡した札束のことなど、この男の脳裏にはかけらも残っていないのか。

 じとりとシャツが肌にへばりついた。電話を切る時機はとうに逸していた。

「あんな年増でも店の看板なんだよ、手を出しちゃいけねえって。あの店のバックに松岡組がついてるの、あんたも知ってんだろ? あんたらを紹介した俺がやばくなるんだ。ママだってもう喋っちまうつもりだ。おいあんた、ミツコを一体どこへやっちまったんだよッ」

 波多がひとしきりがなり立てる間に、窪島はどうにか平常心を取り戻していた。

 窪島は波多に一つ強烈に釘を刺し、一方的に受話器を置いた。

 五分後、総勢五十名を超える若衆が召集され、窪島の命を受けた。彼らは鬨の声をあげ、ビルの階段を我先にと雪崩れおりていった。


     三


 テープの再生が自動で止まったときいつもなら訪れるはずの無音が、いまは外からの騒音に取ってかわられた。何事かと鶴夫はヘッドフォンをはずした。

窓の外、はるか階下で男たちの怒号が飛び交っていた。鉄階段の方からも荒々しい足音が響きだす。その音につづき、今度は同じ階の廊下で地響きが起こった。床を乱打するかのようなばらばらの足音がこの部屋に近づくにつれて軍隊の駆足行進のようにそろっていく。建屋全体がゆれた。

 無数の足音はこの部屋の前で不意にかき消えた。刹那、喊声があがった。ドアは無数の靴底に蹴飛ばされ、ドアチャイムは狂ったように叫びはじめた。

 鶴夫はおそるおそるドアスコープから外の様子をのぞいた。

 怒号の中から「バールを使え」と声がした途端にドアスコープの視界が破壊された。ドアがきしみ、悲鳴をあげている。隙間に突っこまれたバールは一本どころではなかった。ドアの縁のそこかしこで金属の断末魔の叫びがあがり、見る間に柔らかいゴムのようにゆがんでいった。

 我に返った鶴夫は居間へ飛んでいき、電話をつかんだ。千束組事務所は三コール目に応答した。

「すんませんッ、ばれちゃいましたッ」

 鶴夫は録音されたばかりのテープの要点を伝え、次いで指示をあおぐと、命じられた通りに電話機のコードを引きぬき、窓に張りめぐらしたアンテナを剥ぎとり、受信器とレコーダーとともにリュックサックに放りこんだ。振り返ると、暗闇の玄関に夜の街の明かりが細く射しこむところだった。その光はすぐに遮断された。隙間から無数の目玉がひしめき、ぎらついた。直後、その隙間に数十本の指が芋虫のように侵入してきた。

 鶴夫はテラスに出て、柵伝いに隣室へ、そのまた隣へと飛び移っていった。階下で怒声が轟いた。十数もの白い顔が鶴夫を見上げてわめいていた。

 それを皮切りに、部屋に踏みこんだ男たちが数珠連なりになってテラスに雪崩れでてきた。鶴夫は天をあおいだ。

 天上から蜘蛛の糸が垂れてくる話を鶴夫は聞いたことがある。もちろんその話の結末も鮮明に記憶している。しかしいま欲しいのは確実に地獄から脱出できる糸──絶対切れない丈夫なロープが欲しかった。だが、そんなものがいまここにあるはずがない。

 これまで真面目に先代親分、そして中尾のために力の限り尽くしてきたではないか。他の同年代の若衆が次々と千束組を離れていったときも、鶴夫は千束組を動かなかった。頑として他の兄貴分たちの誘いにはのらなかった。裏切るということは、いつか自分も裏切られるということだ。裏切らないということは、いざというとき裏切られないということだ。そんな単純な論理で鶴夫は生きてきた。こんなときこそ、誰も裏切らなかったことへの報いがあってもいいはずだ。

(そうだろ? 極道の神さんよ。頼むぜ――)

 鶴夫は灰色の空を見上げて祈りながら、そそり立つマンションをよじのぼりはじめた。

 一つ上階のテラスに到達したときに柵から見下ろすと、数人の男たちが鶴夫と同じルートを辿ってのぼってきていた。鶴夫は先頭の追っ手めがけて唾を吐いた。唾は男の頬に命中したがひるみもしなかった。逆に恍惚とした笑みを浮かべて、野獣のような眼差しを向けてくる。鶴夫はぞっとして膝から力が抜けた。

「降りろッ来るなッ、ぶっ放すぞッ、こっちはチャカを持ってんだからなッ」

 鶴夫は拳銃を握っているふりをして追っ手に向かって構えてみせた。ところが瞬く間に数発の銃弾が鶴夫に襲いかかり、頭上で弾けたコンクリートの粉と熱い銃弾のかけらをしこたまかぶった。鶴夫は首を引っこめた。

「しょぼいイチモツ振りまわしてんじゃねえよッ」

 そう虚勢を張ったものの、銃撃があってはもうさっきまでのように柵をのぼることができなくなっていた。撃つなといって撃たないでくれるとも思えない。鶴夫は足下の柵にのびてきた手を踏んづけた。次いで、手近にあった植木鉢を追っ手たちの頭上めがけて落としてやった。

 しかし、状況はたいして変わらない。だが先代や中尾の兄貴ならこんなときでも機転を利かせて脱出するはずだと、鶴夫は信じて疑わなかった。

 先代は抜群の聡明さをもって組を興隆させた。中尾が二代目を襲ったのはその明晰な頭脳を見込まれたからだ。そんな彼らを敬愛し、憧れ、彼らの背を追いかけているのが鶴夫という男だった。どうせ俺の頭なんかじゃ、と諦めかけていたが、心が折れる寸前で鶴夫は踏みとどまった。

(自分が助かることだけが正解じゃない)

 鶴夫は植木鉢をもう一つ落として追っ手を牽制すると、必死の思いで思考をめぐらした。

 アジトはいきなり襲われた。今日までずっと、窪島組に盗聴を疑うような妙な様子や気配はなかったのにだ。しかし、とうの昔にバレていたのかもしれない。自分たちは泳がされていた。となると、さっきの電話での会話は窪島にとって不測の事態で、外部に聞かれてはならない内容だったのだ。この襲撃に踏み切ったのはその会話のせいだろう。

 鶴夫は地上にうごめく男たちを見やった。完全に囲まれている。見える範囲で階下に二十ほど、部屋に踏みこんできたのは十はくだらなかった。視界の外で動いている奴らを二十として総勢五十。目眩がした。逃亡は絶対不可能だ。

 千束組事務所の方にも手がまわっているだろうか。おそらくは。情報はいまや二分されているのだから。

 しかし、さっきの電話では中尾にそんな様子はなかった。窪島は、ここだけに配下の者を集めたのだろうか。だとしたら──なぜだ。

 とにもかくにも、いま自分が窪島の手に落ちたら、次に奴らは千束組事務所に雪崩れこむだろう。せっかく手に入れた情報なのに、せっかく伝えたのに、共倒れほどつまらないものはない。

(待てよ)

 脳髄に電撃が走った。閃きが諦観を一掃した。鶴夫はすぐさま脳内で検証してみた。

 何を生かし、何を殺すか。

 殺すのは当然自分自身でいい。

 鶴夫はポケットを探った。小銭が鳴る。

(窪島の野郎がどう出るか、だが──いまはこれしかない)

 決心がついた矢先、背後に電灯が点り、悲鳴と怒声が同時にあがった。追っ手がここの部屋に侵入してきたのだ。カーテンの隙間から追っ手と巻きこまれた住人とが小競り合いしているのが見える。その隙に鶴夫は素早く行動に出た。それはほんの数秒で完了した。と、いきなりカーテンが引かれ、鶴夫は数十を超える鬼たちのどろりとした目玉という目玉にさらされた。

 鶴夫は身を翻してテラスの端へと走った。少しだけ軽くなったリュックを背負いなおして外壁の雨水管に飛びつき、よじのぼりはじめた。

 七階を越えたあたりで視界が開けると、突風が鶴夫の体を煽った。踏んばろうとしたが積年の埃に足を滑らせた。鶴夫は必死に雨水管にしがみついた。途端に恐怖心が胸に押し入ってきた。体はこわばり、鶴夫のどんな命令も聞かなくなった。しかし鶴夫の心すべてが挫けたわけではなかった。風が過ぎるのを待つだけだと、恐れとおびえに融解しつつある自分の意識に言い聞かせた。だが、すぐ足下からの声は、そのほんのわずかな間も待ってはくれないようだった。

「落ちるか? 大人しくするか?」

 白い手につかまれた足首の向こうに、闇にぎらつく目があった。鶴夫は身をよじってどうにかリュックを背からおろすと、追っ手に投げつけた。だが敵はひるまなかった。リュックは数秒して地上で派手な音を立てた。

 鶴夫はもう一度天をあおいだ。天界から降りてくる糸はやはりなかった。そこにはただ、上階や屋上から鶴夫をじっと見下ろす幾対もの漆黒の双眸があるのみだった。鶴夫は観念した。ただ、自暴自棄になってここで、この高さから身を投げることはまだできない。窪島に会う必要がある。


 窪島は室内を見まわした。毛布、灰皿、吸い殻、数本のカセットテープが散らかっている。壁からは引きちぎられた電話線の切れ端が垂れさがっている。居間には電灯すらなかった。キッチンに据えつけられた蛍光灯を点し、回収したリュックの中を検めた。テープレコーダーと電子基板が大破していた。

 窪島は床に突っ伏している男を振り返った。顔面のふくれあがった男は、赤く色づいた鼻提灯をふくらませていない方の鼻孔からかろうじて呼吸をしている。もう何を訊いても答えられまい。

 窪島の側近の一人が息も絶え絶えの男のポケットをまさぐっていた。出てきたのはひとにぎりの小銭だけだった。

「連絡用の電話代でしょうかね」

「他には」

 窪島は若衆を呼び、千束組の若衆を捕らえるまでの様子を訊ねた。先陣きって追いすがり、吐きかけられた唾を舐めた男である。

「こいつはベランダから隣のベランダへ逃げました。で、すぐに追いました。また隣へ逃げるもんだから、俺も追いました。今度は上に逃げました。ええ、追いましたよ。で、奴がまた上へ逃げたんで、俺も──」

 窪島は手を振って黙らせた。部屋を捜索していた別の側近が戻って来るなり首を振った。その報告に窪島は満足した。

 エントランスを出ると、パトカーの赤色灯が窪島の視界に飛びこんできた。だがそのパトカーのすぐ目の前で、若衆たちが手当たり次第ひろってきた自転車でバリケードを積みあげていて、警官たちは路地への侵入を阻まれていた。その隙に窪島らは、ずた袋のようになった男の身体を担ぎあげ、闇にまぎれて事務所に戻っていった。


     四


「善さん、頼まれてくれ。まずいことになった」

 鶴夫との通話が切れるなり中尾は叫んだ。善三はオートバイのヘルメットを抱え、部屋を飛びだしていった。中尾は再び受話器をつかんだ。

 橋本を電話口に呼びだす間、中尾は鶴夫が口走った言葉を整理してみた。窪島、友岡、ラ・シレーヌ、それに──。

「なんだ」

 重い声が応えた。取り次ぎもなかった。橋本本人だ。

「兵隊を貸してください。窪島がうちの若いのを襲ったんです」

 数瞬の間、沈黙がおりた。中尾は息をつまらせ、そして訊いた。

「何を聞きましたか」

「盗聴のことか」

 橋本は気だるそうに言った。中尾は歯噛みした。

「盗聴をはじめたのは夏前か。何が目的だ。お前、達夫に取りこまれたか」

 中尾はその問いには答えなかった。

「私にはあなたが欲しがる情報がありますよ」

「聞くかッ裏切り者が。お前は俺を裏切ったんだ。それがどういうことか――」

「橋本さんが喉から手が出るほど欲しいものですよ」

 中尾は橋本をさえぎってなおもつづける。

「それに、盗聴のおかげで奥多摩事件も一つ進展するんです。そこで取引です」

「取引だと? 小童めが。いいか、そんなもの糞喰らえだ──ええ畜生、『橋本さんが欲しがる情報』だと?」

「ええ、実に有用です」

「気遣い無用だ。そんなもん全部、俺がお前らごと喰らってやる。有用だろうが何だろうが、喰って糞を垂れた後、糞の中からほじくって見つけだしてやる」

 いきなり通話が切れた。中尾も受話器を叩きつけた。

(話にならねえ)

 すぐにその電話が暢気なベルを鳴らしはじめた。中尾は受話器をもぎ取ると、耳に押し当てた。橋本の息遣いではなかった。

「窪島です」

 電話の相手は慇懃に言った。途端に中尾は混乱した。窪島がくすりと笑った。

「どこか悪いのか」

「いえ──ご用件はなんでしょうか」

 やっとそれだけ言うと、受話口は沈黙した。中尾も黙りこんだ。その実、中尾はまるで無策だった。窪島の出方を待つしかなかった。窪島は何を考えているのか。この沈黙は一体何だ。奴も思案しているというのか――。

「暢気だな──おたくの若衆が一人、いま俺の手中にある。理由はわかるな?」

「どういうことでしょうか。何かご迷惑をおかけしましたか」

 中尾はわざとらしくとぼけてみた。だが、窪島は冗談と受けとらなかった。その声音が一変した。

「身に覚えがあるだろうが」

 窪島は盗聴器を発見し、アジトを突きとめるまでの経緯を説明した。

 配電盤に送信機が仕掛けられていたこと。地道に電波到達距離を調べて捜索範囲をせばめ、次いで近隣の不動産業者をあたって盗聴の本拠となっていたマンションを突きとめたこと。その部屋は七月上旬上野駅前の不動産業者で吉原の女の名義で賃借契約が結ばれていたが、女の住まいは別に存在することがわかり、さらにはこの数ヶ月間、電気・ガス・水道メーターは契約時点の指針からほんのわずかしか動いていなかったこと。女を問いつめると、金をもらって名義を貸したと明かしたこと。その部屋の人の出入りを見張っていると、早々に男が現れたこと。この男──平山鶴夫が千束組構成員であることが苦もなく割れたこと──。

「犬めが」

 窪島は低くうめいた。

「鶴夫は──うちの者は無事なんでしょうね。まだ交渉の余地があると思いますがね」

「あると思うのか」

「窪島さんにとって有用な情報を私は握っています。それで水に流してもらいたいと思ってるんですが、いかがでしょう」

 中尾は耳を澄ました。窪島の息遣いを数える――三、四――五――。

「聞こうじゃねえか」

 中尾は違和感を感じた。本来なら、窪島の返答がそんなものであるはずがない。

 ブラインドの隙間から外の通りを見渡した。さっきも確かめたが、異常はない。

 確かに鶴夫は窪島の手中にある。橋本にも見限られた。千束組がおかれている状況はかんばしくない。だが、こちらには鶴夫がよこした情報がある。窪島とていまは泥沼に片足を踏み入れているはずだ。それなのにその余裕はどういうわけか。

 鶴夫がもたらした情報によって、窪島と友岡の目的が「ラ・シレーヌ」の「ミツコ」にあり、そして「ミツコ」は友岡同様、行方をくらましていることもわかった。その「ミツコ」が奥多摩事件に巻きこまれたかどうかはともかく、窪島と事件との縁が浅からぬものであることは確かだと判明したのだ。

 鶴夫ごとき若衆一人が窪島の切り札になろうはずがない。だが中尾の握っている情報は、今後の調査次第では窪島にとって致命的となりかねない代物となる可能性を秘めているはずだ。

 だから、窪島が取るべき行動としては、中尾の奥多摩事件調査続行の次の一手を阻止せんと、全兵力をもって中尾麾下千束組の三人を襲撃し、捕らえる大号令でなくてはならないはずだった。

 実際はそうではない。ビルを取り囲むどころか、悠長に電話でお喋りなどしている。窪島はいまだに自分が優勢だと思いこんでいる。そうとしか考えられない。

 なぜか。

 中尾はふと思いついて切りだした。

「うちの若衆の無事を確かめたい。交渉はそれからにしましょう」

「寝てるよ。しばらくは起きられん」

 中尾は胸が張り裂けそうになるのを堪えた。いま窪島の口から聞きたい言葉は鶴夫の安否ではない。

「意識すらないんですか。それなら死んだも同然だ。この情報は別の人にくれてやりましょう。諦めてください」

「そう焦るな。死んじゃいないよ」

「では電話口に出してください。うちの者が本当にあなたの手中にあるのかを確かめる必要がある。ひょっとしたらあなたのハッタリかもしれないでしょう」

「この男が何を喋るかわかったものじゃない。だからできないだけだ」

 釣り針に獲物がかかった感覚があった。だが中尾は焦らなかった。

「私はただ生死を確認したいだけだ。その男が何を喋るというんですか」

「そんなことは、こいつが無事あんたのところに帰ることができたときに聞けばいい」

「喋られたら困ることがあるんですね」

「盗聴されたというハンデがあるからな」

「うちの若いのが何を聞いたというんです? どんな重要なことです」

 中尾は窪島の溜息を聞いた。それよりも早く、中尾もまた胸中で安堵の溜息をついていた。

「とにかく、あんたのとこの若いのが無事だということは、俺を信用してもらうしかないな」

 中尾は確信した。窪島は、波多との会話内容がすでに鶴夫から中尾に伝わっている事実を知らないのだ。

 さっきの橋本によれば、夏頃には盗聴アジトは割れていたらしい。以来、千束組の裏切り行為は告発されないまま泳がされていたわけだ。そして今宵、たったいま盗聴された会話内容に重要な情報が含まれていたことを危険視して、窪島は盗聴アジトの急襲に踏み切った。

 その迅速な行動の裏で窪島が案じていたのは、その情報がその部屋の外部へと漏れて広まることだったはずだ。アジトに踏みこんですぐに、連絡手段の有無──電話機の有無を確認しただろう。電話機は連絡用に一台設置してあった。だがどういうわけか窪島は、まだ情報は漏れていないと結論したのだ。

 おそらくは、鶴夫が電話機本体をどこかに隠したのだ。中尾への連絡手段が皆無だったことを窪島に示すために。中尾へはまだ情報が伝わっていないと思いこませるために。

(上出来だぜ、鶴夫よ)

 となると、必要なのは時間だ。鶴夫がもたらした情報が使い物になるかどうかをいますぐにでも確かめなくてはならない。それによってはこの交渉運び、より優位に立つことができる。といっても、あまり時間をかけ過ぎることもできない。警察の捜査も時々刻々と進展している上、橋本もさっきの様子ではすでに中尾の首を切ったと見なしていいだろう。期限を待たず、橋本ものりだしてくる。

 結局のところ中尾の取るべき道は、早急に奥多摩事件の真相を解明することしかないのだ。誰よりも早く。その真実が、中尾たちの救世主になってくれるかどうかはともかく。

「私の条件を提示しましょうか。それを呑んでいただけるのならヒントを出します」

「言ってみろ」

「まずは、しばらくの間、うちの若衆の安全を保証していただきたい」

「いますぐ解放してほしくないのか」

「そちらで預かっていただいている方が安全かもしれないので」

「飯代は奢ってやる」

「それはどうも──それと金輪際、峰岸組は千束組には手出し無用。さらに、私と窪島さんは五分の杯を交わしていただきます。すべてが済んだ後にネタと人質の交換をしましょう」

 窪島は鼻で笑って聞いていたが、後につづいた言葉にはひりつくような怒気を含んでいた。

「お前らのせいで俺の舎弟が捕まっている。いままさに舎弟の、二つの家族が路頭に迷おうとしてるんだぞ。五分の杯だと? よくもぬけぬけと。そんな条件、俺が呑むと思うのか」

「相応の価値があるネタなんですがね」

「よっぽどの自信なんだな。だが、俺にとって価値があるとは限らない」

「誰にとっても価値あるものです。とくにこのご時世では――」

 窪島は一つうなると押し黙った。彼は理解したようだ。中尾に手出し無用だということも理解してくれたことだろう。窪島が、中尾の持つ情報を手に入れるためには大人しくしていることだけだ。達夫のアジトの所在は、切り札としてはエースを超えるジョーカーだということだ。中尾はほくそえんだ。

「とりあえず返事は保留で構いません。一晩考えてください。それまで窪島さんのためにお取り置きしておきますから。あ、うちの若いの、あまり痛めつけないでくださいよ」

 中尾は一方的に通話を切った。


     五


 魚沼澄子は人魚のブロンズ像に寄りかかり、手にしたブランデーグラスを忙しなくゆらしていた。飛沫が一滴、はちきれそうなスパンコールのドレスにかかったのをきっかけに彼女はいきなり口を開いた。

「ミッちゃんのことでしょ――もういやッ」

 気取ったざわめきがドア越しに漏れてくる。銀座の一角にある雑居ビルの広大な地階、そこに高級会員制クラブ「ラ・シレーヌ」がある。フランス語で人魚を意味する店名にちなみ、人魚をモチーフにした種々雑多な工芸品がホールのみならず、この事務室にもあふれかえっていた。壁にかかるステンドグラスは、そのまま店の看板にもなっている。

 澄子はソファにへたりこんだ。中尾は優しく声をかけた。

「話してくれないかな。ミツコのこと、窪島のこと、友岡のこと――」

 澄子はグラスを煽り、苦々しく顔をゆがめた。中尾はもう一段優しい声で言った。

「目的はあんたも俺も同じだよ。俺だって彼女を捜してるんだから」

「嘘おっしゃい」

 澄子は中尾をきっと睨みあげた。醜い面相だった。中尾は思わず顔をしかめた。

「ミツコの本名、住所、歳格好くらい言えるだろうが」

 中尾が凄むと、澄子はソファの背もたれに突っ伏してすすり泣きだした。

 澄子が泣きふせっている間、中尾は事務所中を漁ってホステスたちの履歴書を綴じたファイルを見つけた。

 ホステスたちの本名には源氏名が書き添えられていた。だが、ミツコの源氏名を持つ履歴書はなかった。他の書類も漁ってみたが、ミツコに関係するものはなかった。先客によってすべて持ち去られた後なのかもしれない。

 中尾は部屋をぐるりと見まわした。壁には写真の入った額縁がいくつもあった。澄子と年間売り上げトップのホステスがならんで写っている写真だ。澄子から記念品の時計や指輪やらを贈られ、それが映えるようにポーズを取っている。どの写真も澄子の隣には同じ顔がいる。だが、ホールのホステスたちの中にも履歴書のファイルにも、その端正な顔立ちの女は見かけなかった。

 中尾は澄子の顔をあげさせると、写真をその鼻先に突きつけた。澄子は泣きはらした目で写真を一瞥すると、今度は声をあげて泣きわめきはじめた。この女がミツコなのだろう。中尾は写真を抜きとってポケットにしまい、ふと思いたってフロアへ通じるドアをロックした。思った通り、数秒もすると黒服の男がオーナーママを案じてかドアを叩き、声をかけてきた。ノックと呼びかけは次第にエスカレートしていった。

 中尾は物色のペースを速めた。

 何気なくのぞいた屑籠に、他のゴミにまじって破れた紙片が散らばっていた。中尾は屑籠をひっくり返して紙片を拾い集めた。素早く掌の上で繋ぎあわせてみると、それらはやはり名刺だった。ここを訪れたという二人の刑事のものだろう。所属までの肩書きはどちらも同じで「警視庁東調布署刑事課 強行犯第二係」とあり、そしてそれぞれに「巡査長警視庁巡査 梶功夫」と「警視庁巡査 大室賢悟」とある。

 黒服がドアを蹴飛ばしはじめた。

「ほっといてよッ」

 澄子は顔をあげ、いきなりブランデーグラスをドアに向けて投げつけた。だが、グラスはドアではなく中尾の胸に当たり、床に落ちて割れた。当然、焼き鳥の染みを落としたばかりのジャケットもズボンも、つるりとみがきあげたウイングチップにまで黒い染みができた。中尾は澄子の髪を鷲づかみにしてぐいと引きおこし、頬を張った。澄子は般若の形相をして気が狂ったかのように絶叫した。

 ドアが蹴破られ、黒服が雪崩れこんできた。

 四人がかりで抱えあげられ、中尾は洗濯代だという一万円札とともに酔い客と客引きでごった返す並木通りに放りだされた。だが、冷たい地べたに寝っ転がってめげている暇はない。中尾は痛む体に鞭を入れた。


     六


『連絡されたし 母上の件 あすなろ寮 羽賀』

 大室は机に貼りつけられたメモを剥ぎとり、ポケットに突っこんだ。その中にはすでに三枚のくしゃくしゃになったメモ用紙があった。書いてある文言はまったく同じだ。足早に刑事部屋を出る。その背に二宮刑事課長の野太い声が追いかけてくる。

「施設に入れてハイおしまいかよ、薄情もんがッ」

 冷えきった資料庫に駆けこみ、備えつけの席に腰をおろすなり大室はこめかみに噴きでた焦燥の汗をぬぐった。

 半年前、大室があすなろ寮を訪れたとき、母親の房子は息子の顔を憶えていなかった。彼女は大室の巨躯をながめまわし、褒めちぎったものである。

(ご立派ねェ。さぞ親御さんはご自慢でしょう。あなた、お父様お母様に感謝して、親孝行しなくちゃいけませんよ)

 その言葉に大室は心の底からおののいた。


 女手一つで育ててくれた恩も消し飛ぶほど、大室は母親を嫌っていた。

 父の賢造は終戦からほどなくして母子のもとに帰ってきた。戦後のいざ再出立というときで、五体満足の父親の存在は母子にとって心丈夫に思えたものだった。しかし、貧しいけれど幸福な日々も束の間のことで、賢造は闇市で起きた喧嘩の仲裁に入った際に殴り合いに巻きこまれ、打ちどころ悪くして命を落とした。

 喧嘩を囲む高い人垣にさえぎられ、幼い大室には父親の身に何が起きたかわからなかった。記憶にはただ、父親が人垣を割って突き進む光景があるだけだった。それは、一つの正義の形が大室の脳髄に刷りこまれた瞬間でもあった。

(やせっぽちのくせにさ。何様だっていうんだい。男ってほんと馬鹿だね――)

 房子は賢造の遺影に向かってそう罵った。

 夫のひ弱さをなじりながら、房子は大室を丈夫に育てようと毎日のように牛乳を飲ませ、肉を食べさせた。だが、父親の悪口を聞かされるのがたまらなく嫌で、大室の心は次第に母親から離れていった。

 貧しい母子家庭だったが、中学卒業後の進路選択の段になると、大室は母親に高校への進学を頼みこんだ。だが、このとき頭を下げつつも、密かに高校卒業後は警察官になると心に決めていた。それは正義漢たる父親を肯定し、母親の父への罵倒を否定するためでもあった。

(馬鹿だね。あんたもあの人みたいに死ぬよ、きっと)

 のちに息子の思惑を知った房子はそう言いきった。大室の母親への嫌悪は倍増した。

 警察の独身寮に入ってからは母親と連絡を取ることはほとんどなくなった。たまに正月にでも帰れば、警察官という職業をなじられ、しまいには敬愛する父親を、その正義感をも一緒くたにして侮辱されるのが常だった。

 一年ほど前、房子の言動がおかしいと近所の顔なじみが大室に連絡してきた。まさか、まだ五十いくつじゃないかと訝りつつも、大室はもう何年も足が遠のいていた房子の住む長屋に帰った。そのとき房子は、十年前から変わらない息子の顔を見るなり、よそゆき顔で──さらには声の調子を一段あげて、どなたさまでしょうかと訊いてきたのである。

 日々、痴呆は房子を蝕んでいった。

 大室は忌々しげに机を叩いた。電話機が跳ねた。それは自らの存在を主張し、さっさと連絡を取れと催促したかに見えた。大室は電話機を払いのけ、ポケットの伝言メモを全部まるめて屑籠に放りこんだ。

 思考回路を切りかえて、天井まである棚の列の狭間を歩きだした。


 目当てのものは他の資料整理箱との隙間に挟まれていた。薄い紙挟みは瀬野創治郎が被害を受けた巨額詐欺事件の捜査資料である。

 昭和三十四年、瀬野創治郎が営む瀬野総合織布株式会社は工場および設備規模拡大五カ年計画の最終年にあった。計画のそもそものコンセプトが第二次朝鮮戦争勃発の有事に照準を合わせたものであったため、朝鮮特需もピークをとうに過ぎ、半島の熾火も冷めつつあった時世においては、やはり実質成長率と計画当初の理論値とのギャップが開きはじめていたという。もう戦闘服や軍用テントなどは駐留米軍、韓国軍からさほど必要とされなくなっていたのである。

 銀行からの融資額は頭打ち、ついに最終年を計画通りにのりきれないことが判明した。

 取るべき選択肢は二つのうち一つ。一つは計画の打ち切りもしくは縮小など、潔く方針転換すること。もう一つは別に新たな資金を調達、投入し、必ずいつか来る有事を見据えて突き進むこと。瀬野創治郎は消極的判断をきらい、後者を選んだ。

 その頃、折よく彼に持ちかけられたのがM資金運用の話である。

 戦後GHQに接収された旧日本軍による略奪資産が、日本とアメリカ政府がからむ秘密組織によって管理運用されていると、瀬野創治郎を訪れた自称政府筋の男は語った。戦後復興の名目で貯めこまれた数百億円ともいわれるその金がいわゆるM資金と呼ばれるもので、瀬野創治郎こそ選ばれし者で、戦後繊維産業の一翼を担ってきた立役者だからこそ、その資金の一部を運用する権利を有するのだと男は宣った。

 創治郎はその政府内秘密組織の認可申請のための手数料五千万円を男に渡した。ただ、彼にとってはタイミング悪しく、前年の資金難の際に私財のほとんどを注ぎこんでしまっていたため、五千万もの金は手元になかった。そのため、彼は会社の運転資金に手をつけたのである。

 男は金を持って忽然と姿を消した。

 必死の資金繰りの甲斐なく、黒字倒産は不可避だった。創治郎は会社を二束三文で同業者に売却し、彼自身は繊維産業の表舞台から身をひいた。

 この一件は巨額詐欺事件として明るみになった。だが、人間不信に陥った瀬野創治郎は警察への捜査協力を拒絶した。これ以上生き恥をさらしたくないということなのだろう。三回に分けられた調書の署名はどれも顧問弁護士である「実田誠」となっている。ただ、この件に関するすべての決断は創治郎によるもので、実田はまるで関知していなかった。そのためか、捜査は頓挫した。

 大室は紙挟みを棚に戻した。

 この事件をきっかけに瀬野家の土台は決定的に大きく傾ぎ、創治郎の死をもってついに根こそぎ崩壊したわけである。

 いや、崩壊というのは少しちがう。

 花江の零落は自業自得だとしても、結局、事件を機に身を持ち崩したのは創治郎本人だけなのだ。瀬野家当主凋落の前に家を飛びだした長男創一郎はいまや実業家として成功をおさめているし、次男の光治もその肥え具合からして古美術商の跡取りとして満足に飯が食えているようである。弁護士の実田誠ですら、創治郎引退の際には抜け目なく独立を果たし、いまやお抱え運転手すら雇うほどである。

 では、長女のユリはどうだろうか。

 この十二年間というもの、ユリは水商売を生業として瀬野家の家計をささえてきたという。苦労がないはずはない。その甲斐あってか、彼女はたった一人で瀬野家の遺産を相続することになった。これを不幸中の幸いといわずしてなんといえようか。

 実の息子たちを勘当したことから始まり、詐欺被害、会社の譲渡、そして当主の死。この十数年で彼らが失ったのは瀬野創治郎を核とした一族の繁栄だ。だが、そんなものを大事がったのは創治郎当人だけだった。

 創治郎という瀬野家の要を失ったとはいえ、創一郎、光治――それに実田誠も含めるなら、彼らは独自に牙城の礎を築きあげている。ユリもまた相続遺産を元手に新たに人生の設計図を描くこともできよう。兄たちと同様に、自分の生きたいように生きればいいだけのことだ。

 大室は不意に胸がきしむように痛んだ。

(生きたいように生きられない者もいる)

 それは、このやたらでかい図体のせいだ。注がれる視線はいつだって無能な者を見る蔑みだ。誰もが安田講堂での出来事を揶揄してくる。痩せっぽちの学生どもに真っ先にのされたのはあろうことかあの大室だ、と。

 大室の理想は、くだらない喧嘩でも弱者を見捨てておけなかった父の正義だ。母が年がら年中ことあるごとに言ってきたように、父のそれは馬鹿正直者だけがやらかすただの馬鹿げた行動だったのかもしれない。だが、だからこそ大室にはとてつもなく眩しく、しっかりと目に焼き付いたのだ。目を閉じれば今でも、父が歩み、人垣に消えていった道が見える。機が訪れれば、大室も同じ道を歩む覚悟がある。

 正義はどこにあるか。自分を盾がわりにした仲間たちが正義だったか。それとも硫酸と火炎瓶を撒きちらす学生が正義だったか。どちらでもない。あそこにあったのはどす黒い憎悪だけだった。

 いまの自分は機を待っている。だが、いまいる場所はまだ理想から果てしなく遠いような気がしてならない。

 もちろん刑事課に配属された当初に比べれば、正面から浴びせかけられる嘲笑は減った。努力の成果と信じたい。だが、この無駄に広い背中には相変わらず野卑な視線がちくちくと刺さってくる。どんな小さなミスでも否応なく無能のレッテルを貼りたがる輩もいる。好き好んで図体が大きくなったわけじゃない。胸中でそう叫ぶたびにしこりが震えてうずく。うずかせるのは常に母親の存在だ。そのことに思い至るたび、大室は歯を食いしばる。眉間に深々と皺を刻む。そんな恨みのこもった眼差しを意に介さず、房子は息子に「どなたさま?」とにこやかに問いかけてくる。

 資料室は独りになれるが、鬱々としてくる。今日はとくにそうだ。大室は廊下に出た。

 すれちがう署員の皆が皆、意味深な笑みを向け、声をかけてくる。今日ばかりは大室は気づかないふりをして足を早めた。

 何度目かの呼びかけに――無視できない者の声に、大室は振り向いた。二宮だ。

「お前に電話だ」

 大室はしぶしぶ踵を返した。


     七


 塀や垣根の狭間に澱む寒気の塊を、大室は胸と肩で押しのけて突き進んだ。

 大室を指名した電話の男は場所を告げた。大室は梶を呼びださなかった。単独行はお互い様だ。

(おたくらが探してる女のことで話をしたい。お互いにとって有益なことだ)

「ゴミが、クズどもめが」

 大室は口の中で罵った。握った拳が石のように硬くなる。

 最後の交差路の直前で、大室は身を潜めて角の先をうかがった。路地はひらけていた。直線の舗装路が二十メートルほどのび、その突きあたりはT字になっている。路上駐車している三台の車のうち、先頭の白い一台──マツダコスモスポーツに人影を認めた。と、人影が車外に降りたち、煙草に火をつけた。

 大室は角を出て街灯の下に立った。男は顔をあげると運転席に戻り、助手席のドアを中から開けた。

 運転席の男に眺められながら、大室は四苦八苦してなんとか狭い空間に体を押しこめた。男はゆったりと煙草の灰をセンターコンソールの灰皿へ落とした。

「話は簡単だ」

 男の手がいつの間にかなれなれしく大室の肩に置かれている。

「こちらはおたくの知りたいことを喋る。おたくはこちらの知りたいことを喋る。一つずつ。順番に。難しいことはなし。シンプルにいこう。おたくもそうだが、こちらも時間がない。たとえば、どうして女のことを知っているかとか、なぜ女に興味を持っているかとか、そのへんの事情には触れてもらいたくない。話せば長い話だからな。オーケー?」

「しょっ引いて話を聞いてもいいんだぞ」

 大室がからからに乾いた口を開くと、男は鼻で笑った。

「潔癖なのもいいだろう。ただ、お互い切羽詰まった状況だ。ちがうか? そこでまず――」

 男は不意に言葉を切った。こめかみのあたりを冷たい眼差しで見つめてくる。その視線がすっと下がった。大室もつられてその視線の先を追った。肩に置かれた男の手が震えている――ちがう、大室自身の肩が震えているのだ。大室は慌てて男の手を払った。こめかみを伝う汗をぬぐった。そうする手すら震えていた。

 男の声音が一段低くなった。

「こちらが知りたいのは、ラ・シレーヌのミツコ。彼女の本名と住所。おたくが話し、こちらが話す。順番だ」

 大室は唾を呑んだ。実際こんな機会に遭遇してみると、跨ぐに容易い一線ではあった。だが、この男はやくざ者だ。持ちつ持たれつ、か? とはいえ、この男の問いに答えた場合、自分は何かを失うことになるような気がしてくる。警察官としての矜持か? これは正義か?

 男は舌打ちし、ぞんざいに言い放った。

「梶って奴の方が話が通じたかもしれねえな」

「駄目だ、あの人は」

 大室は反射的にそう言った。梶は情報交換に金をからませるという。それが元であの老獪は本庁勤めから所轄に下った男なのだ。

「おりな。ぺえぺえなりの欲があると思ったんだがよ。ひったくりでも追っかけてろ」

「待て、待てったら――わかった」

 大室は助手席側のドアノブに手をのばしかけた男の手首を咄嗟につかんだ。その手の中にある筋肉に緊張がみなぎった。大室ははっとして手を放した。

「瀬野ユリだ。住所は田園調布の――」

「それかッ」

 男はいきなり身をのりだしてきた。

「知ってる、知ってるぞ。田園調布の瀬野──当主が死んだのが死亡欄にのってた。待て待て――そうか――」

 男は不意に我に返った。

「こっちの番だったな。あんた、奥多摩事件を知ってるな? ミツコ、いや瀬野ユリか――彼女はその一件にからんでる。お察しの通り、遺産がらみだろう。こいつはサービスだぜ」

 そう言ったきり、男は再び嬉々とした表情で思索に耽りだした。

 その様子が気に入らなかった。男には得るものがあったようだが、大室はただひたすら混乱していた。奥多摩事件? 遺産がらみ? 他にお前は何を知ってる? 言え、俺とお前の順番などどうでもいい、お前が全部喋るんだ──。

 大室は男に乱暴につかみかかろうとした。だが、その手が男の喉に届く前に、手首を捻りあげられた。狭い車内で大室は負けじと吼えた。

「どういうことか話せッ、瀬野ユリに何をしたッ」

「落ち着けって。次はこっちが訊ねる番だぜ」

「公務執行妨害で引っぱるぞッ」

 男は舌打ちして急に冷めた口調で言った。

「もう消えろよ。こっちは忙しいんだ」

 男は大室の手根関節をがっちり固めたまま、空いた手で助手席側のドアを開け放ち、助手席に詰まった巨躯を車外へ蹴り落とした。

 大室は車外に転げ出たが、すぐに起きあがった。男はエンジンを始動させようとしていた。大室は猛然と開いたままのドアから車内に飛びこみ、全体重で潰さんばかりに男を向こうのドアへ押しつけた。男は暴れた。だが、大室は男が振りまわす腕、蹴る足の一つ一つを倍の体重と倍の筋力で封じていった。そして、大室の熊のような両の手で男の喉笛をつかみ、掌で頸動脈の拍動を探りあて、尖った喉仏に親指を押しあてた。男がうめいた。その顔が赤黒く変色していく。

「全部吐け、この野郎ッ」

 と、猛り狂う大室の中に、まるで異質な冷感が割って入ってきた。

 金属の堅さと冷たさだ。

 大室ははっとして動けなくなった。ナイフの横腹が喉に食いこんでいる。男がそれを握る手を引くか押すかするだけで喉の薄い皮膚が裂ける。大室は硬直した両手をなんとか男から引き剥がした。男は激しく咳きこみだした。喉に張りついたままの刃がゆれた。そこが熱くなった。自分の汗に混じって血が臭った。

「木偶の坊が。ほんとに殺っちまうところだぜ」

 男は涙目をぬぐった。大室は身動ぎするのも難儀だった。極度の疲労が柔軟であるべき筋肉を硬く凍らせ、堅牢であるべき筋肉をどろどろに溶かしていた。ナイフがようやく喉から離れると、大室はのろのろとした手つきで汗と血でべたつく襟元をゆるめた。

「こんなのはお互いに損だってことがわからねえのかよ──もう行けよ」

 大室はふらつく足取りで路上に立った。エンジンのひと吼えを聞いた直後、タイヤのきしみとともに、開いたままのドアが大室を突き転ばした。無様に地面の砂を舐め、朦朧と顔をあげたが、車のナンバープレートには泥が塗りたくってあった。


     八


 疲労困憊した体に鞭打って、中尾は事務所の階段をのぼっていった。

 狭い廊下に大柄な男がいた。男は中尾に気づくと煙草を踏み消し、闘牛のように突進してきた。中尾は痛めつけられることにはもううんざりしていた。


 男は盛大に鼻血を噴きだして床に転がった。懐から飛び出してきた匕首の白木鞘に本田一家の家紋が焼印されている。中尾は四苦八苦して男を事務所の前まで引きずっていき、ノブのもげたドアを押し開いた。

 中の光景は想像した通りだった。善三と鶴夫の仕事が増えたな、と中尾はにやりとした。いっそのこと粉々になるまで破壊の限りを尽くしてくれれば箒とちりとりだけで片付くのだが、橋本のところの若衆のやることは半端だった。ただひっくり返しただけだ。金庫など、以前と変わらず見慣れた場所に鎮座したままだ。一ミリとて動かせていない。その扉と枠の隙間に無数の傷跡があるにはあるが、バールなんぞでこじ開けられるほどちゃちな代物ではない。

 壁からの電話線をたぐり寄せ、ひっくり返った机を二つ隅にのけ、倒れたファイルキャビネットの下から電話機を引っぱりだした。壊れてはいないようだった。

 中尾は強力なダクトテープも見つけると再び廊下に出て、橋本が残していった男をテープで縛りあげ、洗面所に押しこんだ。それから階段をさらにのぼって階上と屋上を調べた。残していった見張りはあの一人だけらしい。

 洗面所に戻って鏡をのぞくと、喉にくっきりと赤く指の跡が浮き出ている。唾を飲みこむと隆起した喉仏が痛んだ。

(どうかしてるぜ) 

 ジャケットを脱ぎ、左前腕に留めてあるナイフの鞘のベルトをはずして脇に置いた。シャツの袖をまくって顔を洗う。次いで鞘からナイフを抜き、刃先を調べた。血が乾いてこびりついていた。それを水で流し、袖で水気をぬぐうと、鞘におさめた。

 猛省した。あまり人を甘く見るものではないと中尾は痛感した。だが、糸口はこの手につかんだ。これしきの痣なら安いものだ。

 事務所の電話が鳴っていた。駆け戻って受話器を取ると、相手は善三だった。

「ツルの奴、確かに押さえられてます」

「こっちもやられた。めちゃめちゃだよ」

 見張りの男の──いまでは便所に転がされている男の話をすると、善三は声を落とした。

「だとすれば、そこはまだ危険です。奴ら戻ってきます。すぐにそこを出てください」

「脱出路は確保してあるよ。それより調べてもらいたいことがあるんだ。瀬野ユリという女──銀座の『ミツコ』のことなんだが、例の先月死亡欄にのった――」

「わかります。瀬野創治郎ですね。となると、遺産がらみというわけですか」

「姿をくらましたのは友岡と川村だけじゃないってことだ」

「了解しました。探ってみます」

「急ぎだぜ、善さん」

 中尾は金庫を解錠して巨大な扉を開け、「窪島・達夫関連」、「奥多摩事件関連」と題した二つのファイルを抱えて机に戻った。

 気になるのはやはり瀬野ユリだが、彼女の存在は警察の捜査線上にあがってきていない。

 高貝が奥多摩事件の指揮を執っているためか、捜査本部の関心が剣峰会検挙に偏っているというのはどうやら事実らしい。橋本の箝口令がまだいくらか効いているせいもあるのだろうが、事件以前の友岡の行動に関する徹底した捜査がなされていないのである。

 友岡に関して警察がしたことといえば、事件は友岡と川村の痴情のもつれに起因するという予断にもとづいて、せいぜい川村の現在と過去の情婦の所在を洗いだし、監視を開始した程度である。

 ただ、中尾には、この川村という男の存在が捜査をあらぬ方向へと牽引しているように思えてならなかった。川村が前面に出てくると、友岡という男は狂犬に恐れおののくだけの一面しか浮かびあがってこないのである。

 見方を変えれば、これは窪島の秘密主義の成果かもしれない。友岡を単独で秘密裏に行動させたことにより、この男の足跡が辿りにくくなっているのだ。

 これこそが、友岡が瀬野ユリに目をつけていた事実がいまだに表面化しない最大の理由とも考えられる。中尾らも窪島の盗聴を断行し、なおかつ波多が口を滑らせてくれたからこそ、友岡と瀬野ユリの繋がりをつかむことができたのだ。

 警察はそんな裏事情があるとは露知らず、いまだに剣峰会の拳銃と、岩本と川村を追うことだけに血眼になっている。

 岩本に関しては、事件に直接的には関係していないというのが中尾の見解だ。あの男は川村に車を貸しただけというその読みは、十中八九はずれてはいないだろう。

 奥多摩事件にからんで三人の人間が失踪している。事件の被害者とされる友岡雅樹。その襲撃犯とされる川村徹。そして、事件とは一見無関係に見える瀬野ユリである。

 この瀬野ユリの存在が事件の不可解な穴を埋めてくれるはずだと中尾は考えている。

 窪島の命を受けた友岡は、波多という役者の紹介で銀座の会員制クラブ「ラ・シレーヌ」に通いつめることとなった。目当ては「ミツコ」。すなわち瀬野ユリである。女を手懐けることに長けた――言いかえればそれしか取り柄のない友岡の任務は、当然瀬野ユリを骨抜きにすることだったはずだ。そして、何かしら脅迫のネタを引きだして、病床に伏した瀬野家当主がいずれ長女に相続させるであろう遺産を掠め取ろうというのだろう。

 ただ、その任務は着手した当初から難航していたらしい。友岡は焦りを募らせる日々がつづいた。それはトルコ風呂の女たちが証言している。また、川村がからんできたと思しき時機の友岡の変容ぶりも女たちは察知していた。

 そして友岡が行方をくらました頃、瀬野ユリも姿を消した。彼女はなぜ消えたのか。いま、どこにいるのか。

 中尾は一旦思考を止めた。やはりまだ情報が不足している。善三の調べを待つべきか。中尾は瀬野ユリのうらぶれた後ろ姿を脳裏から排除し、奥多摩事件そのものの考察を試みた。

 そもそも、奥多摩事件では一体誰が利を得たのだろうか。

 友岡は事件の被害者だ。銃撃され、壁に突っこみ、あわよくば死だ。彼が利したという証拠は微塵もみられない。

 一方で襲撃犯とされる川村は、表向きは積年の鬱憤を晴らした格好だが、結果的には実害の方が大きいのではないだろうか。事件は剣峰会を窮地に陥れた。川村が狂気にまかせて事件を起こしたのならば、彼は自分の庇護者を──自分のために窪島に土下座までしてくれた峰岸達夫を手酷く裏切ってしまったことになる。

 一見、最も利したようにみえるのは窪島だ。警察の捜査が、窪島の立身出世の妨げになる剣峰会の徹底的な壊滅に向かっていることからも一目瞭然である。ただ、剣峰会壊滅が狙いだとしたら、この策謀はあまりにもあからさま過ぎる。窪島が糸を引いて達夫を貶めたのだと誰にでも容易く想像できてしまう。窪島は利口な男だ。やるなら自分に疑いがかからないように画策するだろう。また奥多摩事件を起こすにも、策謀というには彼にとっては時機尚早であるように思える。窪島ほどの人物ならば、焦らずともまず順当に峰岸組の長の座は手中に転がりこんでくることは間違いないからだ。

 しかも、友岡に人身御供になってもらうにしても、瀬野ユリまでからませる意味はない。女の存在には別の意味があるにちがいないのだ。

 別の意味とは、すなわち瀬野家の遺産だろう。

 となると、瀬野ユリの失踪は本来の計画にはない不測の事態だったのではないか。ともあれこのままでも、跡目争いのライバルは警察の手に落ちることになることは疑いない。だが、その幸運は単に偶然の産物に過ぎないのではないだろうか。それは窪島の真に求めた利ではなかった。むしろ、窪島の本来の計画の方は頓挫してしまったのではないか。

 峰岸達夫はといえば利どころではない。跡目を継ぐどころか剣峰会も壊滅は目前だ。前山にしても同じである。窪島嫌いの前山は、まず達夫に五郎の跡を継がせることで峰岸組をコントロールしようというのだから。

 最も利したのはやはり警察だ。この事件を好機として、高貝は剣峰会の一斉検挙を必ずや遂行させるだろう。捜査第一課を脇に押しやった捜査方針と人員配置からすると、明らかに奥多摩事件の先に照準を据えているとみて間違いない。ともすれば、すでに襲撃犯の検挙など二の次に考えているかもしれない。

 共犯として岩本を指名手配したこともまた、その傾向に拍車をかけているようだ。

 達夫が潔く川村をばっさり切り捨てて生け贄に捧げれば、事件は剣峰会壊滅までの展開を見ずに、ただの痴情のもつれとして終結しかねない。現に中尾は当初、そういう騒動の収束の仕方を考えていたくらいだ。だが、岩本は達夫の右腕だ。幹部級の関与が認められれば、そのすぐ上の本丸を追い落とす足がかりにもなる上、より一斉検挙に向けた捜査態勢の強化がなされることだろう。

 かといって、奥多摩事件そのものを警察が仕組んだとは考えにくい。襲撃に用いられた岩本の車がいとも容易く発見できたことには意図が感じられるが、警察がここまで大それた罠を張るとは思えない。拳銃の発砲や暴走行為、友岡雅樹の拉致誘拐など、あちらこちらで法を犯しているのだから。

 それとも警察は筋書きを書いてお膳立てをしただけで、あとは役者まかせだったというのだろうか。だが、それも不確定要素たる川村や友岡の行動に頼り過ぎるきらいがある。それに、瀬野ユリの失踪の答えにはならない。窪島が偶然の利に与っているように、警察にとっても奥多摩事件は天から降ってきた贈り物にちがいないのだ。

 あらゆる可能性に理由を求めてみても、やはり瀬野ユリの存在だけは浮いているように思える。

 奥多摩事件に瀬野ユリが関与した形跡を警察は発見できていない。トヨタセリカ1600GTVには、友岡のものとみられる自然脱毛の毛髪や衝突の際の血痕、日常的に付着する指紋はあっても、第三者のそれらは皆無だ。岩本の車にしても同じで、採取された指紋は友岡と岩本、それに川村のものだけである。つまり、どちらの車にも瀬野ユリが乗っていた痕跡がないのである。

 瀬野ユリが友岡の誘いにのったのならば、少なくとも一度くらいは友岡の車に乗りはしないだろうか。窪島が友岡に新車のスポーツカーを買いあたえ、背広を新調させたのも、友岡に箔をつけ、金のあるいい男の演出のためなのだから、そうして飾り立てられた気障な男が自分の車に女を誘いこまないわけがない。だが、瀬野ユリがセリカのシートに座った形跡を警察は見出せていない。それとも、何者かが瀬野ユリの臭いを車から完全に消し去ったということなのだろうか。それもありうることではある。

 あるいは、彼女は端から事件と無関係なのだろうか。

 しかし、友岡と瀬野ユリがどちらもまったく別の理由で――だが、ほぼ同時期に失踪した。単なる偶然といえなくもないが、それで簡単に片付けてしまうことはできない。なんらかの関連性があるとみるのが自然ではないだろうか。

 奥多摩事件が川村の衝動的犯行などではなく、真に利する者の計画的犯行であると仮定を試みるも、その意図については中尾には皆目見当がつかなかった。まだパズルのピースが足りていないのだ。

(手詰まり、か)

 中尾は壁の時計を見やった。小一時間が経っている。報告が待ち遠しかった。が、善三の言う通り、ここは危険かもしれない。金庫の中身は手つかずだ。それを手に入れたいがために、橋本は見張りを置き、部屋の主の帰りを待たせたのだ。

 そういえば、見張りは定時連絡するように言いつけられていただろうか。

 中尾は舌打ちした。もしそうならば、見張り役からの連絡が途絶えたことに異常を察知し、橋本の兵隊が再び大挙して押し寄せてくるかもしれない。中尾は急いで金庫を開け、ファイルの束と入れかわりに油紙の包みを取りだした。

 大戦前に製造されたこのコルトM1911は、先代が進駐軍の将校からポーカーで巻きあげた極上品である。ただ、油紙の包み方が甘かったらしく遊底の表面に若干錆が浮いていた。三本の予備弾倉は油紙の中でぬらぬらと鈍く光っている。銃把から弾倉を引きぬくと、予備弾倉の三本もふくめ、四十五口径弾を込めていった。銅被覆の弾頭と真鍮の薬莢のツートーンはうっすらオイルを纏って艶やかなままだった。弾倉内部も錆はなく、バネの固着や内部での薬莢の引っかかりもない。弾倉は予備を合わせて四本、計二十八発。弾倉をジャケットの左ポケットに突っこみ、残りの弾五十発ほどを右ポケットに無造作に流しこんだ。

 中尾は事務所のドアを見た。距離は五メートルもない。この距離ならはずすまい。達夫のアジトにあった角材の標的より人体ははるかに大きい。小指の先ほどもある四十五口径弾なら一人に一発で十分に足止めできるだろう。いや、顔のど真ん中、胸のど真ん中に撃ちこめば確実に息の根をとめられる。

 弾倉を一本取りだし、銃把に挿入して遊底を一杯に引き、離す。小さな部品の小さな音が手の中でことりと響き、重い金属同士がさらりと擦れあう。初弾は弾倉から押しだされ、弾きだされて薬室に飛びこんでいく。いまにも倒れ落ちそうな撃鉄をそのままに、安全装置を押しあげる。ジャケットの袖で遊底の錆をこすると、赤茶けたオイルが生地に滲んだ。

 腕を真っ直ぐにのばして構えてみると、自然と照門の狭間の向こうに照星が立った。照準線の先を事務所のドアに据える。手の震えはない。だが、そのときになればどうなるかわからない。中尾は銃把をきつく握りしめ、発射時の四十五口径弾による反動の記憶を両手に呼び起こそうとした。

 このコルトに関しては、以前に試し撃ちしてからだいぶ時間が経っている。中尾は、達夫のアジトで撃った十四年式拳銃や九四式拳銃と比べてどうだったかを思い出そうとした。

 そのとき、胸の奥の方で違和感が首をもたげた。

 中尾は銃を置いて金庫に駆け寄り、再びファイルを取りだした。警察捜査資料の鑑識報告にある事件の態様を記したページを開いた。一字一句漏らさず目を通すうちに、やがて疑念が確信へと塗りかえられていく予感がしてきた。

 現在、警察は川村と岩本の共謀による襲撃とみて捜査を進めているが、中尾はというと、岩本共犯説にはあくまで否定的である。だが、複数犯だとする点に関しては、ついさっきまでは同意せざるを得ないと考えていた。

 ふと気づくと、口の端から笑い声が漏れていた。

 まさかと思い、一度は否定してみる。だが、考えはじめたら止まらなかった。次から次へと奥多摩事件は様相を変えていった。いま、中尾の思考を占めている新仮説は百パーセントの成功率──絶対確実の実現可能性を持っている。中尾のこの新仮説が事実であれば、事件はまったく別の顔をみせることになる。

 まずは証明だ。

 いまは無闇やたらと思索をふくらませている場合ではない。善三の報告が必須であることにも変わりはない。鶴夫を取り戻すための交渉手段とするには、この新仮説をより確かなものに仕上げなくてはならない──いや、もしも中尾の仮説通りだったとしたら、切り札にすらならない。ジョーカーが一変して最弱のカードになってしまうかもしれない。

 しかしなぜか、中尾に不安はなかった。

 中尾は模造紙を壁に貼りつけ、マーカーペンを手にとった。

 簡単な図面、そして簡単な数式があれば事足りる。何も正確な数値が必要なわけではない。これまで描いていた幾通りかの仮説がどれほど確率的に低いものであるかがいえればよい。それらが成り立つには偶然か奇跡が起きなければならない、と。これはそういった偶然の因子――不確定要素を含んだ夢物語のような筋書きを排除するための作業だ。中尾は興奮を抑えられない手で、紙の上にペンを走らせはじめた。


     九


 後ろ手に鉄門を閉めると、善三はかき寄せたコートの襟の間に顎を埋めた。

 五つ目の街灯が表通りを照らしている。六つ目の明かりへと駆けだす。そこに電話ボックスがある。

 扉を閉め、受話器を取りあげる。ぶ厚い革手袋に染みた血が受話器のプラスチックを汚した。善三は手袋を脱ぎ、ダイヤルを回した。指先は震えていた。拳はまだ殴打の感触を残し、じんじんと痺れていた。

 あの男の話には驚いた。利はすべて一点に集中していたのだ。

 呼出音が鳴りはじめると、電話機にもたれかかって一息ついた。

 と、こつりと目の前のガラスが音を立てた。善三はガラスの向こうの闇に目を凝らした。

 男がいた。指先ほどの細い管をガラスに押しつけている。

 その丸い管の口がガラスを這いのぼってきて、善三の顔の前でとまった。それが何であるかを理解した。受話口の中尾の声が次第に遠のいていく。このとき善三の鼻腔には、なぜか生家の暖かな匂いが甦ってきていた。


 千束組に骨を埋めるつもりだった。ただ、その千束組がいつか消滅するときにまだ自分が生き長らえていたならば、善三は任侠の世界から足を洗うつもりだった。

 群馬では実弟と老いた母が、家業の温泉宿を切り盛りしていた。

(兄貴も歳も歳だ、そろそろうちで暮らさないか)

 先代の急逝に組は右往左往していた。それに居心地の悪さを感じていた善三は、喧噪からそっと抜けだして三十年ぶりに里帰りした。そのとき、弟はそう声をかけてきた。

 迷った。だが善三は戻った。

 上野駅におりたとき、街が吐きだすすえた臭いに善三は目眩を感じた。自分がなぜか、幼い迷い子であるような気分になった。


 その理由がいまわかりかけていた。だが、答えを出す時間はなかった。


     十


 ガラスが砕けちる音につづく、連続した破裂音に脳の芯が痺れた。中尾は受話口の数百の穴から漏れ聞こえてくる音に意識を集中した。だが、自らの速く高い心音がひっきりなしに耳朶を打ち、聴覚の邪魔をしてくる。不意にささやくような声が聞こえた。

「善さんッ」

 中尾は相手が善三だと確信して呼びかけた。

「善さん、喋れ。なんでもいい。そこはどこだッ?」

 通話は唐突に切れた。受話器を置いた人間がいるのだ。

 思考停止に陥った脳に血が駆けのぼった。

 中尾は椅子を思い切り蹴飛ばし、ジャケットを脱ぎ捨てた。そして革手袋を両手にはめ、全身の隅々まで血潮を漲らせながら洗面所へ向かった。男はすでに目を覚ましていて芋虫のようにのたうっていた。


 無抵抗の者を殴ることに中尾はようやく虚しさを感じはじめた。男は善三が襲撃されたことに関しては何も知らなかった。無論、そんなことは端からわかっていた。流水で血濡れた革手袋を洗っているうちに、熱く腫れた拳が感覚を失っていく。

「悪かったな。ちゃんと橋本さんのところには帰してやるから」

 中尾が男に詫びると、男のいびつになった顔の、いくつかある穴の一つからうめきが漏れた。

 手袋を濯ぐ水がいつの間にか透明になっていることに気づくと、中尾はかじかんだ手で蛇口を閉め、事務所に戻った。

 事務所には長いコートにソフト帽を目深に被った男がたたずんでいた。

 その視線は壁の模造紙に釘づけだった。模造紙は円と線の単純な図と、ところ狭しと書き殴られた筆算で埋めつくされている。中尾がわざと音を立ててドアを閉めても、男は動じなかった。

「取りこみ中でしてね」

 中尾は自分のデスクにまわりこんで、ひっくり返った椅子を立てて腰をおろした。机の上はメモがわりのコピー紙が資料や紙挟みなどの山の上に広がる雲海のようになっていた。

「なんの用です」

 男は中尾に向きなおった。コートの襟を立てて口元を隠し、目深に被ったソフト帽は三白眼をちらとだけ見せている。その目はぎらついていたが、瞬きが多かった。肩で息をしている。脇腹あたりで構えた拳銃の黒く細い銃身は中尾を真っ直ぐ指していた。

 中尾は壁の時計を見た。あの銃声の電話からすでに一時間も経っていた。

「誰のお使いです? 橋本か、窪島か」

 男は答えなかった。中尾は凄んだ。

「名乗ったらどうだよ」

 返事はなかった。

 火照った体が途端に冷えた。睨みつけた銃口から、硝煙にまじって血の臭いが漂ってくるような気がした。その血が善三のものかもしれないことに遅まきながら気づいた。

 男はまだ壁の模造紙を気にしている。

「善さんを撃ったのか? あんたが撃ったのか? 善さんは死んだのか──おい、聞いてるんだよ、答えろッ」

 机を叩いた拍子に何枚かのメモが机の端から滑りおちた。男は中尾に視線を戻すと、銃把を握る手をのばしてついに照準を定めた。中尾は慌てて両手を挙げた。

「待て待て、ちょっと待て」

 コートの男は右腕と右人差し指の緊張をいっそう強めた。

「落ち着けってば――そうだ。解説してやってもいいぜ、奥多摩事件のこと。気になるだろ?」

 そう言って中尾は壁の模造紙を指さした。男の右腕が微かにさがる気配をみせた。

「お利口だ」

 精一杯の皮肉を言い、中尾はゆっくりと手をおろした。肺につかえていた息が長く漏れでた。両手は男に見えるように机に置いた。

「どこから説明するかな。そうだな――」

 散乱するメモの上に視線を這わせ、話の糸口を探るふりをした。ただ、そういつまでも時間を稼げるものではない。中尾は頃合いを見て切りだした。

「カーチェイスの最中に友岡の車が銃撃を受けた。そして壁に突っこんだ。警察の筋書きではそういうことになってる──だが、そんなのはまやかしだってのが俺の考えだ」

 男が身動ぎした。

「まずは頭に思い浮かべてみてくれ。あんたのその銃、そいつは──十四年式拳銃か。あんたはそいつを片手にブルーバードを運転して、猛スピードで逃げる友岡のセリカを追っかけてるんだ──いや、そういうことにしようって話だ。あんたがやったって言ってるわけじゃない。オーケイ? よし、そこでだ、あんたなら前を走るセリカの右前輪をどうやって撃ちぬく? 右前のタイヤに五センチの間隔で二連射だ──ああ、要するに、照準線が問題だって俺は言いたいんだ」

 中尾はそう言って人差し指を男の眉間に真っ直ぐ向け、バン、バンと引金をひく真似をした。男は無反応だったが、中尾は冗談だよ、と肩をすくめておどけた。

「友岡のセリカはどちら側を撃たれた? 右だ。右側面だけだ」

 前方を走行するセリカの右側面に着弾させるためには、追跡する襲撃犯のダットサンブルーバードはその右後方に位置していなくてはならない。これは大前提となる。単独犯行とする場合、襲撃犯は運転と銃撃の二つの作業を同時にこなすことになる。となると、ブルーバード──国産車の右ハンドルの運転席にいるわけだから、左手に拳銃を持って助手席の窓越しに狙うか、あるいは右手に持った拳銃を運転席窓から突きだして自車のボンネット越しに銃撃しなくてはならない。

 しかし前者ではありえない。左手に拳銃で助手席の窓越しに狙撃する場合、発射の際に銃口や排莢口から噴きだす火薬の燃えカス――発射残渣が車内に残されていなければならない。だが、それは車外のボンネット上からしか検出されていない。

「だからといって、運転席側の窓からというのも無理な話だ。走行中の運転席からピラーをまわりこんでボンネット越しに狙撃なんて、指先に目があるような奴じゃなきゃ精確な狙いを定めることなんかできやしない。照準器が使えないからだ。拳銃についている照準器は銃の真後ろからのぞきこんで、照門の間に照星をぴたり合わせて、照準線を一直線にしなくてはならないのは射撃の常識だからな」

 一方、複数犯──すなわち、運転と狙撃を分担するならば実行は容易だ。助手席に座る者が視線と照準線を一致させられる体勢であれば、誰にでも精確な狙撃が可能である。窓から拳銃を突きだしていれば、車内に発車残渣が残らなかったこととも符合する。運転者も先に述べた通りにピラーをまわりこんでボンネット越しに銃撃すれば、命中したかどうかはともかく、発射残渣をボンネット上に残すこともできる。実行可能性という点でこの複数犯説が当初から有力とみられていた。それゆえ警察は、過去に友岡と因縁のある川村と、襲撃車両の所有者である岩本を奥多摩襲撃の共犯関係にあると疑い、二人を重要参考人として手配しているのである。

「だが俺の勘じゃ――いや、俺はもう確信している。岩本は車を貸しただけで直接は犯行に関わってない。岩本本人に直接会ったからそう思うんだ。奴は達夫の側近だが、見かけに反して──いや、見かけ通りか──ともかく従順な男だ。ボスに隠して腹に一物抱えられる輩じゃない。それじゃ他に共犯がいるかって? それはさておいて、まずは銃とタイヤの話をしよう」

 中尾は乱雑に散らばったメモの一枚を手にとり、男に余裕たっぷりの笑みを作ってみせた。

「奥多摩沿岸の青梅街道──現場はカーブの連続だった。警察の資料によれば、カーチェイスおよび銃撃開始地点からトンネル内の衝突現場まではたった三キロだ。三キロ走るってのはカーブとストレートで急加速、急減速を繰り返して──そうだな、平均時速五十キロとしてもその間、三、四分ってところだろう。一見これは短いようだが、運転してるときの三、四分ってのは案外長いものだ。なにしろ三キロも走ってるわけだからな。で、その長い間、襲撃犯はどれだけ撃ちまくったか。ン十発か? 百ン発か? いいや、ちがう。発見された空薬莢はたった七つ。三キロもの間──三、四分の間、総発射弾数はたったの七発だ。ワインディングロードを運転しながらとはいえ、その間にたった七発。とりあえず、機関銃じゃないことくらいわかるな。七発なんて、機関銃だったら――ダダダダダダダッ――たったのワントリガー、まさに瞬く間だ。だが薬莢は三キロの道中に点々と、つまりぽつんぽつんとあって、まとまって落ちてはいなかった。だから、機関銃が使われたという線は消してもいいだろう」

 男の同意の意思表示を待ったが、反応は返ってこなかった。中尾は気にせずつづけた。

「七発のうちの二発が右前タイヤ――正確には、一発は惜しいことにホイールの縁、もう一発はそのすぐ横のタイヤのサイドウォールに見事命中。タイヤはバンッ――パンクだ。その二つの弾痕の間隔はたった五センチ。この二発に限れば、なかなかの腕前といえる。だが、その腕前こそが問題だ。さて、そんな芸当が誰にできるだろうか。猛スピードで走ってる車に――単独犯の場合、ボンネット越しに、照準も定められないのに二発が五センチだ。奇跡としかいいようがない。それじゃ複数犯だとして、助手席に乗ってた共犯者がそんな芸当を? そいつはそれまで五発もはずしてるんだぜ。ところが最後の二発だけはたった五センチにおさめた。射撃の神様でもおりてきたというのかい? それとも七発のうち、五発を運転席の奴がめくら撃ちして仕留め損なったってんで、最後の二発を助手席の奴がようやくかわってやって撃ったというのか? となれば、その助手席の野郎はずいぶんと怠け者なんだな。それとも運転手がぶっ放してる間、かわりにハンドルでも握っててやったのかもしれんな。ま、そんなことは考えだしたらきりがないし、そういったあれやこれやの可能性は百パーセント否定できるものじゃない。偶然とか奇跡ってのもあるだろうしな」

 中尾は喉を鳴らして笑った。男はいまだに無反応だった。中尾は真顔に戻ってつづける。

「だが、俺はそうは考えない。というのは、この奥多摩での襲撃事件に何者かの作為を感じてならないからだ。なぜ襲撃犯はたったの七発しか撃たなかったのか。なぜ襲撃犯は銃撃の的としては非常に当てやすいはずのリアウインドウや車体に一発も──ただの一発も命中させられなかったのか。そのかわりに撃ちぬいたのは右前輪だ。しかも精確な二発。操舵制御を不能とさせるべく狙いすました最後の二連射だ。その結果、友岡の車はうまい具合にトンネル内でコントロールを失って壁にドカン、だ。だが、後ろを走ってる車からは実に狙いにくい的だと思わないか? 最後の二連射のとき、真横に最接近したか? それで助手席の相棒が仕留めたか? ちがうな」

 そこで中尾は言葉を切った。男の指は引金にかかったままだ。

 喋っている間、中尾は机のメモを手にしたり眺めたりしながら、広い机の上にさりげなく注意を配っていた。メモの雲海の下にある起伏の正体を悟られぬように探ろうとしていた。

 中尾は不意に善三の整理整頓術を思い出した。見かけによらず几帳面で整頓好きな年寄りを中尾は鶴夫と二人してからかい、よく睨まれたものである。そんな中尾と善三の、二人の間柄は主従関係になってからも変わらなかった。ふとそんなことを思い出したとき、ひと言も言葉を交わせぬまま唐突に断ち切られた善三との通話の数瞬が脳裏に甦ってきた。善三はもうこの世にいないかもしれない。

(こんな散らかしちまって、善さんは面白くないだろうな)

 中尾は気力を奮い立たせた。いま、この机の上の混沌こそが中尾を救うかもしれなかった。とはいえ、嫌な汗はいまだに引かなかった。それどころか焦りはますます募っていた。

 中尾はあえて少し話を戻した。

「助手席に相棒がいるんなら、三、四分かけてたった七発なんて中途半端な銃撃はしない。俺がそいつだったらさっさと片付けちまおうと弾をもっとばらまくし、運転手の立場だったら、もっと撃ちまくれってどやしつけてるだろう。脅すにしろ殺す気にしろ、助手席に共犯者がいれば友岡の車は衝突する前にとっくに穴ぼこだらけでスクラップになっていたはずだ。だが実際は、無数の空薬莢が道路に散らばっていたわけでもないし、セリカの車体が弾痕だらけだということもない。ましてや襲撃犯と目されているのはあの剣峰会のあの狂犬だぜ? 奴が──奴らが、たった七発で気が済むわけがない。戦争を起こせるほど武器弾薬を持ってるんだから。だが実際撃ったのはたったの七発だけ。命中させられたのは二発。しかもなぜか難易度ウルトラCの右前輪に五センチの間隔だ。この矛盾に屁理屈ではない合理的な説明がつくまで、俺は複数犯説には否定的だ。さて、となると俺は単独犯説に有意義な説明を加えなくてはならないわけだ」

 言葉を切ると、中尾はふと気づいた。男が手にしている拳銃は、まさに奥多摩で使われた拳銃ではないだろうか。回収された空薬莢は八ミリ南部弾。この男の持っている十四年式拳銃も同型の弾を使用する。ちりちりと痺れた脳髄が無理矢理回転させられはじめた。

 中尾は少しずつメモ用紙を整理していった。半分ほど片付いた。しかし、雲を吹きはらって現れつつある地表は、ただの書類の束や筆記具などが散らばっているだけだった。

 不意に手に硬いものが当たる──期待をかけるが、それは電池切れの役立たずな電卓だった。とはいえ、その電卓のおかげで筆算で細かい計算をせねばならず、その結果このメモ用紙の海原ができあがったわけだから、これはこれで御の字というところだろうか。だが、こんな道具ではこの状況を打開できない。

 コートの男は、帽子のつばやかきあわせた襟の隙間からどうにか見るかぎり、常に無表情だった。荒い息はおさまりつつあったが、瞬きの多さは相変わらずだ。いまにも倒れそうに体がゆれていた。一方で銃口だけは上目遣いに中尾を睨めつけている。

「あんたのその銃、俺もついこのあいだ同じモノを撃ったことがあるからわかるんだが、銃身をそんなに細身にしちまってるもんだから銃自体の重量バランスが悪いんだよな。両手でしっかり握りしめてないと、一発撃って跳ねあがった銃口は空を向いたまんまになっちまうんだよ。同じ弾を使う九四式拳銃でも同じだった。片手で連射なんかしたら二発目以降、弾は遠い空の旅に行っちまう」

 達夫のアジトでの拳銃の射撃経験では、発射時の反動と命中精度を無視して連射したとしても、両手保持ですら初弾発射から次弾発射までに最速でも○・三秒はかかる。○・三秒というのは、射撃時の記憶を振り返りながら、おおよそながらさっきストップウォッチで計ったものだ。

