第七篇

 あの珈琲を飲んでから10年近く経った今だが、癌は進むでもなく治るでもなく医者を困らせている。抗癌剤や放射線治療の副作用がめんどくせえし、そろそろ終末医療に切り替えてもいいんじゃないかと思って医者に提案してるんだが首を縦に振りゃしねえ。

 俺のことはさておきアイツのことだ。結局あの後、アイツは家に帰ってこなかった。やりたいことを見付けたとか言っていたが、どこで何をするつもりなんだか。ま、どこにいるかはともかく何をしてるかはなんとなくわかる。今朝だって……ほら、きた。

 居間からコーヒーの香りが漂ってくる。アイツは俺が起きる頃に勝手にコーヒーを置いていくのを10年も続けている。どうせなら寝室まで持ってきてくれたら良いだろうと思うんだが、そんなことを言ってしまえばアイツのことだ『そこまでしてやったらアンタ、一生ベッドから出ないだろ』とかなんとか呆れ顔で10年分の小言を返してくるだろう。さすがにこの歳でそれは御免だ。

 やっとの思いで重い身体をベッドから引き剥がす。アイツに言わせりゃ筋トレが足りんらしいが今更やってられるか。老いに無理して抗ったところで無様なだけだろう。

 リビングに着くとテーブルにいつものカップ。コーヒーの黒が映えるようにと白地に、黒猫とその足跡が描かれたシンプルなもの。俺からしたら地味の極みみたいな図案だが、人に見せた時はコーヒーが主役だからこれで良いのだと力説されてしまった。そうじゃないデザインが主流の有名メーカーも多かったはずなんだがな……?

 朝メシにパンを焼きながら、フライパンに卵を落とす。できたらこのあたりまで準備しておいて欲しいものだ。モーニングセットとかあるだろう? ああ、しまった。ヨーグルトを切らしていたのを忘れていたな、買ってこなくては。


『買い置きしすぎだ爺。足りないかもと思うくらいがちょうど良いんだ。ほらみろ、賞味期限が切れてるから、捨てておくぞ』


 そんな小言が思い出される。そうだな、腐らせちまったら意味がないよな。などと独りごちている間に準備が整う。昔はあいつに教えながら作ってたこともあったっけな。


「いただきます」


 そうだ、今日は買い物ついでにチーズとワインを買ってこよう。テーブルに置いてコーヒー代とでも書いておけば遠慮なく持っていくだろう。そのあたりは礼としてしっかりと受け取るように躾けたつもりだ。


「なんだ。親のつもりでいたのか、俺は」


 自嘲が零れる。ついぞ結婚もせず女も囲わずこの歳になったが、後悔はしていない。アイツを育てることは楽しかったが、引き取る前から言葉が通じていたようなヤツだしな。伴侶を得てゼロから子を育むなんて大それたことが俺に務まったとは思えん。だがそれでも、アイツのことは友人や隣人というよりも、家族のような距離感で過ごしていたと思う。もし俺が死んだら、アイツは悲しむだろうか? ……やめだ。縁起でもない。

 パンと目玉焼きとコーヒーなんて、すぐに食べ終わる。最後に温くなり始めたコーヒーを流し込み手を合わせる。


「ごちそうさま。今日も美味かったよ」


 平成の世の天気の良い朝に、空を流れる雲と尻尾が程よく丸まっ

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