第68話 ここでは先生とは呼ばないで

「さあ、始めるわよ。教科書開いて」

「はい」

 ユリアの家に入った拓雄は早速居間に案内され、指定されたテキストを開き、補習授業が始まる。

 学校ではなく、彼女の家でのプライベートレッスンなので、学園にバレれば問題になりそうな事案であったが、ユリアはもう気にもしていないのか、いつもの授業と同じ様な淡々とした態度で講義を始めた。

「この構文は……」

「は、はい」

 ユリアが身を乗り出して、向かい側に座っている拓雄に英文法の応用問題を解説する。

 彼女の服装は、秋物のベージュのブラウス、カーディガンとジーンズで、特に派手さも露出もない普通の部屋着であったが、ユリアの私服姿を見ただけで、拓雄もドキドキと胸が高鳴ってしまい、勉強に集中出来ずにいた。

「聞いてる?」

「はいっ!」

「本当かしら? じゃあ、この問題解いてみなさい。五問あるから、三問以上解けなかったら、先生の話、聞いてなかったと看做すわよ」

「うう……」

 上の空で、彼女の話を聞いていたことを見抜かれていたのか、ユリアに鋭い目線でそう言われると、拓雄も気まずそうに頷く。


 ユリアが指定した、問題集の文法問題を解いていき、それを提出すると、ユリアは淡々とした表情で採点を始め、

「一問だけ正解……そんなに先生の話、わかりにくかったかしら?」

「そ、そんな事ないです!」

「じゃあ、どうして、こんなに出来ないの? 今、私が解説した問題ばかりなんだけど」

「それは……」

 呆れた顔をしながら、ユリアが溜息を付いてそう迫ると、拓雄も言葉を詰まらせる。


 既に彼女との二人きりの補習は何度も経験済みであったが、それでもユリアの自宅で二人きりだとどうしても意識してしまい、拓雄も勉強に集中など出来なかったのであった。

「わからない事があるなら、ちゃんと聞きなさい。それとも私との授業はそんなに嫌?」

「嫌じゃないです! 凄く嬉しいです!」

「その割には嫌そうな顔してるけど。ま、あまり楽しすぎてもどうかと思ってるし。でも、ちゃんとわからない所は聞きなさい。でないと、ずっとわからないままで苦労するんだから」