「当然、反動や照準なんかお構いなしだから命中精度はさがる。五メートルの距離で十センチの角材にすら二発目を当てられなかった。連射しようとすればするほど、二発目以降はあさっての方向に飛んでいく結果となるのは避けられないだろう。ましてや、その十四年式拳銃となるとその傾向は顕著だ。さらには、剣峰会が作った実包は装薬量が少しばかり多いから余計に反動がきつくなる。なのにハンドルをさばきながら、片手で二連射五センチなんて難易度ウルトラCどころじゃなくなる。どれだけ確率の低い話なのかわかるだろう。そこでまたもう一つ問題が浮上してくる」

 中尾は右手を挙げて甲の側を男に向けた。そして小指と薬指を折りまげた。

「川村の右手には小指と薬指の先がない。制裁を受けてどっちも詰めちまったんだそうだ。車内には発射残渣がなかったから、左手で助手席の窓越しには撃っていない。かといって左手でハンドル、右手の銃を窓から突きだしてボンネット越しってのも、モノを握るのに肝心要の小指と薬指がないんだ、連射すらまともにできないだろう。窓枠やボンネットに銃把を押しつけて固定したとしても、やはり照準を定められるかどうかが問題になってくる。それに、そんな形跡もなかったようだしな。確実に五センチにおさめようとしたら、両手保持を大前提にしたって、どうがんばっても二発目を撃つまでに○・五秒はかかる──それだって怪しいもんだけどな。精確に照準しようとすればするほど次弾発射までの間隔は大きくなってしまう」

 中尾は手振りをまじえて説明をつづけた。

「引金をひくと撃針が解き放たれる。撃針が薬莢の雷管を打ち、雷管は点火される。その雷管が起爆剤となって装薬が燃える。その燃焼ガスが弾頭を射出。同時に、作用反作用だのテコの原理だので銃口は上方に跳ねあがる。その間も残りのガスが遊底を後退させ、その後退に伴って空薬莢が排莢口から吐きだされ、次いで遊底はバネの力で戻りつつ次弾を薬室に装填──そしてここからだ、肝心なのは──跳ねあがった銃口を的に向きなおらせなければならない。つまり、照準をさっき狙った場所に重ねてようやく次弾発射の準備が整い、二発目の引金をひくことができる。これが二発の弾を連射するプロセスだ」

 男の無反応に中尾はいいかげん焦れてきていた。言葉が通じているのかと疑ってしまうほどだ。だが、自分が痺れを切らして何か事を起こしたからといって事態が好転するわけではない。

「オーケイ。百歩譲って、襲撃犯はハンドルから何秒間か手を離し、両手でしっかり握った銃と一緒に首も窓から突きだして、ボンネット越しに右前輪に照準を定めることができたとしよう。相当アクロバチックだということはわかるだろう? こんな芸当が万に一つできるとすれば、俺がちょいと向こうに突っ立ってる角材相手にお遊びで的当てをしたときのような状態に一応なることはなる。もちろんハンドルから手を離してるから、結構な速度で走ってる自分の車がいつかコントロールを失うのは目に見えてるわけだ。だから、そんな芸当ができるのもほんの数瞬だけ――ま、要は無理だってことを言いたいんだよ、俺は。偶然できたとか、奇跡が起きたとか言い張るかい? あんたも一応は常識人のつもりでいるんだろう? そこでだ。もう一度話を戻すが、正確に五センチにおさめられる最低ラインの○・五秒って時間──それは果たしてこの奥多摩事件においても現実的なのか? その答えはそこだ」

 と言って、中尾は壁の模造紙を大仰に指さした。男の視線がつられて動く。中尾はその隙に残りの雲海の下にあるものを手探りした。だが、掌を異常なほどにじっとり濡らす汗を吸ってメモ用紙がいちいちまとわりついてくる。紙擦れの音はどうしても避けられなかった。

(ええい、糞ったれめが──)

 本能は正直だ。中尾の理性的な意識よりもはるかに敏感だということか。このぐしょ濡れの手! つまり、この状況、よっぽどのことだということなのだろう。

 男の視線が戻る寸前に中尾は居住まいを正し、何食わぬ顔で説明をつづけた。

「時速六十キロとか八十キロ、いやトンネルまでは直線道路だったから九十キロとしてもいい──とにかくそんな速度で走る車のタイヤってのは猛スピードで回転してる。カタログによると友岡のセリカ1600GTVのタイヤサイズは六・四五Hの一三インチ。センチに直すと、ホイールリム径は三十三センチ。バイアスタイヤの外径はおよそ六十センチ。車体重量や空気圧不足によるタイヤの潰れなんかは、まあ誤差として忘れてくれ──大体で言えば、タイヤは一回転で、六十センチかける円周率で――およそ一・八メートル進む。さっき言った誤差なんてのはほんの数ミリ数センチに過ぎないからとりあえずは無視させてくれ。よし、今度はスピードの方だ。たとえば衝突現場の手前にある短い直線道路を、初弾命中時には少なく見積もって時速六十キロ、多く見積もって時速九十キロで走行していたとしよう。その速度だとタイヤが一回転するのにおよそ○・一秒強から○・○七五秒──まあ、こいつも簡単にしちまうとほぼ○・一秒だ。二発の弾痕はそれぞれ中心から十六センチと十九センチの距離にあるが、当然弾痕部分が一回転する時間も、接地面が一回転する時間もまったく同じだ。こんなことくらいわかるだろ? すなわち、弾痕部分もまた、およそ○・一秒で一回転する。随分アバウトだが、俺が何を言わんとしているかわかるか?」

 中尾はもう一度、壁の模造紙を指さした。今度は掌の汗をズボンで拭った。だが、男の目は今度は中尾に張りついたままだった。ことごとく調子を狂わせる男だと腹立たしくなるとともに、状況打開に向けてめぐらしていた思考回路が寸断されていく。中尾は歯を食いしばって、とにかく喋りつづけるんだと萎えほそる理性に言い聞かせた。

「つまりだ──素早くかつ精確に照準して二発目を放つ○・五秒の間に、どうしたって初弾が命中して次弾が命中するまでにタイヤは五回も回転しちまっているんだ。もっとじっくり狙ったとしたら、タイヤは十も二十も回っている。そんな状態で次弾が初弾の弾痕のすぐ横──五センチのところに当たると思うか? 回転してるだけじゃない。十回転もすりゃセリカは十八メートル、二十回転もすりゃ三十六メートルもセリカは先へと進んでいる。こうなりゃ、初弾から五センチのところに二発目が命中するってのは、やっぱり偶然か奇跡だ。もちろん偶然が決して起きないわけじゃない。奇跡だってまるで信じていないわけではない。ただ、俺はとりあえずこれに限っては、そんなものは信用しないつもりだ。あんたはどうかね?」

 中尾は負けじと男を見据えた。だがやはり、先に折れたのは中尾の方だった。主導権はどう転んでも向こうが握っている。がっちり握りしめて放す気はないらしい。中尾はうめき声を──いや、敗北の嗚咽をあげそうになるのを必死で奥歯で噛み殺し、それでもわずかに漏れでてしまった弱気を咳払いで隠した。めげている場合ではないのだ。

「さっきは否定したが、もう百歩譲って、最後の二発に限ってワントリガーで連射できる機関銃が使われた──そんな可能性についても検討してみようか。あんた、一○○式機関短銃って聞いたことあるだろう?」

 中尾は両手で機関銃を構える仕草をして、ダダダダダと肩から腕をぶるぶると震わせた。奴の十四年式拳銃よりもはるかに強力な武器だぜ、と中尾は気持ちを奮い立たせた。ただ残念なことに、そんなものはこの手にはなかった。

「一○○式機関短銃ってのは言わずもがな、大戦中の旧日本軍が使っていた武器だ。その十四年式と同じ八ミリ南部弾を使う。峰岸達夫のアジトにそれらしい銃があったから、まあ襲撃に使われる可能性もあったかもしれない。警察の薬莢鑑定では抽筒子の爪痕のパターンが異なるからと否定しているようだがね。まあ、警察のぞんざいな鑑定なんぞはさておくとして──その一○○式機関短銃ってのは毎分七○○から八○○発の発射速度があるそうだ。これを基に計算すると、初弾発射から次弾発射までにかかる時間は○・○七五から○・○八六秒。ま、○・一秒弱ってことだ。しっかり構えて撃てば、初弾がタイヤに命中してからちょうど一回転した後に、初弾と同じあたりに次弾が命中することも考えられなくもない。さっきの一発撃つ度に引金をひかなくてはならない単発の拳銃よりはありえそうなハナシに思えるだろう? だが一○○式機関短銃ってのはその名の通り、機関銃なんだよ。装弾数は弾倉一つに三十発だ。ほれ、おかしな話だろう? どうして空薬莢が七発しか見つからないんだ? その七発だって、一カ所にまとまってはいなかった。その十四年式拳銃も九四式拳銃ってのも空の薬莢は真上に排莢されるが、大抵の銃ってのは右利きの射手を想定して設計されていて、空薬莢は右方向に排莢される。すなわち運転席側の窓から銃を突き出して撃った場合、空薬莢が車内に飛びこむことはない。外に放りだされず自然と車内に回収されるといった可能性はないわけだ。つけ加えるならば、火薬カスってのは排莢口からも噴きだすことにも注目すべきだ。車内に薬莢がばらまかれる場合、排莢口は車内に向いていなくてはならない。だが、さっきから言っているように、車内に発射残渣はまるでなかった。空薬莢を七個だけ外にこぼして、あとは車内に転がってるってこともありえないんだ。だからやっぱり、発射された弾は七発ぽっきりなんだ」

 中尾は手に抱えていた空想の機関銃を空中に放り投げた。

「否定できる根拠はまだある。さっきの繰り返しになるがな。機関銃だってのに、なぜ着弾したのがたった二発だけなのか。その二発はたった五センチ間隔で着弾している。引金を一瞬ひいたって猛烈な発射速度だ。単発の銃じゃない。ダダダダダダって連射するために機関銃はある。だったら、少なくともさらに何発かは車体に弾痕を残してもいいんじゃないか。それなのにどうして二発だけ? その機関銃はとっておきだったっていうのか。最後のたったの二連射のために。ばかばかしい。そうだろう? こう考えてみると、使われた銃が機関銃だという線もやっぱり消せるだろう。俺はそう確信している」

 確信という言葉を口にしたとき、不思議と中尾の胸中に高揚感が広がった。そんな自分におかしさすらこみあげてくる。ただ、笑い声は喉に張りついて出てこなかった。その情けなさも自嘲を助長するが、やはり笑えない。どうにでもなれと、大胆に机の上のメモ用紙をかき集めはじめた。と、中尾はその手を止めた。

 全身の汗と感覚が掌に集中した。汗を吸って掌に張りついた紙の上から触れた、薄く、丸みを帯びたそれは、確かに皮革の柔軟性があった。

 ナイフの鞘だ。

 四十五口径の方でないのは残念だが、ナイフがまるで役に立たないわけではない。むしろ中尾はナイフの方が得意だった。丸腰だったさっきまでとは目の前にいる敵の姿がちがって見えてくる。

「このメモの中に、いまから言わんとすることが書いてあるんだ」

 そう言って、中尾はメモ用紙の束を手前にかき集めた。男に悟られた様子はない。いまや鞘は紙片に埋まって中尾の目の前にあった。これを銃口に睨めつけられたまま、さりげなく膝の上に落とさねばならない。

 中尾はメモを一枚引きぬいて、読むふりをしながら作戦を練った。

 この男がいまどれほど警戒心を高めており、どれほど躊躇なくその引金を絞れるのかはわからない。この状況下で、このナイフをこの男に投げつけるには、中尾は何段階もの動作を経ねばならない。

 鞘を手に持ち、ナイフを引きぬき、振りかぶって投げる。

 だが、銃口が中尾の目と目の間に向けられている最中で、そんな悠長な時間を与えてもらえないことは間違いない。ナイフを振りかぶるまで──いや、ナイフが手から離れるまでを、敵に悟られないようなごく自然な動作で行わなくてはならない。

 なにしろ男の指は常に引金にかかっているのだ。うっかり暴発させないために用心鉄の外に指を出していたりはしない。男のいまの目的は──ここに来た目的は、その引金をひき切ることだけなのだ。奴はここに来て、俺の前に立ちはだかっている。奴がすべきは、その指にもう少し力を込めるだけのたった一つの動作。中尾の方が不利なのは明らかだ。その敵に対抗するにはどうすればいいか。悟られぬように鞘を膝に落とし、悟られぬように机の下で鞘から刀身を抜き、悟られぬように掌に隠し、悟られぬようにあくびを装ってナイフを頭上に振りかぶる。そこからの一動作はこの男との勝負だ。俺が腕を振りおろすのが早いか、男が人差し指をぐいとまげ切るのが早いか。

 メモから視線を離し、ちらと男の顔をうかがった。帽子のつばの下から双眸が中尾を見返してくる。目を細めているように見えたが、どうやら頬骨のあたりが腫れていて、その腫れがまぶたを押しあげているらしい。誰かに痛めつけられたのか?

 中尾は咳払いをして目を逸らした。もう少し敵に油断させる必要がある。動きが怪しまれないように段階的に、さりげなく小さい動きや些細な仕草を見慣れさせなければならない。

 あるいはもう開きなおって大胆に動いてしまうか。

 いや、それだけは避けた方がいい。男の人差し指の爪は力が込められて白くなっている。すでに暴発寸前だ。警戒心を一気に高めてしまうのは得策ではない。

 試みに、手の内のメモに目を落としたまま無意識を装って、空いた手で手元に引き寄せたメモを上から一枚ずつつまんで端をそろえてみたり、端を折ったり、ちぎったりしてみた。別のメモを引き寄せて凝視し、のけぞって頭を掻きむしったりもした。どうやら些細な動作には反応しないようだった。もうメモ用紙一枚か二枚下にはナイフの鞘がある。

 反撃に自信を深めつつある一方で、なによりも運が必要だということを中尾は痛感していた。ただ都合の良いことに、この男は話に引きこまれているようにみえる。喋りつづけることが延命に直結していることは明白だった。時間を稼ぐ中で、運が舞いこむのを待たなければならない。この均衡をいつまで保っていられるだろうか。

 だがこの期に及んで、この男の前で奥多摩事件の真相を解明していくことに、中尾は躊躇しはじめていた。この侵入者こそが真相の核にいる存在なのかもしれないのである。

 奥多摩事件の真相を暴かれると困る輩が必ずいる。事件以降、利した者──十中八九、それがこの男、あるいはこの男をここによこした人物なのだ。橋本でも窪島でもない。男の手に握られている――中尾に向けられている十四年式拳銃こそが、奥多摩事件に使用され、そして善三をも襲ったものに思えてくる。いや、もはや確信すらしている。

 しかもこの男は、善三を始末してもなお、己の危機を脱したとは考えていないのだ。それゆえの来訪だ。そしていままさに、中尾こそがこの男の危機感を煽っている張本人となってしまっていた。

 ただ、中尾はそこまで理解が到達していてもいまさら退くことなどできなかった。引金が絞りきられるのが早いか、中尾のナイフがそれを上回るかのどちらかだ。

「この奥多摩事件──最初から計画的に仕組まれたものだ」

 中尾は男の反応に注視した。

 男もまた時間をかけている。中尾がどこまで核心に肉迫しているか、そしてその仮説がどこまで世に拡散しているのかを見極めようとしているにちがいなかった。

 ならばまだもう少しは時間を稼げるはずだ。

(もう少し――ほんの少しだけだがな)

 中尾は拳銃の銃口を見返した。無骨な鉄の筒の穴だ。小さな照星が銃身の上に突き立っているのはまぎれもない銃器であることを証明している。中尾はそれに立ち向かう決意を固め、腹の真ん中に重い覚悟をすえおいた。

「根拠は二つ」

 中尾は左手の人差し指を立てた。右手は紙越しの鞘の皮革を感じたままだ。

「一つ。五センチ間隔で並んだ二発の銃弾」

 次いで中指が天井を指す。

「二つ。右前輪のみの弾痕。この理由は単純だ。前輪の片一方だけで済むことだからだ。つまり、友岡のセリカが壁に激突するという結末に導くためには、操舵の要──どっちかの前輪をパンクさせればいい。わざわざ無駄弾を撃ちまくって銃声を近隣住民に聞かれるのはなんといってもまずい。すぐに通報されたら逃げ場を失いかねないし、目撃者も増える。結論は、つまり──」

 中尾は男から目を離していなかった。それは男も同じだった。

 唐突に、部屋の外からうめき声があがった。中尾は反射的に声の方を見た。その視界の隅には、同様に声に反応した男の姿が映った。

 うめき声は低い恨み言に変わっていった。「殺す、殺す」と洗面所の男がつぶやいているのだ。

 男の視線が戻った。今度は紙擦れの音に反応した。

 中尾は指を二本立てたままの姿勢だった。ただ、呆然としていた。

 男から見えない机の向こう側――中尾の膝の上にはメモが散らばっていた。その紙片にまぎれて、湿ったような皮革の光沢が垣間見えていた。

 しかし、その鞘にナイフはおさまっていなかった。

「つまり──」

 中尾は唾を乾ききった喉に押しこんだ。

「つまりあんたは、トンネルの壁に衝突した後の、すでに停まっているセリカのタイヤを撃ったんだ──」

 かすれた声は尻すぼみに消え入った。掲げていた左手が机の上に力なく落ちた。その手で思い出したように汗ばんだ額をぬぐった。右手はあまりの失望のためか細かく痙攣をはじめている。ナイフの鞘が膝から滑って床に落ちた。

 男はその鞘に一瞥をくれると、空いた方の手をコートのポケットに突っこんだ。そして次に手を出したとき、その手には抜き身のナイフが握られていた。それを倒れたファイルキャビネットの上に静かに置くと、つづいて中尾のコルトM1911を取りだし、ナイフに並べて置いた。

 中尾はそれらを横目に見ながら言った。

「なあ、俺だって一家の主なんだ。あんたもその筋のモンならわかるだろ。いま、俺の可愛い舎弟が窪島の野郎に捕まってる。俺がなんとかしなきゃ奴は殺されちまう。それに善さん──善さんってのは俺の親父も同然の人だ。あの人がどうなったか。生きてるのか、死んでるのか、死にかけてるのか、助けられるのか、まだ助けられるなら助けてやりたい。どうなんだい? 本当に殺しちまったのか? なんでそんなことしたんだ。俺たちが何をしたっていうんだ。なぁおい、俺にもうちょっとばかりチャンスをくれって。贅沢はいわねえからよ」

 中尾は撃たれるのを覚悟でいきなり床に土下座し、男の足下にすり寄り、すがりつこうとした。男は撃たず、一歩あとずさった。中尾はなおも床に額をこすりつけ、そして男を見上げた。

「なんでもする。あんたの命令通りに動く。黙れと言ったら一生喋らねえ。誰か殺してこいって言うならいくらでもやるよ。だから頼む。俺はまだ死ぬわけにはいかねえんだ」

 しかし、十四年式拳銃を構える腕に込められた力が抜ける気配は微塵もなかった。

 中尾は観念して床にうずくまり、もがいた。なすすべのない無力さ加減が腹立たしかった。そしてこの男の無慈悲さにも怒りが募ってきた。床を拳で殴った。拳は痛み、やがて痺れてきた。それでも殴りつづけた。

(どうせおしまいだ。どうせ殺される。どうせ殺されるなら――)

 中尾は拳を振りおろすのをやめた。床に倒れているキャビネットの上にコルトと使い慣れたナイフがあるのを思い出した。拳銃の状態を必死で思い出そうとした。

 弾倉は挿入されたままだったか。男が弾倉を抜いてしまったか。だが、確か俺は薬室に初弾を送りこんでいたはずだ。まだそのままだろうか。安全装置はかけてあったか。撃鉄は起きていたか。それとも、ナイフでも奴の拳銃に勝てるだろうか。その隙はあるのか。いま銃かナイフに手をのばしたら、手が届く前に撃たれるだろうか。なんとかして奴の気を逸らすことができないか──。

「一つだけ頼みがあるんだよ。たったの一つだけだぜ。ただ一度だけ、舎弟の無事を確かめたい。一本だけ電話させてくれ。あんたがやばくなるような下手なことは言わねえよ。約束する。一本だけだ。約束を違えたらそんときはすぐにでも撃っちまってくれて構わねえ」

 中尾は床に額をつけた。数瞬の間があって、男は靴でじりと床を鳴らし、身動ぎした。諦めて、いよいよかと顔をあげると、銃口が横に振られた。銃口の指す先を振り向くと電話があった。

「いいんだな」

 中尾は急いで膝でにじり寄って電話機をつかむと、床に置き、ダイヤルしはじめた。

「窪島を出せ。千束組の中尾だ」

 電話口に窪島が出た。

「中尾です。うちの若い者はまだ無事でしょうかね──そうですか。ええ、ただどうも──申し訳ない。しかしこう言っちゃなんですが、一つ頼みが──鶴夫、預かってもらってるうちの若いのです。どうかそちらで面倒見てやってくれませんでしょうかね──ええ、無理を承知で──いえ、ごくごく近いうちにわかります。では」

 中尾は受話器をおろした。

 ただ、その受話器は電話機の上には戻らなかった。中尾は電話機をすくいあげると、そのまま下手投げで男に投げつけた。コードで繋がった受話器と本体が不規則な動きをして男に飛んでいった。男はのけぞって避けようとしたが、コードにからまれ、その拍子に散乱物に足を取られて尻餅をついた。だがすぐに銃口が中尾を探した。

 中尾は横っ飛びに飛んで、倒れたキャビネットの陰に転がりこんでいた。

 キャビネットの上を銃弾が跳ねた。中尾は手をのばしてキャビネットの上を探った。二発目の銃弾が袖口を裂いた。コルトの銃把に触れた。すかさず握る。だが、銃把は異様に軽かった。弾倉が抜かれている。それでも薬室には初弾が装填されていたはず──いや、初弾の有無などに命を賭けたくはない。ポケットに弾倉が入っているジャケットはどこにも見なかった。襲撃者の周到さはとっくに嫌というほど思い知らされたではないか。

 中尾は拳銃を払いのけ、その先にあるはずのナイフを手探りした。柄に指が触れた。と、いきなり小指に激痛が走った。銃弾がかすめた。だが、悲鳴を噛み殺してナイフを引き寄せた。手元で利き腕に持ちかえる。さらりとした黒檀の柄が掌に吸いこまれるようになじんだ。だが手触りを楽しんでいる場合ではない。中尾は賭けに出た。

 大胆に跳ねおきて、中尾はナイフを振りかぶった。

 そのときすでに襲撃者の銃口はあやまたず中尾を捉えていた。だが、中尾は動きを止めなかった。ナイフが細い光の筋となって敵の肩に吸いこまれていくのを見た。同時に十四年式拳銃の細身の銃身の先端が明るく光った。鋭く尖ったものに脇腹を小突かれた。一瞬遅れて熱い空気塊を顔に感じ、同時に小突かれたところが焼けるように熱くなっていった。すべてを諦めてうずくまる瞬間、中尾の脳髄は最後にもう一度銃口が明るく光るのを感覚した。


     十一


 女の頬と鼻の先がうっすらと朱に染まっていく。白いうなじに朝日が跳ね、産毛がきらめいている。背筋をのばし、地味な下着を物干しに吊す。女の手は休まない。

 桂木は双眼鏡越しの視線を相沢絹代の体に這わせた。

 芥子色のセーターの下で小さな胸が震えているのがわかる。今朝のベランダにその格好は薄着すぎる。例の綿入れを着たらどうだと桂木は問いかけてみる。

 桂木はかたわらのノートを引き寄せた。相沢絹代の行動記録である。監視対象の仕草、癖、日課、習慣、着衣、洗濯物の内容――どんなに些細なことでも書き留める。それらを把握しているか否かで、対象人物の一挙手一投足の為す意味が変わってくるからだ。

 とはいえ、捜査本部の方針転換から取り残されたこの監視任務にはもう重要性はなくなっていた。それでも桂木が記録を怠らないのは、自分が確かに任務を全うしていたという証拠作りのためである。

 桂木はペンを置くと、かたわらのトランプの束を取りあげた。横田がやっていたようにカードの束の真ん中を折りまげて弾きとばし、手から手へと連なって宙を舞わせてみせる。この数日でずいぶん上達した。思わず苦笑が漏れる。

 一昨日、捜査本部の方針から蚊帳の外におかれていた捜査一課の連中はとある匿名情報に飛びついた。

 それは、川村がある女のところに出入りしているというものである。女とは染野香でもなければ相沢絹代でもなかった。相当な数の一課員が、情報の裏取りと同時にその女のマンションと立ち回り先の張りこみに動員された。しかし、桂木班は問答無用で現任務続行を指示されたのである。

 豚のうめきに似たいびきに思索が断ち切られる。

 いびきの主は大室賢悟である。積年の男どもの臭気を織りこんだ毛布を腹にかけ、今朝の冷えこみもものともせずに眠りこけている。無精髭の濃い喉元に剃刀でこしらえたような切り傷があり、シャツの襟に血がこびりついていた。

(私を捜査に加えてください。いいネタがあるんです)

 お互いのためだと大室は言った。桂木へのあわれみでも同情でもない。刑事として生き残るために、自分もまた必死なのだと彼は訴えた。

 ただ大室が持ちこんだネタとは、瀬野ユリという女が奥多摩事件に関わりがあるという話を素性不明の男に持ちかけられたというだけのことだった。所轄の一刑事の、不確かな上に奔流に逆らうような情報などに、剣峰会検挙に重点を移しつつある捜査本部が耳を傾けることは断じてないといっていい。

 しかし、大室は諦めようとしなかった。そこで桂木は、張り番の交代後にまずはコスモスポーツの男を捜しだすことを約束した。

 ただ、大室が桂木に光明をもたらしてくれたかといえば決してそうではなく、振り返ればそこには変わらず断崖絶壁があった。

 夜が明けると桂木の胸中はいっそう萎えた。その理由は、双眼鏡越しの女、相沢絹代にあった。

 絹代の顔がつと上がった。桂木と目があう。女は視線をはずさなかった。桂木もはずせなかった。背から脂汗が滲みでてくる。しかしその一方で、体は正直に反応していた。絹代の裸体の感触が手や唇――全身の皮膚という皮膚に甦り、脳髄すらも熱っぽく痺れてくる。


 四日前の夜、だぶだぶの綿入れを着こんだ相沢絹代が鍋を一つ抱えてアパートの鉄階段をおりてきた。数十秒後、この部屋のドアがノックされた。

「ご苦労様です」

 絹代は危なっかしく鍋を片手で抱え、空いた手で敬礼してみせた。洗いたての髪から白く湯気が立っていた。

「来ちゃった」

 ドアの隙間から絹代のサンダルの爪先が入ってきた。

「だって、ずっと気になってたんだもん。それよりお台所貸して。お鍋温めなおすから」

 監視を開始した翌日にはもう桂木らの存在に気づいていたという。女の勘よ、と絹代は得意げだった。

 張りこみが監視対象者にばれた。誰が察知されたにしろ責任は班長の桂木にある。彼にとって、いまはミス一つが命取りになる。仲間を見殺しにして――盾にして――その上、張りこみすら満足にできない。そんな刑事が果たして捜一にふさわしいだろうかと問われることになる。

「黙ってればいいのよ」

 絹代はしれっと言った。

「協力するわ。だけど話して。どうしてあたしを見張ってるのか。教えてくれないならいいわよ。あたし一一〇番するから。そしたらどうなるんでしょうね」

 桂木は絹代に顛末を話した。奥多摩、友岡、川村、二人の間にいる絹代──。

 話し終えると、絹代はずっと堪えていた笑いを解き放った。

「ばっかねぇ、警察って。梅毒なんてただの口実。あたしの体はきれいよ。借金を完済したってのに辞めさせてくれないもんだからさ。お医者さまとつるんで嘘ついたわけ」

 飄々とそう言うと絹代は一つに縛っていた髪をほどき、濡れた髪を指で梳かしはじめた。

「川村君? 友岡? みぃんな懐かしい名前ねぇ」

 絹代は唐突に振り返った。

「ねえ、もしも川村君があたしんところに来たら、刑事さんに合図するから。そうね──赤いスカーフを物干しに結わえておくってのはどう?」

 桂木は絹代のぱっちりした目から視線をはずすと、よろしく頼みますと頭をさげた。

 絹代は綿入れの袖を鍋づかみのかわりにして、電灯を落とした居間の真ん中におろすと、ポケットから皿と割り箸を取りだしておでんの具を皿に盛りつけはじめた。桂木は向かいあってあぐらをかき、皿を受けとった。街灯の明かりが漏れ差すだけの暗がりの中で、絹代がほほえんだように見えた。

「君と川村はいつ知りあったんだ」

 絹代は二皿ぶんを食べ終えて、もう箸を置いていた。桂木は鍋底をさらいながら訊いた。

「なんてことない。店の客。強引だったわね。いつかは忘れた。彼、子どもだったわ。良く言えば一途なんだけど、悪く言えばおばかさん。最初はよかったけど、飽きちゃった。面倒くさいわ、ああいうの」

 絹代は喉を鳴らして笑った。

「さんざ君らのことを邪魔してきたわけだから、友岡のことは恨んだろう」

「それとは関係ないけど――そうね、あいつは最低だったわね」

 絹代は真顔になった。

「あたしをあんなところに放りこんだ張本人なの。あたしは何にも知らなかったのよ、弟が借金してたなんて。それにあたし、自分で判子だって押した憶えないのに。だのに、あいつ──」

 絹代は畳を爪でひっ掻いた。そして身震いすると綿入れの中で自分の両肩を抱いた。

「あいつ、あたしを味見したのよ。あたし、その頃まだ何も知らなかったから──店で働ける体にするんだって──」

 言葉を切ると絹代はふっと笑った。

「そのあとあいつ、夜の浅草を見せてくれた。店から近いのね、あの街。あたし、そんなことも知らなくって。でも、もっともっと何にも知らなくてバカみたいにキラキラした街だったっけ──そんときのあいつ、恐いくらい優しくって。あんみつ食べたっけ。あと、他にも──忘れた」

 吐き捨てるようにそう言うと、絹代は膝でにじり寄ってきて鍋をのぞきこんだ。

「完食。うれしい」

 桂木が礼を言うと、絹代は顔を近づけてきた。桂木はあとずさった。絹代は迫った。

「だめだ」

 桂木は鋭く言った。絹代はびくっと体をこわばらせて身を引いた。

「ほんとはそんな軽い女じゃないのよ。ほんとにほんとよ」

 絹代は手早く皿や箸を鍋に放りこんでまとめると、玄関へ行ってサンダルをつっかけた。桂木は声をかけようと立ちあがったが、女は逃げるように部屋を出ていった。身震いしたのち、得体の知れない靄がかったうずきが桂木の胸を支配した。

 翌日も絹代は同じ鍋を抱えて現れた。赤い頬になんとか笑みを浮かべ、例のしどけない──しかし今日のは幾分ぎこちない──敬礼をした。桂木は絹代の手から鍋をもぎとって脇に放ると、綿入れで包んだ体を引き寄せて抱きすくめた。彼女の体が桂木に応えた。靄は晴れ、うずきはばらばらに解けた。


 双眼鏡に目を押しつけ、桂木は三十前の女の肢体に魅入っていた。冷えきった体のこわばりがゆるゆると溶けていくようだった。

 絹代とのまじわりは、飢えたように貪り、互いを骨まで喰らいあうだけの餓鬼の習性に他ならなかった。理性ある人間ならば、躊躇し、嫌悪すらする領域へと桂木は転げおちていった。相沢絹代に引きずりこまれていった。だが、そのまじわりこそが、忌まわしい出来事も中傷の言葉も何もかも忘れさせてくれる唯一の安寧でもあった。

 シーツを干す手がとまり、絹代の視線がふっと流れた。桂木はその視線を追った。だが彼女が見たのは何もない虚空だった。手慰みのトランプを置いて両手で双眼鏡を構えた。絹代は洗濯を干す手を急かしていた。

(鳥の声かもな)

 ここからは聞こえなかったが、彼女のいるところからは聞こえたのだろう。

 桂木は相沢絹代の行動記録を読み返すことによって高ぶってきた気分をまぎらわそうとした。当然、絹代がこの部屋を訪れるようになってから、この監視日誌には桂木の手によって虚偽がまじるようになった。とはいえ、事実をねじまげるのは絹代がこの部屋を訪れる時間帯だけに限っていた。

(残るはそのシーツ一枚か――)

 不意に違和感が胸の内を過ぎった。桂木はノートに目を走らせた。

 化繊の下着一着、白靴下一足、蕎麦屋の名入り手拭いと祖師谷商店街の名入りタオル、白バスタオル一枚、花柄のハンカチ、使い古してほつれの目立つ雑巾、白のブラウス、擦れたジーンズ、トレーナー上二着、下一着、そして敷き布団のシーツ一枚──。

(おかしい)

 桂木は昨日と一昨日のページを繰った。

 ブラジャーがあったりなかったり、タオルや雑巾が一本だったり二本だったり、ジーンズやハンカチ、ブラウスなどの柄が色々だったりというちがいはある。

 しかし、問題はちがいがあることではなかった。違和感の正体はこの三日間でちがいがないことにあった。三日連続して──そして、その意味に思い至ったとき、桂木は戦慄した。

 レンズ越しに拡大された絹代の顔を凝視した。疑念に苛まれ、焦燥で茹だった顔面から噴きでる汗の蒸気が接眼レンズを曇らせた。レンズを袖でぬぐっているときも絹代から視線をはずさなかった。そのとき、絹代の顔面の皮一枚下から滲みでた動揺を桂木は見た。

 絹代の手が止まった。視線が何かに引っぱられるように流れていく。

(嘘だ、やめてくれ)

 視線の流れついた先は部屋の中だった。次の瞬間、絹代はすさまじ勢いで桂木を振り返った。視線がからみあった。桂木の知る絹代の眼差しではない。だが桂木はその眼差しを見慣れている。それは、犯罪が官憲に発覚した瞬間の罪人のそれだ。双眼鏡が足下で畳にめりこんだ。

 洗濯物目録三日分の記載に共通している物がある。敷き布団のシーツだ。

 女の一人暮らし――まして季節は冬である。そうそうシーツは汚れない。この部屋で肌を合わせたときに知ったのだが、どちらかといえば絹代は寒がりな方で汗っかきではない。彼女は潔癖症でもない。その女が三日つづけてシーツを洗濯する理由は何か。

 絹代は再び部屋の中に視線を戻した。部屋の中から誰かが呼んだのだ。

(男だ)

 桂木は砕かんばかりに奥歯を噛んだ。

 この三日三晩、桂木は騙されていた。絹代は桂木と肌を合わせ、そして帰ったあの部屋でまたも別の男に抱かれていたのだ。毎晩、シーツが汗みどろになるまで。

 桂木は大室の尻を思いきり蹴飛ばし、部屋を飛びだしていった。

 向かいのアパートの鉄階段を蜥蜴のように猛然と這いあがり、絹代の部屋の前にかがみこんだ。台所の曇りガラスが細く開いている。中をうかがったとき、すぐ目の前を男が過ぎった。咄嗟に身をかがめた。顔の真ん中に大判の絆創膏を貼っていたが、桂木は男の目を見た。

 桂木は混乱した。

 目の当たりにした光景がまるで理解できなかった。大室が持ちこんできた情報と関係があるのか。男は川村ではなかった。しかし同じくらいよく見知った顔だった。

 桂木ははたと体中を探った。無線機を置いてきてしまった。と、いきなり目の前のドアが開いた。絹代が目を剥いてそこにいた。

「あんたッ、逃げてッ」

 絹代は部屋の中の男に叫ぶと、桂木に体をぶつけてきた。桂木は絹代ともども外廊下に転がった。いち早く立ちあがったのは絹代だった。彼女は桂木に馬乗りになって滅茶苦茶に殴りかかってきた。殴られながらも、桂木は錯綜する思考を一つ胃の腑へと飲み下した。そして絹代の頬を張りとばし、今度は桂木が女の上にのしかかると髪をつかんで顔をあげさせた。

「裏切りやがったな」

「はなせバカ野郎ッ――あんた逃げてッ、早く逃げてェッ」

 絹代はわめきちらした。桂木は台所の窓を乱暴に開いた。男がベランダから飛びおりるところだった。絹代が足にしがみついてくる。

「あの人に何かあったらばらしてやる、全部ばらしてやるからなッ」

 桂木は気が遠くなった。だがすぐに我に返り、絹代の喉をつかんで締めあげた。絹代は桂木の顔に唾を吐いた。桂木はその口を殴った。弾けとんだ華奢な体にさらにのしかかって体重をかけ、喉を鷲づかみした。

「俺は――お前を愛してんだぞ。なのになんで――」

「冗談じゃねえやッ、誰がポリ公なんかッ――」

 桂木は殴って黙らせた。腹わたが煮えくりかえっていた。その一方で膝の震えが止まらなかった。絹代の歯が当たって剥けた拳の皮を、つまんでむしり取った。痛みすら感じない。桂木は踵を返し、階段を駆けおりようとした。と、不意に首筋あたりがざわついた。次の瞬間、絹代の腕が首にからみついてき、獣のようなうなり声が脳髄を痺れさせた。

 二人は地面まで鉄階段を転げおちた。桂木は絹代の下敷きになって腰を打った。絹代は手につかんだ雑草を引きぬくと、目をまわしている桂木にのしかかって、土塊ごと桂木の口にねじこんだ。

「喰えッポリ公ッ、喰えッ」

 桂木は絹代を蹴飛ばし、這って逃れようとした。その四つん這いの背の上に女が飛びついてき、桂木の耳にかじりついた。桂木は絶叫した。

 そのとき、男が逃げていった通りの向こうで乾いた破裂音がした。桂木も絹代も凍りついた。音は五度つづいた。そのこだまが幾重にも重なりあって甲高く空に轟いた。


     十二


「逃げてッ」

 女の怒声が窓ガラスを震わせた。尻を蹴りあげられてもなおまどろんでいた大室は、二度目の叫び声で一気に覚醒した。

 桂木の姿はなかった。大室は転がってる双眼鏡を手にとった。だが、双眼鏡などいらなかった。窓辺に立つとすぐに異常な光景が目に飛びこんできた。相沢絹代の部屋のベランダに、男がぶらさがっているのだ。あっけにとられているうちに男は階下に落ちた。大室は猛然と部屋を飛びだした。

 鉄階段をおりきったとき、手をのばせば届きそうなほど目の前を男が転げるように駆けぬけていった。大室は即座に男を追いすがり、ついにその肩をつかんだ。抗って腕を振りまわす男を強引に背負って、地面に叩きおとした。顔の真ん中に貼った特大の絆創膏が蛙のようなうめき声をくぐもらせた。男の目には見覚えがあった。だが、川村のではない。大室は絆創膏を剥ぎとった。

 鼻柱がまがって赤黒く変色していたが、その顔は友岡雅樹のものだった。

 友岡は大室の腕の中で暴れた。大室の思考は混乱から立ちなおれずにいた。

「お前――」

 友岡は抵抗をやめ、悔しそうにうなだれた。

「畜生ッ──結局、全部おじゃんかよォ」

「おじゃんって何が――おい、瀬野ユリはどこだ。無事なのかッ」

 襟首をつかんで詰め寄ると、友岡はきょとんとした。

「瀬野ユリって──あんた奥多摩やってるマッポじゃねえの? え、何──ってことは、ああッ──ってことは、もうばれちまってんのかァッ」

「おい、どういうことだ、どうしてお前が──」

 大室は絶句した。

(警察は、端から間違っていたのか)

 友岡はいきなり大室の腕にすがりついてきた。

「な、おい、取引しねえか。あんた、ミツコ──いや、瀬野ユリを探してるんだろ? 俺、いいネタ持ってるぜ。あんたらがまだ知らねえやつだ。ちょっと待て──これ見りゃ、どういうことかわかる」

 友岡は包帯を巻いた手で難儀しながら、ポケットから三つ折りの書類を取りだした。大室はそれをもぎとって開いた。目を奪われた。

「こいつで見逃してくれねえか、なァ。全部話してやるから――」

 友岡は不意に言葉を切った。

 大室はその様子を訝ってふと顔をあげた。友岡は背後を気にして振り返ろうとするところだった。と、いきなり友岡の鼻の脇のあたりが破裂した。

 大室の意識の大半はまだ、手元の紙片に綴られた文章の上に置き去りにされていた。それにも関わらず、文章の意味は理解できずにいた。耳の端で銃声の轟音を聞いたような気がした。だが、どっちつかずの脳が聴覚を遮断してしまう。視界に飛びこんできた光景の意味も飲みこめない。大室の意識はいまやそれらすべてを彼方へ消し去って、顔面の触覚一点に集約していた。

 顔に何かが飛んできてべったりと張りつく。粘液だ。何か尖ったものもまじっている。直後から頬から額にかけてひりひりと痛みだした。

 つづく銃声によって、目の前の光景が一気に動きだした。

 友岡のまがった鼻柱のすぐ横は、すでに噴火口のように暗く穿たれていた。次いで頬の肉と皮膚が弾けとび、次いで右の眼球が周囲の肉片ごと大室に向かって飛んできた。友岡の顔面が断続的に崩壊していく。大室の視界に赤い幕がおりてきた。

 友岡の残骸が足下に崩れ落ちた。大室も地面に膝をついた。全身に力が入らない理由を考えようとしたとき、ようやく体が激痛を感覚しはじめた。痛みは、右肩と右胸のあたりから飛びこんできた無数の条虫となって体中を這いめぐった。

 赤い涙で滲んだ目では、仁王立ちする男の表情はただゆがんで見えるだけだった。いくら瞬きしても顔を無くした男の血で粘つくばかりだった。ただ、拳銃らしきものを突きつけられていることだけはわかった。手の甲で顔の粘液をぬぐい、目を凝らした。

 男の目を見た。見知らぬ眼差しだったが、何を求めているかは理解できた。

 その間、火を焚いたように熱くなった胸と肩から暴れ狂う条虫が体から抜けでていった。それに伴い、体が無痛無感の闇に沈んでいった。暗く網がかった視界の真ん中で、拳銃の銃口が迫ってきていた。大室は、自分か友岡の血で朱に染まった文書を差しだした。ちりぢりになりかけた意識を拾い集めるように手に集中させ、硬直した指を一本ずつゆるめていく。紙片が手から離れるのを確かめたとき、大室は気を失った。


 桂木はぼろ布のようにまとわりついている絹代を振りはらい、よろめくようにして通りに出た。五十メートルほど向こうが音の源だった。そこには赤く染まった塊が地面にあった。その側に跪いた男――大室がいまにも血溜まりの中に頽れそうに体をゆらしていた。立っているのはただ一人。その手には拳銃らしいものがあった。もう一方の手は、大室の手から白い紙切れのようなものをむしりとるところだった。男は桂木の姿を認めると走り去った。

 桂木の足は動かなかった。ともすれば座りこんでしまいそうなほどだった。呼吸は制御を失っていた。絹代が赤い塊にふらふらと向かっていくのをただ呆然と見送った。過呼吸がおさまるまでの時間に焦れ、ついには待てず、桂木は体を引きずって絹代の後を追った。

 大室が血溜まりの中に突っ伏していた。死んだか、と桂木は思った。もう一人の男は顔の半分が欠けていた。

 絹代は泣きわめいて友岡雅樹の残骸にすがりついていた。桂木は絹代を引きずり起こし、頬を平手で張りとばした。泣きわめくのも暴れるのも許さず叩きふせ、最後には顔面をつかんで自分に向けさせた。

「いいか、何も喋るんじゃないぞ。余計なことを喋れば殺す。絶対に殺すからな」

 絹代は抵抗をやめた。涙と泥と血に濡れたまぶたと頬が、見る間に腫れあがって目を塞いでいく。ただ、そのわずかな隙間からのぞく絹代の目には桂木への憎悪が暗く光っていた。




    第五章


 闇の中にちとせは立ち尽くしていた。

 最初の一歩をどちらへ向けたらいいのかを決めかねていた。どの道も人の歩ける道ではなかった。底無しの沼なのだ。だが、張りに張った乳房の痛みに耐えかねて、ちとせは濃い闇の中へと踏みだした。

 それがまるで生まれて初めて見るもののように、ちとせはしばらくの間、薄暗がりの中で朧げな天井を見つめていた。次第に周囲の音が聞こえてくるようになった。ちとせは枕の上で音の方に顔を向けた。

 丸椅子に座る男の、半ば開けた口からいびきが漏れている。紺地の生地がかすれたジャンパーに作業ズボンは見慣れた服装、ちとせの最も身近な人。

「そろそろ切らないと」

 ちとせはぼんやりとつぶやいて、夫の耳にかかった髪に触れようとした。と、いきなりその手に激痛が走った。見ると、ぴんと立った右手の薬指から手首へぐるぐると包帯が巻かれている。包帯の下では掌がひりついていた。酷く皮が剥けているようだった。左手もだ。どの指先も傷だらけでぼろぼろだった。それでももう一度夫に手をのばそうとしたとき、いま頃になってようやく体が目覚めたか、全身に痛みが走ると同時に疲労の重みが一気にのしかかってきた。

 背中が打ち身のように痛んだ。ひりつきだした頬に触れてみると、そこにはガーゼが当てられていた。爪の間の汚れが気になった。手を布団の下に隠すと、不意に首をもたげた後ろめたさも手伝って、ちとせは息をひそめた。

 それでも夫の寝顔を見ているとだんだんと気分が落ち着いてきた。ただ、見るほどに彼の顎や鼻の下の無精髭が気になってくる。ちとせはふと、照れくさそうに顎を差しだす夫の仕草を思い出した。夫の仕事が休みの日には、革砥で研ぎあげた剃刀で、じっくり時間をかけて顎ひげを剃ってやるのが二人の習慣になっている。

(次の休みっていつだったかしら)

 結婚前、春野洋一は長岡市内にあるちとせの理髪店に三日と空けず通いつめていた。ちとせはそのたびに尖った顎に黴のように生やした彼の無精髭を剃ってやっていた。自分は不器用だからと洋一は顎の剃刀傷の言いわけをした。傷はわざとらしくつけてきたものだと、ちとせにはひと目でわかった。それでも何も問い正したりせずに、傷口にそっと軟膏を擦り込んでやるのだった。

 はじめは洋一の押しの強さに戸惑ったが、不良ぶった態度の中にある一途さに触れるうちに次第にほだされていき、ちとせは彼に惹かれていった。自分でその気持ちに気づきはじめた頃、ちとせは洋一に、長距離トラックで稼いだ彼の貯金が底を尽きないうちに理髪店通いをやめさせた。そのかわり、一年後には二人だけでささやかな祝言を挙げた。

(これからは毎日、ちとせにひげを剃ってもらうんだ)

 結婚当初、洋一は嬉々としてそう言ったものである。とはいうものの、洋一は新潟港と東京築地をトラックで往復する忙しない日々で、ちとせも曾祖母から受け継いだ店を切り盛りするのに大わらわだった。

 身を粉にして働く二人はすれちがいも多く、顔を合わす時間は世間の夫婦並みとはいかなかった。だが、顔を合わせばお喋りをし、笑い、また心のささやきを交わすだけの静かな時の移ろいも楽しんだ。休日となると洋一が望んだ通りに、午前中の数時間を費やして顎ひげを剃り、身を清め、その後は互いに触れあった。

 二人が一緒になってから二年して、ようやくちとせは子を宿した。

 重い頭も徐々に覚醒しはじめ、ちとせは身を起こし、張りつめる乳房越しに腹を見た。

 腹はぺしゃんこだった。

 急に胸に不安が押し寄せた。洋一を起こそうにも、渇いた喉が張りついて声が出なかった。ちとせは歯を食いしばって上半身を起こすと、唾を飲みこみ喉を潤してから洋一に声をかけた。夫の体が身動ぎした。

「赤ちゃんはどこ?」

 洋一の寝ぼけ眼が瞬時に真顔に戻った。うながされて再びベッドに横たわったちとせはもう一度赤子のことを訊いた。

「大丈夫だよ」

 洋一はこぼれんばかりにほほえむと、ナースコールを押した。遠くでブザーが鳴った。

 車椅子を押してもらい、ちとせは縦横に並んだ保育器の間を縫うように進んでいった。どの赤子にも見覚えがなく不安になってきたとき、洋一は車椅子を止めた。

 ちとせはガラスの保育器をのぞきこんだ。黒ずんだ赤子が薄目を開けて、もじもじと身をよじっていた。

 その小さな手に触れたかった。ガラスの壁に阻まれて思いはかなわず、せめてとガラスに手を触れるが、その指先には血が滲み、爪の間には黒い汚れがつまっていた。ちとせは息を呑んで手を引っこめた。

 触れるかわりに、赤子を穴が空くほど見つめた。そのうちに赤子は眠りについた。ちとせは静かに息をつき、安堵の思いが胸中からあふれるにまかせた。

「二週間早かった。でも、ひとりでよくがんばったね」

 振り返ると洋一は顔をくしゃくしゃにしてほんの幼児のように泣いていた。

 救急車が到着したとき、ちとせに意識はなかったという。深夜まで降りつづいた雨に打たれていたのか、ちとせは泥にまみれ、ずぶ濡れで体は冷えきっていた。ただ、赤子は清潔なバスタオルにくるまれて、か細い産声をあげていた。洋一は会社からの無線連絡を受けて、大急ぎで新潟へ戻ってきた。

 ちとせは丸二日、高熱にうなされていた。洋一は、きれぎれだったちとせの意識がいつか永久にとぎれてしまうのではないかとおびえ、つい数時間前に猛烈な疲労と睡魔に襲われて眠りこけるまで、ずっと声をかけつづけていたのだと話した。

 ちとせは体の芯から震えていた。吐き気がして両手で口を押さえた。だがすぐに手を離した。黒ずんだ爪から、すえた泥の臭いを嗅いだ気がしたのだ。


     一


 成城署刑事課の最奥部にある「取調室2」の中では、眉間に皺を寄せた四、五人の男たちがひしめきあい、小窓ほどのマジックミラーをのぞきこんで息をつめている。梶功夫はそんな人垣から離れて壁にもたれ、ひとり渋面を浮かべていた。

 隣室の「取調室1」には大室賢悟の姿があった。数枚の絆創膏を貼ってもなお点々とした傷が顔中にあふれている。大室は額の生えぎわにある傷の一つを気にして触れていた。

 人垣の中の誰かが、役立たずがと罵った。そのいらだちはすぐにその場にいる男たちに伝播し、同意のうなり声があがった。が、梶が身動ぎすると、途端にうなり声も罵りもやんだ。

 隣室では、降参とばかりにペンを放りだした取調官が手を振って大室を追いはらった。大室は取調官に一礼して小窓の視界から消えた。男たちの舌打ちを聞きながら、梶もまた部屋を出た。

 廊下の中ほどで小山のような背に追いつくと、梶は乱暴に大室の巨躯を角の隅へと押しやりながら、刑事部屋からぞろぞろと出てくる捜査員たちを睨めつけた。梶の警視庁時代の噂を少しでも知っている捜査員たちは、その視線にからまれないように、大室に罵声を浴びせてやりたいのを堪えて通りすぎていく。

 廊下に自分たち以外に人気が無くなると、梶は大室に向きなおった。大室は額の傷口からなにやら白いものをつまみとって、指先で転がしていた。

「なんだそれは」

「骨のかけらみたいですね。友岡の──」

 大室は、無数の骨の破片と血と肉塊と、友岡を破壊して勢いを弱め、砕けつつ、それでもなお貫通した銃弾の破片とを浴びた。肋骨や肩の肉に食いこんだそれら六つの銃弾の破片はどうにか致命傷とならずに済んだ。血は洗い落とし、破片は摘出して鑑識にまわしたが、骨片はそれでも完全には除ききれてなかったらしい。

 梶は顔をしかめた。大室はというと、さして気にも留めていないようだった。

「なぜ桂木のところへ行った。なぜ俺に隠した」

 梶は鋭く問いつめた。

「何も隠してなんか──さっきの調書の通りです。私はたまたまあの場に――」

「とぼけるんじゃねえよ」

 梶は大室の三角巾で吊っている方の肩をつかんだ。医者はそこから弾の破片を二つ摘出したと聞いた。大室はうっとうめいた。

「十時間前、お前は何者かに呼びだされた。二宮に確かめた。おそらく中尾か青木善三とかいう男のどちらかだ。そうだろう?」

「知らない。聞いたこともないです」

 梶は二人の写真を大室の鼻先に突きつけた。大室の視線は若い男の写真に長く留まった。

「中尾か」

 大室は目を伏せた。

「千束組のこの二人は、お前と友岡が撃たれる数時間前に何者かに襲われた。中尾は本郷の自分の事務所で、青木はうちの管内にある電話ボックスでだ。どっちの現場にも例の薬莢があった。お前と友岡の襲撃現場にも同じ型のがあった。奥多摩、中尾、青木、それにお前と友岡の、四つの襲撃事件が繋がった。顔をあげろ」

 大室は言われた通りに顔をあげたが、梶の目を避けようとした。梶はその視線の先にまわりこんだ。

「で、その中尾だが、奴は奥多摩事件を調べていた。元はといえば峰岸組の内部抗争の裁定役だったが、奥多摩が起きてからはそっちに首を突っこんでいたそうだ。そいつがなぜお前を呼びだしたりなんかするんだ? 答えたくないか。だが残念なことに、桂木の方はあっという間に吐いたよ。奴が言うには、中尾はお前に、瀬野ユリが奥多摩にからんでるってことをほのめかしたそうだな」

 大室の唇が白く引き結ばれた。梶は苦笑い、大室の肩になれなれしく手をかけた。

「瀬野ユリを調べてんのは俺とお前じゃないか。なぜ真っ先に俺に報告してくれなかったんだ? そんなに俺のことが嫌いか。あの桂木って奴の方が信頼できるって?」

 梶は大室の顔をのぞきこんだ。

「奴な、懲戒処分って話だぜ。相沢絹代って女とデキてたんだよ」

 下卑た笑いをまじえながら、梶は相沢絹代が事情聴取の際に暴露したすべてを話した。

「女がゲロったって聞いたら、桂木はすぐに落ちたよ。もっとも、お前を銃弾の盾にしたかどうかって聞かれたときにはさすがに否定してたがな」

「あの人はそばにはいませんでしたから」

「わかってるよ。奴はそんとき、女と乳繰りあうのに夢中だったんだってよ。呆れるぜ。だがお前もお前だ。落ち目の野郎に取り入ろうとしてたんだものな」

 梶はさらにつづけた。

「桂木はこうも言ってた。お前が犯人に何かを手渡したのを見た、とな」

 大室は何か言おうとして言葉をつまらせた。梶はその反応に確信を持った。

「そいつを読む間もなく撃たれた、そういうことだったな」

「――はい」

「たわけたことを言うんじゃねえッ」

 梶は怒鳴った。

「俺にそんな嘘が通用すると思ってるのか? お前は中身を読んだ。お前はそれがどれだけ重要かを知った。友岡が襲われた理由はまさにその紙っぺらにあると理解した。だからお前は犯人に差しだしたんだろうが。桂木はそれを見ていたんだ。お前は紙っぺら一枚で命乞いをしたんだ。そうだろうッ」

 怒気を含んだ大室の目を梶が睨み返すと、巨躯の背が急に萎れたようにまるまった。

「まあいい」

 梶はくっくと笑った。

 瀬野ユリが奥多摩事件にからんでいることを梶は端から知っていた。というより、梶こそが瀬野家の遺産相続の話を窪島渉に売りこんだ張本人なのである。窪島とは警視庁刑事部捜査第四課に在籍していた頃から持ちつ持たれつの関係で、梶が所轄署へ左遷された現在も縁は切れていない。

 自分の管轄内で金になるネタを漁るのが梶の習慣なのだが、瀬野家の当主創治郎が長く病の床に臥せっているという話はそのときにつかんだ情報だった。

 資産家の当主が逝去したときには、当然のことながら遺産相続が発生する。調べてみると、総資産は田園調布の家と土地とわずかな証券しかないが、それでも馬鹿にならない額であることにはちがいなく、そしてどうやら長女のユリ一人が相続人となりそうだった。

 女を強請る場合、淫らな姿態を写真におさめ、世間にばらまくと脅すのが常套手段と聞く。この手口は自尊心の高い女ほど効果がある、と。掠め取る額面に節度をもてば、警察に訴え出られる恐れもない。女は金で自らのプライドを買うのだ。

 だが、このネタは窪島の興味を引かなかった。下劣だとして二束三文で買い叩かれた。それが春先のことだった。

 ところが夏も終盤に入って、別件で窪島が助けを求めてきた。盗聴の件である。

 依頼を受けた梶は、靴底をすり減らした甲斐あって千束組の盗聴アジトの発見に至り、報酬を受けとった。

 このとき梶は、この盗聴騒ぎにヒントを得て、もう一歩踏みこんでみることにした。最初は峰岸組内部抗争とその顛末への単純な興味というのが動機だった。あわよくば彼らの跡目相続騒動の旨味のあるところに食いこみ、おこぼれに与れればと考えたのである。

 梶は、秋葉原の電気街へ足を運び、電子部品とテープレコーダーを仕入れて盗聴器を自作した。仕掛ける場所は中尾が仕掛けたようなビルの配電盤などではなく、いまや窪島の通信本部となっている事務所前の煙草屋の赤電話である。これにより、梶は窪島と友岡の企みを知ったのである。

 梶は憤った。

 元はといえば自分が持ちこんだ情報だというのに、窪島は梶の頭越しに瀬野家に手を出そうとしている。しかし、電話の様子では進展具合はかんばしくないようで、梶はとりあえずのところ見の姿勢を保っていた。

 ところが、肝心要のユリが失踪してしまった。それより少し前には友岡から窪島への定期連絡も途絶えたかと思いきや、友岡もまた消息を絶ってしまったのである。

 その頃、家政婦鈴森佳枝の母性を焚きつけて騒ぎ立てさせ、確実に東調布署へ捜索願を出させるように仕向けたのは、実は当の梶だった。

 家出人捜索事案は梶によってすぐさま刑事課事案にまで引きあげられた。そして自らが担当した。同僚や上司に余計な詮索をさせないために梶が自分から相方にと大室の名を挙げると、日頃梶に対して秘密主義の単独行に苦言を呈する二宮も「よろしく頼みます」の一言だった。あの木偶の坊なら自分の思い通りに使える――つまりは何もさせないようにできると踏んで梶は大室を選んだのだ。

 瀬野家の内情調査は単独で密かに行い、それなりの成果が挙がった。梶はこうして得たカードの使い道と切るタイミングを思案しているところだったのだ。

 しかし、さらに状況が変わってしまった。友岡が突如生きて現れたのである。

 十月の第二週、川村が友岡の動きを察知してからみついてきた時点で、いつか奥多摩事件のような事態が起こることは想像に難くなかったが、拉致されたと思われていた友岡が死なず自由の身で現れたのはまったくの想定外だった。その上、ようやく姿を現したというのに、それまでに何があったのかを語らぬまま、友岡はその場で何者かに暗殺されてしまった。

 友岡の出現と暗殺に、奥多摩事件特捜本部が混乱の極みに陥っている最中、梶が考えていたことは三つあった。

 一つは、友岡が持っていたという文書が襲撃犯にとって何やら重要なものらしいことへの興味。二つ目はそれに目を通す機会を得たのが自分でなく、よりによって無能な大室だったことへの焦燥と憤り。そして何より、大室が梶に文書の内容を隠しているかもしれないという疑惑だ。梶は背がじっとり汗ばむほどに心中を沸々と煮えたたせていた。

 それでも梶は極力声を抑えて言った。

「署に戻れ。よそのところは居心地悪いだろう。あ、そうだ、二宮が顔を出せとよ」

(話す気がないなら話さなくていい。だが、すぐに探りだしてやるからな。俺を舐めくさりやがって──)

 梶は睨みつけた。だが、顎が胸につくほどうつむいた大室の表情をうかがうことはできなかった。


     二


 深夜から早朝にかけて都内三カ所で連続発生した発砲事件のうちの一件が管轄内で起こったためか、東調布署庁舎内を満たすざわめきは、いつにない硬い棘を纏っているかのようだった。そんな雰囲気の中でも大室を知る署員は満身創痍の彼を見かけると、死のきわからの生還あるいは取調室からの帰還にねぎらいの言葉をかけてくる者や、逆に生き残ったことに軽口を叩く顔なじみもいないではなかった。ただ、ほとんどの者は決まって息をひそめてよそよそしく通りすぎていく。すでに噂が広まっているにちがいない。彼らは、大室が立ち去った後で、あることないことを仲間内でささやきあいたくてしかたないといった目をしていた。

 以前と変わらない態度──目障りな奴だ、というあからさまな嫌悪感──で接してくる者のうちの一人、二宮刑事課長は受話器を置くなり、負傷の程度を見極めようと大室の体を見上げた。その間にも手元の電話が鳴りだした。二宮は受話器をつかむと、応答する前に大室を一瞥して言った。

「報告書だ」

 大室は数十分かけて報告書をしたためると、二宮はそれを忙しなく繰りながら、

「見ての通りてんやわんやだ。今日明日にも五百人態勢の合同捜査という形になる。人員はいくらあっても足りなくなる」

 と言い放つと、そこでようやく顔をあげた。

「そこでだ、お前はどうする」

「――少しの間、休ませてもらえませんか」

 弱々しい言葉尻の消えぎわを、電話の呼出音が乱暴にかき消した。二宮はひとしきり頭髪を掻きむしると大室を怒鳴りつけた。

「週が明けてもまだその目をしてたらただじゃすまんからなッ」

 大室は頭をさげ、二宮に背を向けた。その背に太い声が覆いかぶさった。

「次に同じことがあったらそんときはどうなるかわからんぞ。身内には会えるときに会っておけ」


 視線の束から逃れるように駆けこんだ資料室は無人だった。

 大室は屑籠から紙屑を拾いあげた。伝言メモだ。ここにこれを捨てたのは昨夜だが、遠い過去のように思えた。

 単に意識を失っていた間に抜けおちた空白の時間が、思いがけずはるかな時の隔絶を感じさせるだけなのだろう。その穴の埋めあわせをしようと、大室は停滞した思考の歯車を回転させようとした。

 まぶたの裏に記憶として留まっている情景をばらまき、それら断片を繋ぎあわせていく。時系列が正され、歯車は少しずつ動きはじめた。

 突如、梶の言葉が耳腔に甦った。

(お前は紙っぺら一枚で命乞いしたんだ)

 大室は奥歯を噛んで、その言葉がそれ以上ふくらまないように抑えこんだ。

 梶の言ったことは事実だった。

 襲撃者の目的が「紙っぺら」を取り戻す、あるいはそれを切り札として持っていた友岡を始末することだったということを、あの瞬間、大室は朦朧としながらも直感的に理解した。結果としてそれは正しかった。大室が差しだした書類を襲撃者は持ち去った。

 頭を激しく振った。こめかみが重く痛んだ。細かな傷という傷がちりちりとひっきりなしにうずく。いまだに条虫のような痛みが体中を這いまわっているような気がした。心身ともに疲弊しきっていた。苦痛ばかりを甦らせる襲撃前後の記憶を、大室は痺れだした脳髄の隅にどうにかして押しやった。

 大室は瀬野ユリと少女のスナップ写真をポケットから取りだした。ユリが少女に髪を切ってもらっている。いまの大室でも思わず笑みをこぼしてしまうような仲睦まじい光景だ。しかし、屑籠にくしゃくしゃにまるめられて沈んでいたこの写真は、大室がいま握りしめている伝言メモのように皺と折り目だらけである。

 十二年前、瀬野家のすべての記憶をおさめた写真たちを焼き尽くしたユリが、その写真を炎の中から救いだした。彼女の心に残る少女との思い出は、焼き捨てるに値するほとんどすべての過去の中からでさえ、救いだす価値のあるものだったにちがいない。

 だが、やはりユリにとってこの世は不条理だった。決して起きてはならないことが起きてしまった。だから彼女は未練を棄てた。写真を棄てた。

 大室は友岡が見せようとした文書の一字一句を憶えている。真の意味を理解するには時間を要したが、文面自体はあのとき瞬時に目に焼きついていた。その内容は、瀬野ユリ失踪に関する大室の思いこみを、すべて粉砕し、灰燼に帰するものだった。

 その文書が本物だということに大室は一片の疑いも抱いていない。それどころか、これまで不可解だった多くのことに合点がいくのである。

 友岡が死んだいま、真実のすぐそばにいる者はこの世にほんのひと握りの人間だけだ。文書の存在を知った大室、瀬野ユリ、それに襲撃者もそのうちの一人だ。

 コスモスポーツの男──中尾とその仲間もまた真実へと近づきつつあったのかもしれない。襲われたのはそのためだろう。

 そしてもう一人、真実の核となる人物がいる。

 瀬野ユリの行方はいまだ杳として知れない。彼女の行方に関しては友岡の文書からはわからない。ただ、その文書を瀬野ユリでなく友岡が所持していて、なおかつ友岡はその文書を誰かに対して切り札にしようとしていたのだ。そもそもあの文面で、署名をしている人物の他に、誰に対して効力を持つのか──ただ、友岡はその効力を十分に理解しているようだった。

 一体、誰に対して?

 真相まではまだ距離があるように思える。なんにせよ、瀬野ユリの身に何かが起きていることは確かだ。その何かとは――。

 大室はおののいた。いきなり意識に流れこんできたある予感はあまりに忌むべきものだった。その予感が自分の思考を侵食していくことに大室は抗った。だが、それはとめどなく連鎖的に展開していった。

 記憶の断片が勝手によりあつまってきて、適所に配置されていく。襲撃以前の映像の断片もそれぞれに意味を付与されて無数の糸になり、結ばれ、あるいは互いにからみあい、いまや大室のまぶたの裏にはひとひらの布が織りあがろうとしていた。

 自動的に仕上がった織物を眺めてみる。大室は幾分安堵した。見ればその織物には所々ほつれがあり、すぐにでもすべてがばらばらになること必至のぼろきれ同然のものだった。

 つまり、確信に足るものではあるが、確証などどこにもないのだ。物的証拠がなければいくらもっともらしくても、それは単に憶測の産物に過ぎない。

 思い過ごしであってくれ、と祈る思いで大室は受話器を取りあげ、手帳に記された電話番号を探した。

(早く、誰よりも早く。警察よりも早く、警察よりも――)

 手帳を繰る手を止め、大室は愕然とした。

 自分は、もうすでに警察官ではなくなっているというのか。

 だが、すぐに気分は落ち着いた。大室は自分の決断と行動の理由を十分に理解していた。それは警察組織に属するはるか以前から、心の深奥に根ざしている原理に従っているだけなのだ。

(何も恐れることはない。俺は間違っていない――そうでしょう、お父さん?)

