第二章:格闘家の没落

 錆びついたジムの鏡に映る葵唯(あおい)の姿は、かつての栄光を失っていた。かつては輝かしい未来を約束された女性格闘家だった彼女の瞳には、今や諦めと苦悩の色が濃く滲んでいる。


 葵唯は、鏡に映る自分の姿をじっと見つめた。短く刈り上げたプラチナブロンドの髪は、根元が伸びて黒い部分が目立ち始めている。頬はこけ、目の下にはクマができていた。ひと月前の八百長試合での敗北から、彼女は這い上がれずにいた。


 彼女が身に纏うのは、かつての栄光を象徴するようなブランドのトレーニングウェア。しかし、その色は褪せ、所々に糸のほつれが目立つ。手首には、以前は高級ブランドのものだったスポーツウォッチ。今は電池切れで止まったままだ。


 葵唯は、ゆっくりとバンデージを手に巻き始めた。その動きには、まだプロの技が残っている。しかし、その手の甲には、試合でできた痣が生々しく残っていた。


「はぁ……」


 ため息が、静寂を破る。


 葵唯は、サンドバッグに向かって立った。ふと、彼女の目に、バッグの横に置かれた小さな化粧ポーチが入る。それは、彼女が昔、恋人からもらったものだった。


 思わず手が伸びる。ポーチの中には、高級ブランドの口紅が一本。葵唯は、それを取り出すと、鏡の前に立った。


 唇に赤い色が差していく。それは、まるで過去の自分を取り戻すかのような儀式だった。


 しかし、次の瞬間、葵唯は激しく首を振った。口紅を投げ捨て、サンドバッグに向かって突進する。


「くっ!」


 拳がバッグに叩きつけられる。その音が、静寂を引き裂いた。


 葵唯の動きは、まだ鋭かった。しかし、その目には迷いが見える。かつての輝きは、どこへ行ってしまったのか。


 ふと、ドアが開く音がした。


 葵唯が振り返ると、そこには艶やかな着物姿の女性が立っていた。蘭丸(らんまる)だ。


 蘭丸の姿は、この錆びついたジムにそぐわないほど優雅だった。深紫の着物に金糸で刺繍された紫陽花の模様。その姿は、まるで浮世絵から抜け出してきたかのよう。


 蘭丸は、ゆっくりと葵唯に近づいてきた。その歩み方には、しなやかな力強さが感じられる。


「あなたの才能、無駄にしないで」


 低く響く蘭丸の声に、葵唯の心が揺れる。


 葵唯は、思わず蘭丸の瞳を覗き込んだ。そこには、優しさと同時に、底知れない深さが潜んでいた。


 しかし、その瞬間、葵唯の脳裏に別の顔が浮かんだ。蘭丸の妹、椿(つばき)の面影だった。


 過去の恋の痛みが、鋭い刃となって葵唯の胸を貫く。同時に、蘭丸の言葉が、新たな可能性を示唆していた。


 葵唯の心は、二つの感情の間で引き裂かれていく。


「私に……何ができるっていうの?」


 葵唯の声は、震えていた。


 蘭丸は、にっこりと微笑んだ。その笑顔には、優しさと危険が同居していた。


「あなたの力が必要なの。私たちと一緒に……新しい世界を作りませんか?」


 蘭丸の言葉に、葵唯の心が大きく揺れる。過去の栄光を取り戻せるのか。それとも、新たな闇に飲み込まれるのか。


 葵唯は、再び鏡に映る自分の姿を見つめた。そこには、決断を迫られる自身の姿があった。


 窓の外では、夕暮れが迫っていた。新たな夜の幕開けとともに、葵唯の運命も、大きく動き出そうとしていた。

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