「すみません……」

 ユリアが半ば諦めた様に拓雄に苦言を呈すると、拓雄も力なく俯く。

 まさか、ユリアに見とれていたから、授業に集中出来なかったとも言えず、自分がちゃんと聞いてなかったのは事実なので、言い訳しようがなかった。

「ちょっと休憩にしようか。紅茶でも飲む?」

「あ、はい」

 これ以上、無理に続けても、身にならないと察したユリアは台所に行き、紅茶を淹れに行く。

 何となく気まずい空気のまま、拓雄は居間で一人、肩を落としていたのであった。


「どうぞ」

「あ、いただきます」

 ユリアが淹れてくれた紅茶を拓雄は飲み、一服する。

 彼女が淹れたのはレモンティーで、ほんのり甘い香りが漂い、リフレッシュにはちょうど良い味わいであった。

「今日は無理に付き合わせて悪かったわね」

「え? 全然、そんなこと無いです」

「嫌そうな顔してるじゃない。無理しないで、嫌なら本当に帰っても構わないわよ」

「そんなことは……」

 ユリアと二人きりの補習が嫌な訳では全くないので、首を横に振って否定したが、正直に言うのも恥ずかしくただ俯いて、言葉を濁すばかりであった。

「ふう……いけないわね、こんな事じゃ」

「え?」

「何でもないわ。それより、午後は暇?」

「特に予定は……午後も補習なんですよね?」

「拓雄君がして欲しいなら、そうするけど。無理に付き合わせたお詫びに、よかったら、何処かでお茶でも奢るわよ」

「えっと……」

 少し頬を赤らめながら、ユリアがそう誘うと、拓雄もドキっとしてしまい、言葉を詰まらせる。

 これはデートの誘いに等しかったが、彼女に気を遣わせてしまったかと、拓雄も困惑してしまい、返事を躊躇ってしまった。

「ごめんなさい、今のは忘れて」

「いえ、行きましょう。お、お願いします……」

「そ、そう」

 生徒相手に、何を血迷ったのかと後悔していたが、拓雄も即座に誘いを受け、ユリアも驚いた顔をして、笑顔を浮かべる。

 きついことを言ってしまったので、拓雄の心象を悪くしてしまったのかと不安になったが、ユリアも安堵の息を漏らし、補習を続けていったのであった。


「待たせたわね」

 お昼を食べた後、ユリアと拓雄は近くの公園で待ち合わせすることにし、一足先に待っていた拓雄の元にユリアが駆け出す。

「ちょっと支度に手間取って」

「いえ、時間通りですし……あの」

「何?」

ユリアは帽子とサングラスを被っていたので、顔が見えないのが残念だった拓雄は、ちょっと残念な気分になっていたが、

「サングラス、似合ってますね」

「そう? 顔がバレるとまずいから、してるのだけど。一緒にいるのバレたらまずいでしょう」

「ですよね、はは……」

「じゃあ、行くわよ」

彼女の立場はよく理解していたので、顔を隠すのは仕方ないと思い、ユリアと共に近くの喫茶店へと向かう。

しかし、拓雄は彼女の綺麗な素顔が見れないのが、残念で堪らなかったが、気を取り直して、


「ご注文をお伺いします」

「カフェオレとチーズケーキお願い」

「えっと……同じのお願いします」

 喫茶店に行くと、ユリアはサングラスをかけたまま、淡々とした口調で注文を告げ、拓雄も彼女の後に続くように同じ品を注文する。

「別に同じのじゃなくても良いのに」

「すみません、ちょっと思いつかなくて……」

「まあ、良いわ。遠慮しないで、食べたい物があったら、追加で注文してくれて良いわよ」

「はあ……」

 初めて来る喫茶店なの上に、ユリアと二人きりのデートだったので、拓雄も緊張してしまい、まともに会話できないまま時間が過ぎていった。


「えっと、先生」

「悪いけど、先生は止めて」

「で、でも……」

 カフェオレを飲みながら気まずい空気を打開しようと、拓雄がユリアに話しかけると、ユリアは彼を睨みながらそう釘を刺す。

「私のことは、先生じゃなくて、お姉ちゃんとでも呼びなさい」

「お、お姉ちゃん?」

「それ以外、ないでしょ……名前で呼ばれても、先生って呼ばれてるのを見られても、言い訳に困るし」

 咄嗟にユリアが言うものの、ちょっと恥ずかしかったのか、ユリアも頬を赤らめながら、カフェオレをすすって視線を逸らす。

しかし、拓雄も困った顔をし、

「じゃあ、お姉ちゃん……」

「っ! 何?」

「えっと、今日は……」

「ぷっ! お姉ちゃんですってっ!」

 拓雄が恐る恐るユリアの言う通り、彼女のことを『お姉ちゃん』と呼んだ所で、突然、女性の笑い声が耳に入る。


「ふーーん、そういう風に呼ばれたかったんだ」

「す、すみれ先生に彩子先生?」

「そうよー。こんにちは、拓雄君。ユリア先生も偶然ですねー、こんな所で会うなんて」

 振り向くと、いつの間にか彩子とすみれが隣の席に座っており、彩子が拓雄の隣に、すみれがユリアの隣に座る。

「何しに来たんですか?」

「んー? 偶然二人をみかけたから、声かけただけよ。ユリア先生も悪い先生ね。休みの日に生徒と密会なんて」

「そうよ、何が補習よ。やっぱり拓雄君とデートしてたんじゃない」

「二人に言われる筋合いはないですね。全く何が偶然なんだか」

 呆れた顔をしながらも、ユリアにとっては想定内のことだったのか、淡々としながら、茶化してきた二人をあしらう。

 だが、拓雄は動揺を隠せず、結局午後も三人と過ごす羽目になってしまった

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