第10話 日常
騒動があった歓迎レセプションから数日。
セイサラ王国のアッサム殿下も無事に帰国されて、ようやく落ち着いた日常が戻ってきたかと思いきや、わたしはいま事業終了報告書など歓迎レセプションの事後処理の報告書提出に追われている。
そして、セドリック様との結婚生活もあんな公開告白のようなことがあった後なので、ようやく知り合い以上友人未満の1歩手前までになった関係が、またぎこちなくなってしまうのではと心配していたが、あのホールでの出来事も廊下であったこともお互いの仕事が忙しく、行き帰りと夕食以外で顔を合わせる機会がなかったので、なにもなかったようにお互い過ごしている。
あまりにも普通に過ごし過ぎて、やっぱりあれは夢だったのだろうかと思うこともしばしば。
ただセドリック様との仕事の「行き帰り一緒」の標準装備に追加されたことがある。
「シェリーは今日も少し残業になる予定だろうか?」
今朝も一緒に王城に向かってセドリック様と歩いていると、メガネをクイッとしながら聞いてくる。
朝の通勤の標準装備に定番が出来たのだ。
お互いの「今日の帰宅予定時間」を教え合うのだ。
「そうですね。残業と言ってもたぶん1時間以内には終了しますよ。」
わたしは仕事の段取りを頭の中で描きながら答える。
セドリック様は少しなにかを考えているようだった。
ここ最近はそういうことが増えたような気がする。
「わかった。ではいつものところで待っている。俺は残業は今日はなさそうだしな」
そう。いつものところ。
これも二人の定番になった。王城の裏門のところにあるベンチ。ここでいつも待ち合わせなのだ。
「わかりました。いつもお待たせしてすみません。なるべく早く向かえるようにしますね」
「いや。それは気にしなくていい。ゆっくり仕事をしたらいい。シェリーは仕事が1番だからね」
セドリック様が真っすぐに前を見ながら、耳の先だけを赤くしてそう答えてくれる。
甘い言葉を直接セドリック様は言わないけれど、どことなくわたしの仕事のことを1番に考えてくれていて、わたしを気遣ってくれていることが最近は増えたと節々に感じられるのだ。
「ありがとうございます」
わたしもセドリック様の耳の先が赤くなる病が伝染ったかのように耳の先が熱を持つ。
「今日もシェリー嬢は残業か?アッサム殿下の歓迎レセプションの報告書の進捗状況はどうだ?」
間もなく、就業時間も終了するというときにプジョル様が話しかけてきた。
「そうですね。あとは収支実績をまとめたら、報告書はすべて終了になるかと」
「わかった。残業までして仕上げなくて良いからな。それにしてもあの、ワインぶっかけ騒動はいま思い出してもなかなかすごかったな。先日、皇太子殿下にお会いしたときもその話題になったんだよ」
プジョル様はあのワインぶっかけ騒動を思い出しているようだった。
「たぶん、伝説級の騒動に殿堂入りですよね。ワインぶっかけ事件がモキ様とアッサム殿下の機転の剣舞で吹っ飛んでしまったんですもの」
わたしも深く頷く。
相変わらずプジョル様はわたしには目標となるべき仕事好きの上司であり、仕事以外では女友達のような関係のままで、プジョル様があの時、わたしのことを「愛している」なんて言ったのはなにかの気の迷いだったように思えてくるぐらい、いつも通りの関係だ。
きっとあの時は緊急事態勃発だったので、プジョル様は平常心ではなく「部下や友人として」という言葉がうっかり抜けていたに違いない。
きっと「部下や友人として愛している」「信頼している」と言い間違えたんだろう。
だからいまはこの通常に戻った関係に安心していた。
「そういえば、プジョル様は残業ですか?」
「明後日の国の事業の功労者表彰の式典の席次表がまだ出来上がっていないんだ」
そう言うとプジョル様は腕組みをし、また書類とにらめっこをはじめた。
プジョル様が担当されている式典の表彰される方々は大学の先生や職人さんなので、なかなか一筋縄ではいかない面々ばかりのために、毎年のようにプジョル様は席次表で苦労しているのを知っている。
このやり取りを聞いていた儀典室の他のメンバーがあれやこれやとプジョル様に提案をしながら仕事を進めるこの雰囲気はなかなか好きだ。
就業時間を終了し、5人しかいない儀典室はあっという間にプジョル様とふたりきりになってしまった。
でも、仕事しか見えていない私たちはひたすらその事実に気づかずに仕事に取り組む。
「プジョル様、いま大丈夫ですか?」
質問があり机から顔を上げた。その時に窓の外が暗くなっていて周りが静かになっていることに気づき、ふと時間が気になった。
儀典室も2人しかいない。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
慌てて、官吏の制服に忍ばせている懐中時計をポケットから取り出すと、セドリック様と約束した時間から1時間も経過をしていた。
「大丈夫だよ。どうした?」
プジョル様がわざわざ自席から立ち上がり、わたしの席まで来てくださる。
この質問が終われば、すぐに片付けて帰らなければ。
仕事に集中していてうっかり時間を忘れていた自分に腹が立つ。こんな簡単な時間管理も出来ないなんて。
思わず唇を噛みしめる。
「シェリー嬢、なんて顔をしているんだ」
唇を噛みしめたところをプジョル様に見られていたらしい。
わたしは思わず、自席から立ち上がった。
「変なところをお見せしてしまって申し訳ありません。自分が少し嫌になりまして…」
プジョル様がわたしの席まで来ると、わたしの頬をプジョル様の大きな両手で大事そうに包み込んだ。
「魅惑的な唇はもっと丁寧に扱え」
「…はい?」
命令?魅惑的な?誰のが?
プジョル様はそう言うとすぐにわたしの頬から手を離し、わたしが質問しようとした書類に目を落とす。
「これか?」
「はい。これですが、この費用はどの費用にいれるか迷っていまして」
お互いすぐに仕事の話に戻り、先ほどのことは気にも留めなかった。
儀典室の扉が開けっ放しになっていたのをこのときは少しも気づいていなかった。
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