 唐突に、黒い銃口の記憶が胸を貫いた。肩の肉を抉り、肋をひび入らせた銃弾が、友岡を貫いて勢いを失ったものなどではなく銃口を飛びだしてすぐのものだったら、母親が予期した通り、大室賢悟という存在は確かに父親と同じように死んでいた。全身に震えが走った。

 気づけば、大室は床にうずくまっていた。

 口の中に血の味が広がってきた。床にあらかた唾を吐いた。唾の中にはもう血も骨片も肉塊もなかった。気のせいだった。だが、鉄臭い臭いと味は確かに口中にあった。

 脳の芯に種を植えつけられたのだ。その種が芽吹き、全身に根をのばしていく。

(馬鹿だね。あんたもあの人みたいに死ぬよ、きっと――)

 母親の憎々しげに吐いた言葉が耳に甦り、冷たくぬめって巨躯を這いのぼってくる。大室は体を岩のように硬くして耐えぬき、やがて手をのばして机の電話機をつかみとると、震える太い指でダイヤルしはじめた。

(恐れることはない。俺が――俺が正義なんだ)


     三


 鈴森佳枝を手伝って大仰な鉄門を押しあけると、大室はまず中庭へまわった。

 禿げ芝生に立ち、建物を見上げた。尖塔の一角──瀬野創治郎の書斎の窓も鎧戸もすでに修理されている。ただ、その窓の下にはまだ鎧戸の細かな破片がガラスのかけらとともに芝生の葉の陰にまぎれていた。目を凝らしながらガラス片のきらめきを辿っていくと、その先には巨大な庭石がある。その庭石には比較的新しい傷が白々と刻まれており、あたりには角の尖った黒い石が散らばっていた。

 そのいくつかを拾いあげて検めてみると、どれも破砕面以外はつるりとみがきあげられている。だが、意図的に作られたと思われる平面に限っては、指で触れるとさらりとしていた。

 書斎は清掃、整頓されていた。大室は戸口にたたずむ佳枝を振り返った。

「ここで何があったかご存じなんでしょう?」

 佳枝は大室を見つめ返した。その眼差しに否定の意志はなかった。

「さっき、この辺りのご近所さんに話を伺ってきたんです。この部屋の窓や鎧戸が破られたり、ユリさんの怒声が聞こえてきた日時を憶えている方がいました。そして、あなたの事務所に問い合わせてみました。その日、あなたはこちらに出勤されていましたね。前に来たときは確か、その日は暇をもらっていたとおっしゃっていましたが――その日は、遺言の内容をユリさんが知った日で間違いありませんね」

「私は下のお台所におりました──ですが、私はいなかったことにされました」

 その言葉には険を抑えこむ感があった。

 佳枝は階下の台所で飛びあがるほど驚いたという。ガラスの割れる甲高い音、鎧戸の羽重ねした板が砕ける鈍い音、それらにつづくユリの叫び声に。

(くるなーッ)

 佳枝はいてもたってもいられず階段を駆けあがった。ドアのノックに応える者はいなかった。部屋の中ではユリの狂ったような恨み言と、何かを滅茶苦茶にひっくり返す物音、男たちの低い声が飛び交っていた。

 佳枝はぎゅっと目を瞑った。

「ユリさんは怒鳴り散らしておりました――とにかく乱暴な言葉でした」

「男性たちの声は聞こえませんでしたか」

「ここのドアはとてもぶ厚いのでくぐもってしか──でも、ドアから一番近かった実田さんの言葉なら、少し──」

「なんと?」

「それを渡しなさい、と」

 佳枝がその言葉を聞いた刹那、中で男たちがどよめいた。恐ろしい予感がして佳枝はついにドアを開け放った。

 ひと目で修羅場とわかった。だが、彼女が案じていたこととは真逆のことがそこでは起きていた。

 ユリの形相は般若の面そのものだった。割れた窓と鎧戸から射しこむ光を背にして、火掻き棒を振りまわして男たちを威嚇しているのである。

 一方で、男たちの方こそ逃げ腰だった。だが、手に手に椅子やサイドテーブルを取った彼らこそが、ユリを部屋の隅に追い立て、彼女を狂気へと駆り立てているようにも見えた。割れた窓から佳枝のいるドアへと突風が吹きぬけ、部屋に吹雪のように紙片が舞った。

(危ないからよせッ)

(それを置きなさい)

 男たちは口々に怒鳴り、叱り、なだめすかそうとしていた。般若の面にもほんの一瞬、悲痛な泣き顔が滲むのを佳枝は見た。しかし、男たちがじりと詰め寄るのを認めるや、ユリは再び目を吊りあげて火掻き棒を振りまわし、そこら中を叩き、突き刺しまくった。男たちが目配せをして同時に距離を詰めはじめると、ユリの泣き顔はついには元には戻らなくなった。そこでようやくユリの立場を理解した佳枝は、勇気を奮い立たせて間に割って入った。

(おやめなさいッ)

 両手を広げた佳枝の後ろで、ユリがついに泣き崩れた。そのときの佳枝の目には、男たちこそが野獣のように映っていた。

「あまりに不憫で――」

 佳枝は大室を見つめながら目尻から頬、頬から床へと次々に涙の粒を滴らせ、しまいには両手で顔を覆った。床にかがみこんでしまいそうになる佳枝を、手近の椅子を引き寄せて座らせると、大室は書斎を見てまわった。

 机や床、書棚や本には火掻き棒のものらしい傷跡が無数にあった。だが傷跡の存在以外に騒動の痕跡を残すものは何もなかった。床は塵一つ落ちていない。机の上も整頓されている。その机の上に大室が探していたものがあった。そして、大室がそこには無いと確信していた二種類のものもやはり無かった。一つはユリ自身が葬ってしまったものだが、もう一つは別の者の手によって完全に処分されてしまったのだろう。

「この部屋を片付けたのはあなたですか」

 佳枝はうつむいたままかぶりを振った。そして慎ましく鼻をすすると顔をあげた。

「すみません。取り乱してしまって――」

「現場を目撃したからこそ、あなたは彼女の身を案じているんですね。ユリさんが間違った方へ行ってしまわないかと」

「ええ」

「でも、口止めされた」

「はい」

 佳枝の返答には一瞬憤りが込められたが、それもすぐに弱々しく消え入った。


 ユリの部屋は前回の訪問から何も変わっていなかった。机のひきだしを開けると、あれから数日経っていくらか湿気は抜けたようだが、ほんのりと前と同じ匂いが立ちのぼった。

 屑籠もそのままにしてあった。空の化粧瓶と口紅をぬぐったティッシュペーパーをのけると、二片の紙片のちぎり屑が残った。厚手の和紙で、縁に黒い染みがあるものだ。

 大室は佳枝を振り返った。

「ちょっとお聞きしたいんですが――ユリさんが遺言内容を知った日から旅行に出ると言って家を出た日までのことで──あなたはその間もこちらに通っていらしたんですね」

「はい、ほぼ毎日──出勤簿の通りです」

「その間、ユリさんはこちらのものを使ったときがありましたか」

 と、大室がひきだしの中を指さすと、佳枝はのぞきこんでから首を振った。

「いいえ。使われていないと思います。それを使われるときはいつもお部屋中にいい香りがするでしょう? 私、好きなんです、その香り。だからわかるんです。後片付けもお手伝いしますし。ここ数年は全然――あらやだ――でも変ね」

 佳枝はさっと口元を押さえて眉を寄せ、そして不思議そうに首をかしげた。

「では、創治郎氏の書斎では、最後にこの香りを嗅がれたのはいつ頃です?」

「旦那様の書斎で? ええと、半年ほど──いえもっと前でしょうか」

 大室はさらにいくつか質問し、その後、佳枝を駅まで送って別れた。彼女は「よろしくお願いします」と深々と頭をさげ、改札口へと去っていった。

 駅までの道のりで、ユリのことが不憫でならないと佳枝は言い、何度も唇を噛んでいた。大室は彼女の背を見送りながら、真実を何も知らないでいる佳枝こそが不憫でならないと、どうしても思わずにはいられなかった。


     四


 重く厚いカーテンをも透かしていた西日もいよいよ弱まり、応接間は時々刻々と暗褐色の底に沈もうとしている。黒革張りのソファにおろした尻も落ち着かなく、大室は所在なげに、腕を吊る三角巾のほつれを広げていた。

 頭上のシャンデリアが不意に点り、堅太りの男が入ってきた。実田誠ではなかった。

「申し訳ございません。先生はやはり高熱がひどく、いまやっとお休みになられたようでして――せっかくお越しいただいたのですが、また後日お越しくださいませ」

「急ぎなんです。いまじゃなければ駄目なんですよ」

 大室はいらいらとテーブルを叩いた。冷めた茶がこぼれた。男は大室にじっと視線を注ぐと、静かに口を開いた。

「先生にお伝えすることがあれば承りますが──」

「その逆です。聞きたいのはこっちの方だ」

 大室はさえぎって言った。男は平然と言葉をつづけた。

「──私にお答えできることなら協力するようにと、言いつけられております」

 男は早川忠雄と名乗った。一人暮らしの実田邸に雇われた雑役夫で、足の悪い実田のために運転手も兼ねているという。年の頃は大室とそう変わらず、体型も大室に似ているが、二まわりは小柄である。聞くと、瀬野創治郎の遺言書がユリらに公表された日、早川も鈴森佳枝と同様、瀬野邸にいたという。

「あの日、私はお屋敷に到着するなり、先生に庭掃除をするよう言いつけられました」

「庭に? それじゃすべてを見ていましたね? 結構、目にしたことをお話しください――あ、耳にしたこともですね」

 大室は向かいのソファを勧めたが、早川はそれが聞こえなかったかのように宙を見つめ、立ったまま話しはじめた。

「庭の隅へ落ち葉を掃きあつめておりましたところ、西側の尖塔の部屋が──故人の書斎でしょうか、そこが急に騒がしくなりました。手を止めて見上げていると、窓と鎧戸を破って何か、大きな黒っぽいものが飛んできました」

「硯です」

 大室はすかさず言った。

「創治郎氏が愛用されていた書道具の中にあった硯でしょう」

「さあ、硯かどうかはわかりませんでしたが、庭石に当たって砕けましたから確かに石のようなものだったと思います──それでその直後、割れた窓から、何かを渡す渡さないなどといった声が聞こえてきました」

「家政婦さんもその声を聞いています。火掻き棒を振りまわし、椅子を振りまわしの切った張ったの大立ちまわりだったそうです」

「そうでしたか」

「そんな異常事態があっても、あなたは現場には駆けつけなかったんですか」

「部外者ですので」

 早川は素っ気なく言った。

「遺産相続のことなどは実田先生から聞いてはおられませんか」

 数瞬の間をおいて早川は答えた。

「おおかたのことは存じております。というのも、先生はときに私などにも意見を求めたりなさいますので──もちろん決して口外しないことと約束してのことですが」

「ご存じならこちらも都合が良い。おたくの先生か、あるいは創一郎氏か光治氏は、瀬野創治郎故人の遺言書を偽造しましたね──いえ、偽造したんです。あなたがそのことをご存じかどうかわかりませんが」

 早川の表情に変化はなかった。大室は実田がどこかで聞き耳を立てていればいいと思い、さらに一段声を高くした。

「正確に言うと、私が以前訪れたときに拝見させてもらったものが偽造されたもので、ユリさんらが奪いあったものが本物です。当然、記されている内容がちがうわけです」

 大室は再度ソファを勧めた。早川は今度は素直に従い、そして腰掛けるなり口を開いた。

「奪いあったとおっしゃられますが、誤解なさっていませんか」

「というと?」

「『渡す』とか『渡さない』のことです。先生がお話しくださったのですが、それはお嬢さんが手にしていた火掻き棒のことだそうですよ。なにぶん、その火掻き棒でご自分を傷つけかねなかったようでして──」

「なぜ自分を傷つけるんです? 私が見せられた遺言書の内容であれば、ユリさんが怒り狂う理由などあるはずないんですがね」

「それは、愛着のある家を売却しなければならないという──」

「という遺言書の内容ですね。そんなもの──偽物です」

 大室は言い切った。

「あなたの弁護士先生はずいぶんとお喋りなようですね。あなたはもう部外者などではないんじゃありませんか」

 そう詰問口調で問うと、早川は曖昧に笑みを返しただけだった。

「まあいいでしょう。ただ、早川さん、あなたのその言いぶんは筋が通っていないんです。あの家への思い入れなどユリさんにあるわけがないんです。あの場所にある思い出は、家族との別離ばかりなんですよ。十二年前、ユリさんは家族の写真をほとんど全部燃やしてしまった。そのことはご存じですか。当然ご存じでしょうね。ユリさんはそのときにもう瀬野の家族と決別したんです。したがって家に愛着などあるはずない。遺産相続の形もどうでもよかったんです。ただ、金を手にして、人生の再出立さえできれば」

「お嬢さんの胸の内までは、私には理解しかねますので」

 早川は申し訳なさそうに言った。大室は構わずつづけた。

「ユリさんが過ごしてきた生活を知ればわかることです。彼女はこの十二年間、自分を殺して生きてきた。金に不自由したことのなかった資産家の娘が、黙々と夜の銀座で働きつづけた。その給金で、いままで通りの優雅な暮らしもできたでしょう。家そのものが大事なら、ユリさんはもっとお屋敷に手を入れて、部屋や庭を飾り、調度品にこだわり、屋敷の規模と分相応の質を保つよう努めたでしょう。人付き合いもそうです。瀬野家復興を目指しているのなら、以前のように社交的であったはずです。しかし現実は真逆でした――友人付き合いもなく、人並みに恋愛もしない。彼女の部屋は質素そのもの。家政婦を雇い、ただひたすら最低限の暮らしを維持するのみでした。それにユリさんは、兄二人がそうしたように、没落した家を棄てて一人気ままに暮らすことだってできたはずなんです」

 早川が後を引きとった。

「しかしお嬢さんはそうはなさらなかった――それこそ家への愛着、お父上に対する親愛の情のあらわれだとは考えられませんか」

「そうは思えませんね。少なくとももっともユリさんの身近にいた家政婦──十二年間母親のように彼女を見守ってきた鈴森佳枝さんはそうは考えていません」

 大室はそう断じた。

「遺産は別の人物が相続する──本当の遺言書にはそう記されていたのでしょう。だからこそ、ユリさんはひどく憤ったんです。気が狂うほどに」

 早川は口元を微かにゆるめた。笑っているのだ。

「遺言がそんなことになっているとは露とも知らず。私は現物を拝見させていただいておりませんので、先生がおっしゃることしか──」

「私が拝見したものには、皺一つありませんでした」

「皺一つない──となると、お嬢さんの手には火掻き棒だけがあって、それを危ないから先生は『渡しなさい』とおっしゃった、とは考えられませんか。もしお嬢さんが遺言書を手にしていて、先生がそれを『渡せ』とおっしゃっていたのなら、そんな紙っぺらがあの騒動の中で無傷で皺一つないなんてことはありえないように思います。つまり、遺言書の奪いあいなどなかった──そう考えるのが合理的かと」

「別の考え方もあります。さっきも言ったように、私が見たものは偽造したものだったと言ってるんです。書斎で渡す渡さないとやり合った方が本物──」

「では、それはいまどこに?」

「書斎には紙の切れ端が散乱していたそうです。佳枝さんがそう証言している。部屋に飛びこんだときに紙の切れ端が紙吹雪となって舞いあがったんです。その場で何か紙が──文書がびりびりに引き裂かれたんです。そしてなぜか、部屋の片付けは佳枝さんでなく別の誰かがおこなった。紙屑となった遺言書は佳枝さんの目に触れないように拾い集められたんです」

「その紙屑というのが遺言書だったと?」

「ええ──ところで、あなたの先生はその紙屑を繋ぎあわせて復元などしませんでしたか。どうです? 完全には復元できなかったでしょう」

「だからそんなものは存在しないと──」

「するんですよ。ユリさんの部屋の屑籠に、切れ端が二枚ありました。厚手の和紙です。墨字の一部も残っている。その切れ端には皺と強い爪の痕が刻まれています。戯れに和紙をちぎったのとはちがう。爪の痕と皺は、強く握りこみ、やけっぱちに引き裂いた痕跡です。これはおそらく、興奮と絶望のあまり、ユリさんが部屋に戻るまでぎゅっと掌に握って離さずにいた遺言書の切れ端なのです。ユリさんは遺言の内容を知って怒り、暴れた。二人の兄──血の繋がっていない冷徹な兄と、親切だったはずの弁護士が、三人がかりで彼女をなだめようとしていたのは事実です。ただ、『渡しなさい』というのも、おっしゃる通り本当に火掻き棒のことだったのかもしれません。しかし、ユリさんには全員が敵に見えてならなかった。あまりにも理不尽な遺言書を『渡せ』と詰め寄られているように感じたのだと思います。それを返してしまえば遺産は遺言通りに執行される。ユリさんは遺産を諦めさせられることだと思ったのでしょう。それに、手に椅子や何かを構えた男三人の手にかかれば、強気な彼女といえどもいずれは力負けして取り押さえられてしまう。ユリさんは奪い返されないように、その遺言が執行されないように、遺言書を破り捨てた。もちろんそんなことをしたところで遺言が法的に破棄されたことにはなりません。だが、彼女はそんなことに思い至らなかった。あるいは、法的にどうのなど、彼女には関係なかった。理不尽な父親の遺言書、ひいては瀬野家への十二年間の献身すべてが裏切られた。その思いが、遺言書を破り捨てるという行為へと駆り立てたのです」

「憶測に過ぎませんね」

 そう切り捨てる早川には一向構わず、大室はつづけた。

「私が拝見した遺言書の日付は半年以上前の五月。しかし、その遺言書とされるものからは墨の匂いが残っていました。それはごくごく最近書かれたものにちがいありません。つまり、それが本物だとすると、創治郎氏はごく最近――病床に臥せっているとき、死の直前に──いえ、逝去された後どころか、家裁での検認手続きの後にしたためたということになります。そうでなくては匂いの説明がつきません。墨の匂いは、もってせいぜい数日で消えてしまいますから」

「厳重に密封されて保管されていたとしたら──たとえばビニールやなにかで」

 早川の指摘に、大室は首を振った。

「家政婦の佳枝さんは、創治郎氏の死期迫る頃に書道具や書き損じなどの片付けを言いつけられたことはないと言ってます。創治郎氏は、書道具の後片付けは必ず佳枝さんに頼んだり、手伝わせたりしていた。だからといって創治郎氏本人がこっそり書きしたためて、自分で後片付けをしたということもない。墨をおろすと匂いがしますからね。墨を洗い流したり、筆や硯を乾かしている間中ずっとです。佳枝さんは墨の匂いが好きな香りだとおっしゃってましたが、この半年、その匂いを嗅いだ覚えはない――とにかく、墨の香が匂いたつほどここ最近に、少なくとも半年以内に墨と筆で書かれた、創治郎氏自筆の文書は存在しないのです」

 早川はゆっくりと口を開いた。

「遺言書というのは自筆でなくてはならないのでしょうが、故人がそれを知らずに、別の場所、別の筆記具を用いて代筆を頼んだという可能性は考えられないでしょうか。無論、その遺言は無効になるのでしょうけど」

「可能性はゼロではありませんが、私の考えの方がより確からしいのです。遺言書は偽造された。それがどのような手順で作成されたか、私の考えを聞きますか」

「ぜひ」

「偽造はユリさんが旅行に出ると言って家を空けていた間に行われたんです。おそらく書き置きに記された通り、旅行の日程となっていた十二月五日からの三日間。その間なら、家政婦の佳枝さんも屋敷に立ち寄ることはありませんから。偽造を実行した人物は、まず故人の書斎に向かった。創治郎氏の机に書道具があることを彼は知っていた。それに筆跡を真似るために故人直筆の書も必要だった。しかし、書道具には硯だけが欠けていた。創治郎氏の書斎にあるべきなのに失われてしまったものの一つ、それが創治郎氏の硯です。それは先日ユリさんが庭へ放り投げて割ってしまったのです。ところで、なぜ本物の遺言書と同じ筆書きにしたのか。硯がないのなら、ペン書きにすればよかったのに――その理由は、万に一つ筆跡鑑定をしなくてはならない場合に備えてのことでしょう」

「実に合理的な推理です」

 早川は大室の言葉を予期していたかのように悠々と相槌を打った。大室はつづけた。

「創治郎氏が普通にペンで書かれた文書は無数に存在します。それらすべてを処分しきることは不可能でしょう。しかしそれに比べ、毛筆でしたためられた文書は圧倒的に少ない。案の定、書斎に創治郎氏自筆の書はまったく残っていなかった。高価な筆や硯、墨などがあり、書を嗜まれていたという創治郎氏のことを鑑みると、これはおかしいでしょう? おそらくは、偽造者によってほとんど残らず破棄されたと考えていい。遺言書が創治郎氏の自筆かどうか筆跡鑑定を行うようなことがあってもこれなら心配はないでしょうし。とはいえ、誰にも怪しまれない程度に筆跡を似せたとは思いますがね。誤算だったのは、さっき指摘したように、創治郎氏の書道具に硯だけが欠けていたことです」

「庭に散らばっていたのが故人の書斎にあった硯、というわけですね」

「ええ。そこで、ユリさんの部屋にある書道具を使った。ユリさんの書道具はごく最近に使用された形跡がありました。書道具は湿ったまま机のひきだしにしまわれていたため、筆などに黴が生えてました。臭いもひきだしにこもってすらいましたよ」

「黴、ですか」

 早川は苦笑した。

「新しく、生き生きしたやつです。無論、佳枝さんはユリさんが使用した可能性を否定した。ユリさんが書道具を使った際は、やはり後片付けを佳枝さんに手伝ってもらう習慣があったし、やはりユリさんが旅行に出かける前に墨の匂いを嗅いだこともなかった――」

「お嬢さんは実は帰ってきていたとは考えられませんか。それで彼女は──」

 早川は口を挟んだが、不意に言葉を切った。大室は余裕たっぷりにほほえんだ。

「旅行に行くと言っておいて気が変わって帰宅し、そしておもむろに書をしたためた、ですか? その考え方はずいぶん無理があるように思います。それでは創治郎氏の書が一切なくなってしまった理由にもなりませんし。それに、ユリさんなら自分の書道具を自分の机の中で黴を生えさせるようなことはしないでしょう。そうする理由もありません」

 そこまで言うと大室は不意に押し黙り、そして無念そうに首を振って重い口を開いた。

「実を言うとそんなことはどうでもいいんです。たかが私文書偽造だ──本当は、不測の事態なんでしょう? ユリさんが帰ってこないことは」

 大室は早川の感情のない細い目をじっと見つめた。

「私が気にしているのは偽造そのものではありません。その内容なんです。私が拝見した偽の遺言はむしろユリさんに有利に書き換えられていた。偽造することにより万事まるくおさまるはずだった。偽造した人物は密かに、その偽の遺言通りにうまく遺産の相続をするつもりだったのかもしれません。旅行から帰ってきたユリさんにその偽の遺言書を見せればきっと喜んだことでしょう。きっとそれで彼女の怒りも鎮まったはずです。しかし、ユリさんはそんなものが創りだされていたことを知らなかった。知らずにある行動を起こしてしまった。いや──」

 大室はふと考えこんだ。不意に友岡の存在が脳裏に浮かんだ。

(ちがう? 逆か?)

 ユリが先に行動を起こし、その結果を受けて遺言書が偽造されたのだとしたら?

 大室の脳内で紡がれた、ぼろきれ同然だった織物が、朽ち果てるどころかいま一つの綻びが繕われようとしていた。

 大室は急に噴きでてきたこめかみの汗を拭うと、ポケットから皺だらけのスナップ写真を取りだして早川に渡した。

「手前はユリさんですが、その奥の女の子の方は、里中ちとせ――いまは結婚されて春野ちとせを名乗っています。彼女こそ本当の、正当な遺産相続人だと私は考えています。いや、これは事実です」

 早川は無表情のまま大室に写真を返した。

「ユリさんはこのちとせさんに会いにいった。そして二人はある文書を交わした」

「文書――」

 大室は早川の目の奥に動揺を認めた。

「私はこの目で見ているんです。その文書を。遺産相続の権利を瀬野ユリに譲るという──法的にはなんの効力もないものですが、ともかくそういった内容だった。文面はおそらくユリさんの筆跡です。それに春野ちとせの自筆署名と日付が──問題は、その文書を友岡雅樹というやくざ者が持っていたことです。その文書の存在がどういう意味を持つかはおわかりですね。つまり、ユリさんがご覧になった真の遺言書には、創治郎氏の遺産の正当な相続人はちとせさんだということが記されていたということです。ユリさんは真の遺言書の文面通りに相続が執行されることを恐れて、先手を打って直談判に──いや、そんな生やさしいものじゃない。友岡雅樹というやくざ者の手を借りて強請り、奪い取ろうとしたのです」

 その文書はもう大室の手にはない。友岡を暗殺した犯人に持ち去られてしまった。

「その後、ユリさんは行方知れずとなった。さらには、なぜかその文書を持っていた友岡雅樹は、今朝、私の目の前で殺害されました。それと関連があるかわかりませんが、今朝早く、友岡だけでなく別の組の構成員も二人襲撃を受けました。その二人は友岡が関係しているとされる奥多摩での事件を裏で調べていた者たちです」

 早川の広げた手が大室を押しとどめ、そして苦笑を漏らした。

「ずいぶんと話が広がりすぎているようです──それに、結局のところ、あなたは何をされたいのですか」

「真実が知りたいだけです。本当は何が起きたか、何が起きているかを知りたいだけなんです」

 大室はそうまくしたてると、呆然としてうなだれ、冷めた茶を飲みほした。額に玉の汗をいくつも浮きたたせ、その大半がいままさに滴り落ちていった。

「冷たい飲み物をお持ちしましょう」

「──すみません」

 早川は席を立ち、大室は部屋に取り残された。

 水が運ばれてくると、大室は礼を言ってすぐに飲みほした。

「お話はよくわかりました。刑事さんのお考えは、先生に確かにお伝えします。ただ、一つ──」

 大室は顔をあげた。早川がじっと見下ろしてくる。

「私は、あなたがここに来られた理由を理解しあぐねています。いち警察官としてでもないようです。一体、この一件にどんな思い入れがあるというのです?」

 大室は胸を突かれた思いだった。ただそれは痛みではなかった。

 早川の言う通りだった。大室がいまだ警官としての自覚と理性を保っていたなら、ここに一人でのりこんでくることは決してなかった。

 一連の事件の関係者への詰問の役目は大室ではない。本来なら特捜本部の捜査員が担う。

 ただ、彼らは何もかもを蹂躙して突き進んでいく。渦中にある当事者が何を思い、行動したかなど二の次だ。まずは事実だけが暴露される。そうした事実を生みだすきっかけとなった人の心は、あらかた踏みにじられた後でその残骸を拾い集められるだけだ。その残骸集めさえなされないことも少なくない。

 瀬野ユリがなぜ恐喝という罪の領域に踏みこんでしまったのか。春野ちとせはそのとき何を思っただろうか。二人の再会はあのスナップ写真の頃のようだっただろうか。

 彼女たちだけではない、大室の心の核ではいくつもの女たちの顔と心が浮遊していた。

 娘を創治郎の実子と偽って瀬野家の後妻におさまるも、のちに身勝手に瀬野の家を飛びだし、それでもなお醜くも瀬野家に未練を残すユリの母親、花江という女──。

 凋落の一途を辿った家の家政婦として十二年勤めている鈴森佳枝は「あの子が不憫で」と涙を流し、主従関係を超えて我が娘のことのようにユリの身を案じてさえいた。

 相沢絹代の存在も大室の胸に重くのしかかってくる。友岡を匿うために身を挺してまで桂木を欺いたその胸中ははかりしれない。何が彼女を突き動かしたのか。自らの人生を擲つとはどういうことなのか。

 それらは繊細にきらめき、ときに豪胆な強い光を放ち、大室を惑わした。彼女たちの思いは温かいものもあれば、ひりつくほど熱かったりもする。大室はいま警察官の無粋な鎧を脱ぎすてて、生身の人間として、女たちの心の揺動を感じとりたいと思うようになっていた。そんな心境にあることに、大室はいまはじめて気づいていた。

 だが、なぜその境地に到達し得たのかがわからなかった。大室は胸を過ぎっていく女たちの顔を追いかけた。求める答えを持つ女の顔は鮮明ではなかった。濁って見えるのは、その存在を大室自身が拒んできたからなのかもしれない。

(あなたのことがいまでもわかりません。なぜ、あなたはあんなことをしてきたんだ)

 年齢以上に老けてしまったその顔を追いかけると、それはふっと見えなくなった。

 我に返って顔をあげると、早川は何かを待っているようだった。返答を待っているのだと大室は気づいた。

「わかりません、私にはまだ――」

「正義ですか? あなたのお父上のような」

 大室ははっと顔をあげた。

「多少、調べさせていただきましたので」

「なぜ――」

 その問いには答えず、早川はつづけた。

「梶という刑事――あの男は実に素性がよろしくない。だが、あなたはちがう」

「何がわかるんです」

 大室は吐き捨てるように言った。早川はそれには答えなかった。

「正義を為そうとする方々が、皆が皆、あなたのようだったら良いのにと私は思います。ただ、もうご無理はなさらない方が良いでしょう」

「警告ですか。今度こそ死ぬと?」

 大室は唾を呑んで睨んだ。早川は静かに首を振った。

「そうなってしまわれたら――私は、至極残念に思います」

 実田邸を出てしばらくして振り返ると、玄関先ではまだ早川が見送りに立っていた。


     五


 からん、ころんと地面を小突く下駄の音が、長くのびた影につかず離れず追いかけていく。

 宿で借りた浴衣に厚手の丹前を羽織るも、素足に駒下駄では湯あがりの熱も足元から冷めていく。融雪の冷気はいまだに地面すれすれに留まっていた。

 それでも大室は寒気の中、ゆっくりと象亀のように歩いていた。十数歩前を歩く房子らの歩みは遅い。追いつきたくなかった。

 房子の腕に手を添えて根気よく歩調を合わせているのが、あすなろ寮職員の羽賀シゲ子である。宿を出て少し行ったところにある、この温泉郷随一の露天風呂につかりたいというのは彼女の要望でもあった。

 羽賀女史には日頃から母親が世話になっている。その労をねぎらうという口実でこの温泉旅行に招いたのである。とはいうものの実のところ、痴呆老人を連れだすのに大室一人では手に負えそうにないため、ほとんど有無を言わさず女史を引っぱりだした形となった。

 はたから見ると二人は仲の良い老姉妹のようだった。女史は数歩ごとに房子に話しかけ、あれやこれやと景色を指さしてみせる。だが、房子がそれに応える様子はない。ただ虚ろに歩を進めるだけである。それでも女史は大室を振り返って言った。

「お母様、ご機嫌がいいようね。やっぱり旅行に来られたのがうれしいのね」

「そうですかね」

 大室はおざなりに返事をすると、彼女は湯で上気した頬をふくらませた。

「ごらんなさいよ。お母様がこんなに足取り軽やかなことって滅多にないことなのよ」

(どうせあなたはそんなことも知らないだろうけど)

 そんな声が聞こえた気がして、大室は思わず身をちぢこめた。

 女史は宿に着くなり、体が冷えてしまったから今度は内湯に入るのだと女将と和気藹々と話をしている。大室はそれを尻目にさっさと部屋に戻ると、浴衣を脱ぎ、手早くスラックスとセーターに着替え、コートを羽織った。胸元に手を当てて警察手帳が入っていることを確かめた。署内が事件でごたごたしていたおかげか、休暇中の返却を二宮には求められなかった。

「あら」

 遅れて部屋に戻ってきた女史は大室を見て顔をしかめた。

「またお出かけですか。昼間もずっとお母様をほったらかしにしてたのに。また街の方へ? お食事も済ませてないのに」

 女史はいやらしいという顔をした。

 大室は女史の静かな憤怒の視線を背に浴びながら部屋を出た。そのとき房子と入れちがいになったが、息子のことは彼女の視界にすら入っていないようだった。大室も房子が見えていないふりをした。


 タクシーの車窓から見える市街は昼間とはすっかり様相を変えていた。

 商店街は灯を半ば消しており、代わりに飲み屋やスナックの看板が足下を照らしている。長岡市庁舎の前を通りかかったとき、大室はようやく自分のいる位置がわかった。昼間に訪れた税務署や市立病院、消防署が頭の中の地図上で立体的に立ちあがっていく。

 市役所では警察手帳を提示して、春野ちとせに関する文書を閲覧した。

 戸籍上、彼女には父親がいない。

 ここを訪れる前に立ち寄った光治の話によると、彼女の実の父親は板垣英介という男で、板垣と実田と、ちとせの母親智子は幼なじみだったという。

 兵籍簿によれば、板垣は地元長岡で徴兵され、第十三師団歩兵第五十八連隊の所属で中国大陸へ出征し、昭和十七年に宜昌地区での戦闘の際、頭部に被弾して即死した。遺体は後方陣地で焼かれ、遺骨だけが帰国する。

 ただ、ちとせの出生が戦後となっていることから、板垣が父親だということに疑問が生じてくる。智子が妊娠した頃にはすでに、板垣は戦死しているからである。

 その疑問を応対した市職員に告げると、なんのことはないと笑われた。

 戦中戦後のごたごたで出生届を期日内に提出できない、または提出を怠るなどの場合が多々あったのだという。ましてや婚前交渉による妊娠、出産、さらには父親が戦死したために認知もされない父無し子となると、母親は途方に暮れてしまう。届出を躊躇するのも無理ない、と職員は戸籍謄本の紙っぺらに憐憫の一瞥をくれた。

 その里中智子の死亡が届け出られたのは十二年前である。

 パートタイムで勤めていた菓子工場で原材料倉庫内の整頓をひとり任された智子は、誤って二十五キロ袋の粉を撒きちらしてしまい、その粉塵を吸引したために喘息の発作を起こし、窒息死した。戦前に瀬野の縫製工場の女工として勤めていたときも、智子は一度、綿埃を吸いこんで発作を起こしたために、のちに事務職に配置転換されたことがあると大室は光治から聞いている。

 智子の死後、娘のちとせは曾祖母に引きとられる。瀬野創治郎に持たされた相当な額の餞別で、彼女は理容師の学校に通い、免許を取得した。五年前には唯一の肉親である曾祖母も逝去し、以来、ちとせは曾祖母が営んでいた長岡市内の理髪店の名義を自分に移している。

 ちとせは天涯孤独の身となるも、その三年後には春野洋一と結婚している。

 春野洋一。運送会社勤務、事故違反歴なしの勤続十年。十代半ばの頃に恐喝と暴行で二度補導されるなど素行不良が目立った少年期を経てきたが、いまでは仕事場での就業態度は良く、真面目に働き、真面目に暮らしているという。

 ちとせと洋一のはじめての子、春野智恵子の出生届がつい先日に提出されている。出生日は十二月六日未明。出生地は長岡市内──住所によると市立病院であるが、問い合わせてみると実際の出産場所は自宅だったという。二週間の早産だが新生児の産後経過は良好で、衰弱の著しかった母体も回復し、母子ともについ五日前に退院している。

 役所、病院の次に、大室は消防署でちとせの救急搬送記録を閲覧し、実際に彼女を搬送したという隊員にそのときの様子を聞いた。

 救急車到着時、母体は意識混濁状態だったが、その胸には赤子をしっかりと抱いていたという。新生児の保温、気道の確保などの応急処置も申し分なかった。

 では、春野ちとせと瀬野ユリはいつ、どこで接触を持ったのだろうか。

 また、九日の未明には奥多摩事件が起きている。その事件と、ユリとちとせの件とはどう結びつくというのだろうか。

 大室はふと顔をあげた。タクシーは青白く仄かに光る山並みに向かって、広大な雪田を貫く一本道を走っていた。

 田の広がりが途切れると、道は谷間に入っていった。しばらくして車は脇道へと折れていく。ヘッドライトが泥雪の轍をなぞる。雪の塊に混じった砂利粒がときおり跳ねて車の底を叩いた。

「小さいけどね、この先にちゃんと集落があるんですよ」

 運転手が声をかけてきた。


     六


 腰の丈ほどの低い竹組の柵が目印になるという。

 廃屋を含めて五、六軒の極小の集落を東西に貫く一本道の最奥部に、その柵があった。

 柵とは異なる組み方をした竹格子の門はごくごくささやかなもので、それは指先で押すだけで小さくきしみながらあっさりと開いた。大室は薄雪を被って仄光る畑に沿う小道を行き、豆球ほどの明かりの点る玄関へと向かった。

 引き戸を叩くと、奥から女の声が返ってきた。足音が近づき、磨りガラス越しに赤子を抱いた女の姿がぼんやりと現れた。

「どなたでしょう」

 中の女は体をゆすっていた。腕に抱いた赤子をあやしているようだった。

「大室と申します。瀬野ユリさんのことでお話を伺いたく──」

 言い終える前に細く戸が開いた。赤子のぐずる声が漏れてくる。女の顔が隙間からのぞいた。大室は戸の隙間から警察手帳を開いて見せ、早口に喋った。

「春野ちとせさんですね。瀬野ユリさんをご存じですね」

 大室の声が赤子の泣き声にまぎれたかと思ったが、女の表情がすっと硬化した。

 戸はすんなりと開いた。

 大室は春野ちとせが嘘をつかないことを確信した。猛烈な吐き気を覚えた。


 大室は居間に通されると座布団を出され、待つように言われた。

 六畳間の真ん中にこたつがあり、鋏と一緒に和紙か障子紙の切り屑が散らばっていた。隅に寄せられた一棹の箪笥には簡素な仏壇が置かれ、長押には遺影が三つ並んでいる。化粧台には小さな写真立てが二つあり、木枠の中にはこの家の無邪気な幸福があった。

 見える範囲の調度品には贅沢さは感じられない。印象としては、春野家は質素、倹約というのが当てはまるようである。

 そういえば、と大室は思い出した。ちとせが着ていた鶯色のセーターは、毛玉こそなかったが、やはりくたびれて色褪せていた。肘のあたりの毛糸が薄くなっていたのは、大室にはどこか懐かしく思えた。母の房江もそんなセーターばかりを着ていた。

 こたつに目を戻すと、紙の切り屑だけでなく、障子紙でこしらえた花びらもあった。それを糊で貼りつけて障子を繕うのだろう。見ると確かに、障子にはいくつもの大きな裂け目があった。大室は紙の花を一枚、掌にのせて花びらの繊細な曲線を眺めた。

 春野ちとせは台所で赤子をあやしていた。薬罐が笛吹く頃には、赤子は静かになった。笛の音がやみ、上機嫌の赤子の気配はちとせの足音とともに居間の隣室に移っていった。

 す、と襖が開き、盆に湯飲みをのせたちとせが入ってきた。ちとせは最小の動作で座し、大室の言葉を待っていた。

「夜分遅く、申し訳ありません」

 大室は話の切りだし方に躊躇していた。ふと思いついて、いまさっき手にした紙の花を二人の間に置いた。

「自分も子どもの頃に母と一緒になってこのようなものを作ったりしました──いや、勝手にいじくってしまってすみません」

「構いません」

 ちとせの声音には温度がなかった。大室はそのことが気になったが、いまだ踏んぎりがつかない自分にどうにも嫌気が差していた。それでも自虐的に道化を演じることしかできないのを悟ると、心の為すがままに自嘲してみせた。

「母はですね、泥棒は障子の破れ目から家の中をのぞきこんで、それで盗みに入るかどうか品定めするのだと言うんですよ。でも、自分は『ウチにはどうせ盗むものなんて何にもないんだから、泥棒にのぞいてもらった方が盗みに入る無駄が省けていいんじゃないか』と言ってやったんです。障子なんてものすらない掘っ立て小屋からどうにか長屋に移ったんですが、貧乏暮らしに変わりはなくて――そしたら母は『よそさまに貧乏をひけらかしてどうする』ってカンカンになって怒っちゃいましてね。まあ、貧乏人なりの自尊心というやつでしょうか」

 ちとせは口元を少し持ちあげ、硬い面持ちのまま微かに笑った。戯けが存外にうまくいった。

「こんなことをよそさまにぺらぺら喋ってると母が知ったら、また叱られてしまいますね」

 大室は苦笑いを浮かべ、額を掻いた。

「ところで、あなたはどんな理由で──お母様はこの紙の花にどんな理由をつけておられましたか」

「ご用件を伺います」

 ちとせは表情を消して言った。だが、すぐに言葉と態度の両方をほぐして言い添えた。

「ユリねえさまのことでしたね。すみません。どうぞ何でもお訊きになってください──すべてお答えします」

 ちとせは大室を真っ直ぐ見つめ、待っていた。

 大室はその眼差しに戸惑い、いよいよかと覚悟を決めるときが来たのだと思った。

 取ることのできる選択肢は二つあった。一つは、ぬかるみに突っこんだ片足を引きあげて、何も聞かずにここを去ること。もう一つは、春野ちとせを重要参考人として任意同行を求め、特捜本部にその身柄を委ねることである。

 ただ、ちとせのその眼差しと相対した瞬間に、大室はさらにもう一つの選択肢を見出していた。それは、ぬかるみにもう片方の足を踏みいれ、ちとせともども底無し沼にはまりこむかのどちらかである。

「ユリねえさまは、私を訪ねて来ました──五日の夜です」

 大室が躊躇していると、ちとせはいきなりそう切りだした。

「私は瀬野のおじさまのご遺産を譲られることになっていたそうです。受けとるつもりはありませんでしたので、その旨を伝えました。ですが──」

「待って」

 大室は手を挙げてちとせの言葉を押し留めた。

「待って」

 もう一度なんとか声を絞りだした大室は、ちとせの不思議そうな眼差しに見つめられた。

「待ってください──あなたは私の質問にだけ答えればいいんです」

 彼女はややあって、はいと答えた。その眼差しは、大室の底意を読み取ろうとして読み取れないでいるようだった。大室自身、自分の意志の所在を見失っていた。

「話す必要のないことは、話さなくていいんですから」

 大室はやっとそれだけ言うと、ちとせも再び、はいとだけ答えた。

「では、訊きますが──ユリさんはある文書をお持ちでしたね」

「はい」

 ちとせは即答した。それが大室の脳髄にちくりと刺さる。

「それに署名しましたか」

「はい」

「内容は憶えていますか」

「大体は。瀬野のおじさま──瀬野創治郎の遺産相続を放棄して、ねえさま──ユリねえさまにその権利を譲るというものでした」

「瀬野創治郎氏の遺産をあなたが相続する理由について、ユリさんは何かおっしゃっていましたか」

「私がおじさまの実の子だと──それに、ねえさまはおじさまの実の子ではないのだと。遺言書にそう書いてあったそうです」

 ユリが書斎で暴れた理由、そして一旦は炎から救いだしたはずの写真をついに棄ててしまった理由はそのことにも由来するのだろうか。金のことだけではなかったのかもしれない。

「それは事実なんですか――つまり、実の子だということは」

 ちとせはかぶりを振った。

「確かに、おじさまは心から私たちに──私と母に優しくしてくださいました。でも、おじさまは母のことをご自分の娘のように見てくれていただけだと思います。私を実の子とおっしゃるのも、おじさまのご遺産を私が受けとりやすくするための嘘に過ぎないと思います」

「あなたのお父上は、板垣英介という方だと聞きましたが」

「私はそう信じてます。母はいつも父――つまり板垣英介のことを話してくれましたし、写真を肌身離さず大事に持っておりました」

 ちとせはそう言うと、立って箪笥のひきだしから一枚の写真を取りだしてきて大室に見せた。飾り気のない軍服に長身剛健な身を包んだ青年が、少年二人──創一郎と光治の兄弟──の肩に手をのせている。三人そろって屈託なく笑っている。

「おじさまに撮っていただいた写真だそうです。母もその場にいたそうですが、恥ずかしいからと写されるのを拒んでしまったって、これを見せてくれるたびに後悔しきりでした」

 大室が写真を返すと、ちとせは写真の中の父親の顔に硬い視線を注いだ。

「母があれほど悲しんでいたのだから──というのは妙な理由ですね。でも、この方が私の父に間違いありません」

 大室はちとせの母親、智子の遺影を見上げた。やや堅い笑みを浮かべた写真だった。顔立ちのほとんどを娘のちとせが受け継いでいるようだった。

「お母様から教わったんでしょう、これ」

 ちとせが作り溜めた紙の花を手にとって眺め、大室は訊いた。ちとせも自分のそばにある花を手にした。

「母は、幸せが逃げていかないようにって言ってました──さっきお訊ねになったでしょ? どんな理由かって」

 言葉の柔らかさに反して、ちとせの表情は苦悩にゆがんでいた。

 彼女の脳裏に巣くうものを振りはらうように、ちとせは切り屑をのけて正方形の紙片をつまみとり、それを指先で手早く折りたたんでいった。そして、添え木に包帯を巻いた右手の薬指を避けて鋏の指穴に指を通し、小さく折りたたまれた紙片に二度刃を入れた。

 広げたその紙片は、ちとせの小さな手の上で、ほんの指先ほどの可憐な花となっていた。

 色は無いが、折り目による起伏のために微かな濃淡の影が花弁に落ちている。それも、息を吹きかけて湿らし、指で花びらを揉んでしまうと折り目は消え、その花はただ真っ白なだけのものとなった。それは、彼女の掌の中で白く淡く、儚げに発光していた。

 それからちとせは二枚の紙の花を切りぬいた。そして、三枚目の紙片に鋏を入れる寸前で、ついに堰が切れた。ちとせは鋏と紙を投げだして、両手で顔を覆った。抑えきれなかった嗚咽が指の隙間から漏れていた。

 大室の脳裏に「最悪の予感」が再び侵入してきていた。

 さっきちとせが口走った通りであれば、瀬野ユリは五日の夜にここを訪れた。十数年ぶりに再会を果たしたその日、ユリはちとせに遺産相続権移譲の誓約書に署名させた。それがユリの目的だった。その後、彼女の足取りはふつりと途絶えている。そして、ちとせが自宅出産して救急搬送されたのは翌未明である。

 大室は「予感」を頭ごなしに否定してかかった。

 その再会の夜の、たった数時間のうちに、ユリとちとせとの間に何が起ころうというのか。そこには友岡も同席していたではないか。痩せて小柄なちとせに──ましてや臨月の妊婦に、大女とやくざ者の二人を相手にどんな抵抗ができるというのか。

 その日、夫の洋一は出勤していた。ユリと友岡はわざわざちとせが一人のときを狙って押しかけてきたのだ。ちとせは孤立無援だった。そのちとせがユリの失踪──もしくは死に直接的な関係などあるはずがない。「最悪の予感」などありえないのだ。

 しかし、大室はそれを完全否定することができずにいた。

 ちとせの肩が震えている。嗚咽を押し殺そうとして、漏れそうな声を飲みこもうとする姿は痛々しかった。だが、目を伏せて視線を逸らし、彼女を孤独にさせるのは忍びなかった。心の内では、大室はちとせの肩や背をさすって嗚咽の苦しみを和らげてやりたいと思っていた。

 赤子の泣き声が救いだった。

 ちとせはその声を五秒も放っておかなかった。顔を覆っていた両手の、濡れていない甲でさっと目元を拭うと大室に断りを入れ、素早く部屋を出ていった。

 襖越しに、赤子の喉を鳴らす音とときおりちとせが鼻をすする音が漏れ聞こえてくる。

 大室は紙の花を手にとって眺めた。大小、形は様々で、二、三十枚はあった。

 それだけの枚数が必要なほど、この部屋の障子が破けているのはなぜだ。子どもが悪戯したのとはわけがちがう。それに、この家にはまだそんな子どもはいない。

 書斎での騒動のときのように、ユリがここでも暴れたのだろうか。もしくは、誓約書への署名を拒むちとせを脅すために、友岡が乱暴を働いたのか。ちとせはユリの提案にすぐには従わなかったというのか。

 大室はふと障子に目を凝らした。と、いきなり吐き気が押し寄せた。

 障子には、ぽつぽつと焦げ茶色の染みがあった。血痕だった。

 それは障子だけではなかった。柱、壁──畳にもあった。それらはみな拭きとられてはいるが、痕跡すべてを拭き去ることはできていなかった。大室は血痕の元を辿った。

 血痕だけではない。畳のそこかしこに泥汚れを拭きとった跡があった。

 大室はこたつをずらし、敷布をめくった。六枚ある畳は、中央の一枚だけが泥染みもなくまっさらだった。

 口元をきつく押さえ、嘔吐感の猛襲に耐えた。その間も、大室の思考回路に散らばっていた事象の断片が音を立てて組みあがっていった。さっきまでの「最悪の予感」のことなど芥子粒となって吹き飛んでいた。それすらはるかに超越している。

 瀬野ユリとちとせとの間に何があったのか。ユリはいまどこにいるのか。友岡の行動と殺害された理由──しかし、誰が? 大室の脳裏に数人の顔が浮かぶ。千束組の二人が襲撃された件は? 奥多摩か。ちがう、これは──いや、間違いない、友岡の立場に立ってみると──だが、襲撃犯は一体誰なのか。そして、なぜ──。

 思考回路は支離滅裂に連結しあい、大室の脳髄をかきまわした。しかしその混沌の中から紡ぎだした一つの結論だけは確固としていた。仮説、推論、憶測、思いつき、大室の個人的な希望も絶望も、それらすべてはその結論を核にして飛びまわっているに過ぎなかった。

 大室は泥染みた畳に膝をついた。だが大室は畳など感じてはいなかった。そこは、膝から冷たく埋もれていく泥の沼だった。


 戻ってきたちとせは甘い母乳の匂いを纏っていた。ちとせは頭をさげた。

「お待たせしてすみません」

「赤ちゃんは、おなか一杯になりましたか」

「ええ、いまは眠っています」

 ちとせははにかんで答えた。

「予定日より二週間も早かったそうですね。ここで、独りで出産なさったと聞きました」

「はい」

 苦しそうな答えが返ってくる。ちとせはいきなり顔をあげて大室を見つめた。その目が何を訴えようとしているかを大室は察した。

 大室は急いで立ちあがり、部屋を出ていこうとした。ちとせは追いすがった。

「刑事さん、私──」

「もういいんですッ」

 大室は荒々しく怒鳴った。その声で隣室の赤子がぐずりはじめた。大室は呼吸を整えると、声を落として言った。

「瀬野ユリは旅行に出たきり帰ってこないんです。それに──誰かが彼女の帰りを待っているというわけじゃないんですから」

 ちとせはいやいやをするように首を振った。大室は構わず言った。

「赤ちゃんが泣いてますよ。行ってあげてください」

 そう言って大室は廊下側の襖を開けた。さっと流れこんだ廊下の冷気が不思議と大室の気分を落ち着かせた。大室は一つ息をついて、ちとせを振り返った。

「あの──赤ちゃん、ひと目だけ見させていただけませんか」

 ちとせは大室の二つの目を交互に見やって、やがて頷いた。

 木組みのベビーベッドから赤子を抱きあげると、大室の手の中で赤子はひどく小さく見えた。母乳の匂いと大室自身の洗いたての手から立ちのぼる石けんの香に、大室は胸の靄が晴れていくようだった。

 赤子は再び眠った。その寝息に聞き入り、しばらくして赤子をちとせの胸に返した。

「失礼します」

 大室は深く頭をさげると、突き動かされるようにちとせの家を飛びだした。

 

     七


 厨房から夕餉の後片付けをする水音が聞こえる。宿の廊下や居室などはひっそりと静まりかえっていた。大室は忍び足で自分の部屋に入った。房子と羽賀女史がいる隣室はすでに明かりが消えている。大室が寝間着に着替えていると、女将が盆に湯気の立つ牛乳を持ってやってきた。

「よくお休みになれるようにと、お母様にお出ししたんですが──」

 房子はこれは息子に飲ませるんだと言って、好意で出されたホットミルクに頑として口を付けなかったという。

「すみません。母はその──ちょっと呆けがきちゃってて」

 女将の愛想笑いを受けながし、ようやく独りになってから大室は厚手のコップに口をつけた。顔にかかる湯気を吸いこみ、表面に張った甘い膜をすすった。

 十数年ぶりの味だった。

(これは息子に飲ませるんだ)

 そんなときだけ息子の存在を思い出したのか、と大室は胸を締めつけられた。

 長い間、母親の存在と共に嫌悪してきたはずの牛乳がいまは抵抗を覚えない。いま感じるのはむしろ後悔だった。飲みこむ牛乳の一口一口が、喉を通りすぎるたびに大室を責め立てた。その痛苦に耐えながらでは、どうやらこの一杯を飲みほすことはできそうになかった。大室はコップを静かに置くと、途端に堰を切ったようにむせび泣きはじめた。

 大室の家には、他に食べ物はなくてもなぜか牛乳だけは豊富にあった。その良質な蛋白質が大室の巨躯の源となったのは事実である。

 簡単に死ぬんじゃないよ、というのが房子の口癖だった。その由来は、大室の父、賢造があっけなく暴漢に殴り殺されたことに端を発している。母親の意図からは大きく逸れていたが、大室もまた、父親のような正義を実践するには刃物や銃弾を弾き返すような体躯が必要だと信じこんで、言われるがままに毎食ごとに出される牛乳を飲みほしたものだった。

 房子に頑強に反対されつつ大室が警察官採用試験に合格した頃も、貧しい食卓にはいつもと変わらず牛乳の瓶が添えられる光景がつづいていた。

 ところがある日、高校卒業間近となった頃、大室は近所の駐在所に呼びだされた。房子が民家の牛乳受けから牛乳瓶を盗んだところを捕まり、通報されたというのである。

 駐在警官は大室母子と顔なじみで、その一人息子が警官を志していることを知っていたため事件沙汰にはしなかった。

 駐在所からの帰り道、大室は自分の母親を恥じ、それ以上に自分の体躯を恥じた。貧しい家庭で本物の牛乳がそうそう飲めるはずがないことをいまさらながら気づいたのである。

 長年、町内町外のあらゆる所で牛乳や鶏を盗みつづけてきたことを房子は認めた。しかし彼女は悪びれた様子を微塵もみせなかった。

(無鉄砲で馬鹿なもんだから、案の定、あの人はぶっ殺されちまった。あんたもあんたよ。下手な正義感をあの人に植えつけられちまって、警官になろうなんて言いだしてさ。だからなお余計に──だってたった一人のあんたなんだもの、丈夫に育ててやらないとって思うのは当然だろう? で、どうするのさ。おっかさんがお縄にかかっちまったけど、まだあんたは警官なんかになろうっていうのかい。親が盗っ人だってのに、おまわりなんかになれるのかね。ああ、普通に暮らしてくれないものかねぇ)

 房子を牛乳泥棒、鶏泥棒に急き立てていたのは大室自身だったのである。それでも大室は母親をなじった。以来、母親を恨んできた。自分の巨躯を嫌悪しつづけてきた。

 しかし、いまはあの頃の母親の行為を理解できるような気がした。そして、許せるような気もしていた。

 母は息子の成長をどう見守っていたのだろうか。息子の体が見上げるほどの岩塊のようになっていく姿が、母の目にはどう映っていたのだろうか。

(さぞ親御さんはご自慢でしょうねぇ)

 呆けて息子を息子と認識しなくなった房子は、よその子を見るような眩しい目を大室に向けて、嬉しそうにそう言った。

 彼女に後ろめたさがあったろうか。盗みを罪と考え、はたと思い留まる瞬間はなかったのだろうか。信念が常に彼女を盲目にさせていたのか。警察官としての正義を志す大室は、そんな母親の生き様を責めつづけてきた。果たして、母の罪を責めることは自分が志そうとする真の正義だったのか。

 大室は再びコップに口を付けた。ぬるくなった牛乳は甘く香って喉を過ぎ、胃の腑に落ちていった。心地よく暖まり、催した眠気のままに大室は布団に入って目を瞑った。

 大室はこれまで、母親に対して種々思うことの一切合切を一緒くたにして、胸の芯にある何重もの固い殻に押しこめてきた。その殻をいま、夢現の中で一枚一枚割って、剥がしていく。母、房子という人が見えてくる。

 ふとした拍子に春野ちとせの姿が思索に入りこんでき、はっと目が覚めたりもした。だがそんなことを繰り返し、より深く眠りへと落ちこんでいくにつれ、いつしかどちらと構わず二人の女たちに思いを馳せ、解きほぐされた心のままに大室は身を委ねていった。


     八


「あの女は、いずれ殺す」

 口を衝いて出た言葉にふと我に返り、桂木は苦笑を漏らした。

 監視対象者である相沢絹代との密通が絹代本人によって捜査本部に暴露されると、とりあえずのところ桂木に自宅謹慎が申し渡された。後にさらなる懲戒処分の辞令が下されるということだったが、その際、復職後は警務部教養課の術科指導職への異動をほのめかされもした。だが桂木はその寛大な処遇を蹴って自ら職を辞すつもりでいた。

 これまで築きあげてきた一切を棄てる覚悟だが、ただ、この自分を貶めようとした者たちが為すべき贖いまでも帳消しにしてやろうとは微塵も考えていない。相沢絹代にしても、死に値するかどうかはともかく、いずれなんらかの決着をつけるつもりだった。

 桂木は煙草の吸いさしを足下に落として踏みにじった。朝の上越線長岡駅構内を流れていく人波の中で、頭一つ抜けた巨躯が待ち伏せされているとも知らずに近づいてくる。

 あの男──大室は嘘をついた。

 桂木は見ていた。地面に跪いた大室が、襲撃犯に血染めの紙片を差しだしているのを――襲撃犯はそれを奪い、「目的を達した」かのように立ち去っていった。

 あれは何かの文書だ。もともと大室が所持していたものなら襲撃前夜の時点で彼は桂木に見せただろうから、あの文書は友岡が持っていたものだとみて間違いない。

 興味深いのは二点。一つは、襲撃犯はその文書の存在意義を十分に理解していたことだ。ひと目見て内容がわかる──あるいは、襲撃犯はそもそも友岡からその文書を取り返すために襲ったのかもしれない。同時に、それは警察に渡ってはならないものでもあった。

 そしてもう一点。大室は瞬時に文書の存在意義を理解することができた。だから彼は自らの命と引きかえにそれを襲撃犯に差しだしたのだ。

 一方で、桂木にはその文書の内容は想像もつかなかった。奥多摩事件の捜査本部も同様だった。この差はそれぞれが追ってきた事件のちがいに他ならない。だったら、大室が辿ってきた線を同じように辿ればいい、そうすればそれが何かわかるはずだ。

(警察は無能だ)

 この三日の間で、ときに罵り、ときにほくそ笑みながら何度その言葉をつぶやいたことか。

 高貝警視率いる特捜本部が犯した過ちの端緒は、やはりちょうど一年前の拳銃摘発作戦時の失態にあった。以来、高貝をはじめ警察上層部は剣峰会検挙に固執してきた。今回、彼らのその猪突猛進ぶりを真犯人に逆手にとられてしまったのだ。

 高貝らは大室をもっと絞りあげるべきだった。文書の存在を軽く見すぎていることが迷走の原因だということにいまだに気づいていないのだ。

(俺がそれを気づかせてやる)

 いまさら手柄が欲しいのではない。自分を無能だと嘲笑った連中の、奴ら自身の無能さを嘲笑い返してやる。いや、真剣を奴らの脳天に振りおろしてやり、完膚なきまでの敗北を嫌と言うほど認めさせてやる。そうしてから俺は、悠々と瀕死の警察を去るのだ。これまで俺は、相対する者はすべて叩き伏せ、這いつくばらせてきたのだから。

「まあ、こんなところで――」

 桂木の待ち伏せに最初に気づいたのは羽賀女史だった。ぱっと花開いたほほえみも、しかしすぐに陰が差した。かつて抜き身の白刃にたとえられた桂木の清潔で精悍な顔つきも、いまや禍々しくぎらつくばかりなのだろう。それを自覚しつつ、あえて桂木は愛想良く声をかけた。

「いやぁ、お話を聞いて私も長岡へと思いましてね」

 監察官による聴取を終えるとすぐ、桂木は大室の行方を追った。その過程であすなろ寮という老人ホームに大室の母親が入所していることを知った。そこで、羽賀女史から一行の長岡への温泉旅行のことと、乗車予定の列車とその発着時刻を聞きだすのは容易いことだった。

 水上でも草津でもなく、なぜ東京から遠い新潟の長岡なのかと女史に訊いたが、行き先に関しては大室が決めたことで理由はわからないとのことだった。だが、その翌日までに桂木は完全に理解した。

「ちょっと彼と話があるんです。すぐ済みますので」

 桂木は声音を落としてそう言うと、顔を引き攣らせている大室をうながした。数瞬の逡巡の後、大室は呆けた母親と不審がる女史の背を人の流れへ押しやった。

「どうしてここに──何をしてるんです」

 大室の問いに桂木は目を剥いて呆れ、腕時計の文字盤を指で叩いてみせた。

「乗り遅れんようにはしてやるつもりだがな。次の列車の切符を取っておくか?」

 大室に侮蔑の視線をくれながら、桂木はコートのポケットから取りだした煙草に素早く火をつけた。

「いいだろう。答えよう――まず、さっきの中年の女だ。あの女がここだって教えてくれた。はじめ聞いたときは、お前の真の意図まではわからなかった――ただ、湯治にわざわざ東京から遠い新潟を選んだっていうのが引っかかった。ま、それはさておこう」

 桂木は瀬野ユリの線を追うことにした。はじめに梶に接触してはみたが、彼には嘲笑をもって軽くあしらわれただけだった。だが、別のところでは確かな収穫があった。

「瀬野家の兄弟、瀬野ユリの実の母親──弁護士、家政婦、銀座のクラブのママ──みんなその気にさせれば喋るもんだな」

 そう言って思い出したように掌をこすりあわせた。大室の視線がこの手に注がれているのに気づき、桂木は拳の擦りむけと痣を撫でた。

「ちょいとやり過ぎなくらいが隠し事をしてる連中にはちょうどいいんだ。警察の中にいたんじゃわからんことだったな」

「辞めるんでしょう、警察を」

 そう詰問してくる大室に、桂木は不思議そうな眼差しで答える。

「当然だろう。そんなに俺が恥知らずな人間だと思ってるのか」

「それなら、なぜここに? なんのためにですか」

 大室は腹から絞りだすように言った。

「そうだなぁ──ま、俺一人が割を食うのがつまらんのだ、とでも言っておこうか」

「あなたが仲間を盾にしたっていうのも事実のようですね。そんな腐った人だとは思わなかった」

 大室の眼差しが汚物を見るようなものに変わると、桂木はそれを跳ね返した。

「否定する気も起きん。どいつもこいつも好き勝手に思ったらいい──馬鹿どもが」

 桂木はまだ長い煙草を足下に落として執拗に踏みにじりながら、誰ともなく言い放った。

「今回、屈辱を味わうのは何も知らないでいる奴らの方だ」

 ばらばらの吸い殻から顔をあげると、大室の顔に再びおびえが甦っていた。

「どこまで知っているんです」 

「遺言書――偽造だってな」

 桂木がぶっきらぼうに答えると、大室は、ぐ、と喉を詰まらせた。

「実田とかいう弁護士がすんなり喋ってくれたよ──おう、お前か、あいつをあんなにも痛めつけたのは?」

 桂木は、自分の拳を振りおろす前からあった実田の頬の殴打痕を思い出しながら言った。

「私は、そんなことしません」

「まあ誰だっていいや。とにかくそれで、真の遺言書が存在していることがわかった。となれば友岡が持っていた文書の内容もおおよそ推測できる。瀬野ユリは友岡と連れだって春野ちとせの住む長岡へ向かった。強請るためにな。そうだろう?」

 桂木の問いに、大室の首が力なくうなだれた。

「友岡が持っていた文書はそのことを証明する。お前はひと目見てすぐに意味を理解した。お前が長岡に来た理由はそれを確かめるためだろう? それはまた、俺がここにいる理由でもある。春野ちとせに会ったんだろ? 会ったんだな?」

 大室の無言は肯定の他に意味を持たない。そして同時に、大室の立ち位置もわかった。それには少なからず驚きだった。

「さっきも言ったが、俺は、俺一人が割を食うのが嫌なんだ」

 大室が険のある目で桂木を睨みおろした。だが、その視線がふと揺れて、桂木の肩越しに移ろってとまった。桂木はつられて背後を振り向いた。大室の母親らが戻ってきたのだろうかと思ったが、人ごみがあるだけだった。ただ、一瞬だけ既視感を覚えた。

「俺は昨日の午後に行ってみたんだ。お前に先回りしたくてな──」

 春野ちとせの家の門に手をかけようかというとき、背後からちとせの夫、洋一に「何か用か」と声をかけられ、そのときは道を尋ねるふりをして引きかえした。他の連中と同じように、ちとせにすべてを吐かせるには夫の存在は邪魔だ。桂木はいきなり本丸を攻めるのをやめ、外堀から埋めていくことにした。

「まず瀬野ユリと友岡の足取りだ。二人の宿泊先を調べた。瀬野ユリは年増のくせに銀座の高級クラブの売れっ子だ。懐はまあ相当潤ってるだろう。旅館にしろホテルにしろ、長岡じゃそうそう高級なのが軒を連ねているわけじゃない。探すのは簡単だ。銀泉閣って旅館だ。十二月五日、昼過ぎにチェックイン。偽名を使っていたが、派手な女とやくざな優男だし、新車のセリカも目立つ。ところが二人は結局一泊もせず、翌朝には男だけが戻ってきて荷物を引き払っていったそうだ。この意味、お前にはわかったか?」

 返事がない。顔を青くして脂汗をこめかみからシャツの襟へと滴らせているだけだった。

「それがまあ、一つ。次に、俺は市内の病院を調べた。こっちはもっと簡単だった。春野ちとせは自宅で赤ん坊を産んで市立病院に救急搬送された。十二月六日未明。早産。二週間もだ。春野ちとせに何があったのか? さあ、これが二つめだ」

 桂木はもう大室の反応には構っていなかった。興奮が口を滑らかにさせている。

「三つめ。市消防本部で一一九番通報の録音を聞かせてもらった。女の自宅からの通報だが、ただ一つ確かなのは通報者は亭主じゃないってことだ。昼間聞いた旦那の声とはまるで違う。もちろんあれは春野ちとせ自身でもない。男の声だ。俺の予想ではその声の主は友岡雅樹だ。奴を知る誰かに聞かせたいもんだがな。それが三つめ。四つめ──消防署で救急搬送記録を見た。それに救急隊員の話も聞いてきたが、通報者は現場にいなかった。結局その後も通報者は現れていない。どこかに隠れちまったわけだ。そして、次が最後だ。警察ってのがいかに無能かってことの証明だ。ま、これに関しちゃ俺も含めてとなるがな。なにかって? 奥多摩事件のことだよ。ありゃ、とんでもない食わせものだったぜ。友岡の立場になって考えてみりゃわかるだろ? いまの俺ならわかる。何をやってもうまくいかねえ、あげくの果てに肝心の任務で大失態。そりゃ逃げだしたくなるってもんだ。奴は何もかもから逃げだそうとしたんだ。川村に殺されたふりをしてな」

 大室は目を瞠っていた。桂木はなんのことはない、と肩をすくめてその表情に応えた。

「あまりにも荒唐無稽な話だと思うだろう。だが、大体筋は通ってるんだよ。うまくやったもんだと思うぜ。ただ、まだわからないこともある。ぷっつりと断ち切れてるんだよ、春野ちとせのところで。瀬野ユリのことだ。彼女はいまどこだ? なあ大室、実際、何があったんだと思う?」

 桂木はうつむいた大室の顔を両手で挟んで自分に向けさせた。

「お前、聞きだしてきたんだろうな」

「し、知らない」

 桂木はいきなり大室の頬を張りとばした。

「とぼけるなッ」

 体を入れかえて大室を柱に押しつけると、肘で力まかせに喉を押しつぶしにかかった。ゆがめた大室の顔が桂木の凶暴性に拍車をかけた。

 が、桂木はふっと力をぬいた。男など責め立ててもさして愉快なものではない。この男から得られる情報などさして多くもないだろう。やはり効率を考えるならば、矛先を向けるべきは渦中の人物に絞るべきだ。

 人の流れが二人のまわりで滞り、好奇の目と怪訝な視線が織りまじって注がれはじめていた。

「行け」

 桂木は大室から一歩離れた。大室はただおろおろと桂木を見下ろしている。

「どうした。もう用済みだ。せいぜい親孝行してこい」

「桂木さん、その話はもうやめにして私と東京へ帰りましょう。お願いします」

 不意に肩に置かれた大室の手はずしりと重かった。桂木はその手を払いのけた。しかし大室は今度は両手で肩をつかんできた。離さない気らしい。

「桂木さん」

 懇願するようなその眼差しを睨みあげると、桂木は大室の手首をつかみ、瞬く間に後ろ手に捻りあげた。大室はあっと悲鳴をあげて床に膝をついた。周囲の人だかりがどよめいた。誰かの急くように駆けだした足音は駅員を呼びに行くものだろう。桂木は大室の腕を突きはなし、雑踏をかきわけて歩きだした。

「だめだ、行っちゃいけませんッ」

 桂木が足を止めるはずもなかった。

 失うものも守るものもない。これからもそういったものを貯めこむつもりもない。だから、桂木を躊躇させるものは存在しないのだ。

 一方で、向かう先には得るものが必ずある。それはもはや、暫時空腹を満たすためだけの獲物以外の何ものでもないのだが、立ち止まりさえしなければいい。喰らいつづければいい。一足踏みだすごとにいや増す高揚感が前進を加速させる。

 大室の反応は上々だった。あの男は春野ちとせを庇っている。つまり、この女には必ず何かがある。桂木の独自に行った捜査、それに奥多摩事件以降友岡が生きて現れたこと、そして例の文書がらみで友岡が暗殺されたことを合わせて考えてみれば、瀬野ユリに何があったのか、それに春野ちとせがどう関与したのかもおのずと知れてくる。

 足取りがほとんど小走りに近くなっていた。桂木は自身でそれに気づいていなかった。気づいているといえば、春野ちとせを思うゆえの、腹の底から脳天へと漲る熱だ。最初に彼女の存在が桂木の捜査線上に浮上したときに抱いた「またもや女か」という倦厭感はなぜかなかった。むしろ高ぶった。それはまるで、まだ会ったこともない春野ちとせが桂木の今度の思い人であるかのようだった。


     九


 春野ちとせの住む集落へと、型落ちのトヨペットコロナが泥雪のぬかるむ砂利道をゆっくり進んでいく。細く開いた窓からは、調子のいい鼻歌まじりの口笛が漏れ聞こえてくる。

 どこかで聞いた歌だが曲名も歌詞も桂木は知らない。きっとラジオから聞こえてきたものだろう。頬が思わずゆるむ。

(春野ちとせが、俺を待っている。この俺をだ)

 昨日は大室が訪れた。奴は見逃した。俺はちがう。俺があの木偶の坊とちがうことを、女はひと目で察するだろう。そうと悟ったときの女の失望、絶望──。

 桂木の脇腹は、際限なくあふれてくる笑いを噛み殺すのに何度も引き攣りかけた。しつこいほどの悪戯な笑いをなんとかしておさめると、一つ大きく息をつき、ゆるみかけた理性をいまいちど引き締めた。

 今朝は自分の訪問を邪魔する者はいない。昨日の昼間に春野洋一の運送会社に行って調べたところ、この日彼は出勤日となっていた。いま頃はどこぞの漁港からどこぞの市場へとトラックを走らせているのだろう。

(肝心なときに女房のそばにいてやれない亭主──女房ともども、あわれなもんだ)

 瀬野ユリが友岡を伴って強請りに来た日、そしてちとせが赤子を自宅で早産させた日──そして今日だ。今日、春野ちとせはすべてを吐く。俺の前で。きっと俺の予想通りだろう。慎ましくも幸福な暮らしは今日で終わりだ。

 桂木は舌打ちした。前方でバイクが転倒している。轍にハンドルをとられたらしい。若い男が車体を起こそうともがいているが、足下がぬかるんで踏んばれないでいるようだ。

(まあいい)

 桂木は手前で車をおりた。俺の幸運を恵んでやる──そんな気分だった。

 男はバイクを起こすことに焦っているのか、振り向きもしなかった。

「大丈夫かい」

 桂木は声をかけ、歩みよった。近づくにつれ、何かが腹の底でうごめき、むずがゆくなった。

 既視感だ。

 駅で感じたのと同じだった。

 既視感がますます強くなる。しかし、桂木の足取りがゆるむでもない。いまだ既視感をただ感じているだけだった。

 男は不意に、持ちあがりかけた車体から手を離した。深い泥にハンドルバーがめりこんだ。

 桂木の歩みが鈍った。いまさらながら既視感の正体を探りはじめていた。脳裏にありとあらゆる記憶を並べる。トランプをばらまいてしまったかのようだった。しかも、どのカードもなぜか裏面ばかりを見せている。どれをめくれば正解なのか。カードを選ぶ手が宙で惑う。

 結局、桂木の順番はまわってこなかった。

 カードはひとりでにめくれた。

 男が振り返ったのだ。桂木はあっと声をあげた。

 刹那、桂木は自分というものを自覚した。桂木は、腰の特殊警棒に手をのばすより先に、盾となるもの──人でも物でも、身を隠せる場所を探していた。身代わりを探していた。恐怖から逃れたい一心だった。だが身がすくんでいた。警官を見殺しにしたときと同じだ。

 男の手に握られた黒光りする塊は、突きだした細い筒の先端から火を噴いた。火柱は桂木の胸を二度焦がした。

 奥歯の根から血が滲んだ。同時に犬歯は唇の縁を巻きこんで噛み切っていた。それぞれの血が、鼻腔の内と外の両方から伝いおりたそれぞれの涙とまざりあう。悔しさからか、怒りからか、あるいは痛みからか──全身を大きな震えが襲った。ただ、それもすぐにどこかへ消え去っていった。三本目の火柱が眉間を焼く前に、桂木はすべてを諦めた。


     十


 「退職願」の墨字が大室の額を打った。

「これは預かっておく。もう一日やるから頭を冷やしてこい」

 二宮は退職願の封筒を机のひきだしに突っこむと、大室を押しのけるように刑事部屋を出ていった。大室はひとり取り残された。刑事課員はみな大会議室に出ばっている。

 今朝入ってきた一報に、管轄外の事件とはいえ、ここ東調布署もいっそう殺気立っていた。蒲田署管内多摩川河川敷で桂木国彦の射殺体が発見されたのである。

 奥多摩事件にはじまる一連の事件との関連性はまだ認められておらず、憶測が飛び交っているに過ぎないが、まるで無関係と考える者は皆無だった。

 仄暗く重だるい、しかしまぎれもない安堵が大室の胸中を満たしていた。大室はその中から気安い安堵感だけを努めて噛みしめてみた。それでもやはり苦いものが滲みでてくる。

 しかし、大室はもう警官であることをやめたのだ。この後悔の念もいずれ薄れるだろう。

 大室は気を取りなおして顔をあげ、刑事たちの臭気が籠もる部屋を見まわした。この部屋は三年を経ても大室に居場所を与えようとしなかった。だがもう、ここにすがりつく理由もない。

 母親と暮らす決意は揺るがなかった。母親が幸福に余生を生き、安らかに永眠するまで、母がかつて息子に望んだ通りに、善だの悪だのの別のない世界で、添うように生きるつもりだ。春野ちとせのあの白い顔に思いを馳せるだけで、そうした生き様に苦などないと大室は思えた。

「ずいぶんとすっきりしたお顔でいらっしゃるじゃねえかよ」

 梶は首を振って、ついて来いとうながした。


 資料室の蛍光灯が数たび瞬いたのちに寒々と点ると、大室は梶に背を押されて中に入った。背後でドアが閉まり、錠がおりる音が微かに部屋に響いた。梶は資料室に一脚だけある椅子を引いて大室を座らせた。

「科捜研が新兵器を試したそうだ。なんて言ったっけか。X線、マイクロなんとか──マイクロアナライザーか。そいつで銃弾の元素組成を調べられるんだとか。よくは知らんが、ま、お前も知らんだろうから──」

 梶は老眼鏡を鼻にかけると、手にしていた手帳を繰った。そして鼻をふんと鳴らした。

「奥多摩に、友岡殺し──それにうちの管轄の青木善三殺し、同じ千束組の組長襲撃──合計で十九発ぶんの弾頭が回収された。それらの弾頭の微量元素組成比はいずれも同一、とのことだ。そりゃそうだろうよ、なァ?」

 大室の返答を待たずに梶はつづけた。

「要はそのなんとかって機械でよ、鉛の弾に含まれる鉛以外の微量元素の組成比を特定して、鉛材の製造元を突きとめるんだとさ。まあ、業者ごとにそれぞれ自前の工場で純度を高めたり、混ぜものをしたりして製品にしてるわけだし、そもそも原料にする石ッコロからしてそれぞれちがってりゃ、できあがってくるモンがそれぞれの製造元で微妙にちがってくるってのはわかるだろ? くわえて、製造時期も特定できるそうな。あと、放射化分析って方法も試験運用してるとかなんとか。なんのこっちゃ」

 梶は手帳を閉じると、もったいつけるようにそれを掌で弄びはじめた。

「そんなことは関係ねえんだよな、え、大室の坊ちゃん」

 梶の声がうわずった。

「弾も剣峰会も関係ねえってことだよ、わかってるんだろ、お前は。桂木は──いや、友岡も青木も中尾もみんないらんところに首を突っこんだからやられた。ところが、いまだにお前だけはぴんぴんしてやがる」

 梶は持っていた手帳を大室の鼻先でゆらゆらと振った。

「どうする? 俺も結構知っちまってるぜ」

 梶は指を舐めて手帳を開きページをめくりだした。と、鼻にのせた老眼鏡越しに「聞くだろ?」と問いかけてくる。

「何か事が起きたら、俺は裏ッ側から攻めてくのが好きなんだ。正面ばっかり突っついてちゃ上の奴らの二の舞だ」

 と、梶は上階の会議室を指さした。

「まあ、正面から突っこんでいった割には、お前はうまくやったよ。だがそれでやっと表半分だ。裏半分は──ここからだ」

 手帳を繰る手が止まり、開いたページを指先で叩く。

「まずはここからいこう」

 梶の調べによると、友岡雅樹は窪島の命を受けて、瀬野家の遺産を横取りするために、当主が逝去するはるか以前から長女ユリに近づいていたという。

「ところが、友岡はある日を境に連絡を絶った。ほぼ同時、十二月五日あたりから瀬野ユリも行方をくらましている。そしてその数日後――九日だな――奥多摩事件が起きた。現場には友岡が襲われた痕跡が残っている。友岡の企みを知っていれば、そこに瀬野ユリもいたはずだと考えるのが普通だろう。だが、そこには瀬野ユリが存在したという証拠はない。髪の毛一本もだ。その後、友岡はお前の目の前に姿を現した。しかし直後、奴は今度こそ本当に殺されちまった。この殺しも奥多摩と同じ弾が使われた。どっちも剣峰会のキツイ臭いがする。上の連中もその臭気にやられちまってくらくらしちまってる」

「剣峰会の仕業なんだから当然でしょう」

「銃と弾はそうだろうな。だが、実行犯までそうだと考えるのはいくらなんでも乱暴だ。剣峰会狙いの上の奴らはそれでいいかもしれんがな。だがこういうとき、俺は逆を考える。怪しい、剣峰会の誰もホンボシじゃねえ、とな。川村はエサだ。上の連中、見事食いつきやがったがね。さて、それでホンボシは悠々自適だといえるだろうか──否。まだだ。まだエサに見向きもしない奴らがいる。千束組の連中、お前、それに殺される直前の桂木がそうだった。だが、そいつらもどうにかこうにか始末した。一人を除いて──」

「自分は──」

 梶は笑いながら手を振って、大室を黙らせた。

「まあ、そいつはとりあえず置いておこうや。お前が奴らを殺ったとは思っちゃいねえし。ここまででいくつも疑問点がふわふわ宙に浮いちまってるんだ。そいつから片付けようや」

 一つ、剣峰会川村が直接関与しているとされる奥多摩事件が警察の目を逸らすためのエサだとすると、誰がそのエサを撒き、なぜそのエサを撒く必要があったのか。二つ、なぜ友岡は殺害されたのか。三つ、瀬野ユリはどうなってしまったのか。

「一つめの疑問点だが──どういうわけか説明は省くが、友岡は瀬野ユリを落とせずに参っていたんだな。情けなくも時々、上役に泣きを入れてたりしてたよ」

 大室が訝る目を向けると、梶は照れ笑いを浮かべた。

「情報が勝手にこのお耳に入ってくるんだな。ま、それはともかく、奴は任務に失敗すると思った──あるいは、奥多摩事件のときにはすでに失敗していたんだ。株をさげて、恥を忍んで組に残るよりも、行方をくらましちまおうと考えた。だったら川村に襲われて殺されたと見せかけようってわけだ。だが、ただの現実逃避ってだけじゃ動機としては薄い。行方をくらました後、生きるのに金がいるだろう? その金を手にせず友岡はどうやって暮らしていこうと考えたんだ? 奥多摩事件にはもう一つ側面があるとみるべきだ」

 手帳を繰る手が止まる。細かくびっしりと敷きつめられた文字は、走り書きなどではない。梶の自信がその一冊につめこまれている。

「そのもう一つというのは、奥多摩事件のホンボシは友岡じゃないってことだ。言いかえれば、ホンボシもまた奥多摩ででっけえ花火をあげる必要があったってことだ。おそらく、警察の目を剣峰会に向けたかったのがその理由だ。友岡とホンボシの目的は一致した。友岡は逃亡資金、ホンボシは──なんだろうな、お前はわかってるんだろうがな。それはともかく、何かうまい話でも持ちかけたか、奴らは川村を呼び出し、殺った。友岡にしてみれば脅威がなくなるんだからこれ幸いだ。それで川村の乗ってきた車を使って、奴を襲撃犯に仕立てて奥多摩事件を演出したわけだ。だが結局友岡は殺された。なぜかってのが二つめの疑問だが──これは単純だ。ホンボシが友岡を裏切ったか、あるいは友岡がホンボシを裏切ったためか。俺は後者だと思う。その理由は奴が持っていた書類だ。それに何が書いてあったかは俺はまだ知らん。お前のケツを蹴りあげてでも吐かせたいところだが、そいつはやめておこう。遠まわりにはなるが結局行きつく先は同じだからな」

 大室ははっとして梶を見た。梶は逆に視線をからみつけてきた。大室は目を伏せた。

「次は三つめだ。瀬野ユリはどうなったか。お前は知ってるな」

「見当もつきません」

 大室はやっとそれだけ言うことができた。だが、梶は鼻で笑った。

「まあいい。少なくとも現時点、俺は瀬野ユリがいまどこで何をしているのか、その確証はつかめていない。だが、まさにそこだよ。そこにこそ意味があるんだ」

 梶はゆっくりとページをめくった。

「この俺が確証をつかめていないってことは、どういうことかわかるか? どんな人間でも生きてりゃ臭いが残る。その臭いがまるでない。こりゃおかしい、となるわけさ。つまり、ホンボシは実に上手に臭いを消してまわってるってことだ。もちろん瀬野ユリのだ。女の臭いのかわりに、警察には別の臭いを──血の滴る美味なる獲物の方を追わせてな。それと同時に、本命の臭いを嗅ぎつけた邪魔者を消していってる。そのときも偽の獲物の臭いを擦りつけて、警察の目を眩ますことも忘れちゃいない。どうだ、これは一つめの疑問に答える『なぜ』にも繋がるだろう? 奥多摩に瀬野ユリの臭いはない。そのかわり、剣峰会と川村、友岡の臭いがプンプンしてる。ホンボシは瀬野ユリの存在を、誰の目からも隠そうとしてるんだ」

 大室はうつむいて、まぶたを固く閉じた。だが、鼓膜はあまさず梶の声を拾いつづける。

「では、なぜ瀬野ユリは死体になり――俺、いま『死体』って言ったか? まあ、そういうことだ。女は殺されてる、ほぼ間違いなくな。ただ、なぜその事実を世間から隠されなければならなくなったのか。その答えは案外俺たち二人の近くにあった。すなわち、瀬野創治郎の遺言だ。遺言には相続人は長女ユリとなっている。だがよ、俺は最初から思ってたんだが、ありゃ作りもんだぜ。半年も前に書かれた墨がいまごろ匂ってくるかよ、なァ?」

 梶はそう言いきったが、それでも、この先は推測でしかないがと断った。

「友岡と瀬野ユリはあるときから行動を共にしていた。思うに、瀬野ユリという女は頭がまわる。そんな女は遺産狙いの男どもの策謀になど引っかからないだろう。だが、何がきっかけか、瀬野ユリの方から友岡に近づいた。友岡を利用する必要が生じたんだ。堅気の人間がやくざ者を役立てるときってのは、恐喝だの脅迫だのをさせて、よそから利を奪って喰らうくらいのことしかない。数千万から一億もの遺産を相続するはずの瀬野ユリが、緊急に手近のやくざ者を手懐けてまで誰かを脅さなくてはならないほどの理由ってなんだ? そりゃやっぱり金だよ。つまり、瀬野ユリは遺産相続人ではなかったってことだ。彼女は当然自分が相続すると思っていたから、友岡を遠ざけていた。だがそうじゃなかった。だから掌を返して友岡に話を持ちかけたんだ。何としてでも遺産を取り返す――母とその娘、親子の考えることってやっぱり似るもんだろう?」

 花江のことを言っているのだろう。あの時の、梶の嘲笑が重ねられた嫌悪感が瞬時に甦る。

「友岡も瀬野ユリが相続人でないことを知って驚いたはずだ。なにしろ窪島に与えられた任務そのものがおじゃんになっちまったんだからな。ただ、瀬野ユリが遺産を諦めなかったことが奴にとって最後のチャンスでもあった。とりあえず一枚噛んで瀬野ユリと繋がりをもっておけば、のちのち本来の任務を遂行できる機会があるかもしれない。そんなわけで、二人は連れだって真の相続人のもとへ向かった。恐喝するためにだ。だが奴ら、運が悪いんだなぁ──」

 梶は息を継いだ。その指先は手帳の紙面をなぞりすぎて黒ずんでいた。

「単なる旅行、反抗期の家出、世を棄てての失踪、あるいは資産家の娘を狙った誘拐──どれも違う。どれも違うが、なんにせよすでに死体──」

 梶は不意に黙り、手帳を静かに閉じた。

「俺は誰が遺産を相続するかを突きとめようとした。瀬野の兄弟、弁護士は俺に嘘をついたわけだが、結局全部吐かせたよ──そういや、お前か、あの弁護士を痛めつけたの?」

 大室は顔をあげた。桂木も同じことを訊いてきた。

「いえ、そんなことは──」

「ま、いいか。俺はそんな荒っぽい手は使わないけどな。誰にでも弱みってのがあるから、そういうのを利用するんだ。表側に立場のある人間は弱点にはとことん弱い。奴らが裏で手を結んでる連中のことをほのめかしたら、素直に吐いてくれたよ。そしたらなんてことはない、相続人は創治郎の寵愛を受けていた家政婦の娘だとさ。奴ら、あまりに瀬野ユリがあわれだってもんだから遺言書を偽造したんだと言ってる。俺らが見たやつだ。だが、当のお嬢ちゃんは腹違いの兄貴たちが自分のためにそんなことをしてくれてるとは露とも知らずに、チンピラとつるんで家政婦の娘ッ子を脅しに出かけちまった。新潟の長岡だっけ? この三日間、お前もその長岡へ行っていたよな」

 大室はぎくりとして背筋が凍りついた。 

「桂木もまたお前を追って長岡へ行った。それでどうなったか──桂木は殺され、多摩川に浮かんだ。お前はというと、生きて帰った。そして帰るなり、辞表だ。こりゃおかしい──お前、春野ちとせに会ったな?」

 その名が耳に飛びこんできたとき、大室の中で何かがむくりと首をもたげたはじめた。

「俺も行くよ」

 梶はそう言うと、下卑た笑みを浮かべた。

「彼女は関係ない」

 大室は口走った。刹那、梶の双眸が凶暴さを帯びた。

「馬鹿か。遺言は家裁で検認されてから開封するもんだ。内容はそこで確認されている。あとから偽造したって本物の存在を消し去ることはできん。俺らが見せられたのだって、あんなの急ごしらえのその場しのぎ──」

 不意に梶は言いよどんだ。

「その場しのぎ? ただ単に俺らをはぐらかすためだけか? となると──そうか、くそッ畜生めッ、全部ヤツかッ」

 梶が喜ぶほどに、大室の不安は増大していった。

「瀬野ユリがあわれだって? 笑わせやがるぜ、まったくあいつら――」

「何を──するんです」

「そりゃ、みんなが得することだよ。まァるくおさめりゃお前も満足だろう?」

「春野ちとせに会うんですか」

「そりゃそうだ。だが、まだ足りん。もっともっと証拠を握らなくちゃならねえ」

 梶は高揚して手帳を掌に何度も打ちつけた。大室は静かに言った。

「彼女には会わないでください」

 梶は一瞬きょとんとしたが、すぐに例の笑みが戻った。

「言ったろう、まァるく──まんまるにおさめてやるって。俺もお前も、春野ちとせお嬢ちゃんも、みんなまァるくだ。心配すんな。ともすりゃ、お前にだって取り分はあらァな」

「取り分?」

「瀬野創治郎の遺産に決まってるじゃねえか。真相を共有し、秘密を共有し、だんまりしてやるかわりに手にする金だ。お前も協力しろよ。どうせ知っちまったんだろ?」

 大室は唖然とした。その大室につと迫って梶は凄んだ。

「でなきゃ女を──女の家族もろとも追いこむぜ」

 血の気が引いていった。視界に暗い網がかかっていく。その閉じていく視界の中で、かろうじて梶の顔が見えた。梶はいやらしく笑っていた。その笑みが、あるときから苦悶の表情に変わったようだった。だが暗くてはっきりとしない。大室は霞む目を凝らした。視界の中央だけが少し明るんだ。梶は悶えていた。大室の両手が梶の首を絞めていた。

 闇は一気に晴れた。

 大室は立ちあがって両腕を突きだし、梶の首をつかんでいた。両の親指は喉仏のふくらみを力一杯押しつぶそうとして、爪を白ませている。梶の両目は飛び出んばかりに赤く血走っている。大室は力を抑えることができなかった。

(ごめんなさい)

 親指の下で、ごきりと音がした。

 大室は両手を梶の首からなんとか引き剥がした。梶の体は流体のように柔らかく床に崩れていった。

(ごめんなさい)

 大室は膝をつき、呼吸を整えようとした。過呼吸を起こしかけていた。それでも手は梶の体の下を探った。手帳があった。一ページずつめくった。やはり危険な代物だった。

(ごめんなさい、お母さん)

 大室は手帳の肝心のページを破ると口に押しこんで飲みくだした。残った手帳は手近の棚の資料箱に突っこんでまぎれこませた。その頃にはようやく呼吸が整っていた。大室は内線電話の受話器を取りあげ、二宮に状況を報告し、床に座りこんで待った。

(ごめんなさい、お父さん)

 あたりが騒がしくなってきた。大室の手が何者かにつかまれ、ひやりとする感触が両手首をぐるりと巡った。自分に手錠をかけた者が何か喋っている。だが誰の声も聞こえない。自分の息遣いと両親への謝罪の言葉だけが大室の脳裏をとめどなくこだましていた。


     十一


 ひんやりとした病室は薄暗かった。

 高貝は真っ直ぐ部屋を横切って、風にはためくカーテンを開け放った。

 初春の陽気が部屋の中ほどまで射しこんでくる。ベッドの男は床の反射光に目を細めた。

 男の両頬はのたうつ縫合線に引き攣れ、欠けた下唇は歯のない歯茎をのぞかせ、その歯茎もひどくゆがんでいた。顎を唾液が伝う。包帯が取れたとは医師から聞いていたが、顎骨はまだ鋼線で固定されているらしい。千束組の若き首領の精悍な顔立ちは、一度破裂して肉片をばらまき、その後、拾えるだけの切れ端を拾い集めて継ぎ接ぎしているかのようだった。

「包帯でぐるぐる巻きにしてた方がまだ見られたもんなんだろうがな」

 高貝は率直な感想を述べた。

 中尾の頬の縫合線が細かく痙攣した。それを見て「失礼、失礼」とおざなりに謝ると、高貝はサイドテーブルにあるストローを差したジュースの缶を手にとった。缶を振って空だと気づくと、連れに買いに行かせた。

 病室が二人きりになると、高貝は掌を擦りあわせて話を切りだした。

「峰岸五郎が死んだ。昨日だ。もともと死にかけてはいたんだが、さらに精神的に落ちこんだんだろう。剣峰会の一斉検挙が死期を早めた――そういう見方をする輩もいる」

 高貝はひと呼吸置き、中尾の反応を試した。

「峰岸五郎が死に、達夫が挙げられた以上、若頭の窪島が暫定的に峰岸組の頭になる。窪島嫌いの五郎の側近には、達夫の組長就任を望んでいた者もいてな、そういった達夫派や剣峰会の残党どもが、いま裏切り者を捜しているらしい」

 中尾は反応を示さなかった。

 缶ジュースが到着すると、高貝は缶の口を開けてストローを差し、その先端をうやうやしく中尾の口元に運んだ。

「ほれ、どうぞ」

 中尾は顔を背け、しかし缶を奪いとると、やけっぱちにストローをくわえた。欠けた唇の隙間から立てつづけにジュースが滴り、顎と胸を濡らした。同じ唇の隙間からいらだちのうなり声が漏れる。

 高貝はにやにやしながらハンカチを取りだし、こぼれたのを拭いてやろうとした。だが、痩せ細った腕で振りはらわれると、高貝は喉を鳴らして笑った。

「我々はどうしても達夫の居場所をつかむことができずにいた。弾頭部分の化学分析を行ってハンダ線が原料だということを突きとめ、製造元から納入先まで割りだしたが、結局のところ、その大量のハンダ線は盗難されたとわかっただけだった。被害届も出ている。薬莢製造に使用された真鍮板もそうだ」

 高貝は息を継いで、中尾を正面に見据えた。

「だが、我々はお前さんという当たりくじを拾った。お前さんの事務所の金庫をこじ開けさせてもらった。そして我々はついに──いとも簡単に、剣峰会のアジトの所在をつかむことができたわけだ。ただ、このことには二つの意味がある。どういうことかわかるか。一つは、見るも明らかに、剣峰会検挙はお前さんの功績だってことだ」

 高貝は唐突に讃辞の拍手をしはじめた。振り向いて連れにもうながす。二人分の拍手がベッドの中尾に浴びせられる。

「もう一つというのはな──」

 高貝は唐突に拍手をやめ、連れにもやめさせた。

「裏切り者捜しのお目当ては、お前さんだということだ。もちろん、裏切りとは多少意味合いが違うがね。だが奴らにとってはそんなことはどうでもいい」

 中尾がいきなり目を剥いて飛びかかってきた。だが尋常でなく痩せ細った体では高貝の胸元にしがみつくのが精一杯だった。高貝は目配せで連れの助太刀を抑えると、中尾の体を乱暴にベッドへ押し戻した。中尾は倒れこむように枕に顔面の半分を埋め、悔しそうにうめいた。

「流動食じゃ精もつかんか」

 銃弾はまず中尾の左頬から入り、二本の臼歯と下顎の一部を粉砕した。そして、銃弾が直撃した二つの歯と数片の砕けた顎骨が口中を滅茶苦茶にした。第二、第三──第十数番目の弾丸となったそれらは、舌をちぎり、切歯から犬歯、臼歯までのほとんどの歯と上下の顎骨をばらばらに割り砕き、右頬を縦横無尽に引き裂いたのだという。

 高貝は憐憫の情を目に浮かべて中尾を見つめた。

(こいつもまた敗残者だな)

 奥多摩事件に始まる一連の事件は敗者を大量生産した。

 友岡雅樹、青木善三、桂木国彦──それに峰岸五郎も入れれば死人は四人。

 この中尾仗は死こそ免れたが、それでもこんなひどい有様では、生き残って良かったものかどうかというところだろう。

 捜査本部を立ちあげた所轄署で、一人の若手刑事が同僚を扼殺したという報も届いている。動機はいまだ不明のままだが。

 峰岸達夫は余計なことをした。アジトを一網打尽にされ、逮捕される直前に悔しまぎれに拳銃を発砲した。天井に向けて。ただそれだけなのだが、その発砲行為のために彼には殺人未遂の罪状がつけくわえられることになる。達夫は殺意を否定するだろう。だが、高貝は峰岸達夫をできる限り長く刑務所に閉じこめておくためなら、どんな証言でもでっちあげさせるつもりだった。

 峰岸組の頂点の座に座ることになるであろう窪島渉も、傘下の剣峰会が壊滅し、一切合切が警察の手に落ちたことにより、極州会連合の中で立場を悪くしていることだろう。

 勝者は唯一人――この自分、高貝紀次だけだ。しかし、だ──。

 高貝は連れに退室をうながすと、部屋は再び二人きりになった。急に惨めな思いが胸に押し寄せてきた。

「お前さんを奴らに渡すつもりはない。私は無法者ではないからな。それに、お前の功績に免じて、その他諸々の罪も水に流そう──ただ、それには条件がある」

 中尾は興味を示した。高貝はその視線に背を向け、窓辺に立った。軽く乾いた風を吸いこんでも気分は重くなる一方だった。窓を閉めると風はひとうなりして絶えた。

「お前は金輪際この一連の事件に首を突っこむな。お前が見知った、あるいは聞き知ったものはすべて他言無用だ」

 高貝は中尾を振り返った。中尾はすでにその言葉の意味を理解していたようだった。何かを喋ろうとして、ひしゃげた口元をもごもごさせている。高貝はメモ帳を一枚切り、ペンとともに中尾に放ってやった。中尾はそれに書き殴って、メモを高貝に突き返した。

『おくたまはギソウだ』

 中尾の口元が笑ったように見えた。だが、目はどろりと光ったままだ。

「そうらしいな」

 あらためて人から指摘されると吐き気がしてくる。高貝は降参とばかりに両手を挙げた。まわりくどい言い草は余計に惨めになる。

「友岡は自らハンドルを切ってトンネルの壁に突っこんだ。そんな段取りがあったんだろう。友岡の仲間はボンネット越しにセリカのタイヤを狙って撃ち、タイヤがパンクしてハンドルを取られたように見せかけようとした。初弾はミス――二発目でタイヤはパンクした。ただな、お前さんが考えていたようなことを、私がまったく考慮に入れてなかったわけではない。私はそこまで無能じゃない。ただ、そのたった一点だけが疑わしいというだけでは、我々が剣峰会を追うのをやめる理由にはならないんだ。わかるな?」

 高貝は自分の顎を指で叩いて示した。

「お前さんのその顎に撃ちこまれた銃弾は、奥多摩で使われたのと一致した。友岡を殺ったのも、お前の所の青木を殺ったのも、そして桂木を殺ったのもだ。つまり、第一の犯行から一貫して、剣峰会の関与が色濃く――いや、臭いだ――鼻がひんまがるほどぷんぷん臭わせてきやがった。我々はその臭いを追う。当然のことだ」

 捜査方針は間違ってはいなかった。ついに雪辱を果たすこともできたのだ。

(しかし――私は──)

 中尾は嬉々としてメモ帳に何かを書き殴っている。高貝はその手を乱暴につかんでやめさせた。

「いいか、この件に真実だとか真相だとかいうものは必要ない。この意味がわかるか」

(私は真相を隠蔽する)

「ネズミの巣は壊滅した。渦中の拳銃は依然行方不明だが、そのかわり五百挺の小銃、拳銃、それに数千発の弾薬を――弾薬製造の施設を摘発した。その成果だけでも世間は十二分に満足する。私がやった。私は与えられた任務を完遂した。歴史に名を残したんだ」

(私は無能ではない)

「川村は事件の主犯として全国指名手配され、顔写真が日本中に貼りだされている――まあ、そんな奴はおそらくもうこの世にはいないだろうがな。だが、我々は――いや、お前だ、お前は事件が風化していくのをただ見ているだけでいいんだ。いや、見ることも許さん」

(死に損ないの分際で──そんな目で私を見るな)

「お前は忘れるんだ。それが条件だ。お前が今後も生き残るためのな」

 中尾はいつの間にか書いたメモを高貝の眼前に突きだした。それは稚拙な落書きだった。高貝はその絵を判読しようと目を凝らした。

 どうやら大きな掌のようなものと、その上を蠅の飛跡のようなのたうつ線が引いてある。飛跡の先端には芥子粒ほどの棒人間が両手を挙げて右往左往している。

 高貝は絵の意味をはかりかねて顔をあげた。中尾はひしゃげた歯茎を欠けた唇から剥きだしにしている。中尾は棒人間を指さし、次いでその指を高貝に突きつけた。

 血が脳天にまでのぼりつめた。意味がわかった。中尾はさらにメモにペンを走らせた。掌の絵に『はんにん』と書き足したのだ。

(私が犯人の掌で踊らされている、だと?)

 高貝はメモを奪いとって握りつぶした。すると、突如中尾はうつむいてうめきだした。

 だが、うめき声をあげる中尾の表情に苦悶はない。痛苦でもない。ただ、笑っているのだった。俺を嘲るつもりか、と高貝は憤った。憤る一方で、背に噴きでた汗でシャツがへばりついていた。だが、高貝は中尾の目の中にある色にふと気づいた。中尾の笑いは、嘲笑は嘲笑だが、それはいつからか彼自身に向けられたものへと変貌していた。その証拠に、中尾は高貝が見ている前で嗚咽を漏らしはじめたのだ。

(負け犬が)

 高貝は胸の内でそう吐き捨てると、踵を返して病室を出ていった。


     十二


「確かに」

 実田誠はちとせの署名に目を落とし、言った。

「本当にいいんだね」

「はい」

 と、ちとせは答えた。

 瀬野創治郎の遺産相続を放棄することは夫の洋一も同意した。その場合、遺産は遺言に従って慈善団体に寄付される。今日はその手続きのために実田が訪れていた。

「君の選択に、板垣──君の父上はきっと喜ぶよ」

「おじさま」

 ちとせは顔をあげた。

「父は──どうしていまさらなんですか」

「国と国との事情が変わったのもそうだし、あるいは彼自身の心境の変化かもしれない。とにかく板垣は君宛に手紙をよこしてきた。それは事実なんだよ」

「母はずっと父を恋い慕ってましたのに──どうしていまさら」

「彼はそのことを必死に詫びていたじゃないか。君が智子君から生まれたと知っていたなら、向こうで家族なんて持たなかったと。あの男のことだ、智子さんとのわだかまりなんか捨てて、すぐにでも海を越えて飛んで帰ってきたはずだ――手紙で言ってる通りだと思うよ」

「でも、なぜ母は別れを告げたのでしょうか」

 ちとせは訊ねたが実田はそれには答えなかった。

「彼には君に宛てて手紙を書くように、私からよく言っておこう」

 赤子に愛想を振りまくと、実田は待たせてある車へと戻っていった。ちとせは赤子をあやしながら玄関から見送った。

「中に入ってな」

 洋一はサンダルをつっかけて実田と並んで歩きだした。ちとせは洋一の言葉に従った。

 智恵子をベッドに寝かしつけると、ちとせは居間の障子を細くあけて、実田と洋一が車の前で立ち話をしている様子を見守った。隙間から射しこむ春の陽がちとせの頬を熱くする。やがて車は実田を乗せて走り去った。

 ちとせは障子を閉めた。破れ目を繕う紙の花が陽の光で仄かに輝いている。大小の紙細工の花を連ならせると、障子格子の中を這う裂け目が、桜か梅かの梢の枝ぶりか、はたまた垂れさがる藤の枝のようだった。

 障子の隅にある赤茶けた染みに目が留まる。ちとせは立って台所から濡れ布巾を持ってくると、染みに押しつけ、こすり、色薄く滲ませた。濡れた障子紙はもろくなって小さく裂けた。

 そこにまた、一輪の花が咲くことになる。


 昨年の十二月五日、夕方から降りだした驟雨は宵の入りには一旦弱まるも、転じて長雨の気配をちらつかせていた。

 ラジオからの歌謡曲と、雨垂れのささやきと、ひとり夕餉の片付けをしながらどちらともなく聞き入っていたちとせの耳に、玄関の引き戸を叩く音が飛びこんできた。ちとせは台所から応えると、臨月近い重い腹を抱えて三和土におり、戸を少し開いた。

 見覚えのある顔がそこにあり、ちとせの胸が懐かしさで華やいだ。ただすぐに面映ゆさが忍び入ってきた。ちっとも変わっていないと思った刹那、女の美麗な細面に誰もが避けられない歳月が幾重にも重ねられているのを認めてしまったからである。

「ねえさま」

 ちとせはやっとそれだけ言った。

 瀬野創治郎逝去の報をちとせが受けとったのは十一月の末。知らせてきたのはちとせも顔なじみの「実田のおじさま」だった。その電話では、ちとせが瀬野創治郎の遺産すべてを相続することを伝えられた。遺産と聞いて嬉々とする洋一を尻目に、ちとせはいつまでも胸騒ぎがおさまらなかった。そして、このユリの訪問はちとせがあれこれと考えをめぐらせているときに浮かんできた予想の中の、最も重苦しいものだった。

 しかし想像に反して、ユリは再会を懐かしんでいるようだった。ただ、そこに浮かんだ笑みはすぐに能面のように硬くなった。機嫌を損ねたかと思い、ちとせは頬を押さえた。

(あたし、いけない顔してたかしら)

「寒いわ。中に入れてくださらない?」

 ユリはぶっきらぼうに言った。

 ちとせは慌ててユリを玄関に招じ入れ、彼女の濡れたコートを脱がせた。水滴を払ってハンガーにかける間にユリは勝手にあがりこみ、手近の襖を開けて居間に入っていった。ちとせは袖をまくり、ユリの履いていたハイヒールの泥はねを落としにかかった。

(高そうな靴──)

 ユリの暮らしぶりがいまでも上々であることの証なのかもしれない。そう思うと後ろめたい気分が少し和らぐ。

 泥はねは雨降りの割にはさほどではなかった。ユリは車で家の前まで来たのだろう。染みにならずに済み、ちとせはほっと胸をなでおろして居間の方を振り向いた。

「お茶を入れるから、もう少し待ってて」

 ユリは鏡台の上の写真立てを眺めたまま小さく手を振って応えた。

 ちとせは大急ぎで茶の支度をはじめた。コンロにかけた薬罐が湯気を噴きだすまでの間がもどかしかった。急須に湯を注いでからもまたもどかしくてしかたがなかった。

「お待たせ」

 ユリは長押に掛かった母の遺影を見上げていた。ちとせはそれに気づかぬふりを決めこみ、盆を置いてユリの方へ座布団を差しだすと、先に座ってすらりとした背中を見つめながら待った。そろそろ居心地が悪くなってき、ついには当たり障りのないように言葉を選んで口を開いた。

「ユリねえさま、おじさまの遺産相続ね、せっかくだけどあたしお断りしようと思ってるの。おじさまの御厚意はうれしいけど、あたしにそんな権利はないもの」

「そんなことないわ」

 ユリは淡々と言った。

「だって、あなたこそ父の──あの人の本当の子どもなんだもの」

 ちとせはその言葉の意味をすぐには飲みこめなかった。だが、その横をすりぬけて、「遺産相続」という言葉の意味だけはすとんと胃の腑に落ちていった。

「お父さまは――いいえ、瀬野創治郎は遺言でちゃんと宣言してるわ。あなたが実の子だって」

 ちとせは「でも、でも」と口ごもるだけで言葉が出てこない。ユリはさらに言った。

「つまりあれよ。あたしはどこかの誰かさんの娘ッ子だけど、あなたはちゃんとした瀬野家の長女だってこと」

「そんなの、嘘に決まってるわ」

 やっと口を衝いて出たちとせの言葉に、ユリは振り向いて眉を寄せた。

「あら、お父さまのことを嘘つき呼ばわりするの?」

 ちとせははっとして首を振ったが、ユリはすぐに思いなおしたようで、

「失礼、あなたのお父さまだったわね。だったらどうぞ、勝手におっしゃいな」

 と言って背を向けた。ちとせは慌てて取り繕った。

「あたしに相続させるための口実よ。きっとそう。おじさまはきっとそのおつもりでいらしたのよ」

「どうかしらね」

「そんなこと信じられませんもの。おじさまがねえさまのことを大事にされてたの、あたし知ってます」

「あたしはよその子。それは自分でよくわかってるの。物心ついた頃からね」

 ユリの口振りにちとせはぞっとした。

 しかし、そんなのはまったくありえないことだと、ちとせもまたそう信じている。

 戦争で死んでしまって写真でしか知らないが、板垣英介こそ父親だとちとせは母親に言い聞かされてきた。何より母は、死ぬまで板垣という人を思いつづけていた。ちとせにとっての父親は、母が大事にしていた写真の人物──板垣英介という青年以外に存在しないのである。

 根拠薄弱と言われればそれまでだが、母親が嘘をついてちとせを騙しつづけてきたとは思えない。どこかに嘘があるのだとしたら、それは瀬野家の側にあるにちがいないとちとせは確信している。

 智子とちとせは瀬野家に仕える家政婦とその娘という立場ながら、当主の創治郎には日頃からよくしてもらっていたことは周知の事実だった。二人とも創治郎のことを「旦那様」とではなく「瀬野のおじさま」と気軽に呼ばせてもらっていた。遊びざかりでお転婆のちとせが我が家のように家中を駆けまわっていても、創治郎にだけは決して叱られることはなく、ときに膝の上に呼ばれて一緒に指遊びをしてもらったこともあった。さらには、智子の死後、ちとせが瀬野家を出るときにも、餞別だといって目がまわるような額の金をもらった。ちとせはその金のおかげで理容師学校に通うことができ、いまの暮らしがあるのだった。

 しかし、それとこれとは別だ。

 創治郎と智子とは親子ほども歳が離れているのだ。父とその娘のようだというのならふさわしくもあるが、ユリの言うような関係では断じてない。

 創一郎が家を出された日に、泣きじゃくるユリの口から智子と創治郎の邪な関係を罵る悪口を耳にしたし、その後、花江が智子に嫌悪の眼差しで睨めつけたり、あからさまに嫌がらせするのを目にしてしまうこともあった。だが、母はそういったことを幼心にも気にするちとせをさもおかしそうに笑うのだった。

(ユリちゃんもおませよね。そんなことあるわけないのにねぇ)

 その母の言葉を思い出してあらためて確信を深めると、ちとせは幾分落ち着いた。

「おじさまは、あたしを娘ということにした方が相続に反対する人が現れないとお考えになったのよ。きっとそう」

「想像は勝手よ。でも遺言は遺言、現実はそこに書かれてることなのよ」

 そう言ってからユリは舌打ちした。

「面倒くさいのね、あなたって。昔からそうだったかしら」

「あたしはただ、あたしにはちゃんと父親がいますってことを言いたいだけです」

「じゃあ遺言はどうするの。故人の遺志とやらをないがしろにするわけ? あなたやっぱり薄情ね。あの家を出ていくとき、やるつもりもないのに家中のお金を掻っ攫っていったくせに。あれのせいでどれだけあたしが困ったか。今度はこっちから金をくれてやるっていうのに、あんたはいらないって突っぱねるのね」

 ユリの言葉はちとせの胸を突いた。

「薄情だなんて。あたしはあのとき、母を亡くしたんですよ。他に何にも考えられなくて。おじさまがお金をくれたときだって、おじさま、あたしがいらないって言うのを全然聞いてくれなくて、断ろうにも断れなかったし──」

 わかった、わかったとユリは手を振った。

「別にもう恨んじゃいないわよ、そんな昔のこと。で、どうするの? ほんとにいらないって言うの? でもあんた、これから入り用でしょう? 出産、育児──子どもは金がかかるそうよ」

 ユリはちとせの腹をつまらなそうに見下ろして言った。ちとせはきっぱりと言い返した。

「ご遺産のことはお兄さまたちと話しあって決めてください」

「そう。だったら話が早いわ。これにサインして」

 と、ユリは一枚の書類をちとせに差しだした。ひと目見てわかる内容だった。やはり彼女は遺産を自分のものにしたかったのだ。だが、むしろちとせはほっとしていた。

「お兄さまたちは――いいの?」

「お父さまを最期まで世話してたのはあたしだけ。至極当然な要求よ」

 ちとせは署名し、朱肉で拇印を押した。ユリは書類を手にとって眺め、濡れた拇印に息を吹きかけた。そしてやっと安堵の表情をみせ、しんみりとして口を開いた。

「ごめんね、ちぃちゃん」

 優しい、懐かしい声音にちとせははっとして顔をあげた。かつて好きだったほほえみがいまユリの口元にあった。ちとせは顔を赤くして、今度はうつむいた。それで足りず両手で頬を押さえる。またも険しい表情をしていたことにいまさらながら気づいたのである。

「あんまり悪く思ってほしくないわ。あたし、これがなきゃ一文無しで路頭に迷うところだったんだから」

「あたしこそ──ごめんなさい」

 心底すまなく思って頭をさげると、ユリはやっと腰をおろして目線をちとせに合わせた。

「いいのよ。あたしがいけないんだから。それはそれ、もうおしまい。ね?」

 ちとせは精一杯の笑顔を作った。ユリも満足そうに頷いた。

「とにもかくにも、あなたが幸せそうで良かった。お母さんのことは──さっきはお金がどうのとあなたに酷いこと言っちゃったけど、あんなに取り乱したあなたのこと、ほんとに気の毒に思ってたのよ。だからあなたがこうして暮らしてるって聞いて、どうしてもひと目会いたくなっちゃって。どちらかというと、お金のことなんてどうでもいいの」

 ユリは屈託なく言うと、おもむろに煙草を取りだして火をつけ、煙を吐いた。

「ねぇ、話してくれる? あれからのこと。あ、灰皿なんてあるかしら?」


 ユリは写真を眺めながら──ときおり灰皿がわりの小鉢に煙草の灰を落としながら、ちとせがたどたどしく紡ぐ言葉に耳を傾けていた。

 瀬野の家を出て曾祖母に引きとられたというところからちとせは話しはじめた。

 創治郎からの餞別の話だけは注意深く避けると、念願だった理容師学校に通って免許を得て、曾祖母が営む理髪店で見習いをし、いまでは店を継いで従業員を一人雇って切り盛りしているのだと話すと、ユリは目をまるくして驚き、「がんばるのよ」と励まし、我が事のように喜んだ。洋一とのなれそめのくだりでは、ユリは旦那様がうらやましいわと言い、

「あたしもね、ときどきあなたのことを思い出して──あの頃みたいに、あなたに髪を切ってもらいたくなるときがあるのよ」

 と、こぼした。その言葉が心底嬉しく、ちとせは思いがけず涙ぐんだ。

 そして、待望の妊娠と二週間後の出産予定日のことを話すと、ちとせの話は終わった。

 ユリは、そうだったのねと独り言のようにつぶやくと、それきり押し黙ってしまった。ちとせはユリをうながして彼女自身の話を聞きだそうとするも、彼女は素っ気なく、

「あたしのことなんてどうでもいいの」

 と、はぐらかした。

 たかが数秒でも、沈黙されるとどうしても息が詰まってしまう。何がそうさせるのか、何が尾を引きずっているのかとちとせは考えをめぐらした。

 遺産相続の件はもう解決済みといっていいだろう。ユリの思い通りになったのだし、ちとせも清々している。餞別の件も同時に解消したと考えてもいいはずだ。

 創治郎が遺言でちとせを実子だと告白したことだろうか。ユリの言い草からすると、その遺言には彼女が実子でないということも明記してあったのだろうか。

 しかしいま、それを彼女に訊ねることはできなかった。ユリももうそのことを口にもしない。そもそも遺言の記述そのものが部外者に遺産をすべて譲るというあまりに突拍子のない内容だから、実の子がどうのという創治郎の言葉に信憑性など端からないものと見なしていいのではないだろうか。

「あ、いま蹴ったわ」

(いいタイミング)

 この場の空気を変えようと、ちとせは急いでこたつをまわりこみ、ユリの手をとって自分の腹に当てた。しかし、そのときにはぴたりと胎動はおさまっていた。

「もう、バカな子ね」

 ちとせは頬をふくらませてみせた。しかし、ユリはほんのちょっとも表情を変えなかった。ちとせは思わずユリから体を離した。

「ねえあなた、あたしの髪を切ってくださらない?」

 おもむろにユリはそう切りだした。唐突で妙によそよそしい言葉にちとせは戸惑ったが、一つ頷いて了承した。

 こたつを脇に押しやって新聞紙を敷きつめると、真ん中に置いた丸椅子にユリを座らせた。ユリにはケープを着せ、自分はまるい腹にエプロンをつけた。

「お任せするわね」

 金のかかった、手入れが行き届いた髪だった。ただ、髪を束にして手にとって見ると、丹念に染めてはいるようだがやはり年齢相応の白髪があった。隠そうとしても隠しきれていないユリの白髪は、ちとせの胸を重くした。

 この十三年を彼女はどう過ごしてきたのだろうか。髪に鋏を入れながらユリの表情をそっとのぞき見る。ユリは目を閉じてじっとされるがままでいる。その目元にはかつてはなかった皺が数本刻まれており、化粧を割っていた。ちとせはいま、ユリに対して憐憫の念を抱いてしまっていることを申し訳なく思うと同時に、そしてそのことをユリに悟られていないだろうかと恐れた。

 ちとせはどきりとした。

 いつの間にかユリは目を見開いていた。不躾な視線を咎められるかと思ったが、ユリの双眸はちとせのまるい腹に向けられていた。さっきの無表情はそこにはなかった。煮えたぎるような熱く潤んだ瞳が、ちとせの動きに合わせてゆれているのだ。彼女が何を考えているのかを読めないまま、ちとせはその視線を気にしつつも、鋏を梳き鋏に持ちかえて黙々と手を動かした。

 不意に感じた違和感はちとせの意識より早く、瞬時に警報を体中に轟かせた。

 腹が圧迫されている。ちがう。恐ろしく強い力で、右と左から挟まれているのだ。ちとせは腹に視線を落とした。

 鷲のかぎ爪のような手がケープの下から突きだされ、まるい腹をつかんでいるのだ。骨がちのその指先がカーディガンの上から腹の皮に食いこんでいた。その手は震えるほどあらん限りの力を込めて腹を圧していた。危険信号はちとせの脳天を突きぬけた。

「何するの、やめて」

 咄嗟に振りはらおうとしたが右手の鋏が邪魔した。薬指が鋏の指穴に深くはまりこんでしまって抜けない。あとずさろうとしたがユリのかぎ爪はそれすらもさせてくれなかった。左手だけでは暴力を払いのけられなかった。ちとせは懇願するようにユリを見た。ちとせはひっと息を呑んだ。

「どうしてあんただけが──あんただけ、どうしてさッ」

 ユリは唇をめくりあげて剥きだしになった歯の隙間から、絞りだすように怒鳴った。

 ちとせはすくみあがり、途端に腰が抜けて尻を落とした。その拍子にユリの手が離れた。ちとせは毛まみれの新聞紙の上をあとずさった。すぐに背が壁に突きあたった。見上げると、ユリが仁王立ちして立ちふさがっていた。細かな毛髪がぱらぱらと降ってくる。ユリは被っていたケープを脱ぎ捨てた。震えるほどに強く固めた拳が吊りあがった目の横まで持ちあがっていくのを目の当たりにして、ちとせはただおびえるばかりだった。直後に起こることがわかっていても動けなかった。その拳が、宙を舞う無数の毛髪の中を一気に突きぬけて落ちてきた。

 ちとせは必死に身をよじって逃れた。しかしユリの拳は硬い石礫となって背中に何度も落ちてきた。堪えきれずに這いつくばり、頬が畳に擦れた。頬がひりつくのを感じた直後、ちとせの顔が意思に反して畳からゆっくり離れていった。何が起きているのか考える間もなく、後頭部が引き攣れて痛みだした。後ろ髪をつかまれて引っぱられているのだ。痛みと恐怖に滅茶苦茶に犯されるままに、ちとせは泣きじゃくった。

「うるさい、わめくなッ」

 ちとせは畳に叩きつけられた。ちとせは突っ伏してもなお泣きつづけた。それでもユリは覆い被さってきて逃そうとしなかった。再び髪がつかまれて頭が引っぱりあげられた。と、ユリは不意に顔をくしゃくしゃにゆがめ、ちとせの耳元で悲痛に叫んだ。

「あたしだってね──あたしだってねぇッ──」

 絶句したとき、髪をつかむ力がふっとゆるんだ。

 ちとせは我に返っていきなり立ちあがった。腹が自分の体の下敷きになっていたから――腹を守るため、そのためだけに立ちあがった。ユリに刃向かう気はなかった。

(お腹を、お腹だけは──)

 背後から覆い被さっていたユリをちょうど背負う体勢になった。ちとせは背にユリの全体重をのせていることことにすら気づかないでいた。

 ユリは慌てたように身をよじった。だが、足は乱れた新聞紙の上で滑った。ユリは無様な格好で体ごと障子に倒れこんだ。

 紙が破れる甲高い音に、ちとせは初めて何が起きたのかを知った。見る間にユリの細面は鬼と化していき、ちとせの知るユリの面影はその鬼に食い尽くされていった。

「ちとせェッ」

 鬼がちとせに襲いかかった。ちとせは暴風のような突進に、天地なくもみくちゃにされた。目眩がする中、腹の上に鬼がいるのを見た。激痛がちとせの芯を貫いた。ちとせは絶叫しながら両手を突きだした。


 心臓が鼓動を打つ度に腹が痛んだ。ちとせは嗚咽にむせびながら顔をあげた。

「なんでこんなことを──どうして、ねえさま――」

 ちとせは言葉を失い、目を瞠った。

 ユリは仰向けに倒れていた。血がブラウスを染めぬいていた。ユリの両目に溜まった涙が、目尻からあふれ、いま流れ落ちていった。口元が微かに動いている。雑音のまじった細い声でつぶやいている。

「あたしだって──あたしだってね──」

 ちとせは片手で腹をささえると、ユリの方へにじり寄ろうとした。畳についた手に激痛が走った。見ると薬指があらぬ方向へまがっていた。それだけではない。その手がべっとりと血に濡れそぼっていた。ちとせはひっと息を呑んだ。

 ユリの顔がゆっくり向きを変え、虚ろな視線がちとせにひたと張りついた。

「あんたは──みぃんな、持っていっちゃうねぇ──」

「ねえさま」

 右手と腹を庇いながら、ちとせはユリのそばへ這っていった。血の濃い臭いがした。ユリは血溜まりの中にいた。

「お兄さまも──お父さまも──お金も──何もかもみぃんなよ」

 ちとせはユリの傷口を探した。だが、どうしても見つからなかった。

「あたしだってね──ほんとは、あんたみたいに──旦那様もらったりさ──赤ん坊だって産んだりして──」

 咳きこんで血を吐き、唇と頬と顎を赤く濡らすと、ユリは舌を出して唇を舐めた。そして不意に顔をゆがめ、ぼろぼろと涙をこぼしはじめた。泣いているユリは少女のようだった。

「あたしはどうしたらよかったの──あたしはただ──」

 ユリはいきなり泣き顔を消し去り、ひたとちとせを見据えると、起きあがろうと頭をもたげはじめた。ちとせの方へのばした指先は再び凶暴さを帯びていた。ただ、その両手は虚しく空を掻くのみだった。

 鬼は瀕死だった。だが最期に、鬼は叫んだ。

「あんたも終わりよ、この人殺しがッ」

 ユリの頭が畳の上に落ち、鈍い音を立てた。鬼の目からふっと色が消えた。

(あたしが──)

 ちとせは目の当たりにしている光景を頑なに拒もうとした。

(誰が、人殺し? ねえさま?)

 渦を巻いてもつれてばかりの思考は、ついにちとせの理性を破裂させた。目眩がし、視界が暗転しかけた。しかし腹のうずきがかろうじて意識を手放さなかった。その微かに残った意識が、理性を置き去りにしてひとりでに思いをめぐらしはじめる。かつて散々自分の心を蝕み、荒らしつづけてきた悪しき情念が再び甦ってきたのである。

(瀬野の人たちがまた、だ──)

 その思いが理性にまで侵食していった。

 いつからか、ちとせはユリの亡骸を睨みつけていた。腹の底が沸々と煮えたっていた。拳を固めると、震えだすまで握りしめた。

(そんな恐い顔してあたしを見て──)

「見ないでよッ」

 拳をユリの胸の真ん中に突き立てた。何度も何度も高く掲げた拳を振りおろした。叩くたびにブラウスの血の染みが広がった。それでも狂犬のようなうなり声をあげ、叩きつづけた。

 ちとせはユリを憎んだことがあった。瀬野家を憎んだことがあった。母を死なせたのは瀬野の家だからだ。あの一家が母を縛りつけ、こきつかい、死ぬまで働かせた。瀬野の一族がこの世にいなければ、母は苦しんで孤独に死ぬことはなかったのだ。

(瀬野の人間が、またあたしを──あたしたちを――そんなのもうやめてッ)


 決断は早かった。

 ちとせは畳に敷いた新聞紙をまるめて隅にのけると、ユリの亡骸を抱きあげようとした。だが、まるくふくれた腹が邪魔をした。それに華奢なちとせが、大女のユリを抱きあげることなどできるはずがなかった。それどころか、引きずることすらできなかった。

 迷っている暇はない。

 ちとせは畳の隙間に爪を立てて引きおこそうとした。だが、畳は持ちあがらなかった。押し入れにある工具箱からドライバーを引っぱりだし、畳に突き刺して持ちあげ、浮いた隙間に指を差しこみ、一気に引きおこして壁に立てかけた。つづけて両隣の畳を起こすと、ドライバーを使って地板を剥がしにかかった。一枚剥がし去ると、空いた隙間から湿った冷気が吹きあげてきた。

 真ん中一畳分の地板を取りはらうと両隣の畳を戻し、床板から五十センチ下方の乾いた土の上にユリの亡骸を転がして落とした。ユリは仰向いた格好で床下に転がった。ちとせは死体のまぶたを乱暴に閉じると、カーディガンを脱ぎ捨てながら居間を飛びだした。

 薬指が折れてぶらぶらしているのに気づき、台所で割り箸を探して添え木にし、小指と一緒に布巾で縛った。

 過呼吸を抑える間もなく、勝手口から裏庭へと飛びだした。冷雨が容赦なく体を打った。ちとせは全身が濡れるのも髪が顔にまとわりつくのも構わずに、物置の戸を開いて暗闇に目を凝らし、シャベルを探した。

 シャベルを抱えて部屋に駆け戻ると、ちとせは床下に飛びおりた。腹を突きぬける痛みに思わず土に膝をついたが、シャベルを杖にしてすぐに立ちあがった。死体を転がして脇へ押しやると、血が染みこみはじめた土にシャベルを突き立てると裸足でその背を踏みつけて体重をのせ、土を掘りおこしていった。掬った土の塊は暗い床下に放った。ちとせはひたすら機械のように穴を掘った。

 濡れた体からむっとする湯気が立ちのぼり、冷たい土の匂いに汗の臭いがまじる。ときおり襲い来る腹痛を耐えるため、じっと身動きせず、奥歯を噛みしめたりもした。シャベルをつかみ、振るう両手両腕の疲労にちとせは目を背けた。

 それでも手も腕も言うことをきかなくなるときがきた。そのときはシャベルを置き、土塊を床下の奥へ押しやる作業に切りかえた。


 穴の底に白茶けた水が溜まるようになった。シャベルで掻きだす土もいまや冷たい泥ばかりになっている。ちとせはシャベルを置き、穴の壁にもたれ、底に膝をついた。腕はだらりと弛緩し、かじかんだ手の先は震えを抑えることもできないでいた。破れた掌の皮を引きちぎった。表皮の下の赤い肉が鮮やかだった。シャベルはもうつかめなくなっていた。ちとせは両の掌を目の前に広げ、祈るように見つめた。薬指と小指を縛った布巾は灰色に染まっている。ちとせはこわばった他の指をかぎ爪のように順にまげていった。そしてその手を穴の壁に突き立て、ひっ掻いた。底に溜まった泥水を壁にかけ、緩んだ土を掻きとっていった。泥水に土がまざって粘土状になると、今度は両手の指を器の形にまげて掬いとり、他の土塊と同様、床下に放った。

 手の爪が削れていく。土にまじった砂粒がふやけた指先を破いた。それでもちとせは穴の壁をひっ掻きつづけた。膝の下まで泥水に浸かり、ワンピースの裾が水面に漂い、足にまとわりつく。ちとせは手を止めて呼吸を整えつつ、裾を膝の上までたくしあげて縛った。

 やがて土のやり場がなくなった。穴は畳一枚分よりも狭く、腰の上あたりまでのすり鉢状になっていた。ちとせはユリの死体を穴に引きずり落とし、その背を穴の壁にもたせかけると、その膝を折りたたみ、だらりとした腕を巻きつけて抱えさせた。だが、手を放すと死体の腕はすぐにほどけてしまい、だらしなく穴の底に倒れこんでしまう。そこで死体を起こしてブラウスを脱がせると、再び膝を抱えさせ、今度はそのブラウスをぐるりとまわして膝の前で縛った。それがうまくいくと、ちとせは開きかけた死体のまぶたを押さえつけた。

 土の置き場所がユリの体一つ分空くと、ちとせは何か希望めいたものが見えた気がした。それに、いくばくかの休息にもなった。ちとせはひりつく手でシャベルをつかみ、穴の壁を削っていった。過呼吸がはじまったり、腹がうずいたりするたび、泥水の中に座りこんで休んだ。

 ユリは膝に片頬をのせ、眠っているようだった。

 束の間、その細面に見とれていたことにちとせは自己嫌悪した。八つ当たりに死体の顔に泥水を浴びせた。と、底の水に死体の血が流れこみ、ちとせは慌てて立ちあがり、作業に戻った。


 ちとせは水の中にへたりこみ、穴の壁にもたれてさめざめと泣いていた。がたがたと震える全身から湯気が噴きでていた。限界だった。腕には意思は伝わらなかった。皮が剥けた手指に擦りこまれた砂も泥も、痛みを通り越して感覚をなくしている。ちとせは、自分はもうおしまいだということを微塵も疑わなかった。一瞬先すら、何も見えなかった。だが、見えなくとも先にあるものが良いものであるはずがないことはわかりきっていた。

 膝を抱えたユリがうっすらと目を開けてちとせを見つめている。

 結局は瀬野家の人間に邪魔されるのだ。それが自分の生き様だ。母と同じだ、とちとせは思った。たいした幸福もなく幸薄いまま、他人に翻弄されて死んでいくのだ。

「あたしだってね──あたしだって──」

 ちとせはいまいちどつぶやいて、泣いた。声をあげて泣きながら、激した思いは胸中で燃えさかった。

(どうして幸せに生きられないの? 生きてはいけないの? どうして?)

 そう問いかけるが、薄目を開けたユリは冷たくちとせを見つめるだけだった。 

 母の智子は不幸を一身に背負いこんでいた。彼女にわずかでも幸福なひとときがあったことなど、ちとせはかけらも見出せなかった。それなのに、母は他人のために──自分より幸福そうな人々のために、自分の時間を浪費してきたのだ。

 母の気分を良くさせるのは、板垣英介の写真を見つめているときや、ちとせにその人との思い出を語るときだけだった。だから、抑圧された生活に母子ともども息が詰まりそうになると、ちとせは父親との思い出を母に訊ねたものである。そのときばかりは、台所の奥の薄暗い四畳半もしばし温もり、花が咲くのだった。

 ただ、それも束の間のことで、智子は最後には静かに震えて涙をこぼした。だが、それは生きた涙だった。過ぎし幸福に思いを馳せる涙だから構わないのだとちとせは思っていた。幸福が母のそばにもあったことを忘れさせないために、いつかは再びそんな日々を手にする希望を持たせるために、ちとせは父親の話題を折を見て持ちだすのだった。

 瀬野家が金を失い、母をいびる花江がいなくなった頃、ちとせは母と同じ職場に働きに出た。どうしてあの家を出ないのか、良い機会ではないかと問うと、そのたびに母は瀬野のおじさまには恩があるのだと言い訳した。

(どうして? 自分を閉じこめたらだめよ)

 中学を出て、一人前の口をきくようになったちとせが詰め寄ると、決まって智子は、

(おませね)

 と愛おしそうに、もう年頃の娘の頭を撫でてはぐらかすのだった。本当の理由があるはずだったが、ちとせにはわからなかった。

 智子の突然の死はちとせを狂わせた。あまりにも唐突すぎた。

 母親を失った悲しさと、最期まで不幸だった母親を不憫に思う悲しさが、二人を閉じこめてきた瀬野家への憎しみに変わった。胸の中は荒れた。だがその思いを表に出す機会はついになかった。創治郎が、曾祖母の下に帰ったらどうかと提案してきたのだ。

 創治郎はそのとき、常々智子に対してもそういった提案をしつづけてきたことを明かした。智子はやはり自らの意志で瀬野家に留まっていたのだ。恩返しというのも真実なのだ。創治郎の母への感謝の念、それに実の娘と同等かそれ以上の愛情は、ちとせが考える以上のものだった。ちとせが呪縛と思っていたものははじめからなかったのかもしれない。母はいつでも自由になれた。ひょっとすると、いつも自由だったのかもしれない。そう思うと、気が狂うほどだった瀬野家への憎しみもいつしか消えていった。

 創治郎の提案を受け、ちとせは長岡の曾祖母に引き取られた。正式な婚姻を結んでいない母が板垣の墓に入ることはかなわなかったが、板垣も母も同郷であるためそれぞれの家の墓が同じ寺にあるとわかると、ちとせは幾分安堵した。

 納骨を終え、黒い位牌が簡素な仏壇の一隅におさまると、ちとせは母の存在が遠いものになってしまったことにはたと気づいた。そして同時に、自分がいまや自由の身であることをも実感した。

 ただ、自由は孤独に他ならず、足下から這いのぼる恐怖心にちとせは日々苛まれた。とはいえ、来る日来る日を恐れる日々こそが、望んだ幸福への着実な歩みであるはずだとちとせは次第に思えるようになった。

 そして二週間後には、ちとせはもう一つの幸福を手に入れるはずだった。赤子だ。自分と最愛の夫との子。当然、そこから先にも様々な苦難苦悩はあろう。しかしそれもいまのちとせなら、別の一つの幸福への前進だと信じることができたはずだった。

 地に根を張りめぐらし、空に幹と枝を伸ばして葉を茂らせ、ときに花をも芽吹かせてきた。苦と楽の四季を幾度も越しつつ、ちとせは夢に見た幸福というものをこれまで懸命に育んできたのである。しかし、その大樹をあっという間に根こそぎに枯らし腐らせてしまう毒がこの世に存在することを、ちとせは知らなかった。

 ちとせは穴の底で世を恨んだ。ただ、もはや憎しみが彼女に力を与えることはなかった。恨み辛みは涙になって、すえた臭いを放つ泥水に吸われていくばかりだった。

 ちとせは疲れ果てていた。

 全身が溶けだして泥と共に穴の底に溜まっていくかのようだった。そのとき、どこか遠くから、何かが、痺れきった意識に呼びかけているような気がした。

 ちとせはぎょっとした。

(痛い)

 ちとせを呼んでいたのは痛みだった。ユリがつかんだ腹だ。思えば、穴を掘っている最中もその痛みはずっとあった。

(ああ、でも──ああ、違う、さっきまでのとは──痛い、痛い──)

 がくがくといまにも折れそうな膝を手でつかんで押さえこみ、ちとせは踏んばって立ちあがった。穴の壁に背をもたれ、おそるおそる裾をたくしあげた。

 泥水に濡れた内股を生暖かい血が伝いおりていた。痛みは血の出所にあるらしかった。ちとせは天を仰いで記憶をめぐらせた。

(体が濡れてるのは外に出たときの雨のせいだし、穴の水のせい──だけど、その水は冷たくて――だけど温かかったときもあった――それは、足の、間の、ところだけ──)

 破水していた。ときおり強く腹を襲ってきていた痛みもいつの間にか絶え間がなくなっていた。だから穴を掘っている最中ずっとちとせは意識の外に追いやっていたのだ。痛む場所もいまではもっと下の方におりてきていた。

「あっ、だめッ、だめだったらッ」

 ちとせは思わず声をあげ、股の間を手で押さえようとした。だが手は出なかった。その手は壁の泥にしがみつくので精一杯だった。激痛だった。

 体が勝手にいきみはじめた。ちとせは息を止め、奥歯を噛みしめてうめいた。

 最初の波が去った。

(まだでしょう、まだ出てきちゃだめ──)

 呼吸を整え終わる前に、第二の波が襲った。泥水の底に頽れそうになるのをちとせは必死で堪えた。

 第二の波も去った。だが第三の波が間をおかず攻めてきた。

 息がつづかず、ちとせは溺れた。波と波の間隙に水面に浮上しても無力にもすぐに水底に引きずりこまれてしまう。それでもちとせは必死に気を振り絞って意識を繋ぎとめようとした。泥水の底に膝をつくことだけはしたくなかった。ひとたび膝をついてしまえば、立ちあがる気力を取り戻せないとわかっていた。ちとせは両腕を左右の掘りだした泥土に深く突っこみ、広げた両足を向こうの壁に突っぱって膝の震えをねじ伏せ、めりこむほどに背を壁に押しつけた。無限につづくかのような波にちとせは備え、呼吸を深く長くした。いきんで体がこわばっても呼吸がもたらす酸素は意識を繋ぎとめてくれる。着実な呼吸だけがちとせの唯一の武器だった。

 この闘いに時の限りはないかのようだった。だが、ちとせはとうに時間の感覚を失っていた。自分の体から出てこようともがく胎児と、胎児を押しだそうともがく自分だけがちとせの世界のすべてだった。

 股の下に咄嗟に手を差しださせたのは本能だった。意識から解離した本能が何をしようとしたのかちとせには理解できなかった。手が動いた直後、体中の力みが一気に霧散した。

 もう気を失ってしまうのだと、ちとせはぼんやりと思った。

 だが、そうはならなかった。

 差しだした掌に重みを感じた。さらに添えたもう片方の掌にも温かい重みを感じると、ちとせの意識は靄が消し飛ぶように冴え渡った。

 両手を股の下から出すと、その上には赤子がいた。濡れて柔らかそうな紐を腹の真ん中から垂らしていた。赤子は寒そうに両手をちぢこめている。

「あっ、あっ」

 ちとせは目を見開き、言葉にならない声をあげた。

 意識から解離したままの本能は、もう一度ちとせの両手両腕を操作した。それにより、赤子は吸いこまれるようにちとせの胸にぴたりとおさまった。

 ちとせは我に返ると、不意に不安に襲われた。ちとせは抱いた赤子の背や尻を叩いた。

(息──息をして──)

 そう思った直後、赤子は消え入りそうになりながらも産声をあげはじめた。

 ちとせは全身が脱力し、泥水の中に頽れていくのに今度こそ抗えなかった。視界が暗くなり、同時に平衡を失っていく。ちとせは赤子を取りあげてくれた自分の両腕にすがる思いでかろうじて残った気力のすべてを注ぎこもうとした。自分がこの世界から完全に切り離されても、この赤子だけは留まれるように、と。

(どうか、お願い、この子を──しっかり抱いていて──)


 智恵子の泣き声が聞こえる。

 ちとせは柱の時計を見上げた。いつの間にか陽は傾き、ちとせのいる居間は薄暗くなっていた。ぼんやり発光する障子に白い花が咲き乱れている。ちとせは一瞬身を固くしてその花々を見つめた。見つめながら、腹の底で首をもたげる罪悪感と闘った。

 智恵子が呼んでいる。

 木の柵のベッドから赤子を抱きあげると、急くように服をまくりあげて赤子の口に乳首を含ませた。赤子は無心に吸った。ときおり嬉しそうに喉すら鳴らしている。ちとせは飽きることなくその様子に魅入っていた。

 まぶたを閉じると涙があふれた。一気に嗚咽が漏れた。

 と、ちゅぽんと乳首を離した赤子が、ちとせの顔をじっと見つめてくる。ちとせは涙を拭いた。

「もうおなかいっぱいなの? いいのよ、たんと召しあがり」

 そううながすとその通りに赤子は再び乳首を口に含んだ。ちとせはぷっと吹きだして笑った。そして意を決した。もうゆるがないと確信した。

(絶対手放さない。そのためには、あたしは鬼にもなる)


     十三


 千住曙町峰岸五郎邸の広間には、酒と料理の残り香もようやく消え去り、いままた弔花と線香の匂いが戻ってきていた。奥の台所からは通夜振る舞いを片付ける女たちの賑やかな声が絶えないでいる。

 もちろん女たちが五郎を偲んでいないわけではないことは窪島にもわかっている。健やかだった頃の五郎の人となりを想い返して偲んでいるのなら当然、彼女たちのいまの明るさも理解できる。五郎は構成員の嫁、恋人たちを我が娘のように可愛がってきた。女たち皆が皆、五郎が病床にあった頃に看病、見舞いに訪れ、彼の辛苦に心を痛めてきたからこそ、いま彼女たちの口から晴れわたる空に響くような笑い声がこぼれるのだろう。

 とはいえ、窪島を筆頭に、男たちは暢気に笑っていられる状況にはなかった。殺人未遂でも起訴された達夫のことや組内の反窪島派と剣峰会の残党をどう処理するか、問題は山積だった。

 窪島は重くなった眼球を棺に向けた。

 五郎の亡骸からいつまでも離れようとしない若衆たちは引き剥がすようにして家に帰したが、棺はいまだに数人の男たちに囲われている。彼らは峰岸組、あるいは窪島に忠誠を誓った組幹部たちである。彼らとほぼ同じ人数の幹部がいまこの席にいない。五郎に忠を尽くしてきたが、窪島にもそうするつもりはさらさらない、という連中だ。

 疲れきった脳髄は思考停止しかけていた。

 不意に台所の喧噪がやみ、そこから廊下を駆けてくる足音がした。

「ご焼香させてほしいという方がいらしたんですが」

 開いた襖から顔を少しだけのぞかせて女は言った。窪島は時計を見た。四時にさしかかろうとしている。

「誰だ」

「実田、様と」

 男たちは互いに顔を見あわせたが、その名に心当たりがあるのは窪島だけだった。

「通せ」

 燃え尽きかけた蝋燭が取りかえられて焼香台に新たに火が点されたとき、ちょうど長身の男が入ってきた。頬を縦に走る皺は深いが、背筋はのびて肩幅があり、総じて歳は若く見える。もともと五郎との歳の差はあったのだろうがその差以上に若く見える。

 実田誠は座して窪島に一礼した。窪島らが礼を返すと、男は祭壇の前までにじり寄り、遺影と棺の亡骸をそれぞれ一瞥し、線香に火をつけた。男は数珠を掌の内で揉み、口中で経をつぶやきだした。

 合掌を解いた実田は窪島の方を向いて座りなおし、再度一礼した。そして顔をあげたとき、その目にはじめて意思のような色が差したのを窪島は認めた。だが、実田はついに一言も言葉を発することなく出ていった。

(俺に話さなくてはならんことがあるだろうが)

 痺れて呆けた脳髄をゆさぶって起こし、窪島は実田を追いかけた。

 樫の大門は閉まっていた。すぐ横の木戸を潜りでて左右を見渡すと、いきなり車のヘッドライトが窪島を照らした。その光線はゆっくりと窪島に近づいてき、そして停まった。後部のドアが少し開き、車内灯が点った。クラウンエイトの後部席には実田がいた。

 実田は奥へと席をずれた。乗れ、というのだろう。窪島が乗りこんでシートに背をあずけると、エンジンが高鳴り、発進した。

「わざわざすみません。親父も喜んでるでしょう」

 窪島は実田に頭をさげた。

「死のうとした者が、いまや生き長らえている」

 と実田は独り言のようにつぶやいた。窪島はその言葉の意味を問わなかった。おもむろに実田が口を開いた。

「瀬野のことは忘れろ」

 背筋がちくりとうずいた。

 五郎は実田を義人として尊敬し、永久の友として慕ってきた。だが、その五郎亡きいま、窪島と実田を繋ぐ関係は、十三年前に仕事を一緒にやりとげたということだけだ。犯した罪の重さも同等、同じ穴の狢──そして秘密の共有。つまりは引金に指をかけて互いに向きあってきた歳月である。

「そうはいきません。あたしはいま、金が必要なんだ。おわかりでしょう」

 実田の眉があがった。窪島はつづけた。

「わかりかねるのはあなたの方です。なぜ瀬野を──いや、瀬野の娘に肩を持つんですか。いまさらなんの義理があるんです?」

 実田の眉は再びくぼんだ目の上に被さった。

 十三年前、実田が発案し、窪島が実行した詐欺計画は成功裏に終わった。瀬野創治郎は実田の思惑通り破産寸前まで追いこまれた。当時から気になっていたのは、主の瀬野を貶めようとする実田の動機だった。

 運転手が身動ぎした。いつの間にか車は停まっている。エンジンも切られていた。窪島はいまさらそのことに気づいた。振り返った運転手の顔に見覚えがあり、記憶を遡る数瞬の間に、その手からすらりとのびる拳銃の細い銃身が目に飛びこんできた。

(十四年式拳銃か)

 運転手は峰岸五郎邸の下男。五郎が戦後すぐに闇市で拾った戦災孤児。確か早川忠雄といった。昨年の梅雨時──豪雨の夜、千束組の中尾と達夫の代理人との会合のとき、潜り戸で自分を出迎えた男だ。あの夜からしばらくして早川は五郎邸から姿を消した。

「俺をも殺ろうってのかい」

 窪島は凄んだ。だが早川は動じなかった。実田も考えこむようにうつむいている。窓の外は操車場の脇。暗く人通りはない。

「後始末が大変だぜ」

「どうとでもなる」

 横で実田が即答した。窪島は歯ぎしりした。

「金を忘れろというのか」

「何もかもです」

 低い声は早川だった。実田が言葉を継ぐ。

「これまでのことも、これからのこともだ。瀬野家には一切関わるな」

 銃口が心なしかいままでより危険を帯びてきているように思えた。

「俺がこの車に乗るのを、何人も見てるんだ。俺に何かあれば──」

「瀬野の遺産は──」

 実田が鬱々と言った。

「遺産は慈善団体に寄付される。相続人がいない場合、そうなる」

 その言葉で腑に落ちた。

「金の寄付先を用意しておきましょう」

 銃口が目の前から消えた。

 窪島は車をおり、はたと思いなおして振り返った。やはり訊かずにはおれない。

「どうやら瀬野のお嬢ちゃんを守ろうってわけでもないようだ。金も結局はあたしにくれるって言う――一体あなたはなんのために、何をしようとしてるんです?」

「いま約束したことを忘れるほど虚けじゃあるまい」

 実田はそう言ってドアを閉めた。クラウンエイトのテールランプが闇に遠ざかる。

(まあいい)

 一連の事件で窪島は様々なものを失ってきた。だが、得るものも確かにあった。

 友岡も達夫を道連れにしてくれたという点では役に立ったわけである。いまのこの変動期に剣峰会のシノギをごっそり失ったのは峰岸組としては痛手だが、銃火器を大々的に扱うのはこれからの世にはリスクしか生まない。銃が力だとされる時代は終わる。いまも、これからも要るのは金だ。だから、時代錯誤の剣峰会は遅かれ早かれ潰れる運命にあったのだ。峰岸組本体に被害が及ばなかっただけ良しとすべきだ。

 一方で、窪島は有用な梶を失った。もっともあの守銭奴は歳を食うにつれてがめつくなっていくばかりだから、一つ肩の荷がおりたともとれる。有用な友人は何も梶一人だけではないのだ。

 窪島はいま一度、昨年の梅雨時の会合からいままでの出来事を振り返ってみようとした。しかし、そうすることがいかに無意味であるかをすぐに悟った。今後、誰が奥多摩での事件に関心を持つというのだろうか。窪島一人が関心を持ったところで、これ以上何を得られるというのか。

 実田の言う通り「持ちつ持たれつ」だ。大量の死者を放りこんで燃やしてきた業火の中にあえて自ら飛びこんでいくことはないのだ。

 窪島は上着を脱いで、じっとり汗ばんだ背を明け方の大気にさらした。軽く、乾いた風がシャツに籠もった熱を運び去っていく。窪島の気分は実に晴れ晴れとしていた。




    第六章


「少尉殿、どうぞ」

 向かいに座る男はそう言うと、自分の尻に敷いていた座布団を差しだした。

 男は兵站自動車隊伍長の峰岸五郎と名乗った。礼を言うと、彼は満足そうにほほえんだ。すぐにその伍長には隣の兵卒の敷物が差しだされ、彼は当然のようにそれを尻に敷いた。

 宇品港を出航した輸送船は揚子江を遡り、南京で実田誠を降ろした。実田は別の船でさらに内陸の漢口へと運ばれると、そこからは陸路、物資輸送の任に就く兵站部のトラックに便乗することになり、原隊の留まる宜昌までおよそ百里の道を行く。九ヶ月前に砲弾の破片による裂傷と熱病にうなされて搬送されたときと同じ道を今度は遡っていくのである。

 終始ゆれる幌トラックの荷台両脇を前後に渡されたベンチに、伍長麾下の兵たちが向かいあって座っている。奥の方では何人かが間に置かれた三本のドラム缶の上で花札に興じている。伍長を含め、残る他の兵たちは実田に好奇の眼差しを注いでいた。

 実田は彼らの視線を頭のうしろに感じながら、砂埃に霞む後続の車列に目を凝らした。

 幌トラックが三輌連なり、さらにその後方の幌をはずした三輌には分解された野砲が満載され、その直後につづく殿を担う一輌は機銃で武装している。この分隊は本隊からだいぶ距離を離されているようだった。

 伍長が運転手に何やら命じると、この車両と前のもう一輌が脇道へ逸れた。他のトラックは速度を落として停止した。

「少尉殿、我ら分隊はちぃとばかり寄り道します」

 そう言って伍長はドラム缶の蓋を叩いた。実田が訝っていると、峰岸はその蓋を開けた。

 缶一杯の車両用グリスに無数の拳銃や小銃の機関部が埋没している。

「ところで少尉殿、その腰の拳銃は何でありますか」

 峰岸に訊かれ、実田は拳銃嚢から小型の拳銃を取りだし、弾倉を抜いて手渡した。途端に伍長の目が輝いた。手入れの行き届いたブローニングと知ると、それはぐるりと荷台の各人の手垢をつけて峰岸の手に戻った。

