世にも不思議なショートショート

西季幽司

空だって飛べる

 目が覚めると、俺は宙に浮いていた。

 そう、ぷかぷかと宙に浮いていたのだ。一人暮らしの寝室のベッドから一メートルくらい上の空中に、横になった状態で浮いていた。掛け布団は掛けていなかった。道理で夜中に寒く感じた訳だ。

(何だ、何だ? これは、どういうことだ?)

 咄嗟に自分が置かれた状況を理解できなかった。

 会社に行かなくてはならない。何時までも宙に浮いている訳には行かなかった。俺はじたばたと手足を動かしてみた。丁度、部屋の真ん中あたりで空中に漂っており、天井まで一メートルくらいある。体を床と垂直にできれば、ベッドか天井に足が届くのだが、まるで水面に浮いているかのように横になったままだ。寝返りを打つように、くるりと反対向きになることができた。だが、体は水平のままだ。体をくの字折り曲げ、足を伸ばしてみたが、天井にもベッドにも届かなかった。

「はあ~」俺は長い溜息をついた。

 困った。このままだと会社に遅刻してしまう。何故、こんなことになったのだろう。俺は昨夜の記憶をまさぐった。

 昨夜は仕事が終わってから、後輩二人を連れて、飲みに行った。行きつけの居酒屋で、上司の悪口で酒が進み、ほろ酔い気分でアパートに戻って来た。

――待てよ!

 と俺は思った。そう言えば、居酒屋を出てから、妙なことがあった。

 居酒屋から地下鉄駅に向かう途中、浮浪者のような老人にからまれた。老人は「金を恵んでくれたら、願いを叶えてやろう」とすり寄って来た。後輩たちが面白がって、「先輩、彼女が欲しいって頼んでみたらどうです?」などと言うものだから、俺もつい調子に乗ってしまった。

「ほう~彼女が欲しいのか? だったら、たくさん恵んでくれればくれるほど、良い女をあてがってやるぞ」と老人が舌なめずりをしながら言った。

「ようし――!」酔った勢いで俺は財布から一万円札を抜き出すと、それを老人に投げつけながら言った。「おい、おっさん。彼女なんて要らない! 彼女なんて要らないから、これで俺が空を飛べるようにしてくれ。どうだ? できるか? はっはは――!」

 本当は彼女が欲しかったのだが、後輩たちの手前、見栄を張ってしまった。老人は一万円札を拾いながら、「えへへ」と歯の無い口を開けて笑った。

「いいんですか? 先輩、一万円ですよ!」後輩が心配そうに言った。

 給料日前だ。確かに一万円は惜しかったが、その顔を見ると、引けなくなった。こうなれば、面子の問題だ。

「じゃあな、おっさん。さあ、行くぞ!」俺は後輩に声をかけると、歩き始めた。

「先輩!」と後輩たちがついてくる。

「ははは~俺は無敵だ~! 空だって飛べるぞ~!」雄叫びを上げながら、俺は後輩たちと肩を組みながら、地下鉄駅に歩いて行った。

 老人のことは、振り返らなかった。

 そして、朝、目覚めてみると、俺は宙に浮いていた。

(俺は空を飛んでいるのか?)そう思った。

 冗談じゃない。確かに、これで外に出ると、空を飛んでいることになる。だが、俺が想像していたのは、こんなのではない。アメコミのヒーローのように、拳を突き上げて地上を飛び立ち、鳥のように風を切って飛び、好きな時に地上に舞い降りることができる――そんな姿を想像していた。こんな、風船のように、ぷかぷかと宙に浮いていることではなかった。

(あの、おっさん。ふざけやがって――)と老人を呪ってみたものの、後の祭りだ。

 とにかく、床に降りなければならない。

 俺の体重は大体、六十キロだ。床から一メートル近く浮いた場所で漂っているということは、重力加速度が9.8メートル毎秒毎秒だから・・・ええっと・・・何ニュートンだ・・・って、そんなこと計算して何になる。

