チャプター5  イニシエーション

 何気ない日の午後、水鈴みすずが≪学園≫の中で目を覚ます。食後のうたた寝ではない。


 とたん、知らないベッドから繊維せんいにおいが意識の内側へと流れ込んでくる。

 水鈴にとっては初めて、異例の体験だった。


 水鈴が上体を起こそうとする。しかし力が入らない。現状、自由がく首関節のみを左右に振った水鈴。


 その視界に、人物の姿をとらえる。


 いすに腰かけ、あしで振り子ごっこをしている。座高は子どもと等しい。

 また、身に着けた白衣と、ベールのように透きとおる長い頭髪の助けで、人物はおもしろいくらい白く発光して見えた。



ソフム先生……?」



 水鈴が活力のおとろえた声で、発光体に呼びかける。すると、発光体から言葉が返ってくる。



「ああ。おはよう。意識がもどったようで、安心した」



 改めて、ソフム。いかつい安全靴を地に下ろし、ゆっくりと水鈴の枕元に歩み寄る。


 水鈴のベッド脇でいすを拾ってまた着席すると、ソフムはおだやかな表情を浮かべ、水鈴の頭を一度だけでつけた。



「あ、あの、なんで水鈴はここに……」

「『ここ』って、君はちゃんとわかっているのか?」



 それを聞いて水鈴ははっとなり、とっさに顔をフルフルする。



「まったく! ここは医務室。それで君は講義のあと、席を立ったところで気を失った。もっとも、理由なんか知らないよ。重要なことではないので」

「他に、重要なことがあるみたいな言い方……はっきり教えてください」



 今にも泣き出してしまうのではないかとソフムに思わせる、ふるえた声で水鈴が告げた。

 不安感にさいなまれる未熟な容姿。


 相対するのはなおさらにおさないソフムの不満顔だ。

 悪者わるもの扱いに気を悪くして、「別に、隠し立てするつもりなんてないけど」とつぶやく。


 ソフムは前かがみになり、水鈴のベッド上にある領域を侵犯した。

 シーツに手をつき、ツンと突き出した鼻先を近づけると、水鈴との距離はごく間近いものとなる。



「あまり、健康状態がよくないように見受けられる。食事はきちんとっているのか?」



 言葉に続いて、ソフムが懐から、サックリとがったコロッケを差し出す。


 ころもの立つ、黄金色をしたコロッケは情熱的な湯気ゆげを放っている。

 子どもの新陳代謝が活発だとしても、白衣の中の温もりが、電子レンジに比肩するはずもない。

 ソフムはコロッケを、カイロのごとくふところに仕込んでいたということだ。


 ソフムの手が、自身と水鈴との間にコロッケを割り込ませる。

げた小麦粉と甘ったるい肉の芳香が中空にうずを巻く。


 腹を空かせた水鈴は、コロッケの香に、おさえがたい食欲をかき立てられる。

 反射的に目を逸らすが、ちらり一べつすると、小麦色のその子がいじらしく顔を紅潮させているのだ。


 我慢がまんならない。

 水鈴みすずはついにコロッケへかぶりついた。ソフムはそれを見て、してやったりと笑っている。



「食べたね。うしうし。油脂は、幸福感にかかるニューロンを活性化する。規則的な食事もけっこうだが、時には息抜きの嗜好しこう品を摂ってだね――」



 直後のことだ。

 清潔な白いかけ布団に、水鈴みすずが黄色い吐しゃ物をぶちまける光景を前に、ソフムはおどろき言葉を切った。



「ヴォエっ! べっ! なんっ、で、フレッシュミートおっ!」

「何を言って……牛肉のひとつでも使っていると思ったのか?」

「そおぉんっ!」



 水鈴が激怒し、ゲロの粒子をはじけさせる。

 そのようすが徐々じょじょにおかしく感ぜられたソフムは、愉悦の声を上げて水鈴の背中をたたく。



「はははっ、掃除しような、水鈴くん」



 それから、ソフムは手早く水鈴の身の回りの世話をした。


 息抜きにとインスタントコーヒーをも淹れ、紙巻きタバコに火をつけて一服する。水鈴のベッドに灰皿を置く。


 ソフムはニコチンとポリフェノールの重なり合うところを吟味し、よく味わうことで、恍惚こうこつとした顔となっていた。



「悪かったね。しかし、理解することができた。が君の、食を遠ざけるものというわけだ」

「……けむに巻こうとしてますよね。他に、水鈴に言いたいこと、あるんじゃないですか」



 唐突な水鈴の質問は、ソフムのささいな失笑を買う。



「何を根拠に?」

水鈴みすずの健康状態にどうこう言うなら、(生物科の)担任の先生でもできますよね。失神くらいなら、その場で起こしてもいいと思う。でも、医務室の先生のところまで運んだということは、何かそうする必要があったんじゃないですか」



 水鈴が具体性のない考えを披露ひろうする。ソフムは是非を語らない。

 静かにいすを立つと、いかにも重大事実を明らかにするように思わせぶりな足取りで、部屋の窓ぎわに向かう。



「君の話は、おおむね(生物科の)ソフムから聞かされている。すこし変わった、普通の子とね。≪学園≫にひいきなどない。だからね、私は、君たち学生に画一かくいつ的な対応をしなければならない」



 ソフムの言葉は、無意味なうねりとおぼろげな輪郭からなる紫煙そのものだ。水鈴の鼻先に煙る。



「結論から言う。君が寝ている間に、検査をした。そのときが見つかった」

「……え?」

「君の話だよ。もう骨にも転移していて手が付けられん。ガーン」



 感情のとぼしい声質のソフムが、水鈴を茶化す。しかし、水鈴はがんの意味を理解していない。



「えっと、その『がん』っていうのは、何か深刻な病気なんですか……?」

「生物科にいてそれを知らないとは――いや、今や不要な知識だね。≪スキン≫を死にいたらしめるもの、くらいに考えておけばいい」



 1本を消費し、新たな紙巻きタバコに火をつけ始めたソフム。ぞんざいに水鈴へと言いつける。


 室内に不快な臭気が充満しても、水鈴は気分を害したようすを見せなかったが、ソフムの語るがんの意味について理解したとき、はじめて苦悶の嗚咽おえつをもらす。



「そんなっ! じゃあっ、先生は、水鈴がもうすぐ死ぬって言うために……」

「ははっ、まるで死神みたいな言いぐさね。まあ間違ってないけど。ちなみに補足で、君の≪スキン≫の寿命については……だいたい『1年半』としか分からない。死神の高性能なセンサがうらやましい限りだね」



 そのとき、水鈴みすずはベッドをひっくり返さんいきおいで飛び起きる。

 傍若無人ぼうじゃくぶじんのふるまいをするソフムに、いきどおりが頭頂に発したようすで立ち向かう。

 息を荒くする水鈴。


 その鬼気迫る表情に際したソフムは、一分のひるみすらものぞかせなかった。



「分かるよ。『君は死ぬ』、その言葉に動揺する気持ち。どうなるか分からない。痛いのかな。暗いのかな。なんで自分なのかな。どうすることもできないのかな。……ね、腑に落ちないでしょ?

 だからこそ、私はあえて言うよ、透見川うおせ 水鈴みすずくん。早めの≪スキン≫交換をお勧めする」

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