花火
あの頃、僕はどん底だった。
仕事で大きなミスをした。「絶対に大丈夫です」と太鼓判を押してあったプロジェクトを失注してしまったのだ。部の予算に大穴を開けてしまい、部長から「しっかり客先をフォローできていたのか⁉」と怒鳴られる始末だった。
僕なりに言いたいことはあった。幾つもプロジェクトを抱えて忙しく、毎晩、毎晩、残業で、ろくに寝ていなかった。毎日、倒れそうになりながら働いていたのだ。だが、忙しさにかまけて、連絡が疎かになっていたのは確かだ。客先が他社の製品に乗り換えようとしていたことに、僕は気がつかなかった。客先との連絡を任されていた僕のミスだった。
この失敗で、僕の経歴に傷がついてしまった。部長からバッテンをもらったに違いない。僕は出世コースから外れてしまったはずだ。僕の代わりなんて、いくらでもいる。
そんな時、妻から離婚を切り出された。
――もう、あなたとはやって行けない。
そう言われた。妻とは高校時代からの付き合いだ。僕と妻は中国地方の鄙びた町で育った。高校時代に、ひとつ後輩だった妻からラブレターをもらったのが馴れ初めだった。ラブレターなんて、生まれて初めてもらった。それが嬉しくて、彼女と付き合い始めた。
高校を卒業してから、地元の大学に進み、今の会社に就職した。彼女は高校を卒業してから、地元の短大を出て、町の信金で働いていた。僕が東京の本社勤めになったのを機に結婚を申し込んだ。無論、返事はイエス。結婚し、二人で上京した。
仕事、仕事で妻のことを顧みなかった。妻は何時も一人で、寂しかったに違いない。それが離婚を切り出された原因だと思った。仕事で大失敗したところだ。これからは、なるべく家にいるので、やり直せないか――そう妻に申し出た。
「もう遅いのよ。私には好きな人がいるの。彼と一緒になりたいの」と妻は返事をした。
妻には男がいた。相手のことは教えてくれなかったが、パートで働いているレストランの関係者のようだ。
「分かったよ」僕はそう答えた。もう全て、どうでも良かった。
「離婚届にサインをして、役所に出しておいてちょうだい。慰謝料なんていらないわ」妻は家を出て行った。
このまま、消えてしまいたい――そう思った。
――離婚することになった。悪いね。心配かけて。
その夜、お袋に電話した。
どうせ分かることだ。両親にだけは、話しておいた方が良いと思った。
翌日は会社を休んだ。仕事なんて、もう、どうでも良かった。夕方、玄関のチャイムを鳴らす者がいた。ドアを開けると、親父が立っていた。
「親父・・・一体、どうしたんだ?」
僕のことが心配で、田舎から駆けつけてきたに決まっている。離婚のことを、お袋から聞いて、朝一番の列車に飛び乗ったのだ。そして、今やっと、僕のアパートに着いた。
僕が自殺をするんじゃないかと心配したのだろう。後から聞いた話だが、お袋が「ねえ、お父さん。あの子、随分、思い詰めている様子だったの。死にそうな声だったのよ~」と泣きながら親父に離婚のことを伝えたらしい。
「東京は分からんな。迷ったよ。アツシ、飯を食いに行こう」親父が言った。
「うん」と近所の中華料理屋で、食事をした。
何を話したのか、何を食べたのか、もう覚えていない。覚えているのは、親父が急に、「アツシ、花火を見に行こう。今晩、神宮外苑で花火大会があるみたいだぞ」言い出したことだ。来る途中、電車の中吊り広告で、今晩、神宮外苑で花火大会があることを知ったと言う。
東京に不案内な親父を案内して神宮外苑に行った。チケットを買って、神宮球場で花火を見た。
球場の売店でビールを買った。酒飲みの親父は黒ビールが気に入ったようで、「黒ビールだぞ。これ、昔、若い頃に、よく飲んだ」とご機嫌の様子だった。
二人でビールを飲みながら花火を見た。
涙が込み上げてきた。涙が零れないように、夜空を見上げていた。花火なんか、涙で掠れて見えなかった。涙が一杯になって、もう顔を上げていることが出来なくなった。途中から、僕は感情に圧し潰されて、俯いてばかりいた。
親父が言った。「アツシ。見ろ、花火、綺麗だろう。顔を上げろ。来年の今頃、お前はきっと笑っているはずだ。そう信じろ」
あれから、もう三十年だ。
ふと、あの日のことを思い出した。
田舎の兄貴から、親父が危篤だと連絡があった。もう夜だったが、最終の新幹線に飛び乗った。「私も一緒に行く」と言って、妻がついてきてくれた。
前の妻と別れた後、再婚した女性だ。親父と花火を見た後、心機一転、会社を辞めて、転職した。転職先で知り合った女性だ。
「元気を出してね。さあ、笑って、笑って――」職場でそう言って、何時も僕を励ましてくれた。
転職して一年後、彼女と付き合い始めた。仕事は順調で、新しい会社で、今では部長になっている。妻は何時も冗談ばかり言って、笑っているような女性で、家庭では笑顔が絶えなかった。
親父の言った通りになった。
人間、落ちるところまで落ちると、後は登るだけだ。
闇夜を切り裂いて、新幹線が進む。新幹線の窓から、漆黒に塗りこめられた夜空に花火が広がるのが見えた。
(どこかで花火大会でもやっているのだろう)と思ったが、上がったのはその花火、一発だけだった。
「なあ、今、花火が上がったよな?」窓側の席で頬杖をついている妻に尋ねると、「さあ、見ていないわよ」と答えた。
「そんなはずない。一発だけだったが、確かに花火が上がったのを見た」
「そう? ぼんやりと外を見ていたから、気がつかなかったのかもね。でも変ね。花火が上がったのなら、気がついたと思うけど・・・」
妻が不審そうな顔をした。
(ああ、そうか)僕には分かった。
――親父、今、逝ってしまったんだな。
了
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