地下鉄

 うとうとしていた。眠っていたようだ。

 ほんの一瞬、眠りに落ちたようだ。長い間、眠っていた訳ではない。次の駅が乗り換え駅だ。ここで寝てしまうと、寝過ごしてしまう。

 最後尾の車両で目を覚ました時、俺は不思議な感覚に襲われた。

 最初、耳が聞こえなくなったのかと思った。何時もは雑音で溢れている車内が、異様に静かだったからだ。しかも、揺れが無い。あの心地よい眠りに誘う、何処か規則的な、あの小さな揺れを感じなかった。

 電車が止まっているのかと思った。

 地下鉄だ。窓の外は真っ暗で何も見えない。ポケットから携帯電話を取り出した。時間を確認する。さっき携帯を見た時から二分も経っていなかった。俺は携帯をポケットに放り込むと、腕組みをして目を閉じた。もう暫く、居眠りの余韻を楽しみたかった。

 やはり変だ。静か過ぎる。

 それに、何時まで経っても駅に着かない。地下鉄なんて、二、三分間隔に駅があるはずだ。いい加減、駅に着く頃だ。乗り換えだ。まだまだ先が長い。

 俺は目を開けた。もう一度、携帯電話を取り出して、時間を見ると、まるで進んでいなかった。変だ。一、二分は絶ったはずだ。携帯を操作しようとしたが、反応しなかった。どうやら、携帯電話が固まってしまったようだ。それで時間が止まってしまったのだ。再起動を掛けようとしたが、上手く行かなかった。画面もボタンも全く反応しなかった。

「ちっ!」諦めた。携帯電話をポケットに戻して、目を上げる。俺は異様な光景に気がついた。

 吊革だ。よく見ると、微妙に傾いている。列車が僅かに傾いて走行しているからだ。だから、床板に対して垂直になっていない。それだけなら何の問題もないが、吊革は微妙に傾いたまま動いていないのだ。

(俺の眼がどうかしちゃったのか?)

 車内は空いていた。

 最終電車には、まだ間があるが、深夜に近い。俺もその一人なのだが、疲れ切ったサラリーマンやほろ酔い気分のOL、塾帰りの学生が混雑しない程度で座っている。その誰もが、呼吸を忘れたかのように微動だにせず、静まり返っていた。

 俺は立ち上がった。

 ドアまで歩いて行って、外を見た。車内の灯りで僅かに外の様子が伺える。地下鉄が動いていなかった。外の景色が止まっているように見えた。トンネルの壁に流れる幾筋もの線が見えた。高速で移動している景色を静止画で切り取ったかのようだった。

(どうなっているんだ⁉)

 訳が分からなかった。ドア脇に立つ学生を見た。塾の帰りなのか、参考書を読み耽っている。時間をかけて観察した。ぴくりとも動かない。しかも、瞬きをしていない。呼吸もしていないように見えた。

 まるで蝋人形だ。

 車内を見回す。やはり誰も動いていない。ドア脇のシートに腰かけた。若いOLに顔を近づけた。普段なら、こんなことをすれば、睨まれるか、痴漢だと騒ぎ立てられてしまうに違いない。だが、若い女性は何の反応もしなかった。膝元に視線を落として、瞼を半開きにしたままだ。何か考えごとをしているのか、睡魔に襲われているのか、判然としない表情だった。まるで瞼を閉じかけでシャッターを切られた記念写真のようだ。

 思い切って、女性の頬を人差し指でつついてみた。

 完全に痴漢行為だ。だが、指先に感じたのは、若い女性の弾力のある皮膚ではなかった。まるで、滑らかな大理石に触っているかのように固かった。

 若い女性の隣に、中年の男が腰を掛けていた。酔っぱらっているようだ。斜めになった頭が女性の肩に触れようとしていた。

 男の頭を掴んだ。固い、髪の毛まで針金のように硬かった。しかも弾力がない。手のひらに刺さってきそうだ。女性の肩にもたれ掛かろうとしている男の頭をもとに戻そうとしたが、動かなかった。

――何だ、何だ、何だ! 一体、どうなっているんだ‼

 車内の全てが止まっていた。まるで時が止まってしまったかのようだ。いや、そうなのだ。俺以外、車両の中は、全ての時間が止まってしまっていた。


 この世界で動いているのは俺だけだ。

 世界の帝王になった気分だった。この車両にいる人間は、誰も俺には逆らえない。俺は彼らの生殺与奪の権利を握っているのだ。

 王様になった気分で、車両の端から端まで歩いて行った。

(こいつも、あいつも、俺の好きなように出来るんだ!)

 途中、俺好みの女の子がいた。接続部に近い車両の隅で、窓に寄りかかって、携帯電話を見ながら立っていた。ストレートの黒髪が清楚な感じを与え、こんもりと盛り上がった形の良いバストが目を引いた。俺はそっと、バストに触ってみた。

 まただ。固い。まるで岩を触っているかのようだ。まるで弾力がない。一瞬で興味を失った。

 車両を歩いていると、今度は最新のゲーム機で遊んでいる若い男がいた。学生に見えた。

(どうせ、親に買ってもらったんだろう。すねかじりが。お前にゲーム機なんて、まだ早いよ)

 若い男からゲーム機を奪おうとした。だが、ゲーム機は男の手に溶接されているかのように、動かなかった。まるでブロンズの彫刻だ。ゲーム機は男の手から離れなかった。

 ふと気になった。

 隣に座っているサラリーマン風の男性の上着の内ポケットが膨らんでいる。財布が入っているのかもしれない。だとしたら、かなりの大金だ。ポケットの中を拝見しようと思った。だが、上着がめくれない。まるで鉄板のように硬く、体に貼りついていて動かなかった。

 対面の女性が膝に抱えているバッグを調べてみようと思った。これも同じだ。まるで女性の手と膝に溶接してあるかのように動かない。布製の柔らかそうなバッグだが、陶器で出来ているかのように、滑らかさが無い。中を見ようとしたが、力を込めてもバッグの口が開かなかった。

 俺の帝王気分は見る見る萎んでいった。

 俺は、車両の乗客の生殺与奪の権利を握ってなどいなかった。彼らに傷ひとつ、つけることなど出来ないだろう。むしろ、俺は囚われ人だ。孤独な囚人のようだった。

 先頭車両に着いた。

 この先には運転席があるだけだ。ドアの窓から運転席の様子を伺った。かろうじて運転手の背中が見えた。運転席に広がる窓ガラスから、トンネルを照らすランプが線と点になって、天井に続いているのが見えた。列車の進行方向には、漆黒の暗闇が真っ黒な口を開いて、待ち構えていた。何処までも真っ暗に見えた。

 俺はぞっとした。

(一体、何時までこの状況が続くのだろう?)

 と思ったからだ。野外で同じ状況に陥ったとしたら、出来ることが色々、ありそうだ。だが、ここは地下鉄の中だ。何処にも行けない。車両の中を歩き回ることができるだけだ。

「くそう! 俺は、どうしたら良いんだ!」思わず、声が出た。

 空いているシートに腰を掛けた。落ち着いて、状況を整理してみようと思った。

 何故だか分からないが、時間が止まってしまった。俺は動くことが出来る。そう言えば、俺が着ている服も普段通りだ。ポケットから携帯電話を取り出すことは出来るが、携帯は固まったまま動かない。俺以外の人間は誰も動いていない。その皮膚は石のように硬く、まるでブロンズ像だ。服は鉄板を張り合わせたかのように体に貼りついている。彼らの持ち物も同じだ。ポケットからも、バッグからも取り出すことができない。どうやら、俺だけが切り離された時間の中にいるようだ。

 目の前に、紙切れが落ちていた。

 手を伸ばして拾ってみた。拾えた。床に落ちているものは拾うことができた。紙切れは新聞の一部のようだった。車内で新聞を読んでいて、端が破れて、床に落ちたのだ。折れ曲がっていた為に、端をつかんで拾うことができた。

 薄くてぺらぺらのはずの新聞紙が、凍らせたかのように固かった。丸めることなど、出来なかった。俺は紙切れを捨てた。

 ところが紙切れは、俺の手を離れた途端、空中で制止した。面白い。指先でつつけば、ちょっとずつ動いた。

 暫く、紙片を動かして遊んでいたが、床に落ちているものなら、拾うことができることに気がついた。床の上を探して回った。日頃はゴミが気になるのに、今日に限って、何も落ちていない。車両中、探し回ったが、何もなかった。

(喉が渇いた)と思った時、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 この世界で、俺だけが違う時間の中にいる。もしそうなら、俺だけは喉が渇き、腹が空く。ここは地下鉄の中だ。携帯電話ひとつ持って、地下鉄に乗り込んだ。携帯電話を持っていれば、何でもできる便利な世の中だが、飲み物も食べ物も持って来なかった。ここでは飲料も食糧も十分にない。

(参った。これは弱った。先ずは飲料の確保だ)

 俺は車両を歩き回った。誰か、飲み物を持っていないか、探し回った。

 若い男が背負ったリュックにペットボトルがあるのを見つけた。吊革を持って立っている若い男が背負っているリュックの一部がポケット状のペットボトル入れになっていて、そこにペットボトルが差し込んであった。ミネラルウォーターだ。丁度、良い。

 俺はリュックからペットボトルを抜き出そうとした。

 だが、抜けない。どうしてもペットボトル入れからペットボトルが抜けないのだ。ポケットがきつ過ぎるのかと思った。柔らかいペットボトルだ。圧し潰して抜けば良い。

 だが、柔らかいはずのペットボトルは、いくら力を込めても潰れなかった。見かけはペットボトルだが、ガラスで出来ているかのようだった。

 ペットボトルを抜くのはあきらめた。水が飲めれば、それで良い。蓋を開けて傾けることができれば、中身を飲むことができるはずだ。ペットボトルの蓋を開けようとした。固い。まるで真空パックしてあるジャム缶の蓋だ。びくともしなかった。

(ダメだ、ダメだ。他に無いのか⁉)

 もう一度、俺は車両を往復して、乗客の荷物を調べて回った。床に落ちていた紙片は拾うことができた。同じ理屈で、椅子の上に置いてあるものも動かせるはずだ。

 隣の席にバッグを置いて座っている乗客がいた。やった。バッグは持ち上げることができた。だが、バッグの口を開けることができなかった。


 どれくらい時間が経ったのだろう。

 時間が止まったままなので、分からない。感覚的に、四、五時間、経っているような気がするのだが、こういう時は時間が経つのが遅く感じる。実際は、二、三時間が経過しただけかもしれない。

 居眠りから目覚めたら、この異様な世界にいた。もう一度、寝て起きれば、もとの世界に戻るのではないかと思った。座っていた席に戻って目を閉じた。

 だが、眠れなかった。無音の世界だ。静か過ぎて眠れない。現代人のサガだ。

 眠ることはあきらめて、目を開けた。視界で動くものは何もない。静寂に包まれた世界では、時間はとてつもなくゆっくりと流れて行く。

 暇だ。地下鉄車内で動いているのは自分だけ。話し相手などいない。それどころか、物音ひとつ立たないのだ。

 あまりに暇なので、座席に座った乗客を動かしてみた。学生だろう。座って携帯電話を見ている。画面を見ると、森の中に戦士がいた。ゲームで遊んでいたのだ。小柄で細そうに見えたので、動かしてみようと思った。

 重い。動かそうとすると、かなり重く感じた。ブロンズ像を運んでいるような感じだった。どうにかこうにか車両の隅に運んだ。不思議なものだ。ひっくり返りもせずに、何もない空間に腰を掛けて座っている。

 それだけだった。

 今度は腹が空いて来た。

 何か食べ物はないか――俺は車内を探し回った。終電間近の地下鉄だ。食糧を持って電車に乗っている人間など、皆無だった。そんな中、コンビニ袋を持って電車に乗っている中年の男性を見つけた。夕食を買って帰り、家で食べるのだろう。

