DAY 90
朝、目が覚めると、天井や枕元、ベッドルームにあるモニターにメモがベタベタと貼ってあった。メモには「起きたら録画を見ること」と書かれている。神崎の字だ。だが、メモを書いた記憶がなかった。
枕元にレコーダーのリモコンがあった。何故かサイドテーブルに固定されている。神崎は再生してみた。
「落ち着いて私の話を聞いてください」
驚いたことに録画に移っているのは神崎だ。隣にアーデーンがいる。画面越しに神崎が話しかけていた。
(何時、こんな録画を撮ったのだ⁉)
記憶にない。神崎は鬱屈とした気持ちを抱えながら、画面を睨み続けた。
画面の神崎はアーデーンと共にワープホールの開発に成功したと言う。(何を今更)と思った。そんなことは、言われなくても分かっている。だが、録画を見ていて、徐々に神崎の顔色が変わった。
ワープホールの開発に成功した二人は、ワープホールの安全性を確認する為に、無機物の移動事件から始めた。大気、音、臭いから初めて、徐々に有機物へと移っていった。植物の移動実験に成功し、単細胞生物の移動実験にも成功した。そして、昆虫の移動実験を経て、マウスの移動実験に成功した。
だが、その夜、神崎は酒に酔った挙句、ワープホールを潜ってしまった。
翌日から、神崎の身に異変が生じ始めた。
神崎は記憶を無くしていた。最初はワープホールを潜った時に、その前後の記憶を無くしただけだと思われた。ところが、日が経つにつれ、神崎の記憶はどんどん消えていった。
そう、記憶が逆行し始めたのだ。
一日経てば一日、記憶を失う。一か月経てば、一か月間の記憶を失った。今日、起こったことは、明日には綺麗に忘れている。その上、昨日の記憶も失ってしまうのだ。
神崎は思い返してみた。
記憶にあるのは、植物の移動実験に成功したことだ。昨日、コスモスの移動実験を行ったはずだ。あでやかなピンク色の花びらが鮮明に記憶に残っていた。
(あれは昨日のことじゃないのか⁉)
画面上の神崎の言葉によれば、二か月も前の話だと言う。ワープホールの開発に成功してから三か月、神崎が誤ってワープホールを潜ってから、一か月が経過していた。つまり、ワープホールを潜った時点から一か月前まで、神崎は記憶を失ったことになる。
(そ、そんな・・・そんば馬鹿な!)
「我々のような知的生命体がワープホールを潜ることによって、どんな影響が出るのか分からなかった。私がワープホールを潜ることによって、それが如何に危険なものであるのか、分かったという訳だ。
私よ。どうか気を静めて聞いてくれ。体は日に日に老いて行くが、君の精神は若返ってゆく。新しい記憶から失いながら。
人類が初めて直面する病気だ。治療法はない。どうやれば、元に戻すことができるのか、誰にも分からないのだ。アーデーン博士や赤塚君が必死に解決法を探している。とにかく、君はそれを待つしかないのだ。
毎日、アーデーン博士は、この説明を繰り返し、私にしてくれた。アーデーン博士に、これ以上負担をかける訳には行かない。そこで、私の話を録画して、自分自身の口で、君に事情を話すことにしたのだ」
録画は「我が身を科学の発展に捧げるだけだ。後悔はない」という言葉で締めくくられていた。だが、その表情は苦渋に満ちていた。
「うわわわわ――!」
神崎は悲鳴を上げた。そして、ベッドの上の枕や毛布を投げ飛ばし始めた。よくあることなのだろう。部屋の中に、投げ飛ばせるものなど、ほとんどなかった。
「アーデーン博士。神崎博士が、また錯乱してしまったようです」
モニターを見ていたスタッフの一人がアーデーンのもとに報告に行った。
「そうか・・・」とアーデーンは悲しそうな顔をした。録画を見て神崎が錯乱したのは、初めてではなかった。
アーデーンは優しく言った。「何時もの鎮静剤を注射してやってくれ。彼を、神崎博士を、安らかに眠らせてあげるのだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます