第一章2話『水毬』

「あなた、見ない顔ですね。あっ! もしかしての子なのでは?」


 人目もはばらず…いや、むしろ人がいないからこそなのか、思いのほか大きな声で彼女は話始める。

 露零ろあに問い掛けているのかもしれないが、取り方によっては少し大きなと捉えることもできそうだった。

 問い掛けられている場合に備え、質問返しにはなるが一応返す言葉を考えていた露零ろあだったがその答えは彼女の次の言葉で判明する。


「この道を辿ってきたということは――。ふふっ、そういうことですか」


 ――独り言だった。

 それもさっきと同じくらいの声量で二言目を口にしている。

 心の声が漏れるタイプの人間も一定数存在するだろう。

 しかしこの世界では右も左もわからない、同然の少女の目には話のかみ合わないただの不審者のように映っていた。


「大丈夫、なのかな……」


 そんな怪しげな独り言の女性がこの世界ので最初の出会いなことに、露零露零ろあは先が思いやられると言わんばかりにはため息交じりに心配をぽつりとこぼす。

 しかしその呟きは聞こえていなかったのか、独り言の女性はそこには一切触れてこなかった。


 いや、確かに彼女が気付いていないのは事実だが、その彼女は彼女で別のことに思考を巡らせていた。

 故にその一方で独り言の女性は何か察したような表情を浮かべると子猫の首から真っ白なスカーフをほどいて外し、スカーフの下に隠れていた首輪に忍ばせてある刺繍針と刺繍糸を手に取ると慣れた手つきでスカーフに刺繍を施していく。

 そして刺繍しえると使い終わった道具一式をもとの場所に戻し、子猫に優しく声を掛ける。


「それじゃあお願いしますね」


 すると独り言の女性の言葉に呼応するように子猫の瞳は黒から黄色へと変色し、石畳の横を流れる川に溶けるようにして消えていく。

 その一連の様子に思わず終始困惑した表情でお口あんぐり状態になっている露零ろあをよそに、独り言の女性はまるで何事もなかったかのようにさらに話を続ける。


「私は伽耶かや様の従者、神結心紬かみゆいみつです。あなたにはこれから御爛然ごらんぜんの一人、伽耶かや様の治める水鏡くにに来てもらいます。詳しいことは着いてから改めて説明しますね」


(何の話してるんだろ?)


 言葉は理解できるが意味は全くわからない。

 露零ろあの心情を表現するならそれが最も適切な言葉だろう。

 前提知識がない以前に誕生してまだ間もない。

 そんな露零ろあの理解の追い付かないのは当然であり、どこかぼんやりとした目をしていた少女ははきょとんとしていた。

 しかし理解できないながらも彼女の言葉には耳を傾ていた少女はその意味合いを込めて心紬みつの言葉に静かに頷くと、不安を払うように手に持っていた黒いマントをおもむろに羽織る。


「その胸元の模様、変わってますね」


「へっ?」


 不意に掛けられた身に覚えのない言葉。

 当然そんな模様に心当たりのない露零ろあは彼女の言っていることが理解できず、数秒ポカーンとした後、気の抜けた声で「えっ、模様?」と動揺交じりに聞き返す。


 すると心紬みつはどこか威圧感を感じさせる距離の詰め方で露零ろあの眼前まで迫ると羽織ったマントの胸元を指差し、少女も自身の胸元を確認する。

 するとそこには、そしてその中心にはの模様が浮かび上がっていた。


(あれ、さっきまで何もなかったのに……)


「……ほんとだ」


「ですよね? 不思議なこともあるものですね」


 原因不明の不可思議な現象に不信感を抱きつつも二人が会話を弾ませていると背後から黒く小さい影が近付いて来るのを気配で感じ、警戒心を露わにした二人は同時に振り返る。

 振り返った二人は同じ場所に視線を向けていて、視線の先にいたのはさっき水に溶けてどこかに消えたはずの一匹の子猫だった。

 その子猫はついさっき心紬みつが送り出す再に首に巻いたはずのスカーフをなぜか咥えて戻ってきていて、心紬みつは子猫からスカーフを受け取るとそれを広げ、スカーフに施された刺繍もじを静かに一読し始める。


≪その子、城まで案内したり≫


 双方共に刺繍でやりとりをしていることからスカーフに施した刺繍でのやりとりがこの世界の主な連絡手段なのだろう。

 心紬みつはスカーフに施された刺繍に目を通すや、呆れた様子でため息交じりに呟く。


「全く、あの人らしいですね……。それでは行きましょうか」


 そう言うと彼女は連れてきた、いや、追いかけてきた子猫を両腕で大事そうに抱きかかえ、自身が来た方向へくるりと方向転換すると元来た道を戻っていく。

 抱き上げられた子猫はここまでの移動で動き疲れたのか彼女の腕の中でしおらしくなっていて、移動中に何度か聞こえた「ニャ~ォ」という力ない鳴き声は二人の談笑の添え物のようになっていた。

 それからしばらくすると道中、談笑の中で露零ろあは今向かっているのだろう水鏡すいきょうについて尋ねる。


心紬みつお姉ちゃん、水鏡すいきょうってどんなところなの?」


「ふふっ、それじゃあ少しだけお話しますね」


 そう言って彼女は視線を前に向けると軽く遠くを見つめる。

 そして再び露零ろあの方へと振り向くと親近感を感じさせる表情を向けてゆっくりと口を開き、少女に求められた情報を順を追って説明し始める。 


「この世界、には御爛然ごらんぜんと呼ばれる五人の方々がいて、私が仕えている伽耶かや様は水鏡すいきょうの國を治めているんです」


 彼女の針穴に糸を通すが如く、繊細で優しい口調は警戒心の強い露零ろあに不思議な安心感を与え、少女は「ふふっ」っと初めての笑みを見せる。

 笑い慣れていないのか拙い笑みだったが、それは少女が心紬みつことを意味していた。


「えぇ?! 私、何かおかしなこと言いましたか……?」


「ううん、なんでもないよっ♪」


 そんな何気ないことを楽しそうに話しているといつの間にか足元の石畳はなくなっていて、そのことに気付いた露零ろあが辺りを見渡すと周辺の景色もガラリと変わっていた。

 二人の周囲には人の手が加わったのだろうことを思わせる視界の開けた平地が広がっていて、そこには比較対象が存在しないほど巨大なが何かを覆っていた。


 水の膜を外側から不思議そうに見つめると中を覗く露零ろあの姿が鏡写しに、少し揺らめいて映っていた。

 まるで自分が二人いるように錯覚し、驚いた少女は映る自分に触れようと手を伸ばす。

 しかしゆらゆらりと揺れる得体の知れない物体に、少女は伸ばした手を寸前で引っ込めてしまう。

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