DAY 120
ワープホールを通ったネズミは、終日、寝てばかりになり、その後、餓死した。
神崎の状況から精神が逆行してことから考えて、ネズミの精神は幼生時代に戻った為、寝てばかりになったのだろう。そして、十分な栄養をとることができなくなり、餓死したものと思われた。
神崎は四十代。神崎の精神年齢が四十年分逆行し、赤子に戻る頃には、八十代になっている。老化による痴呆と似たような症状を示すだけかもしれない。
だが、このままにはしておけなかった。
アーデーンと赤塚は苦渋の決断を迫られていた。
――もう一度、ワープホールを潜らせてみる。
何度も検討し、その度に、「危険だ」と却下してきたアイデアだ。
ワープホールを潜ったことにより、記憶が逆行を始めたのなら、もう一度、ワープホールを潜れば、記憶が元通り、順行するのではないか――そう考える医師や科学者が多かった。誰もが一度は思いつくアイデだ。
だが、どんな危険が潜んでいるのか分からない。人体実験に等しい。とても、神崎に対して実行に移す勇気がなかった。
いくつか分かってきたことがある。
神崎の記憶は常に逆行しているのだ。ワープホールを通過した時点から、逆行を続けており、今を記憶することはできない。早ければ五分、長くても一時間程で、たった今、考えていたこと、体験したことは記憶から消えてしまう。
毎朝、録画を見て取り乱すことが日課になっているが、その記憶ですら、時間の経過と共に忘れてしまう。鎮静剤を打つ必要すらなかった。放っておくだけで良い。
神崎の記憶は無機物の移動実験まで遡ってしまっている。今日、神崎に実験の様子を確認したところ、「順調です。明日は鉄鉱石を移動させましょう」と答えた。
このままでは数日で、ワープホールを完成させたことを忘れてしまうだろう。
マウスによる実験はやってみた。だが、マウスは口を効かない。彼らの精神状態がどうなっているのか、分からない。結果が分かるのは、後のことだ。
神崎に意見を聞くこともできない。
アーデーンと赤塚は、もう一度ワープホールを潜らせるかどうかについて、何度目になるのか分からない会議を行った。
「危険は承知です。ですが、やってみましょう。神崎博士も、きっとそれを望んでいるはずです。でなければ、我々は人類の歴史に残る、貴重な科学者を失ってしまうかもしれません」
アーデーンと赤塚の意見が一致した。
時間がない。実施は十日後と決まった。
その夜、アーデーンはワインを持って、神崎が隔離されている部屋を訪れた。毎朝、録画を見て錯乱してしまうので、ほとんど家具のない殺風景な部屋だ。
「おや、アーデーン博士。どうしてここに? オーストラリアからいらっしゃったのですか?」神崎は不思議そうな顔をしてアーデーンを迎えた。
「早く、ここから出してください。ワープホールが完成したのです。物質の移動実験を行って、安全性を検証しなければなりません。問題ないとなると、我々の生活は劇的に変わりますよ。輸送も移動も、ぐっと楽になる。化石燃料の消費が抑えられる。月面へ降り立った時と同じように、我々人類は偉大なる第一歩を踏み出すことになります。博士」
「神崎博士。そう焦らないでください。実験は日本とオーストラリアのスタッフが滞りなく実施しています。あなたは病気なのです。ここでゆっくり療養する必要があります」
「私が病気? そんなことはない。私は健康そのものです。大丈夫です。実験に参加できます」
「今日はワインを持ってきました。良いワインですよ。さあ、一緒に飲みましょう。ワープホールの完成を祝して、乾杯しましょう」
「ああ、良いですね」と言った後で、神崎が尋ねた。
「ところで、アーデーン博士。どうしてここに? 何時、オーストラリアから日本にいらっしゃったのですか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます