インク(2/2)

 ≪インク≫の効果検証試験がはじまる。


 学生が、≪インク≫の入ったカートリッジを、人工子宮カプセルの子宮けい部に取りつける。

 カートリッジを認識した子宮頸部の感応センサーは、インクと≪スキン≫のはいが入った袋とをひもづける。


 どくどく、どくどく……音を立てながら、どろっとした液体が子宮内膜へと注がれていく。

 袋が、液体をため込んで少し膨張ぼうちょうする。



 ところが、水鈴みすずが観察している人工子宮のカプセル内では、何分が経過しても、劇的におもしろい胚発生の進行は起こらない。


 原因はソフムの提示した、≪インク≫の使用量にあった。


 プリントへ記載の内容により、各班が、≪スキン≫をそれぞれ異なる指定の経年相当まで成長させる段取りとなっている。

 水鈴の所属する班は、経年5年相当と、比較的おさなく≪スキン≫を作製するようにと決められた。


 そのため、投与してよい≪インク≫の分量も少なければ、≪インク≫が反応する速度もひかえめであり、≪スキン≫の成長について非常に遅いものだった。



「あっ……手と足が出てきた。みじかい……ちょっとカワイィ……」



 好意的な言葉とともに、水鈴はじっと真剣なまなざしで、人工子宮の中で起こる胚発生をながめる。

 同班の他の学生たちが退屈らしい表情をして、プリントのスケッチ使用欄を空白にしていることを水鈴は知らない。


 水鈴がすばやい手さばきで、胎児の形をプリント上にのびのびとえがきとっている。


 切り抜いた瞬間の数十秒後、徐々おもむろにはっきりと人間の形をなしていく胎児(羊膜の発達にともない、胎児の姿は少し見えづらい)。

 それを水鈴は急造のコマ分けで、マンガのように表現した。


 誰も読みたがらないし、気になりもしない落書き。水鈴にとってすれば、初めて生み出した「作品」のごとく愛おしい存在に感じられた。



「あっコラ、なにしてるんじぇねー!」



 ソフムの甲高い声がちゅうに飛び出す。水鈴の集中が途切れる。


 そのおり、水鈴たちの近くから、プツプツと正体不明のぶきみな音が鳴っていたことを知る。

 音は今もなお聞こえてくる。


 水鈴の所属する班の愛玩用≪スキン≫たちは、いっせいに音のする方向を確認する。



「ひえっ」



 それを目の当たりした水鈴が、反射的に悲鳴を上げる。

 さながら、爆発寸前の巨大な風船に遭遇したときのような――無論、現状ではその対象物といえば、人工子宮内のふくろかぎられた。



「やっば、パンパンすぎでしょ!」



 水鈴たちの隣の班では、≪インク≫の使用量をあやまり、胎児が過剰に巨大化していた。


 ≪インク≫が最も強く作用するのは、骨と内臓に関する遺伝子領域。


 この一般常識にたがわず、巨大化した胎児の当該箇所はふを内側から破り、羊膜ようまくを切り裂いて、袋状の子宮内膜いっぱいに満たされる。


 こぼれた内臓と羊水が混ざり合い、膜内の色相はミックスジュースのようないろどりにんだ。


 あわてふためくソフムは、一方的に膨張していく肉風船のもとへ近づいたり、離れたりする。「事態を収めなければ」という使命感と、「巻き込まれたくない」という忌避きひ感とのせめぎ合いがそうさせる。