 俺は無重力状態で空中に漂っているが、何故か体は床と水平に保たれている。そう、空を飛ぶには、この格好でなければならないからだ。物理の常識では測れないのだ。

 天井にも壁にも手足が届かない。

 水の中で泳ぐように、平泳ぎの要領で手足を動かしてみた。気のせいか少し進んだような気がした。水と違って、抵抗が少ないので、動く距離もごく僅かなのだ。

(こりゃあ、今日は無断欠勤だな)

 この時には、まだ仕事のことを気にする余裕があった。


 懸命に手足を動かす。小半時、ばたばたと体を動かし続け、壁に辿り着いた。壁に触ると、反動で体が後退する。まだ、じたばたと泳いでいって、壁に辿り着く――といったことを、何度か繰り返した。やがて、壁に着いたら、壁を手で強く押せば、反動で反対側に体が移動して行くことに気がついた。反対側の壁についたら、今度は足で蹴る。そうやって、壁の間を往復しながら、徐々にスピードを上げて行った。

 俺は何とか入口の柱に捕まることができた。

 柱に捕まって床に降りる。頭を床に向けて、柱をよじ登るのだ。妙な感覚だった。俺の体は空中を漂っている時が一番、安定しているようで、柱をよじ登るのに、かなりの力が要った。

 なんとか、頭が床に着くまで、柱を下って? 登って? 行った。

 さて、これからどうする?

 寝室から廊下に出る。狭い廊下だ。床と水平になって、両手両足を伸ばせば、廊下の壁につく。そうして、廊下を移動して行った。先ずはトイレだ。目が覚めてから、ずっとトイレに行きたかった。

 狭いトイレだったことが幸いした。壁に足と手をついて、つっぱりながら、下へと移動し、トイレタンクにしがみつきながら、用を足した。

 不思議なことに、排尿は重量に逆らわずに下へと落ちて行った。

(ここでなら、生活できそうだ)と思って、苦笑した。

 一生、トイレで生きて行くなんて、御免だ。

 次は食事だ。アパートの間取りは1LDKなので、台所はリビング、ダイニングとひとつになっている。部屋が広く、壁が遠いので、少々、厄介だ。

 何か重りがあれば、体が浮かなくなるかもしれない。

 鉄下駄のようなものを履くか、トレーニング用の足首に巻く重りがあれば、普段通り、地上を歩くことができるのではないかと思った。だが、健康オタクでもない俺の家に、そんなものはない。

(重いもの、重いものはないか?)懸命に思考を巡らす。

 結局、思いついたものと言えば、買い置きの米くらいだった。最近、買ったばかりだが、生憎、一人暮らしなもので、二キロ入りしかない。

(無いよりましだ)と台所の床においた米を取りに行く。

 入口の柱を登って行く。頭を床に向けているので、降りて行くと言った方が正しい。水中で浮力に引っ張られるような感じで、体力を使う。いや、水中の浮力より明らかに強い。体を空中で水平に保とうとして、強い力が働くのだ。

 床に置いた米が見える。入口から遠い。ふと、良いことを思いついた。台所にあるキッチンテーブルの下に潜り込むのだ。こうすれば、テーブルが重しになって、体が浮かないかもしれない。

 やった! 柱から冷蔵庫に捕まりながら、テーブルの下に潜り込むことが出来た。何時の日か、彼女と同棲することを夢見て買った三点セットのキッチンテーブルだ。厚みのある天板がスチール製のフレームに乗っている。かなりしっかりしたものだ。テーブルの重量は、四、五キロは優にあるはずだ。

 テーブルの下に潜り込む。背中がテーブルの天板についた。成功だ――と思った瞬間、テーブルが俺の体と共に浮き始めた。テーブルの上に乗せておいたティッシュボックスや箸立てが、がらがらと床に落ちた。

「おっ! くそっ! ダメなのか‼」

 バランスを崩して、テーブルが“ドタン!”と大きな音を立てて、床に落ちた。うちはアパートの三階だ。日頃、階下の住人への騒音を気にしているが、この時ばかりは騒音に驚いて、「何が起きたんだ!」と誰か様子を見に来てくれないかと思った。

 だが、何も起きなかった。

 もう日中だ。働きに出ていて、家には誰もいないのだろう。そう言えば、どうでも良いことだが、今日、俺は会社を無断欠勤してしまっている。

 俺はぷかりと台所の宙に浮いた。結構な重さのあるテーブルでも体が持ち上がってしまった。二キロ程度の米では重しにならない。鉄下駄を履いても、足首に重りをつけても結果は同じだっただろう。大体、運動不足の俺が十キロ以上の重しを足首につけて、歩くことなどできるはずがない。

 どうしても俺を宙に浮かせたいようだ。


 じたばたと手足を動かして、少しずつ移動すると、冷蔵庫にしがみついて、食パンと缶コーヒーを手に入れた。俺は天井を向いて、宙に浮かぶと、水面に浮かぶラッコのように、腹の上に食パンと缶コーヒーを置いて、朝飯を済ませた。

 このままではどうしようもない。助けを呼ばなければ――と、俺は思った。

 警察に電話することを考えた。だが、この珍しい状況を見て、どう思うだろう。何故、どうやって宙に浮いているのか、俺自身、分からないのだ。警察だって、分からないはずだ。俺は政府の研究施設に送られ、空中に浮遊する謎を解明する為に、モルモットとして生きて行くことになるのだろう。

(冗談じゃない!)と思った。

 警察に電話をするのは、最終手段として、先ずは会社の後輩に助けを求めようと思った。その為には、携帯電話を手に入れなければならない。携帯電話を探す。昨夜、酔っぱらって戻ってから、リビングにある炬燵兼テーブルの上に置きっぱなしになっているのが見えた。

(不味いな。充電するのを忘れていた)

 電池が切れていると厄介だ。空中に浮いていては、充電ケーブルを掴んで携帯電話を充電するのも一苦労だ。

 ばたばたと空中を泳いでゆく。クロールはダメだ。空気抵抗が少なくて、ほとんど前に進まない。バタフライは出来ないし、平泳ぎが一番、効率良く前に進めた。

 炬燵兼テーブルの近くまで行って、窓枠に捕まりながら、登った。いや、下に降りた。手を伸ばして炬燵に手を掛けると、炬燵が持ち上がってしまい、上に乗せていた携帯電話が反対側のカーペットの上に落ちてしまった。

「ああ~! くそっ! くそっ! くそっ!」上手く行かない。ストレスが溜まる。

 携帯電話を手に入れるのに苦労した。携帯電話は壁から遠い、部屋の中央部分に転がってしまった。どうやっても、手が届かなかった。無理に移動しようとして、液晶テレビを倒してしまったし、摑まったカーテンがレールから外れてしまった。それでも、携帯電話に手が届かなかった。

 俺は考えた。そして、ひとつの方法を思いついた。リビングにはカーペットが引いてあった。俺は入口まで泳いで戻って、柱に捕まりながら下に降り、手を伸ばすと、カーペットの端を掴んだ。そして、ずるずると手繰り寄せた。カーペットに乗って、携帯電話がやってくる。

 こうして、携帯電話を手に入れた時には、汗だくになっていた。

(良かった。電池が残っていた)

 残量は多くないが、電話を掛けるには十分だ。俺は会社の後輩に電話をかけた。

「どうしたんです? 先輩。無断欠勤なんかして。昨晩、飲み過ぎたんでしょう。僕、課長に上手いこと言っておきましたんで、大丈夫ですよ。先輩、四十度の熱を出して、家でうんうん唸っていると言っておきました」

 電話を取るなり、後輩が一気にしゃべった。職場で声を潜めながら、電話に出ているようだ。

「ああ、本当か。ありがとう。熱は出ていないけど、大変なことになった」

「大変なこと? どうしたんです」

「それがな。ちょっと説明が難しいんだ。悪いけど、仕事が終わったら、俺のアパートまで来てくれないか?」

「先輩のアパートですか⁉ ええっと・・・良いよですよ」

「助かった。頼むよ。それと、何か、食いものを買ってきてくれ。コンビニ弁当なら、何でも良いよ。金は後で払うから」

「お安いご用です。任せておいて下さい」

「じゃあな、頼んだぞ」

 電池の残量が心配だったので、話が終わると、直ぐに電話を切った。携帯電話をポケットに仕舞う。携帯電話は命綱だ。床に落としてしまうと拾うのが大変だ。また一大事になってしまう。とにかく、これで一安心だ。

 後輩と連絡がついたので、安心したのだろう。朝からの疲れがどっと押し寄せてきた。

(少し、休憩だ)

 幸いと言うか、何もしなければ、部屋の中空でゆらゆらと浮かんでいられる。ふかふかのベッドで寝ているより、心地よいかもしれない。枕がないのが残念だが。俺は眠りに落ちた。


 目を覚ますと窓の外が真っ暗だった。

 悪い夢でも見ていたのだと思いたかったが、相変わらず、俺は宙に浮いていた。現実だった。すっかり、熟睡してしまった。もう夜だ。かなり長い時間、寝ていたようだ。空中に浮いていれば寝心地が抜群だということが分かった。

 もうじき、後輩が仕事を終えて、アパートに駆けつけてくれる時間だ。腹が減った。後輩が買ってきてきれるコンビニ弁当を食べるのが楽しみだった。

 先ずは玄関の鍵を開けておかなければならない。そうしないと、後輩が部屋に入れない。

 俺はじたばたと泳ぎながら、玄関に向かった。廊下に辿りついた。狭い壁をつかって、下に降りることができる。俺は玄関の鍵を開けた。

(ここで待っていよう)と思ったのだが、なかなか後輩が来ない。

 残業でもしているのだろう。よくあることだ。狭い空間に押し込められていると、体が痛くなってきた。俺は一旦、リビングに戻ることにした。

 後輩がやって来るのを見たかった。窓を開けてみることにした。

 部屋の中では床から一メートルくらいの場所をふわふわと漂っている。窓から外に出れば、俺の体は緩やかに下降し、地上から一メートルくらいの箇所で静止するのではないかと思った。やって来る後輩の目の前に、ふわりと降りることが出来れば、どれだけ驚かせることができるだろうか――と想像すると楽しくなった。

 俺は窓際まで泳いで行った。窓の鍵が目の前にあった。

 窓を開けた。窓枠を掴みながら、めいっぱい窓を開けた。

 ――あれっ! 何だ‼

 窓を開けた途端、俺はまるで、宇宙船で壊れた壁の穴から宇宙空間に吸い出されるかのように、物凄い力で引っ張られて、外に飛び出した。

 俺の想像では、外に出ると緩やかに下降し、地上、一メートルくらいの場所で静止するはずだった。だが、俺の体は反対にふわふわと上昇し始めたのだ。

(何故だ? 何故、上昇するんだ――⁉)

 上昇が止まらない。俺のアパートが見る見る小さくなって行った。アパートの前の道を、向こうから後輩が歩いて来るのが見えた。

「おおい~! ここだ~俺だ~助けてくれ~!」

 後輩の名前を呼んだ。俺の声が聞こえたのか、後輩は足を停めて辺りを見回したが、直ぐに何事も無かったかのように、俺のアパートに消えていった。

 後輩が手に持っていたコンビニ袋が見えた。

(どうしても、俺に空を飛ばせたいのだ)

 あの老人に恵んだ金が百円程度なら、一瞬、宙に浮く程度なのだろう。ジャンプするのと変わりはない。ところが、一万円も渡したものだから、どうしても俺を空に浮かせたいのだ。そうなのだ。そうに違いない。

 上空に風があった。

 俺は上昇を続けた後、風に乗って流され始めた。空を飛んでいるかのようだった。

――違うよ。こんなんじゃない!

