第2章「矢渕達也は常に異端児」

「面倒だし反省文って検索して丸々写すか」

「……、怒られるよ?」


1


「そ、その顔どうしたの?」

翌日の朝。

昨日と同じく迎えに来た萩元が驚きと不安の表情で俺の顔を覗き込んでくる。

……そりゃあ、びっくりするよな。昨日の今日で急に顔にアザなんて作ってきたんだから。

「ちょっと人助けをな」

「人助けだけで普通そんな酷い顔になる?」

「時と場合によってはなる、気がする」

「なにそれ」

正直な話、自分でもよく分かっていなかった。

どうしてあの時、周りのクラスメイトと同じように見て見ぬふりをしなかったのか。

どうしてあの時、赤の他人だったはずの柊を身を呈してまで助けようとしたのか。

「もしかして女の子?」

「は?」

「その助けた人って」

通学路を歩く中、ジトっとした目でオレを見る萩元。

なんか急に不機嫌?

「確かに女の子だけどそれがどうかしたか?」

「ふーん」

なんだよその反応。

もしかして何か勘ぐってるのか?

別に何か下心があって助けたわけじゃないんだが。

ただ、そう。あの時の柊を見ていたら体が勝手に動いてしまったというか何というか。

昔の自分を重ねてしまった部分が……いや、それはそれでいいとして。

この話題を続けても藪蛇になりかねないだろう。

ここは少しでも話題を逸らしてこの空気を変えなければ。

「そういえば昨日の織笠?って子は友達か?随分と仲良さそうに見えたけど」

「……気になるの?織笠ちゃんのこと。可愛いもんね?」

急いで別の話を振るが、失敗だった。

さらに空気が重くなった気がする。

他の女の話はするなってことか?

難しいな……女子ってやつは……。

「萩元みたいな女の子の方がタイプだけどな、オレは。笑顔とか見てるとドキドキするし」

とはいえ、勘違いされたままなのもアレなので、一応フォローしておく。

「……っ!?」

みるみる顔を赤くして口をパクパクとさせる萩元。

あれ?これってもしかして、オレは今とんでもない爆弾発言をしてしまったんじゃないか?

しかもかなりクサい台詞で。

「し、知らないっ!」

そう言って萩元はズンズン先へと歩いていってしまう。

オレを置いたまま。

「なんなんだ一体」

訳が分からない状況に困惑しつつ、オレも後を追っていくのだった。


2


教室に入った途端、和やかな空気がガラリと変わるのがわかった。

ガヤガヤと騒がしかったはずのクラスメイトたちが一斉に静かになり、様々な感情が入り乱れた視線をこちらへと向けてくる。

なるほど。確かに柊が言った通りこれは居心地があまりいいとは言えないかもしれない。

挨拶の1つでもしておくべきか迷ったが、視線の圧に負けてオレは黙って席に着くことにした。

さらば、オレの楽しい高校生活。

「なんでアイツ怪我してんだ?」

「さぁ?喧嘩でもしたんじゃない?始業式の後」

「呼び出しって奴?やっぱ蟻塚に歯向かうもんじゃねーな」

ヒソヒソと聞こえてくる話し声を無視して机に突っ伏す。

柊は大丈夫だろうか?今日は普通に休む可能性もありそうだが……まあ、その時はその時か。

そう思った矢先だった。

「あれ?窓ガラス割ったのに停学になんなかったんだ。運が良いんだね」

唐突にそんな言葉が聞こえ、ゆっくりと顔を上げたオレは目の前に座ってこちらを向いていた男子生徒と目が合う。

「何か用か?」

「いや?別に用って程の話はないよ。なになに、もしかして用がなかったら話しかけちゃダメな人だった?ごめんね?俺って結構空気読めないところあってさ」

「……そうか」

なんというか、この馴れ馴れしい感じは正直苦手なタイプだった。

愛嬌のある笑顔でニコニコと笑うその男子生徒は異性にかなりモテそうな容姿をしており、制服をだらしなく着崩しているその姿は見るからに不良って感じではある。

「せっかく席近いんだし、仲良くしない?1人でいたってつまんないでしょ?」

「急に距離を詰めてこられたら誰だって戸惑う」

「はは、それはそう」

カラカラと笑い、不良男はこちらを向いたまま頬杖をつく。

「んで?結城くんが消えた後に柊ちゃんも居なくなったけど2人でどっか行ってたの?」

「さぁな」

「えー、2人だけの秘密って奴?すげー気になんだけど!」

「ただその辺で座って話してただけだ。お前が想像してるようなものはない」

「ほーん」

何か含みがありそうな返事をする男から視線を逸らし、再び机の上に顔を伏せる。

コイツとは関わりたくない。なんとなくそんな感じがした。

「そういえば結城くんって何処の中学?この町?」

しかし、オレの意思に反比例するように目の前の男子はしつこく話しかけてくる。

「実は俺、隣街の中学でさ。あー、ちなみに柊ちゃんや蟻塚と同じね。で、蟻塚って結構幅利かせてる奴で正直ムカついてたんだけどさ。結城くんのおかげですげースカッとしたっていうか。あれ?聞いてる?おーい」

無視をし続けるオレに痺れを切らしたのか、男が机をガタガタ揺らし始めた。

ヤバい、キレそう。えっ、何コイツ。人を怒らせる天才か何かですか?

もういっそ殴り飛ばしてやろうかと思い始めたその時。

「おはよ」

背後から聞こえた優しい声に振り向くと、そこには鞄を持った柊が立っていた。

「あ、あぁ」

突然現れた柊に動揺しつつ挨拶らしからぬ挨拶で答えると、彼女はニコリと微笑む。

だが、そこへ。

「笑ってんじゃねーよ。気持ち悪い」

一体柊の何がそんなに気に入らないのか、不良男がボソリとそう呟き、オレは思わず睨み付けてしまう。

「おい」

「なに?もしかして結城くん怒ってんの?挨拶みたいなもんじゃん。そんなに怒んなって」

男はヘラヘラとした態度で言うが、当の柊は胸の前に置いていた手をぎゅっと握り、その顔に影を落としてしまう。

そしてそのまま何も言わずに自分の席へと座る彼女を見て、少しだけ胸が痛むのを感じたオレはガタリと音を立てながら立ち上がった。

「ちょっと来い」

教室内の視線が再び一気にこちらへ集まる中、オレは不良男を連れ出して校舎裏へと向かう。

途中、柊が心配そうな表情でこちらを見てきたが、今はそれに気付かないフリをした。


3


人気のない場所までやって来たところで足を止めると、後ろで同じように足を止めた不良男に向き直り、その顔を正面から睨みつける。

すると彼は困ったように笑いながら頭を搔き、口を開いた。

「結城くんってさ、ヤバくない?あんなのただのノリじゃん。マジになりすぎっしょ」

その言葉を聞いた途端、頭の中で何かが切れる音がした。

どいつもこいつも終わってやがる。

虐めをする奴らも、見て見ぬふりする奴らも。

「お前はそうでも柊からしたら違う」

「だから蟻塚から助けたってこと?何それ。もしかしてヒーロー気取り?高校生にもなって?絶対流行んないってそれ。結城くんってモテそうなわりに結構残念だよね。もしかしてオタクなの?」

「好きに言え。その代わり、もう柊には構うな」

オレの返答に何を思ったのか、男の口端がニヤリと吊り上がるのが見えた。

「へえー、結城くんってあぁいうのが好きなんだ?何考えてんのかよくわかんないような奴なのに。それとも」

そこで一度言葉を切り、男は意地の悪い笑みを浮かべるとオレの顔を覗き込みながら言い放つ。

「優しくすれば簡単にヤラせてくれそうだから庇ってんの?」

その瞬間、オレは男の胸倉を摑み上げていた。

こんな安い挑発で頭に血が上ってしまうほど幼稚だった自分に多少嫌気を覚えながらも、それでもなお抑えることのできない怒りに身を任せて男を睨み付ける。

「いい加減にしろよ?」

「おいおい、もしかして殴る気か?やめとけって。お前が停学になったらまた柊ちゃんが孤立するぞ?」

男の言葉に思わず手が止まる。

確かにコイツの言う通りかもしれない。ここで殴り合いになれば確実に問題になるし、そうなればまた柊は孤立してしまう可能性がある。

しかし、だからといってこのまま引き下がれるわけもなかった。

「まあまあ。わかったから落ち着けって。柊ちゃんも結城くんに暴力は求めてないはずだって。ね?」

「お前に柊の何がわかる」

「いや、知るわけなくない?てか、まるで自分にはわかってますみたいな言い方じゃん?柊ちゃんとは仲良くなったばかりのはずなのに」

「虐められてる奴の気持ちがわかるのは虐められた事のある奴だけだからな」

「は?虐め?……あぁ、なるほど。そういうことか」

男が何かを察したように笑みを浮かべた直後、慣れた手つきでオレの腕を強引に振り払い、今度は逆にオレの胸倉を掴み上げてきた。

「なーんか聞いた名前だと思ったんだ」

そのまま後ろの壁に押し付けられ、背中に鈍い痛みが走ると同時に男の顔が眼前に迫る。

「久しぶりじゃん?〝クソデブメガネ〟くん」

全身に鳥肌が立った。

それは決して恐怖心からくるものではなく、むしろ似て非なるもの。

つまり、嫌悪や憎悪といった負の感情によるものだった。

〝クソデブメガネ〟というのは、初めて転校した学校先でオレに付けられたあだ名のことだ。

当時、太っていたことが原因なのだろうけど、とにかく人より鈍臭かったオレはクラスの奴らからイジメの対象とされていた。

当然、そんな状況に耐えかねて不登校になってしまった時期もあったが、結局親の転勤で転校することにはなったのだが。

まさか、また同じ学校になるなんてな。

「お前、矢渕か」

「正解。ちょっと見ない間に随分と変わっちゃって。高校デビューって奴?」

矢渕達也やぶちたつや。それがこの男の名前だ。

オレのイジメの主犯格だった人物であり、転校して以来一度も会うことはなかったが、まさかこんなところで再会するとは思いもしなかった。

相変わらずヘラヘラとした笑みを浮かべているが、その瞳の奥には隠しきれない悪意が見え隠れしているのがわかる。

きっとコイツにとって今のオレは格好の獲物なんだろう。

その証拠に、矢渕はニヤニヤしながら顔を近づけてきたかと思えば、耳元で囁くようにこう告げた。

「残念でした〜。結城くんの楽しい楽しい高校生活はここで終わりで〜す。また遊んでやるから覚悟しろ?」

ぞわりとした感覚が全身を駆け巡った。

トラウマが蘇り、足が震えそうになるほどの寒気に襲われる。

だが、オレはもうあの頃とは違う。

怯え続けて、逃げてばかりいた頃のオレじゃない。

「お前は何も変わらないな」

「あ?」

腕を掴み多少なりの抵抗を見せると、矢渕は不愉快そうに顔を歪める。

「悪いけど、オレはもう2度とお前みたいな奴には屈しないって決めたんだ。遊びたいなら勝手に1人で遊んでろ」

「へえ〜、言うねえ。昔は目すら合わせずにビビってた臆病者が随分と余裕じゃん?」

「ビビるほどの相手じゃないって気付いたからな」

「おもしれ〜。そこまで言うんだったら今ここで確かめてみる?」

「勝手にしろ。オレは一切手を出さない」

「は?散々煽っておいてなにそれ?顔の傷を増やしたいって事で良いの?」

「……」

オレが何も言わずにいると、いきなり平手打ちが飛んできた。

パァンッ!と乾いた音が周囲に響き渡る中、口の中に鉄の味が広がっていく。

「ほら、冷めたこと言ってないで感情のままにやり返してきなよ。変わったんだろ?見せてみなって」

「……」

オレはただ矢渕を睨み付けて無言を貫く。

今殴り返せばこいつらと同じになる。

なんでも暴力で解決できると勘違いしているようなこいつらと同じに。

それだけは絶対に嫌だった。

「……チッ。アホくさ」

そんなオレの態度を見て興醒めしたのか、矢渕は小さく舌打ちをすると掴んでいた胸倉を突き放すように解放してきた。

そして、吐き捨てるように呟く。

「痩せ我慢出来るようになったからって何?結城くんだって大して変わってないじゃん。殴られっぱなしでイキっちゃってさ」

「お前と喧嘩する理由もないからな」

「は?あるでしょ。イジメの復讐っていう立派な理由が」

「だとしても暴力なんていうやり方は選ばねえよ。オレがちゃんと納得できるやり方でお前には復讐したいんだ」

「ふーん」

矢渕はつまらなそうにそう呟くと、オレの目を真っ直ぐ覗き込んでくる。

その瞳からは先程までの敵意が消えており、代わりに別の何かが見え隠れしているように感じる。

「ならさ、どーすりゃ本気になんの?」

「……は?」

突然何を言い出すのかと戸惑っていると、矢渕は更に続けた。

「今の結城くんに興味が出てきた。どーしたら俺と殴り合いしてくれる?」

「いや、あの」

そもそも痛いの嫌なんですが。

「オレは誰とも殴り合う気はない」

「え〜、つまんないこと言うね。男として生まれたからにはやっぱり力比べしたいでしょ?どっちの方が上か知りたくならない?」

「なら、腕相撲で勘弁してくれ」

「地味過ぎん?」

地味ってお前。結構定番だろ。

他に何があるんだよ?と、試行錯誤していたオレに矢渕はニヤッと不敵に笑うと頭の後ろに両手を組む。

「な〜んか面倒だし、いっそのこと柊ちゃんに手を出せば流石の結城くんでも怒らざるおえないじゃない?」

「ふざけんな」

「おっ、良いねえ。その目だよ。俺はその目のお前と戦いたいんだ」

睨みつけてもまったく動じない矢渕。

それどころか嬉々として笑みを浮かべる始末だ。

ダメだこいつ。ちょっと会わないうちにさらに頭が悪くなったらしい。

睨まれて喜ぶとか変態かよ。

「なんてね。冗談だよ冗談。手なんて出さないから安心して」

そう言って笑う矢渕の顔は本音がまったく見えないもので、どうにも信用ならなかった。

こいつの事だ。

絶対に何かを企んでいるに違いないが、とりあえず。

「オレのいじめの件はもう良い。でも、柊にはちゃんと謝ってくれ。さっきのことも含めて。話はそれからだ」

「良いよ。それならお安い御用だ」


4


「んじゃ、俺はトイレに寄ってくから。なんなら結城くんも一緒に行く?」

「行かねぇよ」

教室に戻る途中、馴れ馴れしく矢渕が誘ってきたが速攻で断る。

なんでオレがお前と一緒に連れションしなくちゃいけないんだか。

そんなオレの返答を聞いても特に気にする様子はなく、むしろ楽しそうに笑いながら手を挙げてトイレへと消えていく矢渕。

本当にわからない奴だ。

昔もそうだったが、今はもっとわからない。

「まあ、他人を理解できるなら戦争なんて起きないか」

そう呟いて気持ちを切り替えた後、自分の教室まで戻ってくると廊下で柊がきょろきょろしているのが見えた。

どうやら誰かを探しているらしい。

彼女の視線がこちらに向いた瞬間、慌てた様子で駆け寄ってきた。

「大丈夫?」

不安そうな顔をしつつ、上目遣いでじっとこちらを見つめてくる彼女に思わずドキッとする。

「大丈夫って何が?」

「また暴力を振るわれてるんじゃないかって心配だったから」

両手を胸の前でぎゅっと握りしめながら、柊はそう言った。

心配してくれるのはありがたいけど、なんか申し訳ないな。

「安心してくれ。何もなかった」

「ホントに?」

「ホントだ。なんなら神に誓ったっていい」

「……私は神様信じてない」

冗談めかして言ったつもりだったが、悲しそうな顔されてしまったので言葉に詰まる。

そりゃあ、あんな辛い目にあったってのに神様なんか信じるわけないよな。

かく言うオレもどちらかと言えば信じてない。

「でも……結城くんのことなら信じてる」

思いがけない一言にオレは目を見開く。

無意識に出てしまった言葉なのか、彼女はハッとした表情を浮かべると顔を真っ赤にして俯いてしまった。

なんだこの可愛い生き物……。

いや、見蕩れてる場合か。

「励ましてやるとは言ったけど簡単に他人を信用すんな。オレがもし下心ありきで助けてたらどうすんだ」

ちょっと意地悪なことを言ってみる。

オレが一体どんな人間に見えているのかは知らないが、オレは別に大した人間ではない。

良い奴だと思われたいから良い奴みたいなムーブをするし、格好良いと思われたいから格好良く見せる努力をしてる。

ただそれだけだ。

つまり偽物。

本物に憧れているだけの紛い物なのだ。

「それでも……嬉しい」

しかし、そんなオレの内心など露知らず、柊はチラチラとオレの目を見ながらそう言い切った。

正直、今までこんな風に真正面から好意をぶつけられることがなかったのでオレは思わず目を逸らす。

「変な奴」

誤魔化すようにそう言うと、彼女は小さく笑った。

「なぁ、そういえば蟻塚たち来てなくね?」

「それな。もしかして結城が何かしたとか?」

「顔に痣あったしな。めっちゃ有り得る。ボコボコにしたんじゃね?」

「このまま不登校になってくんねーかな。俺アイツに中学の頃無理やり宿題押し付けられたりしてさ。まじ死ね」

特に聞き耳を立てていたわけでもなかったが、偶然にもクラスの奴らの会話が聞こえてきた。

本人がいないところで言いたい放題である。

まぁ、気持ちは分からなくもないが。

「……」

柊にもその会話が聞こえていたのか、何とも言えないような複雑な表情をしている。

同情か、それとも嫌悪か。

あるいは両方かもしれない。

だが、どちらにしてもあまり気分の良いものではないだろう。

「ホームルームが始まるまでまだ時間あるし、適当にぶらつくかないか?」

オレが提案すると彼女は黙ってこくりと頷く。

と、そこへ。

「そこの新入生。少し良いか?」

突然顔に傷のある男子生徒が声をかけてきた。

身長はオレより10センチくらい高く、180センチ近くはあるかもしれない。

目つきはかなり悪く、威圧的な雰囲気を纏っている。

矢渕とはまた違ったタイプの不良だ。

制服も着崩しており、髪色もかなり明るめの茶色である。

「良いっすけど何か?」

とりあえず返事をするものの、正直関わりたくないというのが本音ではある。

何をされるか分からないし、何をされてもおかしくないといった怖さがこの男にはあったからだ。

「……っ」

柊も何かを悟ったようにオレの後ろに隠れる。

昨日のいじめの件とは無関係だとは思うが、いざとなればオレが盾になるしかないだろう。

そんな覚悟を決めていると男はおもむろに口を開いた。

「矢渕って奴はいるか?」

「え?矢渕?」

思いもよらない質問に面を食らう。

矢渕の奴に用事だったのか。

でも、なんだ?この嫌な感じ。

「矢渕なら」

と、オレはトイレの方を指差す。

「……さっきトイレから出てくるところを見て何処かに行っちゃいましたけど」

「そうか。なら良い。邪魔をしたな」

それだけ言うと男はすぐに踵を返し、2年の校舎がある方へと去っていった。

咄嗟に矢渕はトイレにいない、なんて嘘を言ったが大丈夫だろうか?

正直、あれは仲の良い後輩を探しに来たって雰囲気ではなかった。

どちらかというと悪意を持ってここに来たみたいな……。

「結城くん?」

後ろから声をかけられてはっと我に帰る。

振り返ると心配そうにこちらを見上げる柊の姿があった。

なんか心配させてばかりだな。

「悪い。ちょっと考え事してた」

「怖かったね、さっきの人」

「そうだな。出来ればもう関わりたくない」

面倒事は懲り懲りだからな。

「あれ?2人してなにやってんの?廊下でイチャイチャと」

そんなオレたちのことなどお構いなしといった感じで戻ってきた矢渕が声をかけてくる。

ニヤニヤしながらこちらに歩いてくる姿は実に腹立たしいことこの上ない。

それにしてもタイミングが良すぎる。もしかして見てたのか?

「イチャイチャなんかしてな……」

と、オレが否定するよりも先に矢渕が突然肩を組んで来たかと思えば、片手でごめんとポーズを作りつつ柊の方を見やる。

「柊ちゃん、さっきはごめんね。結城くんと仲良さげにしてたもんだからつい嫉妬しちゃってさ。でも、俺たちってこういう関係な訳よ。邪魔しないでもらえる?」

「……え?」

「ちょっと待て」

急に何言ってんだこいつは?

トイレで頭でも打ったのか?

「そ、そうだったの……?」

と、何故かちょっとだけショックそうな顔をする柊にオレはため息をつく。

「真に受けるな、こんな奴の話」

「ご、ごめんなさい」

「てか、矢渕。怖そうな先輩が探してたぞ。お前のこと」

「怖そうな先輩?」

はて?と首を傾げながらオレから離れる矢渕だったが、思い当たる節はあったらしい。

あちゃー、と言わんばかりに額に手を当てる仕草を見せる。

「中学生にセフレがいるんだけど、その子の兄貴にバレて激おこってパターンかな?」

「……お前な」

呆れ果てるオレをよそに矢渕は続ける。

「まぁ、どうにかなるっしょ。結城くんもどう?セフレ。高校デビューの記念に何人か紹介するけど?」

「オレは別にーーー」

「だめっ!」

と、なぜか急に大きな声を上げてぎゅっと抱きついてきた柊。

突然のことに驚きつつも彼女の方を見ると、精一杯の威嚇なのかキッとした目でこちらを睨んでいた。

慣れていないのか、若干涙目になっているところがまた可愛らしい。

もしかして「オレは別に構わないぞ」なんて言うとでも思ったんだろうか?

……そんなに遊んでる奴に見えるか、オレは。

ちょっと悲しい。

「オレは別にいらん。他の奴に紹介してやれ」

柊からの印象改善の為にもキッパリと断る。

「ふーん、そっか。まぁ、気が変わったらいつでも言ってよ」

そんな機会は来ねーよと思いながらオレは柊を連れて歩き出すのだった。


5


「はーい、授業始めるわよ」

あれから柊と図書室へ行き、適当に時間を潰したオレたちは教室へと戻ってきた。

正直、矢渕の件があるし柊が嫌がるようならまた一緒に授業をバックれるつもりでいた訳だが、どうやら柊はオレが思っている以上に強い心の持ち主だったようで。

居眠りしていたオレを叩き起して教室に引き摺ってくるくらいにはちゃんと優等生だった。

「今日は係を決めちゃいたいの。沢山あるから立候補してくれると助かるわ」

教壇に立つ若い女性の担任教師は黒板にチョークで役職名を書いていく。

学級委員長、図書委員、保健委員、飼育委員、美化委員、放送委員、風紀委員、選挙管理委員会etc...

なるほど、さすが私立校だけあって色々と仕事があるらしい。

ちなみにオレは人生で一度も役職を持ったことがない。

転校ばかりしていたし、そもそも学校自体あまり好きではなかったからだ。

「はい。じゃあ、立候補したい人いる?何でもいいわよ?」

「…………」

残念ながらクラスからの立候補はなし。

それはそうだ。

皆、面倒事は避けたいだろうしな。

「早く決まったら残りの時間は自由時間にしても良いのよ?誰かいない?」

なかなか魅力的な提案だったが、このクラスの連中はみんな大人しいのか誰も手を挙げようとはしなかった。

それどころか目配せをして「お前がやれよ」とやり合っている始末である。

「はぁ……」

小さくため息を吐くと、オレはすっと手を挙げた。

その行動にクラス中の生徒が驚きの表情を見せる。

「あら、結城くんやってくれるの?」

「まぁ、誰もやらないなら。学級委員長もらいます」

オレがそういうとクラスメイトたちは口々に感嘆の声を漏らす。

流石に窓ガラスの件で不安視する声もちらほら聞こえるが、そこは行動で黙らせるしかないだろう。

自ら立候補したのだ。

やるだけやって、ダメならその時考えれば良い。

丁度、自分がどこまでやれるのかってのも知りたかったしな。

そんな軽い気持ちで考えていると、突然前の席の柊も手を挙げ始めた。

「学級委員長……します」

そう告げた後、一瞬だけオレの方を見た柊は少し恥ずかしそうに俯く。

まさか柊が立候補するとは思わなかったが、多少は安心した。

まったく話したこともないクラスメイトと同じ役職に就くよりかは、ある程度知っている人物の方がやりやすいだろうからな。

さて、1番面倒事のありそうな学級委員長という座がなくなった。

残りの席もさっさと決まってくれれば良いんだが。

「それじゃあ、折角だし今から学級委員長の2人に進行してもらおうかしらね」

「……、え!?」


6


昼休みになった。

クラスメイトたちが次々と教室から出ていったり、机の上に昼食を広げる中、オレは1人ゆっくりと席から立つ。

さて、どうするかな。

この学校には食堂があるらしいし、様子見がてらそこで昼食にするのもいいかもしれない。

「あっ、柊さん。もし良かったら一緒にお昼食べない?」

教室から出ようとしたところで、丁度柊の周りにクラスメイトの女子たちが集まっているのが目に入った。

少し戸惑いながらも嬉しそうな顔をして教室を去っていく柊。

途中、振り返った柊と目が合い、軽く手を振ってみせると彼女もまた小さく手を振り返してくれた。

あの調子なら心配さなそうだ。

元々話すのが苦手というわけでもないだろうし、簡単に友人の一人や二人作ってくるだろう。

「ふぁ……。あれ、もうお昼?」

上半身を伸ばしながらまだまだ眠たそうに欠伸をする矢渕。

どうやらかなり熟睡していたらしい。

午前中ずっと寝てたしな。

「あっ、丁度良いところに結城くん発見」

気配を消していたつもりだったが、振り返った矢渕に見つかってしまい、オレは深いため息をつく。

柊たちも学食に向かったみたいだし、追い掛ける形になるのは流石に気まずいと思ってちょっと待っていたがどうやら愚策だったようだ。

「これから一緒にお昼でもどう?」

「は?……お前さ、オレにしてきたこと忘れてないだろうな?」

「忘れてないよぉ。靴に画鋲入れたり、筆箱を隠したりしたことでしょ?」

「そんな奴と一緒に飯なんか食えるわけないだろ」

「え〜、そんな昔の話まだ引きずってんの?器ちっさ」

「うるせえ。そんなに行きたきゃ自分の連れと行ってくればいいだろ?」

オレの言葉に何故か一瞬黙り込む矢渕。

だが、すぐまた笑顔に戻る。

「とっくに居ないよ、そんな奴ら」

「居ないって……昔は沢山いただろ。この学校にはいないって話か?」

「んーにゃ。前に万引きで捕まりそうになった時に罪を全部押し付けたら誰も近寄ってこなくなってさ。酷い奴らだよ、ホント」

少し落ち込む素振りを見せる矢渕だったが、完全に自業自得だった。

なんでオレはこんなしょうもない奴に虐められてんだろうな。

ちょっと自分が情けなくなってきた。

「ぼっち同士仲良くしようぜ?」

そう言って馴れ馴れしく肩を組んでくる矢渕の手を払い除け、鬱陶しそうに睨みつけると、突然数人の生徒たちがオレ達の間に割って入ってきた。

「そんなに仲良くしたいなら俺たちが仲良くしてやるぞ?」

そう声を発したのは、朝のホームルーム前にオレに声を掛けてきた顔に傷のある男だった。

その彼を筆頭に、見るからにガラの悪い男たちがぞろぞろと集まってくる。

その数ざっと10人ほどだろうか。

全員似たような雰囲気を纏っており、明らかにまともな連中ではないことが一目でわかった。

「あー、なるほど」

矢渕は彼らに覚えがあるのか、何かを察したらしくニヤリと笑う。

「ごめんね、結城くん。先約があったらしい」

「いや、謝られても」

オレの返事に矢渕は苦笑いを浮かべながら連中と一緒に何処かへと行ってしまった。

あの様子だと無事に帰ってこないだろうな、と思いつつも特に追うことはせず、オレもその場を後にすることにした。


7


そこは部室棟と呼ばれる校舎の空き教室だった。

木造の、少し年季が入った建物で歩く度にぎしぎしと軋んだ音を立てる。

壁も天井も薄汚れており、染みや傷があちこちに散見された。

積み上げられた机や椅子は埃をかぶっていて長年放置されていたことが窺える。

そんな場所に矢渕達也はいた。

正確には数人の先輩からリンチを受け、今は両脇から2人の先輩に拘束されて無理やり立たされているような状態だが。

「楽しそうにしてたところを悪かったな」

言葉とは裏腹にまったく悪気など感じてなさそうな声色で顔に傷のある男は言う。

「右京先輩……でしたっけ?悪いって思ってんならもう解放してくんないっすか?俺、暇じゃないんで」

「……」

大人数からのリンチを受けても尚、ヘラヘラと軽薄に笑う矢渕に対して、右京と呼ばれた男はただただ無感情を貫いていた。

まるで機械だな、と矢渕は思う。

「歯を食いしばれ」

「は?」

瞬間──鈍い音が教室中に響いた。

並の拳ではない、鍛え上げられた男の一撃だ。

その衝撃は矢渕の顔を突き抜け、脳を揺らす。

「余計なことを喋るな。殺すぞ」

「……っ」

殴られた頬が熱を帯びると同時に口の中に血の味が広がる。

今まで何十人という相手と喧嘩をしてきた矢渕だったが、今回ばかりは分が悪い相手だと悟った。

(……こいつ、マジだな)

この世には2種類の人間がいる。

冗談が通じる人間と通じない人間だ。

この男は間違いなく後者。

しかも、1歩間違えば簡単に一線を超えてくるようなタイプである。

「単刀直入に聞こう。アイツに手を出したのはお前だな?」

「だったらなんすか?」

勝てるビジョンなど一切ない、圧倒的に不利な状況であるにも関わらず、それでも矢渕は不敵に笑ってみせる。

知っているのだ。

虚勢だろうがなんだろうが、張り続けられない奴はただただ食われていくだけということを。

たとえ相手がどんな奴であろうと、どんなに劣勢だろうと、負けを認めることだけは絶対にあってはならない。

それが矢渕なりのプライドであり、生き方であった。

故に許せなかったのだ。

張ることも挑むこともせず、ただただ理由をつけては逃げてばかりだった臆病者が誰にも食われずにのうのうと生きていたことが。

故に潰した。食らってやったのだ。

結城湊斗という存在を。

なのに。

それなのに、アイツはまた立ち上がっていた。

しかも、ただ立ち上がっただけじゃなく自分よりも遥かに成長して。

かつて見下していたはずの男にいつの間にか追い越され、今度は自分が見下されているのだ。

なんて。

なんて心躍る展開だろうか。自然と笑いが込み上げてくるほど愉快な話極まりない。

「押さえてろ」

右京が低い声で指示を出すと、両脇にいた仲間が矢渕の腕をがっちりと固めた。

抵抗しようにもびくともしない。

流石にまずいかと思った矢先、右京の容赦ない蹴りが矢渕を襲った。

鳩尾にめり込んだつま先が肺の中の空気を全て吐き出させ、痛みで呼吸すらままならない。

「ぐふっ……!げほっ……!」

たまらず膝から崩れ落ちそうになる矢渕だが、なんとか堪えて踏みとどまる。

しかし、右京の攻撃はまだ終わらない。

何度も何度も、それこそ気が済むまで矢渕を蹴り続ける。

「……死ぬんじゃねーのあれ」

仲間たちが狼狽える中、やがて矢渕の口から血が流れ始めた頃になってようやく満足したのか、彼は蹴るのをやめた。

「これは警告だ。次はない」

「ははは」

血だらけの顔で矢渕は乾いた笑いを漏らす。

すでに満身創痍だというのにその瞳からはまだ光は失われていない。

そんな矢渕に不気味さを感じ始めたのか、周りの不良たちの間で動揺が広がる中、突然矢渕が右京に向かって唾を吐いたのだ。

「……や、やりやがった」

唾が彼の頬に命中し、焦り出す仲間たちだったが、当の右京はまったく動じていない。

むしろ、怒りを覚えた様子さえなかった。

ただ淡々と、無表情のまま言葉を続ける。

「これがお前の答えか?」

「望まれてないんすよ。誰かの言いなりになる矢渕達也なんて。それに」

と、矢渕はそこで言葉を区切ると笑顔から一変して真剣な表情で言い放った。

「他人の人生狂わせた奴が自分の人生守ろうとしてどうするよ」

その言葉を聞いた瞬間、右京の表情が僅かに歪んだ気がした。

「おい」

仲間に何かを要求する右京。

それを受けて不良の1人が短い返事と共に差し出したのは鉄製のバットだった。

「手加減はいらないな?」

「……」

矢渕は何も答えない。

ただ、生唾を呑み込んで覚悟を決めたように目を瞑っただけだった。

右京が握り締めたバットを振りかぶり、そのまま思い切り振り下ろそうとしたその時。

「ちょっと待った」

1人のとある男子生徒が2人の間に割って入った。


8


「ちょっと待った」

オレは矢渕と顔に傷のある男の間に立ち、静止を促す。

「結城、くん?」

矢渕の呼び掛けに答えることなく、ただ真っ直ぐに傷の男を見やる。

人を殺めそうになってたってのに表情一つ変えないとか殺し屋かよ。

メンタルバグってんだろ。

「どけ」

そう短く言葉を放つ男に対してオレは首を横に振る。

「許してやってもらえませんか?こいつの事を」

相手の目をしっかりと捉えて言うが、男は眉一つ動かすことなくジッとオレを睨む。

「なぜ庇う?コイツはお前をーーー」

「嫌いだからです」

男が言い終えるよりも先に言葉を遮り、そのまま続ける。

「死ねばいいのにって思ったこともあります。でも、オレが変わりたいって思った一番のきっかけはコイツなんで」

「……」

オレの返答を聞いてもなお、表情に変化はない。

ただ黙ってこちらを見ているだけだ。

正直言ってめちゃくちゃ怖い。

だが、オレもここで引くわけにはいかなかった。

「見返してやりたいんです、こいつの事を。だから、それまで見逃してもらえませんか?オレが納得出来るまで」

そう言って静かに頭を下げる。

誰かに頭を下げるのなんて生まれて初めての事だった。

それも人生で唯一嫌いとも言える、こんな奴の為なんかに。

きっとオレくらいなものだろう。こんなバカな事をする奴は。

理解できないと言われても仕方ないのかもしれない。

でも、ここで引いたらきっとこの先後悔する。

それだけは何となく解っていた。

だから、せめて他の誰かにボコられてざまぁみろと笑うのではなく、自分なりの納得のできるような形で。

納得のできる方法で見返しておきたいのだ。

「言いたいことはそれだけか?」

しかし、オレの説得も虚しく傷のある男から返ってきた言葉は冷たいものだった。

まあ、当然と言えば当然か。

向こうからしたらいきなり現れて何言ってんだって話だろうし。

……覚悟決めるか。

「もしも、オレが矢渕の代わりに殴られたらこいつのことはチャラになりませんか?」

「……は?」

オレの言葉に間の抜けたような声を出す矢渕。

「急に、何言ってんのさ。頭おかしいんじゃない?」

流石の矢渕もかなり動揺しているらしい。

今まで見たことのない顔をしていた。

確かに今オレがやろうとしていることはとてもじゃないが正気とは思えないことだ。

下手すれば死ぬ。

いや、下手しなくても後遺症が残るレベルの怪我を負うかもしれない。

だが、それでも。

「良いんだな?」

変わらず無表情のまま男はオレに問いかける。

「……」

オレはただ黙って頷くことで肯定の意を示す。

もう後戻りはできない。するつもりもない。

やると決めたのなら最後まで貫き通すべきだ。

それが例えどんな結果になろうとも。

鉄のバットを振り上げて男は再び構えを取る。

その目は本気だ。

頼むから耐えてくれ、オレの身体。

そんな願いを込めてギュッと目を閉じる。


次の瞬間、何かがひび割れたような鈍い音がオレの耳に響いた。


「……?」

衝撃に備えて身構えていたが、一向に痛みが訪れる気配はない。

痛みを感じる間もなく死んだのか?と、恐る恐る目を開けるとそこには傷の男によって叩き割られた床があり、矢渕と不良たちは口を開けたまま呆然と立ち尽くしていた。

「馬鹿で助かったな」

誰に言うでもなくそう呟く傷の男。

「お前たち、行くぞ」

そう言って何事もなかったかのように傷の男が出ていくと、その後を追って不良たちも次々と空き教室から去っていく。

どうやら本当に見逃てくれるらしい。

ホッと胸を撫で下ろすと同時に全身から力が抜けていくのを感じた。

「結城くん、えっと……」

おずおずと声をかけてくる矢渕に振り返ることなく、背を向けたままオレも教室から出ていく。

感謝の言葉などは別にいらなかった。

オレが今こいつから欲しいのは「まいった」の一言だけだ。

まぁでも、あえて何か言うことがあるとすれば。

「人を散々嫌な目に遭わせておいて簡単に死ねると思うなよ?」


9


あの一件を経てもなお、矢渕は相変わらずだった。

というより、むしろ前よりひどくなっている気さえする。

毎日のように昼休みには誘ってくるし、放課後も何かしら理由をつけては一緒に帰ろうとする始末だ。

オレとしては流石に迷惑極まりない。

別にあいつと仲良くする気などないし、なんなら今もなお敵同士なのだから。

結局、納得のいく仕返しも思いつかないままだし。

……なんだかなぁ。

中学からの日課である早朝のジョギングを終えて、軽くシャワーと朝御飯を済ませてからいつものように萩元が来るのを待つ。

思えばジョギングも随分長く続いていた。

昔は何をするにも長続きなどせず、すぐに飽きてやめてしまうことが多かったわけだが。

これも全て、あの辛い時期があったからこそだった。

きっとこれから先も、この習慣がなくなることはないだろう。

そんなことを考えているうちに、インターホンの鳴る音がした。

萩元が来たのだろう。

オレは鏡で再度身嗜みを確認してからカバンを持って玄関へ。

と、思ったのだが。

「……ん?」

カバンの中に見知らぬ封筒のようなものが入ってた。

不審に思って取り出してみるが……差出人の名前がない。

どうしたものかと思いながら封筒を開けると、中からは一枚の手紙が出てきた。

そこにはこう書かれていたのだ。

『まいりました』と。

「……いや、口で言えよ」

こんなものはノーカンだと言わんばかりに汚い字で書かれたそれを破り、ごみ箱へ捨てる。

これで良い。

矢渕もこの程度で許されるとは思っていないはずだ。むしろ、煽りとしてこの手紙を書いていたとしてもおかしくはない。

あいつはそういう人間だ。

そういう人間だが……まぁ、そうだな。

最悪、何も思いつかなかったらあの方法で決着をつけるのもいいのかもしれない。

アイツが好きらしい喧嘩という名の殴り合いで。

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