「やはり将官殿は良いものを持っておられる。使う機会もないから、錆一つ見当たりませんな」

 手垢を袖口で拭いながら伍長は笑った。

「私が死んだらくれてやる」

 実田が真顔で言った言葉は冗談と取られたか、荷台に笑い声が湧いた。実田より幾分か年長らしい下士官だけは違った。

「本気ですか」

「殺してでも欲しいか」

 実田がそう返すと、兵たちの野卑な嘲笑がいっそう高まった。だが、峰岸だけは表情を変えなかった。探るような目で実田を見据えながら拳銃を返してよこした。

 実田は少し失望した。

 兵たちの笑いも二人の上官が共に真顔を崩さずにいたために次第に収束していった。


 先に村があった。

 伍長は達者な現地語で村の年寄りと話し、しまいには年寄りの痩せ細った両腕に米の大袋を抱えさせた。老人は破顔し、ついには双方の朗らかな笑いで会話は締めくくられた。

「持ちつ持たれつですよ。戦争だからって、なんでもかんでも奪うばかりじゃいけねえ」

 と峰岸は言った。

 兵たちが村道の脇に穴を掘りはじめた。

 一糸乱れず順繰りに地面に突き立てられるシャベルに、穴は見る間に広がり深くなっていった。小一時間も経たないうちにドラム缶六本が穴の底におさまり、瞬く間に土を被せられた。

 村の子らが嬉々として車列に群がる中、トラックは各々転回し、来た道を戻った。

 

 実田は顎を突きあげられ、野次馬の人垣を突きやぶって地面に転がった。板垣英介は仁王立ちで実田を見下ろし、激しい呼吸で全身を震わせていた。

 板垣は腰の十四年式拳銃を抜き、銃口を這いつくばる実田の頭に押しつけた。板垣の手は浅黒く日焼けした上に土で汚れていた。実田を殴った拳は皮が剥け、赤い血が滲んでいる。だが、きつく銃把を握る掌は真っ白だった。

 板垣は実田の眼前に白い便箋の束を突きつけた。智子からのものだ。彼女はその手紙で板垣に別れを告げている。

「これは貴様のせいだったんだな」

「撃て」

 実田は平然と言った。

 しかし、板垣は拳銃をおろし、取り巻きを引き連れて立ち去った。

 実田は路地裏に舞う乾いた土埃にむせかえった。壁にもたれて呼吸を整える間にも、騒動を聞きつけてやってくる憲兵の駆け足と警笛が近づいてくる。野次馬は蜘蛛の子を散らすように去っていった。憲兵に先んじて現れたのは峰岸とその部下たちだった。彼らは実田の両脇を抱えあげると、足早に歩きだした。

「面倒事はお嫌でしょう」

 伍長はそう言って埃まみれの実田を周囲の目から隠しつつ、建物の角をいくつか折れた。

 憲兵を捲くと、実田は峰岸から受けとった水筒で口をゆすいで一息ついた。すると、それまでにやにや笑って実田を見ていた彼らが伍長の目配せを合図に突然に真顔になり、伍長を含む三人が前に進みでてきた。三人はあらたまって実田に敬礼をした。

「峰岸五郎伍長、安井次助一等兵、茂木忠道一等兵、本日付で歩兵第五十八連隊に転属いたしました」

 伍長がそう宣うと、全員がいつものようににっと白い歯をみせた。実田一人が峰岸の言葉を咀嚼できないでいた。一噛み二噛みしてようやく疑問が解けた。

 役割分担ということなのだろう。前にいる者が例の物をかき集めて例のごとくドラム缶につめ、後ろの者がそれを各地に埋めていく。前線ほど彼らの求めているものは「落ちて」いるからだ。

 実田は差しだされた辞令書を一瞥した。

「私の隊か」

「他に話のわかる将官はおりましょうか」

「貴様たちの無法を見過ごすとは限らんぞ」

 実田がじろりと睨むと、峰岸は不敵な笑みを返した。

「御国のため、軍のためにですか。地位と名誉のためにですか。はて、少尉殿はそんなものをいまお持ちであらせられましょうか」

(そんなものなど──無い)

「一度見逃していただきました。ということは今後も、となりましょう。お互いのために」

「脅しか。私が軍法会議──いや、お前らになぶり殺されるのを恐れるとでも思うのか」

「いいえ。少尉殿は軍法会議はもちろん、死をも恐れておられない──故に、先ほどは好機を逃しましたね。まあ、貴殿の覚悟が足らなかったわけではないのですが」

 実田は峰岸の目を見た。心中まで見透かす目に思えた。不意に心が折れ、実田は地面にうずくまった。

「あいつなら迷わず殺してくれると思った」

「見たところ、あの男は貴殿を殺してくれませんな。威勢はいいようだが──それだけだ。戦争での殺しは楽しむが、友人を殺す度胸まではない」

 峰岸は悠然と言った。それは実田も瞬時に察したことだった。

「奴でないなら、誰が俺を殺してくれる」

「いずれ戦場が殺してくれましょう」

「それまで生き恥を晒せというのか」

「そうまで死に急ぐのなら、自決という道もありましょうに。その腰のブローニングで。将官殿のそいつは、そのためにあるのでしょう?」

 そのことは何度も想像した。実田は身を震わせた。押し殺した声が返ってくる。

「恐い、恐い、自決は恐い──死を望むも結局は人頼みですか。その頼みの綱もいざとなると殺してくれない。ならば残る選択肢は一つだけでしょうが」

 実田は顔をあげた。峰岸は顔を寄せてささやいた。

「恥の元を断つ。私ならそうしますな。誰に恥じることなく、気兼ねすることなく生きられる──これに尽きるのでは?」

「死ぬべきはこの俺なんだぞ」

 実田がそう声を絞りだすと、峰岸は静かに言った。

「死ぬべきは? ほう──死ぬべきは、とおっしゃった。そのお言葉にはもう一つ含みがありそうですな。つまり貴殿は、何をすべきかとっくにおわかりだったようで」

 実田はいきなりブローニングを抜いて立ちあがると、遊底を引いて初弾を装填し、峰岸の額に突きつけた。

「つまりこういうことか、え?」

 一斉に身構える部下たちを手で制した峰岸の笑みを、実田は歯噛みして受けとめた。

 

 進むべき方角は一目瞭然だった。

 スコールによって道が泥の河のようになっていても、熱病か赤痢、あるいは飢えや傷に力尽きた兵士たちの、ぬかるみに埋まった彼らの頭が向いている方角へ進めばいい。その方角ならば敵はいないはずだ。そうして実田らは数十もの背を跨ぎ越えてきた。

 隊列はいつの間にか解けてきれぎれになり、そのおかげで実田の小隊は殿の勤めからはついに解放された。だが小隊そのものもほぼ壊滅状態となっていた。固結びで結わえつけるように、実田は峰岸伍長と肩と肩をつかみあってどうにか歩を進めていた。

 実田は立ちどまり、首を捻って来た道を振り返った。彼らと同じように肩を貸しあってつづいてきていたはずの部下たちの姿が見えない。無限の雨滴が地を叩く音に鼓膜が痺れている。そのせいもあるのか、いまや背後にあった銃声はまばらにしか聞こえてこなかった。流れ弾が近くの木の葉をかすめることもない。しかし、少しでも歩みをゆるめればまた不意の銃弾に襲われ、今度こそは倒されてしまうかもしれなかった。実田は古傷の引き攣れも構わず、ぬかるみを踏みしめて先を急いだ。

「俺なんかそのへんに置いていけばいいじゃねえか」

 なりふり構わず泣きじゃくりながら峰岸は言った。その太腿に巻いた包帯代わりのゲートルに血が滲んでいる。実田はゲートルをゆるめ、巻きなおしてやった。

「あんたに助けられる義理はねえんだ。俺は、あんたがいつ俺を殺しに来るかって疑ってたくらいなんだぜ」

「黙って歩け。歩きつづければ助かる」

 実田は努めて平静に言った。伍長はわめいた。

「だからよ、俺はあんたに殺られる前に先に殺っちまおうって──それなのに、どうしてだよ」

 きつく巻きなおしたゲートルの端をぎゅっと結ぶと、峰岸は悶絶した。実田はそれに構わず再び峰岸の肩をつかんで引きずり起こし、歩きだした。

「なんでだよ、あんた──」

 実田は腹の底に力を溜め、峰岸を腰に担ぐようにして、いままた一つの骸の背を跨ぎ越えていった。


 すべての者が目を細めて地平の彼方を見つめている。

 船室に引っこんでいる者はなく、皆が甲板に出ていた。すし詰めの甲板のなかほどは風が通らず、泥色の敗残兵の体臭で蒸し暑かった。

 嬉々とした声がそこかしこであがった。その嬌声は伝播し、足踏みが甲板をゆらした。どの顔も痩けた頬を濡らしていた。峰岸五郎もである。峰岸は実田の首に抱きつき、幼子のように泣きわめいた。そのまま彼は実田の足下に頽れた。多くの者が一様に甲板に座りこみ、泣きはじめた。実田は顔をあげ、広くなった視界を見渡した。

(あれは本土か、九州か)

 ふと湧いたそんな思いも、すぐにどうでもよくなった。帰ってきてしまったという後ろめたさが胸に忍び寄るばかりだった。だが、それもごくごくぼんやりとしたものに過ぎなかった。

 宇品を出港したときのあの日の胸中に比べたら天と地の差があった。あの頃はまだ、犯した罪を自ら責め苛む心があった。

 自分という人間をどこに置き忘れてきたのかを考えてみた。そして、そうした思いをめぐらすことの無意味さに気づくと、心中の穴がさらに大きく広がるのを感じた。

 心が無に蝕まれていく。無の侵食には歯止めをかける端緒などない。空っぽになるのならなってしまえと思った。

 ただ、ぬるく重たい潮風が、甲板を吹きぬけるときのとある瞬間だけ、実田にかろうじて残る心の縁をかすめてゆさぶっていく。そのたびに実田の理性は覚醒して息を呑み、宇品を出たときと同じ恐怖に身を震わせるのだった。


     一


(静か――)

 濃紺の色を帯びつつある西の空を見上げ、ちとせはそう思った。

 陽はとうに落ちた。山肌は漆黒の闇と化し、紺色に星を散らす空との境界をいっそうくっきりと定めんとしている。山なみの稜線を形作る森の木々は梢をゆらし、うごめいて落ち着かない。その風が峰を越え、谷を撫でおりてきて、澱みに溜まった滓のような集落の夕餉の香を掬いあげていく。

 草むらの虫が鳴かない。

 ちとせは昨夜の彼らの声を思い出そうとした。だが耳元を過ぎる微かな風切り音に胸がそわついて、記憶にある音色がきれぎれになってしまう。

 諦めて残飯屑を菜園の隅に掘った穴に放りこむと、ちとせは冷たくなった洗濯物を急いで取りこんだ。日没の早まりにこのところ追いつかない。それを歳のせいにしてみる。

 いきなり、空がうなった。

 抱えた洗濯物が腕の中から飛びあがった。膝ががくりと折れ、ちとせは地面に尻をしたたか打ちつけた。

 大地が一斉にちとせを威嚇する。

 土の底の方で石が鋭く叫んだ。森の木々は互いに梢を打ち鳴らし、無数の黒い影が羽音を立てて飛びたった。山のそこかしこが崩れ、森の塊はうめきと悲鳴を一緒くたにしてあげながら斜面を滑りおちた。

 地面にしがみつくちとせの頭上では大気が狂乱していた。轟音が耳腔を圧し、胸を圧する。そのとき、背後でも何かが悪魔じみた騒ぎにくわわろうとしていた。ちとせは振り返った。

 落ちる瓦が目に飛びこんできた。それはすでに地面で折りかさなっている瓦の上で四つに割れた。壁にひびが走るすぐ横では窓ガラスがゆがみ、砕け散った。壁の裂け目からは音を立てて土埃が噴きだし、その壁も弾けるように崩れていく。傾きつつあった柱がついには破断した。崩壊は連鎖し、ちとせの家は彼女のすぐ目の前で地面に倒れ伏した。

「洋一さんッ」

 ちとせは叫んだ。地面からちぎり取った土塊が手からこぼれた。もう一度夫の名を叫んだ。

 洋一は家の中にいるのだ。だが、この家の中に人がいられるはずがなかった。屋根は這いつくばるちとせの目線にあるのだ。瓦は屋根から滑り落ちても、もう割れることはなかった。

 不意に世界は静止した。ちとせだけが息を切らし、激しい動悸に喘いでいた。

 ちとせははっと息を呑んで、視線を手元に落とした。指先が土に噛みついていた。その指先をそっと広げた。どの爪にも黒い土が深々と詰まっていた。


 白い包帯、白いギプス。息づく機械に繋がれたコードとチューブの真ん中で、人だけが微動だにしない。

 ちとせは包帯とギプスの隙間に目をやり、その人の肌を見つめた。右の頬、右のまぶた、鼻、唇。間違いなく夫の洋一だった。ただ、二の腕のシミには見憶えがなかった。布団からはみだしている足の爪は黄ばんでいた。くるぶしは痩せてひからびているかのように粉を吹いている。夫のすべてを知っているわけではなかった。体のどこそこに何があるというだけではない。果たして、自分は夫のことを――洋一の心を理解しようとしたことがあっただろうか。洋一は幸福だったろうか。罪を償ってこなかったことへの天罰を、いま彼がちとせの身代わりとなって一身に背負いこんでしまっていた。

 忸怩たる思いが胸に押し寄せ、ちとせは両の掌に顔を埋めた。ふと顔をあげて手指を見た。爪に泥が詰まって汚らしかった。

 潔白であろうなどと考えたことはなかった。ただ、母が夢見たであろう、そして自分も夢に見た、絵に描いたような幸福な家庭を築きたかった。それゆえ、犯した罪と受けるべき罰からちとせは死にものぐるいで逃げてきた。心がゆらぐこともあったが、無理矢理に押さえつけてきた。そうして過去を思い返さずにいる時間が次第に増えていった。

 これは罰だ。ついに執行された極刑なのだ。

「もう休まれたらいかが?」

 と、看護師が声をかけてきた。ちとせは病室を出た。

 ロビーの待合い席は夜更けにもかかわらず傷病人とその家族でごった返していた。ただ、皆ひっそりとして、交わす言葉はちとせの耳に届く前に耳鳴りのような雑音と化していた。

 ちとせは隅の空いたベンチを見つけて座り、壁に背をあずけた。そうしてぼうとして爪をいじっていたのも少しの間で、おもむろに立ちあがるとちとせは暗い街に出ていった。

 

 ショベルカーのアームが崩れた家をさらに突き崩していく。

 腕組みをして所在なげにしている駐在のかたわらで、ちとせはうつむいてその音を聞いていた。所轄の警官が二人いて、そのうちの一人がショベルカーに指示を出している。ほどなくしてそのアームが一枚の畳を瓦礫の山の上に掻きだした。それを合図に、警官たちはそれぞれシャベルを手にして瓦礫の中に踏みこんでいった。そして、剥きだしとなった地面にそのシャベルを突き立てた。ちとせは目を固く瞑った。


「ご主人のご加減はどうです?」

 帰り支度を済ませた駐在はヘルメットをかぶりながら困惑顔をちとせに向けた。

 ちとせは呆然としていた。ショベルカーを乗せたトラックがパトカーと共に走り去っていく。駐在はちとせの返事を待たず、細身のバイクを走りださせた。

 ちとせは瓦礫の真ん中に掘られた穴をずっと見つめていた。

 山の際が金色に輝きだした。はぐれ雲もまた同じだった。それらは見る間に色を失っていった。落ちた陽でもかろうじてまだ穴の底が見えた。

 穴はかつて掘ったものよりも大きく深かった。三十二年前と同じように、穴の底には灰色の水が溜まっていた。濡れた土の感触も指先に憶えていた。だが、その穴の中に瀬野ユリの姿はなかった。


     二


 陸上自衛隊第十二旅団第二普通科連隊第三中隊に所属する日焼けた若き一等陸士は、シャベルに盛った土砂に混じる白い石にふと目を留め、何気なくそれをつまみとった。

 円筒形のそれは椎骨の一つらしかった。完全に白骨化している。

 災害発生からたった一週間で人間の遺体がこの骨片のように白骨化するはずがないという常識は、当然のことながらこの陸士も持ちあわせている。それに、多数の遺骨を埋葬した墓地がこの地すべりに巻きこまれたということも聞いていない。おそらくはこのあたりの山野に棲む猪か狸などの獣の死骸だろうと陸士は考えた。しかし、もうひと掬いした土塊の中で鎮座していたのは、確かに人間の顎骨だった。

 突如沸きたった喧噪は分隊の長である一等曹士の耳にも飛びこんできた。駆けつけて事情を知るや、曹士はそばにいた陸士を伝令に出した。中隊指揮の三等陸佐と先任曹長に「人骨の疑い」の旨を口頭で伝えると、伝令は土砂撤去作業中断の命令を携え、来た道を駆け戻っていった。先任曹長も後を追って現場へと向かった。一方で、陸佐は無線機を取った。

 陸佐に呼びだされた連隊付医官によってその白骨が人体のものと断定されると、連隊本部は新潟県警への通報を即断した。警察も災害対応に大わらわであることは重々承知の上だが、事が事、事件性が疑われるのは素人目にも明らかで、ためらう余地は皆無だった。

 道路の寸断により重機の到着が遅れ、人海戦術で作業が行われていたのが幸いした。現場は県警鑑識課長が想像していたよりも荒らされてはいなかった。それでも、細いロープを張りめぐらして現場一帯を一メートル四方の枡目に区切ってみると、深い溜息を禁じ得なかった。現場はやはり広大で、途方もない作業が待ち構えているのである。

 それでも策はあった。

 県警と災害派遣された自衛隊連隊それぞれの上層部の協議の結果、陸士二十名が県警に借りだされるという超法規的措置が取られることとなった。

 若い陸士たちは二人一組となり、各組にシャベルと篩、バケツが配られると、最初の椎骨および顎骨の発見場所を中心に土砂崩れの斜面上下方向に広く展開し、県警鑑識課員の監督のもと、人骨および遺留品の発掘が開始された。一人がシャベルで土砂を掬いとり、もう一人がそれを篩にかけていく。

 陽が暮れる前には、ブルーシートの上にほぼ完全な二人分の人骨――一部死蝋化した人骨と、時計や指輪、ネックレスなどの貴金属、ベルトのバックルやバッグなどの金具類など数点の遺留品が並べられた。

 今回の地震が発生するまでその白骨死体が土中から表出しなかったことと、それら骨片や遺留品の類が地すべりのために斜面の上下方向に広がるも左右方向に散ることなく発見されたことから、死体は動物などに掘りおこされて食いちらかされることのない土中深くに埋まっていたことが考えられる。県警は、とりあえずのところ死体遺棄事件として捜査本部を設置した。

 二人分の人骨は成人男性および成人女性のもの、法歯学的見地からみた歯の磨滅度によるとどちらも三十代から四十代前半のものであると推測できる。だが、軟組織が完全消失していることから死亡推定時期は十年以上前という以外判断がつけられない。

 推定身長百八十三センチプラスマイナス四センチメートルの男性の頭蓋冠骨の頭頂部には小指ほどの円形の孔が二つと二カ所の頭蓋底骨折の痕跡があり、おそらくはこれは二つの銃創──頭頂部を射入口とし、頭蓋底へ抜けていく銃創と思われる。また、発掘に際し、左指骨は欠けることなくひとそろい発見されたのに対し、右手の方は小指と薬指の中節骨と末節骨──第二関節から先──だけがついに発見されなかった。このことから、埋葬以前にその部位を欠損していたという可能性を考慮に入れるべきで、すなわち、これは暴力団組織の古い慣習である指詰めによることを示唆している。ただし、これはあくまで一つの見解に過ぎず、いまだ土中に埋まって発見されずにいる可能性を否定するものではない。

 女性の遺体の方は、身長百六十八センチプラスマイナス四センチメートルと推定される。特段の大きな外傷はなく、生前の骨折などの修復痕もない。唯一、死の直前か死後につけられたと思しき深さ三ミリ、底の幅二ミリの溝が一つ、鎖骨の背側表面に見受けられる。溝の壁は互いに平行に向きあっている。そのため、ナイフなどによってつけられた痕ではなく、鋸状の刃物によるものと考えられる。ナイフや包丁などの場合、その溝はV字状になるが、鋸状の刃の場合は溝は凹の字状になり、溝の壁面が互いに正対するからである。

 この溝の形状に関しては特筆すべき点がある。

 それは、溝の底が一方の溝の壁に向かってやや傾斜がついていることである。一般的な鋸の刃で形成された溝の底は、どちらの溝の壁に対しても直角になる――まさに凹の字状になるが、この溝の底は一方の壁に対しておよそ六十度の角度──すなわちもう一方の壁に対してはおよそ百二十度の角度がある。このことから、この痕跡は一般的な鋸類による損傷とは一概には言いきれない。

 男女いずれの白骨遺体に見受けられる損傷が人為的なものである以上、この死体遺棄事件は殺人の様相を呈しているといえる。殺害時期および死体遺棄時期が特定できないこともあり、すでに公訴時効が成立してしまっていることも危惧された。殺人罪の公訴時効期間は十五年で、それを過ぎると犯人はその罪では訴追されない。ともかくまずは遺体の身元と殺害時期の特定が急務となった。

 そのどちらも特定するに至らしめたのは女性の遺留品だった。

 生存時期特定の端緒となったのがプラチナ製の指輪で、これは三十三年前に海外高級ブランドがデザインした流行もので、その同時期に国内でも輸入販売されていたことが判明したのである。

 指輪につづいて、ネックレスや、裏に「purete」と文字が彫られた腕時計など、いずれも三十三から三十四年前の製造年であることがわかった。これらを女性が自身で生前に購入していたと仮定すると、殺害および死体遺棄時期はこれら遺留品の発売日、すなわち昭和四十七年四月より前ではないことがいえる。

 ただし、犯人が死体遺棄時期を撹乱するために、わざわざ遺体を掘りおこして遺体にそれらの装飾品を身に纏わせ、再び埋め戻したという可能性も否定はできない。しかし、その行為にかかる手間を考えるとあまりに非現実的である。

 捜査本部はそのような極小の可能性をひとまず置いて、ごく常識的な仮説を前提として採用することにした。すなわち、犯行時期をひとまずは昭和四十七年四月以降と仮定した。

 また、遺留品から被害者の生前の経済状態や生活状況をうかがい知ることもできる。この場合、高額な指輪や時計などの貴金属を複数所持していたことから、女性は羽振りの良い暮らしぶりであったことが考えられる。

 犯行時期、身長、生前の暮らしぶりを条件に家出人・失踪人データベースで検索すると、該当者は二十人を超えた。

 時効を気にして優先的に裏取り捜査をした数人の条件該当者は、その甲斐無く候補からはずされ、取り寄せた調書や資料の束から抜きとられた。それでも束の厚みは心なしか減ったというだけである。まだリストに残る名前は十五年以上前に失踪した者たちばかりで、仮にこの中の一人がまさに当該人物だったとしても殺人罪での公訴時効は成立してしまっていることになる。また、時間が経ちすぎていて親族への確認が取りようのない条件該当者もおり、捜査は難航した。それでも捜査本部は身元特定捜査を続行した。

 続行とはいうものの、捜査本部は人員規模を縮小され、本部設営場所も遺体発見現場を管轄する小千谷署の小部屋に移ることとなった。

 ただそこでは、皆の頭には一様に、この案件はとっくに公訴時効なのだという思いがちらつき、真相究明を急ぐ士気などあったものではなかった。

 遺留品捜査も行き詰まっていた。条件該当者の親族への聞きこみも捗らず、いまだ決め手を得られずにいた。捜査員の中には鑑識課から最終的な報告書がおりてくるのを待っているだけの者すらいる。いっそのこと科捜研にでも科警研にでも、全部丸投げしてしまえと意見する者もでてくる始末だった。それほどに、時間の経過が人物特定を困難にしていたのである。

 そこへ唐突に、一筋の光明が差しこんだのである。

「『ゆりこ』とか『ゆりえ』とかいう名前の人ってリストにいるのかしら」

 いつも仕出し弁当を運んできて顔なじみになった女性職員が、遺留品の写真を眺めながら誰ともなく訊いた。捜査員らは血相を変えてその理由を質した。藁にもすがりたい思いだったのである。彼女は尋常でない捜査員らの反応にたじろぎ、そしてはにかみながら答えた。

「だってほら、この時計の裏っ側の『purete』ってあるでしょう? 『purete』ってフランス語で純潔っていう意味なんです。純潔っていうのはユリの花言葉でしょう? あ、でも、自分で自分のこと純潔っていうのって、なんて言うのかしら、厚かましいっていうか――ああそうか、きっとフランスかぶれのどなたかがその時計をその人に贈るのに、ちょっと気取ってそんな文字を入れてさしあげたんでしょうね──あら、いやだ、あたし余計なことを言ってるわ――冗談ですってば。本気になさらないでね、みなさん」

 と、女性職員は逃げるように会議室を出ていった。

 狐につままれたような妖しげな静寂の中、唐突に忙しない紙擦れの音がしはじめた。県警からきた若い刑事──須永宏が資料を片っ端からめくっているのだ。

 と、その音がぴたりとやんだ。

「あった――あったぞッ」

 高々と突きあげられた資料の一束はすぐさま部屋から持ちだされ、捜査員の人数分がコピーされて戻ってきた。捜査員たちは資料の写しを手にすると、他愛のない空想の裏取りへと──しかし尋常でないほどの意気込みを胸に抱きながら方々に散っていった。


     三


 早川忠雄は郵便受けの新聞を抜きとると、縦の折り目に爪を立ててきつく引いてから紙面を広げた。くすんだ門灯でも大見出しの文字くらいはなんとか読めそうだった。だが、細かい文字を読むには──。

 早川は空を見上げた。高い空を走る灰色の巻雲が縁から輝きだすところだった。しかし日の出にはまだ早い。彼は諦めてカーディガンのポケットから老眼鏡を取りだして鼻にのせた。

 最近になってようやく老眼鏡を買った。ただ、そんなものが必要になるほど長い歳月を生きた実感はなかった。

 紙面の角と角を違わぬよう、折り目をずらさぬように丁寧にめくり、あらためて記事の小見出しを追いかけた。

 そのうちの一つが目に留まった。つづく記事は、震災関連報道の影に隠れて見過ごされてしまいかねないほど淡々としたものだった。

 手から新聞の束が滑り落ち、ばさりと踏み石の上に散らばった。早川はその上に膝をつき、漏れる声を殺して音高く動悸する胸を押さえこんだ。


 航空便の封筒に封をし終えると、実田誠は卵の黄身をフォークでつつきながらテーブルの定位置に置かれた新聞を手元に引き寄せた。老眼鏡の奥で白い眉が寄った。紙面が土で汚れているのである。実田はフォークの手を止め、早川をじっと見た。

「気になる記事でもあったかね」

 早川は無言でトーストの皿を実田に差しだす。実田は皿を押し戻すとフォークを投げだして、汚れて皺が寄った新聞を開いた。社会面の見出しを素早く目で追う。

 予感は当たった。記事は白骨遺体発見の続報だった。

「そのときが来ました」

 正面から見据えてくる早川の双眸に表情はなかった。その視線から逃れられず、実田は歯噛みした。

「ならん」

 と苦しまぎれに一喝し、封をしたばかりの封筒を引き裂いた。そして車を用意するように言いつけ、車椅子をさげて食卓を離れた。


     四


 クラクションに思わず身がすくむ。

 ツメに段ボール箱を満載したフォークリフトが須永のすぐ脇をかすめて追い抜いていった。握りしめた今朝の朝刊を怒りにまかせて振りあげそうになるが、尾を引く甘いりんごの微香にすぐに気分はほだされた。そうでなくても今朝の気分は上々なのだ。須永は脇へ寄り、今度はけたたましいエンジン音を立てる二台のターレットトラックをやり過ごした。鼻をひくつかせ、排気ガスを避けて匂いを嗅ぐ。今度の甘い香りは白菜だ。

 大田市場では競りの声もやみ、いまはフォークリフトやターレットトラック──通称ターレの排気音が場内を賑わせていた。

「須永」

 同僚の声に須永は振り返った。滝井敏治は市場の事務員からある人物の人相を訊いてきていた。滝井はのんびりと言った。

「すぐわかるとさ」

 その人物の人相風体を聞き、須永も爪先立って場内を見まわし、縦横無尽に行き交う荷車を目で追いかけた。

 ターレの運転台に突っ立つ者の中で頭一つ抜けている白髪五分刈りの男は、操舵輪兼駆動輪と四百CC弱の単気筒エンジンを内蔵している大樽のようなターレット部分すら少し大きなポリバケツ程度に見えてしまうほどの巨躯の持ち主だった。その荷車が向こうの角を折れて須永らの立つ通路へと入ってくる。

 男の細い目が須永に留まった。須永は手を振って荷車を止めようとした。だが男は何も目に入らなかったかのように彼らの前を通り過ぎていく。須永は追いすがり、運転台と併走しながら声を張りあげた。

「新潟県警です、ちょっと停まってください──大室さんッ」

 ターレは速度をゆるめなかった。警察手帳をかざしたところで効果無しだ。

 須永は積荷の隙間に足をかけて荷台に飛びのった。滝井ははるか後方で人と荷車に阻まれ、お手上げ降参と両手を挙げている。

「朝早いから、今朝の朝刊はまだ読んでないでしょうね」

 須永は細くたたんだ朝刊で大室の肩を軽く叩いた。大室の目が不審の色を帯びた。

「例の白骨死体の続報です──もちろんこの事件のことはご存じですよね。で、ついにガイシャの身元が割れましたよ。瀬野ユリ。聞き覚えあるでしょう?」

 そう言って須永は得意げに新聞を広げた。

「それだけじゃない。その白骨死体に関連して、ある女から事情を聞いてるんですよ。ええと、この全国版だと──『当局は参考人として長岡市在住の女から事情を聞いている』ってありますね。これだけですけど、わかるでしょ? 春野ちとせですよ、春野ちとせ。その婆さんが自供してるんです。それに、彼女の口からあなたの名前も出てきた」

 ターレがいきなり停まり、須永は荷台の上でつんのめった。大室が口を開いた。

「なんと言ってる」

「気になりますか、やっぱり」

 意地悪く須永が返すと、大室は口を閉ざした。排気音が高まり、ターレが動きだす。須永はその背に言った。

「彼女に会いたいでしょう?」

 大室の背は何も物を言わなかったが、ターレは再びアクセルが切られ、惰性で速度を落としていった。ほれみろ、図星だと須永は心中でほくそ笑んだ。

「あなたはこの春野ちとせに会いに行った。桂木殺しはその翌日。あなたがやった梶功夫殺害は二日後だ。となると、当然梶殺しもそうだし、桂木殺し、果ては奥多摩事件──この春野ちとせの件がそれらに無関係だとは到底思えないんですよ」

 ターレは息を吹き返し、速度をあげた。混みあう市場内では危険なほどだった。

「瀬野ユリと一緒に埋まってた男、これはおそらく奥多摩事件で指名手配されていた川村徹だ。そうだと思いませんか」

 須永は柵をまわりこんで運転台に移り、ブレーキペダルを強く踏んだ。加速と減速が相殺しあい、結果、ターレは停車した。大室は須永に覆い被さるように睨みおろして言い放った。

「放っておいてくれ」

「つもる話があるでしょう」

「あの人とはもう関係ない」

「お願いしますよ、彼女を『また』助けると思って。でないとあの人、歳も歳だし、そのうち参っちまいますよ。亭主の見舞いと、警察と避難所を行き帰りする日々を、このままずっと送らせたいんですか」

 大室は目を剥いた。須永はわざとらしく神妙な顔をつくってみせた。

「瀬野ユリと、川村らしき白骨死体、春野ちとせの出頭。でもまだ完全じゃない。ジグソーパズルみたいなもので、どうにも穴が埋まらないんです。あの婆さんがピースを隠し持っている以上、絞りあげるのも仕方ありません」

 背後でクラクションが鳴った。後ろが詰まってきている。大室は苦い表情のままターレを発進させた。

「俺が知ってることは全部話す。だから彼女への聴取はもうやめろ。あの人はもう全部喋ったはずだ。隠し事をするような人ではない」

「三十二年間、殺人を隠してきた人が、ですか?」

 そう嘲笑した刹那、須永はいきなり太い腕に胸ぐらをつかまれた。ネクタイとシャツの襟が締まり、どこかのボタンが飛んだ。そのまま喉元と顎を突きあげられ、足の下から床が消えた。

(落ちる──)

 懸命に足をのばしたがターレのステップにほんの爪先が触れるのがやっとだった。須永は襟を締めあげている大室の手首にしがみつき、ぶらさがった。もう爪先すら宙を掻くばかりだった。六十を過ぎた老人の腕力ではない。ターレは速度を上げ、直進をつづける。対向するターレが宙ぶらりんの須永を寸前で避けていく。須永は苦しまぎれに叫んだ。

「何をしてるのかわかってるのかッ」

 須永は大室の目を見た。鬼と化した顔は泣いていた。そして吊りあがった目だけが最後まで残り、やがてそれも泣き顔に飲みこまれていった。

 須永は運転台に引き戻された。大室はハンドルにしがみついたまま嗚咽を漏らしている。須永は大室の手をアクセルリングから引き剥がすと、大室にかわってブレーキペダルを踏んだ。ターレはゆっくりと停車した。


     五


「春野ちとせが来たら、そのまま帰してやってください。それと、当分は話を聞くことはないと伝えてもらえますか」

 須永は送話口の向こうに礼を言って通話を切ると、大室のためにトヨタクラウンの後部ドアを開けた。

 大室は黙って身をかがめて車に乗りこんだ。

 警視庁田園調布警察署――旧東調布署に保管されていた、大室による瀬野ユリ捜索の薄っぺらな報告書はすでに廃棄されていた。いまでは瀬野ユリは警察庁にある全国の失踪人・行方不明者のデータベースに載っているだけだという。瀬野ユリ失踪に関してどのような捜査が行われたかは、いまとなっては大室の記憶頼みだった。

「では、お話しを伺いましょう」

 助手席の滝井が後席を振り向いて切りだした。

 大室は省くべきことを省いて話した。

 瀬野創治郎の遺産のこと。遺言書によれば、相続人が春野ちとせであること。それに対して長女ユリが憤ったこと。その後、ユリが失踪し、捜索願が届け出られたこと。ユリ捜索を買って出た梶が、自分を引きこんだこと。梶は実は、瀬野家の遺産の横取りを企んでいたこと――。

「やっぱり」

 須永が口を挟んだ。

「梶殺害は春野ちとせを守るためですか」

 『日頃の鬱憤を晴らしたかった。いつかはこの手で殺してやろうと思っていた。それがついに果たせた』という反省のない大室の態度は、当然裁判官の心証を最悪にした。大室には求刑通り、懲役十二年の実刑判決が下された。

 須永はハンドルを叩き、声を荒げた。

「たかが女のために。しかも顔見知りでもなんでもないんでしょう?」

「あの日、初めて会って――その日きりだ」

「なぜです? なんの義理があるんです? なぜ女を助け、同僚を殺したんです?」

「議論しても話にならん。おたくとは価値観がちがうんだ」

「春野ちとせは人を一人殺し、埋めようとした。それが事実なんだ」

 須永はさらに噛みついた。

「あの女は死体の上で何食わぬ顔で暮らしていた──いや、実際はちがったが、春野ちとせは床下に死体が埋まってるものと思いこんでいたから同じようなものだ。そこで地震が起きた。築五十年のぼろ家が倒壊した。家を建てなおすにしろなんにしろ、いずれ瓦礫を除けて更地にする必要に迫られる。そんなことにでもなれば、埋めた死体が発覚してしまう。どうせばれるなら自首した方がましだと思ったんだ。あの女は自分の犯罪がばれるのを恐れただけなんだ」

「そんな卑怯者ではない」

 大室は断言した。だが須永は皮肉で返した。

「十分すぎるほど卑怯者ですよ。ま、解釈の仕方のちがいですかね」

 大室は奥歯を噛んだ。須永もまた、きしむほどハンドルを握りしめていた。

 車内に長い沈黙がおりた。笹目通りから目白通りを左に折れ、関越自動車道の高速口へと駆けあがる。料金所を抜けて、果てしない三車線道路へとシルバーのクラウンは速度を増していった。


     六


 アスファルトのひび割れを避け、早川は路傍に古いセンチュリーを寄せた。エンジンを切り、ミラーで後部席の様子をうかがう。実田は杖の柄の上で両手を組み、そのひからびた拳を見つめている。身動ぎもせず、いつものように命令もない。早川は車をおりた。

 二ブロック先に理髪店のサインポールが立っている。そこを目指して、ゆがんで波打ったままの煉瓦畳の歩道を歩いていった。

 煤けた二階建てビルの壁面に亀裂が走っている。理髪店の看板は無論回転していなかった。待合い席にあるはずの丸椅子が軒先に並んでいる。早川はガラスの落ちたドア枠から店内をうかがった。すぐ向こうにドアガラスの破片が掃き寄せられている。その向こうで人影が動いた。

「ごめんください」

 早川はドアをそっと開けて店内に足を踏み入れた。女が振り返った。

 割烹着姿に三角巾をかぶった春野ちとせの姿に、早川の胸に安堵の思いが広がった。三十年以上変わらない装いである。

「早川さん」

 ちとせはほっとしたようにほほえむと、すぐにそうしたことを恥じるように肩を縮こめた。

「ごめんなさい。お店、まだなんです――これですもの」

 ちとせは小さな手振りで店内の惨状を示した。

 大鏡があるべき場所になく、かわりに無数の鏡のかけらが床に散らばっていた。ただそれも、落ちかけた天井板が半世紀ぶんの埃を撒きちらしたのだろう、大量の埃をかぶって微かな輝きもみせない。棚にあったシャンプーやトニックの瓶も床に落ちて割れ、つんとした匂いを放っている。二つある黒革の理容椅子だけが塵を払われてつるりと光っていた。

「早川さんの方は、ご無事でしたか」

 早川の顔をのぞきこむように見上げてちとせが訊いた。

「ええ、私の方はなんとか」

「そう、良かった」

 数瞬の間、ちとせは顔一杯に笑みをあふれさせた。だが、直後に深く沈んでいこうとするちとせの表情を追いかけて、早川は早口で言った。

「私にできることがあったらなんでも――」

 早川は言いよどんだ。

 早川は今朝の新聞でちとせが瀬野ユリの白骨遺体の件で警察に出頭したということを知っただけでなく、ちとせの家が倒壊し、彼女の夫がその下敷きになって重体となっていることを長岡に到着して早々に調べ上げていた。

 ただ、自分がそんなことを知っているとはちとせは露とも思っていないだろう。彼女にしてみれば、早川は三十年来の常連客の一人に過ぎないのだ。

 ちとせは崩しかけた笑みを取り繕おうとぎこちなく口元をゆるめた。早川は言葉に込めた意味合いをずらして、あらかじめ用意しておいた台詞に繋げた。

「なんでもおっしゃってください。このお店を直すためのカンパも募ろうと考えているんです」

 カンパなど口から出任せだが実田に頼めばいくらでも金を出してくれるはずだ。ちとせに対して重ねてきた嘘にまた一つ小さな嘘を上積みするだけのことだ。それで彼女が笑ってくれるのなら──その慎ましい笑顔が、いつものようにこの胸の奥の罪悪感を薄めてくれる。

「この店がなくなってしまったら、私のようなここでしか髪を切ってもらったことがない常連はどこへ行ったらいいのか途方に暮れてしまいます。どうか元気を出してください」

「ええ、でも――」

 ちとせは床に目を落とした。早川は彼女に希望を持たせられるような言葉を探した。ただ、一常連客としての励ましの言葉はもう使い尽くしてしまっていた。そもそも、ちとせに対してこんなにも多くの言葉を喋ったのは初めてだった。不自然に思われやしないだろうか。それでも早川は、枯渇しかけた言葉の溜め池の底で見つけたひとしずくを掬いあげると、ためらわずそれを口にした。

「何も心配はないんです――」

 自分が思う以上に力強く口を衝いて出た言葉の最後を早川は飲みこんだ。ちとせがはっと顔をあげて見つめてきたのだ。早川は鏡のかけらを拾い集めるふりをしてその視線から逃れた。胸の内で自分自身に悪態をついた。

 それ自体、激励としても不自然ではなく、そもそもどうという言葉でもない。だが、ちとせにとってその言葉は、彼女をささえつづけてきたであろう特別な人の特別な言葉だ。単なる店の常連客である早川忠雄の、ではない。出過ぎてしまった自分を戒めなくてはならない。

 早川は黙々と鏡の破片をつまんでは一カ所にまとめていった。すぐそばで衣擦れの音がしたかと思うと、ちとせもまた彼に倣って破片を拾いだした。山となっていく破片のそのいくつかに彼女の表情がくすんで映りこんでいた。早川は気取られぬようにそれを見つめ、次第に胸の内を暗くしていった。


     七


 早川がセンチュリーに乗りこんだとき、すでに車内は冷えこんでいた。エンジンの熱も抜けきっている。実田は後部席でいつものように車窓から外を眺めていた。早川はいつものようにその視線の先を追った。だが、やはりその視線の向かう先にはなんの意味も見出せなかった。それはこれまでの三十二年間、月に一度の訪問のたびに確認してきたことでもある。早川はエンジンを始動させて車を発進させた。

「もう、とうの昔のことだというのに──」

 街の風景が途切れ、インターチェンジへと向かう幹線道路に入ると、実田はそうつぶやいた。早川はミラー越しに実田の表情をうかがったが、干涸らびて固くなった表情からは何も読みとれなかった。自虐か諦観か。それとも積年の疲れだろうか。あるいは今後の展望が読めないことへの不安だろうか。早川は遠慮がちに訊いた。

「いまが真実を話すべきときではないでしょうか」

「だめだ」

「ですが──」

「考えるのは私だ。お前は私に従っておればいいのだ」

「――かしこまりました」

 早川はハンドルから片手を離し、窮屈を覚えだした胸元を押さえた。胸骨の奥が握りつぶされるように痛んでくる。ちとせのことを思うがゆえだろうか──。

(ちがう、今朝と同じだ)

 早川はいきなり急ブレーキを踏んで車を路肩に寄せた。心臓に、杭の様に太く、それでいて鋭くとがった熱いものが突き刺さる感覚があった。胸が真ん中から炎を上げて焼け焦げるようだった。両手で胸の肉をちぎらんばかりに鷲づかみし、掻きむしった。体を棒のように突っぱらせてのけぞると、早川は白目を剥いて気を失った。


     八


「あの人はどんなふうに瀬野ユリを──」

(殺したんだ?)

 口にしたくない言葉は大室の意に沿うかのように喉の奥につかえた。

 大室が救いたいと思ったちとせは無欲の人のはずだった。いや、欲しはした。ただ、彼女が望んだのはほんの小さな幸せに過ぎなかった。紙きれを花の形に折って切って貼って障子の破れ目を塞ぐ――そんなことをするだけで逃げていかないものと信じられる程度の小さな幸福だ。

 それなのに、彼女はあの日たったそれだけのものすら擲とうとした。見ぬふり知らぬふりをして立ち去ろうとした大室の腕にすがりついて引きとめたとき、彼女にはすべてを失う覚悟があった。あの瞬間、ちとせは自らの罪に対する罰を望んだ。ほんの小さな幸福を守り通そうという覚悟と、それを潔く捨て去ろうという覚悟――その両極端の狭間で彼女はゆれていた。そして、後者の方に向かおうとしていたのだ。

 それを大室が妨げた。

 だが、大室は自分が間違ったとは思っていない。

 法にも倫理にも縛られない真の正義がこの世には存在するべきだという信念が、大室の厚い胸板の奥に確固としてあったからだ。そして同時に、ちとせが金の欲のために罪を犯したのではないことも信じられた。だから大室はちとせを回れ右させ、もう一方の覚悟の方へと彼女の背を押してやったのだ。

「瀬野ユリの遺体はどうなってたんだ」

 何の返答もない。大室は訝って顔をあげた。須永らは顔を見あわせ、戸惑った表情を浮かべている。

「死体検案書を見せろ。それと供述調書も」

「それはできない」

 須永は慌てて言った。

 そのとき滝井の視線が一瞬足下に流れたのを大室は見逃さなかった。

 大室は前席に身をのりだして滝井の足下の鞄をつかんだ。滝井がそれを阻もうとし、須永もハンドルを片手で握りながら空いた方の手で同僚に加勢しようとした。そのとき大室はいきなりハンドルをつかんで押し回した。クラウンはタイヤをきしませながら車線を跨いで激しく蛇行した。須永が慌ててハンドルを立てなおそうとし、滝井がドアに押しつけられている隙に、大室は滝井の手から鞄をもぎとった。怒り心頭につかみかかってくる滝井を、大室は靴の裏で押し戻した。

「手間取らすな、しみったれどもめ。減るもんじゃなかろうが」

 怒鳴りつけながら鞄を開けると、クリップに留められたコピー用紙が数束あった。滝井は降参して両手を挙げた。

 大室は供述調書を二度読み返し、白骨遺体の死体検案書をすみずみまで読んだ。そして一つの結論を導くと、大室はこの三十二年間で最上の安堵がこみあげてくるのを感じた。大室は丁寧に書類を鞄にしまった。

「あの人は、人殺しじゃなかった。それがわかったよ」

 鞄を滝井に返しながら大室はそう嘆息を漏らした。須永が訊いた。

「どういうことですか」

 大室は前席の間に身をのりだして須永の疑問に答えた。

「瀬野ユリの鎖骨の内側には溝状の傷──凹の字状の擦過傷があった」

「それが?」

「そのすぐそばには頸動脈が通っている。そこに刃物が差しこまれれば頸動脈に損傷を与える可能性が高い。すなわち頸動脈損傷による大量出血が死因と考えられる。そうだな?」

「それはあくまで監察医の見解の一つだ。よく読んでみろ。死因と『考えられる』だ。断定はしていない。腹を滅多刺しにしても骨にまったくかすっていなけりゃ骨格に傷は残らない。だが、内臓からの出血でも人は死ぬ」

 滝井はまだ怒りを引っこめきれずにぶっきらぼうに答えた。

「鎖骨に刃物を突き立てられたのは確かなんだろう? でなけりゃ鎖骨の内側にそんな傷はできない。そこに何かが突き刺さったなら、頸動脈を傷つける可能性は十二分にある。胸骨も肋骨も椎骨も無傷なのに、お前さんは頸動脈損傷なんかじゃない、腹部滅多刺しが死因だと、そう言い張るのか? 証拠を無視して大した妄想だな、おい」

「そうとは言ってないでしょうが。それに殺害方法が刺殺とは限らない」

「絞殺か? 扼殺か。二人の体格差を考えてみろよ。臨月の春野ちとせにそんなことができたと思うか。それともか毒殺か? それで死んだ後にわざわざ首根っこにぶすり、か」

 うなり声をあげる滝井に構わず、大室はふんぞり返って現役の刑事二人を嘲笑った。

「可能性の一つに過ぎないということは俺も認める。とはいえ、頸動脈損傷による出血多量ってのは十分理に適った死因だと思うがな。なにせ鎖骨の内側だ。頸動脈とは一センチも離れてない――で、その鎖骨を傷つけた凶器ってのは何だったと考えてるんだ、お前さんたち?」

「鎖骨に刻まれた溝がV字型ではないからナイフや包丁ではありません。溝の形状からいえば鋸状の刃物ということになるでしょうね。ただ、サバイバルナイフとかの峰の側にあるセレーションと呼ばれる鋸刃が、鎖骨にかすったとも考えられる」

 須永が答えると、大室は鼻をふんと鳴らした。

「サバイバルナイフ? あの人がランボーの真似をしたとでも言いたいのか?」

「そんなことは言ってないでしょう」

「おいお前ら、ちゃんと死体検案書を読んだのかよ。お前らの当てずっぽうの解釈なんぞ聞きたかねえぞ。お前らより幾分マシな監察医は、『溝の底が一方の溝の壁に向かってやや傾斜がついている』って言ってるだろう。角度だって測ってる。一方は六十度、もう一方は百二十度ってな。溝の底が傾斜してる。これをなんと説明するつもりなんだ?」

「勿体つけずに、考えがあるなら言ってくださいよ」

 須永が腹立たしげに言う。

「わからないか? いきなりもう答えを言っていいのか。それでもお前ら県警の刑事かよ」

「おい、クイズをやってるんじゃないんだぞ」

 滝井が目を剥いていきり立った。

 大室は嬉々として身を起こすと二人の顔の間に手を突きだし、じゃんけんのチョキのポーズをつくった。

「鋏だよ、鋏──こう、閉じた状態じゃない。開いた状態だ。二枚ある刃のうちの一枚が、ここに刺さったんだ」

 そう言いながら大室はチョキの指の一本を須永の鎖骨の窪みに突き立てた。須永はひっと悲鳴をあげた。

「鋏は刃角が小さいでしょうが。溝はV字状になりますよ」

「観察不足だな、若いの。ナイフとか包丁は確かに刃角は小さい。小さくなけりゃ切れん。押し切ったり、引き切ったりするからな。だが、鋏の場合、刃角は様々だ。『はさみ』っていうくらいだ、二枚の刃で挟みこまれた物は、互い違いにずらされるように断ち切られる。そういうのを剪断というんだ。刃角が大きくたって物は切れるんだ。鋏の場合、刃角が大きいのを段刃なんていうんじゃなかったか。刃角が大きいってのはつまり、指先で刃を撫でても皮膚が切れない、鋭くない刃だ。ちょうどその溝の底面程度の傾斜がつくられる程度の刃角をもった鋏を俺は見たことがある」

 身振り手振りの解説に滝井が口を挟んだ。

「溝の深さはどうなる。鋭い刃がそもそもないのなら、骨に三ミリもの溝は刻めないでしょうが。鋸状だからこそ深く削ることができる。あんたの言うようなそんな鋏の刃じゃ、鋸みたいにギコギコしたって――」

 大室は滝井の顔に掌を押しつけて無理矢理口を塞ぐと、あらたまって二人に問いかけた。

「春野ちとせの職業はなんだかわかるか?」

「そんなの――理容師ですよ。わかりきってるでしょうが」

「そうだ。供述調書にもあった。あの日、春野ちとせは瀬野ユリの髪を切っていた、と。となると──さあこれでわかっただろう?」

 須永は口の中でもごもごつぶやいている。滝井も訝る目つきを引っ込め、首を捻り、思考回路をこねくりまわしている。大室は二人にそっとささやいた。

「床屋、鋏、深い溝。深い溝といえば鋸だ。鋸刃の形状を思い出せ」

「床屋──床屋には鋏がある──髪を切る鋏──」

 須永はハンドルを手で打ち、頓狂な声をあげた。

「梳き鋏──それだ、梳き鋏の梳刃の方だ」

 大室は二人の肩をぽんぽんと叩いて重労働をねぎらった。

「あの人は右手の薬指を怪我していた。俺が会ったとき、そこに添え木をしていたのを憶えてるよ。おそらくは骨折したんだろう。瀬野ユリに、梳き鋏の梳刃が鎖骨をかすめて刺さったとき、無理な力がかかって指が折れたんだ。鋏の指穴から薬指が抜けなかったんだよ」

「でも──だからなんだっていうんだ? それだけで彼女の殺意を否定できるわけじゃない」

「考えてからものを言えよ、お若いの」

 と言って、大室は決して若いとはいえない滝井の頭を小突いた。

「人を刃物で突き刺して殺そうとするとき、力を込めて凶器を握るもんだ。指が折れちまうなんて、よっぽどゆるく持っていたせいだ──まあ、待てって。根拠はまだある。梳き鋏は片方が梳刃、もう片方が普通の刃だ。人を殺すのに、より刃物らしくない方の梳刃で刺そうとするか? それだけじゃない、梳刃の方は先端まで櫛状の部分をもうけなきゃならんために刃先を尖らせることができない。今度、その薄くなった頭を刈ってもらうときがあったらよく見てみるんだな。梳き鋏の梳刃ほど、ものを突き刺すのに適していない刃物はない。梳刃でないもう片方の刃の方が尖っているくらいだ。それに、散髪中に鋏で人を殺すつもりなら先の尖った普通の髪切り鋏に持ちかえたらいいじゃないか。大体、髪を切るときってのは普通の鋏を使う機会の方が多いんじゃないのか」

「彼女が持っていたのが確かに梳き鋏だったとしても、梳刃じゃない方の刃で首を切ろうとして、振りまわしたんじゃないですか。梳刃の方が刺さったのはたまたまなんです」

「いいか、梳刃の刃が鎖骨の内側をこするとき──つまり、梳刃の方を鎖骨の窪みに突き立てるとき、もう片方の刃はどっちを向いている? 鋏を持っている自分の方だ。梳刃じゃない方の刃先は瀬野ユリに向けられていない」

 大室はそう言うと再び後席の真ん中にふんぞり返った。滝井が目を剥いて食いさがる。

「それは正面から刺した場合だ。背後から襲ったなら刃先は瀬野ユリに向けられて──」

「瀬野ユリの背後を取ることができたのなら、なおさら梳き鋏を使う理由がないな。後ろから首を切って殺すなら刃角の小さい鋭い刃物だ。ああ、床屋なら剃刀があるじゃないか。鋏を突き立てて殺すにしても、刃先の尖った普通の鋏を使うだろうし、なんにせよ、まずは鋏を閉じて、しっかり握ってから振りおろすだろうがな」

 大室はそう言うと、二人を交互に見やった。

「瀬野ユリの死は、二人が揉みあっている最中で起きた事故だ――悲劇であることには変わりないがな」

 得意顔を急速にしぼませた大室に追い打ちをかけるように、滝井が嘲笑を向けてくる。

「大室さんねぇ、たとえ実際はあなたのおっしゃる通りだったとしても、それで殺意がなかったという証明にはなりませんよ。なぜなら、春野ちとせはいかにして瀬野ユリを死に追いやったかを記憶がないと言い張って曖昧に──いや、ごまかしているし、本当は相続遺産をとりあげられたくなかったんじゃありませんか。あわれみを誘う女だけど、人は人。そんな動機も否定できませんって。それに殺人にしろ事故にしろ、あの女は遺体を床下に埋めて隠蔽しようとしたんだ。これですよ。このことを忘れちゃいけませんよ。あの女の本性を」

「あの人はそんな人じゃない」

 大室は否定したが、胸の内にある陰鬱な思いまではぬぐい去れなかった。

 胸の内で熱くなったものが冷たいものに入れかわっていく。須永らは否定的だが、自分としては納得がいった。ただ、すべてにおいて納得がいったわけではない。それどころか、いまさらながら三十二年前のあの日の自分の選択が果たして正しかったのかどうかが不安になってきた。

 あの日あの家で、瀬野ユリと春野ちとせの間で起きたこと――瀬野ユリが死に、ちとせをその亡骸を床下に埋めようとしたことはまぎれもない事実だろう。

 だがちとせは大室に、自分が犯した罪を告白したがっていた。

 大室の選択肢は二つに一つだった。すなわち、沸きおこる胸の内の熱い炎を吹き消して冷徹にちとせを告発するか、もしくは炎が絶えぬうちにその場を去るか、だ。そこでの出来事が単なる事故に過ぎなかったという証拠を大室はその場では見出せなかった。そのため、ちとせのために無罪を証明する――事故だと証明するという三つめの選択肢は、そのときその場には端から存在しなかったのだ。

 しかし、もしその三つめの選択肢をあのときに選ぶことができていれば、ちとせは、そして大室自身はその後どんな三十二年間を送ることができただろうか。越えることのできない、打ち破ることのできないぶ厚く高い壁に阻まれて、大室は自分の無力を思い知るばかりである。

 車は否応なく背中を押していく。刻一刻と一人思案の時間は減っていく。気ばかりが急いた。大室はただひたすら自分に同じことを問いかける。一体どの面をさげて、俺はあの人に会いに行くというんだ、と。大室が信じ、生きる縁としてきた己の正義が、次第次第に身勝手な蛮行に思えてきてしかたがなかった。


     九


 渡されたメモ帳とペンを須永に突き返し、大室は病院のエレベーターに乗りこんだ。

「まあまあ、何か喋ったらでいいんですから。ほら――」

 須永は強引に大室を引きとめると、その手にメモ帳を握らせ、胸ポケットにペンを差しこんだ。

 だが大室は、春野ちとせとどんな会話をしようとメモをとる気などさらさらなかった。鼻先で閉まるドアが須永らの姿を見えなくすると、すぐにメモ帳を尻のポケットにねじこんだ。

 ちとせの小さな背がICUを見渡せるガラス窓のそばにあった。大室はその三歩ほど後ろから、彼女の視線を追った。

 心電図モニタに見下ろされた老人の胸が微かに上下していた。ごま塩頭の側頭部にあてがわれ、白いネットで押さえられた特大のガーゼが、小さく萎んだ顔を覆い隠さんとしている。ただそれでも、頬の上を伝って鼻腔に挿入されたチューブで酸素を吸うその表情には、かろうじて生気の色が差しているようだった。

 みんな老いたのだな、と思う間にちとせが振り返った。

 ちとせは大室のことを記憶に留めていた。目が合うなりうつむくように頭をさげた。大室は最初の言葉を探して迷っていた。だが最初の一言を担ったのはちとせの方だった。

「看護師さんが来たら、ここを出るようにと言われます。面会時間が過ぎてるものですから」

「では、下のロビーで」

「はい」

 ちとせはつと窓を離れ、大室が歩きだすのを待った。

 エレベーターに乗りこむと、大室の束の間の安堵もすぐに薄れていった。次に口にする言葉こそ、差しさわりのないものではなくなるだろうことが想像できた。

 西日が陰りはじめている。大室は自販機のそばのまだ陽の差すベンチを選び、ちとせに勧めた。

「何か飲みますか?」

「いえ」

 ちとせはそう断ってベンチに浅く腰掛けた。大室も出しかけた小銭をポケットに戻して隣に座った。あたりを見まわしても須永らの姿は見えない。先延ばしももう限界だった。

「あの――」

 またも会話を切りだしたのはちとせだった。大室が顔を向けると、濡れた目がそこにあった。

「ご迷惑をおかけしました。私のせいで――ごめんなさい──本当にごめんなさい――」

 ちとせはベンチからずり落ちるようにして床に跪こうとした。土下座するその額が床につく前に、大室は慌ててちとせを止めて両肩を抱えるようにして顔を起こさせ、ベンチに座らせた。一気に疲労が噴きでた。荒い呼吸のまま大室は吐き捨てるように言った。

「やめてください、こんなことは。迷惑だなんて思ったことは一度だってありませんから──」

 言葉が詰まり、後がつづかなかった。大室はポケットを探って一枚の紙片を取りだした。それを見つめて気分を落ち着かせるのが習慣となっていた。

 障子紙を切りぬいた花は、三十二年の時を経て黄ばんでいた。花びらのつくりが繊細であるのは、あの日ちとせが切ったものの中の一枚だからである。大室はその表面を指で撫でた。紙擦れの音に気づき、ちとせも大室の手の中の花に視線を落とした。

「私は正しいことをしたと思っていました。だけど――私はかえってあなたを苦しめてしまった。私があのとき、あなたを──あなたが望んだ通り告発してさえいれば――」

 膝が震えだした。この紙の花の効果ももはや薄れてしまっていた。どうしようもない震えと同時に胃液が食道をせりあがってくる感覚に襲われた。それまでひっそりと心中に根を張るだけに留まっていた後悔が、一斉に恐怖の芽を吹いた。大室は歯を食いしばって嘔吐をこらえた。

「あのとき、ちゃんと調べればわかったんです。あなたはユリさんを殺める気などなかった。事故だということを証明できたはずなんだ――」

 上腕にちとせの掌を感じた。大室はその感触に意識を集中した。膝が静まった。

 ちとせは口を開いた。

「私は確かにユリねえさまを殺めてしまったんです。そして──あなたは私を助けてくれました。もう、そのことでご自分を責めないでください」

「いや、わかっていないのはあなたの方です。あなたはその瞬間をはっきり憶えておられないんでしょう? 気がついたら瀬野ユリは死んでいた、と。だけど、実際何があったかは証拠が示しているんです」

 ちとせは首を振った。大室は構わずつづけた。

「あなたに殺意はなかったと、私は──警察は立証できた。それに、あなたは床下に遺体を埋めたつもりでいたが、それすらもそこにはなかった。つまり遺体を隠そうとはしたがその目的は果たされなかったわけです。警察はそう判断するし、もし何かしら罪があったとしてもごく軽いものだったはずなんです。どんなに最悪の場合でも、あなたがご家族と──産まれたばかりのお子さんと引き離されるようなことはなかったんですよ」

 大室は喉につかえた苦い吐瀉物を絞りだすように言葉を吐いた。ただそれを吐きだしたところでやはり、口中を苦くするだけだった。ちとせは大室の目をじっと見つめた。

「自分のことはよくわかっています。ユリねえさまを殺めたのも私の意思だったことにちがいありません」

 そうじゃない、と大室は心中で叫んだ。しかしそう叫んだところで、過去が変えられないのと同じように、ちとせの意志を覆せるとは思えなかった。むしろ庇おうとすればするほど、ちとせは頑なに拒絶する気がした。それでも大室は食いさがった。

「瀬野ユリを山に埋めたのはあなたではない。別の人間だ。それは認めるでしょう?」

 大室がそう言うと、ちとせはうつむいて押し黙った。

「心当たりはありますか」

「警察の方が、そう聞けと?」

「私はもう警察官じゃない。とうの昔に辞めているんです」

「そうですね──ごめんなさい」

 額が膝につかんばかりにちとせは謝った。

 会話が途切れた。

 そもそも二人の間に、差しさわりない言葉を交わしあう話題などあるはずがなかった。大室と春野ちとせの人生はあの日のたった一点――しかも瀬野ユリの死という忌まわしき一点でしかまじわっていないのだ。ちとせの心に近づいて触れようとすれば、彼女にあの時のことを思い出させ、傷口を広げていくだけなのだ。それでも、と大室は強く思った。

「あなたの力になりたい。力にならせてください」

 大室はそう言って須永から受けとったメモ帳に自分の携帯電話の番号を走り書きした。そしてメモを破りとり、ちとせの手に握らせた。

「ここに連絡してください。警察がしつこいようだったら、私がなんとかしますから」

「大室さん」

 ちとせの声は消え入るようだった。大室を見上げる眼差しは、あの日と同じだった。何かを訴えようとしている。大室はちとせに向きなおり、その眼差しを真正面から受けとめた。

(あの日の俺は、ただ逃げようとしていただけだった。だがもう――)

 いま、この瞬間からちとせの力になりたかった。

 ちとせの目に数瞬のためらいの時間が流れた。大室は辛抱強く待った。小さな唇が動いた。

「あの出来事のあと――本当にすぐあとに、私に手紙が届きました。そのことは警察の方にはまだ話していません」

「手紙? どなたからです? 差出人は?」

 大室は慎重にその先を聞きだそうとした。

 ためらっていた濡れた目が大室に向けられて、ゆれた。

「板垣──英介、と」

 大室は咄嗟に記憶を探った。思い当たって顔をあげると、ちとせは頷いた。

「私の父です──いえ、本当はちがうのかもしれません。どなたかが父の名を借りて、こうしているのかもしれません」

 ちとせはリュックサックから航空便の封筒のぶ厚い束を取りだした。大室は受けとるなり封筒の表裏を検めた。差出人は板垣英介。戦死した男の名である。住所は中華人民共和国の北京市とある。

 大室は一通選び、中の便箋を抜きとって開いた。

 その頃は真冬の季節だったらしい。ちとせの雪深い中での生活を気遣っている。別の手紙もごくありふれた内容だった。

「年に三通とか四通。はじめの頃は、私が挫けないようにするためでしょうか──励ましの言葉が多かったように思います。『何も心配はいらない』と」

 大室はいま読んでいた手紙をちとせに手渡した。ちとせは文面に目を落とした。

「一年ほどしてから、徐々にですね。こんなふうに優しい言葉は――私もこの頃には落ち着いてきて、あの出来事が夢だったかのように思えるときもありました。それで私、返事を書くようになりました。父親を知らずにずっときてましたので、父親という存在がどんな感じなのかと――本当の父だと思いたくて、そう思いこんで書いておりました」

 ちとせはもう便箋を折りたたんで手に握り、床に照る西日の名残に眩しそうに目を細めていた。大室はちとせに訊いた。

「『板垣』という方からの手紙はこれだけですか。ああ、いや――これより以前に、板垣さんとお母様は手紙などをやりとりしておりませんでしたか」

「ええ、ございます」

 ちとせは鞄からさらに古い手紙の束を取りだした。

 大室は薄紙の封筒をそっと開けた。便箋に綴られた文字の筆跡は、一見ちとせに宛てた手紙のものと変わりがない。

「真っ先に主人を疑いました――ユリねえさまを別の場所に埋めたのも。でも、そんな様子はまったくありませんでした。主人はいまだに何も知らないのです――私は主人を騙しつづけてきたのです」

 ICUのベッドで昏睡状態にあるちとせの夫、春野洋一に大室は思いをめぐらせた。頭部外傷由来の脳内出血。昏睡中のその脳が、いまこの瞬間の自分の脳のようにちとせに思いを馳せることはあるのだろうか。あるとしたら、いま何を思っているのだろうか。

 ちとせは大室の目をのぞきこんだ。

「実を言うと、私、大室さんかもしれないとも思っておりました」

「いえ、私では──」

「──そうですか」

「お探しなのですね。この手紙の方を」

 ちとせは深々と頭をさげた。


     十


 水銀灯が点る駐車場の隅に警察車両が停まっていたが、大室は背を向けて歩きだした。

 向こうの方でも大室を見つけたらしくすぐにエンジンがかかり、唸りをあげて追いすがってきた。

「どうぞ乗ってください」

 助手席から声をかける須永を一瞥するも、大室は足取りをゆるめなかった。須永は車を降りて並んで歩きだした。

「今日はこちらにお泊まりでしょう? 営業してる宿までお送りしますよ」

 大室は立ちどまると、メモ帳とペンを突き返した。

「残念、これは大室さんの番号だ。連絡先の交換ですか」

 須永はメモ帳の表面を街灯の明かりにかざして筆圧で窪んだ文字の跡を読むと、下卑た笑みを浮かべた。大室は須永を睨みつけた。須永は苦笑いしながらポケットに手を突っこみ、一巻きのコードを引っぱりだした。

「そんなことだろうと思って――」

 それはイヤホンだった。イヤーピースを耳に入れると、須永はジャックの先端を大室が突き返したペンの頭に差しこんだ。大室は、須永が何をしようとしているのかに気づいて身を打ち震わせるまでに数秒かかった。

 須永はペンの側面に三つあるうちの一つの突起物――スイッチを押した。イヤホンから聞こえる音に耳を澄まし、そのうちに須永の顔ににやついた笑みが広がっていった。

「板垣、英介──って何者です?」

 大室は猛然とつかみかかった。

 須永の手にあるペン型ICレコーダーに手が届く一瞬前に、大室の巨体はいきなり空中でひっくり返った。大室は受け身をとりそこね、左肘と腰をアスファルトに打った。それでも大室はすぐさま立ちあがり、須永の胸ぐらに突進した。だがその両手は気づけば須永の頭上の何もない宙を掻きむしっていた。その隙に両手首は須永の手にがっちりつかまれ、そのまま背負われて再び天地がさかさまになり、今度はまったく受け身を取れずに背中から地面に落ちた。

 二度は立てなかった。息もきれぎれで口の中で罵ることしかできなかった。

「他に、何かおっしゃりたいことはありますかねぇ」

 高揚を抑えきれない須永の口調は、その丁寧な言葉遣いとは裏腹に乱暴だった。須永はいきなり大室に覆い被さって喉を締めあげはじめた。

「同僚を絞め殺したときの気分はどうだったよ、え? 人の喉仏を、握りつぶしたときの気分は? 人殺しどうし、あのババアとさぞ話が合っただろうなぁ」

 須永の双眸は次第に冷めていった。その目に蔑みの色が滲んでくる。須永はつまらなそうに舌打ちすると大室を突きはなし、クラウンに乗りこんで走り去っていった。

 大室はしばらく地面に横になっていた。背から染みこむアスファルトの冷たさが体の芯まで凍えさせていく。

(俺など、このまま地面の一部になってしまえばいい──)

 自暴自棄になった大室の意識の一端が、そうなることを望んでいた。

(そうなれば俺は幸せか?)