(やっぱりだ・・・)予想通りだ。コンビニのあの袋が、薄くて固いプラスティック製の素材で出来ているかのように、かちかちだった。弁当か何か、買い込んで乗り込んできたようだが、コンビニ袋から取り出すことができなかった。コンビニ袋だ。引きちぎろうとしたが、やっぱりダメだった。まるで歯が立たなかった。

 時間の止まった世界では、時間の経過が必要な作業は何も出来ないのだ。

「ちきしょう! くそう! 何故だ。何故、俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ!」

 喚いてみたところで、何も変わらない。分かっているのだが、喚かずにはいられなかった。どうせ、誰も見ていない。人の眼など、気にする必要などなかった。俺は不貞腐れて、どうと床の上に寝転がった。

 床の上をゴロゴロと転がった。そして、吊革を持って立っていた男の足に当たって止まった。

 目の前、座席の下、奥にペットボトルが転がっているのが見えた。さっきは気がつかなかった。スポーツ飲料のペットボトルだ。蓋はない。開いたままだ。しかも、僅かだが中身が残っている。

――水だ。飲み物だ!

 俺はペットボトルに手を伸ばした。拾えた。床に落ちているものは拾える。何時、捨てられたものか分からないが、そんなことを言っていられない。喉が渇いていた。やっと水が飲める。

 俺はペットボトルを口に運んだ。

 落ちて来なかった。中に残った水が、ペットボトルの側面に貼りついたまま、逆さにしても落ちて来ないのだ。

 時間の経過が必要なことは出来ない――のだ。

「くそう~! ふざけるな。ふざけんじゃない。誰か、誰かたすけてくれ――‼」俺は頭を抱えると、狂ったように叫び続けた。

 だが、誰も反応しない。

(もう嫌だ。限界だ。このままだと、俺はここで餓死してしまう。ここから抜け出さないと、この地下鉄から逃げ出さないと・・・)

 俺は地下鉄の車両を走り回った。

 息が切れた。走り回ることに疲れてきた。通路に立っていた若者と衝突して、仰向けにひっくり返った。天井を見上げながら、ぜいぜいと息をした。

 俺はこの地下鉄から脱出することにした。いや、何としても、外に出なければならない。この地下鉄が悪いのだ。外に出れば俺の時間が動き出す――ような気がした。

 そうだ。車両の後方に緊急停止ボタンがあった。あれを押せば、地下鉄は止まる。地下鉄が止まれば外に出ることができる。

 俺は車両の最後尾に向かった。

 非常通報器があった。このボタンを押すと、列車が緊急停止すると共に、乗務員と話ができると書かれている。

(このままじゃダメだ。何とかしなければ――)

 俺はボタンを押した。

 ボタンが押せない。押してみたが、動かない。拳を握って、ばんばんとボタンを殴打したが、びくともしなかった。何度も殴打している内に、拳の方が痛くなった。

 そうだ。ここでは時間の経過が必要なことは無いも出来ないのだ。

「くそっ! これもダメか‼」

 ここで諦めたら終わりだ。目を皿のようにして、車内を歩き回る。何とかして、この地下鉄から脱出しなければならない。

 やがて、窓の上に、緊急脱出用のハンマーがあるのを見つけた。緊急時には、これで窓を割って、外に出ることができる。地下鉄は止まって見えるが、実際はものすごいスピードで移動しているはずだ。実際、目の前の景色には幾筋もの線が見える。地下鉄が猛スピードで移動している証拠だ。

 例え窓が割れても、飛び降りると死んでしまうかもしれない。いや、死ななくてもこのスピードだ。大怪我はまぬがれないだろう。

 俺は躊躇った。

 どれくらい、立ちすくんでいただろう。俺はハンマーを睨みつけたまま、考えていた。このまま、ここでこうしているのか? それとも、命がけで窓を割って脱出するのか? 結論の出ない答えを探し続けていた。

