第2章:心のさざなみ

 翌日の朝、アリスは早めに目覚めた。昨夜の出来事が、まるで夢のように感じられる。しかし、窓際に置かれた受信機が、それが現実だったことを物語っていた。


 髪をとかしながら、アリスは鏡に映る自分の姿を見つめた。いつもの大きな瞳に、昨夜とは違う光が宿っているように感じる。


「あの子、誰だったんだろう……」


 アリスは小さくつぶやいた。薄紫の髪、月明かりに照らされた儚げな姿。それは、アリスの心に深く刻み込まれていた。


 制服に袖を通しながら、アリスは決意を新たにした。あの不思議な電波の正体を突き止めるのはもちろん、あの少女とも必ず言葉を交わしてみせる。


 朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、アリスは寄宿舎を出た。校舎に向かう道すがら、周りの景色が昨日までとは違って見える。木々の緑はより鮮やかに、空の青さはより深く。


 教室に入ると、クラスメイトたちが既に集まっていた。いつもの朝の風景。しかし、アリスの目は教室の隅に座る一人の少女に釘付けになった。


「あっ……!」


 昨夜の少女だった。薄紫の髪を垂らし、窓の外を見つめている。その横顔は、夜に見たときと同じく儚げで美しい。


 アリスは思わず足を踏み出そうとしたが、そのとき担任の先生が教室に入ってきた。


「みなさん、おはよう。今日から新しい生徒が加わります。紅葉愛さん、前に出て自己紹介をお願いします」


 薄紫の髪の少女がゆっくりと立ち上がった。クラスの視線が一斉に彼女に集まる。アリスは息を呑んだ。


 紅葉愛(こうようあい)。その名前が、アリスの心に響く。


 愛は教壇の前に立ち、小さな声で話し始めた。


「紅葉愛です。よろしくお願いします」


 それだけ言うと、愛は深々と頭を下げた。そのまましばらく上げる気配がない。クラスメイトたちがざわつき始める中、アリスは愛の繊細な佇まいに目を奪われていた。


 先生が咳払いをし、愛の肩に軽く手を置いた。


「ありがとう、紅葉さん。では、席に戻ってください」


 愛は静かに自分の席に戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、アリスの胸の中で何かが静かにざわめいた。


 授業が始まり、先生の声が教室に響く。しかし、アリスの意識は常に愛に向かっていた。彼女の仕草の一つ一つ、髪の揺れ、ペンを持つ指の動き。それらすべてが、アリスの目には輝いて見えた。


 昼休みになり、クラスメイトたちが愛の周りに集まり始めた。しかし、愛は質問にも話しかけにも、小さくうなずくだけで言葉を発することはなかった。次第に、クラスメイトたちは諦めて離れていく。


 アリスは迷っていた。声をかけるべきか、それともこのまま様子を見るべきか。愛の周りには、目に見えない壁があるようだった。


 放課後、アリスは天文部の活動のため、屋上の天文台に向かった。望遠鏡を調整しながら、アリスの心は愛のことでいっぱいだった。


「どうすれば、あの子と話せるかな……」


 アリスはつぶやきながら、望遠鏡をのぞき込んだ。夕暮れの空に、最初の星が瞬き始めている。


 そのとき、背後でドアが開く音がした。振り返ると、そこには愛が立っていた。


「あ……」


 アリスは言葉を失った。愛は、アリスをじっと見つめている。その大きな瞳に、夕陽が映り込んでいた。


「あの、昨日の夜……」


 アリスが口を開こうとした瞬間、愛は小さく首を振った。そして、ポケットから小さな機械を取り出した。それは、昨夜アリスが聞いた電子音を発する装置のようだった。


 愛は機械のスイッチを入れ、アリスに差し出した。微かな電子音が、二人の間に流れる。


「これは……」


 アリスが言葉を探していると、愛はゆっくりと口を開いた。


「私の……心音」


 その声は、風に乗って消えそうなほど小さかった。しかし、アリスの心には確かに届いた。


 二人は言葉もなく見つめ合った。夕暮れの空が、ゆっくりと色を変えていく。


 アリスは、自分の心臓が愛の機械と同じリズムで鼓動を打っていることに気がついた。それは、言葉では表現できない、不思議な共鳴だった。


「心音……?」


 アリスは小さく呟いた。愛はうなずき、機械を胸元に押し当てた。


「私の言葉……代わり」


 愛の声は、まるで風に乗って消えそうなほど儚かった。しかし、その一言一言がアリスの心に深く刻まれていく。


 アリスは、愛の繊細な指先が機械を握りしめる様子に目を奪われた。その白い肌に映る夕陽の光が、まるで愛自身が光を放っているかのように見える。


「すごい……」


 アリスは思わず感嘆の声を上げた。愛は少し驚いたような表情を浮かべ、アリスを見つめた。


「これ、愛ちゃんが作ったの?」


 アリスが尋ねると、愛は小さくうなずいた。その仕草に、アリスは胸が高鳴るのを感じる。


「私……言葉、苦手。でも、伝えたい」


 愛の言葉に、アリスは深く頷いた。伝えたい気持ち。それは誰もが持っているものだ。でも、それを表現する方法は人それぞれ。愛は、この小さな機械を通して、自分の心を伝えようとしているのだ。