 時の流れに応じて、子宮内膜はますます大きくふくれ上がる。


 子宮内膜の薄皮うすかわは、ガラス材とおぼしき人工子宮の外殻へついに接するまでにいたった。



「せ、センセ! 針塚はりつかセンセ、こういった場合にはイカヨホな対処をすれば……」



 ようやく根を上げたソフムが、≪インク≫の性質を知り尽くした針塚へ助けを求める。

 針塚は教室の前面に立ち、われ関せずといった態度を変えなかった。



「何もないです」



 はっきりと、ただしソフムの他に聞こえないほど小さな声で返事をする針塚。



「あっ。まあ、しいて言えば、加熱して≪インク≫の反応を遅らせるとか」

「あるじぇねえか! だ、誰かぁすぐ湯をかして――」



 ソフムが手をこまねいている間に、人工子宮は爆発してしまった。


 ドーン、という表現を数段拡大した途方とほうもない音と衝撃によって、カプセルを抱えていた班の愛玩用≪スキン≫たちはことごとく吹き飛ばされる。


 運の良いことに死人は出なかった。教室一体には数秒間、雨がった。


 付近で爆発を見た水鈴。

 驚愕ののち、衝撃波とともに全身へ、胎児の体液をびていた。

 目を見開いたところで、みょうな熱っぽさと、統一制服とういつせいふくの前面がうっすら赤色に染まっていることに気がつく。



「あっ!」



 水鈴が声を荒げる。意識が向いて、首元のシルクスカーフをたしかめる。

 スカーフ本来のじゅんな白色はすっかりけがされ、ぬらぬらあやしい光沢を帯びている。


 水鈴は涙目になり、必死の形相ぎょうそうでスカーフをにぎりしめた。握力でこすっても、白が浮かび上がるのは指の先だけ。



 突然走り出した水鈴みすず

 廊下に出るやいなや、周囲をくるったように見回す。「なんでっ!」と叫ぶ。

 やや近くに階段を見つけると脇目わきめも振らずに向かい、上階へ駆け上がる。


 上階の開放スペースには、広い手洗い場があった。


 水鈴の目的はこれだ。

 手洗い場に飛びつき、自動で水の出る蛇口へ、よごれたシルクスカーフをなすりつける。


 吐水口のセンサーとスカーフの距離が近すぎるため、うまく水が出てこない。出てこない! 水鈴はあきらめない。


 やっと水の出た時分、スカーフのけがれは手もみ洗いをして落ちない呪いと化していた。



 爆発からひと段落した教室に、水鈴がもどる。青ざめた顔にはずっと新鮮な肉へんが取りついているものの、当の本人――加えて、教室中の誰もが気にめなかった。



「ははっ! きったねー。モップかけても落ちた気がしねぇわ」

「ねえ見て、目ん玉まんま残ってるじゃん! すごいよね」



 学生たちは先の事故について、一笑どころではない大笑おおわらいに付し、掃除用具をそろえての大がかりな片づけにきょうじているのだ。事故現場に笑声えごえと洗剤の粒子りゅうしが飛び交う。


 水鈴は人倫統制器の制御の範疇はんちゅうえんとする、強大な負の感情によって心を支配される。


 あいも変わらず、はっきりと名前の分からない感情。

 それでも、水鈴はこの状況下において、胸中に渦巻うずまく名前のない感情こそが絶対的に正しいと信じる。信じたいと願った。



「君。透見川うおせくん。いっしょに掃除をするんじぇね?」



 立ちつくした水鈴の手に、ソフムがこっそりモップをにぎらせようとたくらむ。



「イヤっ!」

「あでっ!」



 激しい情緒に突き動かされて、水鈴がモップのを払いのける。


 モップの柄が反対側にいるソフムの鼻先目がけて飛んで行き、ぶつかる。

 かん一髪、ソフムがかけたメガネのブリッジが衝突を防いだ。ただしてこの原理にもとづき、ソフムの丸裸のおでこも柄を食らい、ダメージを負った。



「何するんじぇね……」

「なんで、みんなわらってるんですか?」



 おでこを手で押さえて痛がっているソフムに、水鈴が怒気をはらんだ声で問いかける。



「おかしいよ。なんで、こんなっ……残酷ざんこくなことをして、笑って済ませられるんですか?」

「うーん。残酷じゃないんじゃね?」



 即答するソフム。


 あっけらかんとした無機質な表情を浮かべるソフムの言葉を受けて、水鈴の表情筋が硬直する。

 水鈴の心にまつわりついていたおおいなる感情も、時を同じくして活動停止し、枯死こしをした。



「もういいんじぇね。掃除がヤなら、そこで座ってていいんじぇね」



 当日の講義は爆発の以後、清掃によって大半をついやし、残りの時間もソフムがうんちく話を垂れ流したことで、実質じっしつ丸つぶれとなった。

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