第五篇
ふわ……と、なにかが横を通り過ぎた気がした後、近くに熊のようなサイズの黒猫が居た。最初からそこに居たように音もなく存在している。しかし黒猫と言い切るには少々語弊があるな。焼かれた痕が残って体毛が焼け焦げて禿げているし、その禿げた部分も青アザのように紫色になっている箇所が多い。凶器も使われたのか裂けたり切れた傷跡からは今も赤い血が流れ、黒い体毛に川のような筋を作って痛々しい。だが、紫色をした宝石のような瞳だけは爛々と力強く俺たちを見つめている。
「ヒィッ!? なんだ、おい、なんだコイツは! なんだこれは!?」
男が半狂乱でわめくが、言うまでもない。コイツだ。コイツこそがこの廃ビルの現在の主。バケモノがわざわざ姿を見せやがった。殺すだけならそんな必要はないし、ネコ科はそもそもハンターだ。ファイターではないから姿を隠しての狩りこそが本領のはずだ。なのに姿を見せたということは……遊ぶつもりだ。ネズミをそうするように。
俺の考えが合っていたのか、それとも俺が考えたからそうしたのか。バケモノは男を縛るロープを焼く。当然火傷ができているだろうが、男はそんなことは一顧だにせず、ほうほうの体でバケモノから逃げ出す。……無駄なのにな。
しばらくは男が逃げ、バケモノが回り込んで軽くいたぶる……そんな狩りの真似事が繰り広げられていた。男の悲鳴ってのは何度聴いてもうるせぇだけだな。やがて男が逃げ疲れ、動きが鈍くなってきた頃、バケモノが姿を変える……初老の男性だ。写真で見たことがある、前オーナーの姿だ。上手く化けられないのか猫耳と尻尾が残ってるのはなんというか場違いに滑稽だが、姿が変わったところでバケモノの本質は変わらない。しかし、この男には……。
「親父!? クソ親父! アンタさえ、アンタさえちゃんとしていれば!」
いたぶられて朦朧とした意識では、もはや死人を死人と認識できないのだろう。完全に自らが殺した父だと誤認している。ほら、こんな簡単に現実は幻想と交わってしまうのだから、科学なんてアテにならない。人間の姿を取ったバケモノは転がる男をそれまでと変わらない膂力でいたぶる。なるべく殺さないように、という気遣いをしているようにすら感じる、丁寧ないたぶり方だ。やがて男が静かになった頃……。
「お前が罪悪感を抱いているようなら、生かして還しても良かったんだ。それがこの爺との約束だったから。だけど……」
優しい声に聞こえた。バケモノが発したとは思えないほど優しい声音。元オーナーの声なのだろう。元オーナーの葬儀についてはおかしな話があったのだ。曰く、黒い影がずっと遺体に寄り添っていたという噂。そして、火葬したはずなのに骨がひとつも残っていなかった。という裏付けの取れた事実。推測に過ぎないが、このバケモノが遺体を喰ったのだろう。それがバケモノにとってどんな意味があるのかは分からないが……。
「お前はお前にとって正しいことをしたらしい。なら、死ね」
腕や足が潰されていく音は聴いていて決して気持ちの良い音ではない。だが俺は断末魔の悲鳴が止むまで耳を塞がない。原型が無くなるまで目を逸らさない。この物語の終わりを見届けるのに、そんな余分な動きをしてはいけないのだ。
「コイツを連れて来てくれたようだね、礼を言うよ」
バケモノが返り血で真っ赤になった姿のまま、軽く頭を下げる。今日何度目の驚きだろうか、このバケモノはこんな人間臭い動きすら学んでいる。意味のある人語を操るだけでも、単なる化け猫と一線を画すというのに、思った以上に大物だったようだ。良く生きてたな、俺。
「礼を言われる筋合いはねえよ。俺の自己満足だ。ところでお前、喫茶店を知らねえか? 俺はこの廃ビルにあるって噂の喫茶店を探しているんだ」
そう伝えるとバケモノは鼻をヒクつかせ言う。
「知っている、連れて行ってもいい。だけどお前からはあの爺の匂いがする。どうしてだ? なにか持っているのか。それを寄越すなら案内してもいい」
はて? いや、まさかと生臭坊主から預かった小袋から珈琲豆を取り出す。これか? これで良けりゃあ。と差し出すや否や、バケモノは猫の姿に戻って手から豆を奪い去り、咥えたままで歩き出す。そして振り返り言う。
ァーォ。
……いや、なに言ってんのかわかんねーよ。
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