 アリスは、愛が手に持つ小さな装置をじっと見つめた。


「どうやって作ったの?」


 愛は少し躊躇したが、小さな声で説明を始めた。


「脳波と心拍を……検出して。それを、電気信号に変換して……」


 アリスは、愛の言葉を真剣に聞いていた。


「脳波と心拍が感情を表すんだね。でも、どうやってそれを電波に?」


 愛は、装置の裏側を指さした。そこには、極小の送信機が組み込まれていた。


「特定の周波数で……変調して。感情のパターンを、電波に乗せて……」


 アリスは、目を輝かせた。


「すごい! つまり、感情を数値化して、それを電波の強弱や間隔に変換しているんだね」


 愛は小さくうなずいた。


「うん。でも、まだ……完璧じゃない」


 アリスは、愛の繊細な指先が機械を握りしめる様子に見入った。


「愛ちゃん、本当にすごいよ。これって、言葉を超えたコミュニケーションの可能性を秘めてるんだ」


 愛の頬が、わずかに赤くなる。


「アリスに……わかってもらえて、嬉しい」


 二人は言葉もなく見つめ合った。夕暮れの空が、ゆっくりと色を変えていく。

 アリスは、自分の心臓が愛の機械と同じリズムで鼓動を打っていることに気がついた。それは、言葉では表現できない、不思議な共鳴だった。


 アリスは、愛の隣に腰を下ろした。二人の間には、ほんの少しの距離。しかし、その小さな空間に、大きな思いが詰まっているようだった。


「愛ちゃん、この学校に来たばかりだよね。大変じゃない?」


 アリスが優しく尋ねると、愛は少し俯いた。その長い睫毛が、頬に影を落としている。


「みんな……優しい。でも……」


 愛は言葉を詰まらせた。アリスは、愛の気持ちを察した。優しさだけでは、埋められない溝がある。それは、愛自身の中にある壁なのかもしれない。


「大丈夫だよ。急がなくていい」


 アリスは柔らかく微笑んだ。愛は、その言葉に少し肩の力を抜いたようだった。


 二人は黙って夜空を見上げた。星々が、一つ二つと輝きを増していく。アリスは、ふと思いついて立ち上がった。


「ねえ、愛ちゃん。望遠鏡を覗いてみない?」


 アリスは天文台の望遠鏡を調整し始めた。愛は少し戸惑いながらも、アリスの後に続いた。


「ほら、見えるよ。あれは木星だよ」


 アリスが覗き込んでいた望遠鏡から顔を上げ、愛に身を寄せた。愛は恐る恐る望遠鏡を覗き込む。その瞬間、愛の表情が輝いた。


「わあ……」


 小さな感嘆の声が漏れる。アリスは、愛の横顔を見つめていた。星の光に照らされた愛の横顔は、まるで天使のようだ。


「きれい……」


 愛が呟いた。それは星のことを言っているのか、それとも……。アリスは自分の心臓の鼓動が早くなるのを感じた。


 愛が望遠鏡から顔を上げると、二人の目が合った。その瞬間、アリスは思わず愛の手を取っていた。


「あ……ごめん」


 慌てて手を離そうとしたアリス。しかし、愛はそのままアリスの手を握り返した。


「いい……温かい」


 愛の言葉に、アリスは胸が熱くなるのを感じた。二人の手が重なったまま、夜空を見上げる。


 星々が瞬く空の下で、二人の心が少しずつ近づいていく。それは、まるで星座が形作られていくかのようだった。


 アリスは、この瞬間を永遠に覚えていたいと思った。愛の柔らかな手の感触、夜風に揺れる彼女の髪の香り、そして二人を包む静寂。


 やがて、寄宿舎に戻る時間が近づいてきた。アリスは名残惜しそうに愛の手を離した。


「また……来ていい?」


 愛が小さな声で尋ねる。アリスは満面の笑みで頷いた。


「もちろん! いつでも待ってるよ」


 二人はゆっくりと屋上を後にした。階段を降りながら、アリスは時折愛の横顔を盗み見る。薄暗い階段の中で、愛の姿が一層儚く、そして美しく見えた。


 寄宿舎の前で、二人は別れの時を迎えた。


「おやすみ、愛ちゃん」


「おやすみ……アリス」


 愛が初めてアリスの名前を呼んだ。その声は、夜の静けさの中で、清らかな鈴の音のように響いた。


 アリスは自分の部屋に戻ると、窓際に立ち、夜空を見上げた。今夜見た星々が、特別に輝いて見える。


 心の中で、アリスは誓った。愛の作った機械のように、自分も愛の心の声を聞き取れるようになりたい。そして、いつかは言葉だけでなく、心と心で通じ合えるようになりたい。


 窓辺に立ったまま、アリスは静かに目を閉じた。耳を澄ませば、どこかで愛の心音が聞こえてくるような気がした。


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