 目の奥が焼けるように熱くなった。やるべきことをやり尽くしたらそれもいいと思った。ただ、いまはその時機ではない。

 大室はむくりと起きあがった。痛みにうめきながら尻と背の埃をはたいた。須永に何を言われようと、大室はいまだ自らの正義を信じこもうとしていた。

 梶殺しが罪だということを否定するつもりはない。だが、梶の為そうとしていたことに勝る悪ではなかった。その点さえ確かだと信じられればひとまず良かった。

(板垣英介を探そう)

 須永らは「板垣」とは何者かを調べるだろう。板垣が実在するか否かをだ。しかし大室は彼らと同じルートを辿るつもりはなかった。いま考えるべきは、今晩中に東京へ戻れるだろうか、ということだけだ。「板垣」が何者か、どこにいるか、大室にはおおよそ見当がついていた。

 大室はジャンパーの襟をかきあわせて寒風を閉めだすと、薄暮の中で黒ずみはじめた病院を一瞥し、そして背を向けた。


     十一


 部屋に充満するシンナー臭にも慣れた様子で、下着姿で開店を待つ女たちは素足をテーブルの上に投げだして懸命に手や足の爪に色を重ねていた。

 店が営業を開始すると、ドアが開くたびに黒服の男が女の名を呼んで下着姿のまま連れだしていく。十二、三人いた女たちも次々と指名が入り、残った数人にもそろそろ声がかかるかという頃、ようやくすべてのマニキュアの瓶が蓋を閉じた。

 ドアが開き、白髪混じりの髭で顔の下半分を覆った男がつかつかと入ってきた。手にはアタッシュケース、脇に新聞を挟み、仏頂面のへの字口の端にハンカチをあてがっている。

「オハヨ、店長」

 残った女が爪に息を吹きかけながら挨拶するも、男の返事はない。足早に間仕切りの向こうへと消えていく。普段なら小突いてきたりくすぐってきたり、機嫌が良ければ頭を撫でまわしてくれたりもするのだが、今日はそれがない。女は訝しんで後を追った。

「どうしたの店長? その新聞見せてちょうだいよ」

「爪でもみがいてろ」

 舌をもつれさせて男は言った。

 店長の呂律の怪しいのはいつものことだが、いつになく素っ気ない言い草に女は腹を立てた。そのまま引きさがるのは癪だった。

「いいじゃん、けち。どうせもう読み終わったんでしょ」

 女はキンキンする声で毒づいた。男は女の言葉を無視してハンカチを屑籠に放りこむと、アタッシュケースを開いた。ケースのスペースの半分は十数枚ものハンカチの束が占めている。男は一枚取りだすと、すぐに唇の端に当てた。

「あらもったいない、あたしが洗ったげるよ」

 掌を返すように愛想良くそう言いながら、女は屑籠にかがみこもうとした。すると、男は女の腕をつかんで止め、乱暴に押し戻した。女はよろめいてテーブルの角にほとんど剥きだしの尻を当てて悲鳴をあげた。

「もう、バカ」

 女は涙目になって間仕切りの向こうに駆け戻っていった。

 男は頭を振って突発的な興奮を冷ますと、ハンカチを口元から離した。ハンカチは唾液で濡れている。神経の通わない引き攣れた唇の端から垂れる唾液をひとすすりし、再びハンカチの乾いた面を口元に当てた。

 稼いだ金を注ぎこんで整形手術を繰り返すも、唇から頬にかけての縫合痕と唇と舌の一部の神経はまだ元通りというわけにはいかなかった。なによりばらばらに飛散して失った肉片はどうやっても取り戻すことはできない。

 それでも中尾仗にとってはどうということもなかった。

 ケロイド状の縫い跡は髭をのばして隠せばよい。唇の端から唾液が垂れてくるのもハンカチで拭きとればいいだけのことだ。過去に何があろうとも、今は今、やりようによってはうまく生きることができる。

 齢六十を過ぎ、あの人生の転換点からこれまでの歳月を振り返ってみて、中尾は我ながら要領よく立ちまわってきたと思っている。

 千束組は入院している間に取り潰されていた。ベッドに縛りつけられている間も中尾はそのことに関して何の感慨も覚えなかった。退院すると峰岸組組長に就任した窪島渉に声をかけられ、吉原にある風俗店の雇われ店長となった。盗聴の件で捕らわれていた弟分の平山鶴夫を五体満足で放免してもらった恩もあって、中尾は窪島の要請を受けたのである。その後、窪島が脱税で検挙され、刑務所内で剣峰会残党に暗殺されてからも、中尾は極道の巣窟たる歌舞伎町に拠点を移し――多少寄り道もし、道に迷いもし、道を踏みはずしてもきたが――上手に渡り歩いてきたつもりだ。いまとなっては総じて人生に不満はなかった。ただ一点を除いて。

 青木善三の死がそれである。

 奥多摩事件にはじまる一連の事件の真相はいまだに闇の中にある。中尾はその闇に決して足を踏み入れてこなかった。その態度こそ善三の死に対する不義理に他ならない。

 とはいえ、生き残っている者の中で事件の解決を望んでいる者など誰もいないのだから、わざわざ毒壺の中身を引っかきまわしてこの身を危険に晒す意義がどこにあるというのか。事件が収束してまだ間もない頃は、中尾はそう自問しては後ろめたさを抑えこんできたものである。そうするうちに、いつしかそんな後悔の念も事件とともに胸の奥底でただ一つの小さなしこり――青木善三の死――を残して風化していったのである。

 だが、再びそのしこりが出来物を吹き、いままさに溜めた膿を噴きださんと脈動しているのである。

 中尾は当時のままの葛藤に苛まれていた。握りしめたままの今朝の新聞は絞った雑巾のようにねじくれている。何度も読み返した。記憶にある女の名があった。

 瀬野ユリ。

 そして、その件に関連があるとされた見知らぬ女に対して、いま頃になって現れたかという怒りも湧いてくる。

 当然、その怒りは自分自身にも向けられた。

 事件が風化しないうちに中尾自身の手でその女の存在を突きとめ、解決を見ることができたのではないだろうか。そうしたら自分にはもっと別の人生があったのではないか。恥と不義理を感じたくないばかりに避けてきた善三の墓前に、毎年の命日に立つことができていたのではないだろうか。

 高貝の圧力に屈して視野を閉じ、襲撃者や剣峰会残党の脅威に日夜おびえてきたのはまぎれもない自分自身の意志だった。

 中尾は唾液に濡れたハンカチを屑籠に叩き捨てた。そしてアタッシュケースからまたも新しいハンカチを抜きとると、女たちの憐憫の視線を避けるように足早に部屋を出ていった。


     十二


 思い出したように吹く風に流されて、炊きだしの醤油の香が小学校の校庭の空を移ろっていく。陽は天頂からやや傾ぎ、配食を待つ人の列もそろそろ尽きかける。

 この避難所に例の女がいることは確かだった。

 東京から夜通し車を走らせてきた中尾は今朝早くには事情通の新聞記者を捜しだし、その手に十数枚の紙幣を握らせて瀬野ユリを過去に殺害したとして春野ちとせという女が長岡署に出頭していたという情報を得ていた。

 寸胴鍋のそばにいたボランティアのスタッフに声をかけて記者が隠し撮りしたちとせの写真を見せると、すぐに快い返事が返ってきて中尾は案内された。

 春野ちとせは体育館の隅にいた。二畳ぶんの茣蓙敷きに座布団を敷き、ぼんやりと座っている。

 中尾は案内を頼んだスタッフに礼を言って去らせると、ちとせの正面にしゃがみこんだ。

「春野ちとせさんだね」

 ちとせは顔をあげ、はいと答えた。

「俺が誰だかわからんだろうが、実は、昔あんたが起こした騒動にちょっとばかり関わってたんだ──巻きこまれたといった方がいいかな」

 中尾は舌がもつれないようにゆっくりと喋った。唇の端から垂れかけた唾液をハンカチで拭くと、頬の髭をかきわけて縦横に走る縫合の痕を見せた。次いで口を開けていびつな舌をだらりと垂らしてみせた。

「これだけじゃねえ。俺の身内が――身内といっても血が繋がってるわけじゃないが、家族みたいなのが俺にもいてさ、俺もその男も、あんたを庇った奴にやられたんだ。ま、俺はどうにかこうして老いさらばえてるが、その身内ってのはそのとき殺されちまった」

 ちとせはいまにも砕け散りそうな表情を中尾に向けると、いきなり座布団からおりてべったりと土下座した。中尾は容赦なくその頭をひっぱたいた。

「そんなのいらねえよ。顔をあげな、話ができねえ」

 何度か小突くと、ちとせはようやく身を起こした。たったいま、さらに十ほど歳をとったようにみえる。

 寝床は一人ぶん。荷物はリュックが一つと紙袋につめた衣類。菓子パンのビニール袋が丁寧に折りたたまれて、牛乳のパックとともに隅に置いてある。綿の薄くなった座布団は真ん中の窪みがいつまでも戻らない。

「娘がいるんだろう? 娘の家に行けばいいだろうに。身一つで軽いんだろうが」

「夫の病院がこちらなので」

「旦那が怪我したのか」

「はい」

「ひどいのか」

 ちとせはうつむいた。中尾は鼻で笑った。

「天罰だな」

「はい」

「さて、あんたはいまから人質になってもらう」

 ちとせは顔をあげ、不思議そうに中尾を見つめた。中尾は声を落として言った。

「嫌とは言わせねえぞ」

「はい」

 ちとせは座布団の窪みを平らにならして畳んだ毛布に重ね、茣蓙の上の塵を手で掃きあつめだした。中尾は目をまるくした。

「何やってんだ。そんなもんほっとけばいいだろうが」

「すぐ済みます、すぐに――」

 神経質そうに動くちとせの手つきを、中尾は唖然として見ていた。

 

(人質の意味を知らないわけではあるまい)

 ちとせが助手席にすんなり乗りこんできたことに、中尾は拍子抜けしていた。

 関越道の通行止めのために目的地まで行くのに北陸道から上信越道へと迂回しなくてはならなかった。市内からインターに辿りつくまでも、北陸道を走りだしてからも、しばらくは渋滞に難儀した。

 ようやくクルーズコントロールのスイッチを入れられるほどに道が空いてくると、苛立ちも幾分薄らいでいった。中尾はおもむろに訊いた。

「旦那は知ってたのか」

 ちとせがかぶりを振るのが目の隅に映った。

「娘は?」

 またも横に振る。

「知られたらどうするつもりだったんだ? あんたは毎日、警察の事情聴取を受けてるんだろう。警察署に通う理由を聞かれなかったのか」

「はい」

 ちとせは細い声で答えた。陰気な女だ、と中尾はうんざりした。

「早く吐きだしちまえばよかったんだ。なにも三十ン年も腹ン中に溜めこむことはなかったぜ」

「ほとんどまる一日──」

 ちとせの唇が小さく開いた。

「まる一日、忘れている日もありました。薄れていくんです。頭が勝手に、あの出来事を無かったことにしようとして――」

「生き物の反応としてはそれが正常だ。気に入らねえ過去は忘れちまう。死んだ者どもは浮かばれんがな」

 ちとせは両手で顔を覆った。そして掌の中でまぶたを開き、じっと薄闇に浮かぶ何かを見つめている。

「はっと気づいて――こうしていつも思い出そうとするんです。あの日のことを忘れてしまわないように」

 そっと掌をのけると、ちとせは今度はその掌を見つめだした。ちとせの顔は、浴びた西日が透けるかのように白かった。

「何を思い出すんだ? 殺すところか? 埋めるところか?」

「全部を――できるだけ、全部を」

 それを聞いて中尾はうなった。

「けど、床下には何にもなかったんだろう? それだって、あんたが山の中へ埋めに行ったわけじゃないだろうが」

 ちとせは掌を膝の上に戻し、頷いた。

「心当たりはあるのか、誰がやったか」

 ちとせは殻を閉じたようだった。

「しらを切る気か」

(まあいいさ)

 大体見当はついている。この女を人質に取ることには意味があるのだ。保険だ。前は保険がなかったから一方的にやられた。

 ちとせが何かつぶやいていた。

「なんだって?」

「『板垣英介』は私の父です」

 ちとせは自分宛ての手紙のことを中尾に話しはじめた。

 鵜呑みにできる話ではない。板垣なる男の戦死が公的な記録に残っているのならなおさらだ。となると、手紙の送り主は別の誰かだ。

「床下にはもう死体はないって、はっきり教えてくれなかったのはお粗末なこったな」

「何も心配ない──という言葉にすべて込められていたのだと思います。どの手紙にも、いつもその言葉がありました」

「じゃあ、死体がないってことはなんとなくわかってたのかい」

「──いいえ、そこまでは」

「掘り返してみて気づいたってことだな。自首も無駄になったな」

「私は罰を受けなくてはならなかったんです。もっと早くに」

「いまさらそんなこと言っても遅いぜ」

 中尾は鋭く言った。

 はい、とちとせは答えた。中尾は一つ息をついて、軽く訊いた。

「もしも、だ──その手紙がなかったら、あんたはどうしてた?」

 押し黙ったままのちとせにかわって中尾が答えを出した。

「確実に、いまとはまるで違う人生を送っていただろうな」

「私にはわかりません」

 ちとせは絞りだすように言った。

 中尾は窓を下ろし、ハンカチを投げ捨てた。

「後ろのケースを取ってくれ――開けろ」

 中尾は舌打ちをした。アタッシュケースの中にはハンカチがほんの数枚しかなかった。その一枚を取りだして早速垂れてくる唾液を拭い、中尾はちとせに言った。

「ちょっと寄り道するぞ」


     十三


 吹き寄せられた落ち葉が煉瓦畳の上を音を立てて転がっていく。

 その乾いた音に我に返り、瀬野創一郎は紅茶のカップに手をのばして飲み干した。ティーカップにおかわりを注ぐ妻の皺一つない手をぼんやり眺め、次いで立ち去るその後ろ姿を見送ると、やがて重い口を開いた。

「私はこれまで、人より上手に生きてきた。人よりずっとだ。人より金もある。衣食住に不自由したことはない。老いた先のことも考えて、若い妻を娶った。幸福のまま幕を閉じる準備が整っている。なにせ、色々な不幸を目の当たりにしてきたものだからね。何をしなければ物事がうまくいくかがわかっていた。簡単なことだ。だが、皆が皆、なぜやってはいけないことをやってしまうのか。それさえしなければいいだけなのに」

 創一郎はすぐに乾いてしまう唇を舐め、それでも足らず茶で湿らせた。

「私から見れば、皆、自分から進んで不幸を背負いこんでいってるように思える。私のまわりはそんな人間ばかりだ──大室さん、あなたも含めてだよ」

 そう言って大室に向けてきつく指を突きつけた。大室は自嘲の苦笑いを浮かべたが、すぐに真顔に戻った。

「器用に生きたくてもその選択肢すらない人だっています。嫌でもその道しかなかったんです」

 その言葉が胸を突き、創一郎はうなだれた。

「私たちは彼女をいらぬ騒動から遠ざけたつもりでいた」

「そのはずでした」

「誰もが予想しなかったんだ──いや、親父の考えることなど予想できたはずなんだ。ただ、遺言書を開いて内容を知ってはじめて、『予想できたことだった』と気づく。その程度のものでしかなかった。その後のことは想像した通りになった」

「家政婦の鈴森佳枝さんの見たままの出来事が起こり、そしてユリさんはちとせさんのもとへ」

「そうです」

 創一郎はさらに言葉を継いだ。

「ユリ──あいつめが、あの女がちとせ君を脅し、強請ることだって容易に予測できたことだった。だから実田さんは急遽、遺言書の書きかえを提案した。ユリに遺産が渡るようにと。すべては実田さんがやってくれた」

「ユリさんがちとせさんを脅すから、それを防ぐために偽造を――それは確かですか」

 そう訊かれ、創一郎は訝った。

「それでちとせ君の平穏な生活が守られれば安いものだろう? ちとせ君に金はいらない。瀬野の金は不幸を招くだけだ。だが、ほんの少しの差だった――遅かったんだ。ユリの貪欲さが勝ってしまったんだ」

 創一郎はうなだれ、そして次に顔をあげたとき懇願するように大室に訊いた。

「刑事に関してはもう時効でしょう? それに民事も、ユリの最後の遺族であるこの私が訴えなければ、ちとせ君が責められるようなことはもうないのでしょう?」

「ええ」

 その返答に創一郎は安堵した。ただ、その思いもほんのわずかもつづかなかった。

「だからといってもう済んだこと、ではないんだね。しかし真実がそんなに大事なのかね? ちとせ君をそっとしておけないものだろうか」

「誰より、ちとせさんが望まれていることです」

 大室が言った。創一郎はちとせの心情に思いを馳せ、深く息を吐いた。

「そうだったな――でもなぜ? 板垣のおじさんは戦争で亡くなっているんだ。墓もある。私は何度も墓参りをしている。死んでおらずに生きているなんて、ばかげてるとしか言いようがない」

「手紙が届いていることは事実です。筆跡も似ていました」

「似てるって――誰かがおじさんの名を騙っているだけだ。一体誰なんだ? 見当はついているのかね、え?」

 創一郎は大室に迫った。大室は淡々と見つめ返してくる。その視線の意味に気づくと、創一郎は首を振った。

「誤解させたかね? 私ではないよ。誓ってもいい。だが、私だと名乗り出たいくらいだ。あの子のためなら私はなんだってする。あの子がそんな目に遭っていると知っていたら、私はなんだってした」

 噛み締めるようにそう言ってみて、あの子のためならという自分の言葉があらためて胃の腑に落ちていった。

「なんだってするさ。私はちとせ君の母親──智子さんに思いを寄せていたんだ。その智子さんの娘だもの」

「ちとせさんのお母様に思いを寄せていらした――」

「智子さんが親父の工場に勤めるようになった頃から、私が家を飛びだすまでの間のことです」

 里中智子、板垣英介、それに実田誠は長岡市に近い村落の幼なじみだった。

 智子と板垣は高等小学校を卒業すると、二人そろって瀬野創治郎が営む縫製工場に工員として就職した。ちょうど日中戦争が勃発した頃で、工場は軍服や背嚢などの軍需品を製造していた。実田だけは尋常小学校からひとり中学校へと進学したが、それでも智子や板垣との結びつきは少しも緩むことはなかった。

 快活で仲の良い三人を創治郎はとくに気に入って、育ち盛りの若者三人をよく家に招いて食事を振るまうことがあり、休日にもなると瀬野家四人家族に彼らを加え、賑やかに信濃川支流の河原で一日を過ごしたりもした。その頃、創一郎と光治はまだ六つと四つで、ひとまわり近く離れた若者らを「智子おばさん」「板垣のおじさん、実田のおじさん」と慕っていたものである。創一郎の実母もこの頃はまだ健やかな笑顔を振りまいていた。

 戦争は終わりを見せず、やがて実田は中学を卒業して士官学校へ、板垣ものちに徴兵されていった。板垣が大陸へと出征するとき、智子が板垣に思いを寄せていたことを創一郎ははじめて知った。似合いの二人だと納得がいった。

 御国のために戦う二人を誇らしく思ってはいたが、やはりもしものことを考えると気が気ではなかった。智子はそれ以上の思いでいるようだった。創一郎はそんな彼女の様子を目の当たりにして、胸の内で「俺が板垣のおじさんのかわりに智子おばさんを守ってみせる」と誓ったものだった。

 一方、父も母もそろって智子を我が娘のように大事にし、板垣と実田の安否に不安を募らせる彼女を思って胸を重くしていた。智子は早くに両親を亡くしていたのでなおさら親心を働かせていたようだった。

 軍需品の需要が増え、工場の規模を拡大したことをきっかけに、智子はそれまでのもっぱら縫製作業を行う女工から事務所勤務へと配置換えされた。彼女は喘息持ちで、もともと縫製工より事務職を希望していたのである。工員を増員する際に事務員枠も一人増やされ、そこに据えてもらったわけである。

 そのことがあってか、智子は創治郎に感謝しきりだった。その感謝の思いが彼女を変えていくのが創一郎にも見てとれた。重たくなりがちだった智子の表情がずっと明るくなってきたのである。

 ただ、創一郎は複雑な思いだった。智子が元気になっていくのは嬉しいことだが、それは自分の力によるものではないのである。自分は彼女を喜ばすことを何一つしてやれていない。創一郎は己の未熟さにいらだちを募らせていった。 

 創一郎はしばらく眉根を寄せて押し黙り、やがて苦々しく切りだした。

「あの事件が智子さんを──いや、私たちみんなを滅茶苦茶にしたんだ」

「あの事件、とは?」

 大室がはじめて耳にすることのように身をのりだして興味を示した。

 それはそうだろう、と創一郎は思った。事件のことを話題にしたり、他人に話すことなどいまだかつてないことだった。いまこの瞬間だって口にしたくない。脳裏をかすめることすらも。創一郎は言葉をつまらせ、すぐには返答できなかった。吐き気がしてくる。カップの紅茶を一気にあおって、こみあげてくる嘔吐感をどうにか抑えこんだ。

「智子さんが、襲われたんだ。暴漢に──最低最悪の下衆野郎に」

 父親には面会することを止められたが、創一郎は光治を連れてこっそり智子の病室に忍びこんだ。

 二人はそこでベッドに横たわる人のようなものを見た。

 なじみのある目尻とかなしげな眼差しでかろうじて智子とわかった。他は、頬も唇も顎も鼻も額も赤黒く腫れ、擦りむけていたり、絆創膏やガーゼで覆われていたりした。凍傷のために手足にもぶ厚く包帯が巻いてあった。智子が涙ぐんだ視線を逸らしたのをきっかけに、創一郎は光治の手を引っぱって病室を飛びだした。智子を憐憫の眼差しで見つめれば見つめるほど、彼女が傷ついていく気がしたのだ。

 智子が吹き溜まった雪の中で死にかけていたということは後で聞かされた。

 創治郎は退院する智子に十分な退職金を持たせ、祖父母のもとへ送っていった。同行はもちろん、見送りすらも許されなかったが創一郎は車の通り道を先回りして待った。しかし車はあっという間に過ぎていき、智子の顔は見えなかった。

「事件の犯人はわからずじまいだ」

 創一郎はそう言うと唇を噛んだ。

 その後、長岡空襲で創一郎らは、家と工場と、そして母親を失った。だが、生き残った父と弟とで一丸となって戦後復興に励んだ。その後まもなく、創治郎は唐突に花江とその娘ユリを連れてきて家族として迎えた。創一郎は母が生きていた頃から父が女をよそに囲っていたことを知り、父親を激しく軽蔑するようになった。ただ、それだけでは終わらなかった。さらに創治郎は智子とその娘、ちとせを連れてきたのだ。

「当然、確証はない。単に私の誤解かもしれない。だが、親父が以前から智子さんを優遇していたことは事実だ。智子さんとちとせ君が家に連れてこられた状況も、ユリたちがきたときとまったく同じだ。親父は妾を手元に置こうという腹づもりなのだ。だが一方は妻として、もう一方は家政婦という名目でだ」

 創一郎はひとしきり心中の憤りにまかせて頭の中をかっかさせてみたが、その熱もすぐに冷めていった。

「ただね、親父はほとんど以前と変わらぬ態度だったよ」

「優しかった、と?」

「そうです。智子さんを気遣い、私と弟――実の息子たち以上にちとせ君を可愛がった。いや、私らは別にいいんだ。もう親離れする頃だったから。だけど、ユリにだってあんな眼差しを向けたことはないんじゃないかな。ユリはその点、可哀想な子だった」

「ユリさんは長年、そのことを腹に据えかねていたわけですね」

 大室がそう言うと創一郎は頷き、そして照れたように笑った。

「そう。私はそんなユリに焚きつけられて──私があの家を出た理由を、刑事さんに話しましたかな」

「私はもう警察官では──」

「そうだったね、大室さん。そういえばあなたに訊かれたとき、私は返答を拒んだね。なにせ、その答えというのが私の生涯でもっとも愚かな失敗のことだったから」

「ユリさんに焚きつけられた、ということがですか」

「ユリは言ったんです。親父と智子さんが、その──つまり男女の関係があると。あの頃は私も若かったんですな。私は根拠もなく親父を責め立てた。親父は当然、何をバカなと突っぱねるわけです。親父にしてみればそれは智子さんへの侮辱に他ならなかったんでしょう。ただ私だって、板垣のおじさんが亡くなったと知ってから、智子さんを守るのは自分しかいないと自負してたものだから――いや、本気で好いていたんです。ちとせ君ごと好いていたくらいだからね。いや、ユリの言っていたことの方が案外真実なのかもしれない。親父が会社を売って抜け殻同然になった後も、智子さんはなぜかあの家に残った。しかも、それまで通りの家事を無給でこなしていただけじゃなく、自ら働きに出て家計をささえようとしはじめたんだから。親父に恩があるとはいえ、そんなものだけで身を尽くすことができるものだろうか」

 大室の相槌が同意の頷きにも受けとれ、それが思いがけず創一郎の胸を突いた。

「やっぱり、智子さんは親父を好いていたのかもな。だからあれほど親父に――きっとちとせ君だって、親父の子に違いないんだ」

「智子さんは、ちとせさんには父親は板垣さんだと話しています」

「そりゃあそうだよ。本当のことを言ってたら大騒動だ。それに考えてみてくれ、親父は結局誰に遺産を残した? 実の娘に、なんじゃないか?」

「花江さんもその可能性を示唆していました。ユリさんが創治郎氏の実の娘ではないことは確かで、創治郎氏もそのことに気づいていたのではないかと言ってました。それにユリさんもまた、自分は創治郎氏の娘ではなく、むしろちとせさんこそ実の娘なんじゃないかと考えていた節があると」

「まさにその通りだと思うよ。親父は板垣のおじさんがいないことをいいことに、智子さんの心の隙間につけいったんだろう。女たらしというのはそういうものでしょう? ま、おじさんがそのことを知らずに死んだのが救いだよ。いや、いまでも生きてるんだっけ」

 創一郎は喉を鳴らして笑ったが、笑えない冗談だとすぐに気づいた。そして、取り繕うように言葉を継いだ。

「私は、ちとせ君の父親が板垣さんであるはずがないと思っているよ。ちとせ君の確かな年齢はわからないが、瀬野の家に来たときのちとせ君はやっと喋ることができる程度のほんの幼子だった。おそらくはまだ三つか四つといったところだろう。少なくとも板垣のおじさんが戦死された後に生まれたのだと思う。おじさんは昭和十五年に出征したきり、本国に帰れぬまま十七年に戦死されたんだから」

「昭和十五年に出征し、十七年に戦死ですね」

 そう確かめられ、創一郎は頷いた。 

「親父のことは汚らわしいと思ってきた。だが智子さんまでもその類だと考えているわけじゃない。ましてや、ちとせ君には微塵も罪はない。それどころか、それこそが真実だとするのなら、あの子は腹違いであっても、私と血の繋がった妹ということになるんだ。それがどんなことだかわかるかね。戦争で私らは母親を亡くし、板垣のおじさんを失った。かわりに得たのは花江という悪女とユリだ。ユリが可愛い妹だったかというと、あれは私たちを兄とも思っていなかった。戻ってきた智子さんも、以前の快活な人ではなくなってしまった」

 創一郎は不意に寂しくなった。しかし、ひとつ深く息を継ぎ、気を取りなおしてつづけた。

「だが一方で、私たちはちとせ君を得た。家政婦の子という立場だったが、私と光治にとっては可愛い妹分だった。あなたにはわからないことだろうが、あの子は智子さんの分身も同然だった。私も光治も、あの子にかつての智子さんの姿を重ねていた。もっとも、ちとせ君はまだ子どもだったがね。それでも私らにしてみれば小さな太陽だった。ただ、その太陽が――ついには陰ってしまった」

「智子さんが亡くなられたことですね」

 創一郎は頷いた。

「親父は餞別を渡したそうだが、私らはその後もあれこれと援助を申し出ようとした。だがそのたびにあの子は断ってきた。瀬野の家を思い出したくないのかもしれない。本当はあの子は長く私たちの家にいて、ずっと苦しんでいたのかもしれない。私たちは憎まれていたのかもしれない。そりゃそうでしょう? 自分の母親が年がら年中『瀬野の人間』という生き物にこきつかわれるのなんて見ていたくないものだ。ただ、やはり寂しい限りです。私らが触れずにいることが、あの子にとっての幸福なんだと思うと」

「お父上もちとせさんの幸福を願って──あるいは罪滅ぼしかもしれませんが、なんにしてもちとせさんのことを思って遺産を残されたんです。ちとせさんの幸福を邪魔しようなんて微塵も思わなかったはずです」

「金で買えるのはモノだけ。親父もユリもそれがわからないから――もっとも私だって、あの子のために何ができたかと言ったら――」

 創一郎は絶句してうなだれた。できたことは父親の遺言を偽造して、ちとせに金が渡らないようにすることだけ。だが、すぐに気を奮い立たせて大室に問いかけた。

「でも、意義はあった。あの子がやくざ者の手によって日々苛まれるなんてことはさせたくない。そう思って遺言書の偽造には両手を挙げて賛成した。やくざの強請りなど、ユリがおっかぶればいいと思って──」

 自分の残酷な言葉に驚き、創一郎は絶句した。

「ユリならよかったと? なんてことを――大室さん、一体私はどうすればよかったんだ? どうすればこんなことにならずに済んだんですか? 誰が悪い? ユリか、親父か。それとも瀬野の人間全員か。誰を責めたら、何を呪ったらいい。どうしたら、いまのあの子を救ってやれるんです?」

 そんなことはもう無理かもしれないという思いが不意に創一郎の胸中に忍びこんできた。それはすぐに棘ある確信へと変わっていき、胸の中は棘まみれになった。あがけばあがくほど傷だらけになるさだめだった。

 ちとせは誰かに救われることを望んではいない。瀬野家の人間にはとくに手を差し伸べられたくなどないだろう。あれほど愛した小さな太陽が、自分の前では金輪際かがやくことはないのだ。

「ちとせ君を──妹をお願いします」

 創一郎はやっとそれだけを口にした。


     十四


 見慣れない地方都市の繁華街を中尾は歩いていた。その後ろをちとせがついてくる。

 この女を連れて歩くことにはあまりいい気はしなかったが、中尾はちとせを車に待たせず、買い物に付き合わせることにした。ハンカチを買いこむついでに、彼女のみすぼらしい身なりをなんとかしようとふと思い立ったのである。

 婦人服売り場で店員を呼び、ちとせを立たせて適当に上から下まで見繕わせた。ちとせは不安な面持ちで突っ立ち、為すがままに上下の衣服をあてがわれていた。最後に靴を合わせようと店員が足下にかがみこんだとき、ちとせの膝ががたがた震えだした。

「もうやめてくださいッ」

 そう叫んでいまにもどこかへ駆けだしていってしまいそうなのを、中尾は咄嗟にちとせの腕を捕らえ、落ち着かせようとした。だが、ちとせはそれを激しく振り払ってあとずさった。

「おい――」

 中尾が表情を曇らせると、ちとせはいきなり土下座した。

「お願いですから、勘弁してください。どうか、もう、私なんかにこんなことはやめてください。こんなことをしていただくわけにはいかないんです」

 群衆のまっただ中で無様な姿をみせるちとせに、中尾は怒りを沸々とたぎらせた。

「立てよ――立てって」

 中尾は抗うちとせの襟首をつかんで引きずり立たせ、そのままデパートの中を逃げるように突き進んだ。人ごみが注ぐ視線の数に比例して、憤りが泡のように次から次へとふくれあがっていった。ちとせがようやく自分の足で歩きだしても、放っておけば際限なくまるまっていきそうな猫背を小突いてどやしつけた。

 車に戻ると、中尾はついに感情を爆発させた。

「こっちは好きでお前みたいな小汚い女を連れまわしてるわけじゃねえ。できることなら関わりたくはねえんだよッ」

 ちとせはごめんなさいと声を震わせて繰り返しつぶやいている。中尾はそれが気に入らず、なおもまくしたてた。

「こんなふうに思うのは俺だけじゃねえ。お前の亭主や娘だって、こんな味噌ッカスを身内に持って恥だと思ってんだ。え、そうだろう? 亭主の方はいいさ。そのまんまくたばっちまえば、もうお前と面を突きあわせずに済むもんな。だが娘はどうだよ? お袋が不自由してるってのに見舞いにも来ねえだろうが。違うか? 親が警察署に通いつめてることすらも知らねえんだろう? 眼中にねえってことなんだよ。娘ならな、親が住む所をなくしたってんなら引きずってでも自分ん家で受け入れるもんだぜ。それが普通だ。だけどそりゃそうだよな、年がら年中そんな陰気な面を見せつけられるのは誰だってごめんだからな。あんた疎まれてんだよ、腹痛めて産んだてめえの娘にさ」

 ちとせは手で顔を覆ってうつむき、肩を震わせはじめた。中尾は乱暴にちとせのまだら髪を束ねた頭を小突いて苛立ちをぶつけた。

「図星かよ畜生──こんな腐りきった女のために善さんは死んだのかよ。お前にそのしょぼくれた生き様をさせるためにどれだけの人間が犠牲になったんだ? 俺のこのばらばらに壊れちまった顔とひきかえに、お前はそのろくでもない人生を手にしたんだろうがッ――下向いてんじゃねえ、顔あげろ、むかつくって言ってんだろッ」

 中尾はちとせの髪をつかんで顔を起こさせた。一瞬あらわになった濡れた顔を、彼女は手で隠そうとした。だが、中尾は何度もその手を叩いた。

「泣くな、人並みに泣くなんてお前にそんな資格はねえんだ――下を向くな、しゃんとしろよ、しゃんとッ」

 中尾はちとせの猫背を小突き、うつむきそうになるたびに頭をきつく叩いた。ちとせは歯を食いしばり、膝の上に押さえつけた拳を白くなるまで握りしめ、言われた通りに泣くのを堪えようとしていた。それでも彼女は堰を切ったように、ほんの幼子のようにむせび泣きはじめた。だが、中尾はそれすらも許さなかった。どんなに泣きわめこうとも、中尾は容赦せずちとせの頭を引っぱたきつづけた。

 ちとせの髪はほどけ、ばらばらに乱れた。中尾は理不尽にもその汚らしさを責め立てた。見苦しい、髪がぼさぼさだ、死人かてめえは、息してんだろ、だったらそのぼさぼさをなんとかしろよ。ちとせはただ泣くばかりだった。濡れた掌と手の甲で濡れた頬を拭い、涙を塗り広げた。中尾はちとせの乱れた髪を見るに見かねて手荒く撫でつけてやりながら、うるさい、黙れ、わかったからわめくなと怒鳴りつけた。ただ、その声ももうちとせには届いていないようだった。

 ちとせは生まれて初めて泣くかのように声をあげて泣いていた。中尾は乱暴に車を路傍に寄せ、アタッシュケースを開けた。ハンカチは最後の一枚だった。そのハンカチをちとせの顔に押しつけた。ちとせはハンカチをくわえて嗚咽を噛み殺そうとした。ただ、たった一枚の布きれではちとせの嘆きを吸いとれるはずもなかった。中尾もまた、自分の唾液と涙に濡れそぼったハンカチをきつく噛んで獰猛なうなり声をあげた。

 こんなどうしようもない女のために死んでいった者たちがあわれだった。そしてそれにもまして、何人もの人間の命を踏み台にしても幸福になれないこの女があわれだった。いっそのことこの女が根っからの悪人であればよかった。それならば彼女はこの三十二年間、苦悩せずに狡猾に世を渡りつづけることができたかもしれない。もしそうならば、中尾も思う存分憎しみをぶつけることができた。

 だが彼女はそうではなかった。泣くことすらできなくなったユリを思いつづけるがために、ちとせは感情を吐露することを堪えてきたにちがいなかった。

 いまここでようやく、幼子のように感情のままに泣きわめくことができたちとせは、他にあといくつの感情を失ってきたのだろうか。すべての感情を取り戻すのはいつのことだろうか。中尾は、ちとせにこんな生き方を強いた「板垣」を名乗る男と、彼女が負った宿命に憤りを覚えずにはいられなかった。


     十五


 須永から春野ちとせ拉致の報を受けた大室が、当てがないにも関わらず、矢も楯もたまらずに再び長岡へとオートバイで疾走している頃、東京都下のとある病院の一室で、早川忠雄は脱いだ患者衣をたたんでいた。

 寸分の乱れなくたたみ終えると、一つの皺もないベッドシーツと上掛け布団の上にそれを置いた。ベッドを囲む仕切りのカーテンもいまは開け放たれ、カーテンレールの端で、これもまた一条も違わずにたたんだドレープを垂らしている。

 強く差しこむ西日は糊のきいたシャツの襟を白く輝かせ、また枯葉色のセーターの編み目を透かして腕や胸のあたりを暖めていた。早川は窓辺に丸椅子を置いて座り、目を細めて彼方に霞む山並みを眺めていた。そうしていて沸き起こってくる感情に意味や理由を付けられずにいることに戸惑い、早川の胸の内は徐々に諦めの気持ちへと傾いていった。いまは知るべきことが他にある。そのために隙間は空けておくべき、という考えで結局落ち着くこととなった。

 眼下の駐車場に動きがあった。

 見慣れたトヨタセンチュリーが駐車スペースを見つけ、のろのろと前後してそこにおさまった。運転席のドアが開き、杖の先が突き出したかと思うと実田誠が降りたった。

 実田は車伝いに後部にまわってトランクを開き、車椅子を引きずりだそうとしはじめた。早川は我に返って病室を飛びだした。

 早川が駆けつけたときには実田はどうにか車椅子を降ろし終えており、トランクを閉めようと手をのばしているところだった。早川はかわってトランクを閉めてやり、実田を車椅子に座らせた。

「着替えを持ってきたぞ」

 実田は嬉々としてそう言い、後部席から紙袋を取りだした。中には上下の着替えが一着ずつと、替えの下着がごっそり入っていた。いずれも新品らしかった。

「勝手に選ばせてもらったぞ。それにしても、いままでずいぶんとくたびれたのを着ていたものだな。お前の箪笥の中には驚いた。私の着古しばかりを着るんでなく、服を新調するように余分に金をやっていたつもりだったが」

 機嫌良い実田の笑い声を早川は頭をさげて受けとめた。

「まだ十分着られるものばかりですので」

「それはまあいい」

 実田は紙袋を膝にのせて車椅子を進めかけ、はたと早川を振り返った。

「どうしたんだ、その出でたちは──医者は何と? 検査の結果は出たのか」

「いえ」

 早川は言いよどんだ。実田はやれやれとかぶりを振り、車椅子を回して早川に向きなおった。

「見ての通り、私一人じゃ不自由なことも多い。早く戻ってきてほしいのはやまやまだが、お前はまずは自分の体のことを考えなさい。私はひとりでもなんとかなる。お前が無理をして万が一にもいなくなってしまうことの方がずっと困るんだ」

 じっと見上げてくる実田の眼差しから早川は逃れたかった。

「なんとか言ったらどうだ。私は昨日みたいのはもう御免だぞ。昨日は、お前は長岡から良いドライブだったろうがな。私はお前から給金をもらってる運転手じゃないんだからな」

 実田の冗談を早川は笑うことができなかった。

「先生──少し、暇をいただけますでしょうか」

「それは困る」

「では、話してもらえますか。なぜ――」

 実田の表情が不意に消えた。早川は覚悟を決めた。

「あれは、やはりよいことだったとは思えないのです」

 憮然とした面持ちに変化していく実田の前で、早川はやっとそれだけ言った。

「お前が私に楯突くとはな。だが、話すことは何もないぞ」

「でしたら、しばし暇をくださいませ」

 腰を深く折って頭をさげた。頭の天辺に実田の声が突き刺さる。

「何をするつもりだ」

「自分のしてきたことの意義を確かめたいと思っております」

 早川は返答を待った。ややあって実田は訊いてきた。

「体はどうなんだ」

「問題ないかと」

 そう言うと、早川の胸に着替えの入った紙袋が押しつけられた。

「好きにしろ」

 実田はそう言い捨てると杖をささえに立ちあがり、車椅子をたたみはじめた。早川が手伝おうとするのをいらいらと振りはらい、むきになって四苦八苦しながらも独力で車椅子をトランクにおさめ、今度は運転席にまわってドアを開けようとする早川の手を、杖を振りまわして二度三度と激しく打った。

 西日の橙色を染みこませた車が通りの流れにまぎれていく。早川は赤く腫れた手の甲に触れ、車が見えなくなるまでそっとさすりつづけた。


     十六


「確かに『テン・テン』なんだね?」

「うん、『テン・テン』、ゼッタイ」

 メモ帳に書き殴ったその言葉に二重丸をしながら念を押して訊くと、潰れたランドセルを背負った少年が声変わりしつつある潰れた声でそう言いきった。

「他はちょっと憶えてないスけど、それだけはゼッタイっス」

 須永はその少年の瞳をのぞきこんで確信すると、坊主頭にのった黒地にオレンジの刺繍が入った野球帽をわしわしと撫でた。

「県警は君の協力に感謝する」

 須永は大げさに敬礼をし、次いで両拳を固めてぐっと突きだすと、少年はにやりとして拳を突きあわせてきた。

 子どもたちと別れ、須永は滝井が待つ車へと戻った。

 滝井は難儀そうに眉根を寄せて携帯電話に耳を傾けていたが、須永の姿を認めると二言三言送話口に告げて通話を切った。

「ダメだ。病院、自宅、店のどこにもいない。大室のじじいが連れ去ったわけでもないらしい」

「こっちは一応収穫ですよ。『テン・テン』です。これでだいぶ絞れます」

 滝井のきつく寄っていた眉の間の皺がふっとゆるんだ。

「よし。それじゃお前はその『テン・テン』を追ってみろ」

「俺ひとりで? 滝さんは何を?」

 須永は訝って訊いた。

「なに、役所まわりだ。そんなの一人で十分だからな」

「手柄の独り占めは勘弁してくださいよ」

「ま、連絡は絶やさんようにしようや。あ、おい、書類仕事は増やしてくれるなよ」

「わかってますよ」


     十七


 露天の風呂を出たとき、やはりひとかたまりのしこりを残したままだったが、それでも中尾の気分はいくらか晴れていた。

 こぢんまりした庭園を眺めつつ部屋に戻ると、広縁の籐椅子に腰掛け、ぼんやりしているちとせに風呂に入ってこいと言って部屋から追いだした。

 しばらくして引き戸がノックされ、髪を短く刈りこんだ番頭が顔を出した。

「兄さん」

「おう、鶴夫か。少し世話になるぜ」

 中尾は気安く声をかけた。

 善三と同様、鶴夫ともあの日の電話が最後の会話だった。その後、しばらくしてから放免されたとは窪島に聞いていた。

 鶴夫は善三の死を知ると、彼の弟が経営していたこの温泉宿を訪れた。生前の善三に世話になったためここで滅私奉公したいと申し出ると、宿は彼を快く受け入れてくれたという。現在、若い四代目が継ぐこの宿で、鶴夫は番頭を務めている。通常の経年変化によってかつての青年の面影は微塵もないが、唯一変わらないその眼差しにこれまた懐かしい親しみの色が差したときには中尾も安堵した。鶴夫は上手に生きてきたのだ。

 ただ、戸のそばに膝をついた鶴夫は、いまはその目に若干の疑念の色を浮かべていた。

「ええ、もちろん歓迎しますが──」

「『ミツコ』を憶えてるだろう? お前が最後に伝えてきた名前だ。『ミツコ』は瀬野ユリという女だった。で、瀬野ユリは――」

「大体のところは新聞で読みました。ではあの方が――」

「元凶だよ」

 鶴夫は中尾の言葉を神妙に受けとめ、そして意を決したように口を開いた。

「兄さん、もう三十年も経ってるんです。そういうのは、もういいでしょうに」

「善さんが殺されたんだぞ。お前、『もういい』で本当にいいのか?」

 中尾が詰問すると、鶴夫は口ごもった。

「善さんが浮かばれねえよ」

「あたしは──」

 鶴夫は目を伏せて言った。

「もうそういうのは、いいんです。善さんが戻ってくるわけでもないですし」

「薄情者めが」

 中尾は吐き捨てた。

 鶴夫は頭を低く垂れた。薄い頭頂部と肉がだぶつく鶴夫の首を見下ろし、中尾は経てきた歳月の長さを実感した。

 思えば復讐心など、中尾の胸の内からもとうの昔に失せていたのだ。毎週安物のハンカチを大量に買いこむときだけ、ふと忌まわしい過去を思い出すだけだ。それもほんのわずかに触れる程度でしかない。善三の死や、頬や顎の傷のことは心中のしこりとなりつつもそうして脈動しつづけてきたが、煮えくりかえるような憎しみなどはいつどこに置き去ったかすら憶えていなかった。ただそれでも、善三の死はどう解釈しても不要だった死であり、頬の傷が中尾の生き様をある程度は方向付けたことには変わりない。

「けじめはつけなきゃならねえ。善さんのためにも、俺らのくだらねえ人生のためにも」

「兄さん、どうかご無理はなさいませんように」

 懇願する鶴夫の眼差しに中尾は戸惑いを禁じ得なかった。過去から逃れたいがために過去に囚われつづけてきた者と、過去をさっぱり精算して上手に切り捨ててきた者との差を目の当たりにした思いだった。とはいえ、中尾は鶴夫の生き方を責めるつもりはさらさらなかった。

「鶴夫、さっきはああ言っちまったが──お前はぜんぜん薄情者なんかじゃないよ。むしろ善さんは、あっちの世でお前のことを喜んでくれているさ」

 鶴夫は頭をさらに低くした。中尾はつづけた。

「ただ、俺は俺なりに決着をつけたいんだよ。わかってくれ」

「できる限りお力になります」

「無茶なことは言わねえからよ。いい風呂とうまい飯を用意してくれりゃ、それだけで御の字だ――ああ、売店ってあるのかい? ハンカチが要るんだが」

「手拭いならいくらでも」

「それでいいや。さっき買いそびれちまってさ」

「後ほどお届けします」

「それと、今晩は暇もらって俺に付き合えよ。嫌とは言わせねえぞ。こんな日のために俺はこれまで酒を断ってきたようなもんなんだからな」

「はい、もちろんです」

 鶴夫は屈託のない笑みを向けた。変わってねえなと中尾は思った。胸のしこりがまた少し、小さくなった気がした。


     十八


 赤い目に刺激の強い目薬を差すと、須永は栄養剤の口を切って一気に飲み干した。今朝になってすでに三本目だ。手元の無線機はときおり一斉通信をささやくものの、まだ直に須永に呼びかけてくるものはない。群馬県高崎市にある群馬県警察本部の一室で、須永は深夜からずっとPCにかじりつきっぱなしだった。

 昨夜には、須永は春野ちとせを避難所から連れ去った車両を特定し終えていた。

 前日の避難所にて、須永は春野ちとせを連れ去った車両に関係する証言を複数得ていた。

 それが、「四ツ目」のヘッドライトで「2ドア」の「メルセデスベンツ」、CでもCLKでもCLSでもなく「CL」の後部エンブレム、「白系色」、練馬か群馬か「馬」の字のあるナンバープレート、そして「テン・テン」である。

 中でも「テン・テン」が決め手となった。

 それはつまり、四桁のナンバーのうち頭二桁が「・・」だということである。

 「四ツ目」の「CL」はそもそも「2ドア」のクーペのみで、二〇〇四年十月現在、CL600やCL500など数種類のグレードが一九九九年十月から製造されている。それらの型式番号はアルファベット二文字と六桁の数字からなり、数字の上五桁は21537、そして下一桁は4、5、6、8の四種類である。

 この型式番号で、登録番号すなわちナンバープレートの四桁の数字のうち頭二桁が「・・」であるのは、陸運局に問い合わせると、群馬ナンバーではゼロ、練馬ナンバーでは九台が登録されている。したがって、このベンツは東京で登録された車両と断定でき、またちとせが連れ去られた日も東京から来た可能性が高いことがいえる。

 震災以降、関越道は小出インターから長岡インターが通行止めされていることから、東京から長岡へ自動車で向かうには関越道を小出インターで降りて一般道を利用するか、もしくは関越道藤岡ジャンクションから上信越道、北陸道へと迂回しなくてはならない。関越道のみならず近傍の一般道も地震によって寸断されている可能性があるため、普通ならば確実に開通している高速道路利用の迂回ルートを取ることになる。

 そこで須永は、Nシステム──主要国道および高速道路や県境に設置されている自動車ナンバー自動読取装置に記録されたデータベースを照会した。

 対象となる期間は、白骨死体事件の参考人として県内在住の女が事情聴取されているという記事が各紙朝刊に掲載された十一月三日早朝から、春野ちとせが連れ去られた昨日四日の午後まで。それに加え、「練馬」の「3ナンバー」で、四桁の車両登録番号のうち頭二桁が「・・」、メルセデスベンツCLクラスを表す「型式番号の上五桁が21537、下一桁が4、5、6、8のいずれか」の四条件で照会を行った。

 果たしてNシステムは該当車両をただ一台だけ捕捉していた。車両登録ナンバーは「練馬300 ら ・・65」。所有者は新宿区北新宿在住、中尾仗。

 その車は昨日四日未明、練馬インターから関越道へ進入、藤岡ジャンクションを上信越道へ折れて日本海側へ突きぬけ、上越ジャンクションから北陸道を北上して長岡入りするルートを辿った。そして、その車両は同日午後に来た道を戻り、関越道下り高崎インター手前のNシステムに捕捉されたのを最後に高速道路上から消えた。Nシステムが記録したどの映像にも、運転席には髭面の男がおり、復路には助手席に女性らしき人物が確認された。

 高崎インターより新潟寄りの昭和インター手前のNシステムには捕捉されていないことから、該当車両は高崎、前橋、渋川伊香保のいずれかのインターで一般道へ下りたと考えられる。

 須永は群馬県警に協力要請し、自身も滝井に先んじて昨夜のうちに前橋入りした。滝井には自分が合流するまでは手出し無用だと言い含められていたが、須永はベンツが動きだしたときにはすぐに行動に出るつもりでいた。

(元暴力団の組長とはいえ六十過ぎの老いぼれだ。どうということはないさ)

 須永は三本の栄養剤でやたら気忙しくなった思考を解きほぐし、突き放すようにモニタから体を起こした。モニタには中尾仗なる人物の略歴が綴られている。

 写真は七年前に覚醒剤所持で逮捕されたときのものだった。頬や顎に走る亀裂とゆがんだ唇は、顔面を嵐に襲われたとすら思えるほどだ。二つの濡れた双眸は深い彫りの眼窩の底に沈んでいる。そのぬらぬらとした覚醒剤中毒患者特有の瞳の光は、単なる薬物への欲求を通り越して、何か別のものに対する怨恨の冷たい熱気とも思える。

 中尾はかつて関東系暴力団極州会連合の下部組織、千束組の組長だった。だが、昭和四十七年十二月九日に発生した奥多摩事件に端を発する一連の銃撃事件に巻きこまれて重傷を負い、なおかつ療養中に千束組が取り潰されてしまう。その後、彼は峰岸組組長窪島渉に拾われるも、覚醒剤所持で二度服役して身を持ち崩す。出所後、現在に至るまでのこの十数年は、新宿歌舞伎町の風俗店の雇われ店長の椅子におさまっている。

 その中尾が春野ちとせを拉致した。

 事情を知れば彼女が襲撃犯ではないことはすぐにわかるはずだ。となれば、中尾は春野ちとせを切り札として、彼女の犯行を隠蔽しようとする人物──すなわち、自分を襲った真犯人をあぶりだそうとしているのかもしれない。中尾はどこまで知っているのだろう。「板垣英介」なる人物の手掛かりをつかんでいるのだろうか。

 滝井の調べによれば、やはり板垣英介は戦死したとみて間違いないという。

 では、誰が板垣の名を騙っているのか。

 それは当然、春野ちとせを庇う動機のある者だ。

 考えられるのはやはりちとせに最も近しい人物である夫の春野洋一だ。須永にしてみればその可能性は大と思えるのだが、ちとせも大室も、中尾さえも彼を疑っている様子はない。春野洋一は本当に無関係なのだろうか。彼らだけが知っていて、須永ら警察が知らない事実が存在するというのだろうか。

 不意に焦りがこみあげてきた。この何もしない、何も動けない時間がもどかしくてしかたなかった。三本の強力な栄養剤はいくら眠気を覚めすためとはいえ、ただじっとしているだけの身にとっては効き目が強すぎた。須永はいらいらと膝をゆすって床を踏み鳴らした。

(くそ、こいつはどこにいる? 何をするつもりだ?)

 その刹那、受令機のスピーカーが須永の無線機の識別番号を連呼しはじめた。

 

 ボディブローラッシュのごとく臓腑に轟くスバルメイドの排気音も、野太いキャブトンの爆音にあっけなくかき消された。

 巨躯が跨るカワサキWが須永の眼前に猛然と割りこんでき、ブロックパターンタイヤをアスファルトにこすりつけて横様に急停止した。

 つんのめって止まった車体がひと揺れして大人しくなる一方で、須永の心中の針は一気に振りきれた。

 車を飛びおりてオートバイの巨漢に詰め寄り、昨日のように投げ飛ばしてやる勢いでつかみかかったが、突きだした両手には脱いだヘルメットが押しつけられた。気勢をそがれた須永は、八つ当たり気味にそのヘルメットを思いきり放り捨てた。

 大室はその放物線を薄ら笑いを浮かべて見送った。須永はその顔面に指を突きつけた。

「俺を尾けてたのか、あんた」

 見ると大室の顔は薄汚れている。皺の筋にことごとく砂塵と煤煙が黒く溜まっている。疲労の赤い目は自分だけではなかった。背後に大室の影がつきまとっていたことに気づかなかったのは迂闊だった。この大男が春野ちとせ奪還に動くことは西に日が沈むのと同じくらいわかりきったことだったのにだ。

(その手段が、まさか俺頼みだとは──)

「俺を乗せてけよ」

「嫌ですね」

 須永は即座に突っぱねた。

「バイクをどかしてください。公務執行妨害で逮捕しますよ」

 大室は笑ってゆるんだ口元を汚れた革手袋で撫でている。頬に煤の黒い筋が幾本も引かれた。頬骨の上の三白眼は白く光り、ひたすら須永を射ていた。須永は大室がひとり人を殺していることを思い出した。

 乾いた口の中を潤そうとした唾液はひどくまずかった。

「とにかくまずは、バイクをどかしてもらわないと――話はそれからです」


 無線が再び須永を呼びだした。

 交通機動隊の車両が嵐山PA手前で「練馬300 ら ・・65」を視界に捉えたという。該当車輌の停車か追跡の継続かを問われ、須永は停車を依頼し、五分で追いつくと伝えて交信を切った。

 白のメルセデスベンツCL600はシルバーの古い型のグロリアに先導されてPAの進入路に停車していた。須永はサイレンを切り、赤色灯だけを回しながら近づいていった。

 ブルーの制服に身を包んだ交通機動隊員が免許証に目を凝らしている。もう一人の隊員はトランクを開けさせて中を検めている。髭面の男が腰に手を当て、うんざりとした様子で突っ立っている。須永の車が通り過ぎたとき、頬髭の下が一瞬こわばったようにみえた。

 いきなり、大室がまだ動いている車から飛びおり、そのまま中尾めがけて突進していった。須永は慌てて車を停めて大室に追いすがろうとしたが、巨体が中尾の体をはね飛ばすのを痛々しげに見送ることしかできなかった。中尾はベンツのボンネットに無様に仰向けにどっと転がった。そこにまたも巨体が覆い被さっていった。怒号が空気を震わした。

「あの人をどこへやったッ」

 大室が中尾の喉元を締めあげた。腕を滅茶苦茶に振りまわしていったんは万力のようなぶ厚い手から逃れた中尾だが、大室のさらなる突進に為すすべなく巻きこまれ、今度は地面に押し倒されて百キロの体重に潰された。ぐえっ、とうめき声があがった。

「大室さんッ」

 須永が飛びついて大室を羽交い締めにすると、警官二人も加勢して中尾をいまにも食いちぎらんばかりの猛獣を引き剥がしにかかった。須永と大室の二人が折りかさなるように仰向けにひっくり返されてもなお、大室は地面をのたうって暴れた。警官たちは一瞬だけ目を見合わすと一斉に腰の警棒を引きぬいた。

「あんたたちは手を出さんでいい、もう行ってくれッ」

 巨躯に潰されながらもそれを見た須永は警官たちに怒鳴った。

 交機のグロリアが本線の流れに消えていっても、まだ大室と中尾の二人はうずくまって息を切らしていた。

「あんたたち、顔見知りなの? ずいぶんと仲がいいみたいだけどさ」

 覆面パトカーを見送った須永は二人を交互に見やって冗談口を叩いた。どちらからも返事がない。息が上がってそれどころではないらしい。無理もない、二人とも六十を超える年寄りたちなのだ。

 須永は開いたままのメルセデスのトランクにまわった。中は空だった。目を凝らしても、そこに人をつめこんだような形跡は見当たらない。つづいて車内をのぞきこんだ。助手席にアタッシュケースが置いてあった。

「中はなんだ? またシャブでもやってるのか」

 中尾はようやく半身を起こし、気だるげにかぶりを振った。須永は了解を得てからケースの留め金をはずし、蓋を跳ねあげた。

「大室さん、いけませんよ。そいつに手ェ出したらワッパかけさせてもらうからね」

 須永は大室が立ちあがる気配を察し、機先を制して言った。

「そのときはお前も覚悟しておけよ。お前を伸してからでもいいんだ、この野郎を吐かせるのはよ」

 吼える大室に須永はわざとらしく肩をすくめ、アタッシュケースに視線を戻した。そのやりとりに憤ったのは中尾だった。

「おいおい、なんだその茶番はよ。暴力ならもうこの野郎は無茶苦茶やってるだろうが。手懐けてねえならいまからでも鎖で縛っておけよ」

「あんたが喋ったらいいじゃないか」

 須永は飄然と言った。

「別に、あのババアはあんたのスケってわけじゃねえだろうがよ」

 中尾が大室に言い放つと、大室は再び突進の構えをみせた。中尾は咄嗟に両手を挙げて待ったをかけた。

「あの女は自分から俺についてきたんだぜ。誘拐じゃねえし、安全な所に置いてきた。誰かが見張ってるわけでもねえし、縛りつけてるわけでもねえんだぜ」

 だが、大室はなおも詰め寄ろうとした。中尾は須永の車をまわりこんであとずさった。それでも言うことだけは強気だった。

「あの女のことを考えるなら俺を無傷で行かせろ。誰かがやらなきゃならねえことを俺がやってやろうってんだから。それに大室さんよ、あんただって俺やあの女と同じだろう? 俺たちはいまこそ決着をつけなきゃならねえんだよ」

 須永は顔をあげた。大室の足は止まっていた。車を間に挟んだまま中尾はつづけた。

「三十二年前のあの車の中でのことを憶えてるか。あのときはあんたがぶち壊したんだ。でなきゃもっと早く、あんたか俺かどっちかがあのくそったれな事件を解決に導いていたかもしれなかったんだ。それに、そうなってりゃ俺たちにはいまよりずっとマシな三十二年後があったかもしれないんだぜ? 死ななくていい者が大勢いた。あの女にしたってそうだ。あの女がこの現状を望んでいたと思うか? ちがうだろう? あんたを含め、春野ちとせを庇って動いてきた奴らは、よってたかってあの女の人生を潰してきたんだ」

「よかれと思ってやったことだ」 

 須永は蚊の羽音のようなつぶやき声を振り返った。中尾は馬鹿野郎となじり、唾を盛大に地面に吐き捨てた。

「そりゃ単なるお前のエゴだろうが。正義感だかなんだか知らねえが、そんなあんたの薄汚れたもんを人に押しつけるんじゃねえッ。だいたいあんたは人を一人殺してるだろうが。なのになんだその言い草は? あの女のためなら何人もの人間がゴミカスみたく殺されてもいいのかよ? その何倍もの人間がズタボロに泣いて苦しんだって構わねえっていうのか? え?」

 中尾の言う通りだと須永は思った。

 大室の推理通り、ちとせは瀬野ユリを殺していないかもしれない。しかし、その亡骸を床下に埋めて隠そうなどという行為は到底理解してやれるものではない。それどころか、おぞましいと言うに尽きる。生まれてくる赤子や夫を不幸に落としこむことを恐れてそうした行為に走ったというのなら、なおさら狂ってるとしか言いようがない。

 そんなちとせを庇う何者かはユリの遺体を別の場所に埋めかえ、何人もの人間を撃ち殺した。大室に至っては、いまの中尾の言葉に対する反応から見るに、ちとせの罪を黙殺したことのみならず、事実隠蔽のために同僚刑事をその手指で絞め殺したことにも罪を感じていないようだ。

 何人も殺される理由などない。須永はそう信じている。いかなる場合でも、殺し、殺されない解決の道があるのではないかと信じている。そう理想通りにうまくいかない世の中であることも承知している。しかし、理想を求める努力はすべきだろう。

 大室、そして春野ちとせは安易な解決法を選んでしまった。他に道はなかっただろうか。須永は彼らにそう問いたかった。彼らがそんなものはないと答えても、絶対にあるはずだと言って説得したかった。

「どこだ」

 大室はじっとりとした目つきで中尾を見据えた。

「あの人はどこにいる」

「バカ野郎、開きなおるんじゃ──」

 呆れかえった中尾の声が不意に途切れた。そのかわりに妙な音を聞いた。訝って須永が振り向くと、自分のレガシィが大きくゆれていた。そのボンネットの真ん中が大きく凹んでいた。フロントガラスにひびが走った。ルーフが凹んだ。次いで目に入ったのは、ルーフにもう一つ、大室の足が大きな凹みをつくるところだった。だが、その次はどこも凹まなかった。大室は宙を飛んでいた。中尾の仰天した表情に巨大な影が覆い被さっていった。

 須永の体は数瞬前から無意識に反応していた。宙を飛ぶ巨躯に肩から突っこんでいった。

 七十キロの須永の体はその一・五倍の体重にあっけなく弾き返されたが、大室も軌道を逸らして狙いをはずし、地面に顔面からつんのめっていった。路肩に溜まった粉塵に目を潰された大室はそれでもなお、闇雲に誰彼構わずつかみかかろうとしていた。腰をぬかした中尾は必死に身をよじり、地面を這いずって逃れようとした。つかまれたら最後――だが須永は自分にからまってきた大室の腕を抱きかかえるようにして自らからみついていき、すぐさま肘の関節をがっしりと抱きこむと、さらにもう一方の腕をまわして大室の太い首を固めにかかった。両足は大室の胴にまわしてきつく締めこみ、須永は中尾に向かって怒鳴った。

「あんたはもう行け、早く行くんだッ」

 中尾は自分のメルセデスに飛びのると急発進させた。大室は首を絞められながらも熊のように吼えた。

 ゴムの融けた臭いが立ちのぼる中で、須永は暴れる大室を押さえつづけた。首の締めあげが不完全だったが、修正する余裕はなかった。修正のためにほんのわずかでも上腕をゆるめたら、たちどころにすべての緊縛を解かれてしまいそうだった。こうなったらまずは肘の関節を脱臼させるくらいはしかたないと思った。大室の肘と肩の関節を逆方向に捻り曲げる力に全身全霊の力を込めた。自分の息がつづくまで――さもなくば逆にねじ伏せられ、折られるのは自分の腕だ。いや、それだけで済むならまだいい──須永は恐怖に急き立てられ、いっそう力を込めた。

「もういい、わかったから、やめてくれ」

 大室はうめきながらやっとそう言って抵抗をやめた。ベンツの姿は彼方の点になっていた。

 須永は警戒しながらも、徐々に力をゆるめていった。からみあった腕を解き、須永はうずくまる大室を起こしてやって呼吸が楽なようにレガシィのタイヤの脇にもたれさせてやった。

「どうして──行かせた」

 大室は喘ぎながら訊ねた。

「もういいんですよ──ちとせさんの居場所はわかったから」

 須永も喘ぎながら答える。

 大室の訝る目が答えのつづきをうながすも、須永の肺臓もまた悲鳴をあげていて喋るぶんの酸素が足りていなかった。須永は大玉のメロンほどある大室の肩をさすってやりながら、ただにんまりと笑ってみせた。


     十九


 クルーズコントロールをオンにすると、突っぱったまま硬直した右足を腕で抱え上げてアクセルペダルから爪先を下ろした。指先のスイッチで巡航速度にまでスピードを落とす。

 バックミラーで後方に視線を向けるが、追跡はない。ミラーを自分の顔に向けて髪を整え、いつから握りしめていたのかわからない汚れたハンカチで顔を拭った。布地に血が移る。唇が切れていた。最初に激突された際に顎を突きあげられたせいだ。そこをハンカチの綺麗な面で丁寧に拭った。服に汗が染み、埃まみれだった。中尾は不意に笑いがこみあげてきた。

(あの頃と同じじゃねえか)

 ひとしきり喉を鳴らして笑うと、中尾は窓を開けた。ハンカチをまるめて捨てようとしてふと思い直し、アタッシュケースを開くとそれを隅に押しこんだ。新しいのが十枚ほどある。そのうちの一枚を取りだした。

 それらは宿の手拭いをハンカチ大に裁断してこしらえたものだ。中尾は手にしたハンカチの縁に目を留めた。

 裁ち口を縁縫いしたその縫い目は細かく均等で、まるでミシンで一息に縫ったものと見紛うばかりだ。

 明け方近くまで部屋の広縁の電灯が点りっぱなしになっていた理由がこれだ。中尾が頼んで縫わせたわけではない。春野ちとせが宿の手拭いを一枚一枚手頃な大きさに裁ち、一針一針、縁を縫い綴ったのである。

 丁寧な仕事だった。

 この針仕事といい、昨日避難所を引き払うときに塵一つも残していかない神経質さといい、おそらくそんな気質のおかげで彼女は精神を崩壊させることなく、今日の日まで己を律してこられたのだろう。

 自分もそれに似ている。一度使ったハンカチは二度は使わない。潔癖症というわけではない。自分に自分を惨めに思わせないための手段だった。

 中尾はアタッシュケースを乱暴に閉じた。

(だからなんだっていうんだ)

 その結果があの女のようなろくでもない──この俺のようなろくでもない生き様だ。早々に心を折ってしまった方がまだ潔いではないか。

(俺とちがって、とくにあの春野ちとせはそうだ)

 あの女は自分自身の存在を全否定している。そんなことが死んでいった者たちへの償いになると思っているのか。

 中尾はまた、ちとせを庇う者たちにも腹を立てていた。

(あの女ごときのために、なぜ善さんを殺した?)

 だが、その責任の一端は自分が下した命令にあることに思い至ると、中尾は一転して自己嫌悪に陥っていった。そして、敵討ちをしなかったことに対してもまた自らに向けて罵りの声をあげた。

(あの女とちがうといっても、俺は目を背けてきただけじゃねえか)

 善三への不義理は犯人たちの罪にも勝っていると中尾は思う。不義理は人として恥だ。その恥がさらに自らを貶めるのだ。そんな、かつて繰り返した思考パターンがいま再び呼び起こされようとしていた。自問と自責で堂々巡りしたあげく、その途上からリタイアした先にあった多幸感の幻影をふと懐かしく思ってしまう──いまここに透き通る悪魔の結晶の粒どもがなくて幸いだった。

(真実を知るんだ。真相を追うんだ。いまはそうすることだけにすがりついておればいい)

 ただ、それすらも本当に必要なことなのだろうか。急にじっとりと汗ばんでくる。

 鶴夫の言う通りかもしれない。

 鶴夫はあの過去の出来事をきっちり胃の腑に落としこんで、きれいさっぱり消化しきったのだろう。中尾のようにあの出来事を忌むべきものと嫌悪し目を背け、あるいはちとせのように己を責め苛んで無闇やたらと過去の罪をずるずると引きずるだけの生き様でもない。

 過去とは文字通り、とうに過ぎ去った時間のことだ。毎分毎秒ごとに後ろに置き去りにしてきた瞬間の集まりでしかない。しかし、それらの時間は無視してもよい類のものではなかったのだ。鶴夫はできた人間だった。そのことを重々心得ている。いや本来、人は自ずとそう生きるものなのかもしれない。そうしてこなかった中尾やちとせが尋常でないのだ。

 人生のまさにいまこのときこの瞬間に己の爪痕を刻みつけるのは、ときに下らぬほど平々凡々とした、ときに光り輝かんばかりの誇りに満ち満ちた、種々雑多、価値無価値の織りなす足跡を日々背後の道のりに残してきた「いま現在の自分」に他ならないのだ。足跡を残してこなかった者など皆無だ。生を受けてからひたすらつづく足跡の、最後の一歩のところにいま人は立ち、そしてそこが常に出発点となる。自分が歩いてきた道があるからこの瞬間もここに立てている。堅い道を踏み外してきたことがあるか? ぬかるみばかりにはまってきたか? それがなんだというのだ。なぜ恥じる? なぜ目を背ける? あるいは過ちを犯したからといってなぜ執拗なまでに罪の意識に自らがんじがらめになるのだ? そんなものに固執して、新しいいまこの瞬間の一歩をふらふらと見誤ってどうする?。

 ただ、そんなことに気づいたところで、この自分、次の一歩がどうなるというのだ。いまさらだ。果たして俺に上手な次の一歩を踏み出す生き方が可能だろうか。できるわけがない――。

 少し前の中尾ならそう思っただろう。だがいまの自分はちがう。中尾は思わず自嘲した。

(あいつめが、この俺の手本になろうとはな)

 それは鶴夫だ。

 鶴夫は善三に対して薄情だろうか。不義理をしているだろうか。そんなわけがない!

 かつて苦労を背負わせてしまった弟分が、いまなんのしがらみもなく生き生きとしていることに中尾は喜んでいる。しかも善三を偲んで彼の故郷に骨を埋めようというのだ。あの世の善三が喜ばないわけがない。昨夜の夕飯の後、ごく普通の、本当に血を分けた兄弟のように酒を酌み交わし、善三と三人だけの数少ない思い出を語り、笑いあった。鶴夫は思い出を慈しんでいた。愛し、爽やかな涙を流していた。中尾も昨晩は、鶴夫と過去を語るときには彼に倣ってみた。

 こんな生き方もいいな、とそのとき中尾は思ったものである。あの日々があったからこそ鶴夫はこの三十数年を積みかさねてきて、「この」今がある。そして自分にも、同じように「この」今があるはずなのだ。さらには中尾にも鶴夫にも、「これから」というまっさらな大地に自分の足跡を刻みつけていく時間が等しくある。中尾は自分の一歩を――次の、そのまた次の一歩をも思い浮かべてみた。

(善さんの故郷に来たというのに、墓参りに行くのを忘れたな。明日にでも行くとするか)

 素直にそう思うことができたのはこれが最初だった。善三はとっくに不義理を許してくれているかもしれない。まだ許してくれていなくても、明日には許してくれるかもしれない。これまでは、許されないものだと自分が勝手に決めつけていただけなのだ。

 いや、そもそもはじめから、許す、許されないなど、そんなものはなかったのかもしれない。不義理を恥として自ら責めつづけてきたことになんの意味があっただろうか。答えは単純だった。結局は自分の考え方次第なのだ。

 用事を終えたら(最初の一歩だ)、真っ先に善さんの墓を参ろう(これは次の一歩)。そのときはあの女も連れていくとしよう(あの女と並んで歩く、そんな一歩があってもいいじゃないか!)。

 それに、自分の言葉で彼女に負わせてしまったその罪の重荷をその肩から下ろしてやらねばなるまい。善さんの死に関しては、彼女が手を下したわけではないし命令したわけでもない。しかし、彼女はいまあらためて、善さんの死のことで自分を責めているかもしれないのだ。

 春野ちとせはそういう女だ。

 ならば墓前に立って、善さんとサシで話させたらいい。きっと善さんなら許してくれる。いや、許すも何もありませんよ──そんな声が聞こえてきそうだ。

 唇の出血が止まった。藍染めのもみじ葉のそばで血が乾き、季節ちがいの色褪せた朱の花を咲かせている。ハンカチを折り返し、綺麗な面を表にした。

 そのとき、中尾はあっと声をあげた。

 現れた面に「松風亭」と今朝までいた旅館の名が入っていた。しかもご丁寧に住所と電話番号まで記されている。あの若い刑事がこれを見落としたとは思えない。となれば、あの女とはもう──。

 路面の凹凸にこつりと突きあげられ、はっと我に返った。だが、次の瞬間にはもう、ふっと全身の力がゆるんでいた。中尾は座席にしっとりと身をあずけた。

(まあいい。どこへでも行けばいい。いずれまた会うことになるさ──必ず、そうなる)

 鶴夫のように生きるには自分もちとせももう遅すぎるのかもしれない、とも思う。いまの自分たちには、やはりきっちりとけじめをつける必要があるのだ、と。

(それこそが俺とあの女の――いや、あの事件に関わった俺たち全員の最初の一歩だ)

 中尾はいま一度、自問した。

(これは善さんの敵討ちか? そのために俺は行くのか?)

(違う、そうではない──ではなんなんだ?)

(そう、通過点だ。俺も春野ちとせも、大室も、真犯人のあいつも、この事件に関係したためにぐずぐず生きてきた誰もが、必ず通らなくてはならない通過点だ。最初の一歩は皆この一点に踏みださなくてはならない。皆、真相に、真実にまずは到達しなくてはならないのだ。真実から背を向けて逃げることはもう誰にもさせない。それからやっと、俺たちはその先へと生きられる――そうだろう、おい?)

 そうだ、と中尾は自分自身に答えた。

 不意に湧いた急く思いを中尾はアクセルペダルに注ぎこんだ。クルーズコントロールが自動的に解除され、中尾の意思が十二気筒に直結される。そのたぎる思いに応えんと、ひときわ高い咆吼を立てた足の下の猛獣が、中尾の背を思いきり前へと蹴っとばした。


     二十


 滝井は腕時計を少し傾けて、まだいくらか残る窓辺の明かりで文字盤を読んだ。

(手こずらせやがって──)

「それは、肯定と受け取ってよろしい、ということですかね」

 振り返り、いらだちを押し隠しつつ再度訊いてみる。朽ちゆく倒木であるかのように、実田誠はソファに沈みこんだままひっそりと息を詰め、倒木であるがゆえ差し迫る枯死を見つめるかのようにその眼差しの焦点を生命の残渣が溶けこむ虚空に定めている。その手の中の湯飲みの存在は意識から忘れ去られ、濁った濃い緑色の水面が傾き、こぼれる寸前だった。暗褐色の調度品が薄闇になじんでいく中で、実田の白い顔がぼんやり浮かびあがってくる。

 滝井は自分の手の中の湯飲みを一息にぐいと飲み干すと、思わず眉根を寄せた。実田が自分で煎れたという茶は濃すぎる。茶の苦みがそのまま滝井の今の苦々しく思う心情に直結した。

「私の話は推測、憶測の類です。物証もない。人から聞いた話と薄っぺらな状況証拠だけ。否定されてしまえば、私とてそれ以上追求はできない。ただ、あなた方の周りで何が起きたか――それを知りたいだけなんですよ」

 滝井は実田の視界の中心に立ちはだかってみせたが、焦点が彼に絞られることはなかった。

 胸の中で携帯が鳴り、滝井は失礼と断って窓辺に立った。相手は須永だった。春野ちとせを無事保護したとのことだった。相槌を打って通話を切ると、滝井は実田に向きなおった。

「大勢が真実を知りたがっているんです」

 滝井は部屋の戸口へまわり、断りもせずにシャンデリアのスイッチを入れた。実田の目が眩しそうに細められた。反応はそれだけだ。

 沈黙も肯定のうち、とも言うが、確かな返事が欲しかった。

 さっき実田の前に提示したいくつかの仮説は、推測ばかりを押しかためて一つの塊にしただけのものに過ぎない。無論、確信はある。しかし誰もが納得するような確証があるかといえば、そこまでのものはない。

 半世紀以上も過去から一つの真実を浮き彫りにしようとすること自体がまず無謀なことなのだ。確証を得るにはさらなる証拠が要るというのに、その大半は時間の経過と共に失われてしまっている。

 犯罪が戦火の中で為された。

 しかし、その物的証拠がいま現在どこに存在するというのか。どうすれば亡者の証言を聞けようか。真相に辿り着けない公算の方が、その逆よりはるかに大きい。

 何者かはわからないが、滝井に先回りして板垣英介の戦友たちを尋ね歩いている者も、同じ苦労を味わっていることだろう。その男も板垣の戦死の状況を聞いてまわっているらしいが、果たして彼も同じ仮説に辿り着けただろうか。あるいは、自分以上に真実に近づくことができただろうか。

 唐突に実田の唇が開いた。

「申し訳ないが、これから人と会う約束があるんです。どうかお引き取り願いたい」

 実田はそう言うと、車椅子を引いて背を向けた。滝井は慌ててその背に追いすがった。

「お認めになりますか。どうなんですか」

 実田は車椅子ごと振り返り、滝井を見上げた。

「どうでしょう? 待ち合わせ場所まで送っていただけるのなら、その問いにお答えしましょう」

 滝井が即答で了解すると、実田は支度をすると言い置いて部屋を出ていった。


 滝井はバックミラーをのぞいた。

 後部席に腰を落ち着けている実田は立てた杖に両手をあずけ、押し黙ったまま、流れる藍染めの住宅街を眺めている。

(俺はお前の運転手じゃねえぞ)

「さて、約束通り答えてもらいましょうか」

 滝井はぞんざいな口調で言った。しかし、実田は滝井の態度など意に介していないようだった。

「その先、突き当たりを左に──真っ直ぐ行くと土手沿いの道路の側道に出ます。そこから少し行った所で降りますので」

 滝井はクラウンを急加速させた。答えを聞くまではこの車から断じて降ろすものかとあらためて決心を固めた。

 ものの一分で実田の指示した農地の脇に出た。こんな所で待ち合わせか、と滝井は訝った。土手沿いの通りを行き交う車の光線が頭上を薙いでいく。ジョギングする人影もすぐに土手の向こうへ消えた。滝井は車を脇へ寄せると、バックミラーに視線を移した。薄闇の中、実田と目が合った。

 ただ、目は、実田のものだけではなかった。実田の顎の先あたりにもう一つ漆黒の瞳があり、滝井をじっと見つめていた。

 瞳ではなく、穴だった。

 心臓が痛いほどにぎゅっと絞りあげられた。滝井は咄嗟にドアのレバーを引いた。車内灯が点った。黒い穴は、黒い穴のままだ。

 銃口だ、と滝井は確信した。

 それはすぐにミラーの視界から消えた。それがいまどこに向けられているかはすぐにわかった。背に当たるシートが微かに盛りあがった。

「待て──」

 滝井が叫びかけたときだった。肩胛骨が何度も鋭く、押し、捻り、突かれ、肉の中で骨が破砕したような感覚があった。

 視界は網がかって暗転しかけていた。同時に、激しい耳鳴りが天地を逆転させた。感覚器が混乱下にあっても、滝井はいま何が起きているのかを難なくすべてを理解できていた。

 撃たれた。そして、背中から侵入してきた銃弾が一斉に体内で暴れだしている。

 もがき振りまわした手に何かが触れた。助手席に置いた鞄だった。その鞄に実田の手がのびてくるのが見えた。滝井は痛覚ばかりが荒れ狂う意識の中から手先の感覚を懸命にたぐり寄せ、奪われぬよう鞄を抱きかかえた。途端に、今度は脇腹が内から破裂した。それも二度か三度――まだ続く、まだ続くのか! それでもどうにか意識が途切れぬように自らを叱咤し、アクセルペダルを蹴飛ばすように踏みつけた。一瞬遅れてクラウンの鼻先がぐいと持ち上がった。銃撃がやんだ。滝井はこれが最後の力だろうと確信しながら、残る気力を振り絞って開きかけたドアから車外へ転げ出た。

 アスファルトの上を転がりながら、畜生と何度も罵った。だがその憤りもすぐに凍えるような寒さの中に薄れていった。鞄がひとりでに開き、書類やメモが風の中に散らばっていった。それらが次第に何かの液体で濡れていくのを滝井はじっと見ていた。ああ俺の血か、とふと気づいたとき、視界が閉じた。


 惰性で転がりつづけた車は、バンパーとフロントグリルを沿道の電柱にゆっくりめりこませてから停止した。

 実田は杖を頼りに車外に降り立った。後方を振り向いて目を凝らすと、風に踊る紙片の中で黒い塊が地面にへばりついていた。土手から人が駆けおりてきて、真っ直ぐに塊のところへ向かっていくのが見えた。実田は書類の回収を諦め、車から急いで離れた。

 登りきれそうにない急坂を避け、薄闇の中を杖とガードレールを頼りに歩きつづけた。拳銃を発砲した際の痺れがまだ手から肩にかけて残っていた。この痺れも耳鳴りも、硝煙の臭いも、自分の人生に染みついてしまっているものだ。意識すればするほど、それぞれの銃声がひっきりなしに脳裏を駆けめぐらんとする。

(くそ──うるさい、うるさいッ)

 そう叫びかけた刹那、実田の脳神経回路はある一つの銃声の記憶を耳の奥でこだまさせていた。途端に、そのときの光景が視界一杯に映しだされた。音も、臭いも──。

 

     二十一


 臭いとは、もうもうと立ちのぼる土埃の臭いだ。

 音とは――当然、銃声だ。

 実田は地面に伏せていた。誰もが地面に伏せていた。

 頭のすぐ上を過ぎた銃弾が小さな衝撃波を実田に見舞っていった。実田はおびえ、顔面を土にめりこませ、這いつくばっていた。指示を出す板垣の怒号とそれに答える者たちの悲鳴めいた返事が飛び交っていた。兵たちはそれでも飛来する銃弾と銃声の間隙をついて、申し訳程度に盛り上がった水田の畦に沿って散開していった。実田はだけは動けなかった。

「誠──聞こえてるか誠ッ、実田少尉ッ」

 その声に実田は顔をあげた。

「伏せてろ、馬鹿者ッ」

 実田は咄嗟に顔の形に窪んだ土塊に顔を埋め戻した。その間も、板垣の指示と自信を取り戻しつつある兵たちの応答が聞こえる。やがて板垣が転げるように実田のそばへ這ってきた。

「敵は向こうの林の中だ。待ち伏せだ。十時から二時の方向に展開してる。一個小隊程度。俺たちと大差ないだろう。だが、火力はこっちが勝っている。奴らを潰すぞ。いいな?」

 実田は頷いた。板垣はにやりと笑った。

「少尉殿、銃はどうした。どこに落としてきた」

 実田は首を捻ってどうにか振り返った。雑草の中に小銃の銃床らしいものが見える。遠い。実田は腰からブローニングを抜いた。

「そんな豆鉄砲は貴様の最期のときに使え。とりあえずはこれを持ってろ。いくらかマシだろう」

 そう言って板垣は自分の拳銃を放ってよこした。官給品の十四年式拳銃である。銃把には無造作に「板垣英介」と刻んである。実田は震える指でなんとか遊底をつかむと、一息に引いて離し、最初の弾薬を装填した。全身に熱い汗が噴きだした。

「無理して撃たんでいいぞ。少尉殿は高見の見物でもしててくれ」

 板垣はにやりとすると、再び兵たちに向きなおって次々と指示を出しはじめた。実田は畦のわずかな斜面に腹ばいになった板垣の背を見つめた。奥歯を噛み締めて震えを止めようとした。

 板垣は高々と挙げた手を前方に振った。兵たちが一斉に威嚇の叫声と銃撃を開始する。いつの間にか設置された味方の機銃が敵の潜む藪を掃射しはじめた。

 敵の貧弱な銃座が黙った。

 大気を震わす無数の衝撃波をものともせず、板垣の野太い腹からの雄叫びが空に轟いた。

 板垣が畦の上に仁王立ちになり、そして駆けだした。

 大柄な身を半分に折ってほとんど地を這うようにしてジグザグに走る板垣の背中を、実田は目で追いかけた。機銃兵と実田を残して、視界一杯に横一列になった兵たちが畦を飛び出していった。

 一○○式機関短銃を構える板垣の向こうで――ぱっと薄く広がった硝煙のずっと向こうで――敵兵が二人まとめて倒れたのが見えた。視界の隅で、味方の兵も三人倒れたのを見た。だが、なおも板垣は先陣きって突き進んでいった。

 実田は十四年式拳銃の細い銃把をきつく握りしめ、板垣の背に目を凝らした。板垣はもうただ一直線に林の中へ駆けこもうとしていた。いつの間にか真っ直ぐにのばした実田の腕の先で、照門の狭間に照星がゆっくりと下りてきていた。このとき、手の震えは完全に止まっていた。


     二十二


 ナイフの切っ先が納骨棺を塞ぐ蓋石の隙間に突きたち、砂を噛みながら目地を切っていく。

 早川はナイフの刃をたたんでポケットにしまうと、蓋石をずらした。カロートに月を背負った影が落ちこむ。早川は腹ばいになって穴の奥へ手を突っこんだ。

 比較的新しい納骨袋を脇にのけ、奥の方を手探りする。触れると、風化していてぐずぐずと崩れていくものもあった。

 最奥部で指に硬いものが触れた。そのあたりにある骨はどれもが重く硬かった。すぐに球状のものに触れた。早川はそれをカロートから取りだし、月光の下に曝した。

 しゃれこうべの額から頭頂にかけて穴が空いている。板垣英介の頭骨である証拠だ。

(鉄帽がいきなりぶっ飛んだんだ)

 板垣の戦死を目の当たりにし、さらに、連隊最後の戦いとなったコヒマの敗戦を生きのびてきた者たちの証言を早川は聞いてまわった。

 板垣は敵陣からの銃撃をものともせず突進し、そして、ついには倒れたという。

 遺体は後方陣地へ運ばれ、積みあげた薪とガソリンで火葬された。遺骨は後に負傷療養のために内地還送された同郷の者の手によって故郷へ帰っていった。

 骨格がもともと頑健だったことに加え、戦地での火葬では焼きが十分ではなかった。このカロート内の他の遺骨と比べて風化の程度が小さいのはそのためだろう。予想した通りだった。

 早川は頭骨をひっくり返し、うなじのあたりをつぶさに検めた。果たして、そこに小指の先ほどの丸い穴があった。触れると、穴の縁がわずかに崩れ、比して大きい額の穴へと落ちていった。

 急激な動悸の高まりを覚え、早川は骨を胸に抱いたまま墓石の前でうずくまった。

 十数分のうちに、月光が傾いで梢の向こう側にまわりこみ、枝とともにゆらいで見えるようになった。早川は胸の痛みが遠ざかっていったのを再度確かめた。

 気を静めてから、もう一度頭骨を眺めてみた。

 板垣を知る者たちが言うには、板垣という男は風貌と立ち居振る舞いそのままの自信家だったという。常に先頭きって雨あられの銃弾に飛びこんでいくのだが、弾が当たらない。銃弾が俺を避けていくのだ、と豪語していたという。たまに希有な弾が彼の身体を遠慮がちにかすめていくときがあっても、板垣は傷に唾を吹いて包帯で縛っただけで、また次の戦闘ではど真ん中で大暴れしているのだという。そんな彼は、所属している歩兵第五十八連隊の兵卒たちの憧れのみならず、連隊の故郷新潟の英雄でもあった。

 その男もいまや、この惨めに茶けたただの骸だ。

 早川は板垣の頭蓋骨をカロートに戻し、敷石の蓋をした。そして手早く防水処理をして数本の線香を焚き、跪いたまま墓石に手を合わせた。

 死は惨めでしかない、という思いが早川にはある。死に殻以外の何も残さない。他に何も残すことができない。

 ただ、板垣という男がこうして死んだからこそ、自分はあの人を思い慕うことができるのだ。

 思いがけず浮かびあがった不謹慎な考えを早川は恥じた。恥の念が心臓を動揺させた。堪えて合掌に力を込める。しかしそれもままならなかった。早川は突っ伏すようにうずくまった。胸の真ん中を鷲づかみにして、胸骨を割って飛び出してきそうな心臓を押さえこもうとした。

 すべてを明らかにするにはまだ時間がかかる。だが、なんとしても終わらせなくてはならない。あの人のためにも。

 身を悶えて胸の苦痛と闘っている最中、早川の意識は不意に諦観の一色に塗りかえられはじめた。

(もう、終わりなのか――)

 闘うことをもうすべて諦めかけた頃、心臓の荒波は波紋を一つ打って遠ざかっていった。

 いまは幸い発作はおさまったが、早川はもはや自分の体を信用できなくなっていた。なんにせよ、この体には残された時間があまり多くはなさそうであることだけは確かなようだ。早川は携帯電話で一つの番号を呼びだした。

(この方になら託すことができよう――)

 呼出音が鳴りはじめ、早川はその音に耳を傾け、心を静めていった。

 

     二十三


「出ませんか。それ、繋がってるんですよね? くそッ」

 須永はサイレンと風切り音に負けじと声を荒げた。急いた思いが幾分責める口調にさせている。赤色回転灯が関越道の流れ去る路傍の防音壁をしつこく照らしだし、そのいちいちが血しぶきを連想させた。アクセルへの踏力には口調以上に歯痒い焦燥が込もる。踏んでも踏んでも、果たして前進してくれているのだろうかとさえ思う。

 助手席のちとせはただ携帯電話の受話口に耳を押し当てているばかりだ。

「あのジジイ、何してやがんだよ。どこに消えやがったんだッ」

 須永はハンドルを力任せに叩いた。スバルレガシィは敏感に反応し、車体が左右にぶれた。悪態をつきながら慌てて小刻みに修正舵を入れ、再び安定を取り戻す。助手席でちとせが緊張を解いてそっと息をつくのを聞いて須永は我に返った。

「すみません、自分としたことが――少し落ち着きます」

 滝井襲撃の報は新潟県警を経由して須永に伝えられた。額が冷たくなるほど血の気が引いた。

 須永が動揺している間に、大室は姿を消していた。そのことがなおも須永を混乱させた。そして、やっと下すことができた決断は、とにかくすぐに滝井のもとへ駆けつけることだった。

 春野ちとせの事件はまだ終わっていなかったのだ。

 そう考えると、ちとせのうつむいた白い横顔が恨めしいものに思えてくる。頭に血がのぼってくる。顔も見たくない。

 かといって地元署に身柄をあずける気も起きずにいた。須永の胸に、この女をもっと責め、なじりたい思いがあった。それ見たことか、あんたの犯した罪がいまでも連鎖して無意味な血が流されつづけているんだと、滝井が被った惨劇を眼前に突きつけてやりたかった。

 だからこの女を連れていくのだ。

「滝井はあなたの事件に関連して、一人で調査を進めていました。襲われたのも、板垣を名乗る者について調べていた最中のことだと思います。私ははじめ、あなたのご主人が手紙の主だと考えていましたが、こうなってみると違っていたようです。滝井は別の線を辿って真相に近づいた――あるいは突きとめたのでしょう。だから――だから撃たれたんです」

 須永はちとせの表情をちらとのぞき見た。何かを隠しているときの表情と、ただ困惑するばかりのそれとの見分けは容易につく。起きている事態を理解することもままならず、とにもかくにも自身を責め苛んでいるその表情はなおわかりやすい。

(この女を責め立てても──しかたがないのか)

 意識的に眉根を寄せていた力をゆるめると、胸中のささくれも幾分和らいだような気がした。須永はせめてもの慰みと思ってちとせに声をかけた。

「滝さんってのはいかついオヤジでしてね。ちょっとやそっとのことで死んだりなんか――」

 不意に言葉を切った。津波のように襲い来る不安に自分こそが無力だった。支給の携帯電話に滝井に関する続報が届いてこないことがせめてもの救いだった。その報せが永遠に届かないことを祈りながら、須永は気を奮い立たせた。

「少し飛ばしますッ」

 

     二十四


 サイレンとボクサーサウンドが織りまじった音が、低くゆがみつつ急速に遠ざかってから、もう小一時間ほどが経っていた。

 関越自動車道上里SAは閑散としていた。歩道に立つ大室の前を一台の車がゆっくり止まった。運転者は確かに見た顔だった。大室は「連れ」が来たからと自分がここまで乗ってきたタクシーに金を払って帰させ、その「連れ」の車に乗りこんだ。

「ご足労ありがとうございます。それにしても、良い場所で落ちあえたものです」

 早川忠雄は一礼し、慇懃に答えた。

「それはどういう意味だ――いや、それより、あんたはなぜ俺の番号を知ってる?」

「かれこれ三十二年、ずっと実田に仕えて参りました。つまり──どういうことかおわかりでしょう?」

 大室は淡々と答える早川の横顔をまじまじとみつめた。

「俺を見張っていたということか。いつでも殺せるように」

「いえ──むしろ、あなたは我々の側におられる、という認識でございます」

「あんたらなんかと一緒にしてほしくない」

「では、失礼を承知の上で」

 早川はあらたまって大室に向き直ると、深く頭を下げた。

「いま、どうしても、大室さんにご助力願いたいのです」

「実田の命令か」

「いいえ。自分の考えで動いています。それゆえ、こうして――」

「なんのためだ」

「道々お話しいたしましょう」

「まあいい。だが、一つだけいま答えてくれないか」

 大室は早川を正面に見据えた。

「つい二、三時間前、新潟県警の滝井という刑事が撃たれた。襲ったのはあんたか」

「――どちらで」

 早川は声を落とした。

「東京だ。現場は目黒の等々力だ」

 早川の視線が前方へとゆらいだ。

「私は長岡から参ったところです。だからこの場所を大室さんとの待ち合わせの場所にしたわけでして」

「滝井は板垣英介のことを調べていたそうだ。虎の尾を踏んだのかもしれんな。あんたではない、となると──」

「お察しの通りでしょう」

 早川はぼんやりつぶやくと、我に返って顔をあげた。

「ゆっくりなどしていられません。すぐ東京へ向かいましょう」

 

     二十五

 

 背側の肋骨と肩甲骨を砕いて体内に入った五発の銃弾は、欠けた骨片ともども肺と腸管と肝臓に十数カ所もの穴を穿っていたという。

 手術はいまだ継続中だった。

 須永は制服警官に呼ばれ、小部屋の一つへ導かれた。そこには二人の刑事がテーブルの上に滝井の所持品を並べていた。彼らは須永に気づくと場所を譲った。

「これ、わかる? 彼、何調べてたの?」

 一人が不躾に訊いてきた。

 それは、大判のビニール袋に収められた朱染めの書類や走り書きしたメモ用紙だった。どれもが血で濡れていて、ビニールの内側に張りついている。須永はゴム手袋を受け取ってはめると、袋の中身をそっと取りだした。鼻先にまとわりつく血の臭いが滝井の遺志に感じられた。書類を一枚ずつ広げながら、須永は刑事らに言った。

「何かわかったらすぐに知らせますので、ここは私に任せてくださいませんか」

 捜査員たちが部屋を出ていくのを見届けると、須永は自分のメモ帳を取りだし、いつの間にかあふれだした涙に霞む文字に必死に目を凝らしながら一字一句を書き取っていった。


     二十六


「おい、大丈夫か」

 大室に声をかけられて、早川は暢気にもぼんやり景色を眺めていたことにはじめて気づいた。景色といっても、助手席の車窓から見えるのは流れていく水銀灯の明かりだけである。実際、景色は背景に過ぎず、早川の目に映っていたのは幻影だった。

「顔色が良くないんじゃないか」

 大室に心を読まれないように、早川は再び車窓の外に視線を戻した。

「病は気から、というやつの仕業でしょう。どうも考え事が良くないようです」

 早川は胸をさすった。思いつめると胸が痛む。

「何か楽しいことでも考えてろよ」

 大室の気遣いがおかしく、早川は笑うのを堪えられなかった。不謹慎にも笑ったことへの無礼を謝ると、大室も一緒になって喉を鳴らして笑いだした。

「いえ、いまはそれはやめておきましょう」

「それじゃ――あんたの話は済んだな? 俺の見聞きした話とも整合性がある。そこまではいい」

「そこまでは──というと他に何か?」

 そう問うと大室は押し黙ってしまったが、やがて意を決したように口を開いた。

「あのとき――俺たちに、他に最善の策はあったと思うか。いつも考えてみるんだが、どうしても思いつかない。俺たちはそろいもそろって考え足らずで、ああするしかないもんだと思いこんじまってたんじゃないだろうか」

「罪を犯すとはそういうことです。本当の幸福を知らない者たちが為してしまう行いなのです」

「本当の幸福などあるものか」

「ええ、だから大抵の人はいとも容易く罪の側へと転げおちてしまうんですね」

「皆、自ら不幸を背負いこんでいく――瀬野創一郎の言う通りだな」

 大室がつぶやいた。早川は少し思案してから口を開いた。

「因果というものが世の理であるのなら、あのときの私たちに選ぶべき道などなかった――私はそう考えます」

「そうでなきゃやりきれん」

「もし、いま、因果の端緒に遡ることができたとしたら──」

 口を衝いて出た言葉だったが、早川は言いよどんだ。

 いま、過去に遡ると言ったか? 不可能事に希望など見出そうとしていまさらどうなるというのだ。因果の端緒だと? そんなものをどうやって見つけられる? すべては連続している。どこが端っこだというのか。それに、いつだって自分たちの目の前には見渡す限り結果しか存在しない。物事のはじまりなどない。何かがはじまったと気づいたときには、それはもう別の何かがそれと気付かぬうちに終焉を迎えた結果を見ているに過ぎないか、あるいはもうすでに事が起こってしまっている真っ直中で途中で止めようにも止められないものなのだ。

「無理な話だな」

 大室が鼻で笑った。早川は思わず口走ったことを恥じ入った。

「だが、いますべきことはある。それは俺もあんたも、あの人もいま望んでいることだ。真実を白日のもとに晒す――それがいまできる最善の策だと俺は思う。俺たちがいつの日か先の道を選べるとしても、まずはそれが済んでからだ」

「ええ」

「先の道など――首を洗って待つ思いだ」

 大室が独り言のように言った。

 早川は目を閉じた。脳裏に再び春野ちとせの幻影が映しだされる。三十二年間の変遷がめぐる。どの場面のちとせを思い浮かべても、胸が締めつけられた。

 その胸の中で携帯電話が唐突に鳴りだした。早川は表情をこわばらせて応答した。

「はい──何用でしょう──」

 早川は長く受話口に耳を傾けていた。

「しかし──わかりました、すぐに──すぐに向かいます──はい」

 早川は通話を切った。心臓が小さな爆発を繰り返していた。

「大室さん、もう少し急げますか」

「どうしたんだ」

「どうか、急いで。お願いします──できる限り早く、もう一刻の猶予もない」

 早川は目をきつく閉じた。


     二十七


 ICU前のベンチに座っていたちとせが、須永の足音に気づいて立ちあがった。須永は「手術中」の赤ランプを見上げた。

(点りっぱなしだ――)

 胸から鼻、目の奥に再び熱がこみ上げてきそうになる。そして、須永は意を決してちとせに向きなおった。

「真実を知りたいですか」

「はい」

 ちとせは即答した。

「あなたにとって良い話ではありません。それでもいいですか」

「構いません」

 須永はちとせの潤んだ目をじっと見つめた。ちとせは食い入るように見つめ返してくる。

「覚悟はできております」

「では、参りましょう」

 ちとせは、はいと頷いた。




    第七章


     一


 暗闇でかちりと音がし、両袖机の端でバンカーズランプが点った。

 中尾はランプを持ちあげて緑色の笠を傾け、戸口の暗がりに光を向けた。老人の顔が薄闇に浮かびあがる。痩けた頬が黒ずんで見える。その頬が動いた。

「お前か」

 老人はそう言って特段驚きもせず書斎に入ってくると、戸口のすぐ横のポールハンガーに脱いだソフト帽を掛け、マフラーを解いた。コートは脱がなかった。

 中尾の意識の隅に何かがこびりついた。何かはわからなかった。大事なことのように思えたが、別の奔流に押し流されるように無意味な言葉が口を衝いて出た。

「あんたが実田さんだな」

 返答はなかった。中尾は革張りのデスクチェアにふんぞり返った。

「勝手にあがらせてもらったのは悪いと思ってるが、この歳、この時期、夜の冷気が体にこたえるんだ。あんたもそうだろう?」

 中尾はランプを机に戻し、革の肘掛けに手を置こうとして掌がぬるついているのに気づき、その妙な汗をズボンで拭いた。

「二つ、三つ聞きたいことがある。というより、願わくばあんたから自発的にあらかた喋ってもらいたい。それが手っ取り早いだろう。お互い、歳も歳だ。乱暴なことは好きじゃないだろう?」

 中尾はそう言いつつ、再びランプの笠を傾けて光条を実田に向けた。

 痩せ細ってもなお肩幅と背丈を残す老体の全身が照らしだされ、真っ黒な影が実田の背後の壁に広がった。中尾ははっとして椅子から腰を浮かした。しかし、立てつづけの破裂音と同時に中尾の上半身は弾かれるようにのけぞり、再び椅子の背に深く沈みこんだ。

 硝煙の臭いが部屋に漂った。

 中尾は傷口に目をやった。脇腹をかすめた銃弾は腰の上へと貫通して、血をじとじとと漏らす穴の中は熱く焼けるようだった。肩から入った弾は体内で鎖骨を砕いて留まっていた。その穴からも鼻をつく臭いが立ちのぼっている。そこに血の臭いも混じりはじめた。手にしていたハンカチで脇腹の穴を押さえてみたが、すぐにハンカチは濡れそぼってしまった。また、背中と肩から流れる血を止める術は中尾にはなかった。

 実田は右手にだらりと拳銃を提げ、左手の杖で床を踏み鳴らしながらゆっくりと窓際の電話台に歩み寄り、その脇の椅子に座って電話をかけはじめた。

「私だ。すぐに戻れ。手伝ってもらいたい──私一人では無理だ。お前が要る──いいから、早く戻ってこい──ああ、頼む」

 受話器を置いた実田は、机をまわって中尾のすぐそばへ立った。中尾は椅子ごとあとずさったが、すぐに背が書棚に突き当たった。

 実田は中尾を無視して袖のひきだしに鍵を挿して開け、紙の箱を取りだした。中には拳銃の弾が入っていた。大半の薬莢には緑青が吹いており、鉛剥きだしの弾頭も白く錆びている。実田はその中から保存状態の良さそうなものを選びだし、十四年式拳銃の弾倉に込め、錆びがひどいのを除いて残りの弾薬をコートのポケットに突っこんだ。

「あんたはさっき──俺のことを知ってた──俺もあんたを、知ってる――はずだった」

 中尾は比較的痛みの少ない姿勢を保ちながら言った。実田は答えなかった。

「善さんを殺したのはあんただ──善さんは、瀬野のことを調べてた──」

 実田は弾倉を銃把に叩きこむと、中尾に背を向けた。中尾は声を振り絞って怒鳴った。

「善さんは、あんたのところへも行ったはずなんだッ――その後、あんたは俺のところへ来て、俺を──撃った──」

 実田は中尾に構わず部屋を出ていった。中尾の言葉の最後は独り言のようになった。手がぬるぬるしていた。さっきと同じ汗だと思いこもうとしてズボンで拭いた。だが、汗が赤い色のはずはない。

 タオルの束を抱えて戻ってきた実田は、それを中尾の傷口にあてがい、再び部屋を出ていった。中尾はランプの光条の下で舞う埃を見つめながら時間が経つのをただ感じていた。傷口を押さえたタオルが次第に重くなっていく。

 実田はビニールシートを持って戻ってきた。それを隅の床に敷き終えると、中尾の椅子の背にまわってシートの方に押していった。

「そこに座れ」

 実田はそう言って椅子をゆすった。

 二畳ほどの厚手のビニールシートだ。

 中尾は背後の実田を睨みあげたが、無表情な視線に跳ね返された。それでも肘掛けにしがみついていると、椅子を傾けられ、中尾の体は為す術なくシートの上に転げ落ちた。その拍子に血がシートに散った。

 実田は椅子が空くとすぐに革張りを濡らしていた血を雑巾で拭いだし、貫通した銃弾による破れに気づいて舌打ちをした。次いで、書棚に飛んだ血痕に目を凝らして拭きとり、さらには床の血だまりを無造作に拭きはじめた。

 中尾はわざとらしく喉を鳴らし、血の混じった痰唾を床に吐いた。実田は顔をあげて眉を持ちあげると、杖を含めた三本足で突き進んできて杖で中尾の頬骨を打った。中尾は悶絶したが、すぐに精一杯の嘲笑の笑みを実田に向けてみせた。

 実田のこめかみに筋が立った。コートのポケットから銃を取りだし、いきなり中尾を撃った。

 中尾は悲鳴をあげて砕けた膝を抱えこんだ。何度目かの悲鳴が肺から絞りだされると、不意に全身がぐにゃりと弛緩し、すべての痛みが急速に引いていった。


     二


 ちとせに車で待つように言って降りると、須永は半開きの鉄門に体を滑りこませた。

 三度呼び鈴を押したが応答はなかった。だが、二階の窓からは微かな光が漏れていた。ドアは施錠されていない。須永は腰のホルダーから伸縮式の特殊警棒を抜いて振りだし、ドアを開け放った。なんの気配も感じられないことを確かめると、警棒を青眼に構えて中に入り、後ろ手にドアを閉めた。

 まず一階の各部屋を検めていった。どこもかしこも冷えきっていて、ぴたりと空気が閉ざされていた。台所だけはかろうじて温度があった。冷蔵庫が静かにうなって空気を震わしている。テーブルに据えつけた手回しの豆挽き機が香るが、微かに流し台からの生ごみの臭いがまざっていた。須永は廊下に出て、階段をあがっていった。

 廊下の床が鳴り、須永は足を止めた。静寂が戻っただけだった。明かりをこぼす最奥の部屋に視線を戻し、慎重に足を運んでいった。

 ドアの隙間から中をのぞくと、緑色の電灯の笠が淡く発光しているのが見える。その明かりの下で何かが動いた。

「おい」

 呼びかけると、返事ととれなくもないうめき声が返ってきた。

 須永は再び部屋の中に視線をめぐらせた。微かに硝煙と血の臭いが流れてくる。脳裏に危険信号が点ったが、後戻りをする気にはなれなかった。

「警察です。中に入ります」

 須永はなおも警戒してそう言うと、椅子やテーブル、机の配置を確かめ、身をかがめて部屋に入った。一足ごとに床が鳴った。須永は耳を澄ました。自分の足音でない床鳴りがあれば、咄嗟に物陰に飛びこめるように爪先立ちで進んでいった。

 血がいっそう強く臭った。ビニールシートに這いつくばった男が微かに脈動していた。事態が飲みこめそうで飲みこめなかった。男がシートの上にいる理由に囚われながら、須永は自棄糞気味に警棒を構えて一息に間を詰めた。血に染まって変色していたが男の服に見覚えがあった。須永は慌てて男の体を起こした。

「あんたかッ──一体──」

 床のきしむ音が廊下からこの部屋へといきなり駆けこんできた。反応する暇もなかった。きしみの上から圧倒的な銃声が覆い被さった。須永は息を詰め、ゆっくりと振り返った。

 拳銃を構えた男が戸口に立っていた。

「その棒きれを向こうに放れ。警官なら手錠を持っているな? それを自分にかけろ。そこの椅子の背にまわすといい。さあ──」

 実田の手元から再び炎がほとばしった。須永は轟音に思わず首をすくめた。耳鳴りを聞きながら、ぶ厚い法律書の背表紙に空いた二つの穴を見つめた。そして諦めて警棒を部屋の隅へ放り投げ、ジャケットの裾をめくって手錠を取りだした。

「ゆっくりだぞ」

 実田は静かに言った。須永は中尾から離れ、椅子のそばに立った。

「病院に連れていかないと、出血が──」

「放っておけ」

 実田はさえぎって言った。須永は食いさがった。

「まだ罪を重ねるつもりか。あんたのやってきたことはもう隠しきれないんだ」

「まずは手錠だ」

 銃口が催促した。須永は言う通りにした。手錠で両手首と繋がれた椅子の背の柱を握ってみたが、アンティークの椅子は振りまわすには重すぎた。実田は近づいてきて須永のポケットを探り、手錠の鍵を抜きとった。その間も十四年式拳銃の銃口はあやまたず須永の脇腹に据えられていた。

「骨董品じゃないか、そんなもの。いつか弾詰まりして暴発するぞ」

「扱いには慣れている」

 実田は拳銃の弾倉を引きぬいて弾を補充しはじめた。そのとき、廊下がきしんだ。音は近づいてくる。実田は杖をついた老人とは思えぬほど素早く須永から飛びすさって、弾倉を叩きこんだ拳銃を暗闇の戸口に向けた。

「だめだ撃つなッ」

 須永は叫んだ。戸口で小さく女の悲鳴があがった。実田は一瞬躊躇し、暗がりに目を凝らした。

「誰だ」

「おじさま──」

「──君か」

 実田は我に返り、拳銃を背に隠した。だが、ちとせの視線はすでに須永にかけられた手錠に移っており、そしてすぐに床の中尾に留まった。ちとせは息を呑んだ。

「来るんじゃない」

 須永が口を開くよりも早く実田はぴしゃりと言い放った。だが、ちとせは制止を聞かず、手にしていたリュックサックを放りだして中尾に駆け寄った。実田は苦い顔をしてあとずさり、電話台脇の椅子に力なく頽れた。

「須永さん──中尾さんの血が止まりません」

「押さえるんです。とにかく押さえて」

 須永の言葉にちとせは頷くと、すでに滴るほどに血を含んだタオルで中尾の脇腹の傷口を押さえた。

「手を出すな。君は帰りたまえ。ここで見たことはすべて忘れるんだ。さあ、出ていけッ」

 実田はいらいらと声を荒げた。須永は実田に言った。

「ちとせさんは真実を知るために来てるんですよ。いま、あなたはすべてを語るときなんです。あなたの口から」

 その言葉に、実田はちとせの視線を受けとめたがほんの数瞬でしかなかった。実田は逃げるように視線を手の中の拳銃に落としこんだ。

「語ることなんてない」

「だったら私がかわりに全部明かします。滝井がやろうとしていたことを──」

「ならん」

 憤怒のこもった眼差しと銃口が須永に向いた。須永はそれらを交互に睨み返した。

「ぜひ、話してもらいたいね」

 床のあたりから声がした。中尾が気だるそうに身を起こしていた。

「中尾さん──」

 中尾はちとせが傷口に押さえているずぶ濡れのタオルを取りあげて自分で持ち、両袖机の上を顎で指した。

「俺のアタッシュケース──中に、あんたが作ってくれた──それを」

 ちとせは頷いてケースからハンカチの束を取りだしてタオルのかわりにそれぞれの傷口にあてがった。中尾は一つ深く息をついた。ハンカチはみるみる血を吸っていった。

「強く押さえるんですよ」

 須永は再度、ちとせに指示した。ちとせが震えた声で答えた。

「やってます、でも──」

「タオルでもなんでもいい、探してきてください──それくらい構わないでしょう、実田さん?」

 実田は手を振って了承した。ちとせは急いで部屋を出ていった。


     三


 ちとせは洗面所で見つけたタオルを両腕一杯に抱えると次に台所へ向かい、片っ端から戸棚を開けて応急処置に使えそうな物を探しはじめた。

(ああ、おじさま──おじさまが、なんてことを)

 沸騰する熱湯の泡のように次々にふくれあがっては弾けとぶ思考にかき乱された胸が、火傷にただれたようにひりひりとする。ちとせは歯を食いしばった。

 棚の隅の粘着テープに目を留めて爪先立ちで背伸びしたとき、ちとせははっとして振り向いた。廊下の暗がりに人影があった。

「ちとせさん」

 聞き覚えのある優しい声だった。不意に腰が抜け、ちとせは床に座りこんだ。台所に駆けこんできたのは確かに大室賢悟だった。

「大室さん──上で──」

 大室の背後で階段を駆けあがる足音がした。ちとせは大室の肩越しに廊下の暗がりへおびえた視線を送った。大室の連れだろうか──その間に、大室はちとせが抱えていたタオルの束で事態を察したか、ちとせが取ろうとした粘着テープをつかみとると早口で言った。

「ここにいてください」

「いえ、私も行きます」

 ちとせは毅然と立ちあがろうとした。だが、足に力が入らなかった。

(この意気地無し、早く立ちなさい――)

 ちとせは焦燥に駆られながら自分の震えるばかりの両足を叱りつけた。と、ちとせの顔の前に、大室のぶ厚い手が差しだされた。だが、ちとせは人の手を借りたくなかった。もう十分すぎるほどに人に甘えてきた。その結果、多くの人々を自分の不幸に巻きこんでしまってきた。

 しかし、ちとせは大室に腕をつかまれて一息に無理矢理立ちあがらされた。そうされてはじめて自分の足がなんとか機能しはじめたが、それでもちとせの忸怩たる思いは余計に募った。

 大室はちとせの両肩をつかんでゆすり、顔をあげさせた。

「歩けますね」

「はい、大丈夫です」

 ちとせはあたふたと散らばったタオルの束を胸に抱えると、大室に腕をがっしりとつかまれて半ば引きずられるように二階へと向かった。

 部屋の前で大室が立ちどまった。さっきは気づかなかったが、いまはちとせの鼻にも硝煙が臭った。

「入ります。撃たんでくださいよ」

 大室はぶっきらぼうに中へ呼びかけると、自分の体をちとせの盾にしながら部屋に踏みこんだ。その広い背からちとせが顔を出すと、大室に向けられていた銃口が途端にまごつきはじめた。

「そのタオルをこちらにいただけますか」

 つい数日前にも聞いたことがある声に、ちとせはどきりとして振り返った。その男は背を向けて床に膝をつき、中尾の傷を検めていた。男はタオルの束と粘着テープを受け取ると、手際よく中尾の傷の止血をしていった。

「わけは後で話しますから」

 男はそう言った。ちとせはくらくらしてきて額に手を当ててあとずさりした。

 三十二年間、毎月末に必ず訪れる店の常連客――来店のたびに、さして刈る必要のないほど短い髪をさらに五分に刈り、岩のような頬と顎に剃刀をあてるのがお決まりの客。口下手だったが、それはちとせも同じで、むしろときおり交わす二言三言だけの会話がちとせには心地よかった。さっぱりと髪を刈り、顔を剃った後の仕上げにブラシで肩や背をはたいてやっているとき、じっと身動ぎせず為すがままに背をまるめている──その背が、いまこんなところにある。

「早川さん──」

 知らないことが多すぎる。自分はこれから、どれほど多くの真実を知ることになるのだろうか。ちとせは自分の肩を抱き、おののいた。


     四


 タオルを引き裂く手をつかまれて顔をあげると、中尾のどろりとした視線にぶつかった。

「いまはこれを済まさせてください」

 中尾の手をそっと引き剥がしながら早川は言った。

 脇腹の後ろの裂け口を塞ぐホッチキスの音とうめき声が部屋に断続的に響いていた。その間もちとせの視線を背中に感じている。熱いような冷たいような汗ばみは、ときおり起こす心臓の誤作動のせいだけではないようだ。

 包帯がわりの、裂いたタオルの端を縛る。幸い、動脈も臓器も傷はついていないように思われた。運のいい男だ。出血を抑えられればしばらくはもつはずだ。

「さあ、五対一だぜ。どうするんだ? それとも、その銃でここにいる全員を殺っちまうか?」

 中尾はハンカチをぎゅっと絞り、血の最後の一滴を振り落とすと悠然と口元を拭った。

 実田は一同を睨めつけたが、ちとせと視線が交わると目を伏せた。中尾は舌打ちをして早川に目を向けた。その催促を受けて早川は立ちあがった。大室も待っている。須永という刑事もだ。ちとせもまた早川に求めていた。

 早川はまずちとせに謝った。

「悪意は毛頭ございませんでした。ただ、あなたを騙してきたことは確かです。どうかお許しください」

「許すも何も──」

 ちとせは言葉につまって、唇の端を噛んだ。

「俺はあんたが何者か知らねえんだが。まずは自己紹介をしてもらおうか」

 そう要求する中尾に早川は向きなおった。

「以前に一度だけ顔を合わせております。おそらくご記憶されてはいないでしょうが」

 中尾はまじまじと早川を見つめたが、すぐに降参したようだった。早川はつづけた。

「三十二年前──あの日は、雨降りでしたね。千住曙町にある峰岸組初代組長峰岸五郎の屋敷でした。通用門であなたをお出迎えし、峰岸の臥す間へご案内した下男が、この私でございます」

 中尾の虚を突かれた表情に早川は応えた。

「あの日、あなたは関東極州会連合の幹事長の命を受けてあの場におられた。峰岸組内の後継争いの仲裁役として──いえ、仲裁役というのは表向きで、あなたご自身、裏では色々と複雑な事情がおありのようでしたね。誰の側につくのが得策か、と──しかし、それゆえにあなたは深く関わってしまわれた。その後の運命は、自業自得というものです」

 中尾は歯を剥いて身を起こしかけたが、すぐに力尽きて壁にもたれた。早川は袖のひきだしから取りだしたグラスにウイスキーをなみなみと注いでやった。だが、中尾はそれを力なく払いのけた。かわりに実田に差しだしたが、グラスを迎える手はなかった。


     五


 束の間、早川は物思いに耽りながら無意識にグラスの中で酒をまわしていた。そしてふと我に返ってグラスを机に置いた。

「戦災孤児だった私を拾ってくれたのが峰岸五郎でした。といっても養子などというものではなく雑用係としてですが。そんな私も大人と同等の体格になると色々な──つまり、汚れ仕事のようなことも任されるようになりました。それでも屋根と食べる物があっただけで幸福でした。あの方には、一生かかってもお返しできないほどのご恩を受けていたのです。その峰岸も、インドのコヒマで先生に命を救われた恩がありました」

 早川を見る実田の双眸に温度はなかった。その人差し指だけが生きた虫のように拳銃の引金を撫でていた。

 早川はちとせや中尾らから離れて隅の壁を背にした。実田の目と銃口も一緒になって動いた。

「先生と峰岸五郎とは戦中からの義理合いだったのです。お二人は、復員後には別々の道を歩まれましたが、繋がりが途切れたわけではありませんでした。一つ言えることは、峰岸は先生を自分の生業に引きずりこもうという魂胆は毛頭ございませんでした。むしろ、近づいてきたのは先生の方からでした。そうですね?」

 早川の問いに実田は答えなかった。無言も返事のうちだと早川は思った。

「私はそのときのことを憶えています。昭和三十年代の半ばのことでした。峰岸は先生の頼み事を断りませんでした。ただ、その仕事は窪島渉に任されました。そのときに先生と窪島との間に、切るに切れない縁が生まれてしまったのです」

 早川は一つ息をついた。胸の奥は静かだった。

「昭和四七年、窪島は瀬野創治郎の遺産に目をつけました。峰岸組のシノギからすれば他愛のない額の金でしたが、金は無いに越したことはないとの判断でしょう。また、遺産を相続するのは勘当された長男でも次男でもなく、長女のユリであるとはじめから見当をつけていたようです。相手は女一人、赤子の手を捻るも同然だと考えていたのでしょう。中尾さんが出席されたあの会合の後、窪島は先生に接触してきました。先生のお力をいつも利用してきたことから、瀬野家と密接な関係にある先生が今度もまた協力してくれるものと考えていたようです。しかし、先生はこのときに限って反発しました。峰岸五郎に直談判してまで窪島の企みを阻止しようとしたのです。ですが、それはなりませんでした。峰岸はその頃病床に臥せっていてかつての明晰な判断力が失われていたからです。それに、峰岸が干渉することは、間接的にご子息の達夫さんの肩を持つことになってしまうことにもなります。それはルール違反なのでしょう、中尾さん?」

 中尾は答えなかった。早川はつづけた。

「峰岸はその点、窪島にも息子の達夫さんにも公平であろうとしました。ただ、彼は先生へのご恩は決して忘れてはおりませんでした。峰岸は私に命じました。自分にかわって私が先生の力になるようにと。私の役目は先生の身を守ること、先生のなさることやお考えになることを妨げるあらゆる障害を取り払うこと。私は峰岸と完全に縁を切り、長く住まわせていただいた千住の屋敷を出て──以来、先生にお仕えして参ったわけでございます」

 早川は唇を舐めて湿らせた。

「先生の協力を得られなかった窪島は、剣峰会からの妨害を警戒して秘密裏に事を運ぶためか、あるいは、窪島自身がさほど力をいれていなかったためか、そのシノギは友岡雅樹という若衆一人に一任されました。瀬野ユリを貶め、遺産を掠めとるためにです。が、幸いなことに、彼女は友岡の目的を早々に見破っていたようでした。とにもかくにも、友岡の仕事はうまくいっていなかった。そしてその年の十月、瀬野創治郎は逝去しました。翌月には瀬野の屋敷の書斎で、先生、創一郎氏、光治氏、ユリさんが集まり、遺言書が開封されました。私はそのとき、庭の手入れをしておりました」

 早川は目を閉じた。二階、創治郎の書斎の窓が割れ、中での喧噪が耳腔に甦る。

「先生、そのときの様子を詳しくお話しいただけませんか」

 早川の頼みを実田は無視した。大室が、家政婦から聞いた話だが、と口を開いた。

「瀬野ユリは暖炉の火掻き棒を振りまわし、狂乱していた。創治郎氏の硯が窓と鎧戸を突き破り、庭石に当たって砕けたのもそのときだ。男が三人がかりでも手をつけられなかった。家政婦が間に入って、その場は事なきを得たが──」

 ちとせが胸の前で握り拳をぎゅっと固めていた。大室はそれに気づいて言葉を切ると、彼女に椅子を勧めた。だが、彼女は固く目を閉じたままうつむいていて、気づかないでいた。大室は椅子をちとせのそばに静かに置くと、一度切れた言葉を繋ぎあわせた。

「だが、彼女はそのとき、遺言状を破り棄てた。書かれていた内容に問題があったんだ。その内容というのがつまり──遺産はちとせさんにすべて譲られるというもの──」

 大室の後を早川が引きとった。

「その後、ユリさんは友岡と結託し、二人はちとせさんの住む新潟長岡へ向かいました。私は、先生とともに彼らの後を尾けました。彼らが二人がかりでちとせさんに乱暴を働くようであれば、それを何が何でも阻止するためでした。ただ――」

 早川は実田に向きなおると、穏やかに問いかけた。

「先生、あなたは弁護士という立場上、創治郎氏から遺言の相談を受けていませんでしたか。ひょっとしたら遺言の内容をはじめからご存じだったのではありませんか。だから窪島が遺産を横取りするという計画を持ちかけてきたとき、猛然と反発したのではないでしょうか。窪島の手がちとせさんに及ぶのではないか。それを懸念しての峰岸五郎への直談判だった。もし、遺産を相続するのがちとせさんではなかったら、あなたはそうまでして――こうまでして瀬野ユリを守ろうとしたでしょうか」

 実田の返事はなかった。

「おじさま──」

 ちとせのつぶやきも静寂に沈んでいった。


     六


「あの日は雨降りでしたね」

 早川の声が沈黙の底からふっと浮かびあがった。

「友岡の車から降り立ったのはユリさん一人でした。彼女は雨に濡れ、玄関口に立ちました。戸が開くと、あなたが身重の体を抱えるようにして立っておりました」

 ちとせは体を硬くした。早川はその様子を見守りながら話をつづけた。

「先生と私は待つことにしました。ユリさんがどういう形で話をつけようとしているのかはなんであれ、お二人だけで穏便に話し合いが済めばそれで良いと考えていたのです。友岡が関与したら間に入ればいいと。ちとせさんがご自分の意思で相続を放棄するならば、後で先生がきちんと法的な手続きをしたでしょうから。ただ、そのように悠長に構えていたのはやはり間違いでした」

 ちとせが椅子に腰を落とした。膝が震えている。

 早川は手近にあった膝掛けをちとせにかけてやった。礼を言ったちとせの震え声が白く立ちのぼって溶けた。ランプ一つ点るきりの部屋は冷えきっていた。ストーブに点火し、部屋の真ん中に置き、戸口の壁にある電灯のスイッチを入れた。部屋の四隅にある間接照明が淡く点った。早川は壁際に戻って話をつづけた。このとき、銃口は彼についてこなかった。

「数時間も経った頃――もう夜も深くなってました、長雨も一休みといったところだったでしょうか、友岡が車から降りてきました。長い居眠りから目覚めた様子でした。そしてふと思い立ったように家の方に歩いていき、玄関の引き戸を開けて様子をうかがうと、そのまま中へ。先生と私も車を降り、友岡を追いました──」

 喉がつかえた。その奥では堰きとめられた言葉が濁流となって渦巻いていた。

「嫌なことを──思い出させるかもしれません」

「構いません」

 ちとせは即答した。

 早川は一つ息をつき、窓ガラスに顔を寄せて夜気に冷やされた空気を吸いこんだ。そのすえた黴と埃の臭いが早川を遠くの、だがしっかりと刻みつけられた一綴りの記憶へと連れ戻した。


     七


 開け放たれた襖の向こうから、生臭い臭いが流れてきた。

 畳と床板を剥いだ床下で友岡がかがみこんでいた。身を起こした友岡の腕の中で、濡れた赤子がうごめいていた。

 その友岡の腕の隙間から垂れさがる紐を辿っていくと、床下に空いた穴の底で二人の女が泥水に浸かっていた。一人は首から下が赤く染まり、もう一人は泥と泥水を全身に塗りたくったかのようだった。

 臍帯は泥まみれの女の方と繋がっていた。

 実田は床に頽れると、嗚咽を漏らしはじめた。友岡は八の字に眉を寄せて早川らに何やら叫んでいた。ただ、その言葉の意味ははじめ早川には届いていなかった。六畳間に充満した濃密な臭気が思考を邪魔していたのだ。

(あんたら、なに突っ立ってんだよッ、どうにかしろよッ)

 甲高い叫び声が見えない壁を突き破り、早川の目を覚まさせた。

「友岡に救急車を呼ばせると、私たち三人は急いでちとせさんと赤ん坊の体を拭いて温めて、救急車の到着を待ちました。遺体の方はとりあえず隠し、後で処理することに――」

 友岡に毛布とタオルを探して持ってこさせている間に、早川はちとせを穴から抱えあげた。死人のように体が冷たかった。実田の腕にあずけた赤子もうめき声が細りつつあり、途切れつつあった。

「母子を最優先に──それが暗黙の了解だったように思います。何が起きたかよりも、生まれたての赤ん坊が生きるか死ぬかの方に私たちは囚われていました。友岡のような男ですらそうだったのです」

 救急車が到着したとき、早川ら三人は勝手口から抜けでて物置の陰で息を潜めていた。

「ちとせさんがどの程度そのときのことを記憶に留め、あるいは失っているかはわかりませんでしたが、遺体の処理を含め、すべて自分の手で行ったと思わせたらどうかと先生は提案しました。秘密は自分一人のものだと思いこんでくれることに賭けたのです。なにしろ、他人との秘密の共有ほど後々の障害となるものはないと、先生は窪島との一件で身に染みてご存じでしたので。とはいえ、それはかなわぬ希望に過ぎません。ちとせさんがすべてをご記憶されていた場合、すぐに得体の知れない共犯者の存在を確信し、きっといっそう不安を募らせることになるでしょうから。ただ、それでも私たちの取るべき選択肢は他にありませんでした。確かに誰もが冷静ではなかったと思います。しかし、あの場にいたなら誰でも落ち着いてなどいられなかったでしょう。なぜなら、私たちは皆、ちとせさんのご覚悟とご決意に圧倒されていたからなのです」

 早川はちとせを見たが、彼女は身体をこわばらせて早川の言葉を拒絶しているかのようだった。

「ちとせさんがたった一人で掘った穴はとてつもなく大きく、深いものでした。一つの死を葬り、一つの命を産み落とした穴は、ただのじめついた、どろどろした穴には思えませんでした。穴は私たちに有無を言わせなかった。私たちの誰も、生涯でこれほどの覚悟を決めたことはなかったし、他の人の心の中にも見たことはありませんでしたから」

 その後、可能な限り部屋を何事もなかったように掃除を終えると、三人はユリの遺体を担ぎあげて車に乗せ、山中へ運んだ。

 川沿いの道から少し入った場所に三人がかりで穴を掘った。

「私たちもまた、自分たちの覚悟のぶんだけ穴を掘りました。ちとせさんが掘った穴が目に焼きついていたためでしょうか、私たちは死にものぐるいで掘りつづけていました」

 穴の底に瀬野ユリの遺体を横たえてもまだだいぶあまった。そのとき、ふと早川の脳裏にある考えが浮かんだ。

「正直に申し上げますと、友岡もそこに埋めてしまうべきだと私は考えておりました。しかし、それはできませんでした。いま思えば甘かったのですが。ただ、それができなかったわけがそのときにはありました。ちとせさんのご意志にあの男でさえも、真実、心を打たれていたのです。そのときの彼はきっと私や先生と同じ思いでいたはずなのです。ですから、その場で友岡を殺してしまうという打算的な考えがふと思い浮かんでしまった私は、自らを恥じました」

 中尾が音を立てて唾を吐き棄てた。早川が顔を向けたところに嘲笑が待ち構えていた。

「『ご意志』だと? 『心を打たれた』だと? あんた、頭おかしいんじゃねえのか」

「あなたもあの場におられたら、瞬時に何をすべきかを悟ったことでしょう」

 早川が静かに言うと、中尾は人差し指をちとせにきつく突きつけた。

「この女は遺産を取られたくないがために瀬野ユリを殺したんだぞ。てめえが世話になってきた家の人間をだ。てめえが『ねえさま』と慕ってきた存在をだ」

「殺意がないことは証明できる。ちとせさんにユリを死なすつもりなどなかったんだ。彼女の死は事故だ」

 大室が間に割って入った。中尾は白いこめかみに青筋を立てた。

「じゃあなぜ穴を掘ってまで死体を埋めようとしたんだ? なぜ三十ン年もだんまりしつづけたんだ? 後ろめたいもんがあるからだろうが」

「中尾さんのおっしゃる通りです」

 ちとせの悲痛な声に、部屋の空気が不意に棘を引っこめた。中尾もふんと鼻を鳴らして黙り、ハンカチで額の脂汗を拭った。

「私にはユリねえさまへの憎しみがありました。ねえさまは私が死なせたんです」

「違うッ」

 ちとせの言葉を大室の声がかき消した。

「あなたは遺産をユリさんに譲るつもりでいたでしょう? そのための誓約書にサインしたんでしょう? 遺産相続のごたごたは、あなたと瀬野ユリとの二人の間ではそれで済んだはずなんだ。彼女はそれで満足したはずだ。瀬野ユリが死んだのはそのずっと後です。彼女が昔の頃を懐かしんで求めるままに、あなたは彼女の髪を切ってあげてすらいた。なんのわだかまりもなかったはずなんです。それなのにあの女は突然あなたに暴力を振るいだした。あの女はあなたとあなたの赤ん坊を傷つけようとしたんだ。だから――」

「それでも、ねえさまは私が――」

 大室はちとせの言葉をさえぎった。

「確かに──確かに瀬野ユリは死んでしまいました。しかし、あなたに殺意はなかった。彼女の死は事故だということも証明できるんです」

「ン十年も昔のことだろうが、あんたがどうやって証明しようってんだよ」

「うるさい、できるといったらできるんだッ」

 大室は中尾を怒鳴りつけた。

 実田邸に向かう車中でも、大室は早川を相手に必死にちとせを弁護していた。大室の言葉に耳を傾けながらも、そんな真っ当すぎる理屈などもはやなんの役にも立たないのだと早川は考えていた。法が罪をどう裁くか――春野ちとせにとって、そんなことは二の次、三の次なのだから。

 しかし、大室はまだ諦めていないようだった。彼はちとせに向きなおると、背をまるくかがめて優しく語りかけた。

「私がいくらこう言っても、あなたはご自身を責め苛みつづけるおつもりでしょう。ですが、警察だろうが裁判所だろうが、どこに出たってあなたに罪があると認めるところはありませんよ。あなたは身重でした。あなたはお腹の子を守らなくてはならなかったんです。完全に事故と言いきれなくても、正当防衛が成り立つんです」

「私があのとき何を思っていたかを、皆様はご存じではありません」

 ちとせは大室の失意の表情に頭をさげて謝ると、淡々と喋りはじめた。

「私がどんな表情をしていたかも──私は自分で見ました。泥水に映っていたんです。ユリねえさまもあのとき鬼のようでしたが、私はそれ以上でした。ねえさまとは比べられないほどに私は醜い形相をしていました。早川さん、あなたは私が掘った穴を私の『覚悟』とおっしゃいましたね」

 強固な意志が滲むちとせの眼差しを受けとめられず、早川はうつむいた。ちとせはつづけた。

「あれは憎しみです。あの穴の深さは、ねえさまへの憎しみの深さです。もしお腹の子が私を止めていなかったら、きっと私は息尽きるまで穴を掘りつづけていたと思います。あのとき、私は何度も何度も挫けました。でもきっと、まだあとからあとから憎しみが湧きでてきていたと思います――どうして私を放って置いてくれなかったのって。いつもいつも、あの人たちは私とお母さんの邪魔ばかりして――」

 ちとせは両手で顔を覆って絶句し、ひとしきり体を震わせた。やがて、その震えを断ち切るようにして顔をあげた。 

「ねえさまへの恨み、瀬野の家への恨みの限り──ねえさまを暗くて冷たくて、じめじめした地中に閉じこめるために。私や私の家族の暮らしの邪魔を二度とさせないように──」

 ちとせはいったん言葉を切ると、苦痛に顔を歪めた。

「ほんとはそんなもの、私の妄想でしかなかったのに――みんなほんとうは――瀬野のおじさまもおにいさまがたも――ねえさまだって花江おばさまだって――私と母のことを大事に思ってくれていたのに――でも、私はみなさんを、ねえさまを恨んで――」

 ちとせは両手で顔を覆った。やがて手を下ろしたときには、もう表情は消えていた。

「それが私という人間です」

 ちとせは自分の指先を見つめていた。その感情のない表情は早川のまぶたの裏に焼きついているものと同じだった。そんな表情を彼女の仄白い顔からなくすために三十数年をかけてきたつもりだった。早川の胸はきりきりと痛んでいた。


     八


「まだおしまいじゃないだろう? さっさとしてくれ。こっちはのんびりしてられ――」

 中尾は不意に視線を伏せて口を閉ざした。ちとせは意識を途切れさせている中尾を横たわらせ、膝掛けでくるんでやった。早川は中尾が覚醒するのを待ってから話をつづけた。

「友岡は宿を引き払って戻ってきました。その間、ずっと考えていたのでしょう。彼はある提案をしました」

「奥多摩だろう――くそったれが」

 中尾が悔しげにつぶやいた。早川は頷いた。

「自分の存在を消し去りたいと。友岡は組から抜けたがっていました。瀬野ユリが死んで、若頭直々の命令を遂行できなくなったこともあるのでしょう。しかし、それよりも、友岡は因縁の相手──剣峰会の川村という問題を当初から抱えておりました」

 ユリの勤める銀座の高級クラブ通いを川村に突きとめられてしまった友岡は、拳を使った尋問にあっけなく口を割ってしまったという。それはつまり、窪島に対する裏切りである。ましてや寝返った先は、窪島と犬猿の仲である峰岸達夫だ。

 川村につけ狙われ、窪島を裏切り、あげくユリにはまるで相手にされず任務遂行も頓挫した──絶望していたそんな折、瀬野ユリからの連絡があった。

 ユリはなんとしてもちとせから遺産を取り返したかった。彼女はちとせを恐喝するために友岡を雇った。友岡はユリの企みに乗り、それで報酬を得て、窪島からの逃亡資金に充てようとしたのである。

「しかしその企みすら失敗に終わったわけです。瀬野ユリは死んだ。遺産はびた一文、友岡の手には渡らない。ただ、あの男は転んでもただでは起きない性分のようで──」

(ちょっと聞けよ。俺もあんたらも、あの女も、このままじゃ終われねえぜ)

 窪島も川村も──ひょっとしたら峰岸達夫も、皆が皆、瀬野ユリと自分の行方を血眼で探すかもしれない。瀬野ユリは死んで土の中だが、そのことを知っている自分は生きている。もし自分が彼らの手に渡れば、間違いなく事の真相を暴露してしまうだろう。それは間違いない、と友岡は自信たっぷりに宣った。そうでなくても瀬野家の遺産の行方を追ううちに、彼らの手がちとせにのびてくるのは時間の問題だ。

 だが、自分が川村の手にかかって人知れず死んだことにすれば、窪島も達夫も瀬野ユリの行方の手がかりを失うことになる。そして、瀬野家の遺産をちとせに相続させないようにすれば、そもそも彼女に魔の手が及ぶこともなくなる。

 まず、遺産はユリが相続するように遺言書を書きなおし、その情報を窪島らに流す。そもそも窪島はユリが相続するものと思いこんでいるから、その嘘を疑いもしないだろう。彼らが食いつく疑似餌はユリの匂いがするものだけとなる。同時に、真の遺言の内容を知る者たち、すなわち創一郎と光治の二人と口裏合わせをしておく必要があるだろう。

 偽造にあたっては、指定相続人の相続不可の場合に関する項目――すなわち慈善団体に寄付するという条項はそのまま写しとればいい。ユリの失踪や、これから行う計画でしばらくは騒ぎになるだろうが、それらが完全に沈静化した頃を見計らって密かにちとせに相続放棄させればいい。とにもかくにも周囲を騙しつづけ、最終的に真の遺言書通りに慈善団体に寄付されるようにする。そうなれば窪島も金を諦めざるを得ず、しばらくすればユリや友岡の行方についても興味を失うだろう。慈善団体以外、窪島を差し置いて誰かが得をしたわけではないからだ。

 また、ユリの死が表沙汰にならない限り、たかが家出、たかが失踪ごときに警察が深く突っこんだ捜査を行うこともないとみていい。ユリがいなくなることで得をするのは遺産を譲られる善良なる慈善団体だけだから、遺産相続がからむ誘拐など犯罪の線も薄いと見なされるはずだ。せいぜい捜索願を届け出た際にあれやこれやと聴取を受けるくらいだろう。その際、偽造した遺言書が怪しまれでもしたら事はやっかいなものとなるが──。

「ただ友岡は、窪島の金への執着心を見誤っていました」

 早川は補足した。

「友岡という下っ端に一任したとはいえ、ひとたび瀬野家の遺産に目をつけた窪島が簡単に金を諦めるはずがなかったのです。もし遺産が相続執行人である先生の手によってどこぞの慈善団体にでも寄付されたりしたら、窪島は協力を断った先生に報復したことでしょう。人の弱みにつけいるのは窪島がもっとも得意とすることです。その時期に瀬野家や先生の周辺を詮索されると困ったことになるかもしれない──いえ、窪島ほどの男ならばきっと真相に辿り着いたでしょう。だから、遺産はそっくりそのまま窪島にくれてやることになりました。詮索しないことを条件に。冷静に考えれば、友岡は下手な小細工などする必要はなかったのです。どうあれ、金は最終的には窪島へ渡さざるを得なかったのですから。先生も窪島が話を持ちかけてきたときからすでに金のことは諦めざるを得ないというお考えだったようです。ですから、友岡は何もしなくても大手を振って峰岸組に帰ることができたはずなのです。まあ、友岡もそのことはわかっていたのかもしれません。ただ、そうしたとしても彼にはやはり問題が残っていました。結局のところ、友岡はその残った一つことだけを恐れていたのかもしれません」

(いいか、こいつが最大の障壁だ──何かって? 川村の野郎だよ)

 川村のしつこさを自分はよく知っている。一度目をつけたら関係者全員をひっくり返して逆さに吊ってばたばたとポケットを叩いてまで搾りとるのがやくざ者だが、川村という男はポケットに金が入っていようがいまいがとにかく叩きまくるのを無上の楽しみとするような男なのである。そんな輩につけ狙われるのは自分一人だけではないかもしれない。下手をうてば、ちとせにまで魔手がのびてきかねない。ましてや、自分が奴らに捕まってしまったら──。

「友岡の言う通りにしないと、彼はいずれどこかで真相を暴露してしまう。いえ、友岡のその提案は先生やちとせさんへの脅しに他なりません。私たちは、友岡にそうさせることだけは避けねばなりませんでした」

 友岡の指示通り、実田は東京へ戻って遺言書の偽造に着手した。創治郎の筆書きの筆跡は瀬野の屋敷にいくらでもあるが、筆記具は創治郎の書斎にあった硯をユリが投げ捨てて割ってしまったために、ユリの部屋にある書道具を使わなくてはならなかった。

 一方、早川と友岡はもう一つの計画を実行に移していた。

 厄介者の始末である。

 友岡は川村を誘きだすと、実田が用意した拳銃で射殺した。死体は新潟長岡に運び、瀬野ユリを埋めた穴を掘り返して瀬野ユリの死体に並べて埋めた。

 友岡がいとも容易く川村を射殺したときから、この男はやはり危険だと早川は感じていた。

 ためらいなく人を殺せるという点では自分も同類だが、自己保身のために殺人を行ったことはなかった。殺される方にしてみればどちらでも変わりないが、早川の脳裏に刻まれているのは常に「忠」の一文字である。暗殺といえどもその行為は恩人に忠を尽くすことと同義なのだ。この友岡という男とは根本的にちがう。

(生かしておくべきではない――)

 早川がそう考えている間に、友岡は穴を埋め戻し終えていた。

「機を逸した──その思いがずっと頭から離れませんでした」

 早川は川村が乗ってきたダットサンブルーバードを走らせ、友岡のセリカとともに人気の少ない真夜中の奥多摩湖へ向かった。その沿岸道路を二台の車がタイヤをきしませて駆けぬけた。セリカを走らせる友岡が前、ブルーバードを駆る早川が後ろである。

 そして、直線道路の長いトンネルにさしかかる直前、早川の合図に応じて、友岡はトンネル内で急ハンドルを切った。友岡のセリカは大破した。早川は潰れた車体から友岡を引きずりだしてブルーバードに移すと、次いでセリカのタイヤを撃ってパンクさせた。

「そこだよ」

 中尾は半身を起こして早川に指を突きつけ、引金をひくように人差し指を二度曲げた。

「二発だ──あんたのミスだ。そこを一発で済ませてくれりゃ、俺はあんたらの企みに気づかずに済んだんだ。そしたら、いま俺はこんなふうにならずに──」

 中尾は力尽きたように頭をちとせの膝の上に落とし、大きく息を吐いた。

「どっちでもいいや」

 そう言うと中尾はふっと気を失った。ちとせはおびえたように早川を見上げた。

「脈を診てください。それとできればもっと暖めたい。いや、やはり病院へ──」

「放っておけ」

 実田が言った。

「その男はあのときに死んでおれば良かったのだ」

 息を呑んだちとせが実田を振り返った。

「あのときというのは、どういうことですか」

 実田は立てたコートの襟の間に顎を埋め、表情を隠した。

「おじさま――」

「私がご説明します」

 早川が間に入った。

「ならん。いい加減黙るんだ、早川」

 実田が怒気をぶつけた。その声にさらにぶつけるように、ちとせは震えた声を張りあげた。

「いいえ、ぜひ説明してください」

 実田は何かを言いかけたが、結局口をつぐんだ。ちとせの荒くなった呼吸にやがて嗚咽がまじりはじめた。不意に中尾が虚ろな声で喋りだした。

「ちょっと疲れただけだ──あんた、つづけてくれて構わないぜ」

 ちとせは嗚咽を飲みこんで強い口調で切りだした。

「どうか、包み隠さずすべてお話しいただけますか。私は、自分の罪がどれほどなのか──私の行いが誰を傷つけ、誰の命を奪ってしまったのか――私は知らなくてはなりません。そうではありませんか? だからどうか、お願いします」

 早川は実田に目を向け、同意を求めた。実田の表情は襟の陰に隠れて見えなかった。銃口は下がっていた。

「中尾さんのおっしゃる通り、あの二発は確かにミスでした。理由としては、単に私の腕の問題でして―─ただそれだけなのですが」

 それを聞いて唖然としている中尾に構わず、早川はつづけた。

「私は、追跡中の発砲と思わせるために、拳銃の空薬莢をところどころに撒きながら来た道を引き返しました。それから東京へ戻ると、友岡を先生のこの家に匿い、川村の車は発見されやすいところへ置き去りました。計画通り、警察は川村に疑いの目を向け、すぐ後に車も発見されました。それに、先生が用意した拳銃と、私が峰岸の屋敷からこっそり持ちだした弾薬のおかげで、案の定、事件は剣峰会と結びつけられました。拳銃は先生が戦地から密かに持ち帰ったものでしたが、弾薬はまさに剣峰会の工場で製造されたものでしたから」

 早川としては長く忠を尽くしてきた峰岸五郎の息子を罠に嵌めるようなことは幾分気が重かったが、実田の助けになれと命じたのは五郎本人である。たとえ拳銃と弾薬を使用することの相乗効果で剣峰会が追い詰められ、達夫が検挙されるような事態に陥ろうとも、早川は実田の命に従うのみである。

「その頃、警察が達夫さんの組織のほつれを見出そうとしていたのは周知の事実でした。一年前の銃器密売の一斉摘発が失敗に終わったため、彼らは汚名返上せんとして躍起になっていたのです。とはいえ警察組織も所詮は上も下も烏合の衆。鼻先に落ちてきたのが疑似餌といえども、うまそうな匂いがしていればそれに群がって食いつくことは自明の理でした。それもまた、友岡の狙い通りとなりました。また同じ頃、先生は後に瀬野ユリの捜索願を届け出た際の事情聴取に抜かりがないよう備えるため、口裏を合わせるよう、遺言の偽造について創一郎さんらを説得しておりました」

 実田は瀬野の兄弟に、いまのままでも十分に幸福に暮らしているちとせにやくざ者の手が及ぶことになる、それを避けるためにも相続人をユリにするよう書き換えたらどうかと話を持ちかけた。

 瀬野家の兄弟にとってちとせの母親である智子は幼い頃から慕ってきた姉のような存在だった。その智子の娘を彼らが可愛がらないはずがなかった。その慈愛の情は、年月を経てちとせとの関係が疎遠になってしまっても彼らの胸の奥深くに、かつてと変わらず根づいていた。

 ちとせがいま幸福ならそのままそっとしておくのがいいのではないか。身勝手な瀬野の人間のために、またも彼女が不幸に巻きこまれるようなことがあってはならない。ちとせちゃんだけは幸福に生きてほしい、と創一郎と光治は年甲斐もなく目を輝かせたという。

 また、彼らはその大義にもう一つ理由をつけくわえた。

 そんなに欲しいなら、親父の金などユリにくれてやったらいい。ユリはやくざどもにたかられることになるかもしれないが、まあそうなってもあの女ならうまくやるだろう。うまくやれなくても──まあ、それまでだ。それにしてもユリという女は嫉妬深くて守銭奴の母親そっくりだ。親も親なら子も子だな──。

 創一郎らの会話の再現を聞くにつれ、ちとせはだんだんとうつむいていき、最後には両手で顔を覆ってしまった。早川は口をつぐんだ。早川も、その会話の場で脇に控えていて、彼女と同じようにいたたまれない気持ちだったことを思い出していた。


     九


「家政婦の鈴森佳枝が騒ぎ立てたことがきっかけでしたが、警察への届出はいずれしなければなりませんでした。そして、この件について捜査を担当したのが東調布署の大室さんと梶という刑事でした。その梶というのが曲者で、彼は窪島と古くから付き合いがある男でした。端的に言えば、梶が瀬野ユリ失踪の捜査にのりだしてきたのは偶然ではなかったのです」

 梶は警視庁勤務の頃から刑事としての職権を利用して、市井から裏事情を探りだしては恐喝、強請り、たかりのネタとして窪島などに売っていた。所轄勤務に身を引いてからもその副業をつづけ、瀬野家の遺産相続の件も窪島に売ったネタの一つだった。窪島が、瀬野創治郎逝去の半年も前から瀬野家に興味を持っていたのは、梶の情報提供があったからこそなのである。

「とはいえ、窪島は自身の計画に梶を引きこむことはなかったようです。梶という男はどうも金にがめつい男のようで、窪島としては手にする金が目減りすることを嫌ったのでしょう。しかし、何がきっかけかはわかりませんが、梶は窪島が計画を進めていることを知ったわけです」

「そういうことか」

 中尾がちとせの手を借りて身を起こすと、壁に背を預けながらそう言った。失血による蒼白な顔色は相変わらずだった。

「俺たちは窪島を盗聴していた。達夫に窪島のシノギの邪魔をさせるためにな。だが、相当早い段階でばれてたんだろう。俺たちは泳がされていた。その梶という奴が窪島の手先で、ムシを見つけだした野郎なら──」

 早川は中尾が喋るのをさえぎった。

「あなたが梶に盗聴というヒントを与えたことになるのです。梶の介入によって事態はいっそう悪化したことは明白。千束組ごとき弱小組織の存続のためのあなたの行いが、あなたの部下や梶らの死にも大いに寄与していることになるわけですね」

 早川は冷ややかに中尾を見つめた。

「もっとも梶はあなたよりも、そして窪島よりもずっと狡猾な男でした。おそらく、あなたが仕掛け、発見されてしまった盗聴器を流用したのではなく、より確実に窪島の動向をうかがえるよう、より適した場所に自分の発信器を仕掛けていたと思われます。彼は吉原通いで友岡の世話になったこともあって面識があったでしょうし、声音も聞いて知っていたかもしれません。また、瀬野家の内情を調べたこともあり、自尊心が高い瀬野ユリの人となりも知っていたことでしょう。となると、彼は奥多摩事件が起きるはるか前からすでに窪島と友岡の秘密の計画が動きだしていることを察していたはずです。ただ、それでも彼はすぐには首を突っこまなかった。機をうかがっていたのでしょう」

「あの人は最後の最後に全部を掻っ攫うつもりでいたんだ。だから俺は――」

 大室は言葉を失い、噛んだ奥歯をきしませた。早川は後を引きとった。

「ただおそらく、瀬野ユリの失踪も奥多摩事件も、これらは梶にとっても予想外の出来事だったのでしょう。奥多摩事件以降、梶は精力的に動きだしました。瀬野ユリの捜索願を早く出させるために、すぐに家政婦を取りこみにかかりました。その方法はどうとでもなります。匿名電話でもなんでも。金を使わずとも、彼女の母性本能を焚きつければいいわけですから」

「あの人に正義なんてものはかけらもないんだ」

 苦々しくそう言い放った大室を、中尾は嘲笑った。

「じゃあ、あんたが正義だっていうのか。人様の首を絞め殺すことのどこが正義だよ」

 目を剥いて憤然と突っかかっていこうとする大室をちとせが咄嗟に抱きとめた。大室はうなだれてちとせに謝り、ちとせのために置いてやった椅子に崩れるように座りこんだ。その様子を見ていた早川は大室を弁護した。

「死んでいった者たちは、私利私欲のために命を落としたのです。瀬野ユリも友岡も、梶も、そこの中尾さんの部下だった青木善三も──皆、自業自得というものです」

「なんだとッ」

 中尾はいきり立った。

「やめてくださいッ」

 ちとせは叫んだ。

「亡くなった方たちが悪い、だから死なせてしまってもいい、しかたないだなんて──そんなことが通るわけがないでしょう?」

「お言葉ですが──」

 そう言いかけたとき、ちとせのいまにも泣きだしそうな険しい眼差しが突き刺さってきた。だが、早川はそれを黙殺し、中尾に向きなおった。

「中尾さん──あなたの部下、青木善三が何をしたか知っておいでですか」

「何をだよ」

「彼は、瀬野家の内情を聞きだすためだけに、いきなり――本当に唐突に先生を拷問しはじめたのです。あなたの部下は有能すぎたようですね。先生の口から、芋の蔓をずるずると引っこぬくように、次から次へと用意しておいたカバーストーリーの矛盾を突いて、ついには真相を引きだしていったのですから。だから──彼は死んだのです」

 早川は中尾の憎悪の眼差しを受けとめた。

「善さんを殺したのはお前か、それともそっちのジジイか」

「拷問はあなたの命令ですか。だとしたら、あなたも同罪だ」

「俺が聞いてるのは、善さんを殺したのはどっちかってことだ」

 中田の詰問に答えたのは実田だった。

「お前が最初に火をつけたんだ。火は燃え広がっていくものだ。私はそれを消し止めようとしただけだ」

「くそッくそくそくそッ、くそったれ──畜生――」

 中尾の罵声はか細くなって消え入った。

「先生は青木善三を射殺したのち、すぐに千束組の事務所へと急ぎ、あなたを襲った。秘密が秘密であるうちに、広がらないうちに、迅速に手を打たなければならなかったのです。案の定、中尾さん、あなたもまた奥多摩の真相に近づき過ぎていました。あなたは死んで当然のことをしてしまっていた。秘密を暴くということはそういうことなのです。あなたが自分で招いたことなのですよ」

「ふざけるなッ、俺が何をした? 俺が誰かを殺したかよ?」

 中尾はまたも怒鳴り散らし、そしてすすり泣きはじめた。だがそれすらもすぐに力尽き、やがてうなだれて黙りこんだ。


     十


「私利私欲の最たるもの――それが友岡雅樹でした」

 早川はポケットから折りたたまれた一枚の紙を取りだした。

「ちとせさん、あなたは瀬野ユリが持参した書類に署名し、拇印を押しましたね。先ほど大室さんがおっしゃっていた誓約書――瀬野創治郎の遺産をユリに譲るというものです。当然こんなものに法的効力はありません。しかし、瀬野ユリが死んだ瞬間に、この一枚の紙切れに重大な意味がつけくわえられました。大室さんは実際その目でご覧になったでしょうからご存じでしょう。日付と署名が入っています。その文書が、失踪した瀬野ユリと最後に会っていたのがちとせさんだということを証明するのです。その誓約書の原本を、友岡が持っていました。これはその写しです」

 早川は紙片を広げた。モノクロの大小の斑点が、散りばめられたように紙面全体に広がっている。

「馬鹿者、なぜ処分しなかったッ」

 実田が罵声を浴びせた。早川はそれに構わず言葉を継いだ。

「友岡が先生を脅しに来たとき、彼が私たちに見せたもの、そのものです。先生も私もそのときに初めてこの文書の存在を知りました。友岡は密かにあの現場から回収していたのです」

「そんなものが、この世に存在していてはならんのだ」

 実田の悲痛な声に早川は向きなおった。

「黙っていて申し訳ございません。ただ、ものは考えようです。これによって万一の場合――つまり、ちとせさんの心が折れて自首なさった場合ですが──そのとき私が名乗りでて、かわりに罪を被ることができます。この写しを持って出頭すれば、私が現場にいたという証明になるかもしれません。その上で、私が犯行を供述したらどうでしょうか? ちとせさんがもし自分が瀬野ユリを殺害したと自供しても、死体を埋めた場所まではわかりません。ですが、私は死体のありかを知っています。それに、真犯人にしか知り得ない事実も私は知っています」

 一同の訝る視線に早川は答えた。

「単純です。瀬野ユリの首もとにあった傷口を、私がいま現在も愛用しているナイフで広げておいたのです。さらに念のため、胸や腹に何カ所か刺し傷をつけておきました」

 早川はちとせの目を見ることができなかった。息を呑む音を聞いた。見ずとも、視線が突き刺さるのがわかる。頬のあたりがひりひりと熱くなってくるのだ。

「ただ、大室さんが後に発見されたように、鎖骨に入った梳き鋏による擦過痕までは計算しておりませんでしたが。なんにせよ、この紙切れも少しは役立つのではと思ったわけです。この誓約書の原本は──友岡を射殺したときに手に入れましたが、それはすぐに焼き棄てました」

 早川は誓約書の複写にある点々とした染みを指さしながら言った。

「本来なら瀬野ユリの血痕が付着した状態の原本の方が、私の供述の信憑性という点でも目的に適っていたのですが、原本は大室さんと友岡の返り血をも浴びてしまっておりました。そうなってしまったらもはや使い物になりません。それが瀬野ユリとちとせさんの間に起きてしまった出来事と、奥多摩に始まる一連の事件とを結びつけてしまいますから。余計な繋がりを断つため、やむを得ず原本は処分するしかありませんでした」

 早川はひとつ息をつくと、ひときわ強調して言った。

「友岡を殺害したのは、いかにもこの私でございます」

 ちとせと目が合うも、早川はすぐに視線をはずした。

「あの男はこの屋敷を抜けでて、どこかへ身を潜め、そして次に現れたときにはこの写しを持って先生に金の無心をしてきました。すでにある程度の金で折り合いをつけてあったのですが、友岡はさらに瀬野創治郎の遺産に相当する額を要求してきたのです」

 友岡を尾行して潜伏先を突きとめたとき、その時点で躊躇せずに誓約書の原本を奪いとって友岡の口を封じるべきだった。ところが、たった一日逡巡している間に、そこにいままさに友岡が潜伏しているとは知らずに、川村を追っていた奥多摩事件の捜査員が相沢絹代のアパートの監視をはじめてしまったのである。

「先生が青木善三を射殺し、中尾さんを襲った直後、私たちは友岡の殺害を即断しました。理由は同じです。秘密を知る者は少なければ少ないほど危険は減りますから。私は友岡に聞いていた連絡先、すなわち相沢絹代の電話番号で彼を呼びだしました。警察による監視は相沢絹代の色仕掛けによって隙だらけでしたからそれが可能と判断しました。ところが、なんの勘が働いたか、桂木という刑事が突如、女の部屋に踏みこんでいったのです。友岡は慌てながらもどうにか窓から逃げだしたのですが、その友岡に追いすがったのが大室さんでした。その大室さんを巻きこむ結果となってしまいましたが、私はそのとき、今度こそ躊躇なく友岡を射殺しました」

 早川は淡々と言った。大室は黙っていた。

「その後、幸い命拾いした大室さんは、例の誓約書を手がかりの端緒にして、誰よりも核心に近づいていました。そして真相を求め、ちとせさんに会いに行かれたわけです。私は尾行し、暗殺する機会をうかがっていました。ところが、大室さんはちとせさんを告発しなかった。大室さんがいまもここに生きてらっしゃるのはそれゆえです」

 大室は恥じ入るようにうなだれていた。早川はつづけた。

「一方で、桂木という刑事は違った。私がそれを阻止するのは至極当然のことで――」

「死に値するとおっしゃるのですか」

 早川をさえぎってちとせが詰め寄った。早川は縁を赤くさせたちとせの目を見つめながら、ためらわず、はいと答えた。

「桂木はあなたにとって非常に危険な男でした」

 降りてきた静寂の中で、不意に胸に湧いた羞恥心に早川の体は火照った。と同時に、心臓のあたりに暴れだす気配があった。

(何をいまさら迷うことがある?)