 やがて、(取りあえず窓だけ割ってみよう)と思いついた。

 窓から脱出するかどうかは、その後に決めれば良い。ひょっとすると、慎重に行動すれば、怪我をすることなしに、地下鉄から脱出できるかもしれない。窓から外に出て、屋根の上を移動し、最後尾から慎重に線路に降りるのだ。

 それなら行けそうだ。やってみよう――と俺は決心した。

 窓の上部に緊急脱出用のハンマーが備えつけられている。プラスティックの板を割れば、簡単に取り出すことができる。

 プラスティックの板に拳を叩きつけた。

 まるで鉄板だ。びくともしない。そうだ。時間の経過が必要なことは、何もできないのだ。ボタンひとつ押すことが出来ないのに、プラスティックの板が割れるはずがない。

「あ、あああああ――!」俺は悲痛な叫び声を上げながら、その場に崩れ落ちた。


 都心を走る終電間際の地下鉄が緊急停止した。

 突然、列車が緊急停止した為、バランスを崩して、幾人かの乗客が転倒した。

 列車が緊急停止をする直前、時を同じくして、車内で奇妙なことが起こった。

 最後尾の車両のドアの横に座っていた女性は、頬をつつかれたような気がした。その隣に座っていた中年の男は、いきなり頭を掴まれて、揺さぶられた。

 接続部に近い車両の隅で携帯電話を見ていた若い女性は、いきなり誰かに胸を掴まれ、「きゃあ――!」と悲鳴を上げた。ゲーム機で遊んでいた学生は、見えない力でゲーム機が手から奪われ浮き上がるのを見た。ゲーム機はポトリと膝の上に落ちた。

 隣のサラリーマンは上着がまくれ、対面に座っている女性は膝の上のバッグを見えない力で掴まれ、取り上げられ、床に投げ落とされた。

 吊革につかまっていた若い男が背負っていたリュックに差し込んであったペットボトルが、いきなり潰れて水が溢れ出た。隣の席に置いていたバッグが一瞬、宙に浮いた。

 シートに腰を掛けていた学生は、気がつくと車両の隅に移動していた。腰を掛けていたシートが無くなって、天井を向いてひっくり返った。

 中年の男性が持っていたコンビニ袋が突然、破れて、中に入っていた弁当が床に落ちた。

 吊革につかまっている乗客が、足元を救われて転倒した。突然、何処からかペットボトルが空中に現れて、床に転がった。

 通路に立っていた若者は列車が緊急停止する直前に、何かに突き飛ばされて、通路を転がった。若者に巻き込まれて、転倒して軽症を負った乗客がいた。

 列車が緊急停止をしたのは、非常通報ボタンが押されたからだった。だが、非常通報器の前に人影がなく、誰がボタンを押したのか分からなかった。

 混乱が収まった頃、一人の乗客が悲鳴を上げた。

 車両の隅に一人の男が横たわっていたからだ。体を海老のように折り曲げ、小さくなって横たわっていた。猛烈に汚い。浮浪者に見えた。

 時刻は深夜に近い時間だ。周囲の乗客は浮浪者が地下鉄に紛れ込んで、車両で寝ているのだと思った。丁度、浮浪者の顔が見える位置に立っていた中年の女性が、ちらとその顔を見て悲鳴を上げた。

――やだ!この人、死んでいるみたい‼

 女性が叫んだ。

 男は目を見開いたまま、床に横たわっていた。頬がげっそりと削げ落ち、目玉が零れ落ちそうだ。まるで幽鬼のような表情をしていた。瞬きをしていない。死んでいるのだ。

 乗務員が飛んできた。

「死んでいるみたいです」浮浪者の脈を取りながら、乗務員が言った。

「この人、突然、ここに沸いて出たのよ。私が電車に乗った時、こんな、浮浪者みたいな人いなかった。嘘じゃない。こんな人がいたら、私、直ぐに車両を移動していたから。本当よ。信じて、この人、急にここに現れたの」女性が訴えた。

 地下鉄は最寄りの駅へと移動し、浮浪者の遺体は不審死として、警察に引き渡され、解剖に回された。不思議なことに、検死の結果、遺体は死後、一か月程度、経過しており、死因は餓死だった。


                                    了

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