ある猫による手記

ひとつめの足跡

 その手記を見付けたのは必然であり、偶然だった。


 爺のやつ、寝るなら布団で寝ろとあれだけ言ったのにリビングで寝やがって。また夜中に本を読んでやがったな?


 夜の営業を終えて爺の様子を見ようと顔を出せば、机で本を開いて寝ている爺がいたのでひとしきり独り言として小言を連ねる。辟易とされるだけならまだしも、小言で疲弊されるようになってからは控えているんだ。仕方ない爺だ、布団に運んでやろうかと身体に触れると、熱い。


 だから不養生は大概にしろって言った!


 焦りながらも脳は対処を弾き出し続ける。喰った人間は肉体労働者が多かったが喫茶店の親父のように頭脳に秀でた者もいた。その影響だろうと爺は言っていたが……そんなことは今はどうでもいいんだよ!


「救急です。はい、住所は……」


 搬送の手配。そして熱の対処として頭に濡らしたタオルを載せる。脳がやられたら人間はすぐダメになるらしいから。脈拍は早いが正常、呼吸も浅いがおかしな音はしていない。意識がないし、この様子ではいったん入院となるだろう。長引くかはわからないけど、袋に身分証などや着替えと、適当な本を突っ込んで爺の傍らに置いておく。爺が開いていた本は……どうやら爺が書いているようだが、中身が気になるし持っていくことにする。可愛いイタズラというやつだ。


 やがてサイレンが遠くに聴こえてくる。ドアの鍵は開けておいたし、分かりにくい家でもない。さっきから鳴っている救急隊からの電話は無視しても良いかな。


 まだ飲ませたいコーヒーがあるんだよ。アンタでも違いのわかるかもしれないやつが、たくさん。


 毎日違う豆でコーヒーを淹れているのに一切気付かない味音痴にため息をつきつつ、窓を開け放つ。猫の姿に戻ればもう、誰もこちらを気に掛ける者はいないだろう。


「またね」


 18階の窓から身を翻し、天のオリオンを横目に中空で猫の姿を取る。そもそも90歳を過ぎた独居老人がタワマンなんかに住むなと言いたいところだが、高いところが好きだという煙や何かの類縁らしいから仕方のない爺だ。

 人の身では、いや、普通の猫ですら無事では済まない高さから綺麗に着地し、夜の街を歩く。この30年で様変わりしたが、爺とずっと暮らした地元だ。懇意にしてくれていた乾物屋の家先に死にかけの蝉を。気に掛けてくれていたケアワーカーの家のポストに蝉の抜けがらを。と、爺と縁のある人たちに爺の苗字に名が入っている蝉を届けていく。藤村とかだったら藤の花を届けていたんだけれど仕方がない。これは爺を恨んでくれ。虫の知らせということで許して欲しいな。

 季節外れの贈り物を届け終えてひと心地つくと、コーヒーが飲みたくなってきた。今日はもう閉めたけれど、改めて店に向かって歩き出す。家と家の隙間を渡り、ビルとビルの谷間を跨ぎ、やがて家の屋根やビルの壁に足をつけ、天と地の別すら無くなった頃、現実と幻想のだいぶ幻想よりの場所に辿り着く。誰もが存在を知っていて、誰もが実在を捉えられない仮想の路地裏。


 テーブルは室外機やポリ容器。椅子は酒箱やダンボール。電源や火元、水道は表があるかも中身があるかも分からないビルの裏手から拝借して。お湯を作り、豆を挽く。


もう夜中だ。巡る星が現実と同じかは定かでないけれど、爺の手記をめくりながら飲むにはあの豆がいいだろう。


さて、と勝手に使っている物置から瓶詰めの豆を取り出す。未熟な技術で焙煎した30年も前の豆が劣化もせず使えるのは幻想の賜物でしかない。どうして使えるかなんて知るよしもないけれど、使えるものは使う。


 やがて路地裏に青臭く古臭い香りが立ち込める。

 静かな夜に紙をめくる音と、艶やかな黒が染みていく。

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