第34話 リリカルな日

 土砂降りの雨が降った次の日は、マーちゃんと出会ってから101日目にして、6の月の9日になる。


 今朝は表通りの街路樹の葉からしずくれ落ち、普段は意識しないような小鳥の鳴き声が穏やかに流れる様な、まだ夏なのに涼やかな朝だった。


 この世界の外の様子を確認した俺は、徹底的に管理された空間であるフロアに戻り、いつもの東屋あずまやで朝食をいただくことにした。

 太い4本の木の柱で支えられたここは、地面にの子が敷かれた上に柔らかい絨毯じゅうたんかぶせられて、ちゃぶ台の落ち着いた茶色と合わせて目に優しく、尻の下に置かれた座布団と相まってまことに居心地の良い空間だ。

 

 この日は黒子さんが、豆腐とネギの味噌汁に、キノコと豆の煮物、毛牛肉のしぐれ煮、卵かけご飯という、元日本人としては手を合わせておがみたいようなメニューを出してくれた。

 割り入れた卵に醤油を足して、ほどほどに混ぜたものを熱々のご飯にかけ、テラテラと光る表面をしばし見つめてからき込みみしめつつ、ここに居る自分について思考を上書きしながら繰り返し考えてしまう。


 俺の視線のさらに先の方では、空気も無い吹き抜けの向こうに、幅が1キロで長さが8キロメートルはあろうかという森が静かに存在していた。もう何年前からそこにあるのかは不明な場所だ。

 樹種じゅしゅも聞いていない森の中には、比較的小さな生物達が、もっと小さな生き物達と一つの世界を作っているのだろう。彼らはあきれるぐらいの年月を世代交代に費やし、完全に環境に適応して、別の生き物へと進化しているのかもしれない。

 リスの様な小型哺乳類が居るような気もするが、地上生の頭足類だったり、樹上生の魚類であっても意外だとは思わない。


 以前に、美術商のシーシオン氏が言っていたことを思い出した。全ての生命が等価値であるというのは、間違っていないのだろうと思う。森の住人と俺は、マーちゃんという管理者の元では同じような生き物なのだ。


「黒子さん、今日も旨い飯だった。いつもありがとうよ。ご馳走様でした」


 心から安心して何かが出来る時間というのは、いつもあっという間に終わってしまうのだろう。きれいに中の物が無くなった食器を眺めながら、染々しみじみとそんなことを考えてしまった。


「ケンチ、今日はいつぐらいに内区に出かけるのだ? 昼過ぎぐらいが良いだろうか。それとも朝の方が良いかな?」


 うちの閉鎖空間管理者姉さんからは、早速今日の行動予定について聞かれてしまった。

 充分に気を使われていることは分かる。だが俺の人間部分は、街から出て海外に行き、そこから戻らないのはどうだろうと、マーちゃんに提案したくなる時があるのだ。


「早く行って内壁の西門を見張ろうと思う。司祭様達が門から出てきたら、俺たちが入りゃ良いんじゃねえかって考えてな。スーちゃんはここで待っててくれりゃ良いしよ」


 久しぶりにあの辺りで時間を潰すのも良いだろう。あそこに何が在ったか、咄嗟とっさに思い出せないのが痛いが、行けば何かはあるような気がする。


「それならばTチームを公衆トイレから外して、内区の監視をやらせても良いぞ。内区のトイレ情報も集める良い機会だ」


 そう言えば、うちのババがみ姉さんは、口から出る情報も、尻から出る情報も同時に集めているのだった。定点観測の場所として、あそこは盲点と呼んで良いだろう。

 トイレといえば、最も油断している時の様子をのぞかれ、最も無防備な時にさらわれる危険まであるのだ。


「同時にやろうぜ。黒クモさんがバックアップについてくれんなら最高だ。俺も西門までは移動しときゃ、すぐに行動に移れんだろ」


 何故かは分からないが、今日はフロアに待機して鍛練にはげもうという気になれない。

 往来おうらいの少ない通りでも良いから、そこを眺めながら、自分もこの街社会の一員であることを思い知りたくなったのだ。


「私も人型義体で外に出ておきたいわね。ネタが拾えるかもしれないし」


 何故かスーちゃんまで、そんなことを言い出してしまった。

 人は噂が大好きということもあるし、スーちゃんの活動はここで受け入れられる可能性はある。

 800年間に印刷された約96万部のチラシ新聞は、マーちゃんの手によって再生紙に戻ることになった。つまりあのA3版に近いサイズの瓦版かわらばんは、この街で大量に印刷される可能性があるのだ。


「マーちゃん、そんじゃあ今日は、あの人力車の出番だと思うぜ」


 年頃のご婦人にしか見えないスーちゃんの義体なのだ。俺と連れだって歩くとからまれる可能性がある。

 そこで、マーちゃんが趣味で作った道具の出番ということになる。


「アレか。明治大正ロマンがあふれてしまうかもしれん。ひょっとしてケンチが引いて、スーちゃんを乗せて行くのか?」


「そうだぜ。俺も一回は、アレに誰かを乗せて引いてみてえと思ってたんだ。丁度良いんじゃねえかな」


「人力車って何なの? 乗り物?」


 マーちゃんの疑問に俺が答え、それを聞いていたスーちゃんは人力車に興味を示した。


「人力車『ブーケタン送迎車』というのだ。これがそれだ」


 マーちゃんの声に答え、そのレトロ感満載の乗り物は唐突に目の前に現れた。


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●人力車『ブーケタン送迎そうげい車』

アシッメオ・ブーケタン・ドアーニオ氏のミドルネームを与えられた人力車。

木製車体に左右1輪、引くための棒が伸び、乗車部分は布の折り畳み屋根が付く。座席の幅は1メートル半。耐荷重1トン。黒色。

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 俺の鑑定にも、がっつりとそんな内容が出てきた。


「黒いしお洒落しゃれね。馬とか猪とか地鳥ちどりじゃなくて、人が引いてくわけね。街だと坂が無いし、地面が平らだから楽なのかしら」


 本来ドラゴンの聡明さは人を超えるのだ。スーちゃんには、俺やマーちゃんの狙いまで分かったのかもしれない。


「スーちゃんのいう通りだ。北西部は歓楽街なんだがよ、あそこに売り込んでこようかって話ぁあったんだ。もうかっちまったから棚上げになってんだけどな」


 実はこれは、娼婦や客の送迎に使えないか俺たちで検討したことがあるのだ。アイデアの元になったのは、大八車アシッメオ号である。


 スーちゃんも気に入ったようなので、今日はこの人力車に乗ってもらい、俺がそれを引いて内区の西門まで行くことになった。

 実にゆっくりではあるが、自分で歩かないというところに、この人力車の良い部分があるのだと思う。陽をけながら辺りも見回せるというのは、生じた余裕の分だけ違う風景を彼女に見せてくれるかもしれなかった。



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