第18話 大切な人との別れ
中野愛花は、秋葉原の所属事務所にある、宿直室のベッドで目覚めた。
「あれ?ここ最近の記憶が…何だかぼんやりしていて…うーん」
河合悠里という天才プロデューサーが社長を務めるバッカスエンターテイメント。先日、そこのオーディションに見事、合格したのだ。
それは空手という、ほかの女の子にはない特技を買われてのこと。憧れのアクション女優として確かな一歩を踏み出した。
「それで…ええと…殺陣を練習して…」
練習した殺陣の内容はしっかり思い出せた。通して30分にもなる長い演技だが、ここ数日何度も、何度も繰り返していたから反射的にできるようになっている。
「あれ?でも、これの練習には、敵役をやる相方がいた気がするんだけどなぁ…私、誰と殺陣をやっていたんだろう?」
悠里から、相手役はまだオーディション中だと聞いていて、不在なのはわかっている。それなのに何故かキチンと練習をしていた?
必死に思い出そうとしても、愛花の記憶は、そこだけぽっかりと穴が空いたかのように、思い出せなくなっている。
「たしか、社長が………えーと、社長のおうちまでお邪魔したときに…そう…スタジオで誰かを紹介してもらったはず…」
ガチャリ、と宿直室の扉が空く音がする。愛花が扉の方を確認すると部屋に入ってきたのは、まさにその社長である河合悠里だった。
「愛花、殺陣の練習の進捗はどうだ?長い殺陣だが覚えられたか?」
「あ、はい。大丈夫です。ばっちり覚えはしたんですけど…」
「けど?」
「その…申し訳ありません。社長が用意してくださった相方…ええと…」
「相方がどうした?相方はもうすぐオーディションで決まると前に話しただろ?」
「そうでなくてですね。本来の相方が決まるまでの仮の相方としてですね…あれ?」
仮の相方…その言葉が愛花の口から出たとき、目からは何故か涙が流れていた。理由は全くわからないというのに、涙は止まる気配を見せない。
「なんで…私、泣いて…」
「愛花はな。昨日、練習をしすぎて倒れたんだ。だから親御さんにも連絡をして、事務所で預かっている。医者にも訪問してもらって診てもらったからもう大丈夫だとは思うが…」
「そ、その練習です!私、誰と練習していたんでしょうか?何故か思い出せなくて…」
「思い出せないってそれはそうだろ。相方が決まるまで愛花は、ずっと1人で練習を頑張っていたじゃないか?」
「1人!?私…これまでずっと1人で練習をしていたんですか?」
「ああ。相方が決まらないからと、うちや事務所のスタジオを1人で使っていたぞ」
悠里のその説明が、愛花は腑に落ちなかった。だが悠里が嘘を付く理由もない。それにその誰かが思い出せないということと、矛盾もしていない。
「そうか…私、1人でやってたんだっけ?」
「そうだぞ。何度か途中で様子を見たりしていたが1人でも良く出来ていたぞ。これならすぐにでもデビューできるだろう」
「わかりました…あの、社長、私、もう少しここで休んでいってもいいですか?」
「もちろん構わない。むしろ、今日一日くらいはゆっくりしていたほうがいいだろう…それじゃあ失礼するよ」
パタンとゆっくり扉を閉めて、悠里は部屋から出ていった。記憶の混濁に、愛花はもやもやした気持ちにもなったが、それも徐々に和らいでいった。
涙もいつの間にか止まっていた。
それを認識すると、何故か先ほどのもやもやした気持ちすらも嘘のように感じなくなり、心に平穏が戻ってくる。
「なんで、さっきあんな気持ちになっていたんだろう?社長の言う通り練習必死にやりすぎて精神的に疲れていたのかな…」
キョロキョロと部屋を見回す余裕が出てきた。というのも自分のスマートフォンがどこか気になったからだ。
ある程度長い時間、気を失っていたんだろうから、通知なども溜まっているかも知れない。
近くの机には自分のカバンが見つかった。いつもならこのカバンにスマートフォンを入れているはず。
カバンを開けようと手を伸ばした愛花だが、その伸びた手が途中でピタリと止まった。
「あれ?ノドブチカワウソちゃん…私、いつのまに取ったんだっけ…クレーンゲームを何回やっても取れなかったのに…」
自分のカバンにいつまにか付いていた、喉元に白いぶち模様があるカワウソのキャラクター。それを手に取りながら、愛花はつぶやいた。
だが、その疑問に答える人はもういない。
※※※※※※
『という感じで伝えておいたぞ』
「ありがとうございます、悠里さん」
不動さんは、記憶操作ができる異能使いが、あまり情報が広まらないように、記憶を消す…と話していたが…。本当にきれいさっぱり消えるんだな。
『警察から話を聞いたときは正直、面食らったけどな。本当に愛花から記憶はなくなっている。事実を見せつけられちゃあ、俺からは何も言えない。あと蒼紀にも悪いことをしたな…俺が2人を会わせたりしなければ…』
「悠里さんのせいじゃないですよ!俺は愛花と会えたことは本当に良かったと思っています。だから大丈夫です…ショックですけど…彼女を守るためですから…仕方ないんです…」
愛花と過ごしていたのは数日とは言え、かなり仲良くはなっていたと思う。仮初とは言え恋人ごっこをして、互いの心はかなり近づいていた。
だが、逆にまだ短い期間だからこそ、俺は耐えられている気がする。
いや、耐えられていないか…。
あれから溜息ばかりついている気がする。
ぼーっとする時間も多い。
思い出すのは自分の無力さだった。
愛花は俺の名前を呼んで、助けを求めていた。それなのに何もできなかったという無力感。
そして愛花が男たちに倒されたときの絶望感。愛花の記憶からそれらが消えたのは本当に良かった。あんな悍ましい記憶ない方がいいに決まっている。
それに…俺は自分自身をあそこまで情けないと思ったのは初めてだ。
たしかに悪いのはきらりだ。
だが、そう言った理不尽から自分の大切な人を守れないということが、ここまで自分をうちのめすとは思っていなかった。
「2度と…2度とこんなことがないように力をつけなくちゃいけないんだ…」
両手の指が白くなるほどキツく手を握って、俺は密かに誓った。
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