 誰にも気づかれぬようにそっと胸を押さえた手の中で、一度は高まった拍動が次第に静まっていく。早川はゆっくりと息を吐くと、もう一度ちとせを真正面に見据えて言った。

「危険ゆえ、私は桂木を殺さねばなりませんでした。そしてもう一人、あなたを脅かす男がいました。それは──」

「待て」

 早川の言葉を制したのは大室だった。

 ただ、語気の強さとは裏腹に大室はためらっているようだった。とはいえ、彼もまた早川と意志を同じくしてここに来ているのだ。早川は彼を待った。やがて大室は吐きだすように言った。

「梶功夫――その男は自分が殺しました」

 そう言った後の吐息が震えていた。震えは次に発する言葉へと引きずられていった。

「自分は、自分の信じる正義を行使しただけです。あの男を、あなたに関わらせたくなかった」

 大室は漏れるうめきを噛み殺してうなだれ、そしていきなり机の上のグラスつかむと一気にあおった。だが、酒は感情を爆発させただけだった。ちとせもまた、苦しげに嗚咽を噛む大室の背をさすりながら、きつく唇を噛んで泣いていた。早川が後を引きとった。

「以上が私の口から申し上げられる話の一部始終でございます」


     十一


「手紙──手紙のことはどうなんですか」

 ちとせは頬を拭うと顔をあげ、実田を振り返った。

「おじさま、父が──板垣英介が生きているという話は嘘なのでしょう?」

「なぜそう思われるのですか」

 実田に詰め寄らんばかりのちとせを引き留めるように早川は訊ねた。即座に訝る目に射貫かれる。

「なぜって――都合が良すぎではありませんか。私がねえさまを死なせたすぐ後で、私の父が大陸で実は生きていて、実田のおじさまに連絡を取ってきただなんて」

「信じられませんか」

 早川は落胆を胃の腑に押しこめて問い返した。ちとせはかぶりを振って切羽詰まったようにまくしたてた。

「洋一さんが──夫がすべてやっていることと、はじめは疑っていました。私はあの日の、あの出来事のほとんどのことを憶えているんです。ねえさまの亡骸を床の下に埋めることができなかったことなどはとくにです。誰かが後のことをすべてやってくれた。そんなことができるのは私の夫だけだと──それに夫ならば、父が母へ戦地から送った本物の手紙のありかを知っていましたし、いつでも読むことができました。だから父の、板垣の筆跡を真似ることもできます。ただ──ただ、夫は一度も中国へは行ったことがありませんし、あちらに知り合いがいるとも到底思えません。ですが、どうにかしてわざわざ向こうから手紙を送ってもらって『板垣英介』が向こうに実在していると思いこませようとしていると──」

 ちとせは息を呑み、整え、そして静かにつづけた。

「ですが、それもちがうのかもしれません。夫はそんな素振りを一度もみせたことはありませんでしたし、策を弄するような性分ではありません。真正直な人ですから、隠しごとをしていればすぐにわかります。となると手紙の送り主は誰なのか──」

 ちとせは実田にすがるような目を向けた。しかし実田はそれを受けとめようとしなかった。早川がちとせに訊いた。

「そこまで疑いながら、どうして手紙のやりとりをつづけたのですか」

「一縷の望みでした。疑ってはいましたが、それでもやはり私は、父が本当に今でも生きていると信じたかったのです。この手紙が嘘だと決めつける理由もありませんでしたし――でも、そうではなかったようですね。タイミングが良いのも当然ですね。手紙の送り主は私の行いをすべて知っていたのですから」

 ちとせはリュックサックを拾いあげると、中から黄ばんだ便箋の束を取りだした。その中の一通を早川に渡した。

「手紙の『父』はやはり嘘をついていました。終戦からずっと、故郷の地を踏んでいないと言っていたのですが――」

 筆圧が濃く剛胆な「板垣英介」の筆跡は、間接照明の薄暗い部屋の中でも読めた。ただそれ以前に、明かりも老眼鏡も早川には必要なかった。

「それは五通目の手紙です。手紙の『父』は日々の暮らしぶりや娘の成長ぶり、故郷の季節の移ろう様子などを知らせてくれと言って、私は返事の手紙にそういったことを綴っていたのですが──ねえさまにあんなことをしてしまってから一年ほど経った頃でしょうか。私の心はひどい状態でした。私は手紙にその自分の心の状態を書き綴りました。見も知らない遠く彼方の『父』になら本当のことを言ってしまって構わない──もし、父の名を騙る誰かだったとしても、もうどうにでもなれという思いでした。とにかく吐きだしたくて。そんな手紙を送った後、しばらくして届いた手紙がそれです」

 早川は広げた手紙に目を落とした。

『──君が何かのことで悩み苦しみ、何もかもを壊したくなるとき、そのときは思い出してほしい。君には家族がいます。君のすぐ横には優しく、そしてたくましい心の持ち主である御主人がいて、君の苦悩を我がものとして受け入れてくれるでしょう。君が苦しいとき、彼も苦しんでいる。君らは二人で一つです。支えられなさい。支えてあげなさい──』

『──君の愛くるしいお嬢ちゃんは、心の傷の裂け目にどんな傷でもたちまちなおしてくれる特効薬となってくれることと思います。お嬢ちゃんをその胸に抱いてあげなさい。君の痛みが誰のために生まれたものなのか。いま一度考えてください。その痛みは覚悟の痛みではなかったか。痛みから解放されたいという切望は、すなわち覚悟を捨て去るということではなかったか。いま一度考えてください――』

 早川は顔をあげてちとせを見た。彼女は手にまだ便箋を持っている。六通目の手紙だといってそれを手渡された。

「『父』の励ましもこの頃の私には何も響いてきませんでした。私はもう限界でした。私の心の状態を『父』に打ち明けました。それはその後の手紙です」

『――痛み、苦しみ、悩みから解き放たれたいという切なる思いは、決して間違ってはいません。背負った荷に押し潰され、もう膝も立たないときがくるかもしれない。そのときは荷を降ろしなさい。そうしてもいい。大丈夫。後のことは何も心配ない。降ろした荷のことなど忘れ去ってしまえばいい。忘れ去ることができるのです。忘れ去り、君は家族と共に先へと歩んで行ける。

 これは確かです。

 君の迷いは杞憂です。夢の中の出来事だったのです。何も心配はない。君と君の家族の未来は安泰だ。必ず幸に恵まれます。私が約束します。何も心配はいりません――』

 早川は顔をあげて、実田を見やった。その顔はコートの襟の陰の中にあり、よく見えなかった。明かりにぼんやり浮かぶちとせの顔は蒼白だった。早川は手紙をちとせに返した。手渡すときに初めて便箋の皺やふやけに気づいた。これまで何度も何度も、便箋を握りしめるようにして読み返してきたのかもしれない。ときには涙を滲ませて。

「私の罪を具体的によく知っているかのようでしょう。すべて知っている上での『何も心配はいらない』という言葉なのだと思います。その言葉は結局のところ、ユリねえさまの亡骸は私の知らない別の場所へ葬ったから、もし私の心が折れるときがきて警察へ出頭したとしても、罪に問われることはないということを意味していたのですね。その手紙を受け取った当時はそんなことになっているとは露とも知らずにおりましたが──なにはともあれ、手紙の『父』は私の罪の行いに深く関わっていたようです。生きて中国に残留している父が、この事情を知る人から頼まれて手紙を書かされていたのか。あるいは父はずっと近くにいて、私の罪を知りながらも私の背中を前へと押すために手紙を書いていたのか。もしくは、父はやはり生きてなどおらず、どなたかが父の名を騙って手紙を書いていたのか――」

 ちとせは言葉を切ると、実田のそばへ寄って跪き、顔をのぞきこんだ。

「おじさまが全部なされたことなのでしょう? 私の父はやはり亡くなっているのですね。それで、おじさまは父になりかわって、私を叱咤するためにこのような手紙をお書きになった――そうでしょう、おじさま? でも、なぜです? どうしておじさまがこんなことをなさるのです?」


     十二


 実田はちとせから顔を背けた。

 早川の視線もうるさかった。いらだちが募るばかりだ。銃身に浮いた錆を爪でこそげ落とそうとした。爪がきしみ、嫌な音を立てた。

「先生、私見を述べるお許しをください」

(散々喋っておきながら、いまさら何を言うか)

「構わねえから話せよ」

 引金にかけた指の腹が力み、白くなる。実田は、中尾に向けて再び引金を引くことを厭う気はなかった。

(お前は死んでおればいいのだ)

「先生――」

 お前もだ。許さんぞ、早川。どこまでお前たちは私の中に踏みこんでくるつもりだ? いまここであらかたのことを暴きたてたところで、一体どうなるというのだ? なんの得がある? 知らないでいた方がいいことだってある。この世はそんなことだらけだ。お前たちはそれを見極めることもできないのか。

 実田は奥歯を噛んだ。骨がきしみながら、頭蓋が張りつめてくる。怒りに震える指先がいまにも引金を引き絞り、撃針を解き放たんとしていた。金属部品の微かなゆがみと擦れあいが指の腹から脳の深部へと伝わっていく。だが、そこでは迷いが渦を巻いていた。

(この銃口を誰に向けようか)

(そんなこと決まってるではないか)

(決まってる? では一体誰にだ?)

 その答えが出ないまま、実田に衝動が襲ってくる。膝の上から銃身が浮き、銃口が持ちあがっていく。引金にかけた指の腹に力が込められていく──。

「先生、それでは私に間違いがありましたら、どうかご否定なさってください」

 早川の声に我に返り、すんでのところで実田は引金から指を引き剥がした。

「その手紙は――実は、先生が文面をお考えになられ、私が板垣さんの筆跡をまねて書いていたものです。筆跡の参考となったのは――誠に申し上げにくいのですが、一度、あなたのご不在中にご自宅に勝手にあがらせていただき、戦前にお母様に送られてきた板垣英介本人からの手紙の束を拝借して複写させていただきました。お母様の形見である板垣英介からの手紙を、あなたが大事に保管していることは確かだと思われましたので」

「つまり──父は、板垣英介はやはり亡くなっているのですね」

 ちとせは静かに訊いた。

「はい」

 早川は躊躇なく答えた。ちとせは唇を引き結んだ。

「亡くなられたときの状況を板垣さんと同じ部隊に所属していた方々が憶えておられました。戦闘中の死亡は事実です」

 そこで言葉を切って実田に向きなおった早川の目に、不意に戸惑いの色が浮かんだ。

「先生――今日、私はいくつもの証言をいただいてここに参ったのです。証拠も、この目で見てきました」

(証拠だと?)

 実田の思考の整理を待たず、早川はつづけた。

「先生、板垣さんという方は常に勇敢で、部下思いの兵士だったそうですね。敵の弾の標的になるのは自分一人で十分だというのが口癖だったそうで、常に先陣きって戦われたのもそれが理由なのでしょう。そういう方だったから、誰もが彼を慕い、頼り、尊敬してやまなかった」

 その通りだ、と実田は歯噛みした。あの男の中にあるものは、自分には一つもなかった。

「その戦闘でも、板垣さんは真っ先に飛びだしていき、飛びかう銃弾をかいくぐって敵陣地に突き進んでいったそうです。しかし、多くの者が見ている前で、板垣さんは倒れました。当初誰もが、板垣さんは敵の狙撃に遭ったのだと思いこんでいました」

 その言葉尻に引っかかり、実田は顔をあげた。早川は重い口を開いた。

「板垣さんは味方の銃撃を受けたのだと、私は考えています。おそらくは――先生が放った銃弾に、彼は殺されたのでしょう」


 照星の向こうの景色は砂埃と無数の弾丸を放った機銃の硝煙で何も見えなかった。ただ、埃も煙もすぐに風に流されていった。十四年式拳銃の細い銃身の上で陽炎が立ちのぼっている。手首に残る痺れを感じながら、ゆらめく空の青の中に実田は何かを見た。

 鉄帽が何かの飛沫を撒き散らしながら宙を舞っていた。

 実田は伏せた身を起こしてその行方を目で追った。弧を描く鉄帽がやがて地面にひと跳ねし、ひと転がりして静止すると、唐突に男たちの悲痛な絶叫があがった。その叫びはやがて怒気のこもった雄叫びに変わり、男たちは──峰岸五郎とその手下を除いて──残らず敵陣へ雪崩れこんでいった。

 次々と敵の銃弾に倒れていく男たちは実田にとってただの背景に過ぎなかった。実田は、鉄帽のすぐ横で手足を投げだして臥している男の方へ這っていった。

 はたと手足の運びを止めた。

 男は板垣に間違いなかった。自分が撃ったことは間違いなかった。

 黒く濡れたその顔の真ん中で、三白眼が実田を見つめ返していた。二人の間を紫色の硝煙が流れてきて、それが実田の目に滲み、板垣の最期は涙に霞んでいった。


 実田は拳銃の引金の側面を無意識に人差し指で撫でていた。

 この小さな鉄の機械が暴れだすきっかけを実田は幾度も与えてきた。青木善三のときは激しい怒りが人差し指からほとばしるままにまかせた。千束組事務所での中尾の反抗には動揺させられたが、無我夢中で引金を引き絞った。それらに比べ、今日この日のなんと平静なことか。

 板垣を撃ったときの音も臭いも憶えている。なのに引金を引き絞った感触だけは憶えていなかった。あれは本当に自分がやったことなのか。そう、そのはずだ。あのとき、板垣の後頭部に照準を定めていたのは自分だけだ。しかし、思い出せない。板垣を殺した感触を。心をついに解放させた瞬間のことだというのに。

 近づく気配に我に返り、実田は咄嗟に銃口を向けた。照準線があやまたず巨躯を貫く。だが銃口と腹との間に早川が手を広げて飛びこんできて、大室と実田の両方を押し留めた。大室は唾を飲み、あとずさった。早川は自分の体を盾にしたまま言葉を継いだ。

「先生――私は板垣さんの遺骨をこの目で見てきました。彼の墓を暴いたのです」

 はっと息を呑んだのはちとせだった。早川は申し訳なさそうにちとせを振り返ったが、すぐに眉を寄せていまにも泣きだしそうな目を実田に向けた。

「おじさま――」

「どうか、先生ご自身のお言葉でご説明していただけませんか。先生は当事者でございます。それにひきかえ、私は部外者です。大まかなことしか言えません。それではここにいらっしゃる皆様に、いちいち誤解が生じかねません。それは避けとうございます。どうか先生の真意をお聞かせいただけませんか」

「――どこまでわかってる」

「戦時中のとある冬のことです。昭和十七年の二月──」

「もういい、黙れ」

 実田は吐き捨てた。しかし早川は引きさがらなかった。

「先生のためでもあるのです」

「私に生き恥を晒せというのか。万死に値する恥だぞ」

「恥など──そんなことをおっしゃっているときではありません。先生にお話しいただけないのなら、やはりかわって私が――」

「早川ッ」

「黙らせたかったら、どうぞその銃で私をお撃ちください」

 早川は毅然と言った。実田は銃口を早川の胸に向けた。握った木製の銃把がきしんだ。早川は実田の目を見つめたまま表情を変えなかった。

「ただ、どうか――私を撃ったらばそのあと──どうかご自身の罪と、真実を告白されますように」

「おじさま――」

 ちとせの細い声がした。途端に銃身の先が震えだした。実田は極力声を抑えて言った。

「ちとせ君――知らない方が幸せなことだってあるんだよ。だからどうか――いますぐここから出ていってくれないか。出ていって、ここであったことを全部忘れてくれるなら、その怪我している男のために救急車を呼んでやってもいい」

「駄目だ。この女こそ真実を知らなきゃならんのだ」

 中尾がちとせの手首をきつくつかんで引き寄せ、実田に怒鳴った。実田は中尾に銃を向けた。しかし銃口の前にちとせが立ちはだかった。

「どきなさい」

 実田は怒気を込めて言った。

「おじさま、どうか答えてください。おじさまが父を──板垣英介を殺めたのですね」

「そうだ、と言えば君は満足なのか」

「なぜです? 父がおじさまに何をしたのです。一体何があったのですか。昭和十七年の二月って何のことですか。何があったのですか」

 ちとせは早川にも答えを請うような目を向けた。しかし、早川の視線はなおも実田自らの告白を待ち望んでいた。

 だが実田は、血の気が引くまできつく引き結んだ唇をほんのわずかにも開くことはできなくなっていた。

「その年の二月、というのは――」

 重く胸を圧す沈黙の底で、唐突に口を開いたのは手錠で縛られたままの須永だった。

「昭和十七年二月とは、実田少尉が負傷の療養を終えて、原隊復帰のために大陸へ戻っていった頃のことです――滝井が記録を調べていました。滝井はこの事実をあなたに突きつけたんですよね? だからあなたは――」

 須永の声は微かに震えていた。

「実田さん、あなたはその前年の十月、中国大陸中部地方の宜昌における戦闘で、砲弾の破片による左大腿部の裂傷を負って本国還送されましたね。そして仙台陸軍病院で十七年二月八日まで療養入院していた。退院したのは二月九日、さらにその次の日には原隊復帰命令を取りつけ、退院から四日後にはもう広島宇品港から再び大陸へ渡っている」

「その前――あなたが退院した日だ」

 大室が切りだした。

「その日、あなたが故郷長岡に帰ってくるのを智子さんが駅へ迎えに行った。だが、智子さんはその日に――ある事件に遭われた」

「事件――どんな事件ですか」

 ちとせが食いつくように大室に問うと、大室ははじめ言い辛そうに口ごもっていたが、意を決して口を開いた。

「暴漢に襲われたんです――暴行され、辱めを受けたのです。十七年二月九日、その日に」

 ちとせは絶句した。大室の後を引き継いで、早川がちとせに向きなおって訊ねた。

「ちとせさん、あなたの生年月日はいつですか――いえ、届出上の、戸籍上のではなく、本当の出生日です。おおよそいつ頃かおわかりですか」

 ちとせは答えられなかった。ただぼんやりと一同を見まわし、最後に実田のところで視線がとまった。

 実田は拳銃をゆっくりと膝に置いて、その銃把に刻まれた文字に重だるい視線を落としこんだ。「板垣英介」と彫りこまれている。やがて実田は言った。

「君の父親は板垣などではない。ましてや瀬野創治郎などでもない――本当の父親は、この私なんだ」


 雪を被った畦道を息を切らしながら駆ける智子は、獣に追われる野兎だった。

 暗色の外套を翻しながら猛然と迫る軍人に襟首をつかまれ、上っ張りのどこかが派手に裂ける音がした。それでも智子は身をよじって逃れ、青白い土手を転がり落ちた。

 智子は振り返って顔を引き攣らせ、またも駆けだした。吹き溜まりにはまって長靴が脱げてもなお、泳ぐように雪を掻いて逃れようとした。そのたびに、もんぺから突きだした白い足袋が現れては雪の中に消えていった。

 実田はその足首をつかんで一息に引き寄せた。智子は突っ伏し、引きずられ、仰向けになって雪の底で暴れた。実田が体重をのせた拳を智子の頬に見舞うと、智子は瞬時に大人しくなった。それでも残る荒い息遣いは雪があらかた吸いこんで消し去らんとした。智子は息を飲みこんだ。数瞬の無音の後、実田は智子の襟を力任せに開いた。

 俺は板垣などよりお前のことを好いているんだ。誰より一途にお前を想っているんだ。それにひきかえ、お前が想いを寄せる板垣が、向こうでどれだけ慰安所の女を抱いているか知っているのか。心優しくたくましいと、そうお前が思いこんでいる板垣が、どれだけの敵兵をなぶり殺しにしてきたかわかっているのか。その事実を、残酷な現実を、暢気なお前にわからせようとしただけで、なぜ俺にそんな目を向けるのか。嫌悪すべきは俺ではないだろう? 

 俺はいまだにたった一人の敵兵も殺していない。一人の売春婦も抱いていない。いまも先頭きって人殺しに興じ、お前以外の女の肉と肌を貪る板垣にこそ、その目は向けられるべきではないのか――いいや、お前も同罪だ。俺や板垣の居ぬ間に瀬野の親父と乳繰りあいやがって。わかってるんだ。あの男は前からお前を──そしてお前はあの男と──。

(この売女め)

 悲鳴をあげる口に実田は雪を押しこみ、頬を張った。だらりと脱力した智子の、喉の下からへそにかけた白い肌が目にしみた。目障りな腰紐を引きちぎり、もんぺをずりおろした。 

 実田は事の最中、圧倒的な暴力をもって智子を支配した。己の力を実感し、行使することに恍惚とさえなった。かろうじて意識にこびりつく理性が実田に魔物の憑依を気づかせようとするが、実田はむしろ身の内に飼う魔物の存在に、その力に喜び、打ち震えていた。

 実田は柔らかく熱い肉を咬み、ちぎれるほど握りしめ、抗えば頬を殴り、喉を締めあげた。そして、抗することを諦めた智子の上にのしかかって、実田は頂に達した。

 声を殺して泣く智子に実田は引き裂いて剥いだ服をかけてやったが、いまさら善良な仮面で取り繕おうとしてももう遅かった。実田は智子の顔を見ることができなかった。その顔は醜く変形していた。息も浅い。途端に恐ろしくなった。実田は智子の残骸を置き去りにして逃げだした。


「智子はそのときに死んだと思っていた」

 実田は淡々と言った。

「原隊に戻って、板垣と再会したときに初めて智子がまだ生きていることを知った。智子は板垣に手紙を書き送っていたが、私のしたことについては何も書き記してはいなかった。彼女の最後の手紙は板垣に別れを告げるものだった。そのことで奴は私を問いつめた。私が何も答えなかったものだから、奴は私を怪しんだ。智子の心変わりは私に原因があると責めた。私が何か告げ口をしたんだろうと。だから私はすべて話してやった」

「先生と板垣さんが――いえ、板垣さんが一方的に先生を殴っているところを多くの人が目撃しています。皆が板垣さんの死と、そのときの出来事を結びつけて考え、先生が犯人だと疑ったこともあったそうです。そんな疑いも酷い戦争の中でうやむやにされていきましたが」

 静かに語る早川を実田は見上げた。

「はじめは板垣を殺すつもりなどなかった。奴への恨みは積もり積もっていたが、そもそも私は自分が殺されるつもりで戦場に戻ったのだ」

「峰岸五郎がそそのかしたのですか。板垣さんを殺すようにと」

 早川は訊いた。実田は首を振った。

「ちがう。あの男は、死ぬよりは生きろと言っただけだ。それも、この私を後々まで利用したいがためかもしれんがな」

「板垣さんの頭蓋骨には銃弾の痕がありました。後頭骨の下の方に小さな──ちょうど銃弾と同じくらいの丸い穴が。一方で、前頭骨は砕け散ったような大きな穴が穿たれていました。銃弾に残るすべてのエネルギーを解き放ちながら一気に、爆発的に額から抜け出たのです。板垣さんは敵陣へ突進していく最中に倒れました。つまり、前方を向いていた。頭骨に残る痕跡、そして被っていた鉄帽が前方、上方へ吹き飛んだという証言――それは板垣さんの背後から――つまり、敵陣からの狙撃ではなく、味方のいる後方から。それも地面に近いところから銃弾が放たれたことを裏付けています。そして、板垣さんを殺める動機を持つ人物はただ一人――」

 実田は早川を手で押しとどめ、黙らせた。

「否定はしない。お前の考えている通りだ。板垣を撃ったのは私だ。そうだ。あの隊で奴を殺す動機を持っているのは私しかいない。だが、奴は自ら私に機会を与えたんだ。いや、私を試したんだ。奴はまさにこの拳銃を、この私の手に握らせ、そして背中を向けたのだ」

 実田は銃把の粗雑な彫り文字にきつく爪を立てた。「板垣英介」の文字にはすでに幾筋もの爪痕が刻まれている。板垣が憎かった。板垣の、そのときの表情が甦ってきた。お前に俺を殺せるのか、とその目が問いかけていた。

「板垣を殺して自分が生きるか、あるいは自分で死ぬかのたった二つの選択を迫ってきた。だが、私は自分が板垣に殺されるという選択肢を待っていたんだ。待ち焦がれてすらいた。だが、先に一つ目の選択肢が目の前に転がってきてしまった。私は無意識にそれを拾いあげた――そう言い訳したいが、やはりちがうな。私の意識のどこかで、これ幸いとばかりに――」

 実田は言葉を切って、額に浮いた脂汗を拭った。

「結果は、板垣が死に、私が生きた。ただ、こんな生き様を晒すとわかっておれば、あのとき板垣に譲ってやるべきだったかもしれん。脳天気なあの男の方が、私よりずっとましな人生を送ることができたはずだからな」

 実田は自嘲した。このいまの状況、そしてこの後に待つ出来事には、自分を笑い飛ばすくらいに皮肉まじりに愉快な気持ちでいることの方がふさわしいと思えた。素晴らしき哉、この人生? 馬鹿を言え。

 

     十三


 復員後、瀬野創治郎に引きあわされ、実田は智子と再会した。智子は何食わぬ顔で実田を迎えたが、一方で実田は動揺を隠せなかった。その原因は、思いもよらぬ智子との再会よりも、彼女の傍らにいる幼子の存在にあった。この娘――ちとせは一体誰の子なのか。

 その後、智子が後妻の花江をさしおいて創治郎の寵愛を受けていることを目の当たりにし、やはり思った通り、彼女は創治郎の第二の妾に成り果てていたのだと実田は認識した。板垣も板垣なら、智子も智子だと、あらためて彼女を蔑んだのである。

 智子は実田を無視しつづけた。事務的な会話以外、一言二言も言葉を交わしたことがない。たまに目が合ってもその乾いた眼差しにはなんの感情も浮かぶことはなかった。蔑みや嫌悪の念すら微塵もないのだ。その一方で、瀬野の人間に対しては従順で、戦前の頃のようにあふれんばかりにというほどではないが、ひかえめながらも親愛の情を惜しみなく彼らに注いでいた。

 実田は、自分と瀬野の人間に対するその態度の差が気に入らなかった。吹き溜まった雪の底でほとばしらせた憎悪と同じものが実田の中で再燃しはじめた。

(我がものにならないのなら――打ち壊すのみだ)

 実田は峰岸組の窪島と組んで瀬野創治郎の破滅を画策した。智子の心身の拠り所とするもの──瀬野創治郎の庇護のみならず、今後一切の生きる糧となるものすべてを奪い去り、孤立無援にし、自分の存在と自分の力なくしては生きられないと思い知らせようとした。

 瀬野家は崩壊寸前まで墜ちた。ただそれでも、創治郎のそばに残って奉仕しつづけようとする智子の決意までは揺るがすことはできなかった。

 智子のその不毛な意志を覆そうと、実田は智子と話をする機会を持った。自分に対する態度を改めさせ、瀬野のもとを離れ、可能ならば自分の援助を受け入れるようにうながすためだ。しかしそのとき、あの雪の底での出来事以来はじめて、智子は実田に対する眼差しに感情を宿らせたのだった。

 それは、かつて見せたおびえではなかった。静かな、そして激しい怒りだった。智子の怒気に触れるのは初めてのことだった。

「私の態度が気に入らないのはわかっていました。あなたの苛立ちは手に取るように感じてましたもの。それなのに、私にではなく、瀬野のおじさまをあんな目に遭わせて――卑怯者。どこまでその身を自ら貶めていけば気が済むのでしょうか。英介さんを殺しただけでは飽き足らないというんですか」

「馬鹿を言うんじゃない。少し落ち着くんだ」

 実田は智子をなだめようと手をのばした。その刹那、智子の顔に恐怖が走った。張りつめていた糸がぶっつりと断ち切れたように震えだし、そして吐き捨てるように言った。

「けだもの」

 実田はむっとして手を引っこめた。

「ずいぶんな言い様だな」

「あなたにはもう心なんてないのよ。多少でも残っていれば可哀想な人って憐れんでもあげられたのに、もうそんなことも無駄──」

「何をいまさら。君の私を見る目つきはそのへんの壁や床を見るようなものだった。よくできた復讐だったよ。実を言うと、本当に参っていたんだ」

 実田は声音を変えて懐柔に転じようとした。智子の瞳が石の肌のようにくすんでいった。

「一つ、ご報告があります」

 実田は、自分が言った「復讐」という言葉が背後から忍び寄ってくるのを覚えた。

「ちとせはあなたの子です」

「なに――」

「あの悪夢のような吹き溜まりの中で、私はあなたの子を身籠もったのです」 

 実田は狼狽えた。

「ですが、そのことをあの子に教えるつもりはありません」

「ちょっと待て──」

「あの子には指一本触れさせません、決して、なにがあろうと――」

「ちょっと待て、なぜいまになってそんなことを話すんだ。なぜ、いままで黙ってたんだ。あの子にとっても、とても大事なことじゃないか」

 実田はそう責めると、智子の目尻が笑みを帯びたかに見えた。

「大事なこと? 私を犯してなぶり殺そうとしたというのに、それでもちとせのことが大事なことだと、あなたが言うの?」

「そりゃそうだろう、あの子が私の娘なら、私は認知もするし、なにより父親としての責任が――」

「冗談を言わないで。あなたをあの子の父親なんかには決してさせるつもりはないわ。あなたのようなけだものを――」

「けだものと言うなッ」

 実田は一喝した。

「戦争のまっただ中だった。あんなところにおれば、誰だってけだものになるんだ。誰でもだ。この私でさえも狂った。あの板垣でさえもだ。いや、板垣などは酷いものだった。だが、それが現実なんだ」

 実田がそう言いきると、智子は途端に泣きだしそうに顔をゆがめた。

「戦争を言いわけにするの? ちとせを戦争の落とし子だというの? 汚らわしいけだものの子だと、私に認めさせたいの? どこまで私を、私たちを貶めようというの?」

「ちがう、そうじゃない――そうじゃないんだ。私は君を好いていた。ずっとだ。あの出来事は私の過ちだ。それは認める。そして、私は君もちとせ君も、心から愛おしいと思っている。この思いに偽りはないよ」

 智子の涙が止まった。実田はにっこりほほえんだ。だが、実田の予想に反して智子の眼差しは急速に冷めていった。

「やっぱり、反吐が出る思いは変わりません。金輪際、私とちとせにそんな思いを抱かないでもらえますか」

「智子――」

「あなたは汚らわしいけだもの。そのお利口そうなお顔のすぐ下に、臭くて汚い牙を隠し持ってる。気づかないとでも思ったの? 戦争のせい? そんな言いわけをするのもいいでしょう。でも、あなたがけだものであることには変わりないわ。それがあなたの本性なのよ。ええ、あなたは確かにけだもの。おぞましい――」

「馬鹿を言え。俺は人だ、けだものなんかじゃない」

 実田が食ってかかると、智子は不敵な笑みを浮かべた。その笑みが消えたとき、白い細面には冷たい怒りが残った。

「強欲ね。ご自分の悪行を指折り数えあげてごらんなさい」

 わなわなと震わせた声に実田は返す言葉を失い、呆然とした。

 そのとき、自分を見つめてくる智子の眼差しにふっと憐憫の色が差した気がした。だがそれもすぐに濁って見えなくなった。

「もし、あなたが塵芥ほどでも人の心を残しているのなら、あなたは残る生涯を悔いて生きることくらいはできるでしょう。ご自分をあくまで人並みの人間だとおっしゃりたいのなら、私がこうしてあなたの存在を汚らわしいけだものと断じる理由を、あなたがちとせの父親に絶対になれない理由を、死ぬまで考えつづけてください」

 智子はさらにつづけた。

「そうしてご自分の犯した罪を悔いているときだけ、唯一そのときだけは、あなたは人でいられるかもしれませんわ。でもそれ以外のとき、あなたはやはりけだものでしかありません」

 

     十四


「ちとせ君には申し訳ないが、正直なところ、智子が亡くなって私はほっとしている」

 実田は平然と言った。実田にかわって早川がちとせに弁解した。

「先生はずっと罪を背負ってきました。私はこの目でずっと見てきました。ですからどうか誤解なさらないよう――」

 実田は早川を制した。

「彼女の言葉がいまでも聞こえてくる。いまだに私を責め立てるんだよ――だからなんだというんだ? 私が何か態度を改めればそれで済むことなのか? 早川、罪を贖うことなどできないんだよ」

「だからって開きなおっていいって法はねえだろうがッ」

 身を起こして中尾は怒鳴った。

「あんたはいまでも自己保身に駆けずりまわってやがるじゃねえか。一体その銃で何人殺してきたんだ? たかが小娘――この糞ババアのためによ。『彼女の言葉がいまでも聞こえる』だと? そりゃそうだ。あんたは智子って女の言う通り、正真正銘、根っからのけだものなんだよ」

 そう一気にまくしたてた中尾に、実田は淡々と返した。

「智子に気づかされるまでは確かに私はけだものだった。それは認めよう。だが、智子の言葉で私は変わろうとしてきた。変われるかどうかはともかく、私は智子にした非道だけはいまだに悔いつづけている」

 実田は中尾を見据えながら、語気を強めた。

「私は智子の言葉に忠実に従おうとしたに過ぎない。けだものでなく、人であろうと努めた。だが結局、彼女の言葉通り、私は君の父親には絶対になることができないことに気づいた。私は罪人だ。智子を辱め、板垣を殺した。瀬野創治郎を貶めた。人であろうと努めても、罪人の域を抜けだすことは決してできない。なにより、罪というものはひとたび犯してしまえば贖うことなどできないものなのだ。法に基づく罪ではない。人としての罪だ。私はそれを犯した。もはや人ではない。けだものだ。だから私ははじめから、君が産まれる前から、君の父親になってはならない存在だったんだ。当然のことなんだ」

「でも、おじさまは私のために、私をずっと見守ってきてくださいました」

「やむを得なかっただけだ。誰かが真実を追求すれば、私が君の父親だという事実にいつか必ず突き当たってしまう。君がその事実を知ることだけは避けなくてはならなかった。君は私が見守ってくれていたと、そう思うのかね? そう解釈してくれるのは喜びではあるがね。ただ私からすれば、私は、君の父親だと名乗ることをせず、よりいっそうの、汚らわしきけだものの道を選んだまでだ」

 実田はちとせの濡れた目をまぶしそうに見つめ返して言った。

「結果、君は幸せではなかったな。私はただ、余計なことをしてきただけなのかもしれない──本当にすまない」

 ちとせはうつむいて、やっと小さく首を振った。と、中尾が吼えた。

「奴を憐れむことなんかねえぞ。こいつはただ楽な道を選んだだけだ。本当にあんたのためを思うなら別の道を選んだはずだろうが」

「では、君なら何ができたかね」

 実田は静かに訊ねた。中尾は歯を剥いてすぐさま反論した。

「何かあったはずだ。俺だったら考える。あんたみたいな考え足らずの行き当たりばったりの殺人鬼にはならない。見てみろよ。死体の山を築いてきた後で、ここにいる誰がいい思いをしてきた? あんたが何か事を起こせば事態は悪くなる一方だったってことにいいかげん気づけよ、馬鹿野郎どもが。そんなことじゃ誰も幸福になんかなれないんだ。あんただってそうだろう。それともやっぱり、他人の人生を喰らって生きのびて、それで平気でいられるほどあんたはけだものになじんじまったか? ちがうだろう?」

 実田は中尾の叫びにじっと耳を傾けていた。言葉が耳腔から入って脳内でこだまする。そのこだまが消え入った後は空虚だった。その中心にいて、実田ははっきりとした寂しさを覚えていた。

 だが、思いがけず口から漏れてきたのは卑屈な笑い声だった。

「何がおかしいんだ、ジジイ」

 実田はむきになる中尾がおかしくてしかたなかった。

「いやいや、君からそんな言葉をかけてもらえるとは思いも寄らなかったよ。ずっと恨まれていると思ってたものだから。その心境の変化は、酒のおかげかね。それともやはり麻薬のおかげか?」

 中尾は怒りをあらわにしかけたが、力なくうなだれて口の端から垂れてきた唾液を手の甲で拭った。

「酒と麻薬」

 実田は中尾を冷たい目で見下ろした。

「それが君の選んだ道だ。私が君を生かしつづけた理由はまさにそれだ。君は真相を求めようとはしなかった。私を捜しだし、死んだ仲間のために復讐しにも来ない。君がしたことは酒に溺れ、麻薬を打ち、その顔の傷に日々悲嘆に暮れていただけだ。行き当たりばったりの、くだらぬその日暮らしをしてきたのは一体どっちの方だ? 私か、君か? まさかとは思うが、君は自分が人並みの人生を送れていると信じているのか?」

「いまからだって遅くはない」

「もう遅いんだよ。君は自分の年齢を忘れてやしないか。私は忘れてはいない。いまさら何が変わる? 何が変えられる?」

 睨みあげる中尾を実田は鼻で笑ってあしらった。そしてその笑いを微塵も残さない顔に戻り、実田はつづけた。

「確かに君の言う通り、私はけだものであることから抜けだすことができなかった。それどころかさらにいっそう多くの罪を重ねてきたものだ。死体の山――そうかもしれない。だが私にはそんなことはどうでもいいことだ。ちとせ君が幸福になれれば──」

 実田はまたも言い淀んだ。実田が申し訳なさそうな目を向けると、ちとせは再び首を振った。自分を気遣ってくれている。明らかに彼女は不幸になってしまったというのに。痛々しいにもほどがある。実田の古雑巾のような体は、力まかせにしぼりあげられるように、首から下がすべてねじ切れそうになる。だが、中尾などにこの思いを見透かされたくはなかった。

「事の真相をこんなところで喋らされたというのはまったくの大誤算だった。墓場まで持って行くつもりだった――まあ、所詮は人以下のけだもののあがき──もとから勝率の低い賭けだったのかもしれない。それでも私は、けだものなりに努力したつもりだ。けだものなりの知恵を絞り、けだものなりに非道の限りを尽くし、しかしけだものの心で精一杯、ちとせ君とちとせ君の家族の幸福を願った。それでも私は安易な道を選んでしまったというのかね──いや、確かに君の言う通り、この道は安易なものだったかもしれない。ただ、もっともっと思慮深ければ、けだものでなく人並みの思慮があれば――たとえば人並みの人であること自負している君ならば、他にもっとまともな道があったというのかね」

 実田は中尾の目をじっと見つめると、次いで一同の目を順繰り見つめた。それから実田は拳銃に視線を戻してから言った。

「そんなものはない。私にはそもそも選択肢などなかったんだ。まったく別の状況、まったくよその誰かの出来事であれば、けだものであろうがなんだろうが、他に選択肢はあったかもしれない。しかし、この状況、この私に限ってはそれはなかった。だから、いつだって私はなんのためらいもなくこの引金をひいてきた。引くことができた。中尾君、君も人の親――いっときでも組を構えた頭領ならわかるだろう? 危機に瀕している自分の子を救えるのならば、どの親が修羅の道へと踏みこむことをためらうんだね?」

 中尾は歯噛みしていたが、ややあってつぶやいた。

「詭弁だ。親だからこそ、子のために最善の手を尽くすべきなんだろうがよ。あんたがまずまっとうな道を選び、自分の子にまっとうな道を選ばせるべきだったんだ」

「外野の意見だな。やはり、君とは相容れないようだ」

 実田は一つ溜息をついてそう言うと、早川の名を呼んだ。


     十五


「皆に出ていってもらいなさい。話は終わった。これ以上はない」

「先生――その拳銃を」

 差しのべられた早川の手を実田は無視した。

「実田さん、もう終わりにしましょう。そのために、ここでこうしてお話しされたのでしょう?」

 須永が歯痒そうに手錠の鎖を鳴らした。

「おじさま――」

 よろけるように一歩踏みだしたちとせを大室は腕を引いて止めた。早川がもう一度、慎重に言った。

「先生、私にそれを――」

「出ていけと言ってるんだ。皆、出ていけッ」

 実田はあらんかぎりの声で怒鳴った。だが早川は引きさがらなかった。

 大室はそばにあった空のグラスをつかんだ。

 早川がいきなり飛びかかったのと、実田が自分のこめかみに銃口を押しつけたのは同時だった。早川の手は空を切った。実田の指が引金を引き絞った。

 実田の顔のそばで光が弾け、炎の色がきらめいた。銃弾は実田の背後の壁に穴を空けた。軽い音を立ててクリスタルの破片が雹のように床に降った。固く閉じた実田の目がかっと見開いた。

 無数のガラス片を赤い血とともに顔面に散りばめた実田は目と歯を剥いて、グラスを投げた大室を睨みあげた。その手にはまだ十四年式拳銃の銃把が握りしめられていた。銃口が再びこめかみにめりこんだ。

「早川ッ」

 大室は叫んだ。

 早川は実田の手にしがみついた。

「どけッ――頼む――」

 銃声が二度轟いた。一発は天井を穿ち、一発は窓を割った。砕けた窓が床に雪崩れ落ちたあと、拳銃がごとりと床に落ちた。間髪を入れず早川はそれを思いきり蹴飛ばした。拳銃は机の下に滑りこんでいった。

 実田は椅子からずり落ちそうになりながら、呆然と椅子の肘掛けにしがみついていた。その足下で早川は顔をゆがめて息を切らしていた。

「先生──死ぬなんて、いけません」

「馬鹿者が――この歳で刑務所など、耐えられると思うのか」

 そう言い放った実田に、早川は必死に懇願した。

「まだこれからでしょう、先生ッ? これからじゃないですかッ──生きてください、先生──」

「死なせてやりゃあいいだろうが」

 冷然とした声が部屋に響いた。

 全員が声の方を振り返った。言葉を発したのは床から身を起こした中尾だった。机の下から十四年式拳銃を引っ張り出している。そして重そうに銃を持ち上げ、腕を真っ直ぐにのばす――。

 三つの白い炎が大室の目をくらませた。

 銃声が轟音を立てるさなか、ちとせが早川の名を叫んでいた。

 早川が血で胸を染めていた。その体はゆっくりと実田の足下に沈んでいく。実田は咄嗟に早川の体を抱えこんだ。ちとせが銃口と早川らの間に割って入った。

「邪魔すんじゃねえよ、お前らッ。奴は死にたがってるだろうがッ」

「もうやめてくださいッ」

 ちとせが声の限りに叫んだ。

 と、中尾の口の端から垂れた唾液が顎を伝い、糸を引いて床に滴った。中尾は無意識に手の甲で口元を拭った。だが、拭うそばから唾液が唇の隙間から垂れていく。中尾は慌てて自分のまわりを手探りしはじめた。だが、やっと見つけたハンカチに手は届かなかった。中尾は目を細めてそのハンカチをじっと見つめると、いきなり銃口を自分のこめかみに当て──そして引金をひいた。

 小さな金属音が微かに部屋の天井に反響した。

 中尾は獣のように低くうめいた。遊底を引いて不発弾を弾きとばして次弾を装填し、再び自分に向けて引金をひいた。

 今度も不発だった。

 中尾はまたも遊底を引っぱった。しかし遊底はさがったまま元の位置に戻ることはなかった。弾倉はもう空だった。

「畜生――なんでいつもこうなんだ──」

 中尾は声をあげて泣きだした。その直後、不意に床に突っ伏し、気を失った。

 大室は中尾の手から拳銃を取りあげ、床に転がった二つの不発弾を拾いあげた。粗雑なつくりの銃弾は、どちらも雷管に撃針の痕があったが、薬莢も雷管も黒ずみ、ところどころ青緑色の錆がこびりついていた。

 大室は電話をつかんで救急車を呼んだ。須永は手錠の鍵穴にクリップを突っこんで解錠しようと躍起になっている。早川はちとせの手を借りて床に横たわった。吐いた血が口元を汚していた。

「やはり──私が先のようですね――すみません」

 早川は実田を見上げて言った。実田は椅子に座ったまま、早川と視線を交わすことを避けていた。

「役立たずが」

 と、実田はそれだけ言った。早川は嬉しそうにほほえんだ。

「先生――ありがとうございました」

 実田は口の中で馬鹿者めがとつぶやくと、嗚咽に肩を震わせはじめた。早川も数瞬の間、顔をくしゃくしゃにゆがませた。そして視線を移し、ちとせの名を呼んだ。

 はい、とちとせは答えた。三カ所の射入口はちとせの手にあまっていた。指の隙間から鮮血が脈を打ってあふれている。早川はそのちとせの手を両手で包みこもうとしたが、寸前で手を引っこめた。早川は気まずそうに苦笑いを浮かべた。

「早川さん――」

 ちとせがいまにも泣きだしそうな顔で早川の顔をのぞきこんだ。早川は穏やかな顔を返し、赤く染まった口を開いた。

「お願いが――」

「何でしょうか」

「笑って、もらえますか──私の最期に、もう一度──」

 ちとせは涙の粒を早川に降らせながらいびつに口元を歪めてみせただけで、嗚咽を堪えるので精一杯だった。ちとせは申し訳なさそうに首を振った。

「ごめんなさい――ごめんなさい――」

 早川の手が、少し逡巡した末、ちとせの手に──ほんの指先だけで、そっと触れた。

「すみません――無理を言って――」

 喉から泡立つ音が聞こえてきたかと思うと、その声が濁った。早川は血の咳を吐きだし、そしてすぐに目の色を失った。ちとせはその胸にわっと泣き伏した。




    終章


 斎場からつづく赤枯れの桜並木を大室は歩いていた。ふと立ちどまって振り返り、ちとせの歩調を確かめた。

 ちとせはうつむき加減で、歩道を埋めつくす落ち葉を踏みしめながら大室の後をついてくる。胸に抱えた骨箱の白風呂敷が、午後の陽を跳ね返して眩しく、空の青に映えていた。ちとせは大室の視線に気づくと照れくさそうにはにかんで、歩みを早めて追いついてきた。二人はバス停まで黙って歩いた。

「それを――」

 大室は骨箱を受け取ろうとした。早川には身寄りがない。自分がどうにかするつもりだった。だが、ちとせは箱を抱えたまま渡そうとしなかった。

「私にお任せくださいませんか。父と――それに主人と相談しようと思っています」

 その返答に大室は目を丸くした。

「ご主人にも話されるんですか」

「はい――主人が目覚めたら、ですけど。そうさせていただいてもよろしいでしょうか」

 ちとせの眼差しを大室は受けとめた。大室の胸の内は複雑だったが、ちとせの目を見ていると自然と安堵へと心が傾いていった。

「それが良いでしょう」

 大室はちとせにほほえんだ。

 早川の意に反することだが、やはりちとせは真実を知っておくべきだと大室は考えていた。そしてできる限り早く知るべきだとも。いまのちとせならすべてを受け入れることができるだろう。偽りつづけ、余計な重荷を背負いつづける日々はもうおしまいにしなくてはならない。老いゆく自分たちには、残された時間はそう多くないのだから。

 それからふと、ちとせが「父」という呼び名を自然と口にしたことを思い出し、大室の感慨は一段と深まった。

 実田は拘置所に収監され、自身の裁判を待っている。ちとせも証人として実田と中尾のそれぞれの公判に出廷することになるだろうし、彼女のことだから公判が開かれるたびに傍聴席で彼らを見守るつもりでいるだろう。

「私もこの先、ご一緒させてもらっていいですか――あ、いえ、裁判のことなんですが」

 大室は慌ててつけくわえた。公判に付き添いたいということ以外に他意はないつもりだったが、思いなおせば本心は言葉通りの意に近かった。この先もちとせとともに――必要とされようとされまいと、大室はちとせの支えになりたかった。彼女の進む道を、ただそっと付き従って歩きたかった。早川がしてきたことを自分が受け継ぎたかった。

 その胸の内を知ってか知らずか、ちとせは顔をあげ、はいと答えた。大室はその白い顔を見つめた。滲みでている柔らかな笑みに、彼女は自分自身気づいているだろうか。ちとせは不思議そうに見つめ返してきた。大室は照れくさくなって目を逸らした。

「そうやってほほえんであげれば良かったんですよ」

「え?」

 ちとせは聞き返した。大室はちとせが胸に抱いている箱を顎で指した。

「その男に、ですよ。奴はそのためだけに生きてきたようなものなんですから」

「そんなこと――」

 ちとせは途端に表情を消してうつむいた。そして、言葉を選んで口にした。

「ねえさまはもう、笑うことなどできないのです。私が奪ってしまったんですから」

「そのお姉様のぶんまで、というわけにはいかないものですかね」

 大室はそう返す。ちとせは憤然となって顔をあげた。

「それは生き残った者の勝手でしかありません。母が父に言ったように、私も生きている間、悔いつづけなければなりません」

「しかし、あなたはもう十分すぎるほど悔やんできたでしょう」

「それでも罪を贖ったことにはなりません。どんな罰を与えられたとしても、ユリねえさまや他の方々はもう戻って来ません。信心深く神さま仏さまにすがりつき、救いを求めれば罪は贖われますか? あるいはこの命を自ら断てば償いになるでしょうか。どちらも答えはいいえでしょう。何をしたとしても、ねえさまたちの幸福ある未来を奪ってしまった罪は決して償えないのです」

「しかし、あなたの場合は――」

 大室は藁にもすがる思いだった。ちとせは首を振るばかりだった。

「ねえさまは生きようとしただけです。必死に、自分にふさわしい幸福を求めていただけなのです。大室さんは、ねえさまのその気持ちが行き過ぎだったとおっしゃりたいのでしょう? いいえ、何人もねえさまの気持ちを否定することはできません。私はそのときすでに、ねえさまから多くのものを横取りしていたのですから──」

 ちとせは静かにつづけた。

「瀬野のおじさまは母に我が娘のように優しくしてくださり、私を我が孫のように慈しんでくださりました。でも、おじさまのその慈愛の心は、ユリねえさまには向けられていなかったのだと思います。ねえさまの寂しさを、私はわかってあげられませんでした。ねえさまはただ、私が奪ってしまったものを取り戻そうとしただけなのです。私は、奪ったものすべてをねえさまにお返ししなければならなかったのです」

 胸をつかえさせたちとせが落ち着くのを待って大室は言った。

「あなたのお考えはわかりました。ただ、実田さん――お父上や、早川は、彼らなりに信じるもののために行動したのです。彼らなりの――私たちなりの正義があったのです。それだけでもご理解いただけませんか」

 ちとせは大室をじっと見つめた。

「大室さんは、後悔なさっていないのですか」

「結果的にあなたを苦しめてしまったことだけは悔やんでいます」

 大室はちとせの目を真っ直ぐ見て言った。ちとせは目を逸らし、うつむいた。

「中尾さんは私におっしゃいました。『こんな惨めな女の人生のために、何人もの人間が死んだ』と。亡くなられた方たちだけではありません。大室さんや父や早川さん、中尾さんも――私は本当に多くの方々の人生を台無しにしてきました」

「私たちのしてきたことは無駄だとおっしゃるのですか」

 ちとせは答えなかった。大室は唇を噛んだ。口中に滲みでてくる唾液が苦かった。だが、その苦みが不意にすっと引いた。大室の脳裏に早川の最期の言葉が過ぎったのだ。

(すみません――無理を言って――)

 早川はそう言った。大室は空を仰いだ。晩秋の冷気が鼻腔の奥にしみた。

(奴は何も求めなかったな)

 空が途端にゆがみだし、落ちてきそうになる。

「もう行きます。滝井の見舞いに行くんです。車に須永を待たせてるんで――」

 大室は大きく一つ鼻をすすると、急くように言った。

「早川をよろしくお願いします。きっと喜んでいますよ」

 ちとせは胸の骨箱に目を落とした。

「あとはあなたの、心からの――」

 大室は言いかけてやめた。本当なら言いたかった。早川の希望だった。早川にとっては、人生をかけるに値するものだった。だが早川は、結局何も求めずに逝った。

(それでいいんだ)

 ちとせには大室が飲みこんだ言葉がわかっているようだった。思いを馳せる瞳に、早川の最期が見えているのだろうか。

(これでいいんだ)

 大室は自分に言い聞かせた。

「そうだ、これをあなたにお返ししなきゃ」

 大室は一枚の写真を渡した。ユリの遺品ともいえる、少女期のちとせとユリの散髪風景を写しこんだものである。ちとせは一瞬目を瞠ったが、すぐに眩しそうに目を細めた。

「憶えています。カメラは父が――そばには母も、瀬野のおじさまも花江おばさまも、お兄様たちもみんなご一緒でしたわ。このときは母も──みんながこうして幸せそうにほほえんでらしたっけ――」

 バスがドアを閉めて発進する。車窓越しにちとせと会釈を交わした。やがて並木の向こうを曲がって見えなくなった。

 独りになると、大室は再び空を見上げた。空は元通りの底抜けの青空だった。吸いこんだ冷気が鼻腔の奥で熱くなった。

 こんなにも高い空があることを忘れていた。貪るように、大室は空を見渡した。この青一色の景色をずっと見ていたかった。だがそれはかなわなかった。

(早川、あんたは正しかったのか? 俺たちは、間違っていたのか?)

「なあ、どうなんだよッ」

 大室はあらん限りに身を震わせ、声を震わせて、ゆがんで崩れ落ちてくる空に吼えた。返事は返ってこなかった。大室は辺りに響く自分の虚しい嗚咽をただ聞くばかりだった。


 見覚えのない模様の白い天井だったが、それゆえにここが病院だということを洋一ははっきり認識していた。

 我が家の天井板は木目だ。隅の方が雨染みて黒ずんでいるはずだ。

(いや、それももうなくなってしまったか)

 狂ったようにゆれた後、その腐りかけの天井板を梁が突き破ってきた。その直撃を受けたのが最後の記憶とあらば、目覚めたいま、自分がいる場所が病院だということになんの不思議もない。地獄の天井は洒落た柄、という話も聞いたことがない。

 ベッド脇にちとせがいた。痩せた背をまるめ、静かにうつらうつら舟を漕いでいる。束ねた白髪の先がうなじの後れ毛を隠している。床屋だというのに自分の髪には無頓着な女だ。そろそろすっきりと散髪してやる頃合いだった。それより、どれくらい自分は眠っていたのだろう。

 洋一は体を起こそうとした。違和感があってやめた。洋一は妙な納得をしていた。

(あの糞忌々しい梁め)

 左半身が動かない。だが、右手は動くようだ。

 洋一は右手をちとせの方にのばした。のばしただけでは届かない。洋一は右半身の固まった筋肉に意識をめぐらせて、各所の応答を確かめると、もう一度手をのばしてみた。

 届いた。

 洋一はちとせの膝をゆり動かした。ちとせははっと目覚めて、洋一を見て目をまるくした。

「洋一さん――」

 洋一は寝床に背を戻し、一つ息をついてから口を開いた。

「お、おれ――」

 どれくらい眠っていたんだと言いかけてうまく舌がまわらないことに気づき、まあいいと思って口をつぐんだ。

 ちとせは丸椅子から腰を浮かして固まっている。両手で口を押さえて、化け物でも見たかのようにいまにも悲鳴をあげそうだった。だが、ちとせは唐突に、目から涙をあふれさせた。見る間に顔をゆがめていく。頬を広く濡らしていく。洋一は顔をしかめた。

(いい歳して、子どもじゃないんだから、そんなに泣きじゃくるんじゃない)

 洋一もちとせのそんな反応に慣れていなかった。

 手を振って泣くのをやめさせようとしたが、ちとせはその手にすがりついて泣き声をあげつづけた。

(まあ、いいか)

「う、れ、しい、か?」

 一語一語慎重に言葉を口にした。いっそうの泣き声が返事だった。洋一は右手でちとせの頭をぽんぽんと叩いた。

「洋一さん――」

 ちとせは嗚咽を急いで飲みこんで涙を慌てて拭うと、堰を切ったように喋りだした。

「洋一さんに、お話しなきゃならないことがあるんです。どうか聞いてください。ずっと、ずっと黙っていたことがあるの――」

 そう言って身をのりだして迫ってくるちとせを手で払って、そんなのは後だ、と洋一はもごもごと言った。ちとせははっと気づいて慌てて頷くと、お医者さまを呼んできますと言ってばたばたと病室を飛びだしていった。洋一は呆れて天を仰いだ。

(ナースコールを知らんのか、まったく――)

 洋一はふと思いなおして探り当てたボタンから手を放した。

(話さなきゃならない、と言ったな)

 そういうことか、と洋一は納得した。要するに、自分が暢気に眠っている間にちとせに何かがあったのだろう。

 それゆえのあの喜びようなのかもしれない。泣くほどに嬉しいことなど、彼女にとっていつ以来のことだろうか。何の拍子に人並みの感情を取り戻したかは知らないが、何にせよ洋一も嬉しかった。

 不意に目が潤んだ。嬉しいと思えることがこんなにも嬉しいものだとは。洋一も忘れかけていたことだった。

 だが、悠長に喜んでなどいられない。むしろ話さなければならないことがあるのは洋一の方だった。

 

 友岡雅樹を殺したのは俺だ。桂木という刑事も、俺が殺した。

 友岡の訪問はあの年の暮れのことだった。あの男は言った。金を用立てろ、と。

 俺はその場で覚悟を決めた。

 友岡を呼びだして、とりあえずあるだけの金をやると、俺は奴を尾行した。奴は女の家をねぐらにしていた。さらにその後でわかったのは、友岡の狙いは俺たちだけじゃなかったことだ。実田という男も強請られていた。

 俺は実田の用心棒と結託して友岡を見張った。用心棒は早川といった。俺は、始末は自分でつけるつもりだった。早川はそうさせたくなかったらしいが。

 友岡がいよいよぼろを出して刑事に捕まりそうになっていた。俺は焦った。警察の手に渡る前に奴を始末しなければ。俺は早川にナイフを突きつけ、奴の拳銃を奪った。こういうことは俺がやるべきだからだ。

 友岡にはありったけの弾を撃ちこんでやった。巻き添えを食った大室という刑事は運が悪かった。俺の顔を見たのもそうだが、何よりも例の紙切れをばっちり見ていやがった。生憎、とどめを刺す弾がなかった。まあ、どうせ死ぬだろうとそのときは思った。

 ところが、あの木偶の坊はまだ死んでいなかった。

 それどころか、大室は例の紙切れから事件を遡り、あの日のちとせに辿り着いていた。だが早川の見立てでは、大室より桂木という刑事の方を危険視すべきだという。

 確かに桂木は、友岡の女に狂っていたときよりも数段物騒な目つきをしていた。犬ッコロみたいな大室の目ン玉の比ではない。だから俺は、とりあえず大室を放っておいて桂木を追った。

 桂木は俺の会社を訪れ、俺の翌日の勤怠を確認していった。要するに、俺がちとせのそばにいない日を狙って、ちとせを尋問しようと考えているのだろう。桂木が俺の会社を出た後に、俺は翌日の欠勤届を出した。奴がちとせに会うことは決してないだろう。

 翌朝、桂木はなぜか駅へ向かった。何かと思えば、大室を待ち伏せしていたらしい。二人の様子を見ていたが、やはり早川の言った通り、大室はこちら側の人間のようだった。そして桂木は、やはり危険な男だった。危険な男とはいえ、奴は一瞬たりとて俺を手こずらせることはなかった。

 桂木の死体は奴の車ごと、東京の早川に引き渡した。殺しに使った拳銃も用済みだった。というのは、大室はというと、何があったか次の日には同僚の刑事を絞め殺して自滅していたからだ。奴の行動を逐一見張り、必要とあらば殺す──その手間が省けたわけだ。

 年が明けてしばらくして、実田が俺たちを訪ねてきた。遺産相続の件だった。無論、俺とちとせには金なんか必要ない。

 実田らを帰す前に、俺は訊ねた。なんであんたらが俺たちのためにここまでのことをするのか、と。実田はとぼけていたが、まあ何かしらのわけがあるのだろう。実田は自分たちを誰よりも信用してくれと言った。

「とくに、あの男を――」

 と言って、実田は車で待たせてある早川を振り返った。

「あの男は生涯、身を挺してあなた方を守るつもりでいます。あれは誰かのために生きて、誰かのために死ねれば本望という男なのです」

 俺は思わず吹きだしてしまった。ずいぶんと寂しい奴なんだな、他にもっとましな生き甲斐はなにのか、と。すると実田は独り言のようにこう言った。

「あるいは、あれこそが人として本来あるべき姿なのかもしれない」

 俺はまたも笑った。悪いことをしてるんだ、褒められたもんじゃねえだろうが、と。

 だが、間違っていたのは俺だった。そのことをまざまざと思い知るようになったのはもっとずっと後のことだ。

 実田はこうも言った。

「あなたに勝る彼女の庇護者は他にはおりませんよ。ちとせ君は生涯の伴侶にあなたを選んだ。それがすべてです」

 まったくもって、そうだ。

 お前はこの世でたった一人のこの俺を選んでくれた。その俺がお前のために自分の人生を擲てなくてどうする? 俺がお前のために死ねないでどうする?

 実田が言うには、なるほど、早川がそういう男らしい。あの男は本当にちとせのために生きていた。見守りつづけてきた。俺の早川への見方は間違いだったと認めよう。俺はあの男に対しては、今後も惜しみない敬意を払わねばと思っている。

 だが所詮、早川は部外者だ。奴は結局何もしなかった。友岡と桂木を葬り去ったのは俺だ。俺がお前を守っている。

 人殺しだとお前は俺を恐れるだろうか。だがわかってくれ、これは俺なりの覚悟だ。俺の生き様だ。

 とはいえ、この三十年間、俺はあまりに不器用すぎた。お前を少しも幸福にしてやれていない。俺はどうすればよかったんだろうか。考えることに関しては、俺は人並み以下だ。ちっとも上手ではないんだ。俺に何が足りなかったのかを教えてくれないだろうか。足りないところは足りるようにしよう。俺は手段を厭わない。その覚悟だけはあれから変わっていない。

 障子に穴が空いたり破れたりするたびに、お前はちまちまと紙の花で繕っていたな。昔はよく俺に話してたろう? 幸せが逃げていかないように、と。

 まさにそれだ。

 俺をその紙っ切れだと思ってくれ。さあ、どの穴を塞ごうか。お前の心はいまどこが破れているんだ。お前の傷つき引き裂かれた心を俺に見せてくれ。俺にお前の心の裂け目を塞がせてくれ。お前にはいつでも俺がいる。お前の選んだこの俺が、いつでもお前のすぐそばにいるんだ。いまじゃこんなみっともない姿になってしまったが、これしきのことで俺は死にはしない。すぐに元の姿に戻ってみせる。しぶとく生き抜いてやる。俺には覚悟があるのだ。お前はいつか、まだまだ長くつづくこれからの人生において、またも心が引き裂かれるときがあるかもしれない。そのときも俺がお前の人生を繕ってやる。お前が天寿を全うするまで、この生涯をかけて、千たびでも万たびでも、俺はお前の心を繕う紙の花となろう。


     終

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紙の花 骨太の生存術 @HONEBUTO782

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