 こんな形で空を飛びたかったのではない。

 やがて、裏山から吹き降ろす風に乗って、俺は海へと流され始めた。このまま海に出ると、この魔法のような効果が切れた時、俺は海原に放り出されてしまう。

「嫌だ! ダメだ」俺は懸命に手足を動かした。だが、風の力に逆らえなかった。眼下の景色から灯りが消え、闇に沈んだ真っ黒な海へと変わって行った。

「おっさん! もう十分だ~勘弁してくれ~!」俺は泣きわめいた。


「助けて下さい」と百十番通報があった。

「どうしましたか?」と応答すると、「海に流されてしまった」と言う。船で遭難したのかと尋ねると、「ちょっと違うのです。説明が難しいのですが・・・海の上を漂っています。あっ、いや、そうじゃなくて、海の上の空の上です」と訳の分からないことを言う。

「お名前と住所をお願いします」

 若い男のようで、名前と住所を告げると、「いえ、あのね。家にはいないのです。今は、海の上にいます。海の上の空の上を漂っています。助けて下さい」と言う。

「場所が分かりますか?」

「海の上ですから、場所なんて分かりません!」

「落ち着いて下さい。どうして海に落ちたのですか?」

「いえ、だから、海に落ちたのではありません。風に流されて、海の上まで来てしまったのです」

「船が風に流されたのですね?」

「いいえ。僕が宙に浮いて、風に流されたのです」

「宙に浮く?」

「はい。とにかく、助けて下さい」

「近くに、目印となる場所はありませんか?」

「目印たって、辺り一面、真っ暗で何も見えません」と言った辺りから、音声が掠れ始めた。「ああっ! アンテナがっ! 圏外になる。それに、もう電池がない。お願いです。助けて下さ――」

 突然、通話が切れた。


 漁師仲間から“トロ”と呼ばれていた。

 “将太”という名前なのだが、漁師仲間の一人が「寿司屋みたいな名前だな」と言い出したことから、“軍艦”に“カッパ”、“エンガワ”とあだ名が変わった後、“ネギトロ”になった。そして、“ネギトロ”が“トロ”になったのだ。“とろくさい”から“トロ”という意味が込めているのだろう。

 将太は漁師になって一年目の新米の漁師だ。正直、漁はきつい。あだ名通り、トロ臭くて、船では先輩漁師に怒られてばかりだ。だから、こうやって、船の隅で先輩漁師の眼を盗んで、時々、休憩をする。何もない海の上の景色を眺めている。

 視線は海上をさまよっているが、頭の中では、船の下の海底には巨大な怪獣が眠っているのだ――と、そんな空想に耽っていた。現実逃避だけが、将太の船の上での楽しみだった。

 その日、将太は不思議なものを見た。

 遥か彼方の空の上に丸太のようなものが浮いていた。信じられないことに、何の支えもなしに、空中に漂っていたのだ。見間違えかと思ったが、丸太には海鳥が止まり、羽を休めていた。間違いない。宙に浮いている。遠目にも、かなりの大きさだ。

 先輩漁師を呼びに行こうかと思った。だが、止めておいた。どうせ、馬鹿にされるに決まっている。そうだ。あれは蜃気楼なのだ。こういうことは、海の上ではきっとよくあることなのだろう。いや、もしかしたら、空想に耽り過ぎて、ついに想像の産物を見てしまったのかもしれない。

 将太はそう思った。


 雨が降り始めた。

 参った。傘を持って来なかった。まだ降り始めだ。急げば、本降りになる前に、地下鉄駅に辿り着けるだろう。

 そう思って、走り出そうとした時、“コツ”と何かが頭に当たって、足元に転がった。雹が落ちてきたのだと思った。

(何だ?)と思って拾ってみると、薄く黄色みがかった白い物体だった。溶けない。雹ではないようだ。

 手のひらに於いて、しげしげと眺めてから、それが何か分かった途端、「おわっ!」と悲鳴を上げながら投げ捨てた。

 歯だった。

 乳歯が抜けると、上の乳歯を床下へ、下の乳歯は屋根上へ投げ、綺麗な永久歯が生えてくることを願う。子供が投げ捨てた歯かと思ったが、ここはビジネス街だ。こんなところで、抜けた乳歯を屋根に投げるものなどいない。

 それに、どう見ても、あれは子供の歯などではなかった。大人の歯だった。


                                    了

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