第四章:歌舞伎町の夜

 歌舞伎町の喧噪が遠のいていく路地裏。ネオンの明滅が、三つの影を不規則に照らし出す。


 椿樹(つばき)と杏奈(きょうな)は、急ぎ足で歩いていた。二人の間で、ふらつく葵唯(あおい)の姿があった。


「くっ……」


 葵唯の唇から、苦しげな吐息が漏れる。その顔は蒼白で、額には冷や汗が滲んでいた。かつての華々しい格闘家の面影は、今や薬物の魔の手に蝕まれていた。


「もう少しよ、葵唯」


 杏奈が優しく声をかける。その声には、かすかな焦りが混じっていた。


「ったく、図体ばっかりでかくなりやがって……」


 椿樹はそう吐き捨てながら、鋭い眼差しで周囲を警戒する。彼女の右手は、常にジャケットの下に隠された銃に触れられる位置にあった。


 突然、葵唯の足が縺れ、前のめりに倒れそうになる。


「っ!」


 椿樹と杏奈は咄嗟に葵唯を支える。二人の動きには無駄がなく、長年の経験が滲み出ていた。


「やばい……もう限界みたい」


 杏奈の声に、珍しく焦りの色が混じる。

 椿樹は周囲を見回すと、小さく頷いた。


「ここで一旦休もう」


 路地の隅、ゴミ箱の陰に三人の姿が隠れる。

 街灯の淡い光が、葵唯の痛々しい姿を照らし出す。


 椿樹と杏奈は、互いに顔を見合わせた。二人の目には、複雑な感情が交錯していた。かつての敵、そして今は同志。そして今、彼女たちの腕の中で息絶えそうになっている元格闘家。


 杏奈が小さくため息をつく。


「こんなところで死なれても困るしね」


 その言葉とは裏腹に、彼女の手は優しく葵唯の背中をさすっていた。


 椿樹は黙ったまま、ポケットから小さな注射器を取り出す。それは、緊急時のための特効薬だった。


 針が葵唯の腕に刺さる瞬間、遠くで救急車のサイレンが鳴り響いた。


 椿樹の長い黒髪は、夜の闇に溶け込むように艶やかだ。彼女が身に纏うのは、深紅のボディコンドレス。その生地には、最新の防弾素材が使われている。足元は、12センチヒールのスティレット。そのヒールの先端には、緊急時に使用できる細い刃が仕込まれていた。


 対照的に、杏奈のショートヘアは月明かりに銀色に輝いていた。彼女はタイトなレザーパンツに、シースルーのブラウスを合わせている。その下に覗くブラは、高級ランジェリーブランドの最新作。しかし、そのレースの中には、微弱な電流を流せる特殊な装置が組み込まれていた。


 二人の間で、まだ葵唯がぐったりとしている。

 杏奈が、低い声で囁いた。


「クラブに連れて行きましょう」


 椿樹は無言で頷く。その瞳には、冷たい決意の色が宿っていた。


 三人は、ゆっくりとネオンきらめく大通りへと歩を進める。その姿は、まるで深夜の歌舞伎町にありがちな、酔っぱらった女友達を介抱する光景のように見えた。


 目的のクラブに到着。扉を開けると、轟音が三人を包み込む。


 椿樹と杏奈は、葵唯を支えながらフロアに入っていく。騒がしい音楽が鳴り響くクラブの中、三人の姿が徐々に溶け込んでいった。


 フロアの隅に葵唯を座らせると、椿樹と杏奈は周囲を警戒し始める。


 椿樹は、クラブの喧騒の中でふと違和感を覚えた。カウンターに座る男の後ろ姿が、どこか見覚えがある。その瞬間、過去の任務の記憶が蘇る。


 杏奈が、さりげなくイヤリングに触れる。それは、高感度マイクが内蔵された通信機器だった。


「異常なし。でも……」


 彼女の言葉が途切れた瞬間、椿樹の目が凍りつく。


 カウンター越しに見えたのは、確かに、かつての標的だったはずの政治家・橘川誠一。


「あれは……」


 椿樹の唇が、かすかに動く。杏奈も、その視線を追う。


 橘川誠一は、若い女性たちに囲まれていた。その姿は、一見すると普通の政治家のように見える。しかし、椿樹の鋭い目は、彼の右手の小指が欠けていることを見逃さなかった。


「あの時、確かに……」


 確かに彼女は、橘川誠一を射殺したはずだった。しかし、目の前にいる男は、紛れもなく彼だった。


 杏奈が、椿樹の肩に手を置く。


「大丈夫?」


 椿樹は、ゆっくりと頷いた。しかし、その瞳には複雑な感情が渦巻いていた。


 突如、クラブ内の雰囲気が変わる。VIP席に、艶やかな着物姿の女性が現れたのだ。


「あれは……」


 杏奈の声が、かすかに震える。


 その女性は、紛れもなく蘭丸だった。彼女の周りには、数人の屈強な男たちが控えている。


 椿樹と杏奈は、無言で視線を交わす。この状況が、単なる偶然ではないことを、二人とも悟っていた。


 そして、蘭丸の視線が、ゆっくりと椿樹たちに向けられる。その目には、底知れぬ深さと危険な輝きがあった。


 この夜、歌舞伎町に隠された真実が動き出す。


 椿樹は、静かに立ち上がった。その仕草には、ただならぬ緊張感が漂っている。


「杏奈、葵唯を頼む」


 杏奈は無言で頷くと、葵唯の側に寄り添う。


 椿樹は、ゆっくりとVIP席に向かって歩き出した。その姿は、まるで運命に向かって進む戦士のようだった。


 歌舞伎町の夜は、まだ始まったばかり。そして、この夜が明けるまでに、全ての真実が明らかになるのだろうか。


 ネオンの光が、椿樹の決意に満ちた瞳を照